午前2時半から日が昇るまで。扉を開けた先の世界は、私だけのものだった。人のいない田舎だからこそ味わえるこの感覚は、何にも変えがたい開放感をくれた。よく晴れた日は星空を見上げて、曇りの日はとにかく歩く。雨の日はさすがにおやすみして、またいつか来る晴れと曇りを待ってみる。2時半の町は静かで、何もかもが眠ってしまったように思えて、私一人が止まった時の中を動き回っているような、不思議な錯覚を見せてくれる。たった一人で酔いしれるこの時間が、私の中の救いだ。前日にあった嫌なことも、苦しかったことも、辛かったことも、夜の闇が飲み込んでくれる。嬉しかったことや楽しかったことがあった日は、星空が一段と輝いて見えるし、曇り空ですら楽しく見える。雲の少しの切れ間に見える、真っ暗な空に吸い込まれていきそうだ。魅力的な目を持つ人と、似ているように思う。吸い込まれてしまいそうになるのは、どうしてなんだろう。ふと抱えた疑問を胸に、今日も私だけの世界へ飛び込む。

 

 

危機

 

 しまった、と思った時点でもう遅い。バスに乗り込んだ先は満席、こちとら大荷物。終点までこの様相が変わらないことは、つい数日前までの自分がよく知っている。それにしても大丈夫なのか、としばし考える。満席の正体はお年寄りで、恐らくこのバス停の2つ前、病院で乗った人がほとんどだろう。周りにも気づかれないほどのため息をつく。もっとも、お年寄りがほとんどを占めるこのバス内で、老いていない耳を持つ者がどれほどいるのか、わかりきってはいるのだが。時間帯だとはいえ、こんなに若者がいないのは、深刻なことではないのか。ぼんやり窓の外を眺めながら、大きな荷物を抱えてつり革に掴まりつつ考える。徐々に乗客が増えてきて、それでも若者はほとんど居ない。終点につき、街を歩き出して気づく。昼の街を行き交う人は、ほとんどがお年寄りばかりだった。そうか、お年寄りがこの街の経済を回している。だから、と思ったところで思考をやめた。この先は、とんでもないことを考えてしまいそうだったからだ。自分の中では納得がいったその答えと、残酷とも思える自分の判断に、少しだけ、お年寄りへの同情を覚えた。いずれ自分がその立場になっても、果たして同じ考えを持てるのだろうか。言えてしまうような気もしなくもない。むしろ、そのくらいポジティブに生きたいものだ。

 さて、この主人公は、なんと考えたのか。読んだあなたのその考えが、正解なのかもしれません。

生かされると殺される

 

 

 あぁ、便利だ。

昨日も今日も、きっと明日も、この先しばらく絶えずずうっと、便利だ。

寂しい、も、会いたい、も、3秒。嫌い、も、じゃあね、も、3秒。

同じ3秒にどれだけの想いが込められていようとも、たった数文字の羅列でしかない。

人の批判をするも3秒。温かい言葉をかけるも3秒。

予測変換と送信、なんていうツーステップで完結する便利さに、生かされながらも殺されている。

読んだを知らせる既読だって、僕らの頭を抱えさせる。

見たことへの安心感、生存確認、諸々ポジティブな面はあるのももちろん。それでも、その「既読」こそに意味を見出す関係性だってあるのだ。見たのに返って来ないだとか、3秒とかからず不安にさせる。

それでも僕らはその便利に、縋って、頼って、生きている。

縋らず、頼らず生きていくには、どうしても何もかも、手段が足りないと感じてしまう。

一番早い速度で、一番わかりやすい手段が、言葉であるのは明快だ。

時に拗らせ誤解され、あらぬ方向に歩き出してしまう言葉だけれど、その事実を間違いだと訂正し、信用や信頼を取り戻すのもまた、言葉だ。

いつでも会える距離にいるなら、別の方法で想いを伝えることができたのに。

そうもいかないのが難しいところで。

あぁ、今日も便利だ。その便利さを、活かしながら生きていたい。

 

 

 

