TomyDaddyのブログ

毎日の健康管理の記録、新聞、雑誌、書籍等の読書について感想を書いていく。

 「ヰタ・セクスアリス』(森鴎外)を」読み継ぐ〜 これは自伝だ ~『東京都同情塔』に跳ぶ

 『ヰタ・セクスアリス』(森鴎外)を」読み継ぐ〜 これは自伝だと思った。まだ十三歳まできたところだ。主人公の少年(鷗外)は仲間たちとたわいのない学校生活をしている。どこから、この本が「発禁」になるような展開になるのだろうか?

 ここまで読んできて、そういえば、第170回芥川賞受賞作『東京都同情塔』を読みかけていたのを思い出した。導入部分のみを読んで一カ月も放っておいた。それを急によみたくなった。読み始めた。読み始めたら面白くなった、。この若い女性(精々32歳か33歳くらい)の書いたものが、『ヰタ・セクスアリス』よりも饒舌に語りだした。これも人間とはなにか」を書いているのだった。

 『ヰタ・セクスアリス』(森鷗外、新潮文庫)を読んでいる ~面白い、「ガチャ」ってあるんだ、鷗外は生まれも育ちもよい

ヰタ・セクスアリス』(森鷗外新潮文庫)を昨日から読んでいる。これが頗る面白い。単に面白いというのではなくて教養と知恵と知識に溢れている。やはり生まれ育ちがあるのだと知った。「親ガチャ」は確かにあるのだ。これは自伝的な幼少期からの小説なのだ。主人公は生まれた津和野から父親の仕事の転勤で東京・本郷界隈に十歳ころに移って来た。

 <十三になった。
  去年お母様がお国からお出でになった。
  今年の初に、今まで学んでいた独逸語を廃めて、東京英語学校にはいった。これは文部省の学制が代わったのと、僕が哲学を遣りたいというので、お父様にねだった為である。東京へ出てから少しの間独逸語を遣ったのを無駄骨を折ったように思ったが、後になってから大分役に立った。>

 すべからくこういうような文体である。十三歳というと、中学一年生だ、私の場合は。お父様、お母様と両親のことをいうのである。育ちがよい。何はともあれこの本は面白い。もっと早く読みたかった。

(今日は、ここまで)

 気になる本を書いておく。
(1)『一億三千万人のための「歎異抄」』(高橋源一郎朝日新書、891円)
<他力本願ってなんだ。地獄とはどこだ。ふるえるほどわかる。戦乱と天災の中世に生まれた『歎異抄』が、」みずみずしい「ぼくたちのことば」で蘇る。>
 この本を読んでみたい。

(2)『死を生きる―訪問診療医がみた709人の生老病死』(小堀鴎一郎、朝日新聞出版、2420円)
 <介護の現実、在宅死と病院死、命を終えるための医療・・・。普通の人びとの死が、死と向き合う勇気を与えてくれる。>

 小堀さんは森鴎外の孫なのだ。数年前に小堀さんの講演を拝聴したことがあった。どこできいたのだろうか?医学ジャーナリスト協会の講演会かもしれない。

 私の「医人」たちの肖像―(250)向井千秋さんと小川聡さんの対談「宇宙空間における循環調節」のこと

(150)私の「医人」たちの肖像―向井千秋さんと小川聡さんの対談「宇宙空間における循環調節」のこと

 1995年2月17日(金曜日)、午前11時~13時にかけて東京・芝のプリンスホテル三階のレストラン「ボンセジュール」で宇宙飛行士の向井千秋さん(宇宙開発事業団、当時)と小川聡さん(慶応大学・循環内科、教授)の対談を収録した。向井千秋さんは言わずと知れた日本人女性初の宇宙飛行士であった。1994年は7月8日~23日、スペースシャトル・コロンビア号で宇宙にとんだ。1998年10月29日~11月7日にスペースシャトルディスカバリーで二度目の宇宙に行って来た。従って1995年2月と言えば、最初の宇宙飛行から半年チョット後のことだった。向井さんは慶応義塾大学医学部の外科医出身だったから同学の小川教授の申し出に寸暇の中で応じてくれたのだろう。この対談は、 その当時に私が従事していた医学書院で発行していた雑誌「呼吸と循環」の対談企画であった。この日は雑誌担当のYK氏と私が進行した。対談のドラフト(メモ)は次のようであった。
テーマ:宇宙空間における循環調節■
(1)無重力状態での循環器系の順応について
・短期的あるいは長期的
・地上でのhead down tilt 試験などの模擬環境と実際の宇宙環境での相違は?
(2)無重力環境の医療への応用は可能か
・宇宙で治せる病気はあるか?(循環器系を中心に)
・宇宙でかかりやすい病気は?
・いびきの問題(睡眠時無呼吸は治るか)
・遺伝子と無重力、等
(3)宇宙での緊急事態発生時の対応について
・医師としてどのような訓練、教育を受けていったのでしょうか?
不整脈心筋梗塞などへの対応はどうするのでしょぅか?

 上記の対談は、雑誌「呼吸と循環」の第43巻9号(1995年8月号)に掲載予定であった。掲載したと思う。バックナンバーが手元にないので内容にふれることができない。いまから29年前のメモがでてきたので記憶と記録のためにここに纏めた。向井千秋さんも小川聡さんもご健在である。できれば、その後の展開に今後触れたいので、ここに記録した。

(この対談は実に興味深い。雑誌を探して読んでみたい。)

 

『ヰタ・セクスアリス』(森鷗外、新潮文庫)を読み始めた

 森鷗外のこの有名な小説『ヰタ・セクスアリス』のタイトルだけは知っているが読んだことがなかった。先日、稲城図書館の返却棚で偶然に見つけて借りてきた。読み始めた。こういう話なんだ。

 <哲学講師の金井しずか(さんずい、甚)君は、かねがね何か人の書かない事を書こうと思っていたが、あるひ自分の性欲の歴史を書いてみようと思いたつ。六歳の時にみた絵草紙の話に始り、寄宿舎で上級生を避け、窓の外へ逃げた話、硬派の古賀、美男の児島と結んだ三角同盟から、はじめて吉原に行った事まで科学的な冷静さで淡々と描かれた自伝体小説であり掲載誌スバルは発禁となって世論を沸かせた。>

 本のカバーに書いてあったのを転記した。そういう小説なんだ。これから読み進める。鷗外は軍医それも超偉い地位にあったのだ。ドイツに留学して、ドイツから女性が日本医追いかけてきた。『舞姫』はそういう話だったろうか?ともあれ、読み進める。

 合気道の土曜日稽古は久し振りに遠藤師範の指導で思う ~片手取り、正面打ちから当たりと結びの稽古から

 私にあるとすれば「病と言う才能」「貧しさという才能」くらいと思ったりしていた。貧しい家に育ったので良い意味での経験の蓄積がないのだ。食にしても美味しいものを食べたことが無いので味が貧しいのだ。人間が優雅ではないのだ。立ち居振る舞いがガサツであり美しくないのだ。これは逐一が美しい合気道とかけ離れたものではないか。

 本日の稽古の参加者は9名のみであった。遠藤師範はいきなり片手取りから捌いて相手を倒さずに支えて練る稽古の基本を示してくれた。動きはすべからく下実上虚であった。それと、間の取り方である。片手取りの際に相手を引き寄せるのではなく自らが身体を寄せることで間が狭まる。その逆もあり詰まってしまったら少し動くことで自分の間にすれば相手が崩れることになる。ことほど左様に合気道の稽古は難しいものである。

 今日の気になる本はこれだ。
(1)『こうして、人は老いていく―衰えていく体との上手なつきあい方』(理学療法士 上村理絵、アスコム、1540円)
・身心が衰えたままで日々を過ごすには、まだまだ人生は長すぎる
・体の老化の改善は、やる気や意欲などの精神的な老化の改善につながっていく

・歩けなくなるのが嫌なら、脚力をつけるよりも「バランス筋」をほぐすことが大切
・背中が丸まってよちよち歩きになるのは「抗重力筋」が衰えているから
・背中が丸まってしまうと、転倒しやすくなり、起き上がりもつらくなる
ウオーキングでは、寝たきり予防に必要な筋肉が鍛えられない
・ベッドと布団、体の老化を防げるのはどっち
・家族との同居で体を衰えさwせないために気をつけるべきたった人酢のコツ

 「最近、年をとったな」と感じる人に是非読んで欲しい一冊です、と宣伝にあった。

 「動ける体」がよみがえる驚きの最強メソッド。

 著者は女性か男性か?いいことが書いてあるのかな?

 「やすむ力 労働者の国は休暇の大国!」(『ロシアの中のソ連 さびしい大国、人と暮しと戦争と』、馬場朝子)を読み継いでいる

 「オブローモフ」はロシアの作家ゴンチャロフの作品だ。主人公オブローモフは何人もしない怠け者の代表として有名だ。それでも生活できている貴族の倅だからだ。読んだことがあるはずだ。ロシア文学科の学生たちは、『オブローモフ」や「エセ―ニン」に憧れたりした。

 馬場さんの「やすむ力 労働者の国は休暇の大国!」を読むと、「そうだよな、ロシア人てほんとうはゆっくり休むのが好きないい人たちなんだが・・」と思った。

 <ロシアの人たちが一年のうちで最も楽しみにしているのは、夏のバカンス。長かった冬の雪が溶けはじめると、夏のバカンスの計画に余念がなく、職場でも夏をどう過ごすかが話題の中心になる。ロシア人たちの休みにかけるエネレルギーには常日頃驚かされる。>

 そういうことなんだそうだ。帝政ロシアの時代からではないらしい。

 <1917年、社会主義を目指したロシア革命が起こり、その後、「労働者の国ソ連」が誕生した。ソ連政権は面子をかけて労働者の休暇制度に力を入れた。1967年までに年12日、その後は15日、職場によって追加され、寒冷地の労働者は45日、学術研究所員は24~48日などとなった。>

 ということはソ連の労働者はゆっくり休んでいたのか?働いても働かなくても給料は同じだからというわけでさぼるのが普通だったらしい。1991年にソ連が崩壊したあとでロシア文学者の中村健之介さんが「国民劣化の70年」といったタイトルでソ連時代の70年間にロシア人がどんなに怠け者でぐーたらな国民になったかを書いていたのを読んだことがある(何かの雑誌への寄稿であった。コピーがファイルにあるかもしれない。)

 続く

「4 パスツール研究所の黄金期を支えたメチニコフー波瀾あ人生を歩んだ異才」(『インフルエンザウイルスを発見した日本人』山内一也))を読む

 インターフェロンの発見者が長野泰一という日本人だということは世界で認められているのだろうか?わからない。長野泰一の名前は知っている。いま読んでいる山内保がインフルエンザウイルスの発見者だということは国際的には認知されてはいないのだろう。

 <知られざる医学者 山内保とは誰か。黄金期のパスツール研究所に連なる病原体の狩人たちの研究のドラマ。>
 これが本書の表紙の宣伝文句である。その通りの面白さだ。メチニコフはロシア人である。

 <エリ・メチニコフは1845年5月16日、退役軍人の父とユダヤ系の知性的で美しい母と野中流家庭で、五番目で最後の子どもとして生まれた。メチニコフの姓は、17世紀にピョートル大帝の家庭教師で、中国大使をつとめたモルダビア系の父方の祖先のなめに由来する。>
 1845年といえば、私が生まれた1947年より102年前に過ぎない。「17世紀にピョートル大帝の家庭教師・・・」だなんて、そんなルーツが本当に分かっているんだとしたら名門の生まれとなる。母がユダヤ系としてもメチニコフもユダヤ系というのとは違うだろう。
 面白い記述(コラム)を見つけた。「日本と強い絆をもった次兄のレフ・メチニコフ」というものだ。日本に来ていたメチニコフはお兄さんだったbのだ。

 <メチニコフの7歳年上の兄、レフ・メチニコフは明治の初めの日本と強いつながりがあった。革命家として活躍していた彼は、(19世紀の帝政ロシアで革命家とはどういうことか?)1871年パリ・コミューンが勃発すると急遽パリに行き救援活動に奔走したが、コミューンは短期間で敗北した。その時、極東で起こった革命、明治維新のニュースに接し、日本に強い興味を抱いた。すでにヨーロッパ13カ国の言語に通じていた彼は、ジュネーブで日本語を教えて貰える人を探し、1872年、偶然、大山巌(後に陸軍元帥)に出会い、彼から日本語を教えてもらい、レフがフランス語を教えることになった。大山は、ヨーロッパの軍隊制度を調査しながら日本の大学で教鞭をとれる人材を探していた。そこで、ジュネーブを訪れた大久保利通、つづいて木戸孝いんにレフを紹介した。木戸とは五時間も日本語で話をしていたという。最後に岩倉使節団が訪れ数カ月滞在した。その間、日本語での会話や文通を通じて、意見を交換した結果、彼は日本に招聘されることになった、
 1874年(明治7年)、レフは東京外語大学のロシア語教師として赴任した。体調がすぐれなかったため、二年弱の勤務に終わったが、彼は日本を愛し、1881年に『日本帝国』という700ページを超すフランス語の大著を書き上げていた なお、メチニコフの長兄は、トルストイの小説『イワン・イリッチの死』で、ふとした不注意な事故が元で病気になり、身内や知人からも精神的に見捨てられ、孤独と苦痛の中で寂しくしんでいく高級官吏イワンのモデルになった人物である。>

 あまりに興味深いのでコラムを全文引用した。メチニコフが書いた『近代医学の建設者』(宮村定男訳、岩波文庫、1968)も手に入るので後で読んでみたい。また、引用したコラムにある『イワンイリッチの死』のモデルがメチニコフの長兄だなんってまるで小説のようだ。晩年のトルストイは死をテーマにして多くを書いた。『イワンイリイチの死』は昨年読み返したばかりだった。「俺の人生は詰まらなかったと絶望に苛まれて死にいたろうとするイリイチは突然に光の渦に囲まれて至福を感じながら死んでいくのではなかったろうか?

<付記>
 返却期限がきたので大急ぎで『インフルエンザウイルスを発見した日本人』山内一也)を読了した。本書は、タイトルにある山内保のことは書ききれていない。山内保さんが留学したパスツール研究所、そこで出会ったメチニコフのことのほうが詳しい。最後に、「山内保事件」という項目が興味深い。山内さんは晩年は渋谷で内科開業医として、糖尿病や動脈硬化症を専門にしていた。
 <1932(昭和7)年9月20日国民新聞夕刊に、「学良の阿片を種に山内医学博士の怪行動」と言いう記事が掲載された。っそれによれば、山内は満州事変(1931年)と上海事変(1932年)の際に帳学良の金庫から押収された阿片の払い下げを受け、前陸軍大臣の南次郎とともに奉天に阿片専売会社を設立すると称して資金を募っていた。・・・・> 奇妙な詐欺事件に連座していたのだ。字直な研究者は晩節を汚したのだろうか?「インフルエンザの発見」は山内保によるものとして世界的に認知されてはいないのだろう。