弱さと強さの脱構築
40年間くらいの人生をざっくり振り返ると、
僕は、全然僕はこういう感じではないのだけど、1番を目指そう、強くなろう、強いことは幸せだというような価値観の中を生きてきました。
 こういうのが相対化されていく出来事があるわけです。本を読んでいても、周りにも、弱いままで、ありのままでいい、弱くていいんだ、弱いことがいいんだというベクトルのメッセージのあるものです。
僕はどちらも通り抜けてきて、どちらもにも良さと歪みのようなものがあると考えています。
どちらも人によっても、本によっても一様ではなく複雑です。弱さを語っていても、よく読んでみると、この世界に対する柔軟さ、しなやかさのような、そこに強さが含まれていたりするわけです。
その脱構築の先には、しなやかさ、柔軟さのような真の強さとは何かみたいな話になってきます。「シンウルトラマン」「シンゴジラ」みたいな感じでしょうか(「シンゴジラ」しか観てないですけ)。
脱構築しても、また今のように二項対立の表し方から逃れることができないということに出会い直します。
一つの結論としては、こうやって考え続けることが大切だということ(そんなことか、自分でも思うけど、これは、一つは、それぞれの極端に対する歪みにはまらないためにです。それは自分も他の人も不幸にします)。僕の仕事としては、考え方を子どもたちに伝えていきたいと思います。この複雑、差異を知りつつも、一般化もして、賢明にこの世界で幸せに生きるための、姿勢、考え方、スキルや知識を得ることの助けに少しでもなりたいです。
もう一つの結論は、ゴルディロックスの原理、中庸、中道です。どちらも極端に振れればひどい歪みがあり、人を不幸せにすると思います。どちらの歪みについて具体例をあげて説明できそうですが、やめておきます。
こうやって、昔の哲学者や宗教者の結論に落ち着くというのもまたいいのかな。

神経細胞は、使えば強くなるし、使わなければ弱くなるという原則がある。

弱いままでいいよという、そういう側面もあるけど(この方面の話を聞いたり読んだりかなりしてきました)、最初から、はじめから、こういうスタンスは、良くないと思います。真意はあって、それはいいけど(一理あるけど)、極端に誤解されている部分があるように思う(そういう本で言われているところって、単純に弱いか強いかって話でもないんですよね。脱構築的な読み方ですけど、そうなると思う)。

色々あるけど、子どもたちに、自分らしく、その人らしくしなやかに強く生きていってほしいと思う。幸せに生きていってほしいと思う。弱いままでいいし、幸せでなくてもいいじゃんという境地もあるだろうけれど。強くならないと幸せになれないのかという疑問はあって、確かにその通りだけど。

