令和5年、西暦2023年、……年、終わる、

 振り返っていきます。

 

 

末法!MAPPOU!

 いや凄い。去年も凄かったけど今年も人心の荒廃が加速度的に進行している。もはや末法(MAPPOU)としか言いようがなく、ここまでくると、もうみんな頭がおかしくなってしまった、正気なのは俺だけなんじゃないか、間違いねえなっつうか平成に生まれてこのかた良い時代なんか一瞬たりともなかったろうがよ。なんか昭和の価値観?をアップデート(笑)とか言ってるクズどもがゴキブリみたいにわんさかのさばってきて俺はキレッぱなしでかなわんね。平成はどうしたんだよ。アップデート(笑)しなくていいのか?つうか昭和の価値観?を平成はそのままお通ししたんだな。言わねえもんな「平成の価値観」なんて、てめえらゴキブリは。要するに平成に生まれた価値観?なんて綺麗さっぱり消えてしまっても振り返ってみて特に差し障りのない、意味のないものだったってことだろ。そんな「無」しか産み出さなかった平成の文化(笑)だっておんなじだよなあ。全部ブルドーザーで片しちまえばいいんだよ元からゴミみたいなもんなんだからさ。あとアップデート(笑)な、ソフトウェアとエンジニアの区別もついているか怪しいカスOSのお前らにもわかるように書くが、あるソフトウェアをアップデートするファイルをそのソフトウェア自身が作るわけがねえ。作るのはソフトウェアの開発者たちで、お前らじゃねえ。アップデートファイルにバグがあるかどうかを報告するのはユーザーで、お前らじゃねえ、お前らはカスOSだってすぐ前に書いただろうが。お前らを使う奴らが不都合を発見して報告すると、開発者はもしかしたらバグ修正をしてくれるかもしれねえな。全部諦めて放置するかも知れんが。ところでどこに開発者がいるんだ?お前らがアップデート(笑)する価値観?を作ってくれる開発者の話をしてんだよ。アップデートに問題があったとき、開発者がユーザーに謝罪することはあるかもしれねえが、ソフトウェアに謝罪しているのを見たことがあるか?もうわかったと思うが、お前らみたいなアップデート(笑)野郎が真から腐ってんのは、悪を憂い善への進歩を願いつつ深刻な顔をするのが好きな癖して裏じゃスマ〜フォになったつもりで人間をポイ捨てしてやがるからだ。なめてんのか。いや知ってるよなめてんのは。人間の階層性を当然のように受け入れ、上部階層を盲目的に信頼し、同質性から逸れた連中(特に自分より「下」だと認識した奴ら)を徹底的に軽蔑することなしに、こんなゴミみたいな比喩が使えるわけがねえ。こういう、アップデート(笑)なんて言葉を使いたがる心性の構造をなんだっけ?昔の日本の政治思想史研究者か誰だったかが「超国家主義」とか言ってたんじゃなかったっけか?覚え違いな気もするけどまあいいや。俺は悔しいよ。俺は中高くらいにネトウヨ時代の頂点があって、それから後はそんな単純な悲しい世界じゃあねえよなあここはでもそれじゃあどういう世界なんだっつってウーンウーンいってんのに、お前らみんな数年であっさり超国家主義まで行くんだもんな。ゴミクズの俺でもそんなことできねえよ。尊敬する。拍手してやろう。ぱちぱち。アップデートは世界的な流れで国家とか関係ない普遍的なものでーすはーいお前レイシスト!って言おうとしてるそこの脳が完全に腐っているお前に「世界国家」のことを一から説明するのは本当にだるいのでとりあえず貼っておくが、俺はお前らに何一つ期待していないので読もうが読むまいがどうだっていい。 

 

つうか本当に色々なめてるよなお前ら。差別なんかど真ん中でそうだ。まず差別は文化なしには発生しねえ。文化に乗っかる教養に至っては差別を構成するために生まれるといっていい面さえある。「俺たちはお前らとは違う!」ってアレだよ。教養の目的をお前らがどこに設定しようが俺はどうでもいいが、大なり小なり糞のピラミッドであることに変わりはねえしな、どう設定するにせよその内在的な機能として教養は差別を生み出す。そういう教養の世界にベットしていくってのは、差別のグルーヴマシンに乗ってどんなダンスを踊ってみせるのかってことだ。「私は差別に加担しない」とか真顔で言ってる小文化人志望者連中を見ると最初の頃はマジでびっくりしていたが最近はもう飽きた。お前らが手え染めてんのは加担するとかしないとかができるようなヤワなもんじゃねえ。ここは存在すること自体が差別であるようなフィールドなんだよ。「私は〇〇な思想のやつとは友だちになれない」みたいなこと言ってる奴見ると目ん玉が飛び出そうになる、嘘ついた、目ん玉はそうそう飛び出そうにならない。「吐き気がする」とかバンバン書いてるやつってその度にちゃんと吐き気がしてんのかな。俺は子供の頃思想で人を選別してから友達になるか決めようだなんて夢にも思わなかったし、もしかしたら子供の頃からそんなことをやってる高等人種(金髪碧眼)が、俺みたいな劣等人種(黄色い猿)が気づかなかっただけでいっぱいいるのかもしれないが、そんな何様なのか分からないことを俺がいい出したら子供の頃の俺や何より俺の友達を裏切るから、そんなこと口が裂けても言えない。あー、ここ読んでから勝手に自分の思想と似てると勘違いしてニヤニヤしながら近づいてこようとするゲス野郎は本当に遠くへいけ。俺は俺でないところで相当友達を選んでるに違いない。だから何で選んでるかが今もよく分からないんだが、お前らみたいなゲス野郎の顔を想像するだけで近づきたくねえと身体が言ってるんだ、遠くへいってくれ。お前らは多分義務教育課程で勉強が中途半端にしか出来なかったような奴らだろうから聞くんだけど、お前勉強がちっとばかし出来るぐらいのことでお前らより「ちょっと下」の連中からキモがられたりちょっと引かれてたりひどい場合だといじめられたりしたことなかったのか?あれはな、お前らが「ちょっと周りより出来る」ということ自体があいつらを傷つけたから起きたことなんだよ。……いやわからん、別に理由があるかも知れない、性格が終わっているとか、顔がキモすぎるとか、声のトーンが異常に上下するとか、身体の動きが悪い意味で人間離れしてるとか、そういうのかもしれない、そういう場合は……お前らよく今まで生き延びてきた、グッジョブ、これからもしっかりやってけ。……話が逸れたが、要するに存在するだけで人を傷つけるっつうことは全然ありまくりなんだが、なんか「口先手先の動かし方で回避可能です」みたいなキメ顔してる連中は全員終わっているということが言いたかった。お前らを見てると思うが文字を読んでるようなやつは本当ゴミクズしかいねえな!俺がゴミクズだから間違いねえ、やっぱり文盲がいねえ国は駄目だな。俺はSNSの中でもUIが徹底的に文字を嫌悪するように設計されていたTikTokに新しい人類の黎明を2%くらい期待してたんだが、YouTubeInstagramFacebook?めた?もパクりやがる上(圧倒的に文字愛者向けSNSであるツイッタが類似サービスを実装しなかったのは当然)、流れてくるもんを見てるとやはりここはどうしようもねえ……ここからめちゃくちゃ精錬されたルッキズムと「成功が全てを正当化する」式の「倫理」を兼ね備えた注目されたすぎる若者たちが世界中で「夢」に向かって進んでくんだろうな、みてえな薄暗い高揚感だけがヌワッとくるね。よく考えたら今は文字を読めることが文章を読めることにはならないということを完全に見失った文盲どころじゃねえ知的廃物どもが大手を振って闊歩してる時代なんだからその時代に産み出されもてはやされているTikTok程度のおもちゃに期待するのは俺が愚劣以外の何物でもなかったということでしかねえ、ちっくしょう!とにかくお前らは俺に近づかないでくれ。俺の知らないところで勝手に生きて幸せな人生を送って死ね。何が人を傷つけてはいけない、だ。マジに俺は「人を傷つけてはいけない」が嫌すぎる上「〇〇はなぜ悪いのか→人を傷つけるから」になるともうテメエ殺してやる!みたいな勢いでカッとなるわけだがどうにも今まで言えなかった。ところで菊地成孔のエッセイ本が出た。

 

最後の最後まで読んで、本当に自分が恥ずかしくなったよ。元からチキン野郎だったが、SNSにドはまりしていた間に俺は自分自身を際限なくスポイルし続けていたわけだ。ここまで読んで「こいつは人を傷つけて良いと言っている!」となったゲジゲジは頼むから帰ってくれ。帰って全部の脚をセルフケアしろ。まず日本語の話をする。これは本で読んだことはないが多分誰かが書いたりしているのを見聞きした覚えがあることで、というか俺はここまでもここからもなにか新しいことは一切言ってないと思っているしそうありたいと思っているが、加害/被害という言葉には日本語の/における自由と運命がべったり貼り付いている。人間は台風の被害を受けることができるし、詐欺の被害に遭うことが出来るし、津波の被害を受けることが出来るし、通り魔事件の被害に遭うことができる。被害という言葉は、その害を与えた要因が人為か自然かを区別しない。だが加害は違う。熊は加害しない。台風は加害しない。地震津波も加害しない。加害することができるのは人間だけで、加害者になれるのは人間だけだ。加害者と被害者に広げると、必然的なもう一つの違いがある。人間は加害者になるかどうかを選ぶことができる。俺がお前を殺そうと思ったとして、数ヶ月に渡る準備をし、いざ決行日になって「や〜めた」と言うことは、主観的心理的には不可能に思えていたとしても原理的には可能なわけだが、被害者は違う。被害に遭うかどうかを選ぶなんてことはまったく出来ない。誰が震災の被害に遭うかどうか選べたってんだ?ハザードマップ見ろよだの海岸近くに住むとか馬鹿じゃねだの南海トラフ来る来るとか何回も言われてんのにわざわざ危ない地域に住んでるとか笑だの顔してるそこのお前、オウムアムアに頭ぶつけて死ね。このムリさは言語の問題なわけで、こうやって日本語が、加害を自由と、被害を運命と、それぞれ根本的なところで結びつけている。最近俺は雨の日に道で滑ってコケて、十年以上ぶりに膝を擦って皮がずりって剥げて血がジワ〜って出てきたんだけど本当に嬉しかったね。俺の身体はまだ痛くなれるんだと思ってウキウキしながら電車乗ったよ。こんな一瞬ばかりじゃないだろうが、傷の意味だって時間が経てば変わっていってしまう。初めての失恋の質感が当時からウン十年経っても変わらないやついるか?いるかもしれねえ……『コレラの時代の愛』とか、いやあれはもう振られても諦めないとかそういうレベルの話ではないド迫力だった気がするけどとにかくお前はすげえよ、幸あれ、またいつかやってくるかもしれない最高の運命に渾身の加害をやったれって思うがまあ大抵そうはならねえだろ。言葉を使う宇宙ゴミの俺たちにできることは与えられた世界に対して言葉を何度もかけなおすこと、世界からの言葉を受け取りなおすこと、そうやって時間を生み出していくこと、時間は絶対に与えられたりしない、そういう風にしたがる奴らが昭和やら平成やら令和やら西暦やらヒジュラ暦やらユダヤ暦やら革命暦やら何暦やら何暦何暦何暦!暦ってのは権力の中でもかなりマキシマム、時間を支配として構築しようとする力の現れだ。まあ誰が悪いって話でもねえ。力ってのは個人のレベルに収まるようなもんじゃねえからな。知ってるか?魔法は本当にあるんだよ。言葉を使う者たちが集まるとき、あるいは人々の言葉が集まるとき、全体が部分の総体を超える、その場所で魔法、っつうか目に見えない力が分厚い雲の上の風みたいにうねりまくってるんだ。呪文って文だ。自然法ってあるが多分自然にも法が書かれてる、ってか天文学ってすげえだろ!今じゃ天体物理学なんてさびしい名前になっちまったが、昔の天文学者と呼ばれてた連中、あの中には多分マジに天の文が読めるやつがいた。ガリレオは、あいつのことはまだ掴めてない。天の文を読むことを比喩にしちまったような気もするが、手のバイブスのことを考えるとあながちそうともいい切れない。

 

ブレーデカンプのこれに取り上げられてたガリレオのニューヨーク手稿(だったっけな?)は偽物だったことが後に判明した、みたいなことを読んだが天文……?ああ暦の話だった。俺たちは暦の外側に行かなきゃいけない。時間を取り戻すってのは可処分時間を増やすためにFIRE……みたいなみみっちい話じゃねえ。自由!自由!自由なんかいらないって思ってるやつの作ってるもんなんかどうでもいい。つうか端的にゴミだと思ってる。俺はお前の作ったもんで俺を傷つけろ、ガッと持っていってくれって言ってるんだ。ああそう、これはあれだ、SMに近い。俺は中学生の時から団鬼六が好きだった。どこまでもマンネリ、しかし行けるとこまで行く(アイツ結構な頻度で終盤巻くからな)、「聖性とエロティシズム」みたいな気取った方へ足を伸ばす気にもならない俗の力。読者が面白がってくれるならエッセイでさえ平然と話を盛り嘘をつく豪放なサービス精神。団鬼六の官能小説の中では、調教する加害者のSと調教される被害者のMの構図が、いつの間にか調教させられる被害者のSと調教させる加害者のMへとスッパリ逆転……するのでもなくぐしゃぐしゃに混濁していく。団鬼六はいつもそうだ。(本当に?)それしかないのか!素晴らしい!SMは日本語の加害-自由-支配と被害-運命-服従の連関を保ったまま無茶苦茶にすることができる。受動態と能動態を駆使して、意味論的力と統語論的力をバキバキにクロスさせて。もちろんSMとSMプレイの間にある「プレイ」の差を無視することはできない。だがこのうんざりするような日本語をぐっしゃぐしゃにできる可能性がこの世の中にあるというだけでもめっけもんだ。でも自分はやっぱり人を傷つけたくない、それはわかる、というより共感している。考えるより先に身体がうんうんという。俺にだってそれくらいのことは起こる。だが同じくらい俺の身体は正反対にいきり立ってもいる。「傷つけることは悪かどうか」じゃねえ、その根っこがおかしいんだ。全部無茶苦茶にしなくちゃいけねえ。もし俺が誰かが誰かに傷つけられたところを見て、そこに悪を感じ取ったとするなら、悪の理由は誰かが誰かを傷つけたことそれ自体にはない、と考えるだろう。そいつを超えたもっと大きな力のことを考えるだろう。魔法の話はしたな。例えば俺はここ二年くらいで「ヘイト」や「トランスジェンダー」や「多様性」や……といった文字列が入った文章からはほとんど例外なく邪悪な影を感じるようになった。俺は文化人類学には全く詳しくないが、どうやら「妖術」と「邪術」という素晴らしい区分を考えついたやつがいるらしい。黒魔術は黒魔術師じゃなくても誰でも使える、というか使うつもりもない、使えると思ってさえいないのに発動してしまうことがある。黒魔術に黒魔術で対抗しようとしてどうするんだ?そんなもんはねえってどうしても言うんなら、この本、伊藤計劃の『虐殺器官』に出てきた「虐殺の文法」の発想源の一つだろうな確証はないがと俺は思っているんだが、そこに俺が「黒魔術」と呼んでるうねりの例がいくつもある。例によって無理に読む必要はねえ。今だとなかなか買えないしな。今読むと1ページ目から慄然としてくるが。

 第三帝国の言語は、新たな必要に迫られて、引き離すことを意味する前綴り ent の使用をいくぶん増加させた。(この場合それが完全な新語の創造なのか、それとも専門家の間では周知の用語を一般の言語へ取り入れたのかは、どれも明らかではない。)たとえば、窓は空襲の危険に対して遮蔽されねばならなかったので、暗幕を取り除く、、(ent・・・dunkeln)ことが日課となった。

