安心して読めるシャマラン「ハプニング」について

Shipbuilding2008-08-08

フェルメールはとても混んでいるらしい。その、らしいという噂だけで汗をかいてしまって予定を変更して、じゃあ映画を見ようとするものの「イースタン・プロミス」は時間が合わなかったので「ハプニング」を見る。多くの人が語ったり意識しているように、M・ナイト・シャマラン監督というのは映画監督として如何なものか。脚本に加わらなかった「シックス・センス」だけが真っ当で、未だにあの「シックス・センス」よ再びという世界中の純朴な人の願いは永遠に叶えられない。この映画もまた期待通りにトンデモ映画をひとつ増やしてしまっただけかもしれないが。それでもわたしはそのトンデモぶりがいっそう気になって仕方なくなる。
この映画の凄いところは、世界が滅亡していきそうなその謎についての着地点がものすごく曖昧でありきたりなのは、もちろんシャマランだからと全く気にせずに許容するとして。登場人物たちのドラマ、事情がとても思わせぶりなくせに曖昧でありきたりで、かつそれがものすごい中途半端に放り出されるところ。ハリウッドという興行産業なのに誰もシャマランには何も言えないのか言葉が通じないのか。導入部分は、あいかわらずスクリーンを釘付けする場面がいくつも用意されているのに、その後始末や人物のドラマにこれだけ確信的な無頓着さというのは、ある意味感動すらできる。うそ。そんなものはできるはずないが、また次もお願いしますという、こちらをへりくだらせていただける。お金を出して映画館で見ないことを強くおすすめしたくなる映画のひとつ。
暑さでまいる猫といっしょに見たオリンピックの開会式は中国語熱の高さとたぶん関係なく身が入る。来週はテレビの中国語講座の半年分が再放送されるので、ローラ・チャン小池栄子の女子の闘いを楽しみつつ復習と予習にはげむ。

松尾スズキ女教師は二度抱かれた」はオンナキョウシでなくてジョキョウシと読むことを教えてもらう。芝居は前半部分であくびをかみ殺しているものの、後半では爆睡してしまう。いったい何十分寝てしまったのか不明。面白いとか面白くないとかを言う資格なし。来週もう一度見に行くことになっているので、今度は寝ずに見たいものだ。ただ、松尾スズキ演出というのは、とてもシアターコクーンにあった品のよい芝居になってしまっていて、蜷川幸雄というより浅利慶太風なその品の良さや演出の巧みさが逆にとても悲しくなる。

ひさしぶりにともだちと会う。と書きつつ実はわたしの全ともだち歴史で2番目に古いともだちだということに一日たって気づく。そのうえ、ともだちとしてごはんを一緒にたべた回数は間違いなく一番多いことにも気づくが、それはともだちは永遠に知らないことだろう。
待ち合わせの時間を勘違いして30分遅れてしまったところ「きみはよくそういう間違いをするよね」みたいなことを言われて、待ち合わせに遅れたことは初めてのはずなのにイ。と思ったけど、その「わたしの間違い」というのは、遅刻のことではなくて、もっといろいろなわたしの間違いことだったらしい。しかし、どこから間違いがはじまったのかを真剣に考えるときりがなくなる。
恋人達がキスやセックスの回数を確認しあって何かを計ろうとするように(そしてそれはたいていそれぞれの回数が違っている)ともだちとご飯を一緒に食べた回数というのは、それはきっとともだち度数の重要な、あるいは全ての要素なのではないかとわたしが考えていることもわたしのともだちは永遠に知らない。

わたしがフェルメールについて知っているたったひとつのことがら

Shipbuilding2008-08-07

リチャード・パワーズ「われらが歌う時」を三日目で読み終わる。これは、この小説の厚さや熱さだけでなく、いろいろな出来事が符丁した2008年の夏の最後にきれいに入り込んだピースのような出来事となった。三日もかけた読書なのに一気に読んだ読書という感覚は、たぶん一年間放送された大河ドラマの一気見のような凝縮した時間を無理矢理浴びてしまった疲労感と、それでも長編小説を読み終わるということの素直な感動があった。これは本当にわたしが持っていてかつ望んでいたアメリ現代文学であってけど、またパワーズはここに永遠に残り続けるアメリカ神話を作り上げたのかもしれない。これはドン・デリーロやスティーヴ・エリクソン現代文学としての総合小説でもあるのだけど、むしろウイリアム・フォークナーの大河小説や周辺の知識の洪水にあふれたハーマン・メルヴィルの「白鯨」を読み終わったときの感覚に近いものだった。そして、わたしの家が本当に掛け値なしに貧しかったころ、寝たきりだったわたしは一生本を読めれば人生はそれだけでいいや。みたいなことを考えていたことまでを思い出させてくれた。この最近いろいろな出来事がひとつにまとまっているような感覚は、自分で自分の人生をまとめにかかっているようにも思う。

