何の変哲もない、平均的な

高校野球のこととか

帝京無念 リード奪えず - 連投エース、気丈に去る(2007.08.20)

第12日目 準々決勝 第1試合 帝京(東東京) 3-4x 佐賀北(佐賀)


外を狙った、はずだった。13回2死一、二塁。帝京・垣ケ原が投じた166球目は、思いとは裏腹に真ん中に入る。


自慢の制球力を保つ左手の握力が落ちていた。「終盤は球が抜け出していた」。中堅に打ち返された。「しまった」も「クソッ」も顔に出さず、本塁に駆け寄る。「まだ外野送球がある。きっと刺してくれる」


ずっと2番手だった。前田監督の評価は右腕・大田に次ぐ存在。「落ちこんだこともある。でも、最後の夏。そんなことは言ってられない」。東東京大会は4試合に登板。大田や2年生の高島がとらえられた試合を立て直した。


転機は甲子園が決まった直後。神宮球場のロッカーで、監督が垣ケ原の「背番号1」を提案し、みんなが認めてくれた。「うれしかった。でも、その時だけ。エースには責任がある」


この試合、先発の高島が早々とつかまり、3回から連投で登板。疲れで万全ではなかったが、縦に変化するスライダーと、内外角を的確に突く直球で粘った。


13回。返球は本塁まで届かなかった。皆が守備位置に崩れ落ちても、唇をかみ、こみ上げてくるものを必死にこらえる。


「エースが感情を表に出してはだめ。僕が暗い顔をすると、周りが心配する」。最後の夏でエースになった男は、最後までエースの哲学を守り抜いた。(山下弘展)


(朝日新聞、2007.08.20東京朝刊17面)

安房・佐野巧投 - 低め集中、堅守信頼(2008.03.23)

第3試合(1回戦) 安房(千葉) 2-0 城北(熊本)


騒然とする場内をよそに、佐野は落ち着いていた。0-0の均衡が続く8回。三塁手の佐藤が邪飛を追ってカメラマン席に飛び込んだ。「心配で見に行きましたが、大丈夫そうだったので」。研ぎ澄ませた集中力を打者だけに向ける。


2死一、三塁。「必死のプレーの後で点を取られるわけにはいかない。流れが悪くなる」。気合も入った。一塁走者に二盗されても動じない。スライダーを低めに突いて二飛に打ち取った。


速い直球を投げ、鋭い変化球で三振を奪う。いつも思い描いている理想の投球を、城北の村方に見せつけられた。「かっこいい。でも僕は、僕の投球をするしかない」。


三振の山を築く相手のペースに惑わされることなく、130キロに届くかどうかの直球と少し変化するスライダーで、ひざ元だけを狙って投げた。


ピンチに陥るたび、制球はさえる。4回以降は毎回走者を背負ったが、「高さの失敗がなかった」と早川監督。長打を許さず、味方の体を張った守りにも支えられ、本塁を踏ませなかった。


「僕の球はキレもないし、力もない。安打を打たれない投手じゃない。だから粘り強く低めに投げる。そうしたら、みんなが守ってくれると信じてます」。昨年の公式戦防御率3.72は、出場36校の背番号1のなかで最下位タイの35番目。たとえ数字は悪くとも、投手として一番大事なことを、安房のエースは知っている。(山下弘展)


(朝日新聞、2008.03.23東京朝刊19面)

秋田、土壇場の「花吹雪」 失策なんか気にしない(1986.3.27)

第1試合(1回戦) 秋田(秋田) 3-2 高松西(香川)


低めによくコントロールされ、右打者のふところ深くシュートでゆさぶる高松西・新鞍に秋田打線は手を焼いた。ゆっくりとしたモーションから、くるりと「1」をつけた背中を打者の方にむける変則投法が、さらにタイミングをとりにくいものにしていた。


雪にとじこめられていただけに「守りのミス」には目をつむるつもりではあった秋田とはいえ、1回は捕逸、2回は内野手の失策がいずれも失点に結びつき、リードされたまま試合は早くも終盤。「このまま……」の思いがスタンドをおおいはじめていた。


だが、8回の攻撃前、ベンチに選手を集めた小野監督は「まだ2回もあるじゃないか。じっくり攻めよう」。それに応えた攻撃は牧野の死球を足場に2死三塁。2番の長嶋が2-0と追い込まれながらもよくくらいついて中前タイムリーでまず1点。


左腕の2年生、斎藤新がその裏を3人でピシャリと抑えた。


9回の先頭打者は4番で主将の捕手・高田。チームきってのロングヒッターながら、この試合は新鞍に幻惑され、それまで三振、三ゴロ、二ゴロ。ところが打席に入るとき、「この場面ならホームランを狙ってやる」と思い切っていた。ボール1からの2球目カーブが真ん中に入ってきた。鋭く振り出されたバットは白球をみごとにとらえ、打球はすばらしい角度で飛び出した。瞬間にそれとわかるホームラン。主砲に大会第1号が出て同点になれば、秋田の押せ押せムードは一層勢いをもつ。1死後、佐藤健が右前打すると、迷うことなくすかさず二盗。2年生の石井も右前にはじき返し、最後の最後で一気の逆転だ。


