ITエンジニアは意外と淘汰されない。

エンジニアプライベート勉強問題は半年から一年くらいの周期で大きく取り上げられ、毎回炎上する。

そして最近また炎上している。

axia.co.jp

毎回炎上を見て楽しむだけなんだけど、今回は自分の近況と微妙に重なるところがあったので記事を書いてみることにした。

 

言いたいことは、

「何も言わなくてもプライベートで勝手に勉強してくれるエンジニアがそこら中にいるので、そうでないエンジニアは淘汰されても仕方ないよね」

でおしまいなんだけど。

 

以下、ぐだぐだとなんか言う。

 

まず、炎上した記事は半分ウソ入ってると思うので真に受けてはいない。

Aさんも伸び悩むというか、周りのエンジニア達にどんどん後れを取る状況に悩むようになり、ある日相談を受けました。どうしたらAさん自身も周りのエンジニアのように成長できるのかと。

そこで私は「成長したかったら勉強するしかないんじゃないか?」と普通のことを言いました。するとAさんは、絶対にプライベートで勉強はしたくない、プライベートで勉強することは人生の無駄遣いでしかないと反論してきました。

何度も言うように、プライベートで勉強しないことについて私は何の反論もありません。ただしその結果については自分で責任を持ってねというだけの話です。

Aさんの要求は、プライベートでは勉強したくない、でもプライベートで勉強している他のエンジニアと同じように成長したいということだったと思われますが、正直こんなこと私に一体どうしろというのか。

Aさん支離滅裂すぎないか。病んでないか。または頭悪すぎないか。

何かしら間に何かあったものを省いてるでしょ。

仮にAさんがこの通りの人間だったなら、採用過程に全責任があるよね。

 

で本題に戻るんだけど、この業界は勉強が好きな人が多い。

勉強会も活発に開かれてるし、プライベートで勉強を続けている、というのは面接で大きなアピールポイントになる。

大きな影響力を持つオープンソースプロジェクトだって、発端は「俺の考えた最強の〇〇」を個人が趣味で実装してみた事だったりする。

職人や実験科学者やらとは違い、パソコンさえあれば誰でも参入できる分野である以上、プライベートの活動が個人の評価につながるのはごく自然な成り行きだと思う。

(ちなみに数学者は寝ても覚めても一つの問題を考え続けると昔のNHKの番組で聞いた。プライベートで勉強しない数学者はどの程度いるのだろう。)

 

パソコンが大学や会社にしかない時代が続いていれば、プライベートでの勉強など求められなかっただろう。

でも残念ながら現実はそうなってはいない。

 

一方でIT人材の需要は高い。

プライベートで勉強するかどうか関係なく、とりあえず頭数が欲しい、という声は多い。

そういった「頭数が欲しい」領域では、頭数を揃えるために有無を言わさず教育が施されるだろう。そうしないと何も進まないのだから。

で、「頭数が欲しい」にもかかわらず、プライベートで勉強しろ、というのは筋が通らない。それでは何も進まない。何もできない。

 

IT業界には「高度な能力を持つ人間が欲しい」という声と、「頭数が欲しい」という声がそれぞれあり、人によって聞こえる声が違うのだろう。

自分の能力を売る人間はプライベートで勉強するべきだし、そうでない人間がプライベートで勉強する必要は全く無い。

ただ、自発的に勉強できる人間がうようよいる業界で、そうでない人間がいつまでも良い評価を受け続ける保証はないよね共産主義じゃあるまいし。

 

とは言っても、少なくとも私の周りでそんな淘汰は観測されてない。

プライベートで全く勉強しないのは当たり前で、それどころか言われたことを全部無視してゴミみたいなコードを平気でコミットする(これは知識でなく知能の問題だけど)奴でも、普通に昇進してる。

プライベートな勉強は業務と無関係だったりするので、昇進と関係ないのは当たり前っちゃ当たり前だけど。

 