走りながら聴くiPodから突然流れるいくつかの音楽はフジロックで聴いた時のあの匂いや空気を思い出し、電車で聞く中国語のテキストのCDは直島の早朝を走りながら聞いていたあの海や空を思い出さざるをえないと同じように。わたしはフェルメールの絵を見ると、子供のときに誰かの病室に貼られていた陽に焼けたカレンダーと、それからその人がいなくなったベットとそこに取り去られたカレンダーの日焼け跡が残った壁を思い出す。あの何かの境界線の上にいるという感覚が懐かしく、またそれは今でもずっと続いている感覚なのかもしれない。
というフェルメールの絵を見に今日は上野へ。そして、春まで四谷の大学へ中国語を習いに会社から行けることになった。いろいろな偶然が重なっているのはわかるのだけど、結局最後は、何かが取り去られた壁のようなものになるのだろう。


ポニョとカンフー・パンダはどっちが可愛いかったか

Shipbuilding2008-08-06

赤塚不二夫が作り出したキャラクタは、一人残らず赤塚不二夫であったように。あるいはそれ以上に、今回のポニョこそ宮崎駿であって、世界の宮崎駿が執念で絞り出した自身のキャラクタなのではないかしら。と、満員の客席でポニョの顔のアップを見たときに思ったわけですが、もう「世界のほころび」とかを所ジョージが語りだす前後から、この映画自体の物語は綻んでいるとしか思えない。それでも、子供から大人までぽにょぽにょ言わししてまう、映画の力。。というよりも代理店やテレビの総合力にはなんでだろうという疑問を持ちつつも素直に感動する。日本の大人たちがこぞってジブリというブランドに映画館へ入る前から魅入られているのだ。と、そんな一方で、「またかよ」という押井守の「スカイ・クロラ」も森博嗣の原作自体が納得できる物語でないところで、またいつもの押井守美学の踏襲映像ではエンドロールとしての物語の終わりには感情の行きどころに落ち着きがなくなってしまう。
そもそもアニメ映画とはその動きがオリジナルで美しければ、それだけでいいはずだ。ということを思い出せば「崖の上のポニョ」も「スカイ・クロラ」も、とても優れたアニメとしか言いようが無い。ことには違いないのだけど、しかし何かあるべき大切な物がこの二つの映画には入っていなかったよね。と痛快に知らしめてくれるのが、「カンフー・パンダ」だった。これは、シュレックよりも楽しいハリウッドアニメだった。スカイ・クロラ崖の上のポニョに無かったと感じた物がカンフー・パンダには丁寧に折りたたんでリボンまでがかけられて入っていた。
そして、この夏にみたアニメ(のようなもの含む)のおすすめ順位をつけるのなら、こんな感じ
チェブラーシカカンフー・パンダスカイ・クロラ崖の上のポニョ

睡眠時間は小栗旬と同じなこの夏であるのに、さらにリチャード・パワーズの「われらが歌う時」を読みペルソナ4を始めてしまう。リチャード・パワーズは「舞踏会へ向かう三人の農夫」は読んだものの、「囚人のジレンマ」と「パワーズ・ブック」は読み切れていない。三人の農夫にしても、リチャード・パワーズの面白さがわからないということを確認するために読み切ったようなものだ。それなのに、今回の「われらが歌う時」は、素直に読みやすいことだけに驚き、またそれが物語として面白いことに頭を叩かれるくらい驚く。上巻だけ読んでみて様子見ね。という小心者の買い方をしたくせに大好きなコーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」はまだ開いてすらいないというのに、平積みの下巻を翌日には買ってあと100頁くらい。
これは翻訳者と出版社が変わったことも影響があるのかもしれないし、あるいは新潮と高吉一郎氏が自分が翻訳をすれば売れると読んだ原作だったのか、新潮クレストから普通に新人作家の作品として書棚に並んでいても違和感がない。わたしが大好きなアメリカ南部小説のような香りに満ち、事情のある家族の奔流と、個が世界と繋がる様が面白い。やはりパワーズだからなのか、この小説の主題のひとつ「時」を扱うせいなのか、「過去、現在、未来など存在しない」と父親が語る通りに物語も時を行き来して描かれる。そしてそれがたいした読みづらさを感じさせない主題の繰り返しの構成は、またこの小説のもうひとつの主題である音楽の交響曲の構成となっているからなのだろうか。といいつつクラシックに無知なわたしがこの小説を読む間頭の中に流れていたのはジョーン・バエズの「Here's to You」だった。と思ったら実際にエンニオ・モリコーネのそこらへんの音楽をよく流して聴いていた。
パワーズの「われらが歌う時」はドン・デリーロスティーヴ・エリクソンを思い出させる総合小説であって、またそれ以上に米国人のための米国人民小説だった。神話の持たない米国という国に生まれた米国の作家達はかようにして神話を作り出すことに夢中にならざるをえなくなるのか。トラン・アン・ ユンノルウェイの森を映画にするくらいだから、必ずこのパワーズの小説もクリストファーとジョナサンのノーラン兄弟がハリウッドで映画化を企んでいるに違いない。