「満足な守備練習がやれなかったので、試合はおそい方がいいと思っていた」のに、開幕第一戦を引き当てた秋田だが、スタートこそミスが出たものの、その後粘り強く追加点を与えなかった地道な試合運びが土壇場の「舞台」を引き出したといえよう。


秋田の甲子園練習をみた池田・蔦監督がふともたらした言葉は、「うーん、ええチームじゃ。旋風を巻き起こすかもしれん」。


21年ぶりの甲子園出場、センバツで、初の校歌を歌いあげたナイン。どんな風を呼ぶのか。楽しみでもある。


(毎日新聞、1986.03.27東京朝刊16面)

箕島、剛腕・山沖を攻略 右左にバント、好球必打(1977.04.08)

最終日(決勝戦) 箕島(和歌山) 3-0 中村(高知)


試合の始まるころには、日がさした。そして陽光の中にふさわしい試合だった。


中村はあの開幕戦の戸畑との試合からこの優勝戦まで、いつも笑顔の中で戦った。ピンチに立つたび、山沖投手は笑った。3回に栗山に打たれ先制されたときは、困惑した表情で笑い、6かい、追加点をあげられたときは、苦しそうな顔で笑った。そういう山沖に残りの8人も、ベンチの3人も、いつも笑いかけていた。


四国の辺地から12人でやってきたこの一枚岩のように団結したチームは、甲子園で戦う喜びと素朴さを、なんのてらいもなく、どの試合にもぶちまけた。負けて泣くものなど一人もなかった。そんな必要はないのだ。こういう中村に箕島の尾藤監督は無性にひかれ、中村が準々決勝、準決勝と勝ち進むころ、選手たちに「うちと中村がやるときには、オレはベンチで中村の応援をしていよう。お前たちは死にもの狂いでやれ」。ちょっぴり真情もこめていったりした。


いざゲームとなるとそうはいかない。箕島は天理から13三振を奪った山沖を崩すのに知力のすべてをかけた。高目のタマを捨て、直球にしぼって好球必打。右に左にバントでゆさぶる。


3回、嶋田はみごとな右へのドラッグバントを成功させ、山沖攻略のきっかけをつかんだ。嶋田は初戦、3三振し、トップから9番に下げられて燃えあがった。「初球から打つ」決意で全身をふくらませて、2回戦以後を打ちまくった。


この嶋田と、注射で肩の痛みをおさえて4日連投に耐えた東がそのまま、箕島の「気力と意地」を表している。


第40回大会で初めて紀州のみかん畑の中から出てきて以来、小柄な尾藤監督に率いられた箕島が、気迫でゆさぶったためしはない。この大会でも名古屋電気、智弁学園、中村――相手が強いほど力を出した。


中村は初回、1死二塁で三盗に失敗し、6回にも二盗に失敗した。ヒットエンドランのサインもれで「はじめて、ベンチと選手の糸がずれました」と市川監督。


4回には無死走者が出たあと、植木が初球を打って併殺。東が最も制球に苦しんだあたりだった。優勝戦の重みが、あの気性の明るい中村の選手にやっぱりのしかかっていたのだ。


試合が終わって、箕島の先制打をたたき出した栗山は、首を傾げ「山沖君は疲れていたみたいです。天理のときみたいな球を投げられたら――」。その山沖投手は自分の球威の衰えなど口先にも出さなかった。「箕島はみんなすごい目をしていました。好球は一つも見逃してくれなかった。ボクはもっとカーブをおぼえなくちゃあ」。笑顔で脱帽した。


土佐の真っ白い波と、紀州の燃えるようなみかん色がまぶしいようなさわやかな試合だった。(八代)


(毎日新聞、1977.04.08東京朝刊19面)

「ニコニコ野球」さわやかに去る - 甲子園わかせた浦和市立(1988.08.22)

観衆5万人の阪神甲子園球場が、「うわあーっ」と、ひとつのため息と化した。


浦和市立最後の打者松岡英明君、投ゴロで、一塁にアウト。第70回全国高校野球選手権大会朝日新聞社、日本高野連主催)に初出場、21日の準決勝に進出した浦和市立は、ついに、広島商に敗れた。打っても、打たれても笑い、ストライクが入っても、ボールとなっても笑顔を見せながらの「全員ニコニコ野球」は、甲子園に、さわやかな風を残して、去った。「ここまで来たとは、信じられません」と、口ぐちに言う選手たちに、大観衆から惜しみない拍手が送られた。


涙はなかった。試合が終わって、引きあげてくる選手たちは、いつものようにニコニコしていた。「きょうは最高の出来でした。みんながよく守ってくれたから全然緊張しませんでした」。したたり落ちる汗にも構わず、五試合を投げ抜いた星野豊君は、笑顔で、インタビューに答えた。


手には、はち切れそうにふくれあがった袋が二個。ベンチ前の土をとって引きあげようとする星野君をグラウンドキーパーが引きとめた。「マウンドの土を持って帰ったら」と。自分の汗がしみこんだ土を、ベンチ入り出来なかった同じ3年生投手の分も詰めた。