で、最初の言葉を繰り返すけど、

「何も言わなくてもプライベートで勝手に勉強してくれるエンジニアがそこら中にいるので、そうでないエンジニアは淘汰されても仕方ないよね」

この言葉は、私のいる環境において予測される長期的な傾向を私の感覚で汲み取って主語をでかくしたものになる。

淘汰される、というのは「クビになる」という意味より、「会社ごと潰れる」という意味合いのほうが大きいかもしれない。

 

少なくとも私の周りでは、短期的に見ればこれは成り立たない。

長期的に実際どうなのかって言うと、明言するためには統計的データが必要なので誰か頑張って取ってくれ。

 

 

映画版BLAME!、超糞脚本でした

なんかレビューサイト見るとなんか評判良いよね。

私は駄目だったけど。

まぁ、美術は良かったよ。
女性キャラがやたら胸を強調するデザインになってて違和感あったけど。
引きの絵になるとBLAME!感が出ててよかった。

でもストーリーやら演出やらが最悪だった。
と言っても私個人が求めているBLAME!に対して物凄いミスマッチだった、というだけの話なわけですけど。
具体的な点を挙げると、「日本アニメによく見られるストーリーや演出がテンプレ的に適用されていた」という点に尽きる。
そういうのに違和感を感じない人は気持ちよく見れるんでしょうね。

例えば霧亥が、そこら辺の人を助けて村に招き入れられるじゃないですか。
すると、その後「おいこいつ誰だよ」「信用できるのか」みたいな村人同士のやり取りが何度も何度も何度もあります。
私にとっては、この手のテンプレなやり取りは全て糞要素にしか感じられませんでした。無駄。
原作にはそんなくだらないシーン殆どないのに。

初期の二瓶作品に出てくる村人ってだいたい皆優しいんですよね。
だから人情ストーリーなんてほとんど生まれない。そこが良い。
私にとっては、BLAME!の魅力って少なくともストーリーにはあまりないんですよ。
ギレルモ・デル・トロ監督も弐瓶勉の画集か何かで「言葉が読めなくてもBLAME!は魅力的だ」的なことを言ってましたけど。

映画は二時間ありますけど、基本的に一つの村の周辺でのお話です。
「10年待ったのよ」「最低800時間です」のような心躍る展開は存在しません。
珪素生物も出てきません。もちろんサナカンは出てきますけど。
敵は駆除系だけです。
建設者も静止画です。
シャキサクは出てきますが、シャキサクしてません。
登場人物は皆長々と自分語りします。 大体が「私悲しいよ」で済みます。無駄に間を取るのでクッソテンポ悪いです。長くとも2コマで済ませろ。
あと泣きます。
とっても人情深いです。
プリキュアでやれ。

その他テンプレ(例に関しては物凄いうろ覚え。):

  • 一人キャラクターが喋ると、別のキャラクターがその内容を繰り返す。
    • 例: 「貴様はセーフガードの素体だ」「素体…」
  • キャラクターが喋ると、別のキャラクターがそいつの名前を紹介してくれる。
    • 例: 「よし、霧亥をそこまで連れて行け」「おやっさん…」
  • キャラクターが何かを発見すると、何を発見したのか必ずつぶやいてくれる。
  • 喋る前などの謎の喘ぎ声(「んっ…」「あっ…」等)
  • 戦闘ものに有りがちな薄っぺらい豆腐メンタル要員
    • 好きな人が死ぬとそいつの名前を繰り返しつぶやく
    • 「〇〇が死ぬはずない!」から「しっかりしなさい!」って活を入れられる一連の流れ。
  • 終始「こんなやつ信用できんのかよ」「理屈はわかるけど、どうにも信用できねぇんだよな」しか言わないピエロ
    • たまに舌打ちもする。
  • 探しものをしている主人公、物分りの良い長老、血気盛んで主人公に反感を持ってる若頭、しっかり者の女の子、とそこらじゅうで見るミーティング風景。
    • このキャラ紹介だけでミーティング風景がありありと想像できる。そしてそれをそのままなぞるだけの糞脚本。

