(WR)逆成長曲線街道 3秒2


すいません、流石に時間流れるの早過ぎませんか?俺はついこの前まで高校生探偵だった工藤新一。食事と睡眠を繰り返し、目が覚めたら⎯⎯⎯⎯高校生ではなくなってしまった!!そうなんだ。この前バァさんに"お前と大して歳変わんないけどウチの息子はもっとしっかりしてる"って煽りと教育と息子自慢の神コンボ達成されてこの世界の全てを憎む事にした。当職こそが真の弱者と言えるのではないだろうか。社会に絶望し自宅へ追いやられ、独身でアニメオタクでロリコンであるこの私こそが、国と愚民の皆様方から介抱されるべきではないだろうか。ちなみに社会的な定義で行くと多分犯罪者予備軍にカテゴライズされるのでティアで言えばB-くらいだと思います(オタク特有の絶妙なラインで上げてくるバーチャル優越スキーム)


変化を求めてる割に足が遅くて、どんなに外見は豚でも心だけはスリム系だったのに、泥沼に明らかに自ら入浴した上で溺れてブチ切れている。逆に超スリムに考えると、成長の意欲を絶やさないとか、信用を前提としたコミュニケーションができる関係作りをすることをやっていけばより良い場所に自然と近付いていくのは基本的に間違いないが、俺は今のところ仮想スリムであり、つまり口だけである。成果さえ出せるならリターンがあって当然みたいな現実における今のスタンスはよくよく考えてみれば現代としては結構自然的な流れに感じるが豚足である。なぜこうなっているかを考えたところ、端的に言うなら、許容してほしいといったクソみたいな感情だった。

安置で醸してインフレした理想を崩すのは難しく、俺は算数ができないのに天文学やろうとしてる感じの、そのメニューでチキンとピクルスは絶対に邂逅する事は無いみたいな、金を増やそうとするより自分で持って来る方がどう考えても早い、真髄初歩的な扉完全に開け忘れてて、これを言うのは本当にプライドが傷付くが、無事無職になった。

反省

何かに逆らうだけでは、話がそれを中心に回るだけで、結局は流されているんじゃないか?

社会は、餌あげてる奴がいて、餌食ってる奴がいて、餌になってる奴がいるだけだった。それが人間関係だと思うと、割と普通の事かもしれなかった。

現代はカオスだと思っていた。便利になっていくうちに根源的な部分から逸れ続けていて、昔からずっとそうなんだと思っていたが、結局自分が設けた基準でノスタルジーを感じて思考しているだけで、ちょっと面白いかもしれないと思った。

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真面目な思考とふざけた思考は同居していて、それが成立していることに気付いていなかった。

多分、思い込んだり想像するものを自分から完全に切り離すのは不可能で、自分のことを他人がどう思うかを想像する意味は無かった。

今のところ、解決を求めている悩みは頭の中では分かっていても実践が難しく、普通に目標に精神が釣り合ってなかった。自分は思ってたより不誠実で、かけ離れたものほど無理に関係性を求めたせいで、真面目になりきれなければ、満足にふざけることもできなかった。

AIの話、興味


ChatGPTの出現によってAIの存在を知った。
AIは人間の技術や行為を法則的に理解し、シグナルで実行するが、自発的に実行する能力は根本として持てないようである。思想体系の正解を求めることができないので、現時点での人間が定義した倫理観を遵守すると、AIにとって人間に理解できない事柄は意味が無いように見える。

そのような感触で、アウトプット先が所詮人間が想像した範囲内だけを切り貼りした投影機のようなものは目新しくはあるとしても、人間の代替でしかない視点でのAIには一切興味が無かったが、GPT-4が(人間のプロセスで)理解-発想-実行のステップを同時進行的に達成できる。実行労力の削減がここまで高まると、供給が増える。この技術が産業にとって面白い面白く無いの話は一旦置いといて、明らかにやれる事が増える。

世の企業が何をどうやって取得すればこの技術をどこで使えるのか構造が分からないが、ChatGPTはAIではなく、文章を生成しているというパッケージが、AIに対して物凄く気を遣っているのが分かる。AIと言うと実用的なものより超越的なものを想起する。AI?AIの開いた新興宗教入りてぇ〜とか思うが、死ぬ程頭の良い人達が作ってるのでちゃんと宗教利用できないようにChatGPTは制度的・技術的な面で解決している商品形式なのだろう。知らんけど。初見の感想はこれくらいにしてとりあえずAIというかそもそもプログラムって何なのっていうところを勉強してから出直してくる必要があると感じた。

リアルはクソ

なんとなく悲しむ日が増えてきた。自分を保つ最後のチャンスな気がする。俺みたいなのが社会で生き残るには、極限まで性善説的になるという選択は珍しく間違ってはいなかった。しかし何故か視野が爆速で狭まっていくのを感じる。

自由な発想で、みんなと一緒に競ったり楽しみながら創造性を行使したいんだけれども、現時点では無理だから諦めることにした。

本当はこんな事言っちゃいけないけど、どいつもこいつも流行ってる言説をバカの一つ覚えで垂れ流してるだけで、自分の頭で考えてる奴なんて本当に一部だけだと思った。他人の失敗だけ啖呵切って咎める体力は常に別腹で残しながら、決定権を押し付けて外野でヤジを飛ばし、提言をすればまるで自分が否定されてるかのように怒り狂ってくる無能がこの社会における基本装備で、プライドとメンツだけで手足を動かしてる老害の膿共が"今の世代の人間は理解できない"などと不貞腐れオワコンを通り越して石化してる。
世間から蚊帳の外にされてきたはずのオタクの集団が同じ事を今度は別の誰かにやっている。こういう割とアート的な側面が強い業種における逸材は当たり前ながら皆センセーショナルで、頑張って守らないといけないのに大人がゴミだから居なくなる。この業界に残ってるのは中途半端に社会性があって中途半端にオシャレで中途半端にオラついてる連中ばかりで辟易する。



これは感情ではなく事実であると言い切っておくが、同時にこんな毒を吐くような日はこれで最後にしたい。

俺は一体何なのか?
段々と自分の思考が一般化してつまらない発想しかできなくなっている。違う事をやっているはずなのにいつも同じ場所に戻ってくる。この世のものは全て繋がっているが全て狂っている。

