まちがって水出し紅茶のパックを買ってしまいどうしようかと思っていたけど、いうて水で淹れるかお湯で淹れるかの違いでしかないし、多少の味の見劣りをするくらいならいいかと思い、雑に600mlの断熱ジョッキに熱湯で淹れてパックはそのまま飲み続けるという発想に至った。
食あたり?
明け方 (5:30ごろ) に胃がキリキリする痛みとムカつきで目が覚めた。トイレに行くも特に良くならず、コンビニで胃薬を買ってきて飲んだら胃の痛みは落ち着いて、ほぼ水の下痢をしたらだいぶ持ち直したので1時間半くらい寝直して仕事をはじめた。
しかし午後からは少し頭がぼんやりし、頭痛が出てきた。夕方に早めの夕食 (カップスープ) を摂って痛み止めを飲んで早めに2時間くらい寝たらほぼ快復した。
前日にやや暴食をした自覚があったので食べすぎだと思っていたけれど、食あたりだったのかもしれない。
気温・室温共に高かったのにやけに寒気がしたし謎の頭痛も心当たりがない。ぼーっとしていたのはもしかしたら熱があったのかもしれない。
前日に氷見で刺身定食を食べたのだけれど、それにあたったのかもしれない。
体調不良
YAPC Hiroshimaから帰宅したら体調を崩した。38.5程度の熱が5日程度続いて諸々の状況証拠的に新型コロナウィルスに感染したと思われる。
- 2/12に帰宅して23時ごろに喉に違和感を覚える
- 2/13は喉に違和感があるものの他に体調不良は見られず単なる風邪かと思う
- 一応、inゼリーなどを買い込んでおく
- 2/14 午前5時半頃に寝苦しさで目が覚め、熱を測ると37.6℃
- これ以降、プライベートSlackで延々と熱を記録している
- 2/15 22時ごろに味覚障害を自覚
- 2/18 午後時点で解熱剤を飲まずに36.3℃に落ち着く
- 2/12を0日目として5日目なので、政府機関などが示している「5日目でウィルスの放出が抑えられる」という期間ともだいたい一致する
2024年時点で特に感染経路の特定などを目的として保健所その他への報告は求められず、基本的に軽症であれば自宅療養せよという方針がとられているので特に医療機関にかかることもせずただひたすら家で寝ていた。
これを書いている時点で空咳と鼻水と若干の味覚・嗅覚障害は残っている。前者ふたつは、花粉症の可能性も考えられるけど花粉症だと例年目が痒くなったり顔が痒くなったりする症状が出るがまだ出ていないので、おそらく後遺症と思われる。
味覚・嗅覚障害はうすらぼんやりとしているというかんじで、おおむね味や匂いは感じとれるが薄い匂いや味や特定の匂いや味が感じにくい。 身近なところだとクナイプのサンダルウッドの入浴剤の香りがかなり感じにくい。またAesopのマラケシュ (香水) もトップノートがかなり感じにくい。
計測した限りでは2/14 (発症から2日目) に記録した39.1℃が最高で解熱剤が切れていると38.5℃程度、効きはじめると37.5℃程だった。 体感では常に38.5℃くらいある気がしていて、実際に計測した値より0.5~1.0℃くらい高く感じた。
幸いなことに咳や頭痛、関節痛などのその他の症状はほとんどなくただ高熱にうなされるだけだった。
また食欲はそこそこ残っていたのも幸いで、ゼリーに加えてスープや味噌汁などであれば普通に食べられたので服薬に困らなかった。
ただ食欲はあれど熱で食べる動作がつらく、空腹感はあるのに食べられないということがあった。
症状が熱だけだったので、常備薬として置いていたバファリンプレミアムをずっと飲んだ。途中で咳が出始めたあたりで常備していた分が切れたこともあり、ベンザブロックYASUMOに切り替えた。 風邪の症状全般に効くのとカフェインを含まないのでひたすら寝るのに向いているだろうという考えがあってのことだったが、結果的には寝付きも気持ちよくなった気がするので良い選択だった。
若干の後遺症は残っているがそれ以外はおおむね回復したといえ、大事に至らなかったのはよかった。また感染したのが初期でなくて今でよかったとも思う。 初期はかなり未知の感染症というかんじで対応も探り探りだったし、自分がこれくらいの症状で済んだのもいま流行っている変異株の特徴と見えるので、初期の株だともっとつらかった可能性もある。
あと一人暮らしでフルリモートワークなので自分の快復に集中できたのも気が楽だった。
ただ、発症から2~3日目は本当に辛くてかなり暖い気候だったのも手伝って寝苦しく、本当に朝は来るのか……みたいな不安に駆られたし、一人暮らしに危機感を覚えたりもした。
一緒に暮らす家族がいないこともそうだし、物理的に近い距離に知人もいないので、何かあった時に自分の身一つしか頼れない状況であるということを改めて認識した。
一番弱っていた時はYAPCの発表準備で部屋がちらかっているからこのまま死んだら気まずいな……とか、広島から帰ってきてすぐに洗車したからMAZDA3は綺麗にできていてよかったな・車が汚いままだと余計に惨めな気持ちになっていただろうなとか、そういうことばかり考えていた。
家族はともかく、知人友人の多い京都に引っ越すというのはまあありえるかもしれないなとは思う。そういう消極的に身の振り方を考えさせられる闘病だった。
右上の親不知を抜いた
だいぶ前に被せものが取れていて歯医者に行かないとなあ、と思っているうちに気がついたら歯が欠けていることに気がついた。
しまいには虫歯が進行して痛んできた気配が出てきたので月曜日に歯医者に行った。
親不知だし割れちゃっているしもう抜いたほうがいいよと言われたのでその場で抜いてもらった。
左下の親不知は数年前にもう抜いてあって、その影響で噛み合う歯がなくなった左上の親不知が下がってきているのでこれも抜いたほうがいいと言われた。
右下の親不知は真横に生えているから抜いたほうがいいけど大変だしたぶん腫れると言われている。
嫌だけど抱えるリスクを考えれば抜いたほうがいいのはよくわかる……。
令和6年能登半島地震
当日
2023年後半あたりから人出がかなり戻ってきたことを感じていたので、毎年恒例となっている尾山神社への初詣は三が日を過ぎてからにしようと考えており、しかし元日はとても天気が良かったから景気付けたい気持ちはあったので、海を見に行くことにした。
車でのと里山海道を走って道の駅高松に着いたのがちょうど16時過ぎ、降りたら町内放送が流れていたものの風が強くて聞き取れなかった。
おおかた新年の挨拶とかだろうと思い取り合わず、風が強いので上着を着て海に出ようとしたところでスマフォからアラートが鳴り、そのすぐ後か同時くらいにゴンという音がして足元が横に揺れはじめた。
石川に来てから地震は去年の連休に大きなのを体験していたし、まあ土地柄そういうこともあるよなと思いつつYahoo! 天気を開いたら石川に大津波警報が出ていた。去年は出ていない。ここは日本海まで数m、海抜も数m.
