守るべきモノがある人間の『最適解』と、守るべきモノのない人間の『最適解』はちがう

banashi1.hatenablog.com

山奥ニートこと葉梨はじめ氏が、子育てのために山を降りるという。

私は人生の選択肢はあればあるほど良いと考えている人間で、オルタナティブな生き方を模索実践する氏の活動にも興味を持っていたので残念な気持ちがまったくないと言えば噓になるが、実際問題山奥での子育ての過酷さは容易に想像できる。

青年期/結婚期/子育て期/退職後。人生のステージに応じて生き方の最適解は変化する。その変化に人生を対応させていくのは個人として至極当たり前の話だろう。子供という守るべき存在ができれば、「普通」の生き方から外れた自由な人生を歩むことは難しい。


“ 守るべき存在ができれば、「普通」の生き方から外れた自由な人生を歩むことは難しい”

なるほどこれは真理だろう。しかしこの真理は、逆方向からこうも言い換えることができる。すなわち、

“ 守るべき存在がいなければ、「普通」ではない自由な人生を歩むことができる”


翻って私を顧みてみれば、ひとりのアラフィフ子無し未婚おじさんがそこにいる。守るべきものは特にない。であれば、そんな私は逆に自分の人生をもっと自由に生きてもよいのではないだろうか。


これまでの私はまだ「普通の人生」に未練があったので、それなりに「一線」を超えないよう自重して生きてきた。しかし50代も近くに迫り、人生の終点も仄かに見えてきたいま、いまさら結婚子育てするような「普通の人生」へ戻ることは現実問題むずかしい。であれば真にやりたいことを真に自由にやる方向へと人生の舵を切った方がよいのではないか。残りの生を太く短く悔いの残らぬよう、精一杯生きることを目指すべきではないか。それこそが私の人生における「最適解」なのではないか。

守るべきモノがある人間の最適解と、守るべきモノのない人間の最適解はちがう。守るべきモノのない老い先短い老人には、守るべきモノも未来もある若者にはできない生き方が可能だろう。そしてそれはひとつのポジティブな「可能性」なのではないか。そんな事を考えた。