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冷え切った夫婦関係について

 私も、人生経験はある程度してきましたので、それなりに世間で言う“夫婦関係”や“事実婚”などを事例としてみてきています。恋愛と夫婦生活は、全くの別物か延長かは分かりません。しかし、出会いは神妙で偶然の産物と言えるのが、見合いであり、恋愛です。学期末のテストではありませんから、何度でもトライできることではありませんから、その都度真剣に相手を受け容れることから始めて、関係維持の手段・方法は採るのでしょう。しかし、他に“もっと”好きな人ができたとか、尊敬も信頼もできなくなった、などの理由がありましたら、婚姻の維持・継続は困難となるでしょう。それでなくても、過去には“性格の不一致”が離婚理由の第1位でした。最近では、“モチベーションの低下”というのだそうですが、お互いの修復への努力はしてみても良いのではないかと考えております。

 そして、夫婦関係の修復を前提とした試みでは、“別居”という手段がありますとこは、各当事者において分かってきています。それで、「別居には、離婚を前提としたものと、夫婦関係を修復するためのものの2種類があります」(岡野 あつこ;離婚ガイド)引用)とうことを前提に、当事者間で決めて実行しているようです。

 ですが、掲題にありますように「冷え切った夫婦関係~」では困難と思料いたします。これでしたら、再起のための準備や、清算のための話し合いの方がより建設的でしょう。

 

自己肯定の哲学とは

 私は、自己の足元を確認しながらでなくては、覚束ない歩みを続けることが困難です。ですから、確かなというよりも、自分が納得して出した歩みを信じているに過ぎないのです。これには、古来より哲学者らが考えに考え抜いて出してきた“想い”があることと思いますので、断言はできませんが、少しづつ高みに行っているようにも感じています。

 そして、理解と納得の一つである、【 法に従うこと。そのためには法に従う仕方、法と個々人のふるまいを仲介する仕方そのものが、人々のあいだで共有されていなければならない。為政者が強権によって法を一方的に押し付けたとしても、それが法として根づくとは限らない。人々が法を遵守し、法が法として成り立つには、法以前のなんらかの秩序、慣習(エートス)、共通感覚がすでに人々のうちで共有されていなければならない。《21世紀の必読哲学書》では、宮崎裕助・専修大学文学部教授-引用】のように、各自が見開いたり、獲得した形質のように、自己への厚みを増していくのでしょう。これが、正に自己肯定の哲学なのではと考えています。私以外では、全ての考えが万人違っていますので、没入も、決定もできませんが、前掲しましたフリードリッヒ・ニーチェの理解のようにも考えて良いと思っています。

 自己肯定感の低い人は、逆に承認欲求が強くなりますので、これに辟易(へきえき)したくないと思うのでしたら、益々考慮の範疇に入れて頂きたいと考えます。

 

圧倒的に仕事が早い人とは

 これには、コツがあることを知らなければなりません。どんな人でも、仕事に対する姿勢、仕上がり、完成度の再考などは、同じ程度ですが、着手に違いが出てきます。

 ある程度、ルーティンがある業務については、皆が遜色なく仕上げることができますが、じっくり考えて遂行する業務については、ばらつきがあり、時間差も出てきます。そんなに幅があるわけではないのですが、数をこなしているうちにそれぞれに差が出てきます。

 ですから、これが同じようにできるようになるためには、常に頭の中では、「最大化」を意識して進めることが良いと考えています。ここで差が出てきますから、“圧倒的に”という意味では、とっかかりに既に差が出てきます。

 自己主張の強い人でも、平然とこなす人でも、仕事内容には遜色はありません。特に、今後消えてしまうような仕事は、あからさまな差がありませんので、誰が推敲(すいこう)しても違いが出てこなくなるでしょう。これに反して、消えて無くならない業務については、各自が工夫して、各自のイメージで進めますので、結果においても差が出てきます。

 ですから、「圧倒的に仕事が早い」というのは、虚構を作らないという実務のしたたかさでしょう。これに至るまでには時間がかかりますが、覚えましたら反復に時間を要しません。

 

若い女性のパパ活の認識について

 昨年、新宿歌舞伎町の近くの大久保公園のことが報じられていたことに端を発し、「高橋 暁子成蹊大学客員教授/ITジャーナリスト」が寄稿していましたことを思い出し、書いてみました。家庭や学校での様々な問題を含んでいますので断定はできません。が、子どもたちが家を巣立つまでには、家庭内での環境や親の言動が、子供達に及ぼす影響が大きく左右していることを感じました。何も今に始まったことではないのでしょうが、家長制のあった時代には、全ての判断が家長に委ねられていました。しかし、夫婦・親子が家の単位となってからは、家人の誰もが自分の考えで行動することができるようになりました。これは、途中経過であった学生運動の時代を含めて、真剣に考え、真剣に悩んだ時期でもありました。

