境界知能で発達凸凹

劣っているが生きている

近況報告

 

みそかですが近況報告をば…

 

非正規ですが仕事にありつけ、ぜいぜい言いながら働いていたらブログからすっかり離れてしまいました。

しかしまあ、働くの大変で大変で…

 

でも、働いているというのは良い報告ではありますね。

来年も働き続けられるよう頑張ります。

 

久しぶりにここを開いたら「続きはないの?」というコメントに嬉しさを覚えたのは言うまでもありません。

 

ブログ放置してて申し訳ない、しかし読んでくれてありがとう。

 

それでは、良いお年を。

 

 

 

母と子という関係から抜け出せない

 

※独り言を書くことによる思考の整理を試みるブログです

 

人は普通、成長の過程で母親から徐々に離れていき友人を作り恋人を作り社会に出て自立する。

 

おそらく、私はそこで躓き続けている。

 

友人も恋人も先生も、不安な社会で生きていくうえで必要な母親の代わりでしかなかったのかもしれない。

不安な社会…学校などの集団では常に同じ人といてべったりした関係に見えるのに、会っていないときは全く連絡を取らない。

そして私の人間関係は複雑なようで案外単純で、懐くかどうかというだけである……… 

懐いていない人間には興味を持てていないのかもしれない

 

一体なぜ母親からの自立ができていないのか?

ということを考えたときに、そもそも母親と適切な関係が築けていたのか?ということを検討する必要がある

適切な関係とはなんなのか?という定義は難しいが、私の発達凸凹、自閉傾向により母親との適切な関係が築けなかったという可能性はあるだろう

というか、恐らくその時点で躓いているのだろう

勘違いしてほしくないのは、母親の愛情が足りなかったと言っているわけではない

それを受け取る装置が私の場合は他人からみたら歪なのではないかという仮説である……

 

それゆえに母親と密着していないのに、他者と接するときに母親への願望があるのではないかという奇妙な状況になるのか?

エヴァでいうなら、シンジくんから見た綾波レイという存在である

一見、それは友人であり恋人的なものであり、自立した自らの強い意志により大切にしたい世界であるように見えながら、根本はユイ…母親というグロテスクさが誕生してしまう

 

母親という視点以外から他人に興味を持つ必要がある

 

私にとって母親から乖離したところで興味を持てるのは本である

幼い頃の私にとって絵本の世界というのは、不安な世界に安心をもたらす第二の母親だったのかもしれない

私の歪な愛情受け取り装置に合う情緒的な愛情を多く注ぐことができたのは本だったのかもしれない

本から世界のことを知って、他人の物語に興味を持つということを三次元に徐々に持ってくるという遠回りな道を通って人並みになれるのではないか…… 

 

本から得たものなのか不明だが謎の正義感や博愛主義が自分のなかにある

それは発達障害の一部が持ちうる、ある種のウソのつけなさ、素直さなのかもしれない

愛と勇気だけが友達さ

それはとてもそう、ある種の幼稚さを抱える

その取り扱いを間違えると悪意がなくても大変なことになる…

エヴァで例えるならシンジ君が起こしたニアサーとかそこらへん

人類への愛を上手くコントロールしながら目の前にいる人に興味を持つという遠回りな道も検討しつつある

 

こんなことを考えていると自分だけが奇妙な世界に置いてけぼりになっているような錯覚に陥る

しかし発達凸凹がある人は多いからそういうわけではないんだろう……

それはそれとして人間はみんな根本的には切り離された個体でありひとりぼっちという真理は存在する

繰り返しにはなるがそれはみんなそうなのである……

 

 

 

 

 

 

ADHDの参考になる動画と私が思うこと

 

大人の発達障害。「ADHD」になるとどうなるのか? 

youtu.be

 

ゆとりーマンさんのこの動画がADHDの参考にとてもなるなと思いました。

医師の監修がきちんと入っています。

 

私自身はADHDの要素は少なめ…と勝手に思っているのですが共感できることもあります。

 

このようなADHD発達障害に「頑張れよ!」と責めるだけでは頑張る方法を間違えてしまうんですよね。

 

「仕事中に脚立を30分も探し回る」というシーンが動画内にあるのですが、「頑張ってきちんとやらなきゃ」と思うだけでは探し回る時間が増えるだけ、なんて現象が起こることが容易に想像できます。