ペルソナ4は6月中旬まで進んで今回も腐女子よりのライトノベル的な世界を堪能しつつも、ペルソナ3のアイギス的なものの欠如に物足りなさを感じる。はたして最後までやるのだろうかなんて文字を打っている瞬間にどうせ完全クリアまでやるのだからねという内なる声が聞こえる。
この夏は今週末あたりから毎週のように、わたしの夏を探しに新幹線に乗る。わたしの行けなかったフジロックの夏は、9月13日と14日に木更津で発見。しかも木更津キャッツアイの舞台で。ってどの舞台のことだかわかっていないけど、それは渋さ知らズの天幕で。渋さ知らズを知ってから飯田で行われた天幕を見逃して依頼、念願の天幕。木更津であれば、ひとりで泊まってもさびしくないはず。今から天幕用の準備は怠らない。
父親の施設では認知症の老人から話しかけられ、中国人の友人が入院している病院でも知らない外国の老人たちから話しかけられる。老人達の話すそり下音的な発音がとても気持ちがよくて耳にいつまでも残る。
あとトイレを中心として読んだのは「これがニーチェだ」永井均永劫回帰とも呼ばれる説明を永井均がする「永遠回帰」の情熱的な説明は根源的な美の説明文を読まされているかのように美しかった。そしてそれは、またペルソナらのアトラス作品や押井守やカンフーパンダやノーラン兄弟のダークナイトの物語を思い出したり。そう。その美しい偶然は永遠に繰り返されなければならないのだ。

われらが歌う時 上 囚人のジレンマ これがニーチェだ (講談社現代新書)

バットマンのゲーム理論

Shipbuilding2008-08-04

そんなになのか「ダークナイト」はっ。といわけで、ビーチサンダル履いてペタペタと先行上映を見に行く。けど、やはりアメコミ映画を楽しみましょうかねという家族連れや子供たちがパラパラという感じの先行上映にしてはとても寂しい入り。そして、映画が始まって30分くらいで寝てしまう人もいる。「ダークナイト」とは、そういう決して容易な娯楽映画ではなく、ひたすら不親切で重厚な映画だった。
映画好きな人たちで盛り上がっている、「ハリウッド映画として最高の・・」という形容については、いやいやそこまではネ、とあげている手を押さえたくなるのだけど、SF大作映画としては珍しいドラマがある映画であったのは間違いなく、誰かが傑作と力をこめて説明していればスリスリとそちらへ近づいてこの世界の話を聞きたくなる。
ティム・バートンがひたすらゴッサム・シティをコミックとしての世界観の上に築いたのに対して、ノーラン兄弟はそれがコミックやもしくはバットマン映画であったことを忘れさせるほどのリアルな今の現実世界として描いていた。
バットマンが空を飛んで、愛車「タンブラー」が壁を壊して登場も、それはスパイダーマンのありえない世界とは異なり、常に今どこかで起きているの世界を、あるいはアメリカ自身を想像せざるを得ないのは、人間の善と悪とのきれいに隔てられない対決があって、さらにその全体を統合しているのが魅力的な悪であったからなのかもしれない。
絶対的な悪を描くことに常に夢中になっているアメリカ映画というのは、限られた映画人だけの力量でなく、アメリカ文化の問題なのだと思う。そしてこの映画でのヒース・レジャーの徹底した格好良さというのは、神懸かり的な彼の演技だけでなく、アメリカ文化が彼を作っているのだ。と熱暑の街をペタペタ帰りながら気楽に思う。
映画ではまさしく囚人を使った囚人のジレンマ的なシーンを使うところでは、ナッシュ均衡には至らず見事な協調解となったり、まとめ方においても、ハリウッド的といえばハリウッド的な法則を感じながらも、ここまでの大作を作ってしまい、ここまで『アメリカでは』興行的に大成功しているということ自体もまた、アメリカ人の世界へのメッセージなのかとすら思う。この夏、映画館で姿勢を正して見るべき映画。ただ映画館の支配人へ銃を額に突きつけて言いたくなったのは、『「ダークナイト」の上映前と後にずっとポニョの音楽をかけ続けるのだけはやめてほしかったポニョ』

