それでも虹は美しい

「理由を知っていても,その美しさは変わらない」

劇場版『SHIROBAKO』 / 物語の持つ「永遠性」

ある種の物語は繰り返しを続ける。そのループには終わりが見えない。


劇場版「SHIROBAKO」本予告【2020年2月29日(土)公開】

大学の頃の友人と劇場版『SHIROBAKO』を見た。アニメ映画を見るときには,毎回同じ友人と見に行っている気がする。『けいおん』が劇場でやっていた頃*1から一緒に映画を見に行くようになったように思う。この歳になっても付き合ってくれるのはありがたいことだ。

 

TVシリーズは予め見ていたので,登場人物の性格や舞台設定などは頭に入った状態で鑑賞した。『SHIROBAKO』はいわゆる「お仕事モノ」で,PAワークスの作品の中では『花咲くいろは』と『サクラクエスト』とともに語られることが多い。登場人物は苦難を与えられそれを乗り越えることで成長し,作品ができあがる。『SHIROBAKO』のTVシリーズの終盤における「妹役」エピソードは泣かずにはいられない。

 本作の『劇場SHIROBAKO』では,冒頭でTVシリーズのあらすじが簡単に説明される。主人公宮森あおいは,仲間とともに成長し成功を見せた。しかし次のシーンで仲間たちはバラバラになっててしまったことが明らかになる。主人公はブルース・ブラザーズのように仲間を集め,大きな成功 *2 を手にする。劇中ではキャラクターが歌い踊るシーンが多くあるという点でもブルース・ブラザーズを思い出した。歌と踊りのシーンは劇場版ならではの作り込みが見られアニメーションとして気持ちいい。歌と踊りのシーンが有ることで,重い物語とのバランスが取られていた。

ところで『SHIROBAKO』は繰り返しを意識させる作りになっている。作品を作る仕事に就き食べていくということは作品を何回も作る,すなわち繰り返し困難を乗り越えるということを意味する。TVシリーズにおいても,1-12話で『えくそだすっ!』を,13-24話で『第三少女飛行隊』を作成する。これらの一つひとつの作品を完成させる中で登場人物は出会い,困難に立ち向かい,個人としてもチームとしても成長していく。そんな彼女らの目の前には夢・世界が広がっていた。

 しかし劇場版では出会った仲間が離れ離れになってしまった現実が突きつけられる。TVシリーズで見せられていた「夢に手が届きそう」というラストシーンと比較すると,よりリアルであり夢からは遠ざかっているようにも思える。一つのことがうまくいったからといってその先もうまくいくとは限らないというのはそのとおりである。身に覚えがあり過ぎてしんどい。うまくいかないよね,人生。

どんなに困難を乗り越えたとしても,予期せぬ自体によってこれまでの積み重ねが崩されてしまう様に思える事が起きる。TVシリーズと劇場版の4年間で武蔵野アニメーションに起こった事件のように。

 成功は続かないし,苦汁を舐めることは何度も訪れる。困難を乗り越えるためには結局のところ,見苦しくあがくしかない。本作の中では奇跡は起きない。しかし,登場人物が一生懸命やった結果,より良い,その時点での精一杯の成果が返ってくる。そしてそのあがきはこれからの人生の糧となるのだ。終盤,主人公の所属する武蔵野アニメーションがのこれまで作ってきたキャラクター (チャッキー*3えくそだすっ!・第三少女飛行隊の面々) が次々に登場するシーンを見ている時に思わず泣いてしまった。

描かれている物語のフレームの外でも彼女らの人生は続いていることが劇場版によって示された。宮森あおいは今後も困難に見舞われては,打ちのめされ,それでも立ち上がり,がむしゃらに何度でもそれを乗り越えていくだろう。そしてまた次の目標を見つけて向かっていく。彼女の人生が続く限り。物語の終わりが描かれない限りその物語は永続性を持つ。SHIROBAKOは劇場版によって「永遠」を手に入れたのだ。 

私達もまた繰り返しを続けるのだろう。見苦しくてもがむしゃらに生きなければ。

 