 

頑張らなきゃと思えば思うほど周囲が見えなくなる。

 

そして、なんで頑張っているのに報われないんだ!と疲弊していくという悪循環。

 

自分の能力の中だけで苦手なことを頑張ろうとすると上手くいかないものです。

 

だから、周囲からの助けが必要になります。

「頑張れよ!きちんとしろよ!」と責めるだけではなく具体的な指示が必要になります。

 

周囲は、ADHDの人が頑張っていないからミスをするというより頑張る道筋が分からないからミスをするということを知る必要があります。

そうでないと周囲の人たちは疲弊するだけです。なぜ頑張ってくれないんだろうか、と怒りと虚しさで悩むことになります。

 

また、ADHDの本人は自分の能力だけでは解決できないことがあり、周囲の知恵を借りる必要があるということを自覚すべきです。

周囲の人が難しかったら、病院や様々な支援施設から知恵を借りる。

発達障害向けの仕事への対処法が書かれた本なども多くあるのでそれを利用するのもいいでしょう。

とにかく、自分の能力の中だけで頑張るな。

周囲の知恵を借りながら、頑張ろう。

 

周囲に頼ることに罪悪感を持つ必要はなく、どんな人でも何かをやるときに周囲に頼ることは目指すことへの近道です。

それが分かっているから要領がよい人というのは周りに頼るのが上手です。

罪悪感を必要以上に持っていると周囲にとってプレッシャーになることもあるので、自分の中にある「ありがたいなぁ」という気持ちに注目して、それを伝えるようにしていきましょう。

 

上記のことを意識しながら私は私と周囲の生きやすさを模索しています。

 

 

「薬、これでいい?」と聞く医師 ~メンクリの診療室で思ったこと~

精神科の独特な文化、なのかな?

 

「薬、これでいい?」

と聞かれたときは少しびっくりしました。

 

いや、分からんし…という気持ちに。

 

今までの病院…つまり、内科などでそんなことを言われたことはないと思います。

 

しかし、インターネット上では精神科(心療内科)で、そういわれてびっくりしたなんてエピソードが散見されます。

つまり精神科において珍しくはなく、よくあることなのです。

 

なかには、「どれがいい?と言われた」とか、「飲みたくないと言ったらすんなり薬がなくなってかえって不安」なんてエピソードも見受けられます。

逆に「具合が悪いと言ったら薬がすぐ増えてしまった」という不満のエピソードもちらほら見ます。

 

精神科で他科より大切なのは、患者が理解して同意して、さらには自主性を持って積極的に治療を受けていることなのだと思います。

メンタルクリニックなど軽症の患者、自ら動いて病院までこれるような患者の場合は特に。

 

なぜなら精神科では「不安である」「イライラする」「眠れない」など主観的な訴えから判断することが多いことが理由に挙げられると思います。

それに対して薬を飲むほど困っているのか、どれくらい飲むのか、どのような強さのものを飲むのかは患者の判断というか意向が大きく関わってくるのだと思います。

(※もちろん、主治医に言わずに勝手に中止などはいけませんが)

 

薬などについて確認してくれる医師はとても良い先生だと思います。

多少、言葉足らずだと思わなくもないですが…笑

 

先生に任せっきりじゃなくて、自分が困っていることを治しにきてるんだって気持ちで薬などに興味を持つことが大切ですね。

 

発達障害の受動的なASDっぽい特性がある私にとっては自主性、積極性を学ぶ練習にもなるなぁと思っています。

 

 

 

 

 

 

「嫌われてもいい」~メンタルクリニックの診療室で思ったこと~

人が怖い、対人恐怖

「こんなことを言ったら嫌われるだろうか?」

「相手が嫌な顔をした気がする、嫌われただろうか?」

よって

「行動を起こすのがイヤになる」

「人と会うのがイヤになる」

 

このパターンから抜け出せなかった。

 

メンタルクリニック(精神科・心療内科)に通うことでの変化

~境界知能・発達障害当事者Aの場合~

不安を持ちながらメンタルクリニックに行く。

やはり医師の態度というのは気になってしまうものだ。

ちょっと怖そうだな、忙しそうだな、こんなことでメンクリきてよかったのかなとか。

精神科というのはちょっと特別なところに思えるし、慣れない場所での作法というものは分からないものであるから尚更だ。

また行かなければならないのかと思うとちょっと憂鬱になったりもする。

 