(中略)

 現代のもっとも重要な課題の総括的名称として、これと同じように作られたひとつの語形が一般に用いられるようになった。すなわち、ナチズムによってドイツはほとんど壊滅したのだが、この重症を癒そうとする努力は今日、ナチ化(ent・・・nazifizierung)と呼ばれている。この醜悪な言葉が定着することをわたしは望みもしないし、信じてもいない、それは目前の責任が果たされるやいなや消滅し、もはや歴史的な存在にすぎなくなるであろう。

 

 

だからというんじゃないが「自分の作ったものが悪影響を与えるかもしれないことに対する責任をあなたはどう考えてらっしゃるんですか!はっきりしてください!」とか聞かれたらブン殴る以外の回答が思いつかない。……いや俺はチキンだから殴るどころか激昂もできないまま明後日の方向に走り出す可能性が高いがそれはともかく俺は国家と違ってバカやクズどものパパじゃない。それでももしお前らがどうしても俺に、自分が独裁者になり、一度でもSNSを使ったことのある人間を全員処刑する執行命令書にサインし、自分も使っていたことを失念してうっかり自分も処刑される妄想を何度かしたことのあるこの俺に「製造物責任」を取れというのなら、回答はこうだ。まず独裁者になり、俺の創作物に触れたことのある連中を全員処刑する。しかしまだ安心は出来ない。そいつらが俺の創作物について誰かに話したかも知れない。というわけでそいつらの家族友人恋人同僚知人を全員処刑する。しかしまだ安心はできない。SNSに書き込んだかも知れない(お?)。あれは不特定多数に見られるが、誰が読んだのかこちらでは確かめようがない(お?お?)。そこで一度でもSNSを使ったことのある人間を、俺を除いて(っしゃあ!)全員処刑する執行命令書にサインする。まだ安心はできない。残った俺以外の人間も全員処刑する(!?)。そして世界でたった一人の人間になった俺は、何を思っているのかもよく分からなくなりながら、全ての病気にかかったのち餓死する。当然これは冗談だ、俺は政治にまったく興味がない、独裁者になりたいと思ったことはありません、信じてください。まあそれはいいが、本当にお前らは人に「お前はどう思っているんだ!」とか「黙っていることは敵に加担することです!」とか言うのが大好きだよな。皆様は当然教養がおありなのでロラン・バルトが「ファシズムとは何かを言わせまいとするものではなく、何かを強制的に言わせるもの」と書いているのを当然知っていて、「それは言語活動の遂行形態としての言語の話で政治的な実践の話ではないので自分たちのやっていることはファシズムではありませ〜ん!」ということでやっていらっしゃるのであろうが、俺には意味が分からんけどとりあえず俺の知らないところで勝手に幸せになって長生きして死んでほしい。こうして改めて書いてみると文字愛者御用達SNSたるツイッタはファシズムの増幅装置でしかないが、とはいえInstagramを開くと最近はThreadsに誘導しようとしてかなんかバズりつつあるThread?Threads?がサジェストされるようになっていて、そのすべてがことごとくカスなので本当に俺の直感は正しすぎる。ツイッタからの大移動が取り沙汰されたときに俺はmastodonのアカウントを消したからな。こんな劇物はツイッタだけで十分。物作りの責任は「こんなん作ってみたが、俺出していいのか?」とか「出すぞ!……でも、何か引っかかる……」みたいなところが精一杯だ。責任と階層的社会観は継ぎ目が見えないほど癒着していているから分かりにくくなっているが、本当は人間にそもそも責任なんか(自己責任さえ!)取れない可能性がある。それでも責任という言葉へ向き合うなら、黒魔術のことを忘れんな。俺たちは落合陽一が出てくるずっとずっと前からみんな魔術師だったことを思い出そう。文字を綴ることと呪文は同じspellだ。やべえ激烈に劣化した松岡正剛みたいになってきちゃったかもしれねえ。しかし表現の責任、ときたらアレだよな、「表現の自由」も最近えらく腐臭がキツイな。そら俺だってポジショントークをさせてもらえるなら大事だって思うさ。書いたもんにゴタゴタ言われるのは構わんが、いやブチギレたりズーーーーーンって刺さったりマジどうでもいいなって思ったりするだろうけど、「書くな!」と言われたら「じゃあ殺して良いな?」ぐらいには脳直でいくね。書いたはずみで金がもらえたりしたらこれ以上ないくらい最高だが俺は「(俺の納得できないこと)を書いてください」と言われてハイッ!つって即書けるほど賢くも器用でも恥知らずでもねえ、んだから最大限の「表現の自由」を当然求めるってことになる。できることなら原稿料共同体からパージされたくねえしな。何が「みなさん」にとって「引っかかるか」「アウトか」なんて俺にはよう分からんしこんな考え方をまずしたくねえよ、監視社会以外でどうしてこんな発想をさせられるところに追い込まれることがあるんだよ、何が「俺」にとって「引っかかるか」「アウトか」には敏感でありたいと思うがポジショントークをやめるならそもそも「表現の自由」なんてものは国家やら宗教やら人間の上階層として現れ行使される権力があり続ける限りは原理的に存在しねえ。日本国憲法によると国家の主権は国民に存するらしいから、日本国の主権者たる国民が存在しなくなるまでは、少なくとも日本国において「表現の自由」は存在しねえことになる。異常に警察権力と自己弾圧が好きなこの国民共の習性から考えると、表現それ自体犯罪のポテンシャルからしか現れないことがより一層、実践的にはっきりしてくる。今ここを読んで「そうかやはり表現はそれ自体犯罪的だからオッケー!」っつってクッソしょうもないヘイト文やらゲボみたいな動画やらドバドバする、「犯罪的な表現」と「表現は犯罪的である」の区別のつかねえ奴はどうしようもねえから黙って滝行にでも行ってくれ。差別的かつ犯罪的であることが表現することの逃れがたい基底である、そういう世界から俺は出発せざるを得ない。俺は表現の自由のことを考えるときにいっつも「詩人追放論」のことを考える。

youtu.be

上の動画でプラトンの詩人追放論について高橋睦郎は、プラトンが理想国家から追放したかったのは「詩的なもの」であって「詩」ではなかったんじゃないか、という風に自分勝手に思って読んでいる、「詩的なもの」は「本当の詩」から最も遠いものだ、というようなことを言っていてそれは確かに俺も思わないでもない、明智の人プラトンが「国家の法としての」ホメロスというものを疑っていたんじゃないか、というのもそんな気はする、が、というか俺はプラトンの『国家』を未だに読んでいないので、こいつ一体何なら読んでるんだ?と自分で思うわけだが、でも俺はやっぱり文字通り「理想国家からは詩人を追放すべきだ」とする方がしっくりくるが、そのままではなく対偶をとるように読む、つまり、詩人が生まれてきてしまうような国家は理想国家ではない、という形を今のところ一番受け入れている。本編を実際に読んだらガッカリするかもしれんな。冷静に考えて、この世のありとあらゆる悪の原因が詩人であるわけがない。詩人を絶滅させさえすれば理想的な世界がやってくると思いますかアナタ?なんで百歩譲って詩がいくつかの個別の悪の十分条件であったとしても、ここが理想国家ではないことの十分条件であるとは認められない。その程度の悪であるなら、「詩」を書ける「本物の詩人」ならたしかに理想国家内に残しておいてもいいような気がする。が、対偶であれば話は全然変わってくる。あらゆる詩はその内容以前にそれが詩であることそのものによって、ここが呪われた世界であることを告知する。詩人はそれを証するものとして、「国民」からは呪われるものとしてある。これが詩に限られることなのかどうか。ユートピアに芸術は必要ない。必要があるなら、「ここではないどこか」が表現されようとする力がまだそこにあるとしたなら、そこはユートピアの名に値しない。しかし現状はあまりにもそこから遠い。「あらゆる犯罪は革命的である」と合体させてみてもいいが「あらゆる表現は革命的である」としたらもう表現というのは革命的でもなんでもない。俺も腐臭のする言葉遣いをしはじめているな、糞が!ここに外側はない。どんづまりや!ああ生まれたときからやった!まあ「自由」や「人権」より「安全」と「安心」が好きな奴らに支持された世界が今しばらくは伸長し続けるだろう。カスみたいな「アップデート」によってカスみたいな亜インテリ気取り及び労働者階級気取りの無脳「市民階級」共がニュースの一つ一つに一喜一憂しながら世界を「善導」してくれるだろう。実際のところ俺にこの流れを止める気はねえっつうかそんなことは俺個人のレベルではできねえしそれ以前に今止めようとしてる連中から漂ってくる邪悪さは「アップデート」連中の邪悪さをわずかに上回っているから近寄りたくもねえというのが正直なところだ。安心しろ、俺はお前らを直接どうこうするつもりはねえ。お前らがカスみたいなもんを書いて地球の資源を浪費するのはSDGsに反してんじゃねーの?????ってたまに思うぐらいのことだ。「安全」や「安心」だって「人権」が要求することの一つだ、っていいたいやつもいるかも知れないが、「人権」はそれへ向けて構成されなければありえなかったフィクションだが、「安全」や「安心」を構成するのに「人権」は全然必須条件じゃないってことを忘れないでほしいね。当然「自由」も同じだ。どんな存在に「安全」や「安心」を保障してもらおうとしてるんだ?噂だが、なんでもどっかの国の大統領に「ミスター安全保障」と呼ばれていたナチの正統後継者がいるらしいな。まあ彼一人が特別邪悪って話でもなかろうし彼の国民が全員邪悪って話でもないだろう。いや実はそうなのかもしれないけど俺はそうじゃないと思うよ。これも黒魔術の話だと思う。ハイデガーの言ってたことが当たってるとしたら、俺たちはみんなゆっくり時間をかけてナチの後継者になっていったということになるだろうな。なんでこんなひでえ世界になったんだ。書簡体小説の誕生を通じて、階層間を超える共感が生まれ、そこから人権が創造されるための土壌が生まれたってリン・ハントの書きっぷりにえらく感動した数年前の俺を返してくれ。

 

 

ああ全部殺したくなってきた……いけねえ俺が俺だけが正気なんだ思い出せ思い出せ、なんだっけ、俺が超絶劣化した松岡正剛になりつつあるところまで思い出してきたぞ。ちょっとアヤしいくらいでいいんだよ、人生は科学じゃねえ。どんな科学も程度は様々にしろ脱属人化した集合的な蓄積的営為で定命の者たる人間の世俗的な祈りの最たるものだが、どんな人生もそいつが死んだらそれで終わる、そいつの経験や記憶はそこで途切れる。イアン・スティーヴンソンの『前世を記憶する子どもたち』は色んな意味で面白い本だが、これを読んでいると、たとえ生まれ変わりがあったとしても前世の記憶は完全な状態で人間全員に引き継がれているわけじゃない、しかも前世の記憶は5歳くらいから失われたり封じられていってしまうこと、そして前世の記憶が完全にあるなら前世の前世の記憶、前世の前世の前世の記憶、……が当然内包されているはずだが、蓄積的な人生の相続をそこまでやりきってるやつはいねえってことがわかってくる。

科学的な人生ってのは楳図かずおの『漂流教室』に出てくる未来人類みたいなヤツの人生になるわけだが、俺は願い下げだね。アイツらは「旧人類」の記録映画を見る。余白にノスタルジーしかなくなっている自覚がないだけだが、あのような永遠の生に残されるものはうつ病だけだ。旧人類の俺たち、生き残った者たちが引き継げるのは、死者と関わり合った記憶に結びついた、そいつへの思いしかない。こう書いてみるとそれも言い過ぎでやっぱり死者からは何一つ引き継げないのかもしれねえ。いや違うな、むしろ死者と生者とパッキリ分けられるような記憶がそもそも存在しないんだ。そいつがいなければありえなかった記憶は、俺だけの記憶じゃねえ、もちろんそいつだけの記憶でもねえ。それは宇宙の記憶で、俺やそいつやその景色は、宇宙の記憶を呼び起こす鍵として存在しているのかもしれねえ。人生を科学の言葉に合わせて裁断しようとするプロクルステスの寝台みたいな野郎が望んでる人間像は、快と不快を入力するスイッチが付いていて、イコールを押すと対応する表情(目で見て分かる)や言葉(聞いて分かる)が表示される電卓みたいなもんだ。任意の語やカットを使用あるいは禁止し、文字列やシークエンスを編成したものを電卓に投入すると、画面に「エンパワメントされた」「ケアされた」「傷ついた」「おしっこ」などが返ってくるようなプログラムを組めるということになるわけだ。俺は文学でも音楽でも映画でもなんでも、自分がエンパワメントされた、ケアされたと感じたことは一度たりともねえ。まず言っていることの意味が全く分からん。……いや気づいてないだけで実はあったのかもしれねえが、それは「その時、その場所で」であって、いつでもどこでもおんなじ効用を発揮する芸術なんてねえ。もしそんなものだとしたら芸術は医薬品、つまり厚生労働省の所轄になるだろ。っていうかお前らは芸術が文部科学省の管轄か厚生労働省の管轄か法務省の管轄かってことにしか興味がないんだろうが。いいか、文学部が後生大事に抱えて「守ろう」と息巻いている文化は全部もう死んだ、お亡くなりになった、完全にくたばった、御逝去あそばされた文化だ。大学に入ったあと一瞬文学部に入ったほうが良かったかな……と思いその後授業を覗いたり学部棟を歩いたりした結果爆速でこんなところに入らなくて本当に良かったと思った俺が言うんだから間違いない。まあ経済学部に入ってよかったかというとそれは別の話になるわけだがやっぱ人間なめてんなこいつら、ブチ殺してやる!何が反出生主義だ!幸福の絶頂に至った瞬間に「生まれてこないほうが良かったー!!!!!」って絶叫できるやつを連れてこい、そいつの話なら聞いてやっても良い。子どもを電卓だと思うようになった連中が「製造物責任」のように「本人」の未来の「幸せ」やら「不幸」やらを査定しながら子どもを「生産」するかどうかを「計画」する。少なくとも「家族計画」なんて言葉が生まれた頃には俺たちは狂いはじめている、ホントのところもっと前からだろうがな。人生と科学どころか、人生とプロダクトとの区別までついてねえ。やべえ正気であることを思い出したかっただけなのに小学生の頃まで思い出してきた、俺は小学生の時、家に帰ってくると親が給食民営化の反対運動があって署名に俺の名前も書いたと言ってきて即バチギレした。俺に何も知らせず?勝手に?俺の?名前を?書いた?多分俺がバチ切れることを予想だにしてなかったのか「いやだって給食が民営化されるとこんな悪いことが……」みたいなことを付け加え始めたのでもっとバチ切れし、これ以降俺は人間と社会、「この社会」じゃねえ社会だ!を信頼できなくなる。俺の名前は道具だったことが分かったわけだからな。大学に入るまでに文学の土台になったのは団鬼六西村寿行、もはや粗製濫造に近い西村寿行の卑俗で暴力的な、そしてなにより膨大な量の文学から俺は「クオリティがどうとか知らんわ、とにかくやるんだよ、書きまくればええ」とぶん投げていい勇気をもらった。いいのかそれで?いや粗製濫造といっても例えば『地獄』は今読んでも「こんなことをして良いはずがないだろ……」というぐらい無茶苦茶な出版業界内輪ネタで最高だが、そして安部公房。単純に『密会』がおもしろエロすぎてハマった。文学っぽい文学でもエッチなことを書いて良いんじゃん!あとすごすぎるだろ最後の最後。こうしてみると俺って小説の判断軸がエロいかどうかしかないんじゃねえのか?コンビニで18禁雑誌の中身を想像してドキドキしてるガキ(絶滅危惧種)となんにも変わんねえ!ちくま学芸文庫講談社学術文庫どころか、岩波文庫の存在すら大学に入るまでまったく知らなかった。それまでに読んだ「らしい」本は高校生の時図書館で手に取った新潮文庫旧版のニーチェ善悪の彼岸』。30ページくらい読んで挫折した。それまで自分に読めない日本語はないと思っていたのに、そこには日本語で書いてあることだけは分かるが自分の力では一切読むことのできない文章があって、俺は頭をトンカチで殴られる。それからいよいようようよ曲折して最近はハイデガーヴィトゲンシュタイン荒川修作の三人のことをぐるぐる考えたりしているが、そこに至るまでに東日本大震災があって「がんばろう日本」やら「絆」やらいくつもの言葉が数年をかけてゴミクズにされていって俺は「絆」やら「連帯」やら「共生」やらといった言葉を一切信用しなくなる。荒川がたしか誰かを評して「『共生』なんてくだらないことは言わなかった」って喋ってた(誰の話か忘れた)のを読んで衝撃だった。おれは震災を経由しなければそうはならなかった。荒川はもっと原理的にその荒涼とした地点から、しかし希望を捨てることなくやっていってた。ハイデガーの「共存在」も、あれは世界内存在としての現存在のありかたとして、「超越論的」という言葉は不適切にしても「共」を実質的なものからは遠ざける形になってる。ハイデガーの書いてることには最初から最後までさびしさがある。誰がさびしいとかいうわけではないさびしさが。現在という状況下で、およそ共生など考えることさえ出来ない、しかし……といったうじうじしたものも感じるがとにかくハイデガーもあんまり「共生」という言葉のイメージからやっていくということに関心はなかったろう。ヴィトゲンシュタインに至ってはもう共生がどうとかいうステージに住んでいない。20世紀に入ってから「詩的な」文章を書く哲学者、思想家はそれこそハイデガーやらベンヤミンやらデリダやらドゥルーズやら……やらドバドバ出てきたんだろうが、哲学自体が詩でもあるような人間となると今のところヴィトゲンシュタインしか出会ったことがない(読んだことはないけど噂を聞く限りベルクソンもちょっとその気配がある気がする)。とにかく『色彩について』は最高で、論理と世界という直接には繋がらないかにみえる2つをつなぐものとして「色」を見出す、色を見出すってすごい冗長な雰囲気あるが、俺は最近になって、俺が詩をやりたいとか、これは詩だなって感じるのは、最初から全部そこにあったものを見出す営為なんじゃないかっていう気がしてきて、これは別に詩に限った話でもないけど、荒川洋治が「キルギス錐情」の冒頭で「方法の午後、ひとは、視えるものを視ることはできない。」とブチ上げたわけだが日本語現代詩史を引っ張り出さなくてもそのままにそうだよなと思う。視えるものがちゃんと視えているってのは超難しくて大変なことだ。大概色眼鏡を掛けてるってことをすっかり忘れてしまうほどに色眼鏡と目は癒着しきっているし、その色眼鏡はどんな色にしても時を経るごとにくすんでいってしまった、多分「方法の午後」ってそういうことなんじゃねえかって俺は思うんだけど、多分外すことは出来ない色眼鏡(イデオロギーってそれを認識した程度のことじゃ脱出なんてできないから大変なんでしょ)、当然色眼鏡だからそこには色があって、色があるならそこには色独特の論理があるんだってこと、自分が掛けてしまっている色眼鏡の論理を見抜けるかどうか、そして色眼鏡を拭き直すことはできるか、そういうことが詩をやるにしても別のことをやるにしても大事なんじゃねえのって俺は思う。ともかく本当に目の前にあることへ最後の最後に帰ってきたヴィトゲンシュタインって男は半端じゃねえ。