*1:2011年公開なのでおよそ9年前か,時が経つのが早くて怖い。

*2:本作においては劇場版アニメの完成

*3:山ねずみロッキーチャック」が元ネタと思われる。

20190502の日記

家庭教師とプログラミング関係のバイトをしている。そして給料を手に入れている。「給料をもらう」と書くよりもいろいろ自発的に動いている気がする。だからといって何か成し遂げている気もしない。

今のところ,大学院は休学していて,休みの日には研究室に行って論文を読んだり,プログラムを書いてみたりしている。あまり前には進んでいない。やらなくてもいいことをやらないというのが苦手だ。やらなければいけないことをちゃんとするわけでもない。

雨が降り続いていて憂鬱だ。お酒を飲むとsense of ownershipが薄くなる気がする。自分の体から抜け出せればいいと思うことがある。誰かになりたいわけではなく,ネット上の付き合いとか,体がない状態でのコミュニケーションが面白い感じ。体が濡れたりもしないし。体が無ければ意識のあり方も変わってくるのだろうなと思う。コウモリである感じはヒトにはわからないってことだよな。コウモリの孤独?

 

your gold, my pinkを久しぶりに聞いたら良かった。

 

20181009の日記

 去年の9月から付き合っていた恋人と別れて3日ほど経った。正確には振られたのだけれど。

 彼女に会う前に書いていた散文が予言的に見える形になってしまったのは驚いた。書いていた時は別れを切り出されるとは思っていなかった。

 

 関係を続けたくない理由を話してくれたのは幸いだった。理由がわからないままなのはより辛いから。理由は身に覚えがあるものだった。また、自分自身の変えるのが難しい性格に結びついているものだったので受け入れてしまった。

 彼女の表情からは他の道もあったのだということが読み取れた気がするけど、これで良かったのだと思う。違った形で同じことを繰り返してしまう気がするから。

 

 僕はおそらく社会が苦手だ。人と人とがコミュニケーションを取るとき、そこには社会が生まれる。社会を円滑にやっていくためには、時には思っていることと違うことを言う必要がある。また、したい事と違うことをするべき時がある。僕はそれを茶番であり馬鹿馬鹿しいと思ってしまう。そのような態度が結果的に彼女の自尊心を傷つけてしまった。

 社会性を身につけて適度な嘘をつくことができるのだろうか。コミュニケーションのために嘘をつくだけの価値があると思える人に今後出会えるのだろうか。

 うまく社会をやっていけるか心配だ。しかしそれでも朝は来るし世界は回る。

 「もう一度一緒に行こう」と言っていた店に二度と行くことはないのは寂しい。寂しさのクオリア。それを知ることができたのは良かった。

カラスと暮らす。

 幸いにもそして愚かにも「いつか」に対して重さを感じることのなく簡単に口から出たそれは、僕の予測していた以上にみじかい消費期限を持っていた。言葉の寂しさは別の言葉を連れてくる。あたらしさ。サヨナラ昔の世界。連絡は早めに送れ。もうチャンスは少ない。カラスを連れて行こう。

 僕も,僕が連れてきたカラスも無口になって見つめている。彼女は僕に言うだろう「いつかはもう過ぎた。」と。幸福な日常は終わりでこれからはカラスと慎ましやかに生きていく。いつかが来たこととサヨナラを言えたことは同程度に幸いだった。サヨナラを心から言えたのか、またねと言ってしまった気がする。 カラスは僕とついてきてくれる。なぜならここのところ彼とは仲良くしていたから。

 

 新しい店に行くとカラスが懐いているなら雇ってやるという。簡単なテストを解きカラスとの関係を証明した。カラスは僕に懐いているように見える。茶番だ。関係性など本人にもわからない。俺はカラスが好きだ。カラスは?

