屋根裏(隔離生活)通信

ロックダウンの解除間もない、寝ぼけまなこのフランス・パリから。

「住む」と「生きる」は別のこと。(2)

(この記事は前回の記事の続きです)

 仏日通訳のフローラン・ダバディさんが、動画についてTwitterでこう書いていた。

「私も子供の時にずっとデンベレ選手出身のパリ郊外でサッカーをしてきた。貧しい階級の子供たち(フランス系であろうが、アフリカ系であろうが)はありえない用語でお互いを差別し、それが面白いと信じています。情けないのは親の教育です」

5年ほど前、ぼくもこういう郊外の貧困地区にアトリエを借りていたことがある。低所得者向けの公営団地がたくさん建っていて、アラブ・アフリカ系の移民が住民の大半を占める場所だ。街並みはどこか殺伐として、打ちひしがれたようなムードが漂っている。

 とても驚いたのは、学校帰りの10歳ぐらいの子どもたちがお互いを「テロリスト」呼ばわりして遊んでいたことだ。ぼくはパリ市内ではそんな場面を見たことがなかった。三角形の面積の計算をようやく学ぶくらいの歳で、彼らは社会から向けられた偏見に満ちた冷たい視線に気付いているのだ。こういう子どもたちが他者を尊重できる大人になるためには、どれだけ多くの教育や精神的なサポートが必要になることだろう?

 アトリエでの仕事を終えてパリ行きのメトロに乗りこんだある夜、こういう子どもが7人くらいどかどかと転がり込んできた。はじめのうちは仲間内でキャアキャアはしゃいでいたが、途中から小声で「Pas de Chinois!(中国人イナイ!)」と言ってはくすくす笑う遊びを始めた。がらがらの車内にはぼくともうひとりアジア人のおじさんが座っており、どちらかが怒り出すスリルを楽しんでいるふうだった。おじさんはいかにも「くそがきめ」といった様子で、無視を決め込んで新聞を読んでいたが、ぼくは彼らのことをもう少し知りたい気持ちになった。
「それもしかして、ぼくのことを言ってるの?」と声をかけると、半分くらいがばつの悪そうな顔をし、もう半分が含み笑いをした。「違うよ、何も言ってないよ!」ぼくは彼らを逃がすまいと思って、スケッチブックを取り出してある提案をした。「座りなよ、誰かひとり似顔絵を描いてあげる」

 超特急でぼくが鉛筆を走らせているあいだ、彼らはまったく子どもらしかった。モデルになった一番背の小さい子は向かいの席に座ってもじもじとはにかんでいる。他の子たちはぼくのそばに群がって、絵と友達とを見比べて驚いたり笑ったりしている。あいつの鼻はもっとでかいとか、色はもっと黒いはずだとかいうアドバイスを多くもらったが、そこに彼らの人種的なコンプレックスがどれほど関係しているかは分からない。

 出来上がった似顔絵を渡すと、モデルの子はとても喜んだ。ほかの子たちも口々に「ムッシュー、次はおれを描いてよ!」とねだり出す。いつの間にかメトロは市内に入っていて、車両のなかの乗客も増えていた。ぼくは人の目が恥ずかしくなってきて、そそくさとスケッチブックをしまって降りる身支度を整えた。
「どうだい、中国人がいてよかったろ?」降りる間際に彼らに聞くと、ばつの悪さを思い出したような小さな「Oui」がいくつも返ってきた。

 今になって思うのは、あともう一言「ああいう冷やかしは人種差別にあたるから、もうやってはいけないよ」と念を押すべきだったなあということだ。もしかしたらぼくの意図は彼らに全然伝わっておらず、そのせいで彼らは次の日にはもうクラスの女の子をからかって泣かしたかもしれない。

 こういうことを心配するのはあまり良くない兆候だ。なぜならそれは、外国人であるぼくが一丁前にフランス社会に責任を感じはじめた証だからだ。ただ「住む」人の気楽な立場を諦めて、この地で「生きる」ことの憂鬱を受け入れはじめているともいえる。

しがらみのなかで生きるのが嫌で外国に逃げて来たはずなのに、ままならないなあ、嫌だなあ。   (おわり)

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「住む」と「生きる」は別のこと。(1)

 結論から言えば、「人種差別ではない」という主張で彼らが擁護したかったのは、ふたりの選手でもフランスでもなく日本における自分のイメージなのだと思う。誰だって母国の家族や友達に、自分が外国で容姿や言語を笑われながら暮らしているなんて想像されたくないだろう。ひとりの人間として尊重され、他の人々と平等に扱われていると思われたくて当然だ。まして彼らは日本で有名人なうえ、大なり小なりフランス在住を売りにしているのだから、「あれはホテルの従業員(個人)が嘲笑われただけで、自分(日本人)は関係ありません」というトカゲの尻尾切りをしたくなる心理も分からなくはない。

 想像するに、実際かれらの日常の範囲では、アジア人への人種差別などあってないようなものだろう。フランス社会にどっぷり漬かって仕事をしているわけではないし、お金があれば付き合う相手も住む場所も自分の好みで決められる。なにか差別らしいものに出会うことがあるとすれば、たとえば外を歩いているときにチンピラや酔っ払いから「ニイハオ」とか「ヘイ、ジャッキー・チェン!」とか声を掛けられるくらいのもので、それさえもパリのイイ地区に住んでいれば年に三度も出会わない。社会の一員というよりは長期旅行者に近い身分だから、嫌なものには関わらずにいられるし、それに対して戦うことに義務もなければ利益もない。

 でも、フランス社会に根を下ろして生きるとなれば、その見え方も背負う責任もまったく違ったものになる。問題を存在しないかのように扱うことは、自分や家族の権利や安全を放棄するのと同じことになる。下に引用するのは、グリーズマンTwitterでの弁明文に付いていた返信コメントのひとつ。胸がぎゅっと締め付けられる内容だ。

C'est à cause de moqueries comme ça que ma fille rentre en larmes de l'école parce que d'autres enfants lui ont dit “sale ching chong”, “mangeuse de chiens”. Vous normalisez des comportements abjects qui valent pour toutes les formes de discriminations.
「あなたがしたような嘲りのせいで、私の娘は泣きながら学校から帰ってくるんです。『汚いチン・チョン』とか『犬食い女』とか、他の子どもに言われるからです。あなたはどんな差別にもあてはまるような卑劣な行為を日常化させているんですよ。」

 多民族社会に生まれた子どもはこういう場面を間近に見、ときには自身が経験しながら大人になってゆく。もちろんそれは黒人でもアラブ人でもユダヤ人でも同じで、彼らはたいてい子どものうちに自分の人種にまつわるネガティブなイメージに出会わざるをえない。大人になれば多くの人は差別的な言動を表立ってはしなくなるけれど、それでも配慮に欠けるメディアやプライベートな場所での悪趣味なジョーク、今日では匿名のネット言論などを通じて、差別意識や偏見は次の世代に伝えられてゆく。

自分が子どものころに受けたのと同じ嘲り言葉によって、今度はわが子が泣いて帰ってくるかもしれない。大人になったら偏見のせいで就職に苦労するかもしれない。あるいは憎悪を向けられて、道でいきなり殴られるかもしれない……。彼らにとって人種差別は単発的なモラルやマナーの問題ではなく、一生関わらなければならない現実的な障壁なのだ。
 この社会で「生きている」人々はそれを痛いほど分かっているから、例の動画は一も二もなく人種差別と糾弾された。日本で圧倒的マジョリティとしてすくすくと育ち、その気になればいつでも母国へ引き上げられる――いわばこの地に「住んでいる」だけのぼくたちが、辞書を引き引き彼らの怒りに水を差すなんて、やっぱり相当おこがましいのだ。


 仏日通訳のフローラン・ダバディさんが、動画に関してTwitterでこう書いていた。
(長くなってしまったので、次の記事に続きます。)

 

www.yaneura-tsushin.info

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ひろゆきさんの屁理屈。「差別」を認めない日本人の心理とは?

「でも、ひろゆきもあれは差別じゃなくて悪口だって言ってるよ?」

前回の記事を載せてから日本の友達がくれたLINEメッセージに、ぼくはとても驚いた。メッセージにはヤフーニュースへのリンクが付いていて、確かにこういう記事が載っている。

ひろゆき氏「人種差別と悪口は区別すべき」仏サッカー選手の発言騒動に私見(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース

ひろゆきさんといえばナイキ・ジャパンのいじめや差別をテーマにしたCMが炎上したとき企業側を支持する姿勢を見せていて、意外にリベラルな方なんだなあと感心したことを覚えている。その彼までもが動画は差別に当たらないと言っているのなら、もしかして前回ぼくが書いた事はぜんぶ、事実というよりそれってわたしの感想ですかね? …と、ちょっと心配になりつつ記事を読んだ。

 その感想は、ひろゆきさんも辻さんと同じくかなり無理矢理な逆張りをしたなあというものだ。フランス語ネイティブや言語の専門家からすでにさんざん指摘されているようだけれど、「単語に差別的意味はないのでこれはただの悪口と考えるべき」というのはあまりに時代錯誤な意見だと思う。認定書付きの差別用語をそのまま相手に投げつけるような単純明快な差別など、今どきどれほど行われているだろう? 人種差別がもはやそういう露骨な形を取らず、日常の語彙や社会の仕組みに溶け込んでいることを大前提として、フランスに限らずあらゆる多民族国家は差別問題に取り組んでいるはずだ。具体的にはracisme banalisé(日常化した人種差別)や racisme systémique(システムのなかの人種差別)という言葉があって、アジア人への人種差別は冗談や冷やかしの形をとりやすいため前者といわれることが多い。

「悪口と差別とを混同したら、他人への冗談や皮肉や批判までもが違法な差別行為と見做されうるようになり、自由にものが言えない社会になってしまう」ひろゆきさんのこういう意見はとくに目新しいものではなく、人種やジェンダーなどに関して言葉の配慮が論じられるたびに必ず誰かが口にするものだ。フランスにはこれを端的に言い表すための''On peut plus rien dire!(オンププリュリヤンディール!)'' 「もう何も言えないじゃん!」というフレーズがある。

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「もうなんにも言えないじゃん!」

「そのわりには、いまだになんでも聞こえてくるよな…」

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「あ~もう、ただの冗談だよ!マジめんどくせえ時代になったよな!もうなんにも言えないじゃん!」「前はそのぶんあたしたちが黙ってただけよ?」


 ちょっと滑稽な響きを持つこの言葉は、いわゆるポリティカル・コレクトネスの価値観を受け入れたくない人の常套句として有名だ。建設的な意見というよりは、議論の腰を折る極論として失笑を買うことのほうが多い。フランスの政治系ミーム(オモシロ画像)には『ありがちフレーズBINGO』ともいうべきものがあって、下に載せたのはそれの保守的人間バージョン。枠のなかには数字の代わりに彼らのお決まりワードが入っており、ひろゆきさんの「もう何も言えないじゃん!」は左上の枠、デンベレ選手が弁明に使った「誰が相手でも同じようにからかう」はそのすぐ下の枠、そしてさらにその下はボーナス枠で「表現の自由」となっている。あとは最下段の「今どきの奴らは小さいことですぐに腹を立てるよな」さえ埋まれば、見事ビンゴ達成というわけだ。

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 しかし、考えてみればほんとに不思議だ。こういうセリフを連発するのはふつう失言を批判された張本人かフランス版の「ネトウヨ」や「老害」にあたる類の人々なのに、辻さんといいひろゆきさんといい、侮辱された側の日本人がどうしてわざわざその役回りを買って出るのだろう?
 