んで『色彩について』を読んでてもう一個思うことだがこいつ全然「想像力」に頼ってねえ。俺は「想像力」をやたら称揚するのが大嫌いで自分の詩でも「想像するな 相続せよ/富んだ無理でくらせ」って書いたわけだが想像力もやっぱり力なんでね、個人の意志で統御できるようなもんじゃあねえだろって思うんだよな、こちとら筋力すらコントロールできてるか怪しいってのによ、想像力だぞ!影も形もねえ!そして「共感」の匂いもヴィトゲンシュタインにはまったくしねえ。俺はここ2、3年は「想像力」や「共感」のない場所から始めるほかなかったような!文学が!最高です!ってバイブスになってて、例えばベケットにはそういう雰囲気が濃厚に感じられるんだけど(あの小説群が想像力で書けるとは思えないんだよね)、そういう人たちの文学は「想像力」とか「共感」とかの欠如を埋めたい、埋めよう!とする方向には行かなかった、いや、何が欠落したのかも思い出せないような欠落の哀しさや寂しさのオーラみたいなものはちょっとあるけど、むしろそれをきっかけにして「想像力」や「共感」の縁を掴んでくるセンスが生まれてくるはずなのに、その手をそちらには伸ばしていかないように見える、ってところにデカさを感じる。ベケットはたぶん身体もデカい。友人のPとたまに文学者の身長の話をする。身長によって世界を見る基準線に高低差が生まれるんだから、世界の見え方だって違うはずだ。うわあっカフカの身長ってどうなんだとGoogle先生に聞いてみると(ベケットのことは教えてくれなかった)、真実を教えてくれた。

いや実際に正しいのかは一切知らんが、俺はやはりカフカもデカかったと思う。身長182cmの男があのような小説を書いている、こんなに素晴らしいことがあるか。他にも真の検索を試みている人間がいるようで嬉しいがそれはそれとして、誰かに共感している感覚があるのに更にそこに想像力を働かせようってのは俺には冗長に感じられて面白くない、その共感をみなぎらせたまま想像せずにガーッってやる方が一周回ってより芯を食えるんじゃなかろうか。想像力を使うなら自分の一番共感できないこと、一番嫌いな奴に対して使うのがいい。そこに行かねえ行く気もねえのはチキン野郎、先回りした想像力に国境線を引かせてその内側から一歩も出ねえチキンホークだ。小説家の誰だったか(高橋源一郎だった気がするけど違うかも知れない)、「当事者のことは当事者じゃない人間のほうが書ける」って言ってて「それだ!」と思った。というかそれはおよそフィクションに手を染めるということの倫理を成り立たせるために必須の信仰だと思う。これに頷けないなら私小説でさえ書くべきじゃない。書いてる自分は書かれている自分の当事者だと本当に思うか?小説の中の登場人物は存在しないんだから気にしなくていいと本当に思うか?ならなんで登場人物に働かれる不正に憤れたり悲しめたりするんだ?不正を被る対象としての人物が存在しないなら「〇〇に不正が加えられている」は命題として成立しないんだから憤ったり悲しんだりするのはおかしいんじゃねえのか?感じてるフリしてんのか?ケンダル・ウォルトンの『フィクションとは何か』じみてきてないか?あれは面白いけどどこまでもフィクションの周りを巡ってばかりでフィクションには到達しないカフカの「城」じみたところがないか?もっと宇宙的に、ヴィトゲンシュタインの「色彩」のように考えるほうがいいんじゃないか?

 

 

誰ひとりいないような小説だってきっと書けるし、なんなら別にフィクションをやる義務なんかないんだからノンフィクションに向き合っても良い。とはいってもノンフィクションだって同じ葛藤にぶち当たるはずなんだけど。まあいいや、お前らはお前らで勝手に戦ってろ、俺は戦ったりしない、ただ侮蔑し、嘲笑し、「この戦争」が終わったあとで「角川文庫刊行の辞」みたいな、冗談としか思えない駄言が二度と口にされることがないよう、文化の死体でいっぱいになった耕作放棄地を海水でなんども揉み洗いする、バイブスとしては読んだことないけど「虫けらどもをひねりつぶす」ってことでやっていく。ああ来年はセリーヌを読もう。あと結局積んだままにしてしまったリュシアン・ルバテの『残骸』を読もう。世界に何一つ納得いかないで一人ガンギまってしまった奴らのことしか信じられない。今年は本当にひどい、生誕以来最悪の年、反物質ボージョレ・ヌーヴォーみたいな年だった。オタク的なものが何もかも曖昧にされたまま隅々にまで拡散し尽くしてだいぶたった。革命の季節が終わったあとでなおこの世界の気持ち悪さと戦うために何が残せるのかとおそらく意識的にか無意識的にか考え、俗流ニーチェ主義をオタクに重ね合わせることで高貴な少数者の抵抗を試み、はやくもゼロ年代(気色の悪い表記)には挫折を宣言し、それでも今なお自分が深く関わった「オタク」への責任を果たそうとしている(ように見える)岡田斗司夫のことを考えたりしてしまう。色々言われるけど本来あの人SFオタクであろうに、YouTubeではそういう素振りはほぼ見せずジブリやらガンダムやらの話ばかりする、それは、居場所がないことへの不安を持った人々に、「これさえ知っておけばとりあえず『オタク』というアイデンティティは手に入るだろうし、共通の話題を持って他人と繋がれるようになることもあろう」という、オタクの延長というよりかは活動家の後始末じゃねえのかと思うのだが、それはそれとして天皇は支配階級としての最低限の教養を持つこと、そして(おそらく)生存戦略も兼ねてオタクでなければならなかった、昭和天皇も平成天皇も今上陛下も研究者としての側面を持っていたが、バリバリの研究者になってしまってはとても天皇ではいられない。ということで「象徴天皇制」においてオタクはそうでない人々に比べより天皇に象徴されていると言えるが(暴論1)、さらに歌会始を見れば分かるように、天皇は短歌の頂点にも君臨している。このことから「象徴天皇制」において歌人はそうでない人々に比べより天皇に象徴されていると言え(暴論2)、よって「象徴天皇制」においてオタクの歌人はそうでない人々に比べさらにさらに天皇に象徴されていると言える(暴論3)。さっき「この戦争」と言ったが、俺は情熱大陸に木下龍也が出たあたりからこの国は少なくとも感性のレベルにおいて戦時中に突入したと認識している。ある詩人が「詩が日本で一番売れたのは戦時中」と言っていたのを思い出す。「愛国百人一首」なんてものもあった。もちろんこれらの歴史を知っているはずの人々がそっくりそのままの形で歴史を繰り返すということは到底考えられない。次来るナチがナチの装いでくるはずがないのと一緒だ、そんなことをしたら政治生命がどうなるかなんていうまでもないからな。文フリ東京は出店数も客数も増加がすごいことになり続けている。もう来年からは行かないと思う。今年会場が逆だったら普通に人間の密度がヤバすぎて人酔いでグロッキーしていた可能性が高い。あと瘴気が強すぎる。身体が「ここにいてはいけない」と言っている。別に文フリだけが特別じゃない。内容云々ではないところで、文学的なものがとても嫌な盛り上がり方をしている。それはともかく今の俺にはもう現在の短歌は読めない。1ページ開くだけで大抵の場合ちょっと気持ち悪くなってくる。もっと言えば最近は帰り際とかにデケえ本屋に寄っても(都市生活者の特権)表紙見るだけでげんなりしてくるので短歌に限らず文学はほぼ買わない。研究者でもない友人のQは昔「本って好き嫌いとかじゃなくて義務で読むもんじゃないんですか?」と言い切っていてその峻厳な姿勢に感銘を受けたことがあって、好き嫌いでしか基本的にやらない俺もしゃあなしやるか、と目だけは通したいと思っているがまあ俺は惰弱なので義務じゃなくて義務感が精一杯でそれじゃあつらいものがあるし、金は有限なのでマジ選びしなくてはならない。そうなると優先度として今の短歌はゴリゴリ落ちる。現代詩文庫『三好達治詩集』に収録されている鮎川信夫の評の中で三好は「自然詩人」と呼ばれる。「自然詩人」の拠ってかかるところは抒情、それも「短歌的抒情」だ。正確に覚えてないけど最終的には「日本が駄目なままなら三好達治的なものも長生きするであろう」みたいな書きっぷりでそこまで言う!?と思うし俺は鮎川は詩は確かにすごいとは思うけど息がつまりそうになるからそんな好きじゃないんだが確かに今ここはとても気持ちの悪い日本語でいっぱいだ!全部片してやる!ブルドーザーをダースで持って来い!と思ってしまう。

 

 

 

