転職の風景 - シンクロニシティ

昨日姉と食事をした。
姉には二人娘がおり、既に二人共社会人となっている。

父が先日認知症と診断されたこともあり、先月と今月続けて姉と食事をし、主にその事に関わる情報共有などをしてきた。

先月姉と食事をしたときの別れ際に妹の姪エヌが合流した。

わずか数分の会話だったが、僕は翌日に今回内定を受諾した企業アイ社の最終面談を控えており、その旨を伝えた。

すると、エヌも次の転職にはアイ社を考えているという。

僕はその瞬間にアイ社に転職することになるのだろうと直観した。

その時点で並行して4、5社の面談を進めており、どれも順調であり、どの企業を選ぼうかという高飛車な状態だった。
結果的にアイ社以外は、すべて落ちてしまったのだが。

昨日の姉との食事の際、今度は姉の姪ワイからLINEが入った。
何回目かは定かではないが、面談の日に同じビルで僕を見かけたというのだ。

俗にこういう奇妙な偶然を伴う符号のことをシンクロニシティという。
日本語では共時性という言葉をあてると遠藤周作は書いていた。

転職する際には、職務経歴書やそれに伴うスキル、景気、ヘッドカウント、面接官との相性等、様々なパラメータ(媒介変数)が作用する。

しかし、僕はどのパラメータよりもシンクロニシティを重視している。

先程、共時性という術語をあげたが、古くからは「縁」といわれてきたものに違いない。

どれだけ、スキルマッチしていても、どれだけ心象が良くても、「縁」がなければ選考には落ちてしまう。

アイ社の最終面談のとき、最後に僕は次のような質問をした。

「御社で今後どのようなキャリア形成をお考えですか?」

くだらない質問だ。

それにも関わらず、面接官は真面目に考えてくれ、「前社ではアイ社の開発をメインにやっていたので、今は開発自体ができない歯がゆさはあるが、ずっとこのままでもいいかなと考えている」と答えてくれた。

「前社というのは、ジェイ社さんのような会社ですか?」と僕は尋ねた。
面接官は驚いたように「なぜジェイ社をご存知なんですか?」と尋ね返してきた。

僕は前々社の転職活動の際、ジェイ社を受け、なんと生意気なことに一次面接合格後にお断りをしていた。

ここにもシンクロニシティが現れた。

それを機に最後の数分話がはずみ、僕は何故か内定獲得を確信した。

決まるときは、そんなもんなのである。

転職を考えている人はくれぐれも軽はずみに活動して欲しい。

動けば動くほどシンクロニシティを拾う確率が高まるものと僕は信じている。

転職の風景 - 最終出社日

今の会社は社歴が2番目に短い会社。今度の会社で7社目。

正直に言わなくても、今の会社に何の愛着もない。

事の発端は、入社半年後に遡る。僕は入社したばかりの今の会社の吸収合併のニュースを聞いた。
目にしたのではなく、同僚からまさしく聞いた。

しかも吸収合併する相手は僕が直前に所属していた会社の直前に所属していた部門だったのだ。

目眩がした。何もいいことはない。

実は僕は以前の会社でもほぼ同様の経験をしている。自身の不幸を呪ったが、呪ったところで何も始まらない。
僕は粘れるだけ、粘ることに決めた。

その意志を捻り潰すかのように、合併後半年余りで、自身が所属する部署に近い営業人員の9割方が会社を去っていった。

僕は完全に孤立していた。外に動く他なかった。

幸運だったのは市場が近年稀に見る売り手市場であったことと、志望動機にブレが出なかったことだ。

志望動機をもっともらしく語るのには、それなりの経験とスキルが必要だ。
だが、今回ほど、リソース減がはっきりとしている場合には、志望動機を説明するのに経験もスキルも必要ない。

今回は都合5、6社まわった。

まずはエージェントへの登録。僕はここ10年来ビズリーチを使っている。

www.bizreach.jp

使用感は可もなく不可もなくといったところだ。

ここに社歴とそれぞれの会社での業務経験を記述した職務経歴書に相当する内容を入力しておくと、エージェントや会社自体からスカウトがかかる。

面倒がないのは、相手もある程度職務経歴書に目を通したうえで、書類選考で落ちる可能性が低いことだ。
ま、電子版を送付するだけなので、書類選考の手間も何もないのだが。