「こんな村、開始30分で焼き払って話進めましょうよサナカン先生」って感想しか湧いてこなかった。
プセルの無慈悲さを見たかった。
望遠鏡を覗いてるだけの無害な珪素生物をぶち殺す霧亥が見たかった。
巨乳で可愛くて親友のピンチには無我夢中で駆けつけるような糞みたいな女の子に涙を流される霧亥なんてみたくなかった。

おしまい。

映画「虐殺器官」 糞映画でした。

特に細かく語るつもりはないんだけど。

原作ファンも多いだろうし。

と思ってたけどそこそこ細かく書いてしまった。

 

面白い部分もあったよ。

SFガジェットって、やっぱり出てくるだけでやっぱり惹かれるし。

だから、世界観説明を兼ねたガジェットがたくさん出てくる前半部分はそこそこ面白かった。

 

でも後半になってストーリー進行中心になるともう見てらんない。

ストーリーが致命的に穴だらけ。

登場人物の言動も全然論理的じゃない。

細かく言ってもしょうがないけど、

「お前政府に感情から何から全部モニタリングされてるんじゃないのかよ」

「お前合理的な判断が得意だったんじゃないのかよ」

「なんでカウンセリングの効力知ってるくせに言語学スペシャリストとホイホイ話ししてんだよ」

「なんであの女の言葉を無条件で信じてるんだよ」

「なんでEDダブステなんだよ。月光にしとけよ」

etcetc...

虐殺器官そのものに関する種明かしも穴だらけで馬鹿みたいだったし。

もうツッコミがとめどなかった。

席が真ん中じゃなかったら抜け出してた。

 

まぁね、私にとって最近ドストライクだった「シンゴジラ」「この世界の片隅に」なんかもストーリーが完璧だったかって言うと、そうでもないよ。

 

でも上記の2映画はとにかく演出がすごかったんだよね。

勢いで持っていかれた。

だから映画見終わったあとの満足感はすごかった。

 

虐殺器官」の場合、序盤は演出良かったのよ。

特に月光をBGMに進んでいくシーンは良かった。

でも後半になるとそんな演出もなくなってきて、もう見てらんない。

(かと思えば最後の最後で、演劇で見るような大仰な演技を突然始めたりするんだけどね。

ラストのホテルの一室でのやり取りは本当に見てらんなかった。

そして女はどこから出てきたんだよ。舞台袖からか?

エリート戦闘員のガバガバクリアリングにも呆れた。)

 

基本的に、エンターテイメントである映画のストーリーに完璧な合理性なんて求めてない。

完璧の判断基準も個人次第だしね。

それにエンターテイメントと合理性を両立できる優秀な脚本家なんてどうせ存在しないんでしょ。

なので、演出。

 

どんな糞映画だって、一箇所でも凄く光る演出があったらそれだけで見る価値はあったと思えるもの。

なのに演出って脚本やキャストに比べて批判の槍玉に上がらないよね。無いわけじゃないけど。

 

虐殺器官も、良い演出はあったのだけど、凄く光る、と言うほどではなかった。

ストーリー重視にしたかったのかな。

大失敗してるけど。

「この世界の片隅に」見た。泣いた。

この世界の片隅に」見た。

というわけで映画見た人にしかわからないような感想を書く。

 

そもそも、この手の映画(感動特化型)って基本的に見ない派なんだけど、

やたらとこの映画を持ち上げまくる記事(凄いところだと「宮﨑駿や新海誠よりすごい監督が出てきた」的な)を見てきたので、なんとなくふらっと豊洲まで足を運んだわけです。

 

私は基本的に映画で泣く事なんてなかなか無いんだけど、今回泣きました。

どのシーンがどうこう、とかじゃなくて、映画全体の持つ熱量に押されて泣いた感じ。

 

そりゃあ、「あ、ここで泣かせに入ってるんだろうな」ってシーンはちょこちょこあるよ。

でも本当に泣けてくるのは、そういった感情的なシーンが終わった後に、日常的なシーンが普通に差し込まれてくるところね。

そこでこれまで沢山流れてきた日常シーンが、凄い熱量になって流れ込んでくるわけよ。

 

