ものぐさ精神分析(岸田秀)「自己嫌悪の効用」

1.自己嫌悪とは
「まず自己嫌悪という以上、自分を嫌悪する自分と、自分に嫌悪される自分とが存在するわけである。」


「嫌悪されるのは、つねに、現実に自分が行なったある行為である。それらの行為を考察してみると、つねに、自分の何らかの欲求を満足させたか、または満足させる可能性のあった行為であることがわかる。」


「すなわち、それらの欲求は現実の行為を惹き起こす力のある現実的欲求である。いいかえれば、「嫌悪される自分」とは、まがうことなき現実の自分である。」


「嫌悪する自分」とは、いわば、架空の自分であり、架空の自分に発するものであるがゆえに自己嫌悪は、現実の自分に対して影響力をもち得ないのである。」


「自己嫌悪とは、つまり、「架空の自分」が「現実の自分」を嫌悪している状態である。」


「架空の自分」とは、要するに、はしたないことを口走らない自分、卑怯未練なことを仕出かさない自分である。いいかえれば、人にそう思ってもらいたいところの自分、自分でそう思いたいところの自分である。すなわち、「架空の自分」は、社会的承認の必要と自尊心とに支えられている。「架空の自分」なんかない方が、「現実の自分」の欲求を自由に満足させることができて都合がいいわけだが、それでは、社会的承認を失い、自尊心が傷つく危険があるわけである。」


「すなわち、自己嫌悪は、その社会的承認と自尊心が「架空の自分」にもとづいている者にのみ起こる現象である。つまり、たとえば、無能な人間が自分を有能だと思いたがるとき、あるいは、卑劣漢が自分を道徳的だと思いたがるとき、その落差をごまかす支えとなるのが自己嫌悪である。」


2.自己嫌悪の効用


「ここで自己嫌悪の効用が明らかになる。いやらしい欲望をもったとき、当人は二者択一に直面している。そんないやらしいことはしないという高級な水準の社会的承認と自尊心を断念し、その欲望の満足を得るか、それとも、その欲望の満足を断念して高級な水準の社会的承認と自尊心を維持するかの二者択一である。」


「この二者択一に直面して、いずれをも断念したくない、花もダンゴも欲しいという欲張りが使う詐術の一つが自己嫌悪である。彼は、現実のレベルでその欲望を満足させ、その満足を味わったところの自分を非事故化する。」


「すなわち、別のレベルに「真の」(実は架空の)自分を置き、現実の自分の行為を「真の」自分には関係も責任もない行為と見なし、あたかもどこからほかのところから襲いかかってきたもののように、その行為を「真の」自分の立場から嫌悪する。その嫌悪が強ければ強いほど、「真の」自分はますます高潔となり、現実の自分はますます「真の」自分から切り離され、遠ざけられる。その行為は、たしかに自分がやったことに違いないが、その時自分は「どうかしていた」のであり、「ついやってしまった」のである。つまり、「真の」自分から発した行為ではないというわけである。かくして、彼は、いやらしい欲望の満足を味わうことができ、かつ、高潔な自分のイメージを維持することができる。」


「自己嫌悪は、嫌悪された行為の再発を阻止するどころか、促進するのである。ある「欠点」または「悪癖」などについて当人が自己嫌悪をもっているかぎり、その「欠点」または「悪癖」は治らないと見てよい。自己嫌悪によって恥や罪は洗い流されるので、いくらのその行為を繰り返しても、「真の」自分の手が汚れる心配はないからである。自己嫌悪とは、自己保身に対する偽善である。」


「自己嫌悪の強いものは、そのゆえをもって、自分は自分の悪いところをも客観的に見て、責めるべきところは責める「良心的な」人間だと考えがちであるが、実際には、自己嫌悪の存在そのものが、彼がその逆の人間であることを証明している。自分を客観的に見ることができると信じることができるのは、おのれを知らない者のみである。彼は、ある行為を嫌悪すべき行為であると判断し、しかも、その行為をやめようとせず、しかも、その行為をつづける自分を非自己化してその責任を回避するという二重の不誠実を犯している。」