その後一次面接に入る。

大抵がジェネリックな内容で、先に述べた志望動機やこれまでの業務経験を聞かれたうえで、質疑応答という感じ。
ここで話が盛り上がらなければ、あっさり落ちる。

今朝Twitterでもつぶやいたのだが、エンジニアはわからないことがあると、そのまま「わからない」と答える傾向が強いようだ。

まず、面接官に「わかりません」とバカ正直に答えるまさしくバカはいないだろうが、答えに窮した時には、ウソかつ明後日の方向で全然構わないから、「○○という理解で正しいですか?」と理解できない自分に非があるフリをしてあげるのがいいと思う。

そうしてやると、たまに「はい。そのとおりです」とか、「中々よくご理解されてますね」という答えが返ってきて驚くことがある。

あと、適度な「笑い」は必須だと思う。相手が笑わないまま終わる面接で受かったことはないように思う。
「笑い」といっても素っ頓狂なことを言えばいいというわけでもない。

適切な「エンジニアリング・ジョーク」が必要なのだ。

いま「エンジニアリング・ジョーク」という言葉を読んで、心の中でクスリとしなかったあなたはセンスがない。(嘘)

では「エンジニアリング・ジョーク」とは何か?

ここに例をあげよう。

ソ連時代に男二人がパンを求めて行列に並んでいた。
一人の男が「もう我慢ならない。ゴルバチョフを殴りに行ってくる」と行って、行列から離れて行った。
ところが、しばらくするとその男は戻ってきた。
「どうだった?」
「あっちは、もっと並んでた。」

これのどこが「エンジニアリング・ジョーク」なんだ?と思ったあなたにはセンスがある。

なぜならば、これは「ロシアン・ジョーク」だからだ。
これを見抜くのがエンジニアのセンスなのである。(本当)

ここまで書いておいて言うのもなんだが、こういう軽薄な態度は面接官にとても嫌われる。

あなたがどう思おうが勝手だが、僕は少なくとも6回以上のオファーを受け、今もこうして外資系企業に属する社会人として生きている。

そして、今日は6つ目の会社の最終出社日なのである。
ここまで読んでくれたあなたには僕の今後の幸運を心の中で良いので祈って欲しい。

ここまで読んでくれて、どうもありがとう。

K子ちゃんと大学

彼女と出会ったのは、大学に入学して間もない頃だ。
その頃はまだ牧歌的な時代で、ある気の利く同級生がクラス全員にアンケート用紙を配り、自己紹介、住所、電話等や趣味などが記載された連絡帳みたいなものを作ってくれていた。

いまのようにスマホもパソコンも普及しなかった時代だから成立し得たものだろう。

それで、彼女の名前やだいたいのプロフィールは話をする前からだいたいわかっていた。

K子ちゃんはかわいい子だった。ただ色々な芸能人も出身だという名門校から、センター試験のみで、僕と同じ学科に来たとのことだった。要は滑り止めの学科にしか受からなかったということのようだった。

化学が専攻だったので、女の子の数は10人程度だったと思う。
その中の一人に僕は面と向かって、「ココは第七志望だった」とハッキリ言われたこともあった。

僕がなぜこの大学のこの学科を選んだかと言うと、本屋に募集要項が僕が実際に卒業した大学と日大しかなかったからだ。
もう一つ、予備校で感銘を受けた化学の先生が僕が入学した学科の一期生だったことも大きかった。

ただ、もう少しマシな大学が残っていたら他にも受かっていたかも知れない。

なぜそのような選択をしたかというと、大学に行くことにそもそも興味がなかったのだ。僕の中で大学に行くことが無意味であるという定理の証明が完了していた。僕はアメリカやその他外国に行って生きた英語を学んでみたかった。

親父は真っ向反対してくれた。反対して、約半年ほぼ毎晩僕を説得してくれた。親父がどれだけ言っても、僕は聞く耳を持たなかった。ただある日突然、「日本の大学がムダなのはよくわかった。でも行け。どこでもいいから。日本の大学を卒業したら留学する金を出す」と言ってくれた。