普通の人間って感情を吐き出した後、急激に通常のトーンに戻るよね。

でも実際は感情を押し殺しているわけで、感情を吐き出した後は通常状態になる以外に行動のしようがないんだよね。

それがとても涙を誘うわけよ。

 

本来ならここでその他大勢の映画のクソショボ感情表現演出を批判しても良いんだけど、せっかくの余韻が汚れるのでやめる。

 

あとはあれかな、表現が多彩でよかったね。

主人公が絵描きで芸術家気質があるもんだから、夢想的な表現が多かった。

その表現の意図というのが常に一方向(脚本の意図が透けて見えるようなやつ)を指しているわけではなくて、主人公の心象風景をそのまま垂れ流している感じでよかったね。

例えば、主人公が落ち込んでいるところに、その頭をやさしく撫でる顔の見えざる大きな手。

これ、普通は想い人の手だよね。

またはその後主人公と親密になるキャラクターの手。

でも違う。

嫁ぎ先のお父さんの手。

かといってその後お父さんが活躍しまくるかといえばそうでもなく、過去にお父さんとの決定的なエピソードがあったわけでもなく、ただ「その時頭を撫でてくれたのがお父さんでそれが主人公にとってとても印象的で、それでとても救われた」から。

すごくリアル感出てて良いと思う。

 

最後に、好きなシーン2つ。

1. 最初のシーンで、船を降りた後に風呂敷で包んだ重箱っぽい荷物を背負う所。

一度壁と背中の間で重箱を挟んで固定してから、風呂敷の端を首の手前で結んでうまいこと背負うシーンね。

ああいう日常動作を流れ作業的にテキパキこなすシーンは実写だろうとアニメだろうと不可欠だよね。なんか省略される事が多いけど。

この映画は「日常」に焦点を合わせた映画なんだけど、そのなかでもこのシーンの日常感は郡を抜いて好き。

初めの方のシーンということもあるけど、「ドジ」とラベルの貼られたキャラクターにもかかわらず器用な作業を難なくこなしているのがとても印象的だった。

「この映画ではキャラクターはストーリーを進めるための道具ではなく、この世界で生活している人間なんだな」と初めて感じたシーンだった。

そしてその感覚は幾つものシーンで何度も味わうことになる。

 

2. この映画で最後にセリフを発するシーン。

好きと言っておいてあれなんだけど、最後のセリフちゃんと記憶してないんだよね。

「あの子の来ていた服、着れるかしら」だっけ。たしかそんなセリフ。

あの言葉を言う時、お姉さんは何を思っていたのだろうと考えると泣けてくるが、

当の本人はきっとある程度克服していたはずなのと、新たな同居人のお目見えという特殊イベントの流れに押されてその言葉が出たのだろうと思う。

あの服を取り出してからセリフを発するまでの時間に、私は少し身構えてしまった。

しかし当然、それは無駄な身構えだった。

あの世界の住民が、あの場で感情を吐露するはず無いのだから。

そこは私達の住む世界と地続きになっているもう一つの世界であり、創作の世界にありがちな違和感とは無縁の世界なのだから。

 

こんな感じ。

演劇好きな人なんかは合わないんじゃないかな(偏見)。

地味な表現多いし、演劇好きって露骨な感情表現が大好きで違和感とか感じないんでしょ(超偏見)。

そういう人から見たら退屈な映画なんだろうと思う。と見えないサンドバッグを殴りつけておく。

逆に演技過剰な邦画やらが大っ嫌いな人には合うんじゃないかと思うよ。

純粋挨拶不要論

挨拶の必要性に関する個人の認識って親の教育に依存するよね。

なのに「挨拶しない=人として最低」って言う人いまくるよね。

 

私は両親からそういった教育を受けてこなかった人であり、おそらくそれが大きく影響して挨拶不要派に属している。

とはいってもあらゆる挨拶が不要だと思っているわけではない。

 