  ニュース記事に寄せられたコメントを見ると「あいつらはフランスかぶれだから必死にフランスを擁護するんだ」という意見が結構あるが、これは理屈に合わないと思う。なぜならこの場合フランス擁護とは「ふたりの選手は厳しく糾弾されています。フランスはこのように人種差別を許さない健全な国ですよ!」とアピールする姿勢であるはずだ。繰り返しになるけれど、現地の世論はこの問題を明確に人種差別のスキャンダルと見ていて、少なくとも主要メディアにおいては「これは差別か悪口か?」なんて疑問を呈する余地さえないのだから。

 一方で、「フランス在住日本人が口を揃えて差別否定を唱えるのは、自分が差別の対象だと思いたくないだけじゃないか?」というコメントにはぎくりとさせられた。自分をなにか例外的な、歓迎され尊重されるマイノリティだと思いたい――こういう心理は自分を含めた海外在住日本人の多くが隠し持っているものかもしれない。古くは百年以上前に書かれた夏目漱石のロンドン留学日記の中にさえ、それを思わせる記述がある。彼曰く「中国人に間違われれば怒り、お世辞で『中国人は嫌いだが日本人は好きだ』と言われれば喜ぶ、そんな日本人が多くて情けない」。悲しいことにこれは現代のパリでもロンドンでも未だに見られる光景だろう。これは想像の域を出ないけれど、もしも今回の動画が日本でなく中国のホテルで撮られていたら、件の在仏日本人たちも難なくフランスの世論に同調し、選手の行為を人種差別と糾弾していたんじゃないだろうか? なぜなら自分が差別の対象であるというコンプレックスが邪魔をしないからだ。

 すこし記事が長くなってしまったから、今回はここで一区切り。「差別じゃないよ!」と言いたくなる心理を、在仏日本人の端くれとしての個人的経験を交えながら、次回の記事で考えてみたい。

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最後にもひとつ、いかにも深刻げなオンププリュリヤンディール。ガチガチの極右雑誌の表紙。

 

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「差別じゃない」という欺瞞。デンベレ動画と擁護記事について

 プライベート動画の流出により、人種差別をしたとの批判にさらされているデンベレグリーズマン両選手。パリ在住の作家・辻仁成さんがブログで彼らを擁護していると聞いて該当記事を読んでみた。

記事を要約してみよう。――日本での報道内容はイギリスのネットメディアの記事を鵜呑みにしたもので、この英文の元記事がデンベレ選手のスラング混じりのフランス語を誤訳しているものだから、彼が日本人を差別したという「誤解」が日本で広まってしまった。誤訳が原因の騒動だからフランス本国ではほとんど話題にあがっておらず、辻さんご本人にとっても動画のどこが差別的なのかピンと来なかったので、フランス人の知人とともに「悪意がなくてよかったね」と胸を撫で下ろした。不注意によって誤解を招いてしまったふたりの選手には、反省を促すとともに激励を送りたい。――大体そんな内容だ。

www.designstoriesinc.com
 この投稿はいわゆる「アクロバティック擁護」としてプチ炎上を招いているらしい。正直なところぼくもそういう印象を受けた。辻さんはフランス語があまり得意ではないようだから(というのも、デンベレ選手の発言の聞き取りと書き出しの両面で初歩的な間違いがいくつも見られる)、動画の内容を本当に読み違えている可能性は十分にあるだろう。しかしその一方で、自分のアイデンティティの一部が攻撃されたという事実から目を背けたい、臭いものには蓋をして済ませたいという逃げの心理が働いたのではと勘繰ってしまうところもある。もちろん物事をどう解釈しようとそれは個人の自由だが、知名度のある人が誤った情報を吹聴し、さらには誤解などという軽い言葉でお茶を濁しにかかるのはあまり良くないことだと思う。

 彼の記事には少なからぬ誤謬が見られるけれど、ここではいちばん重大なものを取り急ぎ指摘しておきたい。なぜならぼくにはこの誤りが、フランスおよび良識あるフランス人たちの名誉に関わるものに思われるからだ。


 「フランス人はこの動画を差別的だと感じない。だから本国で話題にならない」

 これはとんでもないデタラメである。たしかに日本での炎上ぶりに比べればフランスにおける報道は控えめに始まり、ぼく自身も動画のことを日本のニュース記事から知った。しかしそれは単にフランス国内での動画の認知が東アジア各国よりも少し遅れたというだけで、7月5日現在はフランス主要メディアの多くがこの話題に紙面を割いている。

ここでとても重要なのは、それらのメディアが問題の動画を明確に「人種差別的」だと形容している点だ。ぼくはあれこれ記事を覗いてみたけれど、スポーツ新聞から地方紙に至るまで、両選手の差別的意図を疑問視する論調のものはひとつも見つけられなかった。

 一例として、フランス最多の発行部数を誇る日刊紙「ル・フィガロ」の7月4日付の記事を翻訳してみよう。グリーズマンデンベレ アジア人差別で横滑り SNSが炎上』というタイトルで、小見出しの中にはすでにはっきりと「人種差別的発言のある動画(on entend des propos racistes)」と記されている。

www.lefigaro.frProblème ? Les deux internationaux tricolores se prêtent à des plaisanteries de mauvais goût, se moquant ouvertement de l'origine des employés en question, à grand renfort de zooms peu avantageux et de rires gras.
(ビデオの)何が問題か? サッカー仏代表の二名が悪趣味な冗談に加担して、不必要なズームと含み笑いを繰り返しながら、ホテルの従業員たちの出自を公然と嘲笑しているのだ。
«Oh putain, la langue…», sourit d'abord Dembélé, évoquant les échanges entre les techniciens. Et d'ajouter, tout sourire : «Toutes ces sales gueules… Pour jouer à PES mon frère…». S'il ne dit rien d'audible au cours de la séquence concernée, disons que «Grizou» est (très) bon public… Et il s'amuse des propos plus que «borderline» de son coéquipier en club et en sélection.

「ああチクショウ、この言葉…」スタッフ間で交わされているやりとりを指してデンベレは笑い、こう続ける――「このひどい顔した奴ら、みんな…(俺たちが)ウイイレをやるためにいるんだぞ。恥ずかしくないのか、兄弟!」グリーズマンは動画のなかで聴きとれることは何も言わないが、一方でとてもよい聴き役だ。チームメイトの『ボーダーライン』を越えた発言の数々を愉快そうに聞いている。
«Vous êtes en avance ou vous n'êtes pas en avance dans votre pays ?», ajoute encore Ousmane Dembélé, n'ayant pas peur des clichés sur les Asiatiques. Dans une autre vidéo, Griezmann semble enfin se livrer à une caricature grossière en imitant le parler asiatique.
デンベレはさらに、アジア人に対するステレオタイプを臆面もなく口にする――『技術が進んでいるのかいないのか、どっちなんだ? お前たちの国は』。またこれとは別の動画では、グリーズマンもようやく自らを解放し、アジア人の話し方を無作法なやり方で口真似している。

 
…さあどうだろう? 日本のメディアの報道の主旨とそんなに大きく違うだろうか?
 
 
たしかに辻さんが指摘するとおり、日本で出ている記事のなかには翻訳の飛躍したものがある。文脈からして「恥ずかしくないのか」は従業員でなくグリーズマン選手に向けられた言葉だし、「後進国の言葉」だなんてデンベレ選手は言っていない。しかしこういう誤訳がなくたって、動画はすでに「ボーダーライン越え」、つまり人種差別にあたるものだと判断されているのだ。当然ながらその内容には多くのフランス人が憤ったり呆れかえったり、自国代表の世界的な醜聞に恥じ入ったりしている。両選手は5日の昼過ぎにSNSで謝罪コメントを投稿したが、それがフランス語で綴られているのは国内の批判の高まりに対処せざるを得なくなったからに他ならない。しかしその謝罪さえも表面的で言い訳がましいと更なる批判を呼んでしまうほど、自国においても彼らは針のむしろの中にある。(参考記事『人種差別:デンベレのあまりに不器用な弁明』サッカー専門情報サイトより)

www.footmercato.net

 

 以上のことから、辻仁成さんによる「誤解説」は事実とかなり隔たったものだと言わざるをえない。また意図的ではなかったにせよ、いい加減な情報で日本の人々の憤りを煙に巻き、またフランス社会が人種差別に無関心であるかのような印象を与えている点でも、彼のブログの内容は問題があると思う。

 


 アメリカにおけるアジア人への憎悪犯罪の酷いニュースが連日報道されていたあいだ、フランスは比較的平和だった。ぼく自身は外出する際に身の安全など一度も心配しなかったし、差別的な言葉や態度で傷つけられた覚えもない。しかしこうした安全安心が無料で転がっているものではけしてないことを、コロナ禍を通してぼくは改めて実感させられた。ぼくがのうのうと享受する平和は、ぼくに代わって矢面に立ち戦った誰かが勝ち取ってくれたものなのだ。
 移民の二世三世としてこの国で育ったアジア系フランス人の若い世代は、自分たちに向けられる差別や偏見に毅然とノーを突きつけている。彼らは去年の1月末というパンデミックのごく始めのうちに「#JeNeSuisPasUnVirus(私はウイルスじゃない)」というハッシュタグTwitterで拡散し、これがメディアに大きく取り上げられたことで社会の啓蒙に貢献した。また、ネット上のヘイトスピーチに対して法的措置を取った中国系青年団体は、アジア人への暴力をほのめかしたツイートの主を法廷に引きずり出し、うち4名から有罪判決を勝ち取った。(コロナ流行を中国人のせいに、反アジアツイート学生4人に有罪判決 仏 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News) 

「アジア人に対する人種差別問題はいまだに軽視されがちです。それはなぜだとお考えですか?」ジャーナリストの質問に対し、彼らはしばしばこう答えている。

「差別を受ける当事者が抗議の声を上げずにきたからでしょう。でも、私たちの世代は違います。私たちはもう黙ってはいません」


 だから差別を受ける当事者がへんに相手を慮って、仲間内でのスラングがどうとか、誤解がどうとか、逃げ道確保に奔走してやる必要はないとぼくは思うのだ。その逃げ道はこの種の言葉の失態を犯した人が必ず試みる陳腐なものだし、現にデンベレ選手の弁明文の内容は辻さんの試みたアクロバティック擁護にそっくりだ。これで留飲を下げられる人はそんなに多くないだろう。
 多くの日本人あるいはアジア人と同じように、ぼくは怒るのがあまり得意ではないけれど、必要とあらばお茶濁しでなく青筋を立てて抗議のできる人間でありたいと近頃はよく考える。誰かが戦って築いてくれている権利や安全、社会が必死で維持しようとしている価値観のうえにタダ乗りしているばかりではずるいからだ。たまには自分も、よりよい世界の建設のために進んでレンガを積まなくちゃ。


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4月6日はカルボナーラ記念日。「これはひどいね」ときみが言ったから (後編)

 (前回の記事の続きです)

 海外で提供されているヘンテコな日本食に対して、日本人は不寛容だという批判がある。よその国には日本のような「食の国粋主義」はないというのだ。それが嘘だということは、「お鍋ひとつで簡単カルボナーラ」がイタリアにもたらした阿鼻叫喚を見れば明白だ。

 簡単カルボナーラのレシピはSNSの波に乗り、アルプス山脈の向こう側であっという間に拡散された。動画の再生回数は150万回を超え、Démotivateur社のFacebookページやTwitterはイタリア発の罵詈雑言や嘲りのコメントで溢れかえった。

