書くことは娯楽

内省持ち。何時も何か考えてます。会話でなく対話が好き、何時も誰かと対話していたい。内省と対話の結果、自分の中で出来た何かを言語化して残します。プロサラリーマン、プロ営業。バイクとビール好き。

「じゃあ、また」

大人になってからの、「じゃあ、また」

 

これって、若い時と今では言葉の重みが違う。若い時は大声で喧嘩しようが、深刻な対立になろうが、時間を空けたら本当にまた会えた。

その間隔が、年を取る度に長くなっていく。更には、その喧嘩が些細な程度だろうが、意見や価値観の違いに近いものだろうが、「じゃあ、また」にならず、そのまま縁が切れるようなこともでてくる。

 

その場はお互い大人な対応を取ったとしても、人として、互いにそれなりの年月を生きてきた大人であり、そんな大人が吐いた言葉や行動を、表向きはどうあれ、そう簡単に無かったことには出来ない。責任とか、そんな大層な話を持ち出すまでもなく、それが普通な気もする。「じゃあ、また」がただの言葉のやり取りで止まってしまって、現実に叶わなくなることが増えるのも、ある程度はしょうがない。

勿論残念だと思う。でもそれを恐れて、言いたいことを言えない、表現したいことを表現できないのなら、その人と会う意味が無い。そんなのを恐れるくらいなら、最初から会わない。その上で、今から会う人とはこれが最後かもという緊張感を持っておきたい。「じゃあ、また」が無かったことになるリスクが限りなく低いとしても、それは確実にあり得ることだという覚悟を、どこかに持っておきたい。

 

お互いに、引き金の言葉や表現がNGなものだったなんて、その時は想像できない。地雷を踏むような感じ。そういう予期せぬ地雷のようなものを炸裂させ、後で気が付き反省し、その次が無いことを受け入れる。相手からもだけど、どちらかと言うと地雷を踏んだ自分の方からもういいなとなる。大人は地雷を踏んだら終わり。

地雷を踏みたくないし、踏まないように注意はする。でも地雷が全く無い道の先に、面白い交わり合いがあるとも思わない。当たり障りのないやり取りよりも、互いに切り込みあう方が濃い時間になるに決まってる。何のリスクの無い会話や やり取りから、大きな見返りが得られると思う方が、ムシがよすぎる。

 

地雷を除け続ける努力を尽くしながら、それでも時には踏んむんだろうし、嘘の言葉にしてしまう。悔やみ、反省し、縁が切れる。残念だけどそれはそういう縁だった。また違う人に会いに行けばいい。

 

「じゃあまたね」が嘘の言葉になるのを恐れない。そうやって、少しずつ人生を豊かにしていきたい。

ジャンプと漫画と退化した俺について

年に2,3回「ジャンプ読んでないな~」って思いを馳せる時がある。ジャンプどころか漫画雑誌自体、もう何十年も読んでない。当時ジャンプって確か170円ぐらい。200円しなかった。200円しないのに、あれだけワクワクさせてくれたのも凄い。

学校の話題の中心には、何時もジャンプの連載漫画があったし、ドリフとひょうきん族とジャンプが、学校での話題の8割ぐらいを占めていた。そんな皆の心鷲掴みのポジションを持ったものが、たった170円。子供の小遣いからの170円だから、今の価値観の170円とは違うけど、それを考えても安すぎる。あの興奮と楽しさをくれるなら、今なら1冊5千円ぐらい払っても惜しくない。

 

漫画って今でも面白いんだと思うけど、読まなくなった。正確には読めなくなった。同世代でも、ちゃんと大人の趣味として、漫画を楽しんでいる人が結構いる。頭も柔らかく、接していて楽しい人が多いイメージ。漫画を今でも嗜める人は、知的な人の方が多いように思う。漫画を楽しめない今の俺は、随分損してるように思う。

