ヒトヒラの記憶

人はどんな時も、大人で子ども。

人生分岐

旦那と仕事することになった。

理由は、ひと月後に私が手術をするから。

それまでに手伝い程度が務まるように育てる事。と言われ、それが私の手術の条件のように聞こえた。

 

旦那のことは、好きだ。

旦那がいれば子どもも必要ないと思えるほどに、精神的に依存している。実際これまで13年間ともに過ごしたが、子どもはいない。

旦那はいつも優しい顔で私を見守ってくれるし、何時でも“おかえり”と目を輝かせて私に飛びついてきてくれる。とにかく可愛い。可愛いんだよっ!!

 

反面、社会不適合者だ、と、いつでも嘆いていた。

 

正社員で長く続いたことがなく、いつでも優しさと責任感に押しつぶされて帰ってきた。“辛い”と言いながら、日に日に痩せていく旦那を見るのは……正直、私も辛い。

施設で先生をしたのを最後に、ここ2年程正社員についていなかった。

 

そんな旦那が、私の為に一肌脱ぐと言ってくれている。

7年間、私の仕事の愚痴を、これでもかと言うくらい大量に、幾度となく聞いてくれていたのに。それでも、私の仕事に首をつっこんでくれるという。

 

鉄壁のガードで守ってやりたい、と思った。

 

手術に条件を付けてくるような職場だ、精神衛生上宜しくないことは嫌でも分かる。人が足りないことも知っている。でも、身体の不調については致し方ないこと。

 

どうしよう。

何が言いたいかまとまっていない。

 

つまり私は、心配なのだ。

とても心配なのだ。

とびもりせまら

 

今更ですがとび森始めました。

三日前から。

でも、まだ始まっていません。

地獄のリセマラ真っ最中。

一度妥協して進めていたのですが、欲が出てしまいリセット。そこからまる一日リセマラ続けてます。

私とことんこだわりが強く、一度やると決めたら条件にバッチリ合う子じゃないとなかなか妥協ができない。しかもわがままなのでめちゃくちゃ要望が多い。

 

リセマラ終了条件

※駅は赤い屋根

※○芝

※斜め滝

※桟橋からRまでの距離

※特産りんご

 

です。

 

妥協できる要望

・池の数は2個以下

・役場は駅近

・役場の屋根は青か黒

 

 

 

何日、何週間かかるやら……

おかしな大人

 

 日本には、おかしな文化がある。

まぁ日本に限ったことではないのかもしれないけれど。

 

 差別はしてはいけません。というお決まり文句を、あなたも一度は聞いたことがあるだろう。

 親か、先生か、テレビか、ラジオか。その言葉はわりかしどこででも唱えられる、簡単、かつ解りやすい呪詛の言葉。

 

 なぜ、その言葉が呪詛なのか。

 

 幼少の頃から差別という言葉の意味を教わり、意識し、無意識に気にして、しまいには、やっちゃダメなことをしてみたい!という子どもの欲求が働く。

 

 どうしてそうなっちゃうのか、考えてみた。

 

 あなたも、一度はやったことがあるだろう。

 急いでいたから、赤信号を無視して渡った。

 面倒くさいから、横断歩道まで行かずにここで渡ってしまおう。

 歩道橋があるけど、自転車だし登ると疲れるから車道渡っちゃおう。

 自転車の扱いは車と同じだから、左車線を走る?そんな事してたら、自転車の意味ないじゃん。

 

 などなど。

上げだしたらきりがないけれど、大人になる過程で一度はやっている事。もしくは、やった事はないにしても必ずどこかで一度は目にしているはず。

 

 子どもはいつだって、早く大人になりたいと願うもの。

 そんな憧れの存在である大人が、子どもに対して“こんなことしちゃダメだよ”“危ないからダメだよ”と言ったことをやっている。

 それはすなわち、子どもにとっては“大人になったら、あれをやってもいいのか”という認識に少なからず、なる。無意識にでも。

 

 それを理解したうえで差別の話に戻る。

 要するに、子どもの頃からその言葉を耳にしていて“やってはいけないこと”とインプットされていても、当の大人が目の前でしてしまっては全く意味のない、むしろ逆の意味に切り替わってしまう。