報告会

自分という人間を理解しようとすればするほど何も分からなくて、常に何かに頼って、思い込んで、同じところを行ったり来たりして、何も分からない。

・よく分からない議題:分かりすぎて分からない

何を以って分からないかと言えば、俺は脳の処理速度が余りにも遅過ぎて、自分の中で起きるあらゆる事象を精査する前に別の場所で爆発が起きて最早何も分からない。俺は無能、無人島、ニシン、布団、誰かが好き、生まれた理由、何もしたくない、血圧が心配、出てきた現象の主体が何なのか自分にはどうでもいいが、誰かにとっては重要で、だから自分にとっても同じことで分からない。俺は人として弱い、確実な方法論で導く必要がある、でもいつも頭に浮かぶのはなんか・・・マグロ漁船?たまに同時に処理できる時があるけど一瞬過ぎて分からない。分からない☆☆☆(ミシュラン準拠) スピードでぇ〜?差を付けないといけない訳ですよ、え?若いんですから、分かります?!!!!!知るかっつーの!!!うるせえよ!!うっせぇ〜うっせぇ〜〜うっせぇわ〜〜なんだらこんだらほんだらで〜♪
歌詞が分からない。

・今すぐふざけるのを止めろ

賢い人間を見る度に、自分が対極に居るのだと分からされる。向こうの土俵で勝てない。焦ってはいけないと理解をする事に焦っている。本当に何も分からない。この後どうせいつもみたいにベラベラ偉そうに喋るんだろうが本当は何も分かってない。

・人は忘れる

次第に複雑化して難易度が高まっていく目標や悩みを解決する為には、成長を続けなければならない事に気付かずに成長していた。純粋とされる新たな知見を得るには、失うべくして失うものもあった。特定の感覚を頭に残しておこうと意識していても、代償として支払われたり、変な角度から引っこ抜かれたり、浮気して帰ってきたら消えてたりした。

冷静に見れば部分的にはなりたかった自分になれた。嫌な事があってもそんなに不快にならなくなった。昔より遥かに素直になって人と話せるようになった。

"賢い奴になりたい"これが人生で明確に見た最初の夢だった。今のところ何も賢くない。賢くなって何をするかはどうでも良かったのか、悲しいのは、俺が子供を辞める要因は、成長するからではなくただ忘れていくからだった。信じて抱えていた憂鬱は時間の経過と共にあっさり薄れた。









昔は自己嫌悪の陰に、なんとなく何かの才能があるんじゃないかと思い込んでいた。意図しない形で関係性を得た脈が偶然を呼んで、自分の可能性を超えていた瞬間があった。
今は想定した以上のものが輩出されることは全くなくなった。だからと言って昔に戻るつもりは更々無い。どうすればいいのか全く分からない。

適当


気が付いたらネット中毒なんて言葉は聞かなくなった。
文化をビジネスが支配しているせいで、人生なんて見栄で塗り固められた名刺みたいな扱いで、不自然を意識外で排除してるみたいでインターネットが昔より楽しめなくなった。こういった場合、しかし結局自身が原因にあるケースが殆どであったりする。ネットに割く時間が減り、年齢が増し、趣味が変容し、純粋な心を忘れて一々余計な事を考えるようになっただけの話で、ただ単に有象無象から面白いものを探し当てるのに疲れたのかもしれない。企業は中央集権的な構図でクソガバガバなデータの取扱いに何となく誇りを感じていて、だからこそ世相の無視は自然的な処理なのに、自分はと言えばシステムに取り憑かれたみたいな生活をしている。

結果として将来的にそうなるかと言われると微妙だが、ユーザーの感覚として何でもかんでも無料で楽しめてしまう時代は終わる。Youtubeが死ぬ程つまらない動画とカスみたいなコメントで埋め尽くされてるように、ビジネスモデルが確立され過ぎていてコミュニティが自力で消費を抑制する方法が多くの媒体で存在せず、プラットフォームが主に手段としてしか機能していない現状で、質が高いものを、評価的なインセンティブが価値基準の環境で無料のコンテンツとして構築するにはもう限界に近い。才能がある人間が労力をドブに放り込み、娯楽を楽しむハードルは下がり続ける。提供者の動機に生活があって、客に制限がないサービスなんてどんな面白いコンテンツでも最終的に薄っぺらくなる。

土に埋まりたい

1

他人と、他人の意識と人間の変性を理解しなければならないのが今抱える最大の課題だ。状況的にやむを得ない場面は発生する。事象を問題化するのであれば対策があるものとするのが通常だが、いくら自分の精神に代入しても、自分と他人とでは関係性がある限り行動の意味全てが別の場所を歩いていると感じた。何を問題とし細事とするかは緩やかに育ってきた知識と経験の副産物としての無意識のフィールドだ。笑いたい時に笑って、怒りたい時に怒れるか?そんな事は理論上不可能と結論付けた社会を上手く生きる為に社会を対策してる限り、自分に対して嬉しく思う日は来なかった。

行動や発言や反応の結果を基に他人を判断するのはもうやめる。イヤな相手に対しては自ら遠ざかった。それよりも何に感情的になるか、どんな風に考えるか、どういったことを言うのか、言わないのか、その人の世界を見る方が面白い。成長の種として選択するデバイスは何だというアプローチでは、いかにも近代っぽくて断片的な情報しか得られなかった。自分が相手に与えられる情報は少なく、足並みを揃えるには何もかも見合っておらず不適切だが、その上で共感を視覚化されたイマジナリーフレンドとして育て続けなければ優れた人間になれないという予想がある。今まで自分と他人を完全に切り離すのは今まで生理的に無理だったが、いい加減変わらないといけない。


2

昔は物事を、連続する二次元的なスペースで捉えていた。娯楽にしても全体のバランスや印象で遊んでいた。今は構造とかクオリティが内包する要素を羅列するみたいなのが主流の思考で、子供の頃の、情報が不足してる故の可能性というか、その刺激の良さが気持ちよかったのかもしれないと思った。人によって子供の定義が違う。俺にとっての子供とは、心の中でしか消化できないものをそこで流し続けることだった。記号的な情報が入らなければ雑念が少ない。でもこの気持ち良さの反動で不都合も起きるから変容するという事を理解できていなかった。

結局何が正しいかはどうでもよかったりどうでもよくなかったりした。何でもかんでも合理性にこだわると簡単になり過ぎて危険だと痛感した。今までずっと自分対その他みたいな構図で考えていたが、もっとシンプルに関係性そのものを情報の合流だと思うようにする。社会の下らないシステムに支配された人間共の世界は面白くないので破壊するという当時の気持ちは理解できる。キリが無いからって物事に諦めた奴から雑魚になっていくと身構えていたのも分かる。マジでオッサン共が舐めんなよとなっている状態、それが自分の目的を見失わないようにする方法で、 一々感情的になる事は周囲に取り込まれない為の自衛手段だった。敵を作ると対照的な人間として目の前に映り出して自分がどんな思考なのか結果的に知ることができた。でもそれでは不健康過ぎる。