この記事を書いた意図は私が言いたいことを言いたいから。

別に誰も言ったことのない新しい論考をするつもりはなく、おそらくどこかで言い古された論だと思いつつ書いてゆく。

きっかけは転職先の社長が挨拶大好きおじさんだったこと。

と、これ。

b.hatena.ne.jp

あと会社の清掃員が嫌々感を出しまくりながら義務的な挨拶するのがすごく不愉快だったから。

なお、きっかけと意図との関連は無い。

 

  ◆  ◆  ◆

 

私が努めている会社は数千人規模のそれなりに大きな会社なんだけど、

その会社の社長が社員に向かって「私に挨拶しろ」って言ってるわけよ。

まぁ、するわけないよね。

 

挨拶はコミュニケーションだって言う人いるけど、私は挨拶はコミュニケーションに入らないと思ってる。

この時点で私と考えの異なる人が沢山いるんだろうと思う。

ただ、残念ながら私は挨拶しただけで「あぁ、コミュニケーションしたなぁ」と感じたことはない。

この感覚は個々人の幼少期の教育に起因するのかもしれない。

というわけで、これ以降の話は「挨拶はコミュニケーションに入らない」を前提として話を進める。

 

私にとっての挨拶とは、コミュニケーションのきっかけである。

初対面の人と話をする時に挨拶なしにコミュニケーションを取ることはない。

気心知れた間柄でも、形式張った形ではないものの何らかの形で挨拶と同様の機能を果たすアクションや言葉でコミュニケーションのためのきっかけを作成している(「ねぇねぇ」とか、肩を叩く、とか)。

 

「その人と関わりのない状態」から、「その人とコミュニケーションを取っている状態」へと遷移するために必要な中間状態が挨拶である。

 

では、社長に挨拶をしてコミュニケーションが成立することはあるだろうか。

10000000%無い。

社長は一般社員の事などいつのまにかに湧いて出てそこらじゅうを這い回る虫だと考えているのだろうし、おそらく目を合わせてくれることさえ無いだろう。

当たり前だ。

身分が違いすぎるのだから。

 

特に日本とはただでさえ他人とのコミュニケーションが発生しない文化だ。

身分の違いがあればなおさらである。

 

故に人間関係がフランクな国では挨拶が盛んなのだろう。

海外では偶然エレベータで乗り合わせたとか、そんなきっかけで他人との会話が始まったりするらしいし(ソース不明)。

だったら挨拶するよね。

 

なので、どうしても社員に挨拶させたい社長はそこらじゅうの社員に片っ端から話しかけて、天上人たる社長さんともコミュニケーションが発生しうるということをアピールすればいいんじゃないですかね。

そしたら挨拶されますよ。

社長がそんなことするなんてありえないけどね。

 

以上が社員目線の話。

 

じゃあ社長目線からなぜ挨拶を要求するのか考えてみると、多分

「社員に無視されるのが嫌だから」なんだよね。

そりゃ自分の会社で社員に無視されるのは嫌だよね。

でも社長は自分の会社の社員なんて虫ケラか何かだと思ってもいるんだよね。

その心情を悪意を持って翻訳すると、

「私はあいつらのことなんてどうでも良いが、あいつらは私を崇拝しなければならない」

ってことになるんじゃないかな。

まぁ、仕方ないよね。

社長がいないと社員は困るが、社員が一人二人消えたって社長は困らない。

で、

無視されるのが嫌

 ↓

無視以外の行動を取れ

 ↓

挨拶させよう

という思考回路で挨拶に行き着いたのだと思われる。

つまり、挨拶の後のコミュニケーションを期待した挨拶ではなく、「我々はあなたを無視していませんよ」という意思表示のための挨拶。

このタイプの挨拶を求めているのであれば、社長に対しての「社員とコミュニケーション取れば挨拶されますよ」なんてまったく明後日の方向のアドバイスだよね。

 