ああまずいなと思い、車に戻る。この時点で震源が輪島のあたりで、最大震度5強以上という情報が入っていた。
高台に逃げなければいけないけど、道の駅がある場所から高台を目指すには海を背に半島の中心部に向かうしかないが、多くの人 (車) が向かってトラフィックが増えているだろうし、高い建物に心当たりもなく今すぐにGoogle Mapsで見つけられる気もしなかった。 また山間部に向かうことになり、崖崩れや雪崩も気になる。
考えた結果、のと里山海道を折り返して金沢市街に帰るのが最も安全だろうと考えた。防潮林が少しは機能してくれるのではないかと思うし、速度が出せるし渋滞も少ないだろうと考えて今浜ICで折り返した。
今浜ICの直前で再び大きい揺れがきたのに伴いハザードを炊いて徐行することもあった。
金沢市街に戻ってくることはでき、普段家に帰る時に通る道路に異状は見られず渋滞もしていなかった。金沢東ICのあたりでかなりひどい渋滞に巻き込まれたくらい。
家に着いて確認した異状らしい異状といえば、トイレがガポガポ言っていたことと、棚から少し物が落ちていたくらいで水・電気・ガスは無事で大事はなかった。
トイレはダメ元でレバーを引いて水を流したら直ったし、棚は滑りやすい天板だったからまあそういうこともあるかなというかんじ。物が落ちて壊れたりはしていなかった。
寝室のテレビやギターが倒れていることを覚悟していたけどどちらも無事だった。特別な対策をしていたわけではないので単に幸運だったのだろう。
片付けた後、防災バッグの中身を点検・補充した。夕食がまだだったけど当然外食などする気にもなれないしどうせどこもやっていないだろうと思い、補充がてら買ってきたカップ麺を食べた。
家族や友人に無事を伝えつつ、当然のようにSNSは地震のことで持ち切りで、しかし被災したとはいえライフラインは無事で資源的には変わりのない生活ができる見込みがある状況からするといわゆる二次被災をしている気持ちになった。
VTuberもほとんど配信を中止・延期していたので、ザッピングしながら配信していたコトカの餅(?)を作る配信を見て、別の意味で肝を冷やした。
今後、状況が変わって避難所へ移動することを想定してスマフォにまだ見ていなかったアーカイブをダウンロードするなどし、シャワーを浴びて早めに寝ることにした。風呂に浸かる気にはならなかった。
震度3くらいの余震が寝るまでに10回は起きていたように思う。幻覚なのか本当に揺れているのかよくわからなくなっていた。大津波警報は寝るまで解除されることはなかった。
その後
後日、ニュースなどで詳報を見るに輪島のあたりはかなり想像以上に悪い状況だということがわかってきた。
また金沢市街でも断水や道路陥没などの被害が起きていることを知った。昨日の帰り道にほとんど異状を感じなかったのは、かなりの偶然だったのだろう。
近いところだと金沢城公園の外壁が少し崩れたみたいで土嚢で歩道が通行止めになっているところがあった。
街に出ると他県ナンバーの車、それも災害支援車のようなデカールを貼っている車を見かけるようになった。
能登のほうはたまにドライブに行くことがあって、ふと気になってよく行っていたカフェのサイトを開いたら、そもそも去年訪れた直後に臨時休業した後に10月に閉店していた。
なんともいえない。閉店したということは、少なくとも当時は店を開けているわけもなく、店員としてあるいは客として被災した人はいなかったということになる。それは悪いことではなかっただろう。
もちろん元店員だった人が能登や近郊に住んだり勤務していて被災していた可能性はゼロではない。それでも自分が鮮明に想像できた被災の光景はなかった、ということには安心する。でもそれでいいのかという気持ちが同時に立ち上がってくる。
不幸・不運は比べるべくものではないし、閉店に至った経緯が震災と比べてどうという話はまったくの無為である。だから考えても仕方がないし、経緯はどうあれ、けっきょくよく行っていたあのカフェにまた行くことはないのだ、と考えるとただ虚しく寂しくなるばかりだった。
能登に知り合いはいない。だから何度か通ったことのある道や風景を思い出しては、あれらは無事だろうか・また会える時はいつになるだろうか、と考える。人や生命について、真に心の底から慮る対象はいない、だからそうしようとしない。
自分に人の心はないのだろうか。慈しむ心はないのだろうか。自分はそうは思わないけど、でも「人の無事が気になってそわそわする状況になくてよかった」と思う自分は外道と言われても、まあ違いはないだろうなと思う。