そばで、主将のそう*1手克尚君も、笑っている。彼はいつも全力疾走した。守備位置の左翼につく時も、三塁ベンチから一目散にかけた。敗れたときも、まっ先にベンチを飛び出し、本塁に整列するため、全力疾走した。「僕は守備も一番下手だし、バッティングもだめ。せめて全力疾走することで、みんなの信頼を得たいと思っていたんです」。


中村三四監督(36)も笑顔だった。「負けたのはちょっと悔しいけれど、選手たちが甲子園を思う存分楽しんでくれたのがうれしい」。好きで野球をやるのだから、楽しんでやらなければと、「楽しむ野球」が口ぐせだ。「私も甲子園が夢でしたから」といって、中村監督は、ベンチ前の土をひとつかみつかんでポケットに入れた。


朝日新聞、1988.08.22東京朝刊31面)

*1:「そう」の字は草かんむりに隻。

青春譜 マウンドを踏めなかったエース - 国士舘・小島紳二郎投手(3年)(2000.08.01)

ついに一度もマウンドを踏むことなく、エースの夏が終わった。「すまなかった」と泣き崩れる小島投手に、仲間さえ掛ける言葉が見つからなかった。


138キロの直球とチェンジアップのコンビネーション。鋭くコーナーを攻めるカーブと「何事にも動じない精神力」(永田監督)で相手打線を封じ込め、昨秋の都大会優勝、6回目のセンバツ出場に導いた。「今大会屈指の本格左腕」と、プロ野球関係者も注目していた。


ひじの痛みに襲われたのは大会直前の6月下旬。日米野球の後だった。さまざまな治療を試みたが、大会が始まっても痛みは治まるどころかわき腹にまで広がっていった。準々決勝で一度はブルペンに立ったが、そこで断念。それ以降、ボールも握っていない。


だが、チームは大黒柱を欠いたことで発奮。「みんな、あいつに甲子園で投げてもらうまでは絶対に負けられないと、一つになった」(大木拓哉左翼手)。


あと1勝すれば悲願の夏の甲子園。「もし僕が投げられたら」。この日、試合を見守るベンチの中で何度か考えた。だが、ひじの痛みを思うと、ベンチから見たマウンドはやけに遠く見えたという。


兄も同じ悲運に泣いた。小さいころからライバルだった兄雄一郎さん(19)=創価大2年=も2年前、主軸として創価高をセンバツに導きながら、開幕直前の左足骨折で入場行進さえできなかったのだ。父で会社員の雅彦さん(48)は「兄貴の分まで頑張ると言っていたのに。あいつのことだからきっと何も言わないでしょうが、これからの長い人生でいい勉強になったはず」と、スタンドから息子を見守った。


監督就任18年目の初制覇を逃した永田監督は「小島のことは残念だけど仕方がない。あいつには絶対、野球を続けてほしいから」。小島選手のことを話すうちに、監督の険しい表情は笑顔に変わっていった。(合田月美)


毎日新聞、2000.08.01東京朝刊23面)

「石ころ野球」から三年で大輪育てる - 甲西・奥村監督(1985.08.21)

ヒゲの源さんが、ついに甲子園を去った。準々決勝まで三試合とも逆転勝ち、しかも二度までが9回の逆転サヨナラと乗りに乗っていた甲西も、PL学園には歯が立たなかった。「でも、大手を振って滋賀へ帰れます」。学校創立三年目で甲子園の夢を果たし、あれよあれよという間の準決勝進出。ユニークな発言で人気を集めた奥村源太郎監督の締めくくりの言葉は「3点足りなかった」だった。


「高校生のバッティングとしては考えられない水準」(同監督)のPL学園を相手に「10点差以内ならウチの勝ち」という筋書きだったからだ。選手たちをリラックスさせる方便のつもりだった。ことは思惑通りに進みはしなかったが、「たとえば、金岡は清原君にも逃げずに立ち向かった。指示通りのライト打ちもできた」。やるだけのことはやった、という満足感がある。


滋賀・甲賀高(現水口)で二塁手だった。中京大を出て、40年に信楽、47年に甲南高へ。相次いで硬式野球部をつくった。58年、甲西の開校とともに監督に就任、石ころだらけのグラウンドを自分たちの手で整備することから部の活動は始まった。名づけて「石ころ野球」。


甲子園での四試合を振り返ると、やはり逆転サヨナラの久留米商戦、東北戦が頭に浮かぶ。「あのゲームを忘れんと人生を送れ。苦しい時は思い出してほしい。そう選手たちにはいいます」と源さん。甲子園の思い出として「背中で感じたスタンドの拍手」をあげた。銀屋根の一般ファンから期せずしてわいた拍手のうずのことだ。


21日には新チームの練習を始める。24日からは甲賀地区リーグ戦が予定されている。「ベスト4の味をかみしめるヒマは、なさそうです」。人なつっこい大きな目は、早くも「次」へと向かっていた。


朝日新聞、1985.08.21東京朝刊18面)