単に子供を捨てるという事ではなく、印象が育ち切る前の情報を分けて、自分が子供を忘れないように大事にしてる意見が論理というカテゴリーならそれを捨てて良いのではないか?大人になるか子供になるかという区切りを完全に消して子供的な思考の一部を子供的に捨てる事が可能なら、適切に成長できるのではないかと思った。


3

指向性のある精神的な領域を世界としたものについて、その世界に行くにはある程度の偶然性がないと難しい。普段深く潜っている世界を忘れさせるくらいの空気、脈絡の無さ、どんな物事にも入り口はある。その入り口をはじめから探す事はできないが、結局全部繋がってて、入り口はこれだったというものが今まで沢山あった。ただ、世界によっては特定の世界に行きづらく、それが狭くなっているものがある。

この1年間、大人が嫌いというテーマを意識的に生んできた。それは純粋な心を純粋な心としてカテゴライズできていなかった不足によるもので、俺は上の世代の思想が、自分には想像でしかなくて面白く感じているのではないかと思った。その世代にしか分からないことは必ずある。それを自分は表面的なものだけ切り出して、単純なものとして認識してしまっているのではないか?その時を生きてた人の気持ちとか少しずつ忘れられていって、形には残るけどもう分からなくなったものは無数にあるんじゃないかと感じた。

自分の力だけで解決できる事はごく僅かで、その僅かが自分の中だけで起きている気がした。俺はバカなのは間違いない。情報が多過ぎて毎日何が起きてるか収拾が付かない。毎日自分の周りで起きている事は、複雑で、でもとても小さな事で、変わったとしてもまた違った問題をすぐに見つけてくる。同じ場所を歩き回ってるだけな気がする。分からないことが分からないことが分からないことが分からないみたいな、世間はいつもそんな感じのアプローチで人を動かすけど、俺もそうだった。


4

ブロッコリーとズッキーニのやけに緑な和風パスタを作ったけど、そんなに美味しくならなかった。でも食う直前までの雰囲気は結構良くて、なんかそういえばパスタ食べる前ってあの時はこんなテンションだったって思い出した。ものすごく久しぶりにフライパンを使った気がする。

イタリアンでバイトしてた頃、その店のメニューにあるパスタは全てが絶妙に良くて、それを今の今まで完全に忘れてた。いつもアホ忙しくて特に年末は今思い出してもイラっとするくらいクソ覚えてるけど、でも楽しかった。ここの人達は時間と戦ってんだみたいな印象で、ソースの火を止める時間だのパスタを移してからパンを上げるまでの時間だの、少し狂えば味がまるで変わってくるから、今何がどうなっていて、誰が何をやるかそれぞれが色んなタイミングで見極めて・・っていうのをクソ真面目に俺もやっていた。売れ残ったケーキを食べさせてもらえるからいつも締めまで残ってて、忙しい時間は誰かが日替わりでキレてたけど嫌いと思う人はマジでいなかった。みんな元気にしてるかな?そういえばサボった事一回も無いわ。いやこれが一番ヤバい。サボった事ないってすごくないか?

でも何をどうすれば美味しくなるかは分かるけど、なぜそれをそうするのかは考えてこなかった。野菜を茹でるでもなくグリルでもなくオーブンを使うのは何故か、サバでもマグロでもなくイワシなのは何故か当時考えてこなかったから今作ったこれは美味しくならなかったんだろうが、でも今の感情には無いような、環境が好きというものが全部をいい思い出にしているなら今どこにいても成長ばかりに拘っている自分はあの頃に比べて確実にショボい奴になった。


5

ものを入れるという発想をした時、入るものだけを入れる、形状を変える事で入る、入れ物を変えるという考え方もある。入らなかったものはどうなるのか?形を変えるとはどんな意味を持つのか?事象には必ず物語が存在して、それに包まれているものを考え始めるせいで物体そのものに意味が無いように思えてしまう距離感にいる事がある。自分の事は絶対に誰にも分からないが、それはきっとみんな同じで、最後まで誰のことも完全には分からないんだと思ったら辛かったけど霧が晴れたみたいにスッキリした。

自分の言語がいつまで経ってもしょうもないのは、こうするのは良くなかったと判断して修正するにも結局自分が起こした波の中で泳いでいるだけで、やらなかった事とか思わなかった事が情報としてカウントされなくて世界が狭い状況がずっと続いていたからと考えた。土台を変える方法は正確には分からないが、自分の何が分かっていて何が分かっていないか探してみることにした。



自分が学びとして手に入れやすいものは、劣情に介されているのではないかと思った。自分を含める人間を相手して反面教師的な視点の教育を反射的にやってきた自覚はある。不快な状態を取り除く為のスタンダードな感覚は生きる上で必要だという思想が根強くある。ただ、自分が誠実であれば多くの人はそれを受け入れてくれるという実感が今ある中で、この劣情がどれだけ空間を動かして変えてきたかは全くもって分からないというのが正直なところではあった。何か物事に対して自分を納得させる理由は楽に生成できるが、それはパフォーマンスを如何にして出すかという視点の欠落に繋がってくる現実がある。

3DCGアニメーションで個人的に重要視していたのが、違和感の排除である。これをするには表現に確実性があるかの課題になるが、仮にファーストフレームの時点でそれまでのカットもしくは特定モーションからの遷移が必要とされておりエンドまでに着地点があるとして、流れで何故こうなるのかという画面の納得を得る為の説明として理論化する必要があると考えるのが確実性の意味になるが、これを3D的な観点として、モデルの存在により作画としてキャラクターを描画しない・フレームそのものの削除が不可能(流れる時間に対して絵の枚数に変動がない)・XYZ軸という概念を仮想的なものではなく数値として利用する等がある。 作品をやります、演出はこうです、動き作りますとなった時に制約が多く感じるのは当然の感想で、この中でどれだけやれるかという思考は至って普通だった。

しかしこのような、確定しているものを並べるだけの思考で取り組むとしたら、仕事は上手くなるけど腕は大して良くならないというか、最近ボーボボを読み返して思ったのが、画面が面白いという事を追求するにあたり画としての流れは断っても多面的な視点から脈略があれば成立するという発見があり、自身の行動を決定する理由がリズムや法則で大部分を占めていると、その時点での自分の100点の基準が下がる事に気付いた。可能性をはじめから潰して思考すると長期的な成長が見込めなくなるというのを、地でやっていた。

