Yamakatsu's diary

男は黙ってカント

教養について

今日は教養について考える機会があったので、現時点で、私が教養について考えていることについて少し書き記す。

といっても、そんなに深い考えがあるわけでない。私はある人から「マルクスを読んでいない人間は人間じゃない」と言われたことがあり、そのとき「マルクスの著作には知るべきことが書いてあるのではないか、読むに値するのではないか」と不覚にも思わされ、事実読んだのだが、教養とは徹頭徹尾それに尽きる、と思っている。もう一つだけ具体例を挙げる。私のバカな後輩は、とある先生の授業を受けた際に、あまりの面白さ、博学っぷりに感動して、「俺は今のままではダメだ、勉強しなければならない!よし、大学を辞めよう。」と思ったらしい。(実際のところは両親から引き止められ、退学はせず、1年半休学して本を読み続けたらしい。)教養とは徹頭徹尾それに尽きるし、それ以上語ってはいけない何かであるはずだし、あるべきなんだ、と思う。

あなたは何を選びますか。

資本主義社会において計算可能性という意味での合理性を追求すれば、「おひとり様」暮らしが最適戦略である。なぜなら、自己は手放せないし、他者は他者であるがゆえに、思い通りにならないからだ。ゆえに、足枷の外された資本主義社会において「個人化」の進行は蓋然性を持つ。問題なのは、むしろ、個人化した自己が、何をシンボルに、何と一体化しようとするか、という点にある。

戦後は一貫してナショナリズムに対するアレルギーが蔓延していたために、(現在もその効能は残っている。)そのシンボル=共同体は企業が担い、終身雇用=永久成長物語が神話として機能した。だが、バブル崩壊以後、成長神話が機能しなくなるとともに、戦後民主主義を擁護した知識人もこの世を去った。(だが、まだナショナリズムに対するアレルギーは少なからず機能している。)ゆえに、現在は、どのシンボル=神を信奉すべきなのか、の合意にはまだ至っておらず、神々が闘争している状況である。我々はその中から一つのシンボル=神を選ばなければならないし、選ぶことができる。

さて、それは神=デーモンである以上、基本的には、自己を超越したものである。しかし、自己を超越しているということが、すなわち、コントロールの埒外にあることを意味するわけではない。日本人の大半は、戦後一貫してナショナリズムを嫌悪してきた、目を背けてきた。(ナショナリズム嫌悪という合意のもとで、日本人という同一性を担保してきた面も否めない。)だが、当面ナショナリズムという神=デーモンを廃棄することはできない以上、ナショナリズムという名の神=デーモンを我々は理解せねばならない。(もちろんそれはナショナリズムにかぎった話でないことは言うまでもない。)

大学について、認識について

国立大学は国家に忠実たらんとすべきである、という論理が仮に正当性を有するのであれば、具体的にはマルキストが大学の教員になれないのであれば、(別に私はマルキストではないが)大学はもはや「神学校」と呼ばれるべきだろう。

事実、あるいは自然は無限に多様であるがゆえに、それらはあらゆる角度から分析されるべきであり、各自どのような観点から分析したかを明らかにすべきである。つまり、この見方こそが唯一の見方であり、これこそ客観的な分析だ、などとほざくべきではない。

ゆえに、自分と分析視覚が異なるから、つまり党派が異なるからという理由で、その意見を抹殺すべきではない。自己の考えなど、他者の考えから照射しないかぎり、常に盲目である。根本的な懐疑は認識の父である。

私は大学2年時「マルクスを読んでいない人間は人間じゃない」と言われ、岩波文庫に入っているものは全て読んだが、この言葉の意味は以上の観点から理解すべきなのかもしれない。すなわち、『資本論』の価値形態論の議論は、我々が普段、遠近法的倒錯に陥った色眼鏡をつけて物を見ていることを暴露する。我々はマルクス的色眼鏡を通して、私を見ることで、私について少しだけ理解を深めることができる。

