2021年12月6日
- 缶もしくはペットボトルコーヒーを買うのが習慣化しつつあるので、今日はノンカフェインデーにしようと我慢してみたが、結局午後飲みたくなって紙パックコーヒーを飲んでしまった。
- 先日発生したトラブル、濡れ衣かと思いきや実は濡れ衣ではなかった可能性が高くなっており、今後の動向から目が離せない。
- 小学校の時の友人が地元で障害者サポートセンターの代表をやっていると判明、真面目にがんばってるんだなとしみじみ思った。
稲葉振一郎『経済学という教養』(ちくま文庫)
P203
少なくとも一人については改善し、残りの者たちについても悪化させはしないだろう。→パレート最適
P266
マルクス経済学は、不況を不均衡現象としてとらえてしまい、ケインズ的な不完全雇用均衡の概念に到達することはできなかったのだ。
P275
マルクスが資本主義、近代ブルジョワ社会の中に見た最高の可能性とは、おそらくこのようなもの、機会(チャンス)の平等はあるが結果の平等はない世界であり、これに対し、未来の共産主義社会とは、あらゆるチャンスについて成功が約束された世界である。
つまりマルクス主義というのは実践的政治政策思想と言うより現世拒否的な(そして、そうであることによって逆説的にも現世の秩序と馴れ合う)宗教思想と言ったほうがいいような構造をしているのである。
P295
「人間は弱肉強食の試練に耐えねばならない」という変なモラリズムにはまっちゃってる奴らが結構いるのだ。
P296
経済学的な意味での「公共財」とは、平たく言えば「誰でも自由にアクセスして使えて(排除不可能性)、しかも使うに当たって待たされたりすることもなく、使いたい人々の間で取り合いが起きることもなくいっしょに使える(非競合性)ような財」というわけだ。
P300
それゆえに公共財の供給を民間に任せてしまうと、採算を度外視してあえて善意でその事業に邁進してくれる篤志家に頼るしかなくなってしまう、つまりは供給不足になってしまう危険が高い、というわけである。
P346
「教養」とは何か?~中略~それ以上に重要な第二の要素は「知的分業を可能とする社会的な枠組みと、それへの信頼感の共有」だろう。つまりそれって「公共性」と別のことではないんだ。
P356
つまり限られたパイの切り分け方を変え、豊かな人々の負担によって恵まれない人々の状態を改善する、という方法よりも、パイそのもののサイズを大きくして、恵まれない人々の人々も、もともと豊かだった人々も、全員の状態をおしなべて改善する、という方法のほうが、全員の合意を取り付けやすく、実行しやすいことが多い、というのは自明の理ではないだろうか。
P382
経済成長なしに技術革新はありえない。技術革新がない、ということは環境負荷低減型の新技術開発もない、ということだ。
吉川洋『ケインズ』(ちくま新書)
P43
「われわれが個人に金を貸すのは嫌がっても、銀行預金を保有するのは、個人の書く「借用証書」が到底決済手段にならないのに対して、銀行預金はそれ自体決済手段だからである。要するに19世紀後半から20世紀初頭にかけて、イギリスのみが「銀行」の立場にあり、それ以外の国は全て「個人」の立場にあった。」
P84
「われわれの住む社会、そして経済にとってインフレが重要な問題になるのは、現実の物価上昇は必ず不均等であり、そのプロセスで富と所得の不当な再配分が行われるからである。」
P87
「ケインズはリスクが膨大な経済的無駄を発生させていると考えた。こうした無駄はいわば「人災」である。インフレもデフレも、金融政策の運営次第で避けることができる。」
P97
「要は、一般に二国の財・サービスに対する需要・供給条件が変われば、インフレ・デフレがなくても為替均衡レートは変わるのである。」
P102
「価格の動きが最も重要なデータであることはいうまでもない。しかし雇用水準、生産量、銀行が感じる需要の強さ、利子率、債権の新規発行量、流通現金、輸出入、為替レートなどすべて考慮されなければならない。要は金融政策の目標が価格の安定にあるということにつきる。」
P126
「古典派経済学によれば、価格はその財の生産に要した労働投入量によって決まる(労働価値説)。これに対して新古典派経済学は、全ての財・サービスの価格と生産体制が、需要と供給によって決まると考えた。」