「よくもカルボナーラを殺したな!」
「フランスで死んだカルボナーラに5分間の黙祷を…」
モナリザはもうお前らにやっただろ?カルボナーラには手を出さないでくれよ」(モナリザの作者ダ・ヴィンチはイタリア人)
「自分たちのエスカルゴにだけ集中してればよかったものを…」

「イタリアで一番穏やかなママでさえ鳥肌を立てるようなビデオだ」

「うちのばあちゃんがこれ見たら、画面に靴を投げつけるぞ!」
「この動画はセンシティブな内容を含みます。心臓の弱い方にはお勧めできません」……

 こうした批判のアルプス越えの大攻勢を受けて、Démotivateur社はほどなく動画を削除した(前回の記事に貼った動画はイタリア側で保存、投稿されたもの)。しかし時すでに遅し。国境を跨いでの炎上劇は両国の新聞やテレビのニュースの見出しを飾り、果ては遥かアメリカのメディアで取り上げられるほど大きなものとなってしまった。

 困ったのは「簡単カルボナーラ」で使われたパスタの製造元であるイタリアのBarilla社だ。レシピ動画のスポンサーとして名前が上がっていたために、自社商品の宣伝のためにフランス人のカルボナーラ殺しに加担したとして、同胞たちから怒りの矛先を向けられ始めたのだ。SNSでは「Barillaの商品は二度と買わない」というコメントさえ散見された。この窮地から脱するべく、同社広報は騒動発生から2週間後、Facebookで以下のようなコメントを出した。

Mon Dieu!(フランス語で『Oh my god!』の意)
神秘の料理カルボナーラに加えられる創造的なアレンジについて、私たちはいつもオープンではありますが、いくら何でもこれはやりすぎです…Désolé!(フランス語で『ごめんね/お気の毒に!』の意)
私たちのシェフによる正統派レシピをご覧になって、あの茹であげられたベーコンのことは忘れるように努めてくださいね。X(

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 恥も外聞もへったくれもない、見事なとかげの尻尾切りである。しかしこの手は功を奏して、Barilla社は自国の消費者の信頼を取り戻すことができたと見える。それが証拠に同社は今年、記事の前編で触れたとおりのショートフィルムを公開し、イタリア人はもちろん、世界じゅうのカルボナーラファンから賞賛の声を受けている。なんともちゃっかりしたものだ。

 さて、この記事を書き終えようとして、ぼくにはひとつ思い当たったことがある。国際カルボナーラ・デイ制定の謎に関してだ。ひょっとして、これは単なるパスタ業界のマーケティング戦略ではなくて、隣国フランスに向けられた意地悪な当てこすりなのではないか? 

「簡単カルボナーラ」の炎上事件が2016年の出来事で、記念日の制定はその翌年。そして4月6日という一見意味のない日付はといえば、Barilla社が手のひら返しをかましたコメントの投稿日と同じだ。残念ながら今では調べようがないけれど、もしかしたらレシピ動画が削除されたのも同じ日のことだったかもしれない。

 ようするに、カルボナーラ・デイとは実際のところイタリアの対仏戦勝記念日なのではないかとぼくは邪推してしまうのだ。思えばフランスという国は、イタリアにとって目の上のたんこぶのようなところがある。芸術や食などの文化面では甲乙つけがたいものの、経済規模や国際社会での存在感はどうしてもイタリアが遅れを取ってしまう。歴史のうえでもナポレオンによる支配を受けたし、連合国には降伏させられた。国民感情に多少のわだかまりがあったとしても、別に不自然なことはないのだ。そのフランスがこの度は自分たちのホームスタジアムにのこのこ迷い込んできて、あげく間抜けな自殺点を決めてみせたのだから、野次のひとつも投げたくなるのはまた無理のないことだと思う。

 もちろん、簡単カルボナーラにイタリア人があれほど怒ったのは、なにより自国の食文化への愛と誇りのゆえだろう。けれども怒りの煮え湯のなかに、塩ひとつまみほどのコンプレックスがシュッと溶けて消えてゆく快感をも、彼らは同時に楽しんでいたのかもしれない。

(おわり)

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4月6日はカルボナーラ記念日。「これはひどいね」ときみが言ったから(前編)

 YOUTUBEの広告動画で面白いものに出くわした。乾燥パスタで有名なイタリアの食品会社が作った、かなり手の込んだショートフィルムだ。舞台は第二次世界大戦末期の荒廃したローマで、主人公は進駐米軍の一兵士。軍の士気向上のために美味しい食事を用意するというミッションを受けた彼が、頑固な地元料理人と出会い、限られた時間と食材のなかで全く新しいパスタ「カルボナーラ」を生み出すまでが描かれている。
動画の解説欄によれば、4月6日の国際カルボナーラ・デイを記念して、レシピの誕生秘話として語り継がれる伝説をベースに制作されたものだという。


www.youtube.com



 ふだんパスタの代表格のような顔をしているカルボナーラが、実は100歳にも満たない若い料理だと知ってぼくは驚いた。そんな若造が国際的な記念日まで与えられているなんて、一体どうしてなのだろう。調べてみると、カルボナーラ・デイが制定されたのは2017年とごく最近で、その発起人は『国際パスタ機構(IPO)』および『イタリア菓子パスタ製造業協会(QIDEPI)』という耳慣れない組織なのだという。4月6日という日付にも特別な理由は見当たらないし、言ってしまえばパスタ業界のマーケティングの一環なのだろう。調べたかぎりアラビアータ・デイとかペペロンチーノ・デイとかは特に存在しないらしい。要するにカルボナーラはパスタ業界の期待を一身に負って、世界のグルメの大舞台に立っているのだ。まだ若いのに見上げたものだ。

 そういえば、このカルボナーラをめぐって、ぼくの住むフランスと隣国イタリアとのあいだで大きな軋轢が生じたことがあった。事の発端は2016年3月21日、フランスの大手ネットメディアDémotivateur社が発信したわずか36秒の動画だった。

「お鍋ひとつで簡単カルボナーラ」と題されたこのビデオは、一見すると巷にあふれるレシピ動画のひとつに過ぎない。しかしその内容たるや、イタリア半島をブーツのつま先まで震撼させるに十分な、世にもおぞましい料理行程が紹介されていたのだ。

ここに動画のリンクを貼るが、いつ削除されるとも知れない代物なので、念のため以下にその全容を書き起こしておきたい。

www.youtube.com


『お鍋ひとつで簡単カルボナーラ

①軽快なウクレレと口笛のメロディを背景に、テーブルのうえに並ぶ食材――玉ねぎ、ベーコン、蝶ネクタイ型をしたパスタ(ファルファッレ)など。

②薄くスライスされてゆく玉ねぎ。画面に大写しになった手鍋に放り込まれたかと思えば、ベーコン、パスタもそれに続いて投入される。手鍋はまだ火にかかっていない。

③寝耳に水といわんばかりに、②の真上から注ぎ込まれる冷や水。「15分間 弱火にかける」という白抜きのテロップが浮かび上がり、ここで初めて加熱が始まる。

④画面外で湯を捨てられたのち、カメラの前に戻ってくる手鍋。クタクタに茹で上がった玉ねぎ、ベーコン、パスタが鍋底に力なく張り付いている。

⑤その上にべちゃりと落とされる大匙いっぱいのクリームチーズと、これでもかという量の粉チーズ。粗挽き胡椒の追い打ちのあと、鍋の中身はぐちゃぐちゃと混ぜ合わされる。

⑥皿に盛られたそれの真ん中に、生の卵黄が投下される。その周囲に悪ふざけのようなパセリの飾り付けが施され、フォークの先が卵黄を突き崩したところで、「召し上がれ!」というテロップとともにビデオは終わる。

 …あまりパスタを作らない人には、この衝撃は伝わりにくいかもしれない。そんな人は以下のようなシチュエーションを想像してみてほしい。パリで「日本料理」の看板を掲げるレストランに入ったら、寿司と焼き鳥が同じプレートに盛られて出てきておまけに醤油が甘かった。これは実際よくあることだが、このとき日本人が受ける衝撃を3倍くらい強くしたものが「お鍋ひとつで簡単カルボナーラ」の持つ破壊力だといえる。あえて日本食で例えるなら、生米と鶏肉を手鍋のなかで一緒に茹で上げ、湯を切ってから魚肉を上に乗せ、甘い醤油を上に振りかけて「お鍋ひとつで簡単スシヤキトリプレート」と銘打っているようなものだ。徹頭徹尾おかしいのである。

美食大国フランスで生まれたこのデタラメなレシピ動画は、ほどなくして、パスタの王国イタリアの人々の逆鱗に触れることになる。

(つづく)

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正しい世界線におけるカルボナーラの姿。焼き鳥の鶏肉を米と一緒に茹でてはいけないのと同様に、ベーコンもパスタと一緒に茹でられてはならない。


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「また踊ろうぜ!」広がる第三波と抵抗歌

 突然のロックダウンを皮切りに、フランスが新型コロナウイルスとの「戦争」に突入してから丸一年が経った。いまだ収束の兆しは見られず、今日ではパリを含む19の県で三度目のロックダウンが施行されている。今回のそれは外出に関する規制が大幅に緩和されており、日中であれば自宅から半径10kmの範囲内を自由に出歩くことが許されている。だから街なかに人の往来は絶えないけれど、かといって行くあてはそう多くもない。レストランも喫茶店もスポーツジムも映画館も美術館も劇場もコンサートホールも、いまだ扉を閉ざしているからだ。

 とりわけ劇場やコンサートホールなどの文化施設は、去年から不遇そのものだ。文化大国であるはずのフランスの政府から直々に「Non essentiel(重要ではないもの)」の烙印を押され、さらにはクリスマス商戦を前に商業施設が営業再開を認められたときでさえ、文化施設の解禁は見送られた。舞台のうえで生きる俳優やダンサー、ミュージシャンたちは見捨てられたような気持ちでこの一年を生きてきたことだろう。その失望はいま怒りの声に変わって、第三波の到来に塞ぎこんだ国土のあちこちで間欠泉のように吹きあがっている。

 『Danser encore(また踊ろう)』という歌が、ここ数週間フランス各地の路上で歌われているという。多くの場合フラッシュモブの手法を取っていて、広場や駅の構内で突然演奏が始められ、曲が終われば演者はぱっと散ってゆく。6人を超える人数の集会は野外であっても禁止されているからだ。仕掛け人がミュージシャンやオペラ歌手、ダンサーや軽業師など舞台芸術のプロばかりだから、演奏も演出も質が高くて見ごたえがある。

YouTubeには沢山の関連動画が投稿されているけれど、ここではぼくがいちばん芸術点が高いと感じたものを紹介したい。フランス南西部の港町ラ・ロシェルで十日前に撮影されたものだ。

youtu.be
 
僕らはまだ踊り続けたい

想いが身体を抱くのを見たい

コード表のうえで生きてゆきたい
Oh, non, non, non, non
 
僕らは通りすがりの旅鳥
従順でもなく賢明でもない
どんな状況にあろうとも
夜明けに忠誠を誓ったりしない
沈黙を破りにやって来たのだ
 
夜にテレビで王様が喋った
僕らにお触れを出しに来たのだ
僕らは不敬をもって答えよう
しかし、あくまでエレガントにだ
 
車、地下鉄、仕事、消費
自分で発行する証明書
処方箋が要るほどの不合理
もの思う人々に災いあれ
踊る人々に災いあれ
 
独裁的な措置のすべてが
ばかげた安全策のすべてが
僕らの信頼を吹き飛ばしてゆく
奴らはこれほどまで執拗に
僕らの正気を隔離したがる
Oh, non, non, non, non
 