今も格ゲーの観戦は欠かさずやっていて、"できてない事はまだ沢山ある"とキャラのプロフェッショナルがどのタイトルの人間だとしても口を揃えて言うことが、そのキャラを奥深くまで理解しているからであると最近やっと分かった。アニメーションは、どれだけ状況が縛られていようが、3Dだろうが2Dだろうが表現としてそもそもやれる事がほぼ無限にある分野で、その中で少しでも窮屈さを感じるのは自分の理解度が低過ぎるからだった。



今後の課題としては、日常で状況的にスルーしてしまっているもの、本来考える必要性のないものについて感情か意見か感想か何かしらを持つことで、これの訓練として例えば夜道のド真ん中を爆走しているゴキブリに対してできるだけ多くの反応を持つとか、パイナップルの皮を剥く時に"皮は食ってもおいしくないから剥く"以上の情報を手に入れるとか、今よりも数千倍ピュアにならなければいけない。ただ見ていただけの瞬間とか、忘れようとして忘れた記憶とかあるけど、流れている時間をただ食うだけじゃなくて味わえられたら、生命力は上がると思った。

再稼働

これまで自分が考えてきた精神論は全て間違ってる。勉強が大事とか、黙ってた方が良いとか、たかが口だけの評論で的が外れ過ぎていた。姿勢を最優先にして自分の行動を自然的に成長できる方向へ選択するよう変えていかなければいけなかった。 人として暗過ぎた。しかし、やはり何事にも慣れは必要で、今までの不健康な生活をいきなり全部解決するのは無理があり、地道にやっていくしかない。


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この業界はブラックが割とスタンダードで、社内外での業務的なコミュニケーションの透明度が低く、例えばクライアントに対してキャパと概算を提示する為に資料を用意する時、どの程度ハッパ掛けて誰を納得させて誰に責任を負わせるかという作業が必要経費にしては重過ぎる、技術を培うにしても実務ですら余計な手続きが多い、作品全体の出来よりもみんな気持ち良く仕事できるようにお互い気を遣おうねみたいな思想が優先順位にあるプロジェクトばかりだった。

技術的に純粋に尊敬できる人はいた。ただ、組織的に合理性はあっても人道的には理不尽だったりする事情であったり、誰が誰に対しても平気で嘘をついたり、どうでもいい悪口が絶えなかったり、んなもんバレねーんだから黙ってりゃOKみたいなノリで行われる契約違反や隠蔽を目の当たりにするのが日常になると、無意識の内に思考が暗い方へ寄って行った。


そういった社会的なマインドに対して虚脱した時に補ってくれる単発的な要素として、仕事の成功や金銭的な余裕や趣味が序列としては大きなものだったが、これが目の前の精神的な疑問を根本から解消してくれる事は無かった。
社会で必要なものは技術でも問題解決能力でもなく、メンタルだった。退職した後、会社では社会的な事柄は学べるが、感受性を保持したり見本になるような精神性を学ぶのは今の自分には不可能だと思い、暫くの労働を止めて休息を取る事にした。

良いプロジェクト・良い会社は良い作品を生んでいる限り必ずある。どうしようもない問題は確かに多く存在するが、それでもこの仕事は天職だと思えるくらい自分に合っていて、技術的な交流も盛んで、先輩は関係が良好な限りは自分の事によく気を遣ってくれた。ただ、何でもかんでも真面目にやると整合性が取れない事実に気付かず疲弊し、それを回避できるメンタルも持たず、愚痴に対して行動を起こす意思も無いのにわがままばかり言っていた自分が未熟だった。


一瞬でも気を抜くと現実に潰される。小・中学で勉強しないどころか学校もサボりまくり、下らない理由で高校を辞め、当然大学にも行けず、だからと言って特に何かに勤しんでいた訳でもなかった自分は、自分の何がどうなったとかのデータの問題ではなく、育んできた意識の蓄積が違う、これを適切にクリアしている人間より向上的なメンタルの練度が圧倒的に低い。
今この瞬間やる気があって、良い実績もできて、実力もそこそこ付いてきて、今の状態の意識を大事にすればいけると思っていたが、一般レベルでは触れられる要素は全く無いような人間が集まる場所には、比べ物にならないくらい楽しい世界が広がっている事実を認識できていなかった。


しかし!!!!!!!!!これからは、もう弱音は吐かない。常に前向きに過ごす。もう絶対に折れない。こんな所で停滞する事は二度と有り得ない。現時点の練度では恥ずかしくなるだけの事もとにかく練習して、手に入れられるものを少しずつ手に入れる。


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自分の評価基準は他人の反応に依存していた。これからは自分でそれを下す為に、自分を知る必要がある。


強いメンタルを身に付けるには一体どうすれば良いか?"強いメンタルになるしかない"。
実力を付けるには鍛錬する。高クオリティで継続的に鍛錬するには強いメンタルを身に付ける。そして遥か先に、頭の中で描いてるものを限りなく濃い濃度でアウトプットする事は可能なのかという疑問がある。これまでそういった期待を抱くことが怖かった。夢はあまりにも大き過ぎると現実的ではないと、しかしこれからは可能性を探り続ける。

自分が今どうすれば良いか全く分からなくなった時は自己否定をする傾向にあった。俺はクソだと。
だが、その状態の人間を大事に思ってる恋人として一旦置き換えて、私は何者なんだと悩んでる奴にテメェはクソだと言ったらそれはヤバいという話になり、自分を大切に思うなら罵倒するのを止めろと言われた。確かに・・・・その通りだと思った。自分だろうが他人だろうが、大切なものは大切に扱うものだ。

俺には生涯を掛けて守らなければならないものがある。この感受性である。絶対に腐らせてはいけない。リアルから離れた世界で感じられる生命を全て享受できるまで感受性を高めたい。あらゆる動植物とコミュニケーションが取れるようにしたい。キツいと思われようが全員轢いて俺は行くしかない。流石にもう明るくなると決めた。暗い気持ちで得られる快楽もあるけど、それはもう止めてスマイル全開でブッ飛ばすしかない。

人は変えようと思った時、本当に性格が変えられるのか。その答えは、マジで変えられると言っておく。だがすぐには変わらない。変わることは怖い。猫背の人間が次の日から急に姿勢が良くなる事は無い。実際問題この状態をフルタイムで継続するのはキツいものがある。自分が遊んでいるコンテンツが消化しきる前なのに次に行かないといけなくなったり、趣味が急速に変化していってるような違和感がある。


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自分の中に色んな自分がいる。暗い自分、明るい自分、冷静な自分、感情的な自分、ふとした瞬間でコロコロ入れ替わり、矛盾した思考が頭を支配する。会社員時代は先輩には憎悪を抱いていたはずなのに、今では感謝している。でも本当は憎悪しているし、感謝もしている。両方混在している。それを何かの理由を付けてどちらかの選択肢を思考に投影する。人間の脳は変な仕組みだ。暗い自分を遠ざけるには、明るい自分を近寄らせる必要があった。

人は音楽を何で聴いている?