P128
「一般均衡の状態では効率的な資源配分が実現される。新古典派経済学は、一見無政府的にみえる資本主義経済において、資源が無数の用途に効率的に配分されていくメカニズムを詳細に分析した。このように市場メカニズムの「明るい側面」に光を当てる新古典派理論は、当然のことながらわれわれを予定調和的・楽観的経済観へと導く。そこでは政府の経済的役割が小さくなることは容易に想像できるだろう。」
■摩擦的失業
経済全体をみれば求職・求人の数は同じだが、一時的かつ必然的に発生する失業
■自発的失業
労働者が自ら進んで職探しをするための失業
P135
「有効需要の原理」
生産を拡大させるのも縮小させるのもらそれは財・サービスに対する需要である。需要こそが資本主義経済のアクセルであり、ブレーキである。
P137
「消費性向」
→「消費の増分」÷「所得の増分」(一より小さい)
P150
「資本の限界効率」(=期待収益率)
一台100万円の機械が年々15万円の利益を生み続けるならば、この機械の期待収益率は(年率)15%である。
P151
投資は「資本の限界効率」と利子率が等しくなる水準に決まる。こうして決まる投資量は、当然のことながら利子率が上昇すれば小さくなる。逆に利子率が下がれば大きくなる。
P152
「アニマル・スピリッツ」
行動せずにはいられないという内から込み上げる衝動
P157
「貯蓄は「明日の財」に対する需要、投資は「明日の財」の供給と考えれば、「明日の財」の相対価格(利子率)がその需要と供給を一致させるように決まるということになる。」
P158
「ケインズはまず利子率が、「現在財」と「将来財」の相対価格、あるいは新古典派経済学者が好んで言ったように「忍耐に対する報酬」といったものではない事を力説する。そして利子率は、「貨幣」という「流動性」100%の資産を手放すことに対する報酬である、と主張した。」
P162
■総需要を増大させるための政策(2つ)
1.財政政策(政府支出・減税によるGNP増大)
2.中央銀行による金融政策(金利)
P181
マーシャルが主力を注いだのは、「風や波ではなく、潮の満干を律するような法則」つまり「経済の長期的な傾向に関する法則」であったのに対して、ケインズは「風や波」すなわち「短期の問題」を鋭く分析した。
P187
「価格の変化」はケインズ経済学のアキレス腱だった。『一般理論』においてケインズは名目価格、とりわけ賃金の硬直性を強調した。この点が、価格の役割を重視する新古典派の立場からは大きな不満として残っていたのである。
竹田青嗣『現象学入門』(NHKブックス)
第一章
P 12
この現実と認識の「一致」を、ヨーロッパの哲学では伝統的に「真理」と呼んできたのである。ところが、実際は、現象学のいちばんの功績は、この伝統的な「真理」の概念がなぜ不可能なものであるかをはっきりさせたところにあったのだ。
・記述心理学
・志向性
・根本問題
P19
人間を、一定のコードでプログラムされた認識装置としての機械、つまりコンピュータだと考えてみよう(中略)なぜならコンピュータはコードにしたがってだけ「考える」から、このコード自体の「正しさ」をけっして判定することができないからだ。
P23
つまり、さまざまなものの「本質」が何かというような問題は、本来人間の理性の能力を超えたものだ。人間は原理的にこの問いには答えられない。(カント)
P29
真、善、美という「理想」は認識されるものではなく(それは神のみぞ知る)、ただ人間にとって"意志"されるものなのである。
P31
もし主観と客観が「一致」しないならば人間はものごとの「本当」や価値について何ひとつ確実なことを言えない、ということになるし、さりとて主観と客観が一致すると言えば、一切が定められているという「決定論」や「摂理」の考えを避けられないことになるのだ。
すなわち、〈主観/客観〉という前提から出発するかぎり、わたしたちは、論理的には必ず極端な「決定論」か、それとも極端な「相対論」、「懐疑主義」、「不可知論」かのどちらかにいきつくことになるのである。
P34
伝統的な哲学が考えたように〈客観〉なるものがあるのだとすれば、真理の認識がかくもばらばらの形で現われるのは不可解である。また〈客観〉がもともとないのだとしたら、つまり全てが人間の思い込みだとすれば、日常に現われる大勢の人間にとって疑いなく「確実なもの」の存在はいったい何に由来することになるのか。