今の中国のオリンピックや政治的事情についてもいろいろなことを教えてもらっているけど、また中国の現代美術については中国経済について語る人と全く違う人たちがだいたい同じ結論を語っている。ついそこまでがバブルであっだけどもうバブルは終わっているのだと。と言われつつ簡単にはじけそうで中国経済は成長しつづけているし、こと中国現代美術については、中国人が書いたというだけで何でも売れた時は終わったものの、やはり中国のアートは今でも元気がいいな。ということを「広告批評」の中国クリエイティブ特集を眺めては面白がる。
で、もはやアートというのではないと思うのだけど、その「広告批評」でも大きく紹介され、中国のサブカル的なアイドルというよりもカリスマであるらしいのが、今年23歳の田原(ティエン・ユエン)。16歳のころデビューをしたバンドが中国で注目をされて以来、ボーカリストで女優で写真家としても評価されて小説を書いてもまた評価される。とあなたはいったいどれだけのことをやりたいのかと思うけど。インタビューを読むと村上春樹をはじめ日本の小説やサブカル的文化に詳しく、海外小説や映画もロックも現代思想も、その手の人たちと全く同じ嗜好であって、たいした時間差無くそれらが中国でも手に入ることに今更驚く。10代の中国の女の子にとってもニル・ヴァーナが特別だなんて、もしかしたら日本のフジロック常連の女子と比べても中国女子のロック度は高いのかもしれない。
海外の批評家と言われる人たちからまで絶賛されている写真や音楽は今は数多な中国のネットから拝むことが出来るけど、彼女が作っているブログでも彼女自身のポートレイトや文章を見ることができる。
けどどうですか。そんなに世界が注目する写真であるのか、わたしにはわからない。賈樟柯ジャ・ジャンクー)のお気に入りで彼の彼女への賛辞ぶりというのも、演技や思想についてなのか、女性として捉えているのかわからくなるくらい最近のジャ・ジャンクーのそばにはティエン・ユエンがいる。
今年には日本でも彼女の小説の翻訳が出版されるらしいのだけど、これは売り方次第では大変なことになるのでしょうか。わたしは日本的情念入りのガーリッシュ小説というのがかなり苦手なので、彼女の小説について楽しめるかはわからない。ガーリッシュ小説という言葉も尾崎翠あたりま行くと、それなりに馴染むのですが。そんなことはどうでも、ティエン・ユエンの小説でも映画でも何が理由であってもいいから、もっと今の中国の小説や音楽が日本で紹介されるようになってくれると、わたしはとてもうれしい。

直島へ出かける前の日に歯が痛み出し、戻ってきてから歯医者に行くと、「神経抜いちゃう?抜かない?ぼくはできれば抜きたいんだけどな」とタメ口以下な訊き方をされる。そんな判断を医者から仰がれても困ってしまうが「じゃあ、抜く方向で。できれば全身麻酔のような痛みのない方向で」と生まれたばかりの子鹿の目をしたつもりで懇願をしてみる。わたしは小学校へ入るまでは家よりも病院生活の方が長かったので、様々な手術と治療をされてきた。そんなことと関係あるのか無いのか、局部麻酔でも痛みを感じることができるという体質なのだ。それで通常は局部麻酔の手術の場合も、あまりにも痛がって暴れるのでとにかく全身麻酔を打たれることが多かった。」
実のところ、局部麻酔だと想像力で痛がってしまう小心者なだけなのかもしないと考えつつも、イルカの脳がふたつあって片方の脳が覚醒してしまうので麻酔が効かないということと、わたしの貧弱な脳も同じことになっているのに違いない。とイルカ的に思うことにしている。
そういうわけで、多めの麻酔注射を打たれ、治療が終わっても顔の痙攣が止まらなくなって頭痛と吐き気が酷くなる一方で、ヒース・レジャーの顔の傷の物語を想像しながらわたしは病院の待合室で気を失ってしまい、また子供が大声で唄うポニョの歌で目を覚めさせられたので、「崖の上のポニョ」と「カンフー・パンダ」を次の日に見たのであった。(たぶんつづく)