そんな事を話すと「面白い漫画を読んでないだけだよ」って言われる。是非読んでと、お薦めも教えてもらえる。多分そうなんだと思う。でもそうだとしても、手に取ってページをめくろうとする意欲すら沸かないから、どうしようもない。漫画の魅力の大きな部分を占める絵が、今の自分には刺激が強すぎる。好きなように自分で想像できる、文字で書かれた本の方が楽に思える。子供の頃と反対なのが、自分でもおかしい。子供時代、「漫画なんて読まずに本を読め」と怒られまくったけど、本当にそうなってしまった。お父様お母様に、今度は逆に、「本など読まずに、漫画を読め」と怒られないといけないのか。

漫画にワクワクしたあの気持ちを、もう一度味わいたい。ジャンプを手に取った時のずっしり感に満足し、あの色付きのロール紙とインクで、手を黒く汚したい。捨てずに取っておいて、宝物のようにうず高く積み上げたい。気が付いたら親に捨てられて、泣きながら怒りたい。

 

漫画を楽しめなくなった。この意味で俺は凄く老いてしまったように思う。ちょっと悲しい。

児童書からの生々しさ

友人からお勧めの本を借りて読んだ。子供向けの児童書で、変に凝った言い回しも無いし、普段読んでいる本よりも、楽にさっと読めた。お薦め通り楽しかったし、たまたまその時は、人間関係にちょっと疲れていた時期でもあったので、いい癒しにもなった。

児童書と書いたけど、読んだのは文庫版で、ある程度、大人も読むことを想定もされているようだった。そして巻末にある著者のあとがきには、「この物語で本当に書きたかったのは…」と、裏のテーマが書いてあって、それが今の自分の疲れている理由と、それに対する心の持ち様のアドバイスそのものでもあった。そのテーマに沿って内容を解釈すると、大人向けの諭しの物語でもあり、ちょっと感動してしまった。勧めてくれた人にお礼を伝えたら、別に深い意味はなく、子供のころ好きだった本をただ挙げただけと言っていたけど。

 

本を通して繋がりがあり、本の内容で話が出来るのは楽しい。本をスタートに、価値観を語り合えることが嬉しい。俺の持たない価値観、知らない価値観の世界に触れることができるのは幸せ。本を軸にコミュニケーションが取れるって、素晴らしいと思う。

本を通じた繋がりは、知的で品のあるようでいて、どちらかと言うとお互いの本音とか、その辺から出る、生々しいやり取りにもなる。でもそこがいい。その生々しさがいい。

 

本を通して、コミュニケーションの取れる人を増やしたい。ただ無理に広げるのもちょっと違う、募集して集めるとかじゃない。そんなんなら別に繋がらなくていい。自然と、本を軸にした人の繋がりが出来たらなと思う。そんな生き方をしていくのが、人生残り後半、幸せに生きる一つのコツかもしれない。

畑の土

誰かのアドバイスやお勧めを受け入れる時は、その人の頭の中にある「畑の土」を、分けてもらうものと考えている。

頭の中の畑とは、思考とか感情のベースであり、自分の発言や行動は、そこで育つ花とか果実のようなもの。人はそれぞれ違うんだから、畑だって各々違う。違う畑の土が同じはずもない。自分ならまずしないであろう選択や価値観なほど、そんな意識を強くする。違う土の持つ違和感は、心地良いということは少ない。どちらかと言うと、苦いような感じに近い。違和感は土の合わせ方でも違ってくる。自分の土に混ぜてしまうのか、畑の上から軽く蒔くのかでも違う。でも、どんな土であっても、どんな合わせ方であっても、そのうち馴染み、他人の土が自分の土となり、違和感も消えていく。

そうやって畑の土が変わると、取れていた成果物も変わる。同じように種を植え、花や果実が実っても、今までとは違うものが出来る。

発言や行動や選択が変わる。成長とか進化とか、そういう前向きな変化の時もあれば、その逆もあるかもしれない。どちらにしても、変化したというのは意味のあることだと思う。

 

自分の価値観やポリシーとか、そこからの選択を大事にしたいけど、それだけだと面白くない。何時までも同じ土、同じ畑なのは、人生損していないか。他の人の畑の土を入れて、畑で取れる花や果実をもっと多様なものにしたい。