 その一方で、おいお前「正気なのは俺だけなんじゃないか」とか言っているが冷静に考えてみろ、「自分以外が全員狂っている」と、「『自分以外が全員狂っている』と言っているやつが狂っている」可能性、どちらが高いかな?お前は小さい頃から手前勝手な白黒をめちゃくちゃはっきりつけたがる。その性向がどれほどの場面で酷い間違いへと自分を、周りを巻き込んでいったか、身にしみているはずだろうに。お前は長々と呪詛の言葉を書き連ねたがはっきり言えば黒魔術についてしか喋っていない。自分が白魔術師にでもなったつもりか?お前もしっかり黒魔術師じゃないか。確かに黒魔術師はお前だけに限らないかもしれない。虹彩の色は多々あれど、瞳孔は皆黒いことを忘れていないか?俺たちはみんな黒い穴の底に映った世界を見ているということを見ることができないんだ。人が黒魔術から逃れがたい理由の可能性の一つとして、忘れないでいてほしい。そしてお前は無理をした。お前は中学生を終えた頃ぐらいから、自分の原動力が「自分でもわけの分からない怒り」しかないことを悲しんでいたじゃないか。お前はまた「怒り」で走りきろうとしたが、全部吐き出すことを優先して文体も構成もめちゃくちゃになった文章、そのいくつかのピースではもう怒りを維持することができなくなっているのが丸わかりだ。今のお前の怒りは二万字もたないんだ。怒りでしかやっていけない時期というのは確かにありうる。だが怒りだけでは持たない。自分で気づいていることじゃないか。次。お前は自分がネトウヨから脱したかのように書いているが、本当にそうか?いや、正確にはお前は自分がいまネトウヨじゃないのかどうかさえわからなくなっていて、そのことをはぐらかすようにしている。お前は最後の方でうっかりしたように「陛下」と書いた。お前は高校生のときに初めて、遠目で、ガラスの向こう側だったが、そこで生の平成天皇と皇后を目撃する。夏だったかもう忘れたが、陽差しの濃い日に合唱団員として「文化事業」に駆り出されたお前は、そこでやはり直立したまま微動だにしない二人を見て、高校生なりに感動する。「エアコン効いてるだろガラスの向こう側は」と後に自分で思ったとしても、やはり老体の不動に感動したことは消えなくて、三島由紀夫もやはり直立不動の昭和帝の話をしていたことを知ったりして、お前はこの制度にどういう言葉遣いをしたらいいか、いまだ考えあぐねている。「天皇制」を「打倒」する、という言葉がまだ奇妙な響きに聞こえている。あれはいったいそういうものなんだろうか?日本人の中でクズじゃないやつ、有徳の名に値するのはもはや天皇だけなのではないか、という妄念が強まった時期は、お前が「ネトウヨ時代の頂点」と書いた時期よりもあとのことではなかったのか?「天皇制」は「打倒される」のように打倒されうるものなんだろうか?お前は「象徴天皇制」という言葉に未だに新鮮なおののきを覚える。まだ戦前の天皇制のほうがシンプルに思える。はっきりしているのは、お前は他人から「あなたは今でもネトウヨですよ」と言われても、「あなたはもうネトウヨじゃないですよ」と言われても、「ちがう、そういうんじゃない、そういうことじゃないんだ」と言うしかないだろうということだけだ。目に入った文字を好き放題摂食してネトウヨになったお前(文字単位の刺激に反射で激昂する癖はTwitterで悪化したようだな)、「平成」に生まれたお前、お前は本当に生まれてから今に至るすべての時代を憎み、すべての文化を憎んだか?お前は小学校を卒業するまでJ-Popを「世界に一つだけの花」と「TSUNAMI」しか知らなかった、しかも教科書か何かで知った。だがそれまでは地元大卒の両親の家にあったささやかな、しかしありがたい本棚、そして図書館にあったCDを聴いていただろう。そのせいではないがお前はRadioheadを長い間「amnesiac」しか知らずそればかり聴いていた。YouTubeに出会ってからはBump of ChickenEXILEMr. Childrenスキマスイッチ椎名林檎東京事変の動画を観ていただろう。だがそれ以上に、随分昔に死んだ人間の音楽が好きだっただろう。「dig」なんて言葉は聞いたこともなく、発想することさえなかった。お前はとても広くて狭い世界に閉じていた。自分で何かをしようと思って何かをやった記憶がなかった。なんとなく出会って、気持ちよくなったことを延々とやっていただろう。怒りや憎悪ではなくて、気持ち良いことのほうが好きだったはずだ。確かに激しやすさと快楽主義的なところが結びついていないかと言われれば難しいかもしれない。「快楽」という言葉に必ずしもしっくりきていなかったことを思い出せたのは友人のPのおかげだな。「快楽」ばかりではなく、快くないものから自分が確かに得ていたどす黒い「快楽」のようなもののことまで含めて考えると、お前は快楽主義者というより他人に見られているということを自覚していない校庭のつむじ風、いやつむじ風は見られていることを自覚していないだろうから単に校庭のつむじ風のようなものだった。お前が「主義」という言葉の気持ち悪さに気づきつつも、その言葉をなかなか振り払えないことに悩み始めるのはそれから随分先のことだ。ただただエネルギーを持て余していて今なおくすぶり続けるお前は学校という制度を憎みすぎており、学校に愛着を持つような人間、リアルの学校でうまく行かなかったせいかは知らないがいい歳になってインターネット上で学校を繰り返そうとしている人間を憎みすぎているが、このような形でお前自身学校から逃れることができていない。どちらがどちらの原因なのか、どちらでもあるのか、それもわからないでいる。人間は自分の中にあるものしか憎むことができない。「気持ち悪い」とか「嫌い」とかとの違いはそこにある。憎む力の吸引力はとても強く、お前はいつも自分自身が憎んでいるものに似ていく。「読書人」を、「本好き」を、心の底から軽蔑するお前。「趣味」を排斥したがるお前。だがお前の現状はまったく「読書人」であり「本好き」でしかないこと、自分自身のやりようが「趣味」であることにお前自身気づいている。そんな自分のことを確かに愛している面さえある。お前はバラバラに壊れてしまっている。いつ壊れたかも思い出せないぐらい昔から。だがお前は確かに幸福な時間を作っていたことがあったんじゃないのか?けして一人でではない。人並みに「友人」という言葉に悩みながらも、確かに友人がいて、彼ら彼女らなしではありえなかった時間を作っていたことがあったんじゃないのか?お前は高校生以来再びクラシックを聴くようになり、高校の終わりくらいから関わるようになったジャズは今でも聴いている。多分この2つが最もエロティックな音楽だからだろう。歌詞がエロければエロい音楽になるなんてことはない。いっても前戯みたいな音楽が精一杯で、音楽自体が絶頂するようなところにはなかなかいかない。日本語の歌はあまり聞かないままで、なぜなら今でも音の意味と歌詞の意味を同時にうまく処理できなくて頭がおかしくなりそうになるからだが、そんなのは些末なことで今年もたくさんの素晴らしい音楽を聴いただろう。お前はエヴァン・パーカーの1978年の未発表ソロライブ音源を聴いて、「こんな小説が書きたい」と思った。

 

リリースが止まらないToiret Statusに脳を無限次元へとグリッドされた。

Wolmhore

Wolmhore

  • Toiret Status
  • エレクトロニック
  • ¥1528

 

もう20歳になったジョーイ・アレキサンダーインタープレイの広がりは現在世界一だろうと思った。

Continuance

Continuance

  • Joey Alexander
  • ジャズ
  • ¥1528

 

前まではフィジカルも出していたが新譜をデジタルでしか出してないパターンを目撃し、その中から2枚をよく聴いた。Yusef KamaalからハマったKamaal Williamsの骨格が見えた気がした。

Stings

Stings

  • Kamaal Williams
  • ジャズ
  • ¥2139

 

ビビッドネスが四方八方からやってきて最高だった。

More Better

More Better

 

ジャケットでいったが、「Nice」のシンコペーションで気持ちよくなりまくっていた。

Forever Forever

Forever Forever

 

そのGenevieve ArtadiとLouis Coleのユニット、KnowerがForeverにたどり着いていて、おれも家でごちゃごちゃするぞ、と思った。

Knower Forever

Knower Forever

  • Knower
  • ジャズ
  • ¥1528

 

タイショーン・ソーリーの確信に満ちた音色と構築が好きだった。

Continuing (feat. Aaron Diehl & Matt Brewer)

Continuing (feat. Aaron Diehl & Matt Brewer)

  • タイショーン・ソーリー
  • ジャズ
  • ¥1528

 

最初に出会ったときはニューオーリンズ・ジャズのスタイルで若々しく心地よい音がしていたのが、今はTVショーがそのままアルバムになるようなメガポップなものまで聴かせてくれることになった。

World Music Radio

World Music Radio

  • ジョン・バティステ
  • ポップ
  • ¥1935

 

久々にリーダーアルバムを出してくれただけで嬉しかった。こんなタッチで、意志を持った小雨のように始めてくれるピアニストはジェイソン・モランだけだと思った。

Refract

Refract

  • ジェイソン・モラン, マーカス・ギルモア & Blankfor.ms
  • ジャズ
  • ¥2444

 

クリス・ポッターはやっぱり最高のテナー・サックスプレイヤーだった。

Got the Keys to the Kingdom: Live at the Village Vanguard

Got the Keys to the Kingdom: Live at the Village Vanguard

  • クリス・ポッター
  • コンテンポラリー・ジャズ
  • ¥1528

 

公式には2年前にはリリースされているはずなのに、レーベルがサンクトペテルブルクに位置しているためか知らんが、Amazonではまだ予約受付中の新譜となっている最高のストレート・アヘッド・ジャズだった。お前はこいつをまともに買えるようになってほしいというだけでもさっさと戦争をやめろと今年も思い続けていた。

Sing to the World

Sing to the World

  • Benito Gonzalez
  • ジャズ
  • ¥1528

 

ド年末に新譜を出されて嬉しかった。まだ自分が好きになれる日本語のロックがあった。

石のような自由

石のような自由

  • 家主
  • ロック
  • ¥2444

 

小さくて優しげな場所、天気雨上がりの路地の匂いがしてよかった。

巡礼する季語

巡礼する季語

 

友人たちと話しながら、ポップスの条件として①適度に聞き流せるが、冷静に考えると何を言っているのかすぐにはよくわからない歌詞②口ずさみやすく、少しだけひねりを隠してあるメロディー③譜面全体の直感的な読みやすさ、があるだろうな、と思った一年だったが、瑛人は特に①で尋常ではなかった。大体「香水」の時点で、サビ5,6小節目という大事な部分を省略なしブランド名で埋める男が尋常であるわけがないのだった(香水のブランド名全然詳しくないけど「エルメス」とか短くすればもっと歌詞が動かしやすくないか!?「ドルチェ・アンド・ガッバーナ」て!)。新譜一曲目のタイトルに「チャリで歌うやつ」を選択できる瑛人はやはり尋常の人ではないのであり、正統に洗練を深めるOfficial髭男dismと合わせたこの二者が今のJ-Popを背負っていると勝手に思っていた。

らんちゅう - EP

らんちゅう - EP

  • 瑛人
  • J-Pop
  • ¥1528

 

日本語歌曲の最高傑作を「赤とんぼ」と信じて疑わないお前。8小節×4回のリピートで十分に世界は現れるのに、今の歌はどれもこれも歌詞が長過ぎてとても聴いていられないそもそも詩じゃねえだろこれという風にこじれていったお前。「赤とんぼ」にシューマンの匂いを感じてはいたが(メロディーライン、3/4だがその拍子感が曲からは曖昧にしか感じられないことなど)、本当にシューマンにネタ元っぽいものがあると知ったのは今年、「序奏と協奏的アレグロ」。お前は自分の「dig」性のなさを再認識し、自分がオタクではないこと、否オタクにはなれないことについて思ったりしていた。

 

ディエゴ・スキッシの、タンゴ編成の可変性と拡張性を突き詰める姿勢にやられた。

Apiazolado

Apiazolado

  • Diego Schissi Quinteto
  • タンゴ
  • ¥917

 

クラシックの新譜を聴いていいなと思うことはほぼないが、ヒラリー・ハーンのイザイは聴いて「この人こんなにいいヴァイオリニストだったっけ?!」と驚いて過去作から順繰りに聴いていた。結果、ヒラリー・ハーンはデビューしてからずっと良くなり続けていたんだと思った。10歳でカーティス音楽院入学。同じく10歳でそこへ進学したHIMARIのことを考えたりした。あんまり周りの期待のことは気にしないでのびのび生きていってくれたらなと思った。

 

アルベルト・ヒナステラの良さに気づいた。バルトークが好きならもっと昔にハマっても良かったはずだけれど、ふさわしい時というものがあった。アストル・ピアソラの師匠だった時期があるというのを知るのに、ディエゴ・スキッシにドはまりする必要があったのだった。

Ginastera: Complete String Quartets

Ginastera: Complete String Quartets

Ginastera: Piano Works

Ginastera: Piano Works

  • ミヒャエル・コルスティック
  • クラシック
  • ¥1528

 

生きている間にミクローシュ・ペレーニの演奏が聴きたい、と、リゲティ無伴奏を聴きながら噛み締めていた。

Britten, Bach & Ligeti

Britten, Bach & Ligeti

  • ミクロシュ・ペレーニ
  • クラシック
  • ¥1630

 

シマノフスキの「神話」という、今までに聴いた音楽の中でもトップクラスにエロティックな曲、そしてクシシュトフ・ヤコヴィッチという良いポーランドのヴァイオリニストを知ることができた。もしかしたら本当に凄いアーティストは地元を離れないせいで知られずにいたりするのではないかと友人のPと話したりした。

Krzysztof Jakowicz plays Szymanowski, Ysaÿe

Krzysztof Jakowicz plays Szymanowski, Ysaÿe

  • Maria Jurasz & クシシュトフ・ヤコヴィチ
  • クラシック
  • ¥1528

 

NEOSを知り、今もたしかにある現代音楽の響きを静かに追おうと思った。

Domenico Scarlatti and the Modern Era of the Harpsichord

Domenico Scarlatti and the Modern Era of the Harpsichord

  • Andreas Skouras
  • クラシック
  • ¥1528

 

ドイツ的なもの、というよりドイツ的精神そのもののように思える交響曲というジャンルを終わらせたのは、「ドイツ人」ではなかった二人、シベリウスマーラーだっただろうと思った。シベリウスはその核へと凝縮していく過程で交響曲自体が削ぎ落とされていくという形で、マーラー交響曲が極限まで膨張していく過程に交響曲自身が耐えられなくなっていくという形で(補筆された10番の2楽章以降はどれもこれもマーラー自身の深化から退行していて聴いていられない)。ドイツ帝国の終わりとともに、ドイツ的な精神、交響曲という精神はロシアへと旅立ったが(プーチンがドイツの反動思想家たちの本を読んでいたというのは、何かお前を素直に納得させるものがあった)、そこからの交響曲はどうしても交響曲自身のパロディの影なしにはありえないという匂いがした。もちろんラフマニノフのような人はいるにせよ。

Mahler: Symphony No. 3 in D Minor

Mahler: Symphony No. 3 in D Minor

  • ヤッシャ・ホーレンシュタイン, ノーマ・プロクター & ロンドン交響楽団
  • クラシック
  • ¥1528

 

お前は『セロトニン』を読んだあとに今までの感謝をもってウエルベックに別れを告げてから、「現代フランスに存在する見るべき文化はレイシズムしかない」などと嘯いていたが(もちろんそれは昔フランスからの留学生に「今の日本にある面白い文化は緊縛だけ」と煽られたのにピキッときたからというのもあるけれど)、そうは言っても今年のお前はお前の大嫌いなフランス国家に感謝しなければいけないなと薄々感じていた。フランス国立図書館(BnF)が持つ膨大な録音アーカイヴを商業利用へと広げるプロジェクト「BnF Collection sonore」、お前はサブスクで今年どれだけお世話になったかわからない。

Franck & Lekeu: Sonates pour violon et piano (Mono Version)

Franck & Lekeu: Sonates pour violon et piano (Mono Version)

  • Henri Koch & André Dumortier
  • ロマン派時代
  • ¥764
Brahms: Sonates pour violon et piano Nos. 1 & 2 (Mono Version)

Brahms: Sonates pour violon et piano Nos. 1 & 2 (Mono Version)

  • ポール・マカノヴィツキー & ノエル・リー
  • 室内楽
  • ¥764
Bartók: Concerto pour violon No. 2 (Mono Version)

Bartók: Concerto pour violon No. 2 (Mono Version)

Musique concrète (Mono Version)

Musique concrète (Mono Version)

  • Groupe de recherches musicales
  • クラシック
  • ¥764

 

今年いずみホールで聴いた「Golden Slumbers」の後半、永遠に続くんじゃないかと思われた和音の連打が、見ることの決してできない雲になっていた気がして、まだあの時間が頭の中で鳴っている。演奏終了後、疲労が溜まったのかブラッド・メルドーが雫を払おうとするように両腕を振っていたのを思い出す。とても背の高い大きい人が低い椅子に座っていて、歳は取ったけれども、寡黙で聡明な永遠の少年がそのままそこにいるように思えた。

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際限がなくなってしまう。お前はそれくらい今の「文化」からたくさんのものをもらっている。十分すぎるぐらいそのことを知っている。それなのにお前は「文化」を憎み、その下支えをし、また「文化」によって変容もする「文明」を憎んでいる。気持ちは分からなくはない。お前がアドルノから「反ナチのナチ」という匂いを感じながら、突き放す気になかなかなれないのも、「この世界の何もかも気に食わねえ」ということがそれ自体全体的な救済への渇望であることに気づいているからだろう。そしてお前はそれに気づいているがゆえに「救済」や「祈り」といった概念を唾棄したがるのだろう。