 今現在は、団塊ジュニアの行動時期も過ぎてきていますから、先の高橋教授が何をにらんで発言しているのかまでは、詳しくは分かりませんでしたが、家族や家が単独で成り立っているような時期を過ごして、次はどうするんだと思わずにはいられません。

 実社会に出る前に或る程度の知識を得て、社会人として過ごせるようにとカリキュラムを組んで学んでいくことが、途中を省いた場合には、片手落ちの知識や経験で世の中に対処していかなくてはなりません。ですから、どんな人がいて、どんな行動様式が当たり前なのかは知る由もなく、結果を受け容れなくてはいけなくなるでしょう。危険も伴います。

 

日本企業の凋落と投資について

 日本は、第二次世界大戦の敗戦で大きな痛手を負いました。“終戦”といって、1億総玉砕を目論んで悔しさを前面に出した人たちもいました。が、満洲への投資に固執して、その何千倍もの負債を負いました。振り子の傾きと同じで、どちらか一方に行き着かないと分からない国民性ですから、なってみませんと腑に落ちないのでしょう。

 これは、日本企業の凋落と同じで、先行きを見るに山の頂上を見間違えることでしょう。大抵の投資家は、100%を求めません。大体は80%で切り替えます。ですから、失敗が無いのです。密かに日本への投資も2023年初めころから始まっていながら、日本への投資は無駄だとか、まだ中国がいけるなどと言って、相場を煽る言動には、プロとしての矜持がありません。“プロは、負けない”ことです。何故か。負ける前に撤退するからです。

 このように、日本企業の凋落などは全体に亙っていないにもかかわらず、全面において自嘲していたら何ものも成果を上げないでしょう。“全か無か”では投資には向かないでしょう。

 資金は、無尽蔵ではありませんから、80%の完勝を得ることに集中すべきでしょう。

 日本企業には、まだ投資すべき職種や分野があります。これは、加工貿易という優れた技術である基本があるのでしたら先行きがあるということです。ですから、他国からの侵略や原材料の半永久的全面禁輸が無い限り、先行きへの全面降伏は無いでしょう。

 

古くて新しい梅毒について

 私が、記憶と共に覚えましたのが、マルコポーロによって“梅毒”を、シルクロードを通って東洋にもたらされた、ということでしょう。大航海時代の前にすでにあったアフリカ現地の風土病と言われていた、とも併せて雑学で教えられました。これは、数世紀下がって野口英世がアフリカで黄熱病に倒れたことにも起因している(⇒憶測です)かもしれません。が、多種の“伝染病”についての知識はこの程度です。感染経路とか治療法を含めてです。

 しかし、現に今の時代にも国内では“梅毒”が増えているという現実に、何を理解すれば良いのか戸惑いました。何故なら、根治(こんち)が可能な病気でしたら、治療薬で全員が治って二度は出てこない病であると理解するからです。しかし、現に国内外の人たちが世界中を業務や観光で飛び回り、業務以外での私的交流については本人の自覚以外にはないというのが常識ですから、止めようにも、原始的衝動については困難だというのが現実です。

 理性とか、衛生とか、の理由は、現実の前には型無しでしょうから、欲望の予防の為の知識を与えることで、後は護るかどうかは各本人の責務です。ですが、他人にもらったものを、また別の他人に移すという行為が連続していますと、矢張り問題となります。

 副次的・二次的影響の大きい感染性伝染病については、大いに関心を持ってもらい、予防医学も知識も、皆が併せて持ってもらいたいものです。

 

年功序列の功罪について

 掲題は、世界中から常に批判的に言われてきました。日本国内の型である“メンバーシップ型”雇用の形態です。①年功序列、②終身雇用、③企業内組合などのついては、確かに良い面もあって、強い集団を作り上げることができました。しかしその反面、①出しゃばらない、②我儘にならない、③色を出さない、という平均的労働者の大量生産をしてきました。良いか、悪いかではなく、これが合っていると評価されたことが定着してきたようです。そのために、優秀な人材の墓場ができたり、優秀な人材の流失が繰り返されたりもしました。

 シリコンバレーに、特異な人材が集まったのも分かるような気がします。しかし、人口集団内分布でも分かりますように“中央値”にいる人が大多数ですから、これを良否で判断しないで、「国柄」で判断するより他に無いでしょう。

 数十年企業で働いた人にとって、過去は素晴らしかったと言っている人もいることは事実ですから、無碍(むげ)にしないで、バランスで考えたら良いと考えています。全てが良くて、後は一切認められない、のではないということです。集団性という意味で、必要な時期があったということも認めるべきです。そして、今は変わるべき時と理解したほうが良いでしょう。その時々、一所懸命になった時期の人への配慮も必要と認識すべきです。