それが僕が募集要項を本屋に探しに行く前日のことだった。もうギリギリで平積みの募集要項コーナーはほとんど空っぽで、僕の大学と日大のものしか残っていなかった。

結果的には、どちらも受かって日大でないほうに行ったのだが、もし日大に行っていたら、例のタックル事件のようなひどい何事かに巻き込まれていたような気がする。

大学入学当初、K子ちゃんとはしばらく中のいい友達という感じだった。
そうこうしているうちに僕はMという心優しい子を好きになった。

K子ちゃんとMは仲が良かったので、僕はK子ちゃんにどのようにアプローチすべきか相談することにした。

しかし、そこでK子ちゃんは「なぜ私じゃないの?」確かにそう言った。

正直なところ、僕は不愉快だったと思う。人の気持なんてそんなに簡単に制御可能なものじゃない。
そうですか。K子ちゃんがそういうならば、K子ちゃんが好きですね、やっぱりなんて、破廉恥な真似はできなかった。

なかったことにする。そういって僕はK子ちゃんにいるその場から離れた。

一週間位後、僕はK子ちゃんと付き合っていた。

K子ちゃんは厳しい家庭に育っていて、門限が厳しかった。都心にある学校から門限である夜8時には自宅に帰らなければなかった。例外はなかったように思う。

仕方がないので、僕らは昼間にラブホテルに行くことにした。いまはどうだかわからないが、鶯谷まで行けばそこばラブホだらけだった。彼女は僕の初めての相手だった。彼女もそうであったらしい。そう言っていたし、現に演技とは思えないほど痛そうな様子だったからも、やはりそうであったのだろう。

今にしてみると、申し訳ない気持ちで一杯でもある。

K子ちゃんはやや太めでかなりそれを気にしていた。ラブホでそういうことをする時は必ず腹部にバスタオルをかけた。それを僕に見られたくなかったからだ。

でも食べるのが好きな子だった。どれだけ喧嘩して泣いても、昼食を欠かすことは無かった。

そんなある日。僕は合コンに誘われた。ダイちゃんという男の子からの誘いだった。
K子ちゃんとはお酒を飲みに行ったこともなかったので、非常に魅力的な誘いだった。

合コンは大いに盛り上がった。そして僕はマミコちゃんという女の子と酔った勢いでキスをしてしまった。

その次の日。いつもとおりK子ちゃんとデートしたのだが、僕は彼女の手をどうしても握ることができなかった。

それから数日後、御茶ノ水で僕は彼女に別れを告げた。

彼女の第一声は「冗談でしょ?」だった。

冗談ではなかった。その瞬間、僕は彼女のそういうところが好きになれないのだと、誠に勝手ながら悟った。

何度も僕が教えても理解できない有機化学を人に尋ねられたら、さもわかってるように教えてあげるところ。
結局は、自分が一番かわいいと考えているところ。

そういうところが根本的に好きじゃなかった。
いや、嫌いになっていた。

その後、彼女は学科で2番の成績を修めて卒業し、良い大学院に進学していた。
僕は、偏った自己努力と彼女のノートのお蔭でギリギリ留年しないで卒業し、同じ大学の大学院に進学した。

風邪の便りに良い企業に内定を取ったという話を耳にしたが、その後どうしているのかは知らない。
きっと幸せな家庭を築いていることだろう。
もう会うこともないだろう。

 

ピコさんと僕

彼女と出会ったのは、2017年の5月の末だった。その頃まだ彼女はまだピーコと名乗っていた。

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彼女は既にステージ4のスキルス胃がんで僕の義母と同じほぼ同じ状況だった。

彼女は2016年の8月からブログを始めていて、僕がその存在を知ったのは2017年の初頭頃だったろうか。

dxhry124.muragon.com

最初は眺めていただけだったが、すぐに彼女のユーモアあふれる軽妙な文章と彼女自身の魅力に引き寄せられて、日々の更新を楽しみにするようになった。4、5日おきの更新が常だった。