という疑問がなんとなく浮かんだ。

歌であれば、大雑把だけど歌詞・メロディー・コード・アレンジ・演奏に分解されて、曲単位で何を聴いているかという情報が連続していて、自身の趣味偏向の多数派がその人の音楽観になってるんじゃないかなと思った。
例えば、この曲の何が好きか、と聞いた時に、雰囲気で聴いてるからわかんねという回答があったとして、それはメロディーとアレンジだったり、はたまた歌詞とコードと演奏だったり、人によって雰囲気の定義が全く違うので非常に面白く、カノン進行が好きだったり、ドラムが4つ打ちなのが好きだったり、別れ話っぽい歌詞が好きみたいな、その人が好き・嫌いと思う各カテゴリー内の傾向もある上に、もっと細かいニュアンスも入ってくるので結構難しい。

自分の場合、日に日にコードが面白い曲ばかり聴くようになって、なんか違うとなったので、どうやって聴くのがこの曲は一番気持ち良いのかという判定をするようになった。体の部位に例えて頭・耳・心・体で曲をそれぞれ最適な部位で聴いていると考えて、結局、頭はコードとアレンジ、耳はアレンジと演奏、心は歌詞とメロディー、体はビートと歌詞、みたいな感じの内訳だった。この歌詞の時にこの音が鳴るのが好きってなった時、上の内訳で言うとどこに行くか微妙だが、物悲しい歌詞だったら心に行って、九十九〜のひ〜つじた〜ち♪ みたいな歌詞だったら体に行きやすいという傾向がある。マジで自分の中で育っただけの感覚的な基準だった。

好きというのが何の情報で構成されているのか曖昧な状態で、どこに置いておくのが好きを増幅できるか判断されているのが自分のパターンだったが、他の人はどんな感じで音楽を聴いているのだろうか。






懺悔5

もう目の前の人間に対して、強い論法を使うべきではないと最近考えている。役職、学歴、年収、分かりやすく可視化されている競争のデータと、年齢に嫌でも付いて来る責任について、もっと深く考えるべきだった。


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金も経歴も一切持ち合わせていなくても意見は平等であるべきだという思想を根幹としたコミュニケーションをしようと、まあ普通に考えて人として当たり前の意識ではあるのだが、訓練として積極的に内側から放流していこうという動きが最近の自分の周りでのスタンダードになっていて、その精神については俺も賛同できる、人として面白くいられるだろうという継続性と期待もある、でも社会に適用するとつまらないというか、空気そのものを他人に強要しないと会話が成立し難いハードルの高さ、個々が持っている常識の平均化の難しさが寧ろ利己的にさせやすいというか、俺が王様でいいじゃない的なテンションが、これがいくら健康的でも結末としては傾いていくだろうと思った故の、あえて「黙っていた方が長期的には成長性があるんじゃないか」という可能性が今自分の中に新しく浮かび上がっている。

良い事をペラペラと上辺だけで垂れ流してる奴は無限に存在するが、気合い入れて現実世界で殴り合おうという奴らに会ったのは初めてだったというか、マインドの共有ってこういうものなんだという衝撃があったが、自分もそれに影響されていく過程で、それら全ての熱意を跳ね除けて、意識が云々よりも勉強の方が大事だと何となく思ってしまった。自分が生きる空間で通用するものを見つけたり、弱点を見つけたりするのは、視野を広げ過ぎたら逆に難しい。 理想は高い方が夢があっていいし、世の中を変えるのはそういう奴なんだろうけど、純粋な感想としては掲げる理想に嘘偽りなく向き合うというのは不可能だろうと思った。理想を成し遂げる為に理念を破らなければいけないというか、綺麗なものから汚いものが生まれるのと汚いものがあるから綺麗なものがあるという考え方では心の状態としては俺は後者の方が綺麗だという結論に至った。


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俺が偉そうに講釈を垂れる危険性を自分で理解しないといけない時期はとっくに訪れていて、それに気付くべきだった。俺は専門卒社会人2年目低賃金の雑魚で、世の年功序列みたいな風潮に対して反抗心があったが、確かに血を滾らせてブッ込む方が圧倒的に伸びやすく感じる、感情のアップダウンが激しい、その分受けるダメージも大きいというのは若年者としての立場が利用された好循環の現れだと思っていた。

しかしこのまま年齢を重ねて、自信が膨れきった時に絶対クソ面倒な人間になる。今回の案は転換性があるというか、生の感情が俺の持つ情報みたいな今のスタンスを捨ててケースバイケースで問題を切り分けられるなら、自分の中に新しい時代が来た時に思想を再び改め直せる期待がある。ダラダラ生きてるつまんねえ大人共に取り込まれたくないのは変わりないが、偉いのはあっちだぞと、俺よりメンツがある、俺より金がある、俺より長く生きている、その情報だけで自分は下手に出るべきだった。


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結局のところ俺は何も知らないだけで誰にでも人生があることを全く分かっていなかった。他より実力がある自覚はあった、でもそれ一本で全てが許されると本気で思っていた。もうどうしようもないからオフィスで一人ただ座っていたことを思い出すと込み上げるけど、次は上手くやっていこうと何回も修正を繰り返して適応しようとすると段々味がなくなってくるんだろうなと思うけど、それよりも今は、怒り狂って何もかも投げ捨てて、金と保身の為だけに世話になった先輩達を全員敵に回して、申し訳ない気持ちの方が強くて、でも謝る機会もとっくに失って、本当に馬鹿だった。

合理非合理、愉悦、感情論、儲かってる奴はいつも誰かに妬まれ、可哀想な奴には自分が納得できる可哀想な理由があれば味方して、そうでなかったら敵になると、あまりにも一々答えを出した過ぎて0か100みたいな思考をここ2年くらい無意識に行っていたが、俺はこの歳になっても未だ普通に下らない部類で、自分が良い人間になりつつあると保守的になっていたせいで気付かなかった事実が結構遠い所に放置されていた。
俺は頭の中で作り上げられた架空のまともな人間族から愛される為に生きてるのか、成長を促すつもりで考える練習をしているのか、愚痴を言いたかったのか、これが良いのか悪いのか、俺が今こう思ってるのは多様性とか雑に言われてる現代だからそうなのか、ただそういう性格なのか、そろそろ何をどのカテゴリーで判定するのが最適か明らかにしたかった。社会全体への見栄と自分の可能性を切り離して思考するのは今の自分には難易度が高過ぎる。