お前は今の文学がほとんど読めなくなったと言ったが、それはほとんど照れ隠しであって、でなければ何度も新刊ばかり置いてある本屋に行くわけがない。だいたい、お前自身が詩人追放論を対偶として読んだのだ。「文学」の静かな隆盛にお前が瘴気を感じているとしたなら、それは文学に携わる者たちが悪意を働かせているのではない、ましてや「文学」が文学を超えた瘴気の蔓延の十分条件になっているわけではない。むしろ瘴気がお前自身を含め、世を覆い尽くしている、文学もまたその瘴気に飲まれているということであるはずだ。お前が付かず離れず意識を向けているハイデガー、すべての肖像写真に邪悪さの影を引きずっている、思索する人。彼は好んでヘルダーリンの「危機のあるところ、救いもまた育つ」を引いたのではなかったか。これは論理的な啓示であろう。危機がないところではそもそも救いは必要とされないがゆえ、そこで救いは見捨てられているのだから。「求めよ、さらば与えられん」は、それを信じる者の想像を超えた広さにおいて正しい。ハイデガーの相貌に漂う邪悪さの理由は判然としないが、あのような思索へと向かうことを欲するもののなかに、「救いのために、危機を求める」という倒立したものがなかったかどうか。お前は自分自身のあらゆる神経を摩耗させながら同時に高揚してもいることに気づいている。お前は静穏と同じくらい動乱を求めている。それはお前が唾棄する「青春」の名で呼ばれているものではないのか。未熟そのもの。お前は大人と子どもの違いを考えたとき、「趣味」の有無というところにたどり着いたはずだ。大人には趣味があるが、子どもにはない。子どもは「趣味」で遊んだりしない。子どもは生きることの全体に対して真剣なのだ。現状それはもちろん、子どもが労働世界の陰鬱な掟から切り離されているから可能なことであり、労働世界に投げ入れられる人間は生の全体性を24時間という与件によって労働時間と余暇時間に分割される。世俗的な語用としての「大人」は、労働世界との直面によって分裂した生を前提している。お前がすべての時間を労働へ投入する労働エリートに対して尊敬と畏怖の念を抱くのも無理からぬことだ。すでに基体としての生が砕け散っているにも関わらず、余暇時間の現象でしかない「趣味」を生きがいとすることは、この条件下で「生きがい」なるものによってまるで生の統一が可能であるかのような欺瞞を生むだけでしかない、そうお前は考えた。断片、お前の断片はお前の過去を高速で蘇らせる。そこには言行の根拠になることは何一つないが、ただ蘇ったことだけは証されている。お前はお前であるもののすべてであり、粉々になったお前を継ぎ合わせたもの以上のものだ。お前はそのことにどこかで気づいていたから、今年を今年だけで振り返ることができなくなってしまったのではなかったのか。そして今、お前は「趣味」を憎悪によって根絶しようとしている。が、それはお前が信じるお前のプラトンを裏切っている。生の分解を引き起こしたのは趣味ではない。この世界、大人が作った世界、戦争と略奪と憎悪と差別と冷笑と生贄とその他諸々を構造的に組み込むことなしには成立しない世界が存在する限り、生は分裂させられる。子どもはどんどん大人びはじめる、そう強いられる。この基底がひっくり返らない限り、この腐った土壌から生えてくる「希望」なるものはすべて麻薬でしかない、いかにして子どもでありつづけられるか、それくらいしか、今生、自分が取り組み得ることはない、という風にもかつてお前は考えていたはずだ。しかし、この一年で出会った大人たちはみな万死に値するクズどもばかりだったか?そんなはずはない。お前は確かに助けられ続けた。いい大人たちがいて、子どもたちがいて、ここはたしかにお前のような人間だからこそ信じるべき世界だと思えた瞬間があったのではなかったか?お前を駆り立てる反知性「主義」は、お前が目の前を見失わないためにこそお前が求めたものだったのではないか?そして、もしお前が目の前を見失わずにいられるのなら、その反知性「主義」は必ずしもお前にとってなくてはならないものではないのではないか。お前がお前の嫌う「本好き」でしかなかったとしても、人のつながりの助けもあってこの一年でお前は色々な素晴らしい本に出会った。根っこまで参ってしまいほとんど文字が読めなくなってしまっても、きっと荒木時彦の詩集は読めるだろうと思った。

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幽体離脱で離脱するのは二元論的な「精神」ではないことを確信し、身体をもって生まれたことに感謝した。

 

高橋源一郎に出会って、「ゴースト」や「悪」と戦うためには、「『敵』と戦う」のようでは全然ダメなんだと確信した。

 

非常に大雑把に言って、ハイデガーのように詩へ向かうものと、ヴィトゲンシュタインのように詩へ向かうもの、2つの詩をめぐる本の間を反復横とびしながら、ここ2年くらいで急速に現代詩にハマっていった歩みを思い出していた。

 

ハイデガーとの会い方を陰に陽に教えてくれるありがたい本だと思った。会い方というのは姿勢や挨拶のことだ。

 

「納得できない」ということに対して全力で向き合うために、ほとんど書き方を一から考え直さなければいけないというところまで自分を持っていく、藤井貞和という真剣の人のことを知った。(『釈迢空』を読んだあたりからお前は「批評文」のような批評文への関心を喪失し、元々ろくに書けてはいなかったわけだが書くことからも読むことからも遠ざかっていた。それはもちろん藤井貞和のせいではなく、お前の気持ちが素直じゃなかったせいだ。それに気づいたのか、最近は少しずつリハビリをしようとしている。あと一つだけ。捨てるべき記憶などないし、そんなことはできない。忘れないでいてほしい。)

 

本当に凄まじい思考というのは、こちらに「議論」をしたいという気持ちを起こさせるものではなく、「ああ、もうこうとしか考えられない、こうだな」という気持ちで満たすのだと思った。「腹に落ちる」というのはとても物理的な現象である気がした。もちろんそのように書いてあるのだが。

 

お前はあれだけ現代短歌を拒絶していたが、全面的にそうというわけではなかった。この、風が木になって立っているような歌集のことを、多分この一年間だけでなく、これから先も灯火にするだろうと思った。

幸せな日々

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お前が「加害/被害」と「自由/運命」のように考えるようになったのは、この本に出会ったからだろうと思い返していた。

 

「おおよそ現代の日本語話者全体に絶望してしまうような気分」のときにこの2冊を読み、かつてこのように立派な佇まいの人たちがいたのだと思い、比喩でなく涙が出たことがあった。そして涙を出しながらも、自分は「政治的」な刺激に対する情感の閾値が極めて低く、おそらく映画版「永遠の0」を観たら泣いてしまうのだろうなとも思った。小説版『永遠の0』を読んでいたときは全く泣くことはなかったが、そんなことよりも小説が全編にわたって教養バラエティ番組の文法で書かれていることに衝撃を受け、これが大ベストセラーになったということの意味を考え込んでしまったことも思い出した。

 

大風呂敷を広げられるだけで嬉しくなれるものだなと思った。

 

 

とてもカラッとしていて、涙を流さないで良いというのは気持ちがいいことだと思った。

 

「恐ろしい面白さ」という概念が存在することを教えてくれる本だと思った。

 
 
今年も現代詩文庫を読んでいた。特に山本道子は、最後の最後に収録された詩「どこへ行ってしまうの」が衝撃的で(YouTubeには山本の友人である吉原幸子による朗読がある。放送禁止用語のある行含め三行が省略されているが)、しばらく小説も追っていた。描写を見るに霊感があるとしか思えないのだが、そういった世界との距離感が独特であり、それ以外のところでもあまり見られない妙な迫力があるのでハマってしまう。今どうしておられるのだろうか。とお前は思った。

youtu.be

 

ひとりではあるのだが、ひとりではないと思った。

 

 

お前は今まで自分の作ったものを見返すということをほぼしなかった。お前が言葉を書く理由は、忘れるため、頭の中にひたすら沈殿していく澱の重みから逃れるため、頭を軽くするため。だからお前にとって読み返すことはおかしなことだった。だがお前は同時に思い出すようである書くことへ向かっている。「ひとは自分が知っていたことしか知ることができない」、「ひとは自分に与えられたものしかだれかに与えることができない」という命題を今年何度思い出した?何か進展はあったか?ちっとも進まなかったか?この残酷かつ温かい直感をお前は抱き続ける、これはもう思い出すことではない、お前は記憶と現在の区別がほとんどつけられないようなところで生きはじめている。無理に自分の過去を振り返れと言っているのではない。そんなことを言わなくても記憶の方から自分のところへやってくることをお前は知っている。それを悪霊のように振り払う、遠くへやろうとするお前。それ以外に、本当に道はないのか?「サッチャー・バイブス」すなわちThere is no alternative.がお前を突き動かしてきた一年だったかもしれない。たしかにそれがなければお前はこの一年戦えなかったかもしれない。いや、もっと正確にしよう。お前は「ここではないここ」を目指していたのではないのか。そこでいまどこにいるかは聞かないでおこう。最後に一つだけお前に思い出してほしい。「多様性」の入った文章にもことごとくお前は邪悪を感じたと書いていたが、お前がAmazonプライムでかつて観た、今は観ることのできない、カマシ・ワシントンの「ライブ・アット・ザ・アポロ・シアター」。そこでの正確な翻訳をお前は忘れた。インターネットに出てくる記事を見て、そこに引用されている文章を確認したがしっくりこなかった。お前は2020年に公開されたこのコンサート映像の中でカマシ・ワシントンが「多様性」について語った言葉をこう記憶している。

多様性とは許容されるものではなく、祝福されるものだ。

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B084CXXRSP/ref=atv_dp_share_cu_r

おそらく視聴してから3年経ったあとも、お前はこの言葉に黒魔術の影がないことを確信する。そして「祝福される」というフレーズにおののく。「祝福する」でも「祝福すべき」でもない。限界まで「神」という概念には頼らないで踏ん張って考えるということを柱としてやってきたお前に、この言葉遣いがどれだけ深く突き刺さったか。しかしカマシ・ワシントンも「神」とは多分言っていなかった、そのことが「祝福される」、受動態のパワーを際立たせている。祝福される。お前はまだこのような言葉を発することができる人間、そう、それはやはり文章を書くことを本職にしている人間の言葉ではなかった。それは確かにお前を沈ませたが、しかしそれでもこのような言葉を発することのできる人間がまだこの地上に存在するのは確かなことなのだ。「人間は自分が何を言っているのか分からない」とお前はここ一年でますます強く思ってきた。もし自分が何を言っているのかが自分で全部わかるのだとしたら、多分言葉を実際に口にする必要はなく、ひとり頭の中でどんどん展開させていけばいい。会話なんて生まれなかったんじゃないだろうか。このことは多分さびしさと繋がっている。他人の恋バナは他人事のように聞けるのに、自分の恋となるとまったく他人事のようにできないのに似ている。……いいのかこんなことで?やっぱりお前は頭がおかしくなったんじゃないか?とも思ってしまう。

 

 「俺以外全員おかしくなってしまった」と「俺がおかしくなってしまった」という相反する方向へ力が加わり、支柱となる俺の背骨はコマのように回転しているわけだが、冷静に考えればここはこだわるべきところでもないのだった。大穴で「俺含め全員おかしくなってしまった」というパターンもあるがもういい。おかしくなってしまったらおかしくなってしまったで、その後どうなるかもはっきりとわからないまま、だが何もできないわけでもないまま俺たちは続いていくのだから。天竜川ナコン、ありがとうな。

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その他、今年発したフレーズ

・「日本の可能性の中心、愛知県立旭丘高等学校

→葉ね文庫などで発した。歴代卒業生には荒川修作だけでなく、赤瀬川原平祖父江慎岡井隆といった、ラディカルな仕事、デカいバイブスで仕事をしていた人々が多数在籍していた。更に名古屋藩立「洋学校」であった時代までを含めると、坪内逍遥二葉亭四迷がここ出身であり、少なくとも「教科書的」な日本近代小説史はこの学校を卒業した二人から始まっている。なんというラディカル。いったい愛知県立旭丘高等学校にはどんなエネルギーが潜んでいるのか、一切が不明となっている。

 

・「ボルヘスを引きはじめるのは衰弱の証」

→葉ね文庫などで発した。こいつ葉ね文庫などでしか発しないのか。個人的にはボルヘスはたまに読む分には楽しく読める作家、あんまりいい奴そうには思えないけど……という感じで嫌いというわけではない。なんでこんな風に思うようになったんだろうというのがあんまりよくわかんないのだが、ボルヘスの作品って、世界で一番デカい子供部屋の中で、おもちゃ同士を組み合わせた新しい遊びを次から次へ見せてくれる……といった向きで、楽しいんだけど、外に出たいってモチベーションには合わねえんだよな(レムやコルタサルはこのへんボルヘスと読感が違う)、というのがありそうである。ところで村上春樹の新刊が平積みにされていた頃、「あとがき」を真っ先に読んでそこに「ボルヘス」の文字を確認したとき、「了解!!!!」と思った。

 

・「◯月、無理ゲーをやらせていただいているという感謝の気持ちが大事な季節」

→主にTwitterで各月初に発した。はじめはわりかしユーモアのつもりで言っていたわけだが、だんだんマジ要素があるんじゃないかという考えに変わっていった。しかしこういうものをあまりにマジに受け止めすぎると人間はたいていブっ壊れるため、俺はふざけているという感覚もまた大事にしていきたい。

 

さいごに

今年の目標は「単著作る」と「引っ越し」であり、達成度は50%となった。詩集『やーばん』を作りました。

 

手元にあと4冊しかありませんが、大阪市北区中崎町にあります『葉ね文庫』さん、『深夜喫茶マンサルド』さんでも取り扱って頂いております。ぜひ足をお運びください。

 

 

 

それでは、また、皆様、良いお年を。本当に。

パケット・パレット(文藝賞短篇部門落選作)+予告(?)

 開催迫る11/11の文フリ東京に刷って持っていこうかと思ったがフリペにするには長すぎるため、ここで公開する。文フリにはこの小説の前後に考えたことをまとめたものを持っていきたい。間に合えば……

パケット・パレット

 吐き切った。と、思った。一ミリ秒のsも発せないだろう。最期の旅に出る心持ちで口を開いたのが何度目かの前世のように遠いのに、間髪入れず真っ直ぐに挙がった右手が会場の薄暗い横一線を裂いた。

「すっきりした?」

 という声には刺すようないたわりと愛らしい無邪気な響きがあり、その声の主が遠い未来の息子であるとわたしが知ったのはX香川、世界で最初に垂直に立った川の、いくつもある分岐の中で最も流れの鋭い支流、そのほとりに建てられた核シェルターの中に篭もり一度として地に立つことなく、そう、床と直角に交わる土に初めて触れたとき、彼はすでに血の蒸発しきったばらばらの肉片だった。彼の母であるテルマ・イコライザ、超新星だけが配置されたホロスコープを支柱に生きてきた彼女は、継ぎ合わされたもののそのむごたらしい相貌を隠しきれなかったがために遂に開くことのなかった棺の窓、どこにも通じないことになった窓の向こう側を背中の目で見やりながら、ほとりから遠く離れた土の上の公営火葬場、告別室の角で、昔語りをぽつぽつとこぼしはじめる。レグルス・小嶋=カタリスとニゲル・Φ・イコライザの、樹形図を遡るような必然の出会いが、いつか彼らの孫の孫のそのまた孫の、イカリア・イコライザ、川剥ぎの伝説へ長い手を貸したように思えるのは、レグルスとニゲルの視線が初めて交わった、その直線が土に対して水平ではなく垂直にあったからだ。ニゲルは人間が言葉で名付けたことのない恒星の近所から綿毛のように舞い落ちてきた。二歳から一九歳までの間綿毛だけを食べ続けた花成みのりはその事実を一度も知られないまま高校を卒業したのだが、一度だけ指を入れあった友人のカノン・ボルシアにだけはそのことを打ち明けていた。五月、梅雨入りに掠るところでぎりぎり逃れ、薄い白色のカーテンの揺らぎへ差し込んでいく乾いた陽の光が生地の粗い目を抜けると保健室のベッドの上、制服姿の、足元に二枚の下着を横たえて、二人が膝を折って座っていた。みのりの家の縁側を消失点として、裏返した絵画のように前へ斜めへと広がる一面の蒲公英。食を同じくする母は毎年春の終わり頃、萎びた黄色を敷いて白い玉になった群れの頭を狩り、首から下を失ったイサメル・ヴィジョナーシカは色彩を限りなく増しながら錐揉みになっていく視界の中で、四肢がついている方へ意識を手渡して、醜い自分の顔を持ち歩かずにすむ人生を始めなおそうとぼんやり考えている。何気ないはずの会話に必死になることもない。ずっと昔から、早駆ける自分の喉を、舌を、口を、一体何を挽回しようというのか、その何かも知らないのに、と半ば軽蔑するように見つめていた士郎・イコライザの右目は葬儀の折に棺の中へ帰ってきたのだが、左目の方はテルマがいくら探しても見つからなかった。士郎の左目が再び他人の目に触れたのは静かの海の片隅だった。自分が「月面に到着する最初の人類」だと信じていたブルース・ブラッシャー三世は、六世代に渡って一族が作り続けた自前の宇宙探査船、その最初の船長となったのだが、月に近づくにつれ、父からその存在は嘘であると叩き込まれた月面基地の青い誘導灯が小さいながらもはっきり見えてきたために、自分だけでない系譜の両肩にのしかかっていた神話がまるごと、まるで小学校の運動場に気まぐれに立ち昇るつむじ風のように、軽さへ消え失せたのだと、楊分明は母国を海で隔てた、見知らぬ国の砂丘で、唇を噛み締めたまま立ち尽くしていた。記憶も定かではない頃、背中の、一番手の届きにくいところ奥深くに埋められたフラッシュメモリを巡り、彼は人体として血塗れの報酬そのものになった。本当に追い込まれたときにしか彼は人を殺めなかったが、追手が分明の腕の一振りで血を失うと(彼の爪はある時から伸びるのを止め、鈍い光沢を持つ刃に変わった)、彼はその場で致命傷を与えた自分の指を切り落とした。今、異国の砂丘で、ただ立ち尽くすことしかできなくなった彼の左手には二本、右手には三本の指が残されており、アルカドゥル・ネレンフォリディーは娘を連れて東へと消えてしまった妻の母国、その子供たちに伝わるという「ユビキリ」なる約束のことを今でも覚えていて、子供の遊びだろうと思い、そして、約束を違えたのは妻の方だろうと重ねながらも、なぜか痛む気のする自分の右の小指を、人目をはばかるようにさすることがあった。店先の、焼けつく砂の道から逃れるようにして時たまやってくる客へ、アルカドゥルは一年中いつでも熱いコーヒーを差し出す。粉が十分に沈むのを待ってから。見知った客のときも、そうでないときもある。やあ、調子はどうだい。そう声を掛けると、目の前の客が人生の時間をまるごと全部引き連れてもう一度店の中に入ってくるような、そんな響きが返ってきたりする。例えば次の「……」の部分。