20180724の日記

 昨日は彼女の家でチキンのコーラ煮と焼きナスと冷汁を食べた。冷汁の胡瓜とミョウガとシソとゴマが美味しかった。ミョウガは漢字では茗荷と書く。

 彼女とは去年の8月くらいから付き合っている。9月だった気もする。料理が上手く、趣味が近い。あと太っている。いい人だ。

 洗い物をしたあと彼女の部屋を掃除して、ヤマシタトモコの「異国日記」を読んで帰った。ヤマシタトモコの書く人物はお洒落な服を着ているので好きだ。

 仕事を探すこと。

20180708の日記

西のほうは雨で大変みたいだ。

今日は昼過ぎに動き出し,風呂に入り洗濯をして食事をした。

 

眼鏡がなくなって困ったが,ベッドの下に落ちていた。物をすぐ無くす癖があるので所定の位置に置くように気をつけよう。

 

amazon prime music に有ったきのこ帝国を聴いた。もう五,六年前になるがきのこ帝国の曲を友人に勧められたことがあった。何という曲だったか忘れてしまったが。今日は『愛のゆくえ』というアルバムを聴いた。歌詞がいい。青年期前期の切なさがある。何かを失ってしまうことに関する焦りと言い換えてもいいかもしれない。

 

昨日のソースのシミがなかなか消えなかった。今日の残りは洗濯をして,ギターを弾いて寝る予定。

リズと青い鳥 / 観客の知性を信じるということ

 先週,朝から映画館で二度目の「リズと青い鳥」を観た。最高だった。

 リズと青い鳥京都アニメーション山田尚子監督が手がける監督作品の劇場四作目であり,「響けユーフォニアム」のスピンオフ作品である。

 山田監督は女の子の仕草をフェティッシュに書くのが得意だ。というか,作家性なのだろう。「けいおん」が面白かったのも細かく描かれた動きがかわいいからだ。唯ちゃんはかわいい。

 「リズと青い鳥」ではその作家性が生きていた。登場人物が演技をしていた。セリフの裏の本当の気持ちが読み解けるように演技が配置されていた。すごい計算だ。山田監督は観客が読み解けることを信じている。

 演技を読む,動きからセリフを読み解くことは集中力が必要だ。読み解くこと,つまり発見することから面白さが生じる。山田監督の映画にはその面白さがある。

 冒頭,主要キャラクターである鎧塚みぞれと傘木希美が校門から音楽室に向かうまでセリフのないシーンが続く。そのシーンだけで二人の性格,関係性が説明される。二人のあるきかたの違い,のぞみの後ろをついていくみぞれの控えめな目線にそれらが現れている。

 また,「小道具」からも読み解く楽しみは生じる。そこに情報を込めることができる。たとえば今回はベン図が出てきていて,二人の少女の瞳の色がそれぞれの集合の色と対応していた。鎧塚みぞれの瞳はピンク色であるのに対し,傘木希美の色は青色だ。ベン図の色にも同じピンクと青が使われている。はじめ交わらなかったピンクと青は,物語の最後に混ざる。教室のシーンで教師が語っていた「互いに素(そ)」の状態から,公約数を持つようになる,つまり同じ要素を持つようになる。

 全く同じ要素を持っていなかった2人が,同じ要素を持つところで物語は閉じる。同じ要素を持った瞬間は一瞬なのかもしれない。だからこそ儚く美しい。「ハッピーアイスクリーム!」といった鎧塚みぞれの顔は楽しそうだった。ラストシーンで振り返った傘木希美は笑っていただろうか。笑っていてほしいと思う。

 後半,青い鳥が群れで飛び立つシーンは祈りだと思う。学校という鳥かごに入り,飛び立っていく。鎧塚みぞれは自分自身が鳥であること,飛び立てることに対しそうすべきであると向き合った。傘木希美は自身もやはり鳥であることに気がつけただろうか。リズと少女は同じ声優が演じており,それは鎧塚みぞれと傘木希美の中に,リズと少女の要素どちらも入っているからだと思う。傘木希美もやはり鳥なのである。

 文章の中で傘木希美に対する割合が多くなったのは僕が相当やられているからで,映画を見てから一週間ぐらいずっと傘木希美のことを考えている。ここまでさせるのは読み解くための情報が多いことが原因だ。山田監督は観客がその情報を読み解くことができると考えているはず。

 どんどん作品の質が上がっていると思うし今後も新しい作品がまだまだ観られると思うと楽しみだ。「リズと青い鳥」は最高だった。