感じろ


"よい"と自分の感性で算出された、大して根拠のないであろう評論は、結果的に万物を汚しているのだろうか?でも恐らく評論を論として消化する余裕は持たれずに正解か不正解で決定されるこの謎を知るにはどうすれば良いのだろうか。何故強くて何故弱いのか、表現の100%は技術であると認識してしまえば理論化されている前提になるが、俺が知りたいのは理論が今この時代に偶然その形を保っているか真理かの判断材料で、これを人間に依存するのは何かキモいと思った。


それとは別の話、感受性というものは確かに経過する時間と反比例に薄れていくが、それでも人間の脳は決して衰えないようにも思えるくらい、子供の頃より深くなっているという発見があった。赤ん坊も俺も求めているものは快楽で、そして快楽にはいくつも種類がある。人間の脳ってどうなってんだろう?

時代遅れ


フォーマルな格好をして、背筋を伸ばしている方が人が横に座りやすい。走るくらい急いでいるのに赤信号は守る。ニュースは現実で他人事だから面白いのか?分からない。もう誰も信用しない、誰も助けない、誰も許容しない。



世間を知れた覚えは無いが、あまりにも娯楽に溢れているのに、どれもこれも公共性があり過ぎて一体感を感じない。
病気と呼ぶべきなのか、誰もが致命的な欠陥を抱えているのに、どいつもこいつも他所行きの感情で喋りやがって、それが用意されたポジションなだけであって、あの出来事が生んでるのがこんな構造だとか、みんなそんな様な物語を求め過ぎて誰も人そのものに興味なんてないんじゃないか?

いつの間にか俺はヌルい湯に浸かりながらブツクサと文句を言いながらただ座ってるだけになった。殺したい奴の顔をゲロと吸い殻まみれの用水路にハメてメチャクチャに蹴り潰す妄想の推進力だけで仕事をするようになった。昔は気に入らない事にはブン殴られて分からされるまで抗議したが、一方的に拒絶して終わらせる方がよっぽど簡単という事に気付いてしまった。問題や腹立つ言動を目の当たりにしてもチンカスの枠に突っ込んでさっさと忘れる方が合理的であるのは至極当然の事実である。しかし今もこれが自分に出来た覚えは無い。全部これが原因で俺の人生は失敗しかしていない。



素直に上手いと尊敬する奴に共通して感じるのは、なんだこのクソガキと感じる一点のみである。少なくともこの業界を支配する奴らは全員揃ってクソバブおギャり太郎であるのは間違いない。全員毎日乳首取れるくらい吸って生きてる。右手にマウス・左手にキーボード・口に乳首・下半身の世話は20年くらい前の作画の美少女、勝てる訳無えだろ。そして澄まし顔の目が死んでる奴らは独りよがりでギャグを言ってるのかどうか判別しかねるレベルのクソセンスで何を取ってもつまらない。今のところどっちにも絶対なりたくない。

何をするにも年齢は関係無いと言うが、それは行為そのものが安心材料になっているだけである。"えらいね"の4文字で片がつく。挑戦できてえらいね。マジ物のセンス、大量の時間、センセーショナルな色の起伏、成功・失敗体験の積み重ねの実績がないと雲の上に居るの奴らにはひっくり返っても届かない。大人になってから手を付けたところで間に合わないものは一生間に合わない。そもそも生活が第一な時点で弱い。この世で一番強いのは脚にジェット付いてるウサギである。大抵のウサギは休んだまま一生動かねえか場外まで走って行くせいでカメ共に負ける。才能まみれの奴は幼い頃から芸術に勤しみ、試行錯誤し、破壊と再生を繰り返し、そして俺はバンシィ・ノルンで2000コストを焼いていた。



俺はどうすれば良いだろうか?乳首を吸えばいいのか?俺が乳首になればいいのか?いつだって評価されるのは他とどう違うかという希少性とそればかりで、面白いのか面白くないのか、それなのに一々型にハメたコミュニケーションの手続きが寧ろ全部から遠ざけていてキツい。




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しかしこれは昨日までの話、俺は間違っていた。人がどうでもいいなんて言うと人生のコンテンツ9割消滅する。ただ、事実として結果的に誰も俺の事は守ってくれなかった。未払いの残業代と3ヶ月の休職の付与で形式的に事が片付いたが、これを受け取れば明けには解雇が待っている事を意味する。何も食わない日と食いまくる日を繰り返し、怒りとも悲しみとも言えない謎の感情を消す為に精神安定剤精神安定剤にする毎日が終わると思うと、何も解決していないのに俺は安心していた。

トラブルメーカーであるという自覚はある。それでも未だ売られた喧嘩を買っている認識でしかない。だんまりは嫌だ。でも上手くやれている周りの人間を見て、その情報だけが頭を支配すると、自分以外の人間が敵にしか見えなくて混乱する。
今どういう気持ちでいれば、この出来事が人間として成長できる材料に昇華するのだろうか?社会なんてゴミだと言い切ってしまうとラクになり過ぎるし、執拗に自分を責めると奴らと同じ道を歩く事になる。

食の神、食欲の神、デブの奥行き

無理だわ。無理。食欲抑えるの無理。何が東京屈指のグルメタウン神楽坂じゃボケが、申し訳ないがライス特盛が無料の松屋以外の店に用は無い。仕事が終わる頃には店が閉まっているせいで夕食用の弁当を昼飯食った帰りに仕込む事になるのだが、それをデスクの上に置いているだけなのだが、気がつけば外装が剥がれ、箸がひとりでに動き出し、帰る頃には余裕で空の容器がゴミ箱に納まっている。そして移動時間をガムで食い繋ぎ、2人前のパスタを流し込み、深夜には食欲が睡眠欲に圧勝してコンビニへ、ラーメンと焼鳥と焼鳥と焼鳥を同時に食い、物足りなくなってまたコンビニへ・・・どうした?俺・・・いや、俺は悪くないのでは?低価格で高クオリティの飯を提供してしまう食品会社サイドに責任があるのではないか。