「姪っ子が……亡くなったの。生まれて一週間もたってないのに」

 そうだった。いや、そうだったのではなかった。夫が後妻との間につくる子供を、死んだわたしの子供でもあると言っていいのだろうか。十分に誠実をした、と胸の裡の届きにくいところで思った夫がそれでも人目を忍んで再婚した、その彼女がわたしの目を見ることはできない。代償のように、彼女に乳をもらうわたしの娘の顔は、あの母のたっぷりした背中に隠れていて見えない。それでもどこかにあの子と結べる線が書けるはずだと、わたしは死後の座標を四方に探り、ようやく絞り込めた一点へ、遅れてきた宇宙開拓者として特例で入港を許されたブルース・ブラッシャー三世は無意識にだが着実に近づいていった。「静かの海一番店は本当にヤバいぜ」と入港管理局の青年に薦められたROUND1に行く前に、ブルースはアポロ一一号記念月開発資料館へ立ち寄り、曲がりくねった形ではあったが、自分は今、ある意味でブラッシャー家が何代にもわたり待ち望んできた瞬間を手に入れたのだと、強化ガラスの向こう、空調から地球と同じ組成の風が吹き込まれ、たなびいているあの星条旗を見つめながら、もう一度みのりの手を握っても良かったな、とカノンは未だよそよそしい東京で、雪にかじかんだ左手を自分の右手で包み込み、何度も優しく揉む。あの保健室の年に東京へ転校したカノンは、みのりとその母の失踪を知ったときすでに大学院を卒業していた。両親はすっかり仕事ともどもこの国に居ついてしまい、こちらに渡ってきたときにはすでに賃貸を引き払い、荷物をまるごと持ってきてしまっていたから、彼女は故国という接頭辞付きで呼ばれるはずのイタリア、太陽の光が湿っぽくないイタリア、家族アルバムの中、まだ二足で歩き始めたばかりの自分の背景にしかなく、そして今はもうほとんど色褪せてよく見えないイタリアには戻りたいような気がしても気がするだけだった。語学能力を買われて美術系の出版社に職を得たカノンはときどき自分が、記憶の中のイタリアの光、あの明晰で直情な光の質感をまだ生き生きと保持している両親の後を遅れて追っているだけのような気分になることがある。実は追われているだけだと思っていたが、こちらから追い込んでいたところもあったのではないか、と分明が思い始めた頃合いで砂丘の向こう側に広がる海は鏡のように暗くなっていく空を映し始めていた。日が昇っている間、観光客らしい何人かが近くを通りかかって、消えた。これからは、できるだけ丸い石のようになるのだと決めていた。硬度を保ったまま、流れに身を任せる。そうして「その手で飯、食えるんすか?」と話しかけてきたらしい最後の青年の誘いに乗り、砂丘からほど近い市街にあるファミリーレストランで、分明は三本指の右手で正確に箸を操り青年を驚愕させると、どうしたことか、青年に分かるはずもない土地の言葉で、自分がなぜここにいるのか、どうしてこの両手なのかということをおもむろに語り始めた。話があまりに長いのでマグレス・コレキリアデスは、この席で飲み下したあくびの総数を数えようとしてすぐにやめた。最初の方はちゃんと話を聞いていたので数えていなかったのだ。牛はあくびも反芻するんだったかな、などとどうでも良いことをぼんやり思いながら改めて前方を見渡す。壇上にはいくつかのパイプ椅子と長机が設けられており、色とりどりというには寂しいスーツをきた男女が宇宙開発と環境倫理だか何だかの議題で誰一人首をとられないようなぬるい討論をしていた。その中に高校時代の友人がいて、今日は彼から久々に食事でもどうかと誘われ、夕方まで暇を持て余すよりはましだろうと、自分にはまったく縁のなかった学会なるものに来てみたのだが、何かが目の前で起こっていたとしても暇を持て余すことはあるものだということが分かっただけだった。とはいえ席を立っても特にすることはない。アテネから遠く流れてサンパウロへ、そこでもう随分長い間止まっている。輸入雑貨の店を営み、アテネサンパウロを持ってきていたのがこちらへきて逆になっただけだったが、宇宙服越しの右手に握られた眼球、これが地球からやってきたことなどブルースは知るよしもない。自前の宇宙服は月に着いて早々役立たずになった。国際安全規格を満たさない装備では、月でも火星でもどこでも、そもそも建物の外に出られないようになっていたのだ。レンタルショップで借りた宇宙服にはadidasの文字があり、ナチの服は嫌いだと言ったが相手にされなかった。しぶしぶ着心地の良いそれを着て「安―四七一二」と輝く気密室を通り、最後のハッチが開くと隙間から空気と重力が逃げていく。世界だった地面がどんどん輪郭を持ち始め、遂には青まみれの円になったところで、母と離れ離れになったみのりは存在しない目を閉じようとする。綿毛の身体は太陽風に揺られて暗い真空の海に浚われていく。ここでは窒息もない。息ができるから息が詰まるのだと、二本の足で生きていたときのことを思い出す。読み終えた小説を閉じるごとに消え失せ開くたびにまた現れる家系図のことを考える。樹形。どうして樹の終端は地面であって地点ではないのかと倒立したところへ、切り裂くような叫び声が上がる。

「危ない!」

 わたしの声と身体とどちらが先に飛び上がったのかよくわからない。本棚の絵本はあらかた読み終わってしまったのに「もっと、もっと!」とせがむ娘へとりあえず子供用の百科事典を開いてやったのだが、彼女はどのページにも目線を沈めていくことはなく、しきりにわたしの方を振り返ってくる。目を見つめられているのかと思ったが実はわたしの唇を見ているのだ。わたしは適当に開いたページに載っていた動物や乗り物、建物や国旗から、その場でなんとかおはなしを捻り出していた。書かれている文字を声に出して読むだけならあんなにスラスラとできたのに、今は息詰めるようにページの隅々へ見入らなければ一言も発せなくなる。集中が視界を狭め、わたしはつい一ヶ月前にようやく立てるようになった娘が、積み木が散らばったままの床で逆立ちを試みようとしていることに気づかなかった。スローモーションのように、足が再び地面に着こうとしているところを、遥か離れた恒星系のほとりでオルスバ・γ・フィクトゥスは固唾を呑んで見守っている。ニゲル、君はそんなにも、その先を言えないまま彼は彼女がここから浮遊して、あるパースを掴むのを確かめた。星だと? 遠い我々の始祖が、手遊びに天球の中へ描き入れた落書きのようなものではないか。妥協も反論もなく、ニゲルは微笑んだままだった。五ノード先の一族の一人が固有名詞の雨を天球の四方へ降らせてから、ニ、ゲ、ルとどう発音しようか悩んだものだ。思い出と自分の間の霧は日に日に濃くなっていくのが、ここでは陽炎になる。見渡す地平線のどの果てまでも土が沸いている。北からやってきた、肌の白く、スカラベのような色の長い髪をなびかせる女に託された赤ん坊が、ンディア・ララバイラギの腕の中で泣いている。「ウアー、ウアー」と泣くその声が、あの蜃気楼じみた女の故郷では「Ur-,Ur-」と綴られることにンディアが気づくことはないだろう。雲母の乳房を取り出すと、磁石のように唇がその先端へ迫る。母乳は彼女の肌と同じように白いのに、なぜあの海を隔てたもうひとつの大地は、自分の遠い祖先をここから無理やり引き剥がし、その後で無理やり投げ返したのだろう。大学から帰ってきた兄によって我が家にも初めて本棚ができて、長期休暇の度にンディアは兄にその中のいくつかを読んで聞かされた。多分一冊も最後まで聞き通したことはない。こんな厚みが必要なことが、この世界にはあとどれくらいあるのだろう。ンディアもそれなりに文字を書いたり読んだりするが、そのほとんどは台所のほど近いところにぱらぱらと重ねられた家計簿のようなものだ。兄は、金が出たり入ったりするのをちゃんと記録しておけば、無駄遣いもしなくなるだろう。ほら、前に騙されて買ったスマートフォンみたいな。あれ、結局動かなかったんだろう? と言ったが、よくわからない。数字はただ書かれていって、書くのはこの手だ。数字が勝手に逃げ出すことはない。この均衡、貸方と借方が必ず一致するという複式簿記の均衡に魅入られた先で、ダスタニェル・サキモリの指はひたすらテンキーの打鍵へと捧げられている。オセアニアの大洋を望む高層マンションの最上階、ガラス張りの一室に彼の居所はある。何度も固辞したものの引き止められ、彼は雇い主の住まいを間借りし、彼の税務と彼が経営している投資会社(といっても彼一人だけの会社だ)の事務を一手に引き受けている。おそらく同期の中では一番稼いでいるだろう。まだ大学を出たばかりの、実務経験のない若造に百万ドルもやるものではない。だが彼が雇い主の命令を受け入れ続けているのは、今では金のためというより恐怖のためだった。雇い主の目の奥から後頭部へ抜け広がるようにして、黒々とした瘴気が渦巻いているのをダスタニェルは見ていた。時折自分の仕事振りを確認しにやってくる雇い主は、どう考えても秘密にしておくべき電話をこれ見よがしにダスタニェルの前でかけることがあった。挨拶も抜きにして、「フラッシュメモリはどうした」と低く鋭い声で言う。まるで電話のたびに人を殺しているみたいだった。自分が孤児であることを雇い主は知っていて、だからあれほど引き止められたのだろうと、ダスタニェルは随分後で思い至って、一刻も早くその考えを忘れようとした。そういう時は自分の口座残高のことを思い出す。それでも駄目なら、個人的な財務諸表の作成に没頭する。雇い主は電話を終えたらしく、後ろから「おい、そろそろ出るぞ」とクリシエ曹長の声がして、マテオス・サン・フエル・ディセンバー伍長は鈍い腰を上げた。立ち上がったところで曹長が振り返り、「オ、イ」と口を動かし始めた。多分次の瞬間、そういうときはいつもそうであるように、彼は畏れと驚きの入り混じった表情を浮かべ、次には怪訝そうな響きの、「耳が良すぎるな、お前は」という声が聞こえるだろう。失敗した。マテオスは昔から光より音を先に受け取るところがあった。すぐに人と話しづらくなり、やがてほとんど喋らなくなった。身体さえしっかりしていれば文句の言われない、外人部隊とは名ばかりの傭兵集団にまぎれこんで日銭を稼ぐ生活を始めた。今もできるだけ静かにしていて、境界の意味が失われ殺戮だけが残った街の切れ端で、「ゲリラ」をひたすら撃ち殺している。大国の後ろ盾をなくした相手方にろくな武器がないことは部隊の誰もが承知している。トリガーの引っ掛かりは、鼻をかんだ後のティッシュをポイ捨てするときの感覚に近いところまで引き下げられていた。ゴミ溜めの底に散らばった死体はたまに女だったり子供だったりするが、部隊ではみな「動く方が悪い」と叩き込まれている。マテオスもそう思う。動くやつはみんな悪い。子供の頃にボロボロの雑誌で見た宇宙旅行の記事を思い出す。あの未来予想が正しかったなら、今頃月には巨大なハブ宇宙港ができていて、火星でも土星でも、太陽系外だって自由に行けるはずだった。もちろん子供向けの科学雑誌で、それこそSFとも呼べない戯れのような記事だったと今では思う。だが、その今ここで宇宙といえば、新米のガンツが担当する携帯誘導弾をきちんと目標に導いてくれるだけだ。大気圏外すら遠い。「パン!」の直後、罰当たりな想起を切り裂くような音がして、マテオスは咄嗟に上官を引き倒す。ほんの僅か後に、つい先程まで曹長が立っていた後ろの壁に銃弾がめり込み、ガラスのような亀裂が入る。曹長がなにか言うより早く、マテオスは口を開く。うちの銃ですよ、あの発砲音は。いよいよ曹長の顔に恐懼の色が濃くなるのを横目で見ながら、本当は血とともに倒れるべきではなかったか、いや、この俺が、俺がこんな、何を、やめろ、やめろぁ! という絶叫で終わったインスタグラムのストーリーを、免月唯と立川豊の二人はもう一度見る気になれない。デート中、古民家を改造したカフェに入ったところで、共通の友人から船馬流の死をDMで知らされたのだった。三人とも同じ吹奏楽部の部員で、最近はストーリーの更新で近況を流し目に見るだけだったが、いざ死の知らせがくると、自然に伸びていった距離が急に縮まる気がした。そのまま彼のアカウントに飛ぶと、半日前にストーリーが更新されていた。満開の蒲公英が一面に広がるのどかな光景がわずかな手ブレを伴って映し続けられていた。だがそこに入っていた音はまったく場違いだった。流は息切れしていた。必死そうな足音も聞こえる。あの絶叫の直前、スマートフォンのマイクにぴったりと口を近づけていたとしか思えないソプラノの声が入っていた。