 壁を蹴る。物を投げる、手当たり次第ぶん殴る。叩きつける。地団駄を踏む。勢いよく扉を閉める。果てのない独り言。自傷行為。呪いのような言葉。溢れ続ける悪口。自己嫌悪。朝になるまで飲み続けて、いっぱいになるまで食べ続ける。わざとらしく笑ってみる。声を上げて泣いてみる。何もない部屋でずっと静かに体育座りのまま時が経つのを待ってみる。深呼吸をしても無駄だ。歯ぎしり。手のひらの爪の跡。ビリビリになった紙くずたち。割れたグラス。散らかった部屋。壊れた目覚まし時計。投げ出された携帯。溢れた水。グシャグシャになったシーツ。雨なのに外に駆け出す。晴れなのに閉じこもる。書き殴る。シャーペンの芯は何度折れたか。ペンの先は潰れた。アクセルを踏みすぎて速度違反になりかける。第三者を傷つける。少しの衝動が倍になる。止められなくなっていく。とりあえず寝よう、と目を閉じてもおさまらない。苦しい。つらい。逃げ出したい。逃げている。走る。動く。頭を激しく殴りつけてみる。責める。大声を上げる。枕に向かって叫ぶ。急激に熱が冷めたところで、ふと我に返る。惨めだ。情けない。息が詰まる。そして、壁を蹴る、以下、ループは不定期に起こる。

 

 

10分

 

 何かを書こうと気負った瞬間に何も書けなくなるし、相変わらずバカデカい劣等感を抱えて生きてるし、過去の栄光に縋ってるし、未来はいつまでも輝かないし、今日より明日を願うのにその明日の比較対象は今日だし、身近にある「正しい」に自分を殺され続けてるし、正しいには個性がないなぁと思うし、万人ウケとかあり得ないのに万人ウケを考える自分がいるし、無難が嫌いなのに奇抜な発想は出来ないし、所詮凡人は凡人のままだなぁと痛感する日々だし、独創的な人間になりたいと思えば思うほど思考は凝り固まって自由な考えに蓋をされていくし、本当はやらなくちゃいけない明日の課題にもまるで手を付けずに時間が経っているし、アレまだ日付越えてないんだ~って油断すると外が明るくなってくるし、嫌いな人に嫌いだと言えないどころか好きな人にも好きだと言えずに両者とも離れていっちゃうし、二兎を追う者は一兎をも得ずとかいうけどそもそも二兎すら追ってねぇじゃんって気付いて勝手に絶望しちゃうし、穴があったら入りたいなって思うことだらけでも穴はそう簡単に見つからないし、自分で作り上げた人物像が虚像なのに定着しちゃって離れるのが怖いし、暑いし、日焼けするし、ご飯が美味しいし、泣きたいし、その倍笑ってたいし、痛いし、怖いし、眠たくなるし、憂鬱だし、不安だけど、生きるしかなくて、生きていたくて、どうしょうもない自分を抱えながら、体当たりで進んでいく。

 

 

猿 謎 寝室

 

 

 