うろたえるのはもうよそう
常軌を逸してしまった奴らに
溢れんばかりの恐怖の売り手に
不作法なまでの不安から
距離を取ることを学ぶのだ
 
僕らの心の健康のために
社会環境の健全のために
僕らの笑顔と知性のために
抵抗せずにいるのはやめよう
奴らの狂気を奏でる楽器
Oh, non, non, non, non


 この曲を書いたのはKaddour Hadadiというシンガーソングライターだ。アルジェリア系移民の二世として貧困地区で育ったという背景もあり、社会の不平等にあえぐマイノリティの立場から曲を書くことで知られている。彼が十年以上前に発表した『On lâche rien(何も手放さない)』は未だに左派のデモで使われる定番曲だ。

 今回の曲でも、コロナ禍をめぐる政府の対応を彼は露骨に批判している。テレビで喋る「王様」はもちろんマクロン大統領。その独裁にあえぐ「僕ら」はダンサーや俳優、ミュージシャンらであると同時に、笑ったり考えたり感動を分かち合うための場――文化という名の舞台を奪われた全てのフランス国民でもある。

 マスクの不着用や大人数での集会など、彼らのパフォーマンスに違反が伴っているのは明らかだ。しかしどの動画を見ても、評価やコメントはポジティブなもので溢れている。「やっぱりフランスはこうでなくちゃ!」「聴きながら泣いちゃったよ。新しい国歌に選定しよう!」「外で歌って踊るのが罪だなんて、この国はいつから独裁国家になったんだ?」「自由万歳!ブラボー、アーティストたち!」「マスクで隠されていない笑顔はなんて美しいんだろう」などなど。

 一度目のロックダウンのとき、パリのアパートのバルコニーから音楽を流して道行く人々を躍らせたDJがいた。使われていたのは80年代の歌謡曲で、やはり「わたしを自由に躍らせて」という内容のものだったけれど、当時は躍らせたDJも踊った人々も世間にさんざん叩かれた。にもかかわらず今回の「踊ろうぜ」がこれだけ大きな支持を得ているのは、いったいどういう訳だろう。一年を経て人々の忍耐が限界に達していることの表れのようにも思えるし、あのDJには悪いけれど、単に芸術的完成度の差という気もする。是と非をめぐる理屈を超えて、人の魂を直接揺さぶる。これこそ芸術が持つ魔力の恐ろしさであり、尊さでもある。
 
 フランス語では舞台芸術を「Spectacle vivant(命あるショー)」と表現する。舞台に生きるアーティストたちは生を鼓舞する魔術の達人だ。こともあろうに王様は彼らを劇場から締め出して、あげく路上に解き放ってしまった。
ハーメルンの笛吹き男の伝説さながら、彼らは楽器を手に取り反撃を開始した。その音楽に触れた人々は思わず足を浮き立たせ、口を塞ぐマスクをずり下げる。そして王様の宮殿に向かって、声を合わせて歌いだすのだ――Oh, non, non, non, non!!


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ルノワールマティスによる、ダンス。


世界にブーケを (下)

 彼の主張するところでは、花屋がこんなに多いのは明日が母の日だからだそうだ。ママンに贈る花束を探して、街じゅうの人が市場にやってくる。ちょうど今朝のぼくたちみたいに。
「いや、そんなはずはないよ。母の日って5月の終わりだもの。少なくともここフランスではね」

「いいや、絶対に明日だよ。さてはきみ、独り暮らしだろ?」
「そうだけど、どうして?」
「そんなら知らないのも無理ないな。おれはママンと暮らしてるんだから、日にちを間違うはずがないんだ。町はずれに停めたキャンピングカーに一緒に住んでいるんだよ。ママンにとってこの冬はつらかった、暖房設備がないからね。だけど寒いのはもうおしまいだ。それに明日は、この花束を渡してあげられる…」

 彼とママンはきっとどこか遠くの国から一緒に流れて来たのだろう。ぼくは男の大切な花束をその手からちょっと取り上げて、空をバックに写真に収め、いいかげんな説明をそえて日本にいる母へ送った。『世界のどこかで、明日は母の日!』

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 日が沈むころ、うちでコーヒーをすすりながら、ぼくは今朝の花束のことを考えていた。果たして彼は狭苦しいキャンピングカーのなかで、明日になるまでママンからバラを隠し通せるものだろうか。仮に上手な隠し場所を見つけても、花の香りで気づかれてしまうかもしれない。そもそもあのはしゃぎようだから、明くる朝まで我慢しきれず早々に手渡してしまったのかも…「ママン、これはあなたのための花だよ。今朝は新聞がよく売れたから、市場の花屋で買ったんだ」――この愛らしいフレーズを、彼はどこの言語で口にするのだろう? 彼らはいったいどこから来たのだろう?


「3月8日 母の日 国」

 

パソコンを起動して、検索窓にこう打ち込むやいなや、ウェブブラウザはぼくに思わぬ返答をした。

 

『3月8日は 国際女性デー。』

 なんてことだ、とぼくは思った。明日という日は国際的に取り決められた特別な一日、それも世界人口の半分、じつに40億人もの当事者をもつ特大の記念日らしいのだ。直接関係ある人の数はオリンピックよりはるかに多い。市場でのあの男の言葉が、いま切実なトーンを伴ってよみがえってくる。「きみは独りで生きているから、そんなことさえ知らないんだな…」

 

国際女性デーの解説のなかに、こんな記述もあった。『ルーマニアブルガリアなどの国では、子どもたちが母親や祖母にプレゼントを贈る、母の日と同等の記念日と認識されている』要するに彼はひとつも間違えていなかった。そのうえでぼくの無教養を軽蔑せず、その境遇を憐れんでさえくれたのだった。

この心優しい男がいなければ、ぼくは花で溢れた市場に春の訪れのほかの何物も読み取らず、あす世界じゅうで繰り広げられる花束の贈りあいに気が付くことさえなかっただろう。そして誰にも花を贈らず、特別誰を想うでもなく、3月8日を3月7日とおんなじように過ごしていたはずだ。

 

  今日は世界ぜんたいがブーケを紡いで過ごしている。40億人を祝福するための大きな大きな花束だ。そしてあの男はといえば、ブーケの包みの外側にこぼれ落ち、広場のすみで萎びかけていたぼくを、霜焼けの指でひょいと拾い上げ、ママンへ贈るバラの合間に忍び込ませてくれたのだった。おかげでぼくは今かろうじてブーケの片隅に存在できている。世界をとりまく愛の交歓にかすかに加担できている。

 …あなたの息子が贈る花だけど、ぼくも一緒に選んだんだよ。

 暗くて厳しい冬だったけれど、もう安心だよ、見知らぬママン。

 市場はいまや、赤や黄色や紫の花で溢れかえっているんだからね。

 

 (おわり)

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世界にブーケを (上)

 よく晴れた日曜日、朝市で賑わう広場の片隅で、ひとりの男がぼくを呼び止めた。その言葉は詩の始まりの一節のようだった。
「花束をひとつ買ってくれませんか」
男はストリートジャーナルの分厚い束を小脇に抱えている。『Journal Sans-abri(宿なし新聞)』という身も蓋もないタイトルのもので、売り上げのうち七割ぐらいが売り手の路上生活者――つまりこの男の懐に入る。けれども彼は今ぼくにそれを売ろうという気はないようだ。
「新聞じゃなくて、花束を? なんでまた?」
「ママンに贈るためですよ。だけど自分で買う金はないから、あなたに代わりに買ってほしいんです。ママンを喜ばせたいんです、わかるでしょ?」

 棄却の余地のない請求をされた気がして、ぼくは市場の雑踏のなかへ引き返した。あの男は先々月のある日曜日、同じ場所で、サンドイッチを買うための5ユーロをぼくにねだったことを覚えているのだろうか。ひょっとして、あのとき冷たくあしらったぼくの顔を彼はちゃんと覚えていて、だから今回は金銭でなく現物支給を求めたのではないか? 「ママンは赤や黄色や紫色が好きなんだ。とにかくあったかい色が。とくに黄色は大事だよ!」 今日は花屋がずいぶんたくさん店を出している。長く憂鬱な冬のあいだ禁じられていた色彩を、まるで鬱憤晴らしみたいに市場のそこここに撒き散らしている。ぼくは一介のミツバチとなって、あっちの店からこっちの店へと飛び回る。今年はじめてのチューリップの花束が高く積み上げられている。その奥にあるミモザの花は、たぶん今週が最後になるだろう。バラのブーケは華やかだけれどラナンキュラスも愛らしい。顔も知らない誰かのために花を選ぶのはひどく難しい。

 ぼくはもういちど雑踏を出て、広場のすみで新聞を売るあの男にむかって手招きをした。「(ちょっと来て、きみも手伝ってくれ。花が多すぎて手に負えないよ!)」男は顔をぱっと輝かせ、新聞の束を脇に抱えたまますっ飛んできた。ずんぐりむっくりの体躯から霜焼けだらけの両手を生やしたこの珍種のミツバチは、いちばん値段の慎ましい花束の山に留まる配慮を見せながら、その一つ一つの配色を吟味し、鼻を近づけて香りを確かめ――ついにはぼくが最初に勧めたささやかなバラの花束を選び取った。ぼくが花屋に5ユーロ札を手渡すとき、男はその目にわずかな疑いの色を浮かべて、

「これ、ほんとに、おれのママンのための花だよな?」と、ひと言おかしな念押しをした。

(つづく)

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夢のあと

  置き引き泥棒が、遊歩道の壁ぎわの暗がりに立って、川岸の縁に放置されたぼくの買い物袋を観察している。背中を向けて立つぼくが彼の存在を感知していることに、向こうはおそらく気付いていない。
(この記事は直近のふたつの記事の続きです。よかったら、こちらからどうぞ→第二波セーヌを襲う - 屋根裏(隔離生活)通信
もちろん彼が「あっしが置き引き泥棒でござい」とみずから名乗ったわけではない。けれども彼がぼくの背後をはじめに通り過ぎていったとき、その挙動はあまりに露骨に置き引き泥棒のそれだった。「あっしは善良な散歩者でやんすよ。鼻歌交じりに足取り軽く、前を見据えて歩くばかりで、あんたの荷物なんかにゃ見向きもしやせんよ……ちらり」。案の定彼はすぐに歩道を引き返してきて、遠目からぼくの荷物にかかわる価値とリスクを見積っている。
ぼくは彼にはまるで気づかないふりをして、眼下に浮かぶ怪物の巨体に手製の槍を振り下ろし続けた。その大げさな無防備ぶりに勇気づけられてか、置き引き泥棒はやがて音もなく袋へと近づいてきたが、中身をのぞき込める距離にまで来たとたんぴたりと足を止め、そのまま綺麗なターンを決めて歩き去っていった。ざるとハンガーとタコ糸とごみ袋はタダでも欲しくないらしい。なんとも失礼な話である。


 時計の針は3時半を過ぎていた。月は対岸の家々の屋根に触れんばかりに高度を落とし、その明かりにはほのかな赤みが差し始めている。シテ島の太鼓はいつしか鳴り止み、河岸に集う人影もひとつまたひとつと消えてゆく。そばにいた学生グループもついに話の種が尽きたのか、仲間と寄っかかりあいながら千鳥足で坂道を登っていった。かくして河岸の遊歩道には、遠方になおいくらかの人影と、ひとつ残らず溢れかえったくずかご、石畳のうえを駆け回るどぶねずみ、そして岸べりに揚げられたごみとぼくだけが残された。槍が水面をかき回す音が急に大きくなったように感じる。どこかで何かに驚いた鴨がグワッと声を上げ、続いてかすかな羽音の響きが川の流れを遡ってゆく。