私にとっては最初に話した「コミュニケーションのための挨拶」というのが挨拶たるべき挨拶で、「意思表示のための挨拶」とは別の名前がついてほしいとさえ思う。

このタイプの挨拶は本当に何の意味もない、いわゆる「挨拶のための挨拶」だ。

 

で、私はこの手の挨拶が大嫌いだ。

子供やビル清掃員がただの義務でこういった挨拶をするのは不愉快極まりない。

店でもそうだ。

コンビニや飲食店のような店員とのコミュニケーションが発生しうる状況での挨拶なら良いが、ブックオフなんかでは客が誰も入ってきていない状態でも既存の客に対して「いらっしゃいませ」と言う。

社長も寂しいのは我慢しろ。

マンション住人もどうせ子供とコミュニケーション取る気なんかないんだろ。挨拶なんてやめちまえ。

 

なので、「挨拶もできないとは社会人失格だ」と言われているのを見るとゲンナリする。

 

まともな教育を受けた人はそんな事は感じないみたいなので、言ってもどうしようもないことだけど。

 

挨拶の起源としてはどちらが先なのだろう。

とか思うけど興味もないのでここで終わる。

 

この記事のタイトル、不要論とか言ってしまったけど、論じゃないね、これ。

シン・ゴジラ 良かったんだけど...

シン・ゴジラ 見てきた。

本編開始前にクッソ陳腐な映画の予告編を半ば強制的に見せられたのはものすごい苦痛だったが、本編はめちゃめちゃ面白かった。

この映画って、やっぱりとっても語りたくなる映画なので、語る。

うろ覚えな記憶を基に語っているので間違いはいくつかあると思うけど、語る。

 

まず、邦画お決まりの糞寒いテンプレが少なかったのがとても良い。

デモに対してノーリアクションで眠り続けたり、

総理一行の死を知らされても誰一人瞳孔開いてプルプルしながら「嘘だろ...」って呟かなかったり、

馬鹿でもわかる綺麗事をピアノアレンジBGMをバックに叫ぶ奴が一人もいなかったり、

一人がセリフ喋ってる間に他の人間が棒立ちじゃなかったり、

etcetc...

 

冒頭のシーンで、海に赤い液体が浮いているっていう描写もとても気持ち悪くて良かった。

その後のしっぽもすごく不気味で良かった。

ゴジラ第一形態の気持ち悪さもすごくツボを突いてくる気持ち悪さだったし、

最終形態での大暴れシーンは本当に絶望的だったし、リアルに描かれた人間や社会がそれに立ち向かう様は本当に素晴らしかった。

 

ただ、概ね良かっただけに、ものすごく残念な箇所が一点あったのが悲しい。

ゴジラの遺伝子数が人間の8倍で、「地球上で最も進化した生き物」って言ってた箇所。

あれは、ないだろう。

遺伝子数と進化度合いの間に関連性がある、というのは創作でありがちなミスの典型例として広く知られているものと思っていたのだが...

仮にこれが「人間の100兆倍の遺伝子数」とか言われたら、私は「人智を超えた生物なんだね!」って理解を放棄して納得してしまうので、そこんとこもう少しぶっ飛んでいて欲しかった。

 

あと小さな残念ポイントを上げるなら、こんな感じ。リアル志向な映画なので、細かい点をあげたらきり無いけど。

・ノーパソでなくて、デスクトップPCでマルチディスプレイで作業する研究者が一人くらい欲しかった(移動に不便なので非現実的だけど)

ゴジラの目を狙って欲しかった

ゴジラが放出した熱量を何かと比較して欲しかった

・冷却液がホースから発射されてゴジラの口の中に入っていく描写が欲しかった

・冷却液を射出する車両は東京駅以外にも多数配置されていたはず。そこを描写して欲しかった

ゴジラの倒れる位置を予測して伝達する描写が欲しかった

ゴジラが凍るシーンでは皮膚を薄青くして氷っぽさを演出する必要はなかった

ゴジラの体温が下がっていくシーンをサーモグラフで見たかった

他にもいくつかあった気がするけど忘れた。

 