不要なものや強さがなくても、この瞬間から満たされるような生き方、考え方をすることはできると思う。しかし、それも、一つのしなやかさ、強さだと思います。

無駄死にはしたくないから賢明に、捧げる覚悟があるところに一つの安穏があるように思う。

守りに入りすぎると、逆に不幸になっていくような面が人生にはあるように思う。

ああだこうだ考えて、教育におけるフィードバックの定義をまとめたら、こうなった。
「フィードバックとは、教育経験から得られる、教育経験の改善に繋がる情報である。」
これで評価をフィードバックに含めることができる。
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 フィードバックとは、教育経験から得られる、被教育者の理解や教育経験の改善に繋がる情報のことである。
ちょっと、教育における、フィードバックを定義してみた。
「フィードバックとは、教育実践から得られる、被教育者の理解や教育実践の改善に繋がる情報のことである。」
フィードバックは、教育者にも被教育者にも役立つ情報だから、教育実践という言葉だと、教育者よりになってしまうかな。教育経験だと、生成する経験ということで、どちらもというニュアンスを込めることができると思う。
フィードバックというのは、被教育者について知ることができるけど、教育者の実践がどうったのか、どうすればいいのか、そういったことに繋がる情報でもある。
だから、シンプルに「フィードバックとは、教育経験の改善に繋がる情報である。」これでいいかもしれない。もしくは「フィードバックとは、教育実践から得られる、教育経験の改善に繋がる情報である。」
「教育経験から得られる」よりも「教育実戦から得られる」の方がいいかもしれない。フィードバックが得られるのは、教育実践だけではないか。どこから得られるかを限定する必要ないか。実践そのものと、実践から生み出される例えば、子どもの作品は関連があっても別のもの。それぞれ情報として捉えることができれば教育者にも被教育者にもフィードバックになる。
シンプルにやはり「フィードバックとは、教育経験の改善に繋がる情報のことである。」、これがいい。
いや、これじゃダメだ。教育経験の改善に繋がる情報は、フィードバックに限らない。どこから得られるのかという限定は必要だ。元に近くになるかな。「フィードバックとは、教育経験から得られる、教育経験の改善に繋がる情報である」経験という広い概念にしてしまえば、教育実践も子どもたちの作品や声なども全部含めることができる。教育の極限概念を考えたことが、役立ったかもしれない。
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業務スーパーのうま味調味料、普通によかった。味の素もそうだけど、7、80点の料理を作るのにいいらしい。僕としては、7、80点の料理を作れれば十分なのだ。リュウジさんのレシピをアレンジしているけど、普通に栄養満点で美味しい。

しかし、エクセレンスの倫理はどこにいったのだろうかwロン・バーガーに憧れているだけなのかもしれない。なんでもエクセレンスの倫理を求める必要はないか。僕は、仕事をもっとよくできるようになりたい。

ユーフォニアム3を見て、久美子が部長になって人間関係の調整など頑張っている。このアニメは、普通に努力することを価値づけるような前向きな作品なのだ。久美子たちが演奏を上手くなりたいのと同様に、僕は、自分なりに仕事をもっとよくできるようになりたい。ここには、それなりにエクセレンスの倫理があるかもしれない。

休日読書。
フィードバックは、教育用語として比較的新しいけど、評価よりも重要。フィードバックに評価は含まれる。評価はフィードバックの一部に過ぎない。というのは、僕の捉え。先行研究は、フィードバックを形成的評価の一部だと説明している。
しかし、自分は、フィードバックの情報を評価よりも広いものとして考えていて、実際にそうだと思う。
 教育は、価値を目標としているので、この本の説明もわかるけど、なにか教育を設計してやってみて受け取るフィードバックは、直接、教育目標に関することだけではない。それに関するフィードバックの多くがより大切であることは、間違いないだろうけど。具体的には、教育実践をして受け取る、子どもたちの表情、作品、テストの結果、テストをした後の形跡なども含めた情報、全てを教育のフィードバックとして捉えています。被教育者には、経験の総体として、どのような情報つまりフィードバックがあるのか。そのフィードバックは、もっと広く多様であるはずです。教師も被教育者も教育経験によってどのようにフィードバックを発信し受け取り自己調整していくのか。作品を通して、興味関心など被教育者に対する理解が深まるかもしれない。それは教育目標と直接関係がなくても、次の教育設計などに活かすことができる。日記を読むと、その人を新たに発見することがある。そのことは、書くことの目標とは関係のないことだが、これからの判断に影響を与える。
この本で紹介されている先行研究のフィードバックの捉え方は、僕の捉え方よりも狭い。でも、フィードバックだけを主題にした、教育の専門書は、ほとんどなくて、ものすごく参考になります。
世の中の研究は、どれも相対的なもの。僕は僕の捉え方でいい。そこに妥当性があれば。
この本、すごくいい。とても参考になる。
ただ、この本で、フィードバックは形成的アセスメントの一部とされているが、総括的アセスメントもフィードバックの一部だ。そこから、教育者も被教育者もフィードバックを受け取るから。それが、意味あるフィードバックになっていないとしたら、総括的評価なんて無意味だからやめた方がいい。だから実際には、逆ですよ。フィードバックの中に形成的アセスメントも総括的アセスメントも他の種類のフィードバック情報も含まれるという関係になっています。
https://www.amazon.co.jp/教育の効果:フィードバック編-ジョン・ハッティ/dp/4589042460/