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 怪物の背に露出していた大型のごみはほとんど取り除けたが、一本だけ、槍がどうしても届かないコーラのペットボトルがあった。怪物の川上側の先端に妙に目立って突き出していて、ひょっとしてあのボトルこそ怪物の急所なのではないかという気がしてくる。あれさえ引き抜けたら、化け物の体を形成するごみはたちまち泡と消えてしまい、あとには水草と小魚の戯れるひと月前のセーヌが残る。これほど取るのが難しいのにはきっとそういう理由があるのだ。そうだ、かごからざるをぶら下げてリーチを延長してみよう。ぼくは石畳のうえに槍を寝かせて、その先にタコ糸を結びにかかる。

 そこへ、誰かが歩道を踏む足音が近づいてきた。後ろめたいところのない足取り、昼の世界の人間の足取りだ。顔を上げると目が合ったので、互いにこんばんはと挨拶をする。同い年ぐらいの男だった。
「そこで何してるんですか?」男は率直に尋ねる。
「あんまりごみが目立つから、ちょっと掃除をしてたんですよ」ぼくも今度は普通に答える。


「へえ、ごみを、ひとりで、夜中に……」

 

ぼくの回答は彼の心の琴線に触れたらしく、彼の口から秘められた思いが堰を切ったように流れ出した。

 

「いやあ、きみは立派なやつだな。おれは本当に尊敬するよ。おれはコンフィヌマンが終わってから世の中にひどく失望してたんだ。だって4月の初めごろまで、テレビでもネットでも皆さんざん『Le monde d'après(これからの世界)』の話をしてただろ? 
『Covid-19は自然界からの最終警告だ!』『環境破壊を食い止めよう!』『持続可能な社会を目指そう!』『自分の生活から見直そう!』『そうだ、ごみを減らそう!』……そうだったよな、覚えてるよな? 
あいつら一体どこに行ったんだ? 一体何が変わったっていうんだ? 目の前の危機が過ぎ去ったとたん、何もかも忘れちゃうんだから無責任なもんだよ」

 彼の言葉は一語一句まで、日暮れ時にぼくが抱いた憤りの補足説明みたいだった。彼の早口に懸命に相槌を挟みながら、ぼくは心にふたつの矛盾した感情が芽生えるのを感じる。ひとつは、同じ記憶を留めている者が見つかったという安心感。そしてもうひとつは、ほんのちょっとの興冷めの感情だ。

環境だとか責任だとか、どうして彼はぼくのごっこ遊びに水を差すような理屈を今更こねるんだ。確かに最初こそそういう趣旨だったけれど、いまではとっくに違うお話になっているんだぞ、遅れているなあ。これは月下の化け物退治で、ウイルスの件とも関係ないんだ。登場するならもうすこし、世界観というやつを考慮してくれないと……

「結局みんな口ばっかりで、自分の尻を動かそうとはしないんだ。だからほんとにきみは偉いよ、たったひとりでさ……。 どこの出身だい? へえ、日本! おれはキタノの映画のファンなんだ。お勧め作品があったら教えてくれよ。Facebookはやってる? なら友達申請させてくれ。

またゴミ拾いをするときには声をかけてくれよな、おれも一緒にやるからさ。岸で飲んでる彼女を迎えに行くところだから、今夜は付き合えないけれど。じゃ、また!」

シモンという名の好青年はガールフレンドの催促の電話に答えながら、遊歩道を足早に遠ざかっていった。その後姿を見送りながら、ぼくは彼の正体を看破した。彼はおそらく昼の世界から夜の世界へと送り込まれた先兵だ。それが証拠に彼は東からやってきたし、道理にかなったことを言ってはひとの夢想に水を差す。彼がやってきた方角を見れば、すでに空の端が微かに白みはじめている。腕時計に視線を落とすと、その短針は数字の4ににじり寄っている……まもなく朝の大攻勢がやってきて、夜のすべてが駆逐されてしまう。

 ぼくは槍の先に吊るしたざるを慌てて川に放り込み、怪物の急所を捉えようとあがいた。しかしざるは水面にとんちんかんな軌道を描くばかりで、狙った突起にかすりもしない。まるで突然与えられたとんちんかんな役割をざる自身が拒否しているみたいだ。夜の魔力が弱まったせいで、ざるさえ正気に返りつつある。夜明けの気配に洗われながら狂気の塗装が落ちてゆく。騎士の籠手はゴム手袋へ、退魔の槍は果物かごと壊れたパラソルへ、武装は弱体化の一途をたどる。目の前の強大なモンスターは気の滅入るような生活ごみの集積へ、その唯一の弱点は川面に五万と浮かんだプラスチックごみのひとつへと、みんな一緒に堕落してしまう……

 残念ながら時間切れだ。ぼくは退却を決意した。

 

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 持ってきたごみ袋を広げて、掬い上げた多種多様なごみを詰め込んでゆく。ビール瓶7本、アルミ缶3つ、ペットボトル9本、マスク3枚、テニスボール1こ、菓子の袋、使い捨てカップ、紙くずそしてビニールくず。袋を3枚も持参したのに、ぎゅっと詰めたらひとつの袋にきれいに収まってしまった。4時間におよぶ格闘の成果が片手で運べるサイズだなんて、さすがにがっかりしてしまう。流れを覗けばそこには相変わらず、ごみを纏った水草の群生がぶよぶよと波に揺れている。その先端にペットボトルを1本縦に突き立てていて、結局のところ見た目のうえでは初めとほとんど変わらない。

 かくして決闘はぼくの敗北に終わった。汚水のしたたる袋を背負い、果物かごとざるのくっついた間抜けなパラソルを肩にかけ、もと来た坂道をとぼとぼと上る。『凱旋』という言葉があるけれど、その対義語はなんて言うんだろう。もしも存在しないとしたら人の歴史はあまりに薄情だ。いまのぼくみたいに肩を落として戦場から帰還した人々のことを、言葉を使って言い表そうともしなかったということじゃあないか。

 坂を上り切ったところでふと西の空を見ると、河岸からは屋根に隠れて見えなくなっていた月がまだ少し顔を出していた。あんなに空の低いところまで逃げ落ちてはいても、高いところにあったときより一回りも大きく、赤みを増して金貨のような輝きを放っている。

橋の欄干に肘をついて、月がふたたび屋根のうしろに隠れてしまうのを見届けてから、ごみ袋を背負いなおして家路に着いた。肩から下げた買い物袋に重みのない金貨が1枚落とし込まれたような気がした。未遂におわった化け物退治に、慈悲深い夜が投げ与えてくれたお情け程度の報酬だ。        (おわり)

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月下の決闘

 ぼくは夏のあいだ広場で似顔絵屋をやっている。苛烈な日差しでお客が倒れてしまわないよう、大きな黄色いパラソルを立てている。そうだ、あれをタモ網に改造しよう。竿の長さは伸ばせば140cmにもなるはずだ。
(この記事は前回のもの第二波セーヌを襲う - 屋根裏(隔離生活)通信の続きです)

 6階の廊下はすでに静まり返っていた。箱入り育ちの隣室の姉妹は11時ごろには寝てしまう。ふたりの迷惑な隣人はいま、こともあろうに深夜零時に工作をはじめようとしている。静かな眠りを妨げてごめんよ。でも、とんでもない化け物が街に戻ってきたんだよ。そいつを退治するために、ぼくには武装が必要なんだ……
 押し入れからパラソルを引っ張り出して、その骨組みから布地を外した。木製の果物かごを空にして、タコ糸で竿の先端にきつく縛り付ける。タモ網に代わる化け物退治の一本鎗の完成だ。ちょっと、というよりかなり不格好ではあるが、機能性には問題がなさそうだ。ほかにも有用そうな道具――ゴム手袋、ざる、ハンガー、ごみ袋などを手当たり次第に買い物袋に放り込んで、ぼくはふたたび屋根裏部屋を後にする。

 孤月の浮かぶ空の下、河岸につながる坂道を下りてゆく。スズカケ並木の向こうに広がる黒々としたセーヌの流れ。水面に映る月の傍らには、すでに怪物の巨大な背中が確認できた。若者のグループはまだ居残っていて、そのうちの一人があろうことか川に向かって立小便をしている。援護射撃のつもりかもしれないが、とんだありがた迷惑である。ゴム手袋を持ってきたのは賢明だったとつくづく思う。

 

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左.槍を携えて戦場へ。 右.べつに立小便を撮るつもりはなかったのだけど…


 ふたたび河岸に立ち、頭も尾もないその怪物と対峙する。手製の武器を両手に構え、腹から突き出したビール瓶をめがけて一番槍を突き立てた。悲鳴もあげず、身もよじらず、怪物はぼくの動きを静観している。漂う瓶をかごのなかに収めるのは案外難しく、ぼくは角度を様々に変えてその傷口をほじくらなければならなかった。ごみと水草がかき分けられて、ひらけた水面にゆがんだ月の姿が現れる。なんとか瓶をかごに収めて槍をそっと引き上げると、その傷口はたちまちに塞がってしまった……不気味なやつめ。

 前に後ろに河岸を移動しながら、ぼくは繰り返し攻撃を加えた。石畳の上に少しずつ、切り取られた怪物の肉片が積もってゆく。しかしその堂々たる体躯はぼくの攻勢を意にも介していないふうだった。岸べりに並ぶ戦利品の無価値さをあざ笑うかのように川面に悠然と横たわっている。これは長期戦になりそうだ。

 それにしても、夜中の2時にもなろうというのに人の気配が一向に減らない。川の中腹に浮かぶシテ島の先端から、アフリカンパーカッションの小気味よいリズムか聞こえてくる。暗くてはっきりとは見えないが、枝垂れ柳のふもとにもまだたくさんの人が居座っているみたいだ。大学は9月まで再開しないという話だから、学生たちにとってはもはや半分夏休みのようなものなのだろう。

大きなリュックを背に人から人へ声をかけてまわっているのは、ビールやワインの転売で生計を立てるもぐりの行商人だ。西アフリカや南アジアの貧しい国から来ていることが多い。彼らは滞在許可を持っていないことがほとんどだから、コンフィヌマンのあいだ補償など何ひとつなかったはずだ。よくぞ耐えたね。違法とはいえ、営業再開おめでとう。


6月1日 深夜のセーヌ川。


「ビールはいらんかね?」
「もうたくさんだよ。見てくれ、この空き瓶の数!」
ぼくの足元に列をなす大量のハイネケンの瓶に、行商人は目を丸くする。「お前ひとりで飲んだのか?」
「みんなで楽しく飲んだんだろうけど、拾ってるのはぼくひとりだ」
彼は大きな目をぱちくりさせて、岸辺に並んだ雑多なごみを隅から隅まで眺めやる。それから大きな笑顔をこちらに向けて、親指をぐっと突き立てて去っていった。どうやらほめてもらえたみたいだ。