さて、我々は「客観的な世界」=物自体には辿り着けず、かつ、価値の優劣を評定する絶対的な基準を有していない、という一点において、倫理的な紐帯を結べるのではないか、いや結ぶべきなのではないか。

丸山眞男生誕百年

最近、丸山眞男が読み返されている、そんな印象を受ける。生誕100年目であることも関係しているだろうが、安直な、責任感に欠けるナショナリズムに対する批判的意味合いが強いのではないだろうか。

丸山眞男は戦前の安直な「近代の超克論」を批判し、日本は未だ近代化すらしていない、すなわち、近代的な主体的個人が存立していない、と言い、リベラリズム=民主とナショナリズム=愛国は対立するものではなく、両立するものであり、それこそあるべき姿だ、とした。そして、それは戦後の一つの空気であり、多くの知識人がそれに賛同した。

それが一つの空気になりえたのは、戦前に彼らが抑圧されていたからであり、科学的態度を堅持しただけで非国民とされたからであろう。その気持ちはよく分かるし、それが間髪入れずに「正しい」ことなんだ、とも思う。心情倫理(=ナショナリズム)と責任倫理(=個人主義)の麗しき均衡理論。

だが、その理想が、果たして大衆に求め得るのだろうか。そして、それを唱える知識人に求め得るのだろうか。私はそれは無理だ、理想主義だ、と思う。そして、個人主義=責任をとる態度はリアリズムからしか出てこないのだ、とすれば、主張する当人がリベルナショナリストでないことを意味する。ゆえに、リベラルナショナリズムを唱えることで何かしらを成し遂げたと満足する知識人を私は軽蔑せざる負えない。

いれたての珈琲カップの上に手のひらをかざし、蓋をすると、外に逃げようとする熱が水面と手のひらのあいだに溜まり、熱さが少しずつ、少しずつ、だが、確実に高まっていく。そして、いつしか蓋をしておけなくなるまでに熱くなり、コップから手を離さざるを得なくなる。戦争とはそういった類のものだ。それを欲望するのが生理的なものだとすれば、それに反対するのもまた生理的なものだ。繁栄するものからはいつも滅亡の匂いがぷんぷんする。

丸山眞男を読む

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

丸山眞男セレクション (平凡社ライブラリー ま 18-1)

「日本軍国主義に終止符が打たれた八・一五の日はまた同時に、超国家主義の全体系の基盤たる国体がその絶対性を喪失し今や始めて自由なる主体となった日本国民にその運命を委ねた日でもあったのである。」(丸山[1946=2010:80])

丸山眞男は戦後すぐに記した『超国家主義の論理と心理』の末尾を以上の一文で締めくくる。その三年後に記した『軍国支配者の精神形態』の末尾はこうだ。

「これは昔々ある国に起こったお伽噺ではない。」(丸山[1949=2010:184])

以後この調子が続く。ここに丸山の失望を読むことは簡単だ。が、もし失望してしまったのであれば、トゥホルスキーのように口をつぐみ、唖者として暮らしたであろう。そうならなかった丸山は何を期待し、何を実践したのだろうか。『超国家主義の論理と心理』で丸山は次のように言う。

「「新しき時代の開幕はつねに既存の現実事態が如何なるものであったかについての意識を闘い取ることの裡に存する」(ラッサール)のであり、この努力を怠っては国民精神の真の変革はついに行われぬであろう。」(丸山[1946=2010:59])

二度あることは三度ある。では、同じことを繰り返さないためにはどうすればよいか、どうすべきか。それは、徹底的に「認識すること」あるいは「対象化すること」である。この姿勢を丸山は生涯貫き通した。であるがゆえに、丸山は日本人の思考の癖を極めて的確に認識し得た。では、われわれ日本人はどうか。そうではないだろう。ここに丸山を読む意義がある、と私は思う。