第二章
P41
だから問題は、人間が考えるコンピュータとは違った仕方で存在していること、夢と現実とを区別するある原理を、〈主観〉の内側に(コードそれ自体の中に)内在させていることを明らかにする点にあることになる。(フッサール)
P42
ではどう考えればいいか。まず、〈主-客〉図式を取り払うこと。つぎに、これが大事だが、したがって人間は〈主観〉の中に、ある「疑いえないもの」を見出し、それを他人と共有せざるをえないような構造を持っている、と考えることである。
P44
現象学の場合、この"確信"あるいは「不可疑牲」は特に三つのことについて言われる。ひとつは世界が実在するということの「不可疑牲」、もうひとつは、自然の事物の実在の「不可疑牲」、そしてさいごに〈他者〉の実在の「不可疑牲」である。
・直接判断と間接判断
P50
どんな認識や思想にも必ずさまざまな"憶見"がつきまとっているが、そのいちばん底には、もはや憶見と言えないもの、それを疑うことが無意味であるようないわば「確信」の底板というべきものがあると原理的には言える。それをフッサールは「諸原理の原理」、つまり「原的な直観」と呼ぶのだ。
・知覚直観と本質直観
・知覚の元素は特定不可能
P55
結論を言うとこうなる。わたしたちが〈知覚〉と呼ぶ意識表象には、他のものとは決定的に違う性質がある。それは〈想起〉、〈記憶〉、〈想像〉などが、ほぼ意識の志向力によってそれを遠ざけたり、呼び寄せたり出きるのに対して、〈知覚〉だけは、つねに意識の自由にならないものとして現れるという点である。
P57
〈主観〉はそれをただ自分の内部からのみ、なんらかの対象存在の「不可疑牲」という仕方でだけ得ている。
P58
私が聴いているこの音は、「いまここにあるもの」として「偶然的な事実存在」である。ところが、同じこの音は、「音響」とか、「音」一般といわれる「述語要素」を持ち、この側面は「必然的」なものだ。この音の前者の側面をわれわれは「事実」と呼び、後者の側面をその「本質」と呼ぶ。
P63
それは、ある概念(言葉)を外在的な客観に対応するものとして捉えるのではなく、ただ〈主観〉のうちの内在的な意味系列として捉えるという方法をとることになる。
P66
「あいつの頭は硬いよ」という誰かの判断は解釈だから他の解釈も成立する。しかし「石は木やガラスより硬い」という判断は、全くの解釈とは言えないのだ。
P71
物の〈知覚〉と物の〈意味〉は、ふつう考えられているように実在するものと抽象的なものという分け方出は捉えられないことがわかる。この二者は、いずれも意識の自由を超えたものとして意識に「疑いえないもの」の確信を与える働きをするのである。
P73
現象学の課題はむしろ、まず〈主観/客観〉の一致をめざす伝統的認識論は成立しないこと、さらに、論理的には成立しえないはずの人間の共通認識がじっさいにはそれなりに成立していることの理由、またしかし、伝統的認識論の不可能性から認識一般を全否定する必要はなく、そこにある正当性があること、つまり認識の意味を明らかにする点にある。
第三章
P78
つまり、空間・時間の地平の拡がり、その唯一同一性、それが原理的に未知性を含むこと、しかし未知の部分も確かに存在するものだという確信、これらが「自然的世界像」の第一の特徴である。
P79
〈還元〉を行ううえでのいくつかの要点
1「自然的世界像」につきまとっている一切の素朴な確信(自明性)を怪しいものとして留保しておくこと。
2「自然的世界像」を基盤にした科学的「学問」の成果、知見の一切をも、また留保すること。
3 科学的「学知」のみならず、いろいろな〈物語〉(神話、宗教上の世界像、諸作品等々)の知見をも留保すること。
P80
要するに、「還元」とは、さまざまなドクサ(憶見)の衣装をまとって膨れあがったわたしたちの世界像という王様の権威を、その衣装を一枚一枚はぎとることによって裸にしてしまうことだ。
・純粋意識
・たまねぎの例え
デカルト 芽をコギトと呼ぶ
フッサール 芽の「はたらき」を純粋意識と呼ぶ
P83
外側から与えられていることが特定できるもの→「意識相関者」
