煮汁をこぼさないスピードで

「煮汁をこぼさないスピードで」ってタイトルで小説か詩集出版したい。今急に思いついたんだけど。本屋さんで「煮汁をこぼさないスピードで」って背表紙見つけたら絶対手にとるだろうな。そもそも日常において煮汁をこぼさないままスピードを求められるシチュエーションなんかそうそうないだろ!!っていうツッコミ待ちのボケみたいな。っていうか煮汁ぐらい多少こぼしても良くない?

 夏に映画を撮るんですよね。2時間ぐらいのやつを。今まで散々、短編映画、ドキュメンタリーだとかMVだとか撮ってきたり、撮る予定だった作品ポシャったりとかいろいろあった中で最大規模のとびっきりビッグな志のやつをね、撮るんすよ。

 なんかもうこの映画完成させても尚、人生に何の変化もない場合、そろそろ自分の人生見つめ直したほうがいいんじゃないかっていうか。それぐらいの気持ちで今、キャスティングしたりロケハンしたりしてる毎日。主要キャストさんはほぼ決まって、とびっきりのメンツになったと思う。今から読み合わせ、撮影が楽しみで楽しみで仕方ないって感じ。早くロケハンとか準備もろもろ終わってくれ

 ロケハンで感じるけど、大阪の人ってなんだかんだみんな優しいなあっていうか。門前払いとか全然されないし、自主映画でも話はちゃんと聞いてくれる。わからんことも教えてくれる。自主映画を撮るのには良い地域だなって思う。お金だけで解決するんなら単純に利便性とかも含めて東京とかのほうがいいんだろうけど。

 とにかくマジでかあっくいいアッツアツのハイパーウルトラガールズムービーを作るので。日本の全女性の皆さん、震えて待っててください!!打倒!!キモい男!!

ヤンバルクイナ

 ヤンバルクイナって今絶滅してるんだっけ?してないんだっけ?まだギリ生き残ってんだっけ??忘れたなあ。だって自分にあんま関係ないことだもんなあ。世の中にはたくさんの価値観と情報と知識が竜巻みたいなスピードでちぎっては投げちぎっては投げを繰り返され、それがもう何なのか吐瀉物なのかもわからずにダーッって流れていくじゃないですか。だからヤンバルクイナのことなんか忘れてしまった。生き残っててくれ、ヤンバルクイナ

 確か去年の夏頃に思いついて、それを今年の1月末頃からしこしこと脚本にする作業をして、ああでもないだのこうでもないだの繰り返して闇雲に孤独と戦いながら、自己嫌悪と自己肯定の壁に身体が血と肉の塊になるぐらい挟まれて圧迫されながら、ダラダラと月日ばかりが過ぎていった。もっと才能と情熱のある人なら1か月もかからずに書き上げてしまえるような本だと思う。

 しかもその執筆期間中に恋人に振られるわ、家族から追い出されそうになるわのてんてこ舞いで、何がマジで何が嘘かもわかんなくなりながら必死に書いた脚本。今からちょっとだけ手直しして、明日主要キャストにデータで送る。

 たぶん物凄く壮大なコメディで、物凄くバカバカしくも鋭い社会批判なんかも盛り込まれちゃったりもしてて、今まで生きてきた23年間の中で女性に対して思ったこと、自分自身に対して思ったことのグジャグジャのビュッフェみたいになっていて、まあ説明めんどくさいからとにかく良い脚本だなあ、って漠然と思える脚本になってる。

 キャストの人、これを読んでどう思うんだろう。あるいはロクに読みもせずに大雑把にあらすじだけ把握して「おもんね~」ってなってそのまま誘われたカラオケオールに行っちゃうのだろうか。それとも夜中にしっとり読んでじっくり泣いてくれたりするんだろうか。泣いてほしい。泣いてほしいっていうとクソボケ配給会社の作るカス邦画予告動画のキャッチコピーとあまり精神性が変わらない気がするけど、本当に泣いてほしい。

 映画を観てて、ああ面白いなあとか手に汗握ったりだとか、いろんな瞬間があるけれど、やっぱり泣いてる瞬間が一番心救われるっていうか。自分は大体の映画で何かしらのシーンで泣くんだけど、もしかしたら泣きに映画館行ってるんじゃないかなあ。泣くっていうのは単に悲しいシーンとか死別とかそんなしょうもない括りじゃなくて、主人公の途方もない目標が達成されたりとか、ストーリーを崩壊させてでも訴えたいクリエイターの濃いメッセージが透けて感じれた時とか、そういうのも全部って意味での涙。人を泣かせたいもんですよね