 「スローロリスみたいな人だった」

「はあ?」

「だから、スローロリスみたいな人だって」

「ミカ、何言ってんの?」

ミカ、と呼ばれたその女は、話すことをやめない。

「いやぁさ、丸っとしてて、目がくりっと大きくて、それでいて日本人っぽい平たい顔で」「スローロリスみたいな人だったんだよ」

「はあ。まぁなんとなくわかったけど」「で、その人がどうしたって?」

もう一人の女は、聞いているような聞いていないような、時折来る携帯の通知を確認しながら、ミカの次の言葉を待った。

「まるでオチのない話なんだけどさ」「何故かずっと頭に残って離れないんだよね」

スローロリスさんが?」

スローロリスさんが」

へぇ、という言葉の代わりに、眉毛をハの字にした女は、通知をひとさばきした後、別の話をする。

「いま連絡取ってる、ツイッターで知り合った女の子がさ」

「あぁ、今度ライブ一緒に行くとか言ってた?」

「そうその子」「昼間の返事は三時間おきとかなのに、夜は秒速で返ってくるんだよね」

「ほお、夜行性なんだ」

「そう、夜行性」

「ショウガラゴだ」

「ショウガラゴ?」

「うん、ショウガラゴ」

手元の携帯を開いて、女が調べる。その間にも、ミカは喋る。

スローロリスさん、なんなんだろうなぁ」

「ショウガラゴって、猿じゃん」

「そう、猿」「スローロリスも、猿」

今度は眉間に皺を寄せて、女は「そういえばさ」と話し始める。

「この間も、警戒心強い男の話した時に猿のこと、言ってたよね」「なんだっけ、ピグミン…」

「ピグミーマーモセット」

「それだ」「ここのところなんなの?急に猿ばっかり」

手に持っていた携帯を置き、グラスを口に近づける。

「それがさ」「わかんないんだよね」

「わかんないのかよ」

思わず揺らしたグラスから、水がバシャンと机に零れる。

「びっくりしたもんだから零しちゃったじゃんか」

「ごめんごめん、でも本当にわかんないからさあ」

でもね、と、こぼれた水を拭き取りながら、ミカが答える。

「家具屋さんの寝室コーナーで、スローロリスさんを見てからなのよ」「不思議だよね」

「謎だね。不気味だ。わけわからん。それでさ」

女はミカと同じように、零した水を拭きながら、話の軌道修正を図る。

「その女の子が地方に住んでるらしくて、ライブの時だけこっちにくるっていうから、ライブ会場の周辺を案内してあげようかと思っててさ」

「ふぅん、いいんじゃない?」

「その為に今、集合時間とか、場所とか、連絡しておきたいんだけど」「思うように連絡できなくて、どうしようかな~って」

「え、ライブっていつ?」

「明日。そして今夜、私は0時までバイトです。さぁ困った」

大袈裟に困ったポーズをして見せた女は、その動きとは裏腹な小さい声で、本当に困った、と呟いた。

「夜行性なんでしょ?」「バイト終わってから連絡しても、十分なんじゃないの」

「それがさ」「向こうも向こうで、夜に用事があるらしくって」「そこから急いでこっちにくる夜行バスに乗るから、前日は連絡取れないと思うって」

「なぁにそれ、自己中、案内するのやめたら?」

呆れちゃうね、とミカは言い、空になったグラスに水を注いだ。

「あ、私もちょうだい」

女が言ったタイミングで、携帯の画面が光る。

「あ、例の女の子だ」「朝五時頃にこっちに着くから、それ以降なら何時でもって。」

「へぇ、まぁじゃあ、適当に決めちゃったらいいんじゃない」

ミカは自分の携帯で時間を確認するなり「まずい」と言い始め「ごめん帰るわ、なんか知らんけどお兄が帰ってきたらしい」と、席を立ってしまった。

「自分勝手~」

と言いながら、時間を見るなり女も急いでその場を後にした。

 

『結局会えたの?例の彼女とは』

『あ、うん、まるで問題なく』

『優しいなあイズミは』

『いや、誘ったのこっちだし』

いつも通り、電話越しの近況報告と、他愛もない会話をする。

『どんな子だった?』

『一緒に写真撮ったから送るよ、待ってて』

数秒後。

『あ、来た』『え、待って?本当にこの子?』

『なに本当にって。嘘ついてどうすんの』

『いや、えぇ~』『スローロリスさんじゃん…』

『は、え、女だったの?』『てかあの人地方住みじゃないのかよ』

『えぇ…なに…こわ…謎すぎる』

スローロリスさん」がどこの誰だったのか、彼女たちが知ることはなかった。

 

 

さぁ、誰の話?_1

 

 

 

 生きるために捨てた犠牲と、生きていく上で必要だった全てが、必ずしもプラマイゼロにはならない。圧倒的に犠牲が多い人。何も捨てられなかった人。何も間違っていないし、むしろ間違いなど存在しない。それが、私は、本当に嫌だった。間違いが存在しないって、なんだよ。間違いが存在して正しい道を歩けば全てが上手くいくような世界であれよ。お前は間違っているって、こうすればいいんだよって、私の人生の先頭に立って指示をする私が居てくれよ。他人の意見に流されたいわけでもないし、何処かの誰かが敷いたレール上の人生を歩みたいわけでもない。ただ、明確な正解と答えが欲しい、それだけだ。それさえあれば、自分自身を照らす道が自然とわかるような気がしていた。いつの間にか周りとも、ずいぶん差のついた場所に来てしまった。どんどん置いて行かれる感覚。昔だったらありえない今に、自分が一番困って、悩んで、焦っている。そんな自分を受け入れることが出来ない自分もまた、惨めな気持ちを増幅させるのだった。「身に覚えのある失敗」を、指差す人間が嫌いだ。そこに対して、あたかも自分はそんなところは通らずに、こういう考えに至ったんだよと、美しい面しか見せないアイツが嫌いだ。わかっている。いってしまえば私自身、人に求めるハードルが高い。だがしかしそれは自分が相手にしていることと同等のものを求めているというだけで、それ以上でも以下でもないのだ。ただきっと、その水準が異様に高い。この数十年間で培われてきた、場を読む能力や異常な自意識、過剰なまでに使ってしまう他者への気は、もう他の誰にも越えられないのだった。自分の求める水準を、クリア出来る人間は数少ない。パッと思い浮かぶだけでも、たった2名ほどのものだ。でもそうじゃない、結局は自分の気持ち次第で、他人がどうとか、まるで関係ない。センスとか才能とか、ある人の方がごく僅かなのに、何故自分は当たり前の努力を、当たり前に出来なかったのだろうか。嫌いだ。どこの誰でもなく、私が、私のことを、嫌いだ。受け入れられないのも、愛せないのも、世界中で誰よりも自分が、一番自分を嫌っているからだ。