3.「人間失格」について
「彼は相手に与えた苦しみや侮辱や損害のことは少しも気にかけておらず、ただ、自分が相手にどう思われるか、どう思われたかということだけが気になるのである。つまり、彼は自分のことしか関心がなく、人間としての相手の存在において彼の関心を惹くのは、彼についてどう思っているかという側面だけなのである。」


「「人間失格」は、この上なく卑劣な根性を「持って生れ」ながら、自分を「弱き美しきかなしき純粋な魂」の持主と思いたがる意地汚い人々にとってきわめて好都合な自己正当化の「救い」を提供する作品である。」


4.まとめ
現実は、同僚が他部署からわからない質問がきたときに、聞こえないふりをして、やりすごしてしまう。
理想は、立ち上がって一緒に話を聞いて、答えをだすことである。


ここで自分は忙しいなどと理由をつけて自己正当化してしまうと次も同じことをやることになる。


現実の自分を受け入れると、理想と現実のギャップを自己嫌悪で埋めようとは思わない。


他人に評価されること、誤ったプライドをもつことにより、理想の自分が生まれ、理想と現実のギャップがうまれ、自己嫌悪により自己正当化することになる。


現実の自分が他人から見える自分である。理想の自分はセルフ・イメージにしかすぎないので、謙虚になって現実を受け入れる。


他者の評価を恐れて、理想の自分を作り上げ、自己嫌悪することは、欲望に流されている点およびその流されていることを正当化する点で卑劣である。
 

以上、かぎかっこはすべて引用である。

ものぐさ精神分析(岸田秀)「セルフイメージの構造」

1.これはできるというセルフ・イメージについて


「当人のセルフ・イメージから判明するのは、彼がどんな人間かということではなく、彼が他の人びとにどんなことを期待ないし要求しているかということであり、セルフ・イメージは、その期待ないし要求を正当化する根拠として必要不可欠なものである。」


「われわれは任意にどのようなセルフ・イメージでももつことができる。したがって、われわれのもっているセルフ・イメージは、われわれの実感の反映ではなく、われわれ自身にとっても好都合なセルフ・イメージである。さきにわたしが、セルフ・イメージは他の人びとに対する当人の期待ないし要求の反映であり、それを正当化する根拠として、必要不可欠であると言ったのは、この意味においてである。」


「人間は自分を正当化せずにはいられない存在である。人間は自己正当化によってかろうじて自己の存在を支えられており、自己正当化が崩されれば、自己の存在そのものが崩れるのである。したがって、相手に対して不当な要求を持ち出す場合、不当な要求を不当と知って持ち出すということはなかなかできるものではない。まずそれを正当化する必要がある。そして、正当化の根拠としてよく用いられるものの一つが、セルフ・イメージである。」


「平静な心で自分を反省してみて、自分はこういう人間だと思えるとき、他人の眼にはちょうどその正反対の姿が映っていると考えて間違いはない。」


「その主観的解釈の要素をぬぐいとって事実だけを抽出すれば、彼についての他人の評価は彼自身の評価より相当低く、他人は彼にとって不当と見える、受け容れがたい要求をだしてくるということがわかるであろう。」


これはできるというセルフ・イメージとして、他人を理解しようと丁寧にいろいろと質問する心優しい人というものがあるが、実際には相手が話をしてくれないと感じることが多い。
客観的に見れば、人のことを理解しようとしない人だと思われている。


分析してみると、質問の内容が見た目やスペックに偏っていて、相手の気持ちにフォーカスしていないのだと思われる。
もっと謙虚になって、相手の理解に努めようと思う。


2.これはできないというセルフ・イメージについて


「個人が、自分はあることができないということに気づくのは、そのことをやりたい欲望があるからにほかならない。その欲望ががないなら、そもそも自分にはそれができないということが視野にはいってこない。」


逆にできないセルフ・イメージとしては、場を盛り上げることができない人だというものがある。
今までは、苦手だからできないと避けていたが、その裏側には場を盛り上げることができる人になりたいという欲望があったのだと自覚した。


他人の評価を恐れずに、挑戦してみたいと思う。

 


以上、かぎかっこはすべて引用である。