彼女ははてなブログでもアメブロでもなくムラゴンというあまり馴染みのないブログサービスを利用していた。彼女曰く、そのほうが注目が集まらないからだそうだ。そもそもブログなんて書かなければいいじゃないかとは、僕は思わずに、むしろ彼女らしいなと思った。

ムラゴンのデフォルトの設定らしいのだが、読者のコメントは通常表示されないが筆者は読むことができる。
彼女は読者からのコメントを読んで、返信のみを本文に書くというあまりみたことのない形態をとっていた。

僕は勇気をもって、最初のコメントを書いてみた。恐らく同病の義母がいて、同じ薬を飲んでいて副作用に来るしんでいるのだといった内容だったと思う。

ピコさんはそれ以来欠かさず僕のコメントに返信をくれた。

彼女のスキルス胃がんは義母と同様に手の施しようがないものだった。
それでも、時折僕と彼女はコメント上でテキーラの乾杯のやり取りなどをしたりした。

やがて、ピコさんは抗がん剤を受けるのをやめた。

抗がん剤の副作用が気に入らなかったのもあるだろう。シミがひどく出るとも言っていた
まるでドラゴンボールのセルのようだと。彼女がユーモアを忘れたことはなかった。


抗がん剤をやめてからの彼女は健康そのものにみえた。


一方で、義母は抗がん剤を続けたまま2017年10月に亡くなった。彼女より遅く診断されたが8ヶ月で亡くなってしまった。ピコさんはブログの向こう側で涙を流してくれた。

新たに仕事を初め、イケメンボイスのイケボくんという恋人にも恵まれた。
その愛の日々もためらわずに記録している。それでも彼女にはその先が見えていたに違いない。

ある日のこと、彼女は突然腰の強い痛みを訴えるようになり、ほぼ同じくして左肩のリンパ - ウィルヒョウ腺の腫れの写真を掲載した。僕はすべてを悟った。

彼女のブログの更新間隔が長くなり始めた。

最後の彼女自身の更新は2018年の1月24日だった。

dxhry124.muragon.com

最後は、コメントをくれた全員に振り絞って返信している様子だった。
僕に対しては、下記のような返信が来た。

--
なかなかブログをアップ出来ない日々が続いてしまいました。コメント返しが短縮になってしまいます。ほんとはもっと書きたいのですけどね、どうしても体がもたないので(;'∀') 薬も効く、効かないがあったりして試行錯誤中なんです。しかし最近になって麻薬系の効き目がよくなってきたような・・?
ママサマと娘さんのために貢献!素敵です!私も今イケボくんのために何か貢献したい!けど何も出来ないっていう・・(;´∀`)でも来ないでと言っても来るのでこれ仕方ないですね(と私が言う)
あと連投ありがとうございます。ご心配をおかけしてしまってますね。私がスマホから投稿出来たらな~(というクズっぷりなのであります)
--

これから彼女からの最後の返信だった。

当時の僕は知らずに、ずっとコメントを返し続けた。

2018年4月5日代理人の方が更新をしてくださった。

dxhry124.muragon.com

--
最期の状況ですが、1月末頃から息苦しさを訴え、2月1日にホスピスに再入院しましたが、入院してからは蝋燭のようにあっという間に天国に旅立ってしまいました。
私見で恐縮ですが、同じ病気で苦しんでいる方やご家族の方々は残されている時間は本当に少ないと思いますので、時間が許す限り寄り添ってあげてくださいませ。
--

出会ったこともない人なのに大切な人だった。
涙が溢れた。

僕はこのようなコメントを残した。

--
あなたの優しさとユーモア。ずっと忘れないよ。ちゃんと文書として残ってるしね。

本当にありがとう。あなたに随分救われました。何もお返しできなくて本当にごめんなさい。
テキーラ一杯くらいおごらせて欲しかった。

ここで、僕が好きな「勧酒」という漢詩井伏鱒二の訳を送るね。

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

独女なんかじゃないよ。独りじゃないよ。皆ずっと応援してたよ。
でも、サヨナラは僕も含めて、誰にでもいつか来る。
ピコさんは少し早かったけど、天国か次の人生ではきっとまためぐりあえると思う。今度は、面識を持てると思う。