それでも何度か通い続けてみる。

そもそも身体の症状と違って、精神の問題は自分で話さないと相手に伝わらないことばかりだ。

不安だと、すべてを漏らさずに伝えたくなるし、すべてきちんと伝わっただろうかと心配にもなる。

そうすると喋りすぎてしまうし、そうすると主治医は困ってしまう。

他の患者さんもいるし再診にはそんなに時間をさけないのが今の医療の制度でもある。

喋らなくてただ大人しくしているだけでもダメ、喋りすぎてもダメ。

対人恐怖があって元々コミュニケーションが下手なのにそんなバランス良くなんて難しいのである。

主治医はなんか困ってる感じだし、やっぱりめんどうな患者だと思われてるかもしれない。いやむしろ、明らかに嫌そうな顔をした、絶対に…

 

それでもやっぱり通い続けてみる。

薬は欲しいし、他をイチから探して行くのも負担だし、予約を入れてしまっているからキャンセルの電話をする勇気も出ない。

嫌われてるかもしれない、と思う人と関係を続けていくという経験をする。

そうすると、嫌われてても案外問題が起こらないということに気が付く。

仮に、失礼だなとか、そんな軽いことでメンクリに来るなと思われていたって、問題がないのかもしれないという発見である。

嫌われてても一体なんの問題があるんだ?という一種の開き直り的な考え方を体感として理解し始める。

 

私が言った(私にとっては)重要なことを主治医がすっかり忘れているという経験もする。

はは、これじゃ、私が言わなきゃよかったなっていう失言も覚えてないんじゃないか?

相手がこちらのことをそんなに気にしていないという経験をする。

相手がどう思うかを全く気にしないのも良くないが、気にし過ぎだったということである。そりゃそうだよ、1日にたくさん診ている患者の1人だ。

こちらの言動でいちいち嫌ったりしてそれを覚えてなんかいないだろう。

 

さらに詳しく誤解のないように書くなら、こちらのできる範囲で誠実に相手に接していれば嫌われたか・どう思われているかはそんなに気にする必要がない、ということである。

 

ここまで体感として理解すると「人と会うことがイヤ」という気持ちが徐々に薄れていく。あくまで、徐々にね。

 

その次は「行動を起こすのがイヤになる」という気持ちが薄れていく。

調子がいつもより悪いんだと自分から伝えてみよう、とか。

薬についてこうしてほしいと言ってみよう、とか。

少しずつ行動を起こせるようになっていく。

 

もしも、人と接することが苦手じゃなかったら、メンタルクリニックの診療室じゃなくて日常で学んでいたことかもしれない。

きっと私に足りなかったのは三次元の場所で人と関わり続ける経験だ。

今から学んでも遅くないと信じて、安全なこの診療室に通い続けてみようと思った。

 

 

 

境界知能と発達凸凹が判明した経緯③

無職、メンタルクリニックへ行く

境界知能、かつディスクレパンシーに差がある(この言葉使いなれてないので頭痛が痛いみたいな表現な気がするがいったん置いておこう)、というウェクスラー知能検査の結果を握りしめ、悶々とする無職。

 

鬱々とした日々を過ごし、ようやく予約の日に。

 

正直、めちゃくちゃ緊張した。

先生がこちらにめっちゃ集中している気がする。

しかし後で思った、私の声が小さくて聞こえにくかった可能性を……

 

なんやかんやとやりとりをして(あまり詳細に書くのは良くない気がするので省く)、

境界知能と発達に凸凹があるという診断をもらう。

 

診断がでるということは支援というか相談していい場所としてメンタルクリニックに繋がれたんだなと思って少し安心する。

というか、たった1人で知能検査の結果を受け止めることがもう、辛かった。

ここからどうやって生きていけばいいのか?自分のことを肯定できないのに就活して自己PRなんてできる気がしなかったし、就職してもまた失敗すると思った。

もう頑張れないと思った。今までの経験も考えながら、絶望的な気分だった。

家族にも相談できなかった。大学まで出してもらったのに、今更こんなの。

そういったなかでメンタルクリニックに繋がれた、誰かに聞いてもらえた、というのはびっくりするくらい安心した。

自分が背負っている荷物を横から支えてもらったような気持ちになった。

ひとりぼっちじゃないと思った。

 