そういえばブログやってた

 さっき気が付いたんだけど、そういえば自分ってブログやってたなって思った。っていうかブログ更新してなかったこの一年もちょいちょい「そういえば自分ってブログやってたな」とは思ってたんだけど、別にブログとかもうよくね?毎日楽しいし、それで何かもうどうでもよくね?みたいな感じで、そもそも今過去の記事読み返しても既に黒歴史じゃね?みたいな感じの。でもアカウント消去するほどでもない感じの。寝かしてる間にいい感じに蒸発してくれればそれでいいかな~みたいな。こいつウザいけどラインで露骨に冷たい態度続けとけばそのうち誘ってこなくなるっしょ、みたいな感じの。ごめんブログ、俺、ブログやってたわ。ごめん。謝って済む話じゃないと思うけど

 一年四か月付き合った彼女に爆発的に振られて自暴自棄になって、東京の友達の家に二週間ぐらい緊急居候をし、その後、衝動的に父方のおばあちゃんの家(広島)に二泊三日で旅行して、さっき家に帰ってきた。とにかく彼女との思い出の詰まった大阪にいたくなかったので。大阪の街をウロウロしてるだけで過去の未練が蘇るので。とにかく場所を変えることが大事。今はだいぶもうどうでもよくなった(元カノのことが)。そんなことよりも今考えるべき大事なことがたくさんある。無職だし

 今年に入ってから精神的にキツめのイベントばかりな気がする。バイト探してもずっと面接で落され続けるし、受かったバイトも「ようやく続くかも~」と思った矢先に彼女に振られたんで精神的ショックでブッチしちゃってそっから連絡できてないし。夏に撮るって友達に宣言しまくってる脚本もまだ全然仕上がってないし。去年撮ったMVとかドキュメンタリーのギャラまだ振り込まれてないし。ピエール瀧捕まるし。悪いことばっかり起きてる気がするんよなあ

 でも自分の人生、軽いノリで振り返ると、大体その一年のいいことって後半戦に集中してる気がする。なんか一年の本番は夏からっしょ!!みたいな自意識がそのまま現実になってるっていうか。冬はまず前年の残尿というか、なんか「新年度になってからいろいろ頑張れば良くね?」って思っちゃうし、春は世間は「新生活応援!!」みたいなテンションで来るけど実際はポカポカ気持ち良くて何かに挑戦しようって気分には全然ならない。五月はなんか「五月病だあ~~」とか言い訳してファッションメンヘラになるし、六月は雨ばっかでキモいし。ってなるとやっぱり年の本番って夏じゃん!!ってなる。暑いの好きだし

 とか言い訳して無駄な月日を学生気分で浪費すんのもそろそろやめないとなって考えてる。考えてるだけなんだけど。実際行動で示さない限り「この人変わったな」と周囲は認めてくれないんだけどね。これは元カノに言われた言葉です。でもしょうがなくない?今、この瞬間は言葉で説明するしかないじゃん。言葉と生きていく、って某宗教団体の新聞のCMでも言ってんじゃん。言葉って前提としてアホほど信用できないんだけど、信用できないなりに可能性は感じてもいいじゃん?俺に可能性感じて?って話なんですけどね。

 だから夏からめちゃ金かけて人生掛けるつもりで自主映画撮るので。そこで何もなかったらいよいよ自分の人生根本から見直さなきゃなって気分になりながらビール飲むと思う。それぐらい俺は今追い込まれているよ。応援しておくれよ、未来の俺の恋人よ。俺だけを、だらしないなりに頑張ろうとしている俺だけを真っ直ぐ見てくれよ。頼むからさ

ネタがずり落ちている寿司

 先日、大学でイヤホンを置き引きされたので、ほんの若干高めのイヤホンを新しく買った。3000円もしないのでイヤホン界の重鎮などからしたら10円も同然のような代物なのだろうけれど、今まで1000円前後のイヤホンで人生を過ごしてきた自分にとっては驚きが止まらない!ロマンティックが止まらない!急な気温変化による鼻水が止まらない!

 1000円前後のイヤホンというのは、音量を上げると高音の主張が強くなって死ぬほど耳が痛くなる。かと言って小さな音量でちまちま聞くのも趣がないので、それなりの高音が主張しすぎないレベル限界のMAX音量で音楽を聞く。

 すると低音の主張もなかなか強いことに気付く。そしてこの低音は、他の音たちを殴り殺していく(聞こえなくする)。低音というガキ大将によって十分に活躍ができない子分たちの努力の結晶を、我々は1000円のイヤホンで聞くことができないのだ。

 そこでこれの3倍の値段のする3000円イヤホンで同じ音楽を聞くとあら不思議!!授業中の質問では全て手を挙げなければ気が済まないほど目立ちたがり屋の高音も、他人を殴り殺すことでしか自己を主張できない大将の低音も、その子分も、全員が仲良く調和している!喧嘩せず、全員がひとつの方向に向かっている!なんという感動!音楽は最高!