色々支えてもらったのに、なにもしてあげられなくて、本当にごめんね。
でも、明日から前を向いて生きるよ。ママと娘と一緒に。
あなたのことは絶対に忘れない。40歳で亡くなったけども、最後まで美しい人でした。

痛みや不安から解放されて、自由にのびのびと天国で遊んでください。かわいいお着物も着てね。
--

彼女の生きた証は僕の中で残し続けてい行きたい。

殺されのオプション

透明なガラスを殴りまくった後も、僕と彼女の関係はしばらく続いた。

ただ、彼女の言動に変化が見られた。何か吹っ切れた様子で、表情も以前とは打って変わったように明るくなった。

彼女は納得したという。そこまで、嫌いなのであれば仕方がないと。

だから、別れることにするけども、その前に思い出作りとして二人だけで旅行に行きたいと言った。

僕の友達の誰もが反対した。賛成する人間は皆無だった。誰もが、そこで心中するつもりに違いないという。
僕もそうであろうと考えていた。

だけども、不思議なことに殺されても仕方がないかという諦念が湧き上がって、浮かんだままになっていた。
想像はいかに殺されることを避けるかではなく、どのように殺されるかに向かっていた。

どうせなら、楽な方がいいな。当時は練炭自殺使ったり、硫化水素を発生させる方法などは普及していなかった。

縊死というのもキツそうだ。拳銃は入手困難だし、やはりナイフがいいか。
事前にお願いするのはヘンな話だし、どうせお願いするなら直前がいいか。

色々思い悩んだが、思いのほか僕は冷静だった。

殺されるオプションを選ぶのは、ファミコンのカセットを選ぶ感覚にどちらかというと近かった。

イメージはナイフかな。
ファミコンのカセットでいえば「戦場の狼」。ナイフ1ミリも出てこないけど。PSの「バイオハザード」の記憶に上書きされたのかもしれない。確か最初はナイフだけだったような。。。

彼女はレンタカーを借りようといい出した。
なるほど、入水自殺(他殺)は想定してなかったな。思ったより、苦しそうだが、これもカルマか。

僕らは北陸に向かった。
これから寒くなるところに、寒いところに向かった。
楽には死ねないものだ。

僕らは普通のカップルのように北陸観光を楽しんだ。そうだ。今思い出したが、以前に彼女と二人で行ったんだった。

夜。

彼女が海に行きたいといった。いよいよかと思った。
二人で外に出て、海を背にしてフラッシュをたいて、デジカメで写真を撮った。

彼女になんの危害も加えられることもなく、帰京できた。
彼女とは結局、それでも別れることができなかった。

懲りずに別れ話を僕は彼女と会う度に繰り返した。
殺されるリスクが低くなったその時、その時間とエネルギーの浪費が僕には相当堪えた。

ある時どこかの駅で喧嘩をした。別れ話の延長線上で喧嘩も何もないのだが。

何も言わずに僕と彼女は同じホームからお互いに別々の方向の電車に乗り込んだ。

僕はそのまま、家族にも他の友人にも誰にも何も告げずに失踪した。
彼女とはそれから一度も会っていない。

透明なガラス

僕は彼女のことを好きでもなんでもなかった。最低だったと思う。
ただ、明け方まで飲んでいて、勢いでキスをして、SEXをしてしまっただけだった。

彼女とはそのまま付き合うことになった。
当初から違和感を感じていた。なにか違う。フィーリングが合わない。会話も弾まない。
無口だねと言われたのは、後にも先にもその時しかない。

彼女は十二社の近くに妹と二人で住んでいた。
僕はその部屋に転がり込んだ。妹は家を空けがちで、妹がいない時に僕達はSEXをした。

確か、初めてそうなってから四、五回目の時だったと思う。
事を終えてから、しばらくして彼女がシクシクと泣き出した。まさしくシクシクという感じの泣き方だった。
僕は当然のことながら、その理由を尋ねた。

彼女は、泣きじゃくるような感じで、「私はB型肝炎のキャリアなんだ」といった。

キャリアは保菌者という意味だが、彼女は出産時の母子感染でキャリアとなっており、彼女自身は急性的な発病はしないものの、菌が駆逐されることはないため、性交渉等により、相手に血液感染をもたらすリスクを抱えていた。