待つ必要はあるが、障害者手帳を取って障害雇用で働くという選択肢も提示される。

発達障害って手帳取れるの!?!?取れないイメージがあったのでびっくり…

そして今更ながら「障害」という言葉の重さに衝撃を受ける。

マジかいな。

 

偏見とかそういうのはないつもりだったけど、自分事となるとショックを受けてしまう自分に対してもショックを受けた。

 

一つ安心すると次の不安へ出会うことになる。

それが精神科という場所、というか人生はそういうものだと気が付くのは後々のお話……

 

とりあえず、これで「境界知能と発達凸凹が判明した経緯」のお話は終わります。

読んでくれてありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

境界知能と発達凸凹が判明した経緯②

無職、WAIS-IVウェクスラー成人知能検査を受ける

境界知能と発達凸凹が判明した経緯①からの続きです。

さぁ、やってきましたウェクスラー検査の日。

遅刻しそうになる。あらまぁ。慣れない場所だからね。

検査でなにやるかは知ってはいけないのでよく知りません。

正確な結果が出ないからね。

このブログでも内容は書かないよ。

 

ギリギリで焦ってやってきた私にも心理士さんは優しく出迎えてくれました。

どんどん検査を進めていきますが、自分が出来ているのか出来ていないほうなのかはよく分からない。

しかし、明らかに最初から難しいものがあり、え、あんなんみんなできるの??という気持ちに。

いやでもできないもんはできないのよ。

そして心理士さんから時々、「これはどうでしたか」みたいな質問をされ、思ったままにふわふわ答えていく。

終了後に「〇〇が好きなんですか?」と趣味をドンピシャに当てられてびっくり。

こわっっっ!!!!!

 

1時間を超える検査で、いやぁほんと疲れた。

帰宅してすぐ爆睡しちゃった。

 

無職、境界知能と判明

さて、待ちに待った検査の結果を受け取る日。

 

今日も優しい同じ心理士さん。

 

うん???うん???平均より低い、なるほど。

全検査IQ79?ふーん?

ふんふん、ショックだなぁ。ていうかみんなあんなんできるの?(再)

えーー????信じられん…

ディスクレパンシーというものに大きな差があることも教えてもらう。

 

「〇〇なんかも苦手だと思います」

あーーーーーーー。

それバイトでやったことあるけど何故か全くできなくて他の所に回された経験あるよーーーーーーーー。

「以前おっしゃってた人間関係の困難も……」

あーーーーーーー。あ、これマジなんだな。

えっ、てか、そんなことあんの??あれっ、これもしかしなくても大勢の人と話すのが苦手で、人見知りが治らないのは、情報を処理するのが苦手だからなの??

暗い性格だからってより、周りの会話に脳みそがついていってない??

だから不安??え、そんなことあるん???

大学卒業してるのにそんなレベルなの??

「家族での会話はどうですか?」

できるに決まってるだろーー!と心の中で一瞬イラっとしちゃった。

あとで考えたのだけど、家で会話はできてはいるが、うちの家族はみんな変なのでいろいろ、もう、会話が成り立っていません。

一瞬イラっとしちゃったのが伝わってたらごめんなさい、優しい心理士さん。

時間オーバーしちゃうくらいゆっくりと説明してくれたことにも後で気が付きました。

ごめんなさい、心理士さん。

 

なんかよく分からなかったので少し質問をすると

「いわゆる境界域なんです」

と言われる。

境界域…????あれっ、なんか聞いたことあるな…???

そういえばなんか聞いたことある…

 

説明を受けて、自らが境界知能であることを知る。

 

家に帰ってよく検査を見返すと、できないと自覚があったあの検査はIQ71であること、調べたらIQ70以下は知的障害となる(※大雑把な認識)と知る。

 

いや、ギリやんけ。

え、じゃあこれからどんな仕事についても絶対大変じゃん。

え???就活どうする???対人援助を避けたほうがいい疑惑とか、そんなレベルの話じゃなくなってしまった。え??こんなことになるなんて想像してなかったんだが??

 

うーーん、こんな結果、見たくないっ!

 

無職、境界知能の当事者Aとなる。

 

境界知能と発達凸凹が判明した経緯③へ続く。

多分、次で終わります。