俺には好きなものが3つある。仕事・食事・音楽鑑賞である。この3つを同時に行っている時が何よりも生を感じる。オキニの曲のサビが流れる中、この瞬間までとっておいた中華丼の特大キクラゲと米を食いながらデータを提出する瞬間は流石に笑みが抑えきれない。マジで。最初は健気に話しかけてきた新入社員も最近一切話しかけてこない。


もう食費を抑えないと翌月の生活費が足りないと判明しても、なんか金を捻出できてしまい、もはや食い過ぎて家賃代が払えないから稼ぎに行くのか、腹一杯食う金を稼ぎに行っているのか正直分からない。1年前まではこうではなかった。休憩時間になればダッシュで新橋ビルの地下に突入し、前日仕込んだ半額の菓子パンを貪りながらG-ルシファーの前格で気持ち良くなっていた。それが俺の"昼の1時間"だった。今では昼飯を12時間食ってる。誰か助けてくれ。

補助輪パーフェクトパック


俺は期待していた。定期的に憎悪と寛解を繰り返す均衡が、何を以ってしても終わることがないだろうと、しかしもう今後、心の底から満足する事も、本気で怒る事もなく、潰しても潰しても出てくる問題にせわしなく蓋をしている無意識を、5年前の俺が見たらどう思うだろうか?あの頃の俺は、ただずっと・・・パセリを植林していた。


記録1

気が付けば呼吸は整い、関節が滑らかになり、空を見上げれば雲が綿毛のように分裂し、鴨が魚を獲る時の水飛沫が連続した空間の弧の曲面に次々と反射して、30m先の出来事なのに、頭に響いた。

フィルムの中にいる様だった。ポケットに手を突っ込んで触れた服の繊維、地面に手を着けて押し潰された雑草の反発が、寧ろ現実から遠ざけているのではなく、何処かで会っていたかも知れないもう一つの世界が、そんな感触が名状し難い形で何か意味を持って伝えている気がした。昔の事はあまり思い出せないが、まるで幼少に帰ったような、ずっと欲しかったあの頃の感覚が手に入って・・・気が付けば、陽が、空を真っ二つに分けながら、遠くに沈みかけていた。



しかし当たり前の話、やはり帰らなければいけない。帰ろうと思えば帰れるし帰ろうと思わなければ帰れないが、「今なら行けるんじゃないか?」と思えば直ぐにまた引き戻されて、やっと立ち上がった時思った。高低差が分からない。

街灯がやけにビカビカ光って気持ちが悪く、誰かとすれ違おうものなら身体がいちいち緊張する。ただ早く家に帰りたくて早歩きで道の端っこをなぞっていると、ふと思った、帰り道が分からない。いつもの散歩コースではあるが、同じ様な間隔で道が横に分かれていて同じ様な標識が並んでいる。
かと思えば、今どこにいるのか正確に分かるようになり、やはり急に別世界に飛ばされるので、分かっている時間の内にどこの角をどう曲がるか言葉だけで記憶させる作業をして、これを繰り返した。

何度目かの交差点に差し掛かった時、地面と平行に配置された2つの光が右手からスピードに乗って自分の方へ近付いて来るのが見えた。自分がそのまま真っ直ぐに歩いたとして、果たして危険かどうか分からなかった。タイミングの問題で自分が交差点に出るより先にそれが目の前を通り過ぎたので、運良く何も起こらなかった。
危険とそのサインについては、信号でも同様の現象が起きた。ただこの、四角いのが赤く光っている事象を"赤信号"という文字列のものだという事は何となく分かって、赤信号、赤信号・・・と唱えていると、「そうか、"赤信号"は渡っちゃいけないもんねぇ」と、正直目の前にあるヘンテコリンなオブジェクトは何なのか理解出来なかったが、"赤信号"なので渡らなかった。


記録2

これは意思決定に関心があるものではないが、いずれかの世界線における維持バイアスとの交信で、理想に気を遣ったあくまでパターンの一つであるという事を理解して欲しい。希少性があるというそれだけの理由で今も生きている三次情報に過ぎない。



「これは自分が思うように、そうなる」確かにその通りであったが、寧ろイメージとは真逆の、主体が受け手にある観点では芸術そのものではないかと思い返した。
いつからか自らを定義する精神世界と、あらゆるものに起因する可能性そのものが分離していると考える方が都合が良いと思うようになった。常日頃手に入れたいと思っていた、ぼんやりとしている、逸脱した感覚みたいな武器を一生手にすることは無いだろうと思えるまでに大した時間は掛からなかったが、これから先の不健康な習慣が少なくとも一つは減ったと言う意味では収穫だった。



昔より思いやりが減ってしまったという感覚がある。自分をより正確にしたくて誰かを攻撃しないように意識するようになった。もはや水で伸びきった記憶だが、ただ昔より増した感覚もある。過去の清算は、依存でしか快楽を得られない人間の明日を生きる活力の副作用の一つだと感じる。

こんなの現実じゃあり得ないという非リアリティーは、現象そのものでなく受け手の心象、ファンタジーの説得力を増すための解釈なんて"現実でない"部分と噛み合いがあるかという、才能を見ただけの凡人の発想で、誰もが持っていると信じて止まない才能とかいうものは、俺が欲しいのはこんなハリボテの価値のないものじゃない。俺が本当に欲しいのは、まあ、まどろっこしい説明は抜きにして、頭の回転の速さだった。
もっともらしい言語を装備して、ある程度の人間が良しとするセンスを世に放出できる能力なんかはいくらでも根本から修正できるが、この、良好なレスポンスというものはどうしたって手に入れられない。だから俺は、理論も大事だが、"類似する何か"の組織構成パターンを増やし続けなければいけない。凡人の発想だが、奴等に食い付くにはこれしかない。

異常と才能の紙一重を演出する方法は、一番良いのは環境に溶け込む事だが、情報発信について「ローコンテクストさを恣意的に隠す」と友人が昔言っていたような事を自分が試したくても、主体性は欠如しても主語はあるという、育ちが悪いだけの健常者であるということが俺の一生付き合っていかなければいけない問題として挙げられる事実には心底ガッカリしている。もう欲しいものは何もないと胸を張って言えるような人間になれたら良いとかいうクソつまらない事を考えるようになってしまった。人と話すにも電車に乗るにも一苦労だったが、自己嫌悪を振り切っておかしな理論で自分を勇気付けていたあの時は楽しかった。だが当時から不均衡のギャップでブッ飛んでいくような爆発力は俺には存在していなかった。



悟り、理解といったものは恐らく自分のポテンシャル依存でしかない。人の事は知ったこっちゃないが、人格や意識の根幹部分に関係するのは間違いないと思っている。俺にとっては興味を産む為の幻覚だと説明することも出来る。


記録3

草。何言ってんのコイツ?
ともかく今日は足おっ広げて全力でオナニーすると決めた。レッツ、夢をコレクション!
その前に掃除するか。


確かにこの旅は、忘れそうになるが、文脈を探るな、とにかくそう・・・そういう事だよ!分かれよ!いや、この理解を文字で伝えられてるってのが仕事で物書いてる人の凄い所だよなあ。
今回は文字にしているが、いや、この様式によってまた違ってくるんだよな、ほんとルートがありすぎる。それはそうと、ASMRでシコりながら明日の仕事の処理ルート考えてスマホにライティングしてんのヤバ過ぎる!!!!!情報量!!!!!!!!!!!!!!!!!