これまで、発病した相手はいないという。

僕は、彼女を物理的にも精神的にも、その時点で突き放すことができなかった。
きちんとコンドームをしていれば、感染は防げたはずだった。
それでも、僕はその後も関係を続け、積極的にコンドームも装着しなかった。

当時。

ビッグマックが200円で販売されることが時折あった。
その時は僕はビールとビックマック4個!を購入してそれらを平らげるのを常としていた。

ある日、いつも通り食べているのだが、どうにも食が進まない。
最後の1つがどうしても、口に持っていけない。
これまでに、そんなことは一度もなかった。
不安を押し隠しながら、最後の1つを僕は駅のゴミ箱に捨てた。

その週末の日曜日だった。
家のトイレで小便をしたら、工事中の看板の黄色のような液体が出た。
兄貴に頼んで、休日診療所に連れて行ってもらった。

そこで、検尿検査をしたが、医者は検査結果を見て、わかりやすく首をかしげるばかりだった。一方で、僕にはすべてが明確にわかっていた。

そのまま紹介状を持って、同じ市内の日赤に向かった。
そこで、血液検査をしたらば、医者は「このまま入院してください」と僕と兄貴に告げた。
「じゃぁ、荷物を一旦取りに帰ります。」「いえ、このまま入院してください。」
看護婦が車椅子を持ってきて、歩いてそこまで来たにも関わらず、そこから病室まで車椅子に押されて行った。

そこからは、小林さんとの入院生活で書いた通りだ。

僕は晴れやかに退院した。
ただ、ちょうど就職活動を控えており、当時出現し始めたエントリーシートや種々の活動のための書類を揃える必要があった。

僕には何もできなかった。それを彼女が支えてくれた。当時は就職超氷河期で内定を貰える見込みは限りなく低かった。
僕は追い詰められているにも関わらず、何もできなかった。
自分の卒論をA4一枚にまとめる難題などできるはずもなかった。それを彼女が一から書き上げてくれた。頭のいい子だった。

結果として、僕はその企業ともう一つの企業の内定を得ることに成功した。だが、それはもう少し先の話だ。

僕は、彼女と発病後もなんとなく関係をずるずると続けていた。

別れ話は何度もした。

秋葉原駅で別れ話をした時に、彼女は黄色い線の外側に立った。それ以上話を進めることができなかった。

市ヶ谷の路上で別れ話をした時に、彼女は僕の頬を拳で殴った。僕は人目もはばからずオイオイと声を出して泣いた。

新宿駅の近くの歩道橋で別れ話をした時に、彼女は飛び降りるそびりを見せた。

僕の中で何かが弾けた。歩道橋は手すりまでの高さのガラスで覆われていた。僕はそのガラスを素手で思い切り殴り続けた。ガラスはビックリするくらい固くて、ビクともしなかったが、何度も何度も素手で殴った。

彼女はハッとしたように、僕を押し懐き、僕が殴るのをやめさせてくれた。

それでも、僕はまだ彼女と別れられなかった。

(つづく)

小林さんの腕(かいな)

小林さんの腕(かいな)

僕の義母、家内の母は昨年スキルス胃がんで亡くなった。本人や家族、僕も含めて告知を受けてから、わずか8ヶ月後の出来事だった。

僕は24歳の頃、半同棲していたにも関わらず、猛烈に別れたがっていた彼女から母子感染で彼女が保持していたB型肝炎ウイルスを見事に頂戴し、見事発病、生死の境をさまようことになった。

戦時中のサナトリウム野戦病院を彷彿とさせるような薄汚い病院で、僕は毎日天井のシミを眺めていた。
それでも、隣のベッドの男性が小林さんという名前であることを知るのに、そんなには時間はかからなかった。

小林さんはちょうど今の僕くらいの年頃であったろう。毎日お見舞いにきていた優しそうな可愛げのある奥さんと小林さんは会話が少なく、看護婦(当時はそう呼んでいたし、今ではAVでしか見かけない看護婦の帽子もきちんと皆被っていた)が「小林さん」と声がけする名字だけが浮き上がって聞こえたからだ。

