SUPERBALLING

とりあえず、好きなことともの。気になったことや疑問。あたりで書いてます。

物欲見返しリスト〜2017(もれあり)

久しぶりに見返して見ようと。めちゃめちゃもれあるぞ。。自分メモ

(見れなくなってるページも多くて寂しかったですが。ページ貼り付けだけじゃなく、単語でだけでも書いておこう。)

 

2018直していこう。ひとつめ。

前々からあまり深く考えてなかった(あと苦手意識?的なものがあった)けど、10年以上遅れてるような自分には、とても大事な気がしてきた。

 

note.mu

 

「周りを素直に褒められる人がいい」とは純粋に思っているけど、実際にそれができるかといえば、僕は確実に下手だ。変なお世辞にばっかり聞こえたら...とか、何か言いたい瞬間に多くの(いらないであろう)ことを考えてしまう。

(いや、そもそもお世辞の何が悪いんだ、ということもあったりするし。)

 

褒めるには「細かく見える」「素直に出せる」「言い切れる」とかって大事ですよね、きっと。

(後半ふたつは、お笑いの「必要な声量」的なところと近い気もする。笑ってもらうためにも安心感がいるし。)

 

まずこれらをできるためには、この「自己肯定感」から見つめ直していく必要があると強く感じた。

 

 

それじゃ今日は?といえば。

「仲間の晴れ舞台を、しっかりと見て、喜べたこと」が1番です。

メモ3/7

(前もちょくちょくメモってたけど、また、たまに。)

 

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ほぼ日刊イトイ新聞より』

横尾忠則さんの大きなテーマは、
 「すべては未完である」ということです。
 なにからなにまで、森羅万象の一切が未完である、と。
 「達成感」とか「完成」とか「目的」とかを、
 頭から排除しちゃってる‥‥のだと高らかに語ります。
 これ、言うのは簡単ですけど、
 ほんとうにそう思えるかと言えば、なかなかむつかしい。
 でも、その感覚を我がものにすることができたら、
 もしかしたら「達成」とは無縁の「万能」と「自由」を
 得られるんじゃないかと思うんですよね。

 学校にいるときから、いつでも人は、
 もうちょっとあれができたらとか、これが不得意だとか、
 できるけどまだまだだとか‥‥いかにも、その先に
 「ちゃんと満点」があるように思っているでしょう。
 でも、仮にその満点を得た次の瞬間には、もう、
 次のできないことが待っているわけですから、
 達成なんて、いつも過去のものになっちゃうんです。

 それは能力の面だけじゃなくて、人間としての、
 性質にまでおよんでいるわけで、
 経験を積めば積むほど、じぶんの弱いところだとか、
 じぶんのいい加減なところだとか、汚いところだとか、
 悪いように思える不完全なところが見えてきます。
 幼いころ若いころにはじぶんの弱さも見えにくいので、
 しっかり生きた人ほど、じぶんのダメさに気づきます。
 それを、直そうとしても、なかなかそうはいかない。
 でも、「未完」を前提にしたら、どうでしょうか。
 どうせ「死んでも未完」なのですから、いまは、
 もっとじぶんに合ったことをしようと思えてきそうです。

 弱いことを強くしたり、悪いところを直したりするのも、
 なにかやりたいことがあってやるのなら、いいですよね。
 でも、ただ「完成」に近づくために直すくらいなら、
 それは無理だから(どうせ「未完」なのだから)、
 しなくてもいいということでしょうね。
 それをやめただけで、どれくらい自由になれることか。
 よく考えてみたら、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで、
 だれでも極楽往生できると言った人も、
 横尾さんと同じ「未完」思想だったのでしょうか。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
おれはおれを直さない。直っていたら、それをも直さない。

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動けもしないで「目的」とか「達成感」とか、そんなところばかりどうしても、ずっとずっと考えてしまう自分にうんざりだからなのか、書いておきたいと思った。

「飴ちゃんになりたい」という救い。

僕はいつまでたってもしょーもないですが、

「しょーもなくても笑って誰かに会える人」って、それだけでずいぶんと強い人だな、と思う日々でした(です)。

 

「お互いがつらい時にでも、会えて時間を共有できるのが友人だ」という言葉を聞いたことがあるけど、その意味で僕は、だいぶ多くの友人と疎遠になった自覚はある。

 

とかなんとか、けっこー前からたびたび流れるこれを見るたびに痛感する。

 

youtu.be

 

もう戻れそうもない人たちがたくさんいるけど、飴をカラカラ渡しにいきたいと思える人がまだいる。それが救いというか、セーフティー機能の一つではある。

 

あと、たまに見返すグリコは、本当にいろいろとあぶない。良い意味ですよ。

Twitter貼り付け曲まとめ27

メモ10/9~16

1週間ごと。

 

メモ9/3(日)

 

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ほぼ日、今日のダーリンより

・5月に「おれはひと月休むぞ」とか宣言したけれど、
 なかなかそううまく行くものでもなくてね。
 それでも、連休も数えたら、3分の1くらいは休んだ。
 休んだといっても、予定を決めないというだけで、
 結局仕事はしていたのだけれど、
 「予定を決めない」ということの「偉大」を感じた。

 いまの時代のぼくらは、予定とか、計画とか、目標とか、
 そういうものがないと動けなくなっている。
 そのことを、当たり前だと思いこんでしまっている。
 それ以外の方法やら生き方が、ありえないかのようにね。
 予定、計画、目標、戦略、
 スポーツなんかでも、問われるし、
 企業でも問われるし、社会人だけでなく学生も問われる。
 「そういうものはないです」などと言ったら、
 無責任であるとか、バカじゃないかと思われたりもする。
 そうなのかもしれない、そのほうが確率や効率がよくて、
 わかりやすくて、運や人間の個性に頼らなくてもよくて、
 さまざまなことが説明しやすくなるのかもしれない。
 だから、あらゆることに予定や計画や目標が必須なのか、
 といえば、そういうものでもないでしょうと思うのだ。

 予定も計画も目標も、いわば「打算」である。
 「勘定すること。損得を計算すること。見積もること」
 であるわけで、別にわるいことではないけれど、
 岡潔のように語るなら、こういう考えだってある。
 「このくにで、善行といえば
 少しも打算を伴わない行為のことである」。
 ぼくのこころのなかには、そっちの気持ちもある。

 最初の話にもどろう。
 5月に、少しでもぼくが休みをとってできたことが、
 「予定を決めない」ということであった。
 そこで、予定を決めなくてもだれに迷惑をかけるでもなく
 困ることも悲しむこともなく過ごせることを思い出した。
 じぶんを困らせることもなかったし、
 自然にやってくる運命を、そのまま尊ぶ気持ちだった。
 予定や計画や目標を、しっかり勘定できるばかりが、
 人にとって世にとって大切のこととはかぎらない。
 こんなこと言うだけで、怒る人もいそうだけどね。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
自分がどれほど打算的かを言えると、できる男と言われる。

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