この楽しさと、少し正気に戻って何かを考えるのと天秤に掛けた時の重要性の明らかな差、でもね、このシラフになったつもりという脳への信号そのものが作用する効果は記録したい感じではある。ちょっとパターン書く前に前提として、これは日常にも言える事だが、必ず"芯"をつつく為には条件があって、人と会話していたり身体を動かしていたりする時と、ベッドにへたり込んで真剣に物事を考えたり音楽を聴いてる時では明らかに違う、だから今まさに両手を開ける必要があるが、それを遮って何かを試す、というのはかなり難しい。つまるところ、今の時点で俺は愚か者という事だ。これは自覚しろ。だが、面白い事にこれも選択なんですねぇ〜〜〜〜〜!!!!!!!世界ふしぎ発見!ビッグバン!

まあ、今の状態は、選択と実行の相互利用を言い訳しながら文字を書いている演出効果という一つのパターンに過ぎない、説明が難しいがとにかく言っておく、物事は全て要素と要素をこう、絶妙に組み合わせた結果そのものが、目の前に現れている・・・いや、この、賢い奴呼びたい。
とにかく俺は、今この時間そのものを使って複数のパターンで構成された結末を試しているという事を伝えたい。伝われ。こういう人生で何度あるかも分かんねぇクソ貴重な時間に習慣だけで何となく肉体に頼ってるバカ共とは違うという評価を自分で下している真っ最中なんだよ。
こういう事言うのは良くない。いや寧ろこれが、分かりやすく記号化された人間心理というものだろ。俺は人より高度なオナニーをしているだけという、分かれよ、これも含めて全部宇宙と繋がってんだよ、でも、人間みんなフラットで、こんな言葉なんて演出に過ぎないのを分かってくれ〜〜〜分かってくれ〜〜〜〜一日後の!!!!!!俺!!!!賢くなれよ!!!!!!!!!!!
やめろ、出来なんて気にすんな、ありのまま伝えろやボケが、リアルタイムを今この瞬間崩したら文脈そのものが伝わらなくなる、そんでパターンの話なんだが、いやー、この間にも時間が過ぎているのがあまりに酷だ、分かる訳ねえじゃんこんなの、書いとけよ!書けよ!補足書けよ!クソ〜〜、書けねぇ!!書いちゃダメ!!!!!!趣旨から逃れられねぇ!!!!!!!!!!!!!!!!!


そろそろ我に返れよ。何ふざけてんの?いや本当に良くないね。そろそろ真面目に物考えなきゃ取り返しつかなくなる。いや本来は、音楽の良さを、世界の凄さを伝えたかった。本当はこの世界の素晴らしさを、いや本当に凄いんだよ?まぁそれはまた今度でいいか。

俺はどっちなんだ、今の俺をバカにしたいのか、評価してあげたいのか、いや待て、真面目に考えろ。その前に10分だけ音楽に集中する。
よし、音楽は本当は伝えたい事が3万文字くらいはあるが、今回は省略する。でも俺っていつもこうして先延ばしにしてるけど、次があると思ってんの?今の感覚が後から手に入ると思ってるの?バカだった・・・
純粋に音楽楽しむなら草でいい、これは結論としてとりあえず設置。シラフ、草の3点があって成立する話である。 草と違って"全体が掴める"、いやそもそも草の時の音楽を説明しないといけないのか。当然記録してあるので
こっから
(めんどくさいので省略)
ここまで書いておく。
聴力が極まってるのは同じだが、あっちが「表情」だとしたらこっちは「」で、いや「」の中がいつまで経っても埋まらねえじゃねえかよ。無理だこれ。説明するの無理。とにかく性質がマジで違う。

なんか、音って感じじゃないんだよな、世界って感じ。曲一つ一つの世界。草の方だと理解できない音楽無慈悲にディスってて草なんだよな。まあ事実の部分もあるけど。多分突き詰めると「質」って草の方で言ってたものが正しいけど、音楽ってそうじゃねぇんだよな〜〜〜〜ガキンチョがよ。

もっと広い目で見た時に、例えば、単純に音楽を発信する事を目的とするアーティストと、TVアニメに出てるキャラクターのイメージソングっていう複雑化した音楽の形態も世の中にはあって、とにかくこんな風に畑が違う音楽が、音楽として俺たちに伝えられている感動がある。そしてもっと突っ込んだ話、世界の違いによって全ッッッッッッッッッッッッ然聴き方が変わってくる。Don't Stop 'Til You Get Enough(https://youtu.be/yURRmWtbTbo)なんかは音と映像が完全に融合してる 。これって本当に凄い事なんだよ?どれが良いとかそんなチンケな話をしたい訳じゃ無い、全部「そう」なんだよ。Anarchy in the U.K.(https://youtu.be/cBojbjoMttI)とか見てみろよ、存在してんだよ、そこにさあ。ほんと、物事の良し悪しなんてテメーの基準でしかないんだよ。この2つだけでも全然違うだろ?聴き方が。それと同じ事が毎日、日常生活で起きてる。その上でPiano Man(https://youtu.be/gxEPV4kolz0)見ろよ、もはや言葉で説明すんの無理だわ。お前、自分の持ってる全部捨てて、Purple Haze(https://youtu.be/cJunCsrhJjg)がStarman(https://youtu.be/sI66hcu9fIs)なんだよ。本当に・・・・・凄えよ。見えるだろ?世界が。



まあとにかく言いたかったのは、俺も世に伝わってる様なイメージに踊らされた愚か者の内の一人だった訳で、何もかもどうでも良くなって人間辞めるつもりで腹決めてこっちの世界来たってのに、結局思うのは、現実より面白いものなんて無いっていう、なんだろうね。