与えられたとは言えない内側の「はたらき」→「純粋自我」
〈コギタチオ-コギターツム〉
机を見るという意識のはたらき(知覚)⇔ひとつの机を見ているという事象の経験それ自体
〈内在-超越〉原理
内在→原初な体験(不可疑性の根源)
超越→構成された事象経験(一種のドクサ)
★反論★
〈知覚〉や〈本質〉直観を「根源現象」、つまり認識の最小単位として置いたが、どのような〈知覚〉がそれ以上分割できない最小単位かを規定することなどできないのではないか
P97
ひとはさまざまなものを疑いうるが、しかし自分の〈内在的知覚〉によって最終的な確かめを行ったとき、もはやそれ以上事象を疑う術を全く持たないことになる。そしてそうなったときには、疑いの動機そのものが自然に消滅してしまう。
P98
これはもちろん〈内在〉が正しい判断や認識を保証する、ということをまったく意味しない。むしろ、〈内在〉という不可疑性の底がなければ、およそ、あるものが正しいか誤っているか、うそか本当かという問いそのものが人間にとって不可能になる、ということなのである。
P106
カントの場合その世界の構成は、いろいろな部分を整理表によって組み立ててゆく組み立て工場のようなものだが、フッサールの構成は、いわばイメージの多重化システムのようなものを意味しているからである。
P151
「世界の存在やその中のさまざまな事物はいかに存在しているのか」と問うのではなく、「世界やさまざまな事物はなぜ人間にとってそのように存在しているのか」と問うこと、さらにここから、「人間にとって生の意味はどのようにある(あるべきかではなく)のか、それはどういう根拠から現われどういう場面へ向かっているものなのか」ということを、"普遍的"に問うこと。
P157
論理的には、いくら明瞭な記憶があってもそれだけではその記憶が絶対正しいことの根拠とはなりえない、と言うことができる。しかし、生活世界においては、誰であっても、いま見たような心の状態を持てば六時という約束が正しいことをそれ以上「疑えなく」なる。たしかに六時たったという確信がいやでもやってくる。だから「明証性」とは〈私〉がさまざまなものごとを「正しい」とか「ほんとうだ」とか思うことの、絶対的で「必然的な」根拠である。そういうことをフッサールは言っているにすぎない。
P158
だから「明証性」とはいわば「現実」それ自体の根拠であって「真実」の根拠なのではない。
P159
もともと、デカルトから始まったヨーロッパの近代哲学には、基本的に世界を〈私〉の意識へ"還元"するような伝統があった。~中略~これらはいずれも、世界事象を〈私〉の観念へ"還元"することを方法上の基礎としている。
P169
なぜなら、サルトルの考え方が、意識=自由を人間のありようの本性として強調するのに対して、現象学はむしろ逆に、意識にとって自由にならないもの、意識の恣意性を超えたものを追いつめ、これを「明証性」、つまり人間にとっての現実というものの根拠として閉めずところに力点があるからである。
P182
〈主観〉は、自分の認識が〈客観〉と一致する証拠をつかむことで〈客観〉の実在を確信するのではない。〈主観〉は自己の外に出られないから原理的にこの証拠を得られない。とすれば、むしろ〈主観〉は自己のうちに、自己の自由にならないある対象(=「原的な直観」)を見出だし、これによって自己の「外側に」自己ならざる何ものかの存在(実在)を信じないわけにいかなくなるのだ。これがフッサールの謎解きの骨子だった。この考え方は、それまで等価で対称的なものと見なされていた〈主観〉と〈客観〉という概念のありようを書き換えてしまわずにはおかないのである。
・人間存在(〈気遣い〉として存在)
・事物存在(「道具連関」として存在)
P194
ここでとくに注意したいのは、〈現存在―事物存在〉の非対称的な存在性格という点に着目しない限り、近代的な〈主―客〉図式は脱却できないということであり、そして、この考えを徹底するためには、〈主観〉から〈客観〉を規定することは可能だが、その逆はありえないという原理を貫く必要があるということだ。
2021年12月1日
- 昼間とても暖かかった。
- プールで250m続けて泳いだ。
- マツキヨで買い物した。
- 靴3足の紐を替えた。うち1足はクリーム塗ったりした。