小林さんと僕が初めて言葉を交わしたのは、僕がB型肝炎の影響かどうか、いまだに不明だが、股の付け根(要はチンコの脇)に蜂窩織炎と呼ばれる直径20cmほどの炎症を起こし、その痒みにどうしても耐えられず、自分で陰毛を自ら剃毛した直後だった。

看護婦は自分で自分のを剃る患者は初めて見たと言っていたが、年齢のさほど変わらない異性に陰毛を剃毛されて平然としていられるほど、当時の僕はそこまでの変態さをまだ持ち合わせていなかった。

小林さんは、「チン毛を剃ってスースーしないんかい?」と徐に尋ねてきたように記憶している。
「それほどでもないですよ」、確かその程度の他愛のない会話が始まりだったと思う。

小林さんは細い人だったが、見た目には元気そうだった。ただ、毎日行う点滴の針が中々入らなかったり、最中の痛みがどうにもひどかったらしく、苦々しい表情をしていることが多かった。
ただ、看護婦や医者に文句を言うことは一切なかった。

小林さんの頭上にぶらさがっている点滴はバケツほどの大きさがある上に、レゴブロックでしか見たことがないような赤透明の液体を抱えていた。それを10時間近くかけて落としていたと思う。

小林さんは横になりながら、自分の上腕を両方うえに持ち上げ、まじまじと不思議そうに見ていることが多かった。僕は小林さんが一日に何度もその作業を繰り返すのを見て、不思議でならなかったが、なぜそうするのかは、なぜか問いただすことができなかった。

そうこうしている僕の病状は激烈に悪くなった。肝臓の数値は通常値の数千倍はあったと思う。
悪戦苦闘の結果、僕の病は回復していったのだが、それと相反して小林さんの病状は悪化していき、みるみる間に大量の腹水を抱えるようになっていった。
後で、小林さんの知り合い看護婦から、彼が胃がんであることを聞いた。

そんな言葉は当時無論知らなかったが、僕と小林さんの生命の推移は、損益分岐点図表を見ているかのようなイメージだった。

回復の道筋を得た若き僕は見る見る間に健康を取り戻し、やがて退院の日を迎え、小林さんと一旦の別れを迎えることになった。

当時まだ珍しかったデジカメQV-10で、小林さんの写真を撮り、「また、すぐ見舞いに来るから」と笑いながら約束を交わし、手を振りながら、意気揚々と僕は病室をでて、外泊ではなく帰宅した。

五日後。

僕は、小林さんの病室を訪ねた。
そこに、小林さんの姿はなかった。
彼は僕が退院した翌日に亡くなっていた。

僕はまた見舞いに行くという、永遠に果たせなくなった約束を憂い、オイオイと声を上げて泣いた。

一周忌の命日に小林さんの自宅を突然訪ねた。
小林の表札がかかったままだった。
奥さんは静かに迎えてくれ、焼香させてくれた。

僕は、小林さんの恐らく最後の姿を納めている写真を見せようと自分のノートPCを持参していた。
そして、奥さんに見せようとPCを起動させようとしたが、なぜかブラックアウトしたままPCは起動しなかった。

奥さんは、「きっと、見せたくないんだよ」とだけ言った。そのかわりに奥さんは生前の小林さんの写真を見せてくれた。

そこに写っていた小林さんは筋骨隆々の逞しい偉丈夫であった。
特に太い上腕、彼は病室のベッドの上で自分の太かった腕がやせ細ってしまったのを眺めていたことにその時初めて気付いた。

僕は声を出さないようにさめざめと泣いた。

その後小林さんの自宅には七回忌まで線香を上げに行った。

小林さんの影響もあり、僕はがんに強い関心を持つようになった。
計らずも、義母のスキルス胃がんが知れた時、それまで蓄積した知識が役に立った。

役に立った。

というのは、義母を救う役に立ったわけではない。限られた時間の中で、取り得る最良の選択をするのに役に立ったというだけの話だ。

小林さんが亡くなってから、義母も含め、友人も、亡くしただけで、救ったことはない。
小林さんが亡くなってから、あそこまで逞しい腕の人間を間近にみたことはない。
小林さんが亡くなってから、自分のチン毛を剃ったこともない。