あと個人的には石原さとみがすごく要らなかったんだけど、最低限の華がないといけないのだろうし、最後のシーンが無いと映画的に締まらないので仕方がないのかな。他にもっとうまく演じてくれる人はいる気がするのだけど。

ただ少なくとも、

ゴジラ、まさに神の化身ね...」(うろ覚え)

は要らない。絶対要らない。

あれはこの映画に組み込まれた数少ない糞寒邦画テンプレセリフだった。

 

ちなみに一番好きなセリフは

「動くの!?」

「そりゃ生物ですから」

考察するふりだけする奴の気持ち悪さについて


news.nicovideo.jp

 

この記事がクッソ気持ち悪かったので毒抜きのために愚痴愚痴言います。

 

何が気持ち悪いかって、「俺は中立派なんで、賛成反対どっちの意見もニュートラルに聞きますよ」ってこれみよがしに主張してるところね。

で、結局

「判断つかないね。閉廷!」

で終わってること。

 

道徳の時間じゃねんだよ。

 

「小中高の教員にありがちな誰も傷つけないように気を遣った話し方」というのが元来大嫌いなので、それを思い出してとても気分が悪くなりました。

 

ネットとTVの乖離を紹介するという体の記事ならともかく、

記者という個人を記事の登場人物にして色々考えてるふりして終わるって、とても糞だと思います。

 

記事の流れはこんな感じ

 

ネットでは鳥越にたいしてこんなこと言われているよ。不評だよ

記者「同感するところが多いのである」

ところがTVではその逆だよ。好評だよ

記者「私やネットの意見はひねくれものなのか。」

記者「投票まで特になにもしないで静観するよ。」

 

記者、何も考えてないよね。

 

ネットの意見に同意する理由は「意見の内容に同意したから」で、

TVでの評判から「私やネットの声はひねくれ者たちの雑音にすぎないのだろうか」って判断した理由は、コメントを出した有名人が「百万人単位の視聴者が欲しがっている言葉を口にすることでテレビに出続けている、世間の空気読みのプロ」だから。

 

こいつ、何も考えてないよね。

 

で、具体的な考察するのが難しいかって言うとそんなこともない。

だってネットとTVで見てる所違うんだもん。

記事内で挙げられたネットやTVの引用文を見ると、

「ネットでは実務能力を問うていて、テレビでは人柄を問うている」

という視点の違いがあることは明白。

こんなん中学生でもできる考察だろうに、

なにが「こういうときは政治から距離をとろう。」だ。

 

ネットでは選挙後に焦点を当てていて、TVでは選挙自体に焦点を当てている、という見方もできる。

TVでの反響にしたって『TVタレントはその職業の性質上、人が人を評価する際に好感度というものがどれほど大きな影響を与えるのか、嫌というほど知っているはずだ。故に実務能力以上に好感度の評価に重きをおいているのではないか。事実、前都知事は...』

的な事言えるんじゃないのか。

実際のところは誰かの操り人形になってるだけかもしらんけど。

 

両者の意見に焦点の違いがある以上、考察の方向性はいくらでもあると思うし、どっちつかずの結論に持って行くにしてももっとやり方があっただろう。

 

記者自身の意見を何も言わず、他人の言葉だけ紹介するだけなら最初からそういう形式を取れ。

「同意するところが多い」とか「私はひねくれものなのか」とか、何も言ってないのと同じだろう。

 

他人の意見だけ紹介だけして、記事の締めに

情報集めをするとまた何か言いたくなるかもしれないので、都知事選の話題は7月31日の投票日までの間、紙の新聞をゆっくりめくるだけにする。

って、クソ過ぎませんかね...。

"また何か言いたくなるかも"って、今回の記事でも何も言ってないのと同じなんですが。

 

 

こんな記事書くと「この記事自体も何も言ってないというオチ」みたいなメタネタ言いたがる奴多いですけどね、まぁ、なんというか、特に良い返す言葉はありません。