 この世界平和みたいな穏やかな感覚、これぞ人類の目指すべき境地なのではないだろうか!しかし、そうはいかないのが現実で、理想論ばかり振りかざしても何も解決されない問題ばかりの現実。

 だからって諦めるのはまた違う!また別の方法を考えるなり何なりおいなり、人生には無限の道の選択肢があるのだ。だからこそ人生は複雑で、複雑であるが故に美しいのだ。美しさは最高!早く心の美しい人間になりたい。一般常識とされているようなふざけた「美しさ」ではなく、もっと人間的で本質的な美しさを手に入れたい。そのために自分は今何をすべきなんだろうなあ、と考えてみたりするけど、結局この世界のことなんか何もわからないし、わかろうとする努力のひとつとして自分は映画を撮ってるんだなあ、と思った。

 

11月5日に京都の某高校の文化祭で、僕の監督した映画が午前と午後の計二回上映されるのですが、行きたいよ~って方がもしいらっしゃったらコメントなりTwitterのDMなりプレモルなり僕に送ってください!

何も書かずに印税がほしい

 今年の夏は本当にたくさんのことがあったし、もしかすると今までで1番濃い夏だったかもしれない。そんな夏もある日を境にスッと終わり、秋がやってきた。

 秋がやってきたらやってきたでこれまた大変で、なんやかんやで家が揉めに揉め、半分家出めいたこともするなどし、一時は穏便に先送り解決はしたものの、決して目の前の問題から逃れることはできない。自分の人生を、自分で切り開いていかなければならない。

 僕は何がどうであろうと映画の道に進みたいし、それ以外の人生などは基本的には考えられない。ずっとずっと映画を観て育ってきたし、今自分という人間を説明するのに映画なしでは到底不可能だし、何より映画そのものに恩返しをしたい気持ちがある。

 そんな半分綺麗ごとめいた理由とはまた別に、僕は本当に表現せずにはいられない人間だし、人間のできる行為において表現以上に美しい行為なんかこの世には存在しないと思っている。人生は表現に始まり、表現に終わる。この文章だって表現だし、呼吸も、血の流れも、リビングで流れている2時間ドラマだってもちろん表現だ。人間も神の表現物かもしれない。

 だから僕はこの先一生表現することをやめたくなんかないし、必ず映画を撮り続けていきたい。映画を飽きたにしても、小説も書きたいし、バラエティ番組や音楽ライブだって演出したいし、現代アートもやりたいし、人間のできる表現全てしてみたいという気持ちにあふれている。そして突然、スッと死にたい。そしてまた違う世界で、全く違う人生、たとえば表現なんか一切しない人生、なんかを送ってみたい。

カラオケのマイクたまにベタベタしてて嫌

 友達とめちゃくちゃ飲酒したり、汗だくになりながら一緒に映画撮ったり、夜中に公園でしんみり語ったり、好きな女の子とめちゃくちゃ遊んだり、この夏にありとあらゆる「青春」的な何かをこなしすぎたせいだろうか、今、あまりに、あまりに巨大な虚無感が押し寄せている。人生、これからもう映画監督になるしかないし、映画監督になったところで俺は人として良くできた人間なのか?社会に貢献できているのか?ってか死にたいな?

 とにかく新しいことをしたい。自分の価値観を停滞させることなくどんどん壊していきたい。一瞬、一瞬で生まれ変わって別人になりたい。過去の自分と決別して、未来の自分とだけ仲良くなりたい。赤信号だろうと何だろうと止まりたくない!常に動き続けたい!止まったら終わりだ!

数多くあるブログ記事のうちのひとつ

 今、ふと自分の人生をゆっくりと思い返せば、僕の人生は、映画を作る度に、その映画によってぐにゃりとねじ曲げられてきた。その映画を通じて新しく出会う人、その映画が精神的に自分に与えた影響などなど、「この映画を作らなければこんなことにはならなかったのにな~」と(良くも悪くも)毎回感じる。

 映画を作る度に何かしらの人生のハプニングが起こり、予想もつかない方向に人生が転がっていく。そう思うと、やっぱり人生は映画だし、映画もまた人生なのだ。もう最近、そのことに疑いの余地はなくなってきた。余地どころか生地も土地もなくなってきた。

 10日、某高校の校舎で青春映画を撮る。適当な恋愛を無難にこなす青春映画ではなく、失われた青春をもう一度取り戻そうとする男の物語だ。アリス時間の旅や、21&22ジャンプストリートで描かれる「過去のトラウマとの決別」というテーマに最近すごく興味があって、是非今回、自分で少し掘り下げてみたいと思った。

 今回はロケ地が高校の校舎であることに加え、主演二人も高校生、そして自分とは別のカメラマンがいるという現場。常に自分の映画では自分がカメラを回していたので、めちゃめちゃ新しい試みに緊張する。緊張するとは言っても自分が言いだしたことなんだけど。

 カメラも楽しいし、脚本も楽しいけれど、本当に「演出」にだけ集中したいという思いがある。ただ自分の目の前にある「物語」を、どう語っていくか、どう見せていくかということにだけ興味がある。その空気感、演技のニュアンス、なんか今もうめちゃめちゃ書くのしんどくなったからやめる。

 人っていうのは、濃密に関わり合えば関わり合うほどめんどくささを感じてしまうものですね!