「それじゃ間に合わない」

 それは分かっている、と思わない。だが、どうしても話したいことが嵩張っていくのを止められない、と思わない。もう何年、この清潔な施設で車椅子とベッドを往復する生活を続けているのか、と思わない。思えばここにくるずっと前から今に至るまで、交通量調査のように、動かない自分の身体の前を、無数の人生が理不尽の速さで行き交っていくのを黙って見ていることしかできなかった、と思わない。本当は叫びたいと思っていた、と思わない。自分の名前を、そして相手の名前を聞きたかった、と思わない。そして叶うことならその手を握り、抱きしめ合いたかった、と思わない。「受付」と書かれたところに、顔に覚えのあるような気がする老紳士がいて、こちらに近づいてくる。ヤア、チョウシハドウダイ、と聞こえる。わたしはずっと話しているのに、自分の声がもう、喉に、舌に、口に、届かないのだ、と思わない。老紳士は大きなテーブルの近くから椅子を一つ引き寄せて、わたしの前に座る。彼はわたしの手を握って、潤んだ目でわたしを見つめてくる。どうしたんだろう、この人は。彼は話しはじめる。彼が何をしたかではないような、わたしが好きだったという季節の話のような、わたしが好きだったという場所の話のような、わたしが好きだったという食べ物の話のような、わたしが好きだったという音楽のような、……わたしはそれらが好きだったのかどうかと思わない。「え」と「わ」の違いを思わない。ただ、声が流れ込んできて、わたしは透明なパイプオルガンの、ひとつの垂直な管になる、と思わない。それらはこんな風に響いている。可愛そうなわたしの息子! こんな死に方があってたまるかい! ……天使ですか、と聞くのは、さすがに罰当たりかな? いいか、川を釣り上げろ! どこにだって帰ることができるのだと、皆、ここで信じ、そのことを誓うのだ! ねえ、これからも友達でいてくれる? ……どういう意味? ジャンセン、あなたの優しげな言葉がわたしをますます醜くしていくのがどうして分からないの! 母さん、本当に僕は可愛そうなのかな? 初めての土は気持ちが良かったよ。今は、ただ、それだけなんだ。父さん、もういいだろう。アポロは嘘じゃなかったんだ。だけどもうどうでもいいよ。この目ん玉が父さんのじゃなくたっていい。ただ、一緒に見ていてくれよ。分かるかい? あれが俺たちの国、俺達の家だよ。謝謝……どうして、お前が泣けるんだ? 鏡なんてないよな。何か言ってくれよ、どうして黙ってるんだ。お前だけが俺に声を掛けてくれたんだよ。あの勇気があって、どうして今、お前は何も言ってくれないんだ? そうかい、そんなことが……神が、……とは言えないな。わたしには、……もう一杯いるかい? 今年で終わりって、急に言われても困ります。……伝手なんてないですよ、もう。よく分からんかったが、結局のところ、わしらは死ぬまでに月に行けるのかね? ……行きたくないのか! なんでそんな研究をしてるんだ? 宇宙が好きなんじゃないのかね? ニゲル、こんな物が届いたよ。白くて、ふわふわしている。この見た目で温かくはないんだ。……不思議だね。君がいなくなってから、驚くことができるようになったんだよ。いや、まだできてはいなくて、言葉の意味がわかり始めているだけかもしれないけどね。母さんに会いたいかい? それにしても力が強いねえ、あんたは。乳首が腫れちゃうわよ。……はい。率直に申し上げて、このままでは次々回の決算を迎えられずに、あなたの会社は破産します。……わたしを殺しても、何も変わりませんよ。曹長、本当に犯人を探すおつもりですか? ……いえ、何でもありません。ねえ、今なにか聞こえなかった? 怖いこと言うのやめろよ。今からそっち行くね。うーん、次の電車は……げえっ、四〇分後! もしもし、文山ですー。お疲れさまです。あの、先日注文入ってた一二〇ロットの件なんですけど……少輝、だから止めなよって言ったのに。父さんは殺せなかったけど、全然知らないヤツなら殺れるなんて、本気でそう思っていたの? あの、ここのバスはいつくるんですか? 帰省するところなんです。急ぎで……なんで出さねえんだよっ! 紛争? てめえらのせいだろうが! せめてバスくらい出しやがれ! では一〇三小節目から……もう一度……ミスター・フェルゲン、あなたはレグルスに行ったことがありますか? あなたのトランペットはもっと遠くまで、宇宙のないところまで聴こえなければいけないのですよ。入ったーっ! 入った、入った! いやどうだ? 審判が……オフサイドフラッグは上がっていませんが…… X香川? あんた、あそこにはあんまり近づかないほうがいいよ。あのあたりは、何が起こってもおかしくないからね。お父さん、きてきて、ほら、もうすぐ着陸するわよ。すごいわねえ、人が月に行くなんて……あなた、どうしたの? 綿毛しか食べないから怖くなって逃げてきた? アハハハハッ! お父さんったら飲みすぎよォ……どうしたの、マテオス。そんなに泣きじゃくって……耳がおかしいの? 目? 目も? ちょっとあなた、こっちにきて! マテオスが何だかおかしいの! 大事なのは脳への刺激です。奥さんに、できるだけたくさん話しかけてあげて下さい。お疲れ様ー。今日は、おお、もう五千いったか。ああ、カウントはこっちで戻しておくから、触んないで。こんなことして何になるんですか、だと? 何にもならねえから今すぐ死ねよ。そんなことも分かんねえ馬鹿な頭を使おうとするな、手ぇ動かせ! 俺たちは何にもなんねえが、ロケットは作るのを止めなきゃいつかはできるんだよ! うーん……あんたの星回りはかなり珍しいね。あんたの子供は、なかなか面白いことになるよ。本人も周りも、かなりしんどい思いをするだろうけどね……あたしの? あの子は身体が弱くてねえ……ズィークンさん、残念ですがあなたの亡命申請は却下されました。入国禁止者リストにあなたの名前が記載されています。……いや、あなたの容疑が冤罪かどうかを判断することは、わたしの仕事ではありませんので。パパ、パパ! あれ! おんなのひとが、おちてる! ……ながれぼし? 判定は……ゴールです! 松井久隆! 日本サッカー史に、新たな名前が刻まれようとしている! 日本、史上初のワールドカップベスト8に向けて大きく……そうねえ、名前ねえ……いっそ、この子に自分で決めてもらおうかしら。それにしても、今日は一段と暑いってんのに、水道はいっつも直ってないわね! アキコ、シキ、元気にしてるかい? 足が悪くてね、わたしはもうニホンに行けそうにないよ。しかし、もしかしたらわたしはもうおじいさんなのかもしれないんだね……はぇーえ! お前さんに娘が! もう六〇だろ。そりゃあ月世界旅行もしづらいってもんだ。それで、名前はどうするんだ? マテオス、お前、カミさんはいるか。子供は……いるのか! お前ほどの無口でも何とかなるもんなんだな。それで、名前は? 香織、みのり、俺だって、結構頑張って食えるか試したんだぞ。知らないと思ってたのか? ……戻ってきてくれよ、頼むよ……夏になったらナポリに行ってくる。旅行よ。……彼氏と。……まだ秘密。また会ったときにちゃんと紹介するから、名前も。ほんとに。心配しないで。うん、ママ、愛してる。……さて、と……唯、どうする? 流の葬式。急に行ってもなんか変な感じしないかな? ……そういえば、知らないなあ、流の両親の名前。そんなもんじゃない? わたしも豊の親の名前まだ知らないし。え、会いに行っていいの? とうとう完成しましたね、ブルースさん! そういえば、名前は決まってるんですか? この船の名前ですよ! ……失礼ですが曹長、裏切り者という名前はありません。彼はゴズリー・レグネットです。あなたがたった今撃ち殺した、わたしの、わたしたちの親友です。おめでとうソフィー! ……あらあ、本当にかわいいわねえ。わたしも子供欲しくなってきちゃったかも。……やーね、いつまでも大学生のわたしじゃないわ。それで、名前はなんていうの? イサメル? ……士郎、そうだ、士郎にしよう、テルマ。彼は泳げるようになるかな? こんな時に生まれて……しょうがないわね、誕生日なんて選べないんだから。長生きできたらめっけもんだね。それで、名前はどうしたの? 分明? 誰が僕にダスタニェルって名前を付けたんだろう? ……分からなかったな、最後まで……チキュウ? それって誰の名前なの、オルスバ? あなたの名前は? あなたはわたしにとって、どういう人なの? わたしの名前は? わたしの名前はなくなったのかまだないのか、固有名詞の雨は止み、晴れ上がる天球は破裂し、千々に散らばってゆく。まだわたしでないわたしが泣いている。その後で目が覚める。わたしでないわたしの周りは暖かな水で満たされていて、真っ暗で何も見えない。鼓動が聞こえる。臍のあたりから細長い一本の管が伸びていて、暗闇のどこかに繋がっているらしい。そこを通してなのかどうか、啜り泣くような声がする。どうしたら答えられるだろう。まだわたしでないわたしは思うように四肢を動かせないし、口もぴったり閉じたまま動かない。それでもまだわたしでないわたしは、そうだから、わたしでないところへ、例えばこんな響きで聞こえていく気がして、

「むかしむかし、……

「話半分に聞く」!?

 数々のことわざ言い回しの中でも「話半分に聞く」の字面の気持ち悪さは頭一つ抜けており、まず「話/半分に聞く」なのか「話半分/に聞く」なのかが気になるしスラッシュしたとて何だその「に」は!そこ「に」か!?という気持ちに整理は付けられない。日本語のすべてを理解しまた理解させてくれるコトバンク名誉教授によれば、「話半分」それ自体に「他人の話は半分くらい割り引いて聞くと本当のところをつかめる」といったニュアンスが含まれているらしくそれを読んだ瞬間に冗語法!!!!!!と絶叫 & 七転八倒してしまうわけだが、うちは狭いので七転八倒すると物どもで全身を打ち、皮膚そのものが痣のみによって構成された不可解な生物になってしまうため、一度も七転八倒をしたことはない。

 

 「話半分に聞く」が「話(を)半分に(割り引いて)聞く」の圧縮形態であるとするならば、肝心なところを割り引きすぎだろと思うがそれ以上に「半分」の根拠はどこから来たのか、ということが気になってくる。これはおそらく内容の比率の問題ではなく人体に耳が二つあることから来ているのではないかという直感が働くがまあそれはそれとして、話を半分にする方法はどれくらいあるだろうか。本を真っ二つにする、奇数(偶数)行を全部墨塗りにする、奇数(偶数)字目を全部墨塗りにする、などの方法はすべて真っ直ぐすぎて話を半分にできていない。ブックオフを見るがいい。数巻分冊の本の一部だけが取り残されている。何度『神聖喜劇』の第一巻だけを、上巻のみの岩波文庫版『純粋理性批判』を、時以前に残りの十数冊を求める気に全然なれない『失われた時を求めて』を、必ず一冊しか見当たらない新潮文庫版『ディスコ探偵水曜日』を見ただろうか、いや、前半三冊はともかく『ディスコ探偵水曜日』は増刷しろよ何をやっているんだというのは今はおいておくとして、やはりそれは話が冊数で分割できないことをありありと示している。残りの巻を持っていない・買う気もない状態で『アレクサンドリア四重奏』の3巻だけ買うなんてことがありますかアナタ? それは4分の1どころか0だよ。買ってから3年たちましたがまだ残りの3巻を買っていません。買う気はあります。本当にあります。手頃な価格でなかなか見つからないだけなんです。タイミングが来てないだけなんです許してくださいといったところで、文字数は分割できるが、話はいったん仮止めされた全体が見えて初めて分割がそもそも可能であるかどうかを考え始められるわけだがでは「話半分」に聞くことはどうしたら可能なのか?

 

 ①「一を聞いて十を知る」→五を聞いたことにする。これは極めて速く、全部を全部として聞いていないというあたりからも「話半分」の感じが出てくるが、いやお前は結局一しか聞いていないだろ、ということになり、却下される。

 

 ②全部聞き、半分へ……→正解。

 

 しかし全部聞くのは意外と難しい。読んだことがないが『モモ』でも似たような話がされていると聞いた覚えがある。話半分に聞くためには普通に聞く以上に精密に人の話を聞かなければいけなくて、そうなると「話半分に聞く」という言い回しは結構含蓄のあるような気がしないでもない。

 

 そんなことをぼんやり横目に思いながらデリダの『生死』を読んだり詩の推敲をしていたら一日が終わった。あと二人欲しい毎日を送っている。

 

 

 

 半分本①。

 

 半分本②。

 

「8分休符にスタッカートを付けろや!」

 『運命』の冒頭を「タタタターン」などという、明らかに「タタタ/ターン」と3音節単位で分割する想定から来るであろう表記を平然と用いる風潮に対して往時バチギレており(ちょっぴり嘘、なぜなら今でもほんの少しムカついているから)、「タタタターン」じゃなくて「タタタターーン!なんだよ!4分の2拍子だろ!それじゃあ伝わらんのや!フォルテッシモの8分休符を、いや、8分休符にスタッカートを付けろや! といった剣幕の傍目から見て完全に病的な少年がかつていたとされる。知りません、何も知りません。思い出全部忘れました。嘘だよ。全部覚えているよ。

 

 ベートーヴェン交響曲第5番『運命』の第1楽章の冒頭が休符から始まるなんて話はあまりにも有名なのでそれ自体に大した衝迫力はないわけだが今日不意にそのことを思い出して、どうしてそんなことを思い出したいとどこかで思ったりしたんだろうと思ったのだが、どうも「休符にスタッカートを付ける」ということに引っかかっていたらしい。直接的に受け取るとそれは不可能な表現なわけだが当時の自分にはそれが可能であるという謎の確信があったに違いない。考えてみれば別に最初に8分休符を入れて厳格な4分の2拍子の譜面を維持しなければならないなんてことはなくて、アウフタクト(Auftakt)を用いれば最初の小節だけ8分音符3つでもなんの問題もない。でもベートーヴェンはそうしなかったわけで、そうだとするとやはりどうしてもベートーヴェンは最初に8分休符を入れたくなった、という風に考えなくてはいけない。

 

 ではどうしたらいいのか。音がないことを造形するためには、物理的にはその境界を処理するという方法以外にない。したがって「ンダダダダーーン」の「ンダ」の間をどうするかということになるが見ての通り筆記体でもない限り文字と文字の間は常に空いており、詰んでる感じがするでしょう? 最悪です! だが諦めてはいけない。音に戻りつつ文字の上でも食いついていくが、文字から考えるとやはり「ダダダダーン」と書いたほうが話が早い。嫌ですが。このように書くと一文字目の「ダ」の前に何物もなくなり、別の観点がよりくっきりとしてくる、そう書き出し、一画目の書き出しから始まる筆跡をどう形作るかということにすべてがかかることになる。ゆえに「8分休符にスタッカートを付けろや!」というバチギレは象徴的な指示ということになり、現実的には一音目のアタックの瞬間をいかにソリッドにすべきか、ってことに翻訳されるんだろう。ちょっと物足りないけど。そして別に楽譜上の8分休符には(それどころかその後の8分音符3つにさえも)スタッカートはなくて、ff(フォルテッシモ)もギリ8分休符にはかかってない。文章を文字通り読めてなかったね。でもそういう「(俺には)こうなんだよ!」みたいなロマンを大事にしてもいいと思うよ。今ではもっとそう思っているよ。

 

 こんな話ができるのは五線譜という西洋音楽の記譜システムには休符という「音がないことを表す記号」が存在するからで、これはすごいことだと思う。小説で『運命』が書けるかというとかなり厳しくて、「ン」は「ン」であって休符じゃない。少なくとも日本語には休符と等価な機能を発揮する文字も記号もひとつとして存在しない。0や「。」は文脈を用意してやらないと無になってくれないし、「無」はあまりにも背負ってる意味や文脈が大きくなりすぎちゃって全然無じゃなくなっている。第一休符は無じゃねえし。じゃあ筆跡による縁取りの線で行くかといっても印刷技術ができた段階で小説を読むときには基本的に筆跡なんてわからないし、書く方からしても、小説において筆跡で何かを表現しようというのは錯誤でしかないが一旦短歌に行ってみよう。

 

 金色の星 やり方がわからないまま口を開け 銀色の星

 

 平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』

 

そして、

 

 マグカップ落ちてゆくのを見てる人、それは僕で、すでにさびしい顔をしている

 

 千種創一『砂丘律』

 

 この二つの短歌を引いてきたのは、パッと見た時のレイアウトの構造が一緒というところから。文字ではない同一の記号で中間部を挟み込むわけだけど、「(スペース)」と「、」がそれぞれの短歌で最適であることは入れ替えてみれば分かる。