『「現実」主義の陥穽』にて、丸山は、我々日本人がこれこそまさに「現実」だ、と考えるその「現実」とは何か、ということを考察し、その落し穴を明らかにする。はじめに、丸山は「現実の所与性」を挙げる。現実とは本来一面において与えられたものであると同時に、他面で日々造られるものであるにも関わらず、日本人は前者のみに着目してしまうこと、それが「現実の所与性」が意味することだ。二点目に、「現実の一次元性」を挙げる。これは、現実の一つの側面だけが強調される、ということだ。たとえば、六割の日本人が、憲法改正に賛成しており、残りが反対していたとしても、後者を無視し、憲法改正が「現実的」である、と考えがちである、ということだ。丸山は以上二点より、次のように言う。「その時々の支配権力が選択する方向が、すぐれて「現実的」と考えられ、これに対する反対派の選択する方向は容易に「観念的」「非現実的」というレッテルを貼られがちだということです」と。

以上より、丸山は国民が公平な判断を下すために、つまり現実を認識するために、以下三つの条件が充たされている必要がある、と言う。

一、通信・報道のソースが片よらないこと

二、異なった意見が国民の前に公平に紹介されること

三、以上の条件の成立を阻む、もしくは阻むおそれのある法令が存在しないこと

さて、衆議院を通過した「特定秘密保護法案」であるが、これはどうみても、三に該当するだろう。何をもって「秘密」とするのか、それが明確に規定されていないため、たとえば、TPP問題、たとえば、原発問題等に関して、重要な情報が「秘密」として指定された場合、どうなるかは、火を見るより明らかであろう。政府から与えられた「現実」を受け入れることが「民主主義」であるという構図を知らない「現実主義的」主権者にはなりたくないですね。

距離について

真摯に本を読むということ、あるいは真摯に話を聞くということは、取りも直さず、相手と自分との距離(差異)を確かめる、ということであって、決して相手の言い分を理解することではない。

さて、私は西洋哲学において重要な著作を歴史順に読む会を主催しており、ソフォクレスプラトンアリストテレスキケロアウグスティヌス→トマス・アキィナス→ダンテまできた。それ以降、つまり近代の哲学者の著作となると、主要どころは翻訳本を読むか、もしくは解説書を読むかして、概略をつかんでいるため、例えば、ホワイトヘッドが『西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である。』といったその意味を理解できるまでにはなった。で、今回書こうとしていることは、わざわざお金と時間を費やして読み、それでどうだったか、ということである。

まず良かったこととしては、一生、読むに値する、つまり、未だ消化しきれていないが、消化せねばならぬ哲学者を見定めることができたことが挙げられるだろう。例えば、カント、例えば、マルクス、例えば、ヴェーバー。彼らは彼ら固有の問題、問いを抱え、それと生涯格闘した。カントにおいては、認識の基礎づけ、マルクスにおいては、宗教ならびに宗教と同じ役割を果たしている諸々の現象、ヴェーバーにおいては、キリスト教世界の特異性の把握とその相対化。彼らは、総じて彼らが属している「キリスト教世界観」との距離が問題であったのであり、彼らはその外部で思考していた。

我々は、日本(=「キリスト教世界観」の外部)で、彼らの著作を読み、それについて思考しているという点では彼らと同じである。そういう意味では、日本は西洋哲学を研究する環境として絶好の場所ではある。だが、(ここからが反省点なのだが)結局のところ、それは彼らにとって、問題なのであって、私にとっては問題ではない、であるにもかかわらず、彼らの著作を読むことで、それが我々の問題である、と誤認しているだけかもしれない、という疑惑が拭えないことにある。つまり、私は真に相手すべき「敵」との距離を掴むも何も、「敵」を見定めきれてすらいないのである。思想の歴史とは、すなわち膨大な誤解の歴史であるが、空を切る誤解と美しき誤解は区別すべきだし、前者はたとえ国会図書館が貯蔵してくれたとしても、我々の頭脳に残ることは決してないだろう。