またひとり、別の男が近づいてくる――「大麻かコカイン、あるけど買わない?」もちろん彼も休業補償をもらえぬ世界の人間だ。こんなふうに当てずっぽうで声をかけてくるなんて、きっと違法薬物業界も相当な打撃を受けているのだろう。
「いらないよ。涼しい夜風が吸えればじゅうぶん! いま忙しいからほっといて」
「おまえ、ひとりで何してるんだよ?」
「見りゃわかるでしょ、さかな釣りだよ」
ぼくのつまらない冗談に愛想笑いひとつせず、男はおとなしく離れて行った。ところが、ぼくがふたたび槍を川のなかに突っ込んだところを見るなり、早足で遊歩道のうえを引き返してくる。そして眉間に皺を寄せて、たしなめるような口調で言うには、

 

「ここの魚は食べちゃだめだよ、水がすっげえ汚いんだぜ。病気になっちゃうよ……」


早すぎる汚染の再来に、ぼくの心は少なからずささくれていたのだろう。彼の素朴な思いやりが胸に沁みた。コカインを売り歩いている男がひとの健康を気遣うというのも、なんだか道理に合わない気がするが。道理や条理に従っていては食べていけない人々がこの街にもたくさん生きていて、夜とは彼らのための時間だ。そこではしばしば昼の論理や倫理がきれいに反転することさえある。

                  ・

 数年前の夏、深夜のセーヌ川を描くために夜ごと繰り出していたことがあった。当時は移動にバスやメトロを使っていて、ICカード型の定期券を持っていた。行きのバスでは誰もがそれを読み取り機にかざしてから乗り込むのに対し、深夜3時の帰りのバスでは誰一人としてそれをせず、ポケットの中をまさぐる素振りさえ見せなかった。運転手は彼らをとがめるどころか、ひとりひとりと顔なじみのような挨拶を交わし、こぶしをこつんとぶつけ合ったりしている。その路線は乗客をパリ中心まで運んでいって、彼らはそこで郊外へ向かう深夜バスに乗り換える。時間からして、どこかで皿洗いや清掃やベッドメイキングの仕事をした帰りなのだろう。正式な労働許可を持たず、法定最低賃金さえ受け取っていない人も多い。
こういうバスに乗りこむときのばつの悪さといったらなかった。ICカード乗車券なんて無粋なものを印籠のように降りかざし、言ってみれば金と権力に物を言わせて、損得を超えた共同体に土足で上がり込むのだから。有賃乗車。合法乗車。軽蔑に値するふるまいだ。機械がカードを読み取るときの「ピーン」という電子音が車内に響いたとき、それはなんとも弱々しく曖昧で、まるで端末のなかに行儀よく折り畳まれた自分自身の悲鳴を聞いたみたいだった。

                  ・


 夜11時には寝てしまうルイーズは、まさにこういうパリが嫌いだ。まるでグリム童話の黒い森のように怖がって、日が沈んでからは滅多に外に出ようとしない。一方でぼくは深夜のパリをうろつき歩くのが大好きだ。まるでグリム童話の黒い森のように謎と不気味が潜んでいるからである。

 理性の光が及ばぬところで、かご付きのパラソルは槍になり、ゴム手袋は籠手になり、昼間はただただ気が滅入るような川に浮くごみの集積でさえ、退治するべき竜か何かに姿を変える。日没にぼくが感じていたはずの強い憤りも、いつしか夜の高揚感に飲み込まれ霧散してしまっていた。
ぼくはもう誰に対しても腹を立てていない。環境問題ももはやそれほど念頭にない。ただただ夜闇に紛れてひとり「ごっこ遊び」に夢中になっている。そういう狂気に居場所を与えてくれるのが、真夜中のパリの懐深さだ。   

 とはいえ、腕時計の針はすでに3時を指している。月も対岸の建物の屋根のずいぶん近くまで降りてきた。夜の魔力が効果を失ってしまうまで、もうそれほど時間は残されていない。
 ぼくは槍を握りなおして、ふたたび目の前のモンスターに挑みかかる。     (もう少しつづく)

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何かかっこいい名前を与えようとしたが思いつかなかった。だって、かっこよくないもの。

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第二波セーヌを襲う

 これから報告することは深刻な問題だから、本来ならば深刻な調子で語られるべきなのかもしれない。けれども草取りにかこつけて不平等の話などしてしまったあとだから、今度はあまり憂鬱な内容にしたくないという気持ちがある。だからなるべく悲壮な感じが漂わぬようあけすけに書いてしまうつもりなので、もしもちょっぴり乱暴な表現が飛び出してしまっても、どうか今回は目をつぶっていただきたい。

 6月1日の出来事だ。この日は日曜日と重なった祝日の振り替えで、3連休の最終日だった。この週末からついに公園が解放され、そのうえ天気に恵まれたから、ぼくは近所のチュイルリー庭園で久々の野外スケッチをして午後を過ごした。ベンチにも芝生にも人々が寄り集い、日光浴やピクニックができる幸せを噛みしめていた。
 すっかり日が暮れて(といっても夜の10時くらいだ)、公園をあとにして家路に着こうというとき、ふとセーヌ川を眺めて行きたい気持ちになった。コンフィヌマンが明けて以来、河岸はもうどこに行ったらいいか分からない娯楽難民とも呼ぶべき人々で溢れかえっている。それでなんとなく足が遠のいていたのだけれど、連休終わりの夜10時なら落ち着いたひと時が過ごせるかもしれないと期待した。

 思ったとおり、河岸の遊歩道の人影は昼間よりずっと減っていた。酔いの回った笑い声やスピーカーから流れる音楽でいまだに賑やかではあるものの、人ひとり分のスペースは岸の縁に腰を下ろす人々のあいだにたくさんできている。しかし河岸に降り立つや否や、それらの並ぶ背中の向こう側、つまり真っ黒い川の流れのなかに、ぼくはおぞましいものを見出した。巨大な怪物が岸壁に沿ってだらしなく横たわり、波のまにまに体をぶよぶよ伸び縮みさせているのだ。

 その化け物の広い背は、水面まで伸びた水草に引っかかった菓子の袋や使い捨てカップ、ペットボトルやマスクや紙くずなどの雑多なごみでできていた。そのあちこちからビール瓶やワインボトルのトゲを生やしている。全長はゆうに10メートル、幅は3メートルを超えるだろう。こいつは一体いつの間にここに現れたんだ? 少なくとも、コンフィヌマンが明けた初日には影も形もなかったはずだ……

すぐ足元で伏し浮きしているそいつの存在には目もくれず、大学生ぐらいのグループが新しいワインの栓を引き抜こうとしている。そのなかのひとりがタバコの吸い殻を後ろ手にぽいと投げ捨てた。堤防に沿って置かれたゴミ箱は排水管が詰まったみたいにひとつ残らず溢れ出し、街灯の黄ばんだ光を浴びて地面に黒い影を落としている。

 

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「なんちゅうこっちゃ」とぼくは呟いた。
「なんちゅう馬鹿だ、こいつらは」とも、もしかしたら呟いたかもしれない。

 

 セーヌ河岸はもとよりピクニックに人気の場所だから、外出制限が解かれたいま人が戻ってくるのは当たり前のことだ。しかし人々がこんなにも早く、以前と何ひとつ変わらない環境汚染を再開するとはぼくは本当に思っていなかった。だってぼくらがうちに閉じ込められていた2か月間で、このセーヌ川は目を見張るほどに美しい姿を取り戻していたのだから。日中は澄んだ水のなかで小魚が遊んでいるのが見え、夜には静かな流れのうえに星の姿が浮かんでいた。夕暮れ時など、橋のうえを通りかかった人々はみな呆けたように口を半開きにして、見慣れたはずの川の写真を一心不乱に撮っていた。それはもう、アメイジング・グレイスの歌そのもののような光景だった。「わたしはかつて盲目でした。けれども今でははっきり見えます」……

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同じ場所、ほぼ同じアングルから撮った写真。4月30日の午後9時。



 それがひと月も経たないうちに、このざま、すべてが元通り。

遥か対岸に至るまで、ごみは墨汁のような川面から点々と顔を出し、みな一様に月明かりを浴びながら下流を目指してのろのろ進んでゆく。橋の影からハイネケンの空き缶が現れて鈍い光を放つ。レタスのこびりついたハンバーガーの空き箱は方位磁石みたいにくるくると回っている。そして岸のうえでは、笑い転げる男や女の洞窟のように真っ暗な口が開いて閉じてを繰り返している。誰かの踵で蹴り倒されて金切り声をあげるビール瓶。


 このおめでたい連中は、とぼくは考えた。世界に大混乱をもたらしたこのパンデミックの元凶を中国人のゲテモノ食いだと信じ罵る一方で、自分たちのゲテモノ食いには何の問題も見出そうとしない。彼らがセンザンコウを食うのをやめさえすれば、自分たちは未来永劫平和な世界でビッグマックを頬張っていられると思い込んでいる。いつか海洋の生態系がプラスチックで窒息し、あるいは地表の気温が取り返しのつかないほどまで上がってしまったとき、彼らはいったいどういう態度に出るだろう? 「政府が俺たちを騙したんだ!」と同じ泣きごとを言いながら、今度はアマゾンの熱帯雨林やプラスチックを食う新種のバクテリアに向かって感謝の拍手をするつもりだろうか?

 無性に腹が立ってきた。ぼくは地面に片手をついて岸壁の斜面につま先を掛ける。そして水面に手を伸ばし、化け物の背中からペットボトルを1本むしり取って遊歩道へと投げ上げた。そばのグループから「なにやってんだあいつ」という嘲るような声が聞こえたが、知ったことかという気持ちである。続いて拾って陸に放ったデスペラードの空き缶は石畳を打っていい音を響かせた。そうだ、きみたち、この「カラ~ン」を聞きたまえ。うんとたくさんのメッセージを込めた「カラ~ン」だ。ぼくのごみを放りあげる動作からこの音が響くまでの、行間を読め! 読んだら自分が出したごみぐらい、持って帰れ! 4つめのごみを投げ上げたころにはすでに、ぼくはこの月煌々の一夜を化け物退治に費やす覚悟を決めていた。

 とはいえ化け物の体躯は大きい。こうして岸壁に張り付いたままちまちまジャブを繰り出し続けても、与えられるダメージはたかが知れている。ぼくはいちど岸に這い上がり、装備について考えを巡らせる。こういう時に便利な道具はなんといってもタモ網だ。どこかにタモ網、落ちてないかな……
しかしそう都合よく夜道にタモ網が見つかるほど大都会パリは甘くない。なければそれに代わる武器を、自分の手で作り出さなければ。

 アイ・ウィル・ビー・バック。これで終わりと思うなよ。無気力にたゆたう怪物の背をもういちど睨みつけてから、ぼくは屋根裏部屋へと踵を返した。午前零時。夜風が涼しい。だが心には熱い闘志がめらめらと燃えたぎっている。   (つづく)

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さくらんぼが実るころ (下)

 パリ・コミューンという出来事について、ぼくは教科書通りの概要しか知らない。

パリ市民の蜂起によって生まれた世界で初めての労働者政権で、政教分離、教育の無償化、女性の政治参加など現代的な政策を掲げ、徹底的に平等な社会の実現を目指した。しかしほどなく政府軍の反撃を受け、墓地での戦いを最後に鎮圧され、解体。わずか72日間の儚い夢だった。
コミューンの一員でもあった銅工職人が書いた『Le temps des cerises(さくらんぼの実るころ)』という歌が、この一時代のシンボルとして人々の記憶に留められている。


紅の豚 加藤登紀子~さくらんぼの実る頃~


 さくらんぼのなる季節になったら
 小夜鳴き鳥も物まねツグミ
 みんな一緒にお祭り騒ぎ
 お嬢さんがたの気は浮かれ
 恋人たちの心は輝く
 さくらんぼのなる季節になったら
 物まねツグミもはりきり歌う…