 

 そして大人になる過程で無意識に“大人になったから、差別をしてもいいんだ”という感覚を持って成長する。

 すると小学校を卒業したあたりから、子どもは“そろそろ大人”と勘違いをするわけだから、その頃から差別がひどくなっていく。

 

 そうやって無意識に大人を見て育つ子どもたちに、大人たちは無意識に呪詛の言葉をかけて逆の意味として捉えさせてしまう。

 結果、いつまでたっても差別がなくならない社会が生まれる。

 

 つまり、私の言いたいことは。

 

 自分がやっている事を、子どもにやっちゃダメだと教えては逆効果になるよ。

と、子育てもしたことのない子無し既婚者のたわごとである。

 

 

 

変な癖

 

 他人の視線や目線が、どこを見ているのかを常に気にして生活している。

 人よりも表情の変化に敏感な私は、その人の表情や仕草でどんな人なのか、というのがあらかた、なんとなく、解ってしまう。

 人がどんなに隠して笑ってても、どんなに隠して叱っているふりをしていても、どんなに隠して喜んでいても、その裏に隠れているものを読みとって、その上で言葉を選択しながら会話をしてしまう。

 自分の体調が悪くて相手の表情を読めなくなると、ただそれだけでひどく落ち込んで、更に会話の中では失言を大量にしてしまった気になってしまう。

 

 百発百中ではないと思うけど、八割はあたっている印象。

 なのでお客様に対しても、プライベートで接客を受ける側になっても、その人の表情を読んで建前に隠れた何かを探してしまう。

 

 なので、私は外出するときほとんど旦那に付き添ってもらう。

 旦那がいるとそのバカみたいな観察力に蓋をすることができるし、馬鹿話をして笑いながら外出を楽しむことができるので。

 

 という、どうでもいい自分語り。

 たまにこういうこと吐き出したくなる。

 

 

同じ目線で

 

 私の仕事は、一期一会の仕事だ。

その上たった一時間の間に相手の要望を探り、形にしなくてはならない。

 私の中では、かなり高度なコミュニケーション能力を要すると思っているのだが、存外そういう認識で働いている人は少ないらしい。

 無難に終わらせることなんて、誰でもできること。必要なのは、こちら側の感性、センス、利益を超えた相手へのサービス精神。

 でも、私は会社に務めているただの施行員。会社が求めるものは、いつだって利益とスピード、無難な満足度。

 

 当たり前だ。会社は社員を養わなくてはならないのだから、利益を求めて当然だ。

 でも、だからこそ、いつか絶対にくる何年か越しの再会の時に、もう一度あの人たちにしてもらいたい。と、思ってもらえるような仕事をしなくてはならないのではないか。と、私は思うのだけれど。

 

 難しい。

掴めない

 

 祈るように言葉を紡ぐあの人が羨ましい。

きっと様々なものを読んだり、書いたり、描いたりしているから思考が活発で、インスピレーションにも敏感な人なのだろう。

 

 私達はこれだけ毎日日本語を話しているにもかかわらず、その言葉たちを上手に使える人はほんのひと握りである事がもったいない。

 才能があると言われる人は一般的に生きている人たちよりも、たくさんのことを考えて言葉を発しているからこそ魅力があるのだろう。

 なんてことない言葉が人を傷つけていたり、なんてことない言葉が人を元気づけていたりするのだけれど、その、相手の感情の変化を読み取ることができる人、気がつくことができる人の数が圧倒的に少ない。

 

 つまり、私の言いたいことは。

 

思いつき

 

 昔から、人とコミュニケーションを取ることは滞りなく出来ていて、むしろ得意な方だったと思う。

 しかし、歳を重ねるごとに人間の輪の中に存在する様々なルールを知り、少しずつそのルールにがんじがらめにされていくことが何よりも苦しく、辛かった。

 だからこそインターネットという環境に逃げ込んで、一期一会の付き合いを楽しんでいたように思う。

 人間の利己主義な欲と、建前ばかりのからっぽの言葉が嫌いだ。でも、世の中にはそれが行き交っていて、それは人と深く付き合うごとに増していく気がしてならない。