 

 金色の星、やり方がわからないまま口を開け、銀色の星

 

 だと、例えば「(やり方が分かっているかどうかわからないが)口を閉じて金色の星を見ている→やり方がわからないまま口を開ける→口を開けて銀色の星を見ている」とか、「金色の星がある状態で、やり方がわからないまま口を開けると、金色の星が銀色の星になる」とか無理すればかなり素っ頓狂な上に苦しすぎてやはり行けていない。「、」を使うと「やり方がわからないまま」がうまく処理できなくなるのが分かる。

 これが「(一字空け)」であることによって、色々通りだす。それはずっと喋り方がわからない、あるいは本当に喋れているのかわからないなと感じている人間が口を開ける時、その人のちょっと後ろにもう一人その人がいるのかもしれないし、喋るどころか呼吸でそうなっているのかもしれないし、あるいは全然別の方面から、金色の星や銀色の星が見える場所で、人生で初めてフェラチオをする、あるいは見たこともない宇宙人とかにフェラチオをするシチュエーションに突入したのかもしれないし、まあとにかく「(一字空け)」であることによって、読みの範囲を制約する最も大きなヒントである「やり方」を持て余さずに読める。

 

 マグカップ落ちてゆくのを見てる人 それは僕で すでに寂しい顔をしている

 

 こっちは先程の短歌と違って読むのが全く無理になるということはないけれども、それでも読み味は変わってくる。なかでも「僕で すでに」が気持ち悪いことこの上ない。こうして初めて両サイドの「、」が挿入句としての異物感を維持し(575/6/77)、なおかつ流れを断ち切らないための唯一の選択肢だということがはっきりする。こうしてみるとどちらもABAの構造でありつつ、最初の短歌は背景として共通のAであり、その両サイドを「やり方がわからないまま口を開け」る誰かの存在が、遠い意味でつなげる仕組みになっており、もう一方はAの中にBが現れつつも、「それは僕で」が「人」へと繋がり、「、」が「僕で」「すでに」を繋げるという形になっている。簡潔に言えば前者は2つの位相、後者は1つの位相でできているが何の話だったか、そう、日本語の表記に休符と等価の記号はないという話をしていた。ここでたしかに「、」も「(スペース)」も文字ではないが、それぞれ異なる意味へと動いている。それ自体に意味はないのにもかかわらずだ。たしかにこれらは「8分休符」には似ていないかもしれないが、ある意味では「スタッカート付きの8分休符」に似ていないだろうか? ベートーヴェンの8分休符にスタッカートはついていないわけだが……

 

 ベートーヴェンが採用しなかった方から考えてみるのはどうだろう。Auftakt、Aufが「〜の上」、taktは「拍、小節、調子、ペース、常識、礼節、ペース、思いやり」などなどとなる。総合してみるとAuftaktというのは(第一)小節の前にあり、拍、律動、ペースをちょっと崩し、いたずら心のようなものがある、という感じだろうか。それは一旦置くとして音楽用語として日本語では弱起となる。何かが弱く起こる、というよりも、詩学用語だとAuftaktは頭拍(音節)らしいから、弱いところから起こる、ということになる。なんだかこれなら小説でもやれそうな気がしてくる。

 

 小説の冒頭がたいてい一字下げなのはどうしてか、ではなく、その一字下がったスペースの形、それが小説の生まれてきた場所の事実かつ象徴であって、だから人間は冒頭一行読めば小説がいいか悪いかなんとなく分かるし、なんならページを開いた瞬間目に飛び込んでくる文字と空白の配置で何となく良し悪しが分かるということだってあり得るだろう。小説のアウフタクトはいかに構築しうるか。

 あるいは、複数の詩人が「詩は沈黙から生まれる」的なことを言っていて、それを目にしたり耳にしたりするたびに常時頭の中がうるさく沈黙など知らないアテクシは詩人なんかじゃございませんわ〜〜〜〜〜!!!!! とどこかで絶叫しているわけだが、行分け詩が冒頭一字下げについてあまり関心のない形でスタイルを形成していったということと、散文詩では一字下げたり下げなかったりするということとの間を見ていると、非肉体的な、紙上の沈黙というありようについて、気づき始めたというより、目でさわれる一つの証拠を手に入れたのだという感じがする。詩のアウフタクトはいかに構築しうるか。

 

 ベートーヴェンは弱起を採用しなかった。『運命』って好きだけど笑いどころがないからね。Auf-taktって感じじゃなかったんだろうね。

 

 振り返ってみれば自分は最近、うるさい人間でも沈黙から始められないだろうか、せめて沈黙にさわれないだろうか、ということを遠回りにやっていたな、と思うのだが、よく考えたらすでに沈黙から始めたことがあるし沈黙に触れたこともあった。思い出の中で未だに激情家をやっている全然知らない少年が、来るべき『運命』の合奏の日に向かってなんか激憤しており、「8分休符にスタッカートを付けろや!」と叫んでいてかなり痛々しく危ない感じがするが、練習は続いているため、「もう1回最初から」というと、場が急速に静かになっていく。メチャクチャ聞いている。「これだ!これが”あの”8分休符へと連なる沈黙だ!」という沈黙になるまで待つ。鋭く右手を振り上げる。

 

 ……ここで完璧な8分休符が鳴っていたらただのきれいな、いやきれいすぎる「思い出話」でしかなくて、多分実際のところは、普通の少年が暮らしている普通の街から聴こえてくる、普通の少年少女たちが鳴らすような8分音符が鳴っていたんではないかねえと思う。ただ、あの時目指した「スタッカート付きの8分休符」を、まだ自分が諦めていなかったのだ、ということに気づいて、このように書いたブログ記事が終わる。

 

 

 

 ポケットスコアは小さくて可愛いので、一冊あると楽しいです。楽譜が読めなくても、いい曲は楽譜もきれいなので、いい模様です。

 

 励みになります。

私は青磁社版の『砂丘律』を持っています。いいでしょう。

どうして狼少年だけが狼少年なのか

 というタイトルにしてブログを書き始める前にふと「狼少年」って本当に「狼少年」だったっけ?との疑問が湧き全幅の信頼を持ってWikipediaを開くと原題は「嘘をつく子供」だという。終わり。

 

 ではなく冷静に考えると俺は手元に角川文庫から出ていた『キリシタン版エソポ物語 付古活字本伊曽保物語』を持っていたので、そのあたりを確かめられるのだった。「キリシタン版」の方で対応するタイトルは「童(わらんべ)の羊を飼うた事。」、「古活字本」の方には対応する話が残されていないようだった。とまれ「童(わらんべ)」は短いのでここに引用してしまうのだが、

 

 ある童羊に草を飼うて居たが、ややもすれば口号(くちずさみ)に、「狼の来るぞ」と叫ぶほどに、人々集まれば、さもなうて帰ること、たびたびに及うだ。またある時、真(まこと)に狼が来て、羊をくらふによって、声をはかりに喚(オめ)き叫べども、例の虚言(そらごと)よと心得、出で合ふ人なうて、ことごとくくらひ果たされた。

                                     下心。

 常に虚言(きヨごん)を云ふ者は、たとひ真(まこと)を云ふ時も、人が信ぜぬものぢゃ。

 

 

 ということで知ってる知ってる、と思いつつ虚言が「そらごと」と「きょごん」と二通りあって面白く、また、「口号(くちずさみ)」で「ある一つのことを何度も口にすること(バレト註)」となるのは経済的で面白いが、なによりも説話を読んでいると、その短さ、そしてそれを物語の論理で一直線につなげてしまわない(ここがあらすじの文体と違うところだろう)ことからくる独特のグルーヴ感が気持ちいいなと思う。「ある童羊に草を飼うて居たが」という飾らない、空気のようなスタートから、「ことごとくくらひ果たされた」とかいう強烈な締めまでよく見ればわずか二文であり、この加速をもたらしているのは二文目冒頭の「またある時」という切り替えの仕方だろう。更にここには『キリシタン版エソポ物語』独特の面白さもあって、「下心。」、これが発生させる効果としては『カウボーイ・ビバップ』第11話の「教訓」に近いところがあるが、ちょっと違うところがあるとするなら「下心。」のあとだけ語尾が「ぢゃ」で終わる謎爺構成(例外あり)がさらに速度を上げるというところか(「教訓」の方はどちらかというと頭韻・脚韻に近い)。当時の人がそう読んでたかどうかは知らないけれどもそう読めるので教訓話というよりひたすら「え?」を速射される感覚が出てくるわけだがそもそも最初は「狼少年」の話がしたかったのを思い出した。

 

 教訓としては「いっつも嘘ついとるやつはもし本当のことを言っても人に信じてもらえんものぢゃ」ということになるが、なら人口に膾炙するタイトルのようなものは「嘘少年」でよくない?ウィキ観るまで「嘘をつく子供」っていうタイトル知らなかったんだけど?という気持ちは残る。ここで「嘘をつく子供」はめちゃくちゃいるが「狼少年」はイソップ系列でしか知らないというところに何らかのヒントがあるのではないか、という考えがよぎる。そして上の教訓で最も大事なところはどこなのか、と考えたときに、それは「虚言」ではなくて「常に」の方なんだということが分かってくる。

 

 先に書いたように説話は基本一話があまりに短いため、ものすごい余白がある、というか余白があるかのようにこちらを誘ってくる。今はそれに耐え、書いてあることだけで考えると、とりあえず童(わらんべ)は「狼の来るぞ」と口号(くちずさみ)に叫んでいたということで、他のことは言っていない。要するに人々の間で「童(わらんべ)による『狼の来るぞ』」→「嘘乙」という学習が発生したということだがそれならやはり彼は嘘童(うそわらんべ)ではないか。ということにはならない。「常に」が大事、ということを思い起こしておくと、この学習が更に「あの童(わらんべ)は『狼〜』ばっか云うとるな〜」→「狼少年でいこう」という共通認識を作り上げていなければならない。この嘘童(うそわらんべ)の特徴は嘘ばっかりつくところではなく、全く同じ嘘しかつかないというところにあり、それこそが「狼少年」を”その”「嘘童(わらんべ)」へと同定させるものだった。ある日童が「太陽が存在している(日中の発言)」など疑いようもなく真の発言を挟んでいたり、虚言にしても「米津玄師の来るぞ(米津玄師の来ていない状態での発言)」など少しのバリエーションでも加えていれば、彼は少なくとも「狼少年」にはならなかっただろう。童が「声をはかりに喚(オめ)き叫」んでいたのは、文章から見る限り「狼の来るぞ」以外のものであるとは思えない。これはもう通常の嘘をつく子供の話という範疇を超えた事態であって、全く同じ文字列が正反対に解釈されるまでの顛末という、一つの仮構されたデータとして考えることができる。

 

 そういう風に(強引に)読んでいくと、最後の「下心。」からやってくる教訓もちょっと違った風に読める。これは「虚言(きヨごん)を云う者」の話ではなくて「常に虚言(きヨごん)を云う者」の話なのだ。「たとひ真(まこと)を云ふ時も、人が信ぜぬものぢゃ。」の「信ぜぬ」の目的語は「言」となりそうだが、そうではないのかもしれない。「人々」は解釈によって、文字通りの反対の意味として「言」を信じていると言える。「人が信ぜぬ」のは、「者」の方なのではないか。人は発言者を一切信頼しないままに、(何らかの関数を挟んで)その発言だけを信じることができる。ぞっとするかどうかは各人の自由だが、そういう事態は多分に実在してきたし、今もしていると思う。

 

 余白の話をする。どうして狼少年は狼少年になり始めたのか。羊飼いの仕事がマジで辛かったのか、それとも仕事自体は特につらくもないし好きでもあったが、仕事上人と全然喋る機会がなくて、何でもいいからレスポンスが欲しかったのか、こっちから人のところへ行くのは職務放棄になるから、向こうから来てもらうしかない……ユリイカ!となったのか、こういう方向にはあまり掘り下げたくない(説話が持つ速度を成り立たせる必要条件として、こういう方向に掘り下げないということがある)。最初に「狼が来たぞ」と少年が言った瞬間の声の大きさのことが気になる。多分、ずっと内言であったそれが、ほとんどうっかりという形で口をついて出てしまったのではないか。そして、その声を自分の耳で初めて聞いた瞬間に、少年は言いしれないワクワク感が湧いてくるのを感じる。狼が来る。米津玄師が来る。シンギュラリティが来る。毎日のような風景が一瞬にして砕け散るイメージ。だが少年は狼が来ないことを知っている。羊飼いだから。でも一度よぎってしまったイメージは、あまりに魅惑的なだけではなかった。大きな声で「シンギュラリティが来たぞ」と言ってみる。血相を変えて人々がやってくる。やはりすごい。少年にとってだけでなく、他の人々にとってもシンギュラリティは、そのイメージだけで強烈な印象を与えるものだった。繰り返す。だんだん血相を変えてやってくる人々が減っていく。どうして? シンギュラリティはこんなにもすごかったじゃないか。どうして来ないんだ? 本当に来たらどうするんだ? そうしてある日、シンギュラリティ、イメージじゃない本物のシンギュラリティがやってくる。それはもはや指示代名詞以外の一切を受け付けない、まさに「それ」としかいいようのない。0と1の雨降りしきる中、少年は羊を置いていっさんに野原を駆け下りる。「シンギュラリティの来るぞ!」誰も来ない。いや、「誰」がいない。彼らは、「それ」によって「」(鉤括弧)の形に崩落した壁を残すのみとなった、このあたりで唯一の集会場に集まっていた。息を枯らした少年が隙間から中を覗く。一斉に振り返るその顔は、正確に「下心。」の形になっていた。それらがみな同時に笑った。なぜか、笑った、と、わかった。

 

 ぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃぢゃ!!!!!!!!!!!!

 

 以上が、「どうして狼少年だけが狼少年なのか」についての解釈である。

 

 

 

大便師 大海軽暗

 「きみもクリエイター(クソみたいな語彙)になれる!クリエイター(クソみたいな語彙)になろう!」式に資本から発せられるメッセージは、同志同士の競争過程へと人間を駆り立て、果てしない消耗の中から浮いてくるアガリをはねることを目標に放たれているわけで、こう聞くとクリエイティヴ(クソみたいな語彙)な活動をするというのはつらく、くるしく、自身を際限無く衰弱させる愚劣な行為、今すぐやめたほうがいいみたいな感じになるがそれはイデオロギーイデオロギー、と読みます)のせいと考えることができる。すなわち、この前提には創造性という概念が「何らかの美的*1な稀少性に拠って交換価値を持つ商品を創造する能力」と同一のものとして考えられており、例えばあなたが自室のトイレで大便を排泄した際、排泄した大便を流す前に、誰に見せるともなくそれを素手で加工し、瞬間的にしか存在しないさせる気もない塑像を毎回のように作っているとしても、それは以上の記述から全く商品価値を持たないため、創造性とはみなされないとされるのだ。あなたはこの私秘的大便塑造行為をやり終わったあとちゃんと手を洗っているか? ならいい。存分に励んでほしい。

 ともあれこのような状況下でもなおクリエイティヴ(クソみたいな語彙)な仕事で飯を食いたいという新参者が消滅しそうな気配は一向になく(というか私もクリエイティヴ((クソみたいな語彙))な仕事で飯を食いたいと思っている人間の一人であるが)、一切が謎めいている、というわけではないがそれはそれとして、クリエイティヴ(クソみたいな語彙)な仕事の他に、政治活動という分野がある。政治活動は一般にクリエイティヴ(クソみたいな語彙)な行為とみなされてはいない*2。それは「なんかあれ嫌すぎる、なんとかならんか、せなあかんやろ、せいや!」や、「こうしたらいいだろ、なんとかならんか、せなあかんやろ、せいや!