……せいぜいこれくらいのことだ。オルセー美術館のツイートがなかったら、今日がその終焉の日にあたるなんてぼくには知る由もなかっただろう。

                  ・


 仕事をはじめて3時間が過ぎた。太陽はやや西に傾いて、中庭にできた日陰の範囲をわずかに押し広げてくれた。腰を上げて見わたしてみれば、除草作業はずいぶん調子よくいっている。リュックサックから水筒を取り出して一休みしていると、外から依頼主の夫人と子どもたちが帰ってきた。

 女の子がぴょんぴょん跳ねながら近づいてきて、「お手伝いしましょーか!」と声をかけてくれる。「ありがとう、やさしいね!でも宿題があるんじゃないの?」とぼく。

「すみません、お仕事の量が多いでしょう。なにせ2か月も留守にしていましたから…」と言いながら、夫人がわずかに口ごもったようにぼくには感じられた。そうだとしたら理由はおそらく、コンフィヌマンの最中パリを離れていた人々への世論があまり優しくないせいだろう。「地方に感染リスクを広げた利己的なパリジャン、とりわけ別荘持ちの富裕層」を批判する人はぼくの周りにもいくらかいた。けれども正直なところ、彼らが本当に義憤に駆られているのか、それとも庭付きの別荘を持たない自分の境遇に怒っているのかはちょっと判断がつきかねた。

冷たい飲み物はいかがですかという親切な申し出を遠慮して、ぼくはふたたび玉砂利の絨毯の修繕作業に取り掛かった。なるべく愉快な考え事をお供にしようと試みる。歌に出てくる物まねツグミってどんなふうに鳴くんだろう? 物まねツグミツグミの鳴き声を真似したら、ただのツグミと区別がつくのかな?

 しかし思考はとんぼ返りして、麦わら帽子のてっぺんに止まる――この世の中の不平等についてだ。ぼくはコンフィヌマンを通じて確かにこの病理を目にした。けれどもそれはパリに留まったとか田舎に逃げたとかいう枝葉の事柄にではなく、もっと社会の根幹に巣食っているように見えたのだ。

 たとえばぼくの住むパリ中心エリアでは、警官によるコントロールがほとんど真面目に行われていなかった。そのため4月の半ばごろには昼日中から外をうろつく人の数がどんどん増え、5月に入るころには広場で集まる若者や子どもを自由に遊ばせている夫婦を当たり前に見かけた。そういう場面にいちいち腹を立てはしなかったが、ちょっとグロテスクな光景だと感じたことは否定できない。

なぜかというに、低所得者の多い郊外の地域では事情がまったく違っていたからだ。警官の姿を路上に見ない日はなく、取り締まりにはときに不要な暴力さえ伴ったことはソーシャルメディアで拡散されたいくつもの動画で知られている。ぼくたちの生活を維持してくれていた人々、つまりスーパーの店員や清掃員、通信販売の配達人などの多くはこういう場所に住んでいて、誰も好んで使いたがらない電車やバスに乗って市内まで通勤していた。これは移動範囲が制限されるまで一度も気が付かなかったことだが、ぼくの近所で見かける買い物客や散歩者、つまり住民のほとんどは白人で、働く人のほとんどはアフリカ系の人だった。ある郊外の貧困地域では前年比の超過死亡率が120%を超えた。ステイホームができない仕事に就いていて、住環境や栄養状態が悪く、医療体制が脆弱だからだ。

 庭付きの別荘を持たなかろうと、屋根裏部屋に暮らしていようと、たぶん誰もが知らず知らずに他の誰かを踏みつけにして生きている。お日さまのもとを自由に歩けるようになってからもずっと、その気味悪い感触はぼくの足裏にくっついてまわっていた。オルセー美術館のツイートは、そこにちくりと刺さった棘だった。

 うちの4階の住人は気さくで社交的だ。この中庭の所有者も、共産主義のポスターにあるような醜悪な資本家とは似ても似つかない。パンデミックのただ中にあって、彼らの主な関心事が新居の工事の遅れや子どもたちの運動不足だったとしても、それは彼らがそれぞれの視座で事態を正しく見たにすぎない。自分の視界の遠近法から逃れることは誰にもできない。それはぼくだって同じことだ。この庭ひとつを例に挙げたって、こうして平気で命を摘み取って顧みない草と、一葉一葉を指で撫でながらアブラムシを取り除いてやる木とがある。すべてのものを平等に扱うなんて、地べたを這いずる人間なんかに遂げられる理想ではないのかもしれない。あの天上のお日さまみたいに、高い高いところから地上のすべてを平らに見下ろさないかぎり……


                   ・

『Le temps des cerises』という、歌のタイトルそのままのレストランがパリの南の端にある。パリ・コミューンの精神を受け継ぎ、上下関係のない協同組合の形で経営されている。ざっくばらんな雰囲気で、壁には左派の政治ポスターがびっしり。連れて行ってくれたのは年の離れたモロッコ人の医者の友人だった。パリで医学生をやっていた70年代、仲間とさかんにここに通っては政治談議を重ねたという。当時は近くに印刷工場があって、仕事上がりの職人たちともしばしばテーブルを囲んだ。

不覚にも彼はのちの人生で大きく成功してしまい、こういう赤一色のお店がすっかり似合わなくなった。ぼくをこの店に連れてきたのはそのためだろうとぼくは思っている。10平米の屋根裏部屋に住まう貧乏絵描きであるぼく、いつまでも途上にあるぼくを、思い出のなかのle temps des cerisesとの橋渡し役に立てたのだ。

「なんか、ぜんぜん革命の歌って感じがしないんだね」奢ってもらったワインのグラスを遠慮もなしに空けながら、ぼくは少し拍子抜けして彼に言った。
「そりゃそうさ」新たにワインを注いでくれながら、老医師はこともなげに同意した。「歌ができたのはパリ・コミューンが始まる何年も前なんだから。若気の至りの恋に浮かれて、『ああ胸が苦しい!』。もともとはどうってことない流行歌だよ」
「そんな歌がよく歴史のなかに残ったもんだ」
「それはあとに続く逸話のおかげだな。コミューンが解体されたあと、『血塗られた週』を生き延びた作者が第四番の歌詞を書き足したんだ。いいか、こういうやつだ」

彼はさっきと同じようにテーブルの上にすこし身を乗り出し、一語一語を区切りながらゆっくりと歌詞を口ずさむ。過去への憧憬の滲む目が、ぼくの姿をじっととらえる。

 さくらんぼのなる季節のことを
 ぼくはいつまでも愛し続けよう
 あのとき開いた心の傷は
 たとえ運命の女神の手でも
 二度と塞げはしないのだろう
 さくらんぼのなる季節のことを
 その思い出を愛し続けよう… 

                  ・


 気がつけば太陽は建物の陰に姿を隠し、中庭はほの青い日影のなかに浸りきっていた。玉砂利の絨毯に開いていた穴はようやくすべて縫い繕われて、その表面にしっとりと水気を帯び始めている。
ぼくが道具を片付けているあいだ、依頼主の一族がひとり、ふたりと中庭に降りてきた。それぞれがぼくにねぎらいの言葉をかけて通り過ぎ、ベンチに腰掛けて夕涼みをはじめる。
10歳ぐらいの男の子がひとり、通り過ぎたかと思ったらすぐにこちらに戻ってきて、「コンフィヌマンはどうでしたか?」と大人みたいな挨拶をしてきた。
「ちょっと退屈だったけど、まあまあだったよ!」ぼくは今度は答えを間違わない。「それで、きみは?退屈しなかった?」
「ううん、楽しかったよ! 家族で南フランスに行ってたんだ」男の子はぱっと顔を輝かせて答え、大人たちのもとに駆け戻っていった。

あの目に映る世界にはまだ、人間どうしを気まずくさせて、住み分けを迫る階層なんかは存在しないのだろう。楽しかったひと春の南仏滞在が人々の怒りと軽蔑を掻き立てるものでもあったことを、いつかは彼の目も捉えることになるのだろうか。できることならそうなるまえに、そんな事実は地上からそっと引き抜いて捨ててしまいたいけれど。


「残り物で失礼ですが、よかったらいかがですか」と、夫人がグラスを持ってきてくれた。少しぬるくなったスパークリングのロゼワインがぷつぷつと泡を浮かべている。群青色に暮れてゆく大気のなかで透けながら、その液体は赤とも青とも桜色とも呼べない色でとろとろと円を描いている。
はっきりしなくて、まるでぼくみたい。心のなかで呟いてから、労働のあとの疲れた体にひと息でぐっと流し込んだ。      (おわり)

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労働のシンボル、鎌を手に。

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さくらんぼが実るころ (上)

 住んでいる建物のエントランスで4階の住人とばったり会った。ぼくは正面玄関わきの使用人用出入り口から自分の自転車を引っ張り出してきたところ、彼女は外から帰ってきたところだった。「ようやく見つけた!」彼女の屈託ない声がホールにこだまする。
「コンフィヌマン明けに電話で話したきり音沙汰がないから、どうしてるかと思ってたのよ。私たちが引っ越しちゃうまえに、うちで一杯飲もうって言ったでしょ?」
「いや、ぼくのほうも呼んでもらうのを待ってたんだよ、つつしみ深いものだから…それで、引っ越しの準備は進んでるの?」
「いま新居の様子を見てきたところ。改修工事が2か月も遅れちゃったから、取り戻すのが大変よ」
「もう少しここで暮らせばいいのに」
「退去日がもう決まっているからそうはいかないのよ。それにここの家は手狭だし、夫も早く移りたがってるの」

 コロナピストを自転車で西に向かって駆けながら、ぼくは思わず吹きだしてしまった――「てぜま」だって。ぼくたちが住む建物はパリのど真ん中に鎮座していて、もともと女中部屋だった6階から下には広くて立派な高級アパルトマンしか入っていない。以前ぼくの部屋の配水管が水漏れを起こして、5階の住宅の被害状況を恐る恐る見に降りたとき、天井に大きなシミの付いたキッチンはぼくのアパート全体より二回りも大きかった。床と天井とを共有していても、5階と6階の生活レベルには天と地ほどの違いがある。どうやらそれは「てぜま」という言葉が意味するサイズ感についても同じことみたいだ。

「ところで、これから果物でも収穫に行くの?」

別れ際に彼女がこう尋ねてきたのは、ぼくのポケットからはみ出た軍手やリュックに引っかけた麦わら帽子に目を止めてのことだった。けれども摘むのは果物ではなく雑草だ。日本での休暇中にロックダウンの憂き目に会い、こちらに戻ってこられなくなった庭師の友達の代役として、ぼくはいま顧客の中庭の手入れに向かっている。ときどき手伝うこの健康的な労働をぼくはとても気に入っているから、シャンゼリゼ通りを昇るペダルも今日はすいすいと軽いのだ。


 その中庭は市内随一の高級住宅地のなかにある。立ち入ったのはじつに3か月ぶりだ。春先にふたりで土を入れ変えたおかげか、元気のなかったもみじの木は青々とした新しい葉をいっぱいに茂らせていた。赤茶色にしなびたカメリアの花殻が湿った地面に積もっている。燦燦と注ぐ正午の日を受けて、敷き詰められた玉砂利はまるで乳白色の絨毯のように輝いているが、確かにそれを食い破るように雑草があちこちから顔を出していた。赤い葉を2、3枚付けたひょろひょろの苗もたくさん出ている。よく見ればその葉は小さな掌の形をしていて、どうやらもみじのこぼれ種が芽を出したもののようだった。

 頭上から「こんにちは」と声がして顔を上げると、2階のベランダから依頼主の男性が手を振っていた。実業家だが映画俳優みたいに背が高く洒落ていて、立ち振る舞いも上品だ。
「コンフィヌマンはどうでしたか?」という、誰かと再会したときの常套句が続いて降ってくる。ぼくは頭上の麦わら帽子を背中のほうに落として答える。
「どうにかこうにか耐え抜きました。途中でちょっとしんどい場面もあったけれど」
「しんどい? どうして?」
「なにしろ部屋が10平米しかないもので…」
彼は驚きと同情とが入り混じった複雑な顔をして、「それは大変でしたね」と答えた。

つまらないことを言ってしまった、とぼくは即座に後悔する。こういう話で笑い合えるのはたとえば同じ屋根裏の住人とか、懐寂しい芸術畑の連中とか、似たり寄ったりの階層に住む人どうしでのことなのだ。そうでなければまるで弱者の悲壮な嘆きのように、下手をしたら恨み節のようにさえ相手に聞こえてしまうかもしれない。そうならないよう、ぼくは慌てて取り繕う。
「そうは言っても、あっという間に慣れちゃいましたけどね。2か月間もうちで堂々と怠け放題できたんだから、有り難いことです!」――さいわいにも、彼の表情に優雅さが戻った。
「あなたは日本人だから、きっと真面目に規則を守っていたんでしょうね。外にはまったく出なかったんですか?」
「もちろん買い物には出ましたし、ときどき散歩もしましたよ。1日1時間1km圏内っていう犬の散歩みたいなやつ」
「つまり違反はなし」素直な関心の色が彼の目に浮かんだ。

「それでは、よろしくお願いしますね」と言い残し、彼は窓の奥に姿を消した。ふたたび玉砂利の輝く庭にしゃがみ込んでから、ぼくは麦わら帽子のかたちの自分の影に向かって、さっき出かけて危うくひっこめた台詞をささやきかけてみる。

「違反だなんて、とんでもない。だって見つかったら135ユーロも罰金を取られるんですよ…」

この金額が意味するところも、住む階層によって相当に違うことだろう。ある人にとってそれは馴染みのレストランでのランチ代に過ぎず、またある人には2か月ぶんの食費にもなりうる。思えばけっこうデリケートな額なのだ。

 ひとつ、ふたつ、と草をつまんでは順番に引っこ抜いてゆく。表通りの喧騒から切り離されて、中庭をつつむ時の流れはコンフィヌマンが続いているみたいに緩やかだ。

鉄柵で隔てられた隣の敷地から聞き慣れない言語が聞こえてきたので、背中を伸ばして覗いてみると、東欧風の顔立ちをした坊主頭の青年がふたり塗装道具を水で洗っていた。彼らにとっても隔離生活はさぞ大変だったことだろう。フランス政府の休業補償はきちんと受けられたのだろうか。故郷に残した親のことだって気がかりだろうに、こうして異国に踏み止まって額に汗して働いている。地理的に見れば彼らの祖国はフランスからたった数軒先かもしれないが、その距離を近いと見るか遠いと見るかは彼らが切符を買えるか買えないかにかかっているのだ。

 この世の「格差」というものに、今日は思考を引っ張られてばかりいる。そしてそう仕向けたのがオルセー美術館であることをぼくは知っている。というのも今朝、起き抜けでぼんやりとしたぼくの頭に、館のTwitter公式アカウントがこういうリツイートを放り込んできたのだ。

「1871年の今日(5月28日)はパリ・コミューン終焉の日。労働者の蜂起によって生まれた自治政府からパリを奪還するため、ヴェルサイユ軍が21日より市内への侵攻を開始。1万人から2万人の犠牲者を出した『血塗られた一週間』は28日に幕を閉じた」

ツイートには一幅の油絵の画像が添付されていた。

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マキシミリアン・リュスという画家による『1871年5月、パリの路』という絵で、
現在はオルセー美術館に展示されている。荒れた路上に打ち捨てられた亡骸はパリ市民とコミューン側兵士のものだ。凄惨な場面とは裏腹に、路地に差し込む陽光はいたって穏やかで、まるで今日の日差しを見ながら仕上げられたかのようだ。とりわけ石畳のうえの黄色や青や桃色を孕んだ乱反射のぐあいなど、眼下に広がる玉砂利のそれとまるで地続きのように似通っている。     (つづく)


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ぬくもり ~コンフィヌマンのテーマ~

 フランスのとある大手スーパーのテレビCMを素敵だなあと思って見ている。ぼくの部屋にはテレビがないので知るのが遅れてしまったのだけど、ロックダウンの解除に合わせて電波に乗ったものらしい。


Intermarché - Je désire être avec vous


流れているのはニーナ・シモンというミュージシャンの楽曲で、強いアクセントのあるフランス語で「独りでいるあなたのそばにいられたら」とひたすら繰り返している。画面が真っ白に転じたのちに黒字で現れる短いテロップは、「ようやく。」。
厳格な移動制限が布かれなかった日本でも帰省を諦めた人はとても多かったそうだから、ぼくと一緒にこのCMにじ~んとしてくれる方もいるのでは… と、ひそかに期待しているのだけど、どうかなあ?

 ぼくはこの歌をいたく気に入って、気がつけば日がな一日ひとりで口ずさんでいる。となりの姉妹は壁の向こうでさぞ気味悪がっているに違いない。しかし彼女らはふたり一緒に、ぼくは独りでコンフィヌマンを耐え抜いたわけだから、ぼくのほうがより強烈にCMに感化されるのは当たり前なのだ。文句は一切受け付けないし、一緒に輪唱してくれるのならそれは大歓迎である。

                   ・

 分断を余儀なくされた生活のなかで、音楽はどれほど多くの人の心を支えていたことだろう。世界中の国々で、ときには国の垣根を越えてミュージシャンたちは音楽を発信し続け、ぼくたちを慰めたり励ましたり、心の闇を取り払ったりしてくれた。ぼくもYoutubeなどで音楽をたくさん聴いたけれど、なかでもいちばん印象に残ったものをここにもうひとつ紹介したい。ブールヴィルというフランスのコメディアンが1963年に出した『La tendresse』という曲のカバーで、ぼくにとってのコンフィヌマンの公式テーマソングだ。拙訳の歌詞に目を通しながら、ぜひいちど聴いていただきたい。


Symphonie confinée - La tendresse


『ぬくもり(※)』

 富がなくとも生きられる
 金などほとんどなくたって。
 領主も王女も今となっては
 そんなにたくさん残っていない。
 でも、温もりなく生きるのだけは
 きっと耐えられたものじゃない。
 Non, non, non, non,
 耐えられない。

 名誉がなくても生きられる
 なんの証にもなりはしないから。
 歴史に名前が刻まれなくても
 満ち足りたまま暮していける。
 でも、温もりなく生きるだなんて
 そんな人生は考えられない。
 Non, non, non, non,
 考えられない。

 なんて甘美な弱さだろう
 なんて素敵な感情だろう

 生まれながらにぼくらが抱く
 この温もりを求める心は。
 ほんとうに、ほんとうに! 

 働くことも必要だろう。
 でも、もし何にもしないまま
 何週間も過ごせというなら
 それにも慣れてしまえるだろう。
 でも、温もりなく暮らすとなれば
 時間は長く感じるだろう。
 Long, long, long, long,
 あまりに長く。

 青春の火のただなかで
 喜びは生まれる。
 愛はいくつもの偉業をもって
 ぼくたちの目を眩まそうとする。
 でも、温もりがそこになければ
 愛にはなんの意味もないだろう。
 Non, non, non, non,
 なんの意味もない。

 人生が情け容赦なく
 あなたのうえに降りかかるとき、
 ぼくらはもはや打ちひしがれた
 哀れなやつにすぎない。
 ぼくらを支えてくれるだれかの
 胸の温もりがそこになければ、
 Non, non, non, non,
 先には進めない。

 子どもがあなたに口づけをする、
 あなたに会えて嬉しいからだ。
 すべての悲しみは消えさって
 両の目には涙が浮かぶ。

 ああ、神さま、神さま!

 あなたの深い御心と
 熱情をもって
 止まない雨を降らせてください、
 温もりの大雨を。
 日々が終わりを迎えるときまで
 愛がすべてを治めますよう。


 動画に登場するのはそれぞれの場所で隔離生活を送るミュージシャンたちで、フランスのほかにイタリアやスペインからも数名が参加しているらしい。投稿日は3月29日となっているから、新規感染者数の増加にいまだ歯止めがきかず、未来の見通しがまったくつかなかった頃だ。いま改めて曲を聴き返すとあのころ漂っていた世界の終わりのような雰囲気が思い出されて、ある種のノスタルジーさえ感じてしまう。

 今となってはそんなムードは社会に毛ほども残っていない。人々はもうマスクもせずに大胆不敵なピクニックなどしているものだから、果たしてこんな殊勝で慎ましい歌をみんな本当に聴いていたのか、馬鹿正直にうんうん言いながら聴いていたのは自分だけなのではないか、などとあらぬ疑念が脳裏をよぎる。しかし動画の再生回数を見れば、その数はじつに400万にも届こうとしているから、ぼくは確かにあの末法的なムードを相当多くの人々と共有していたはずなのだ。
彼らはどこに消えたのだろう? 今ごろどこで何をしているのだろう? いまだにマスクをしているあの人、もしかしてぼくとおんなじテーマソングだったかな? それとももっと何食わぬ顔で、たとえばマクドナルドの行列のなかに紛れていたりするのかな?
隠れていないで出ておいで。ぼくは仲間だ、笑ったりしないよ!

――「なにもしないまま何週間も過ごす」っていうくだり、すごく予言じみていると思わない?
――子どものキスが出てくる曲の最後の部分も、まるで事態が収束する日を夢に見ているみたいだし…
――でも本当に、ぼくたちはついに分かっちゃったね。歌が言ってるように、本当に必要なものなんて実はあんまり多くないんだよ… 
――コンフィヌマンが終わるころには、きっと人類は以前と違った生き方を望むようになって…

曲を聴くうちに、当時のぼくが誰かと交換したかったおめでたい感想の数々までもが蘇ってきてしまった。いまさら分かち合う相手もないのに、行くあてを探して頭上をくるくる旋回している。仕方がないから「もう一回見る」を何度も何度もクリックしては、ひとりで画面に向かってうんうん頷いているありさまだ。
じつを言うと、こうして曲を紹介したわけはここにある。このちょっと時代遅れになってしまった感動を、新たに誰かと分かち合えるのでは… とひそかに期待しているのだけど、どうかなあ?        

(※)tendresse という単語はよく「優しさ」「思いやり」などと訳されるのですが、それらの言葉はなんとなく物足りず、すこしだけ個人的な解釈で言葉を当ててしまいました。
2か月続いたソーシャル・ディスタンシングは人どうしの物理的な距離を広げるものだったから、そのなかで人が渇望した「優しさ」にはより肉体的な重みがあったのではと思います。思いやりや配慮といった精神的な優しさよりも根源的な、体温とともにそこにあるような優しさをぼくはイメージしたので、ここでは訳を「ぬくもり」としました。フランス語のテストでは間違いとされるかもしれないので、ご注意ください!

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ジョルジュ・ド・ラトゥールの『マグダラのマリア』。髑髏は死、ランプは生の儚さのシンボル。夜の静寂に自分の生き方を問うている。

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