中々意固地な自分ではあるけれど、素直に人のアドバイスやお勧めを受け入れるのも、必要な事なのかと思う。

悩める人

悩み事が多い自分がたまに嫌になる。人が気にしない、気が付かないことに気が付いて、勝手に悩んでる。それに対して、行動を起こしたり起こさなかったりもするけど、行動したところで、周りに影響を与えないことも多いし、気が付かれないことも多い。たまに誰かにそれを話しても、「そこまで気にしなくていいんじゃない?」で終わる。でも俺はそこが気になるから悩む。共感して欲しいとは思わないので構わないけど、損な性格かなとは思う。

 

でも悩みが多いってことは、それだけ物事に真剣に向き合っている証拠なのかもしれない。気になる、そこから悩めるのは、真剣だから。

悩まない人を馬鹿にするつもりはないけど、よく言えば楽天的、悪く言えばいい加減。こっちは楽天的じゃないけど、いい加減じゃないという事。それで少しだけ自分を慰める。

 

悩めるって、それだけその物事が大切だから、愛してるから、真摯に向き合っているからこそ悩める。それだけ真剣だし、目の前のことにハマれているから悩み、悩み尽くせる。素晴らしき事。大いに悩め。悩みすら大いに楽しめ。悩めるということは、それだけ真剣に思えているということは、俺にとって幸せな事。

悩める自分を認めて肯定、そしてそんな自分を愛す。

 

生きやすさは負けてるかもしれないけどな~

ハマるタイミング

ちょっとしたきっかけがあって、昔大ハマりした趣味にまた力を入れてみようとなった。せっかくなので、道具も新調しようと思い、その道の専門店に行った。離れていた訳でも無いけど、逐一追いかけていた訳でも無いので、今の流行りとか新製品も見れて面白かった。でもなんとなく、今のその趣味との距離感をハッキリ意識もさせられた。

ハマっていた時は、当然の流行を逐一把握していたし、それに乗る時もあれば、自己流を求める時もあった。少なくとも、その世界の王道を含めた流れを知った上で自分は楽しんでいたし、当然新製品なんかも販売前、発表前から知っていた。専門店に来ても、わかっていながらお店の中を歩いていた。昔は確認的な、「はいはい、そうだよな」って感じで棚を見ていたのが、今は「へー、こんな感じか」とか、「こんなの出ているんだ!」という感じ。ハマっていた時と今は違う。俺の中で、その世界はハマっていた当時で止まっているけど、当たり前ながらその世界は世界で動いている。それを少し寂しくも思った。

 

同時に、あの時この世界にハマれてよかったとも思った。今初めて出会ったとしてもハマれていない気がするし、少なくともあの当時ほど、熱く奥深くハマらなかったはず。ハマったから知った世界もあったし、喜びもあった。やるだけやった自己満足感もあれば、他人と比べた優劣からの葛藤や高揚もあった。それはその世界にハマれたからこそ得られた部類のそれであって、他の趣味では得ることが出来ない。どんな世界でも、自己満足や他者比較からの感情の揺れはあるだろうけど、中身はそのハマった世界によって違う気がする。あの時ハマれたからこそ、得られた価値観。それで今の自分がある。

何かのきっかけで違う世界に興味を持ち、そこにハマって、また今とは違う価値観をえられていたかもしれない。その分、現実の自分が若い時にハマった世界には飛び込めなかっただろうし、今持っている価値観も得られない。どんな世界なら、どんな価値観を得られたか興味もあるけど、ただのIFの話以上にはならないだろうし、それを残念がる必要もないか。

 

何かの趣味でも物事でも、ある世界にハマる=自分の時間と意志力をかけるのは、それにふさわしいタイミングというのがあるように思う。若い時だからこそやれる世界があって、そこで得られる喜びと価値観がある。勿論逆もあって、若い時には全然興味が無かったけど、大人になったからこそハマる世界、そしてだからこそ得られることもある。

人によって興味を持つ世界は違うし、その興味を持つ時期も違う。ただ、どんな世界であれ、どんな時期であれ、飛び込もう、ハマろうと思ったら、今そのタイミングが一番飛び込むべき、ハマるべきタイミングなのだと思う。思ったときにやる。多分それがその道で何かを得る、一番向いているタイミングなんだと思う。

使える時間とか、お金とかも大事だけど、一番大事なのは、その巡り会わせと自分がやりたいと思ったタイミング。だからやりたいと思った気持ちを抑えるのはやめた方がいい。もっと時間が出来てからとか、もっとお金に余裕が出来てからとか、そういうのはやめた方がいい。その辺は何とかなる、そんな事より、今すぐ全力でやるべき。得られる喜びや高揚は、そのタイミングの時とそうじゃない時で大きく大きく違う。

 

あの時あの世界にハマって良かった。あのタイミングだったから、飽きるほど突き詰めてみることが出来た。今はあの頃と同じような熱さは無いけど、余熱みたいなのは残ってる。あれだけハマれたから余熱があった。今はその余熱で充分。またあの世界を楽しませてもらおうと思う。

蒸発現象

「蒸発現象」という、此方と対向車のヘッドライトの光が重なる部分が見えなくなる現象がある。交差点で止まっていると、たまに横断中の人が消えるのがこれ。人間の視覚的に見えなくなるため、根本的な対処方も無く、物の本にも回りくどい言い方で「気を付けるしかないよね」的な事しか書かれていない。

幸い運転中はほとんど遭遇しない。夜間、車が行き交う車道の真ん中に、人や自転車がいるってそうそう無い。でもそれに先日出会った。30年近く運転してきて、運転中の蒸発現象が初めてとは言わない。でも数える程の経験だったそれが1つ増えた。あと5キロ速度が違っていたり、よそ見をしてたら、轢き殺してたかもしれない。

 

教科書的なことを言えば...

こちら、制限速度以下で、常に何があってもおかしくないよう、あほみたいに警戒しながら運転。

歩行者、夜間出る時は明るい色の服(轢き殺されかけた方は上下真っ黒)、出来れば反射材付きの服。

対向車、もし気が付いていたらクラクションを鳴らす。

でもそんなのただの理想論。

 

此方はほぼ制限速度、歩行者だって自殺志願で飛び出してきたわけじゃないし、偶然その瞬間すれ違った対向車だって当然無罪。三者とも教科書通りではないけど常識の範囲。車道を横断すな、そもそも横断歩道渡れやとは言いたいけど、普通にありえる、想定内の行動、許される行動。だから誰も悪くないし、誰に対しても文句言うつもりも無い。

 

ただ、誰も悪くないのに、誰かが轢き殺されていたかもしれないし、俺は殺人者になる可能性もあった。これってなんなのだろうって。なんなのって、運なのだけれど。

真面目な人には怒られるかもしれないけど、運が良かったから轢き殺されなかったし、轢き殺した犯罪者は生まれなかった。運で殺されるなんて、シャレになってないんだけど、運で人を殺すのもシャレになっていない。

 

車の運転じゃなくてもこういう事はある。死まではいかずとも、何かの運でとんでもなく不幸な流れになったり、引いては人生狂わされたり。自分の意志、何かの判断、取った行動でそうなるならまだ理解できるけど、「それ、こっちは何もしてないし、関係ないんですけど」ってことで、人生予期せぬ方向に進んでいく。反対に幸せな方向に進めてくれることもあるんだろうけど、それは勝手に自分の力、手柄にしちゃってるから気が付きにくいだけ。それなら、不幸なことを運のせいばかりにするのもフェアじゃないって思わなくもないけど、ただまあ、どっちにしろ運はあるよねと。

 

人生、たまにこうやって、運で動かされていることを知らしめされる。豪快に導き、時に強烈に干渉してくる。順風満帆、自信満々、我こそ覇者なりな生き方の鼻をへし折られる。でもたまにへし折られる方が、人生多少なりとも臆病になれて、驕らず、慎重に生きることが出来るからいいのかもしれない。最近、調子に乗っていたなと受け入れる。運を拒否はできない。

 

なんかどうしようもない運で俺がここまで生かされてきて、今これからも、その運に少しの自己努力を重ねて生きていく。

 

蒸発現象で人殺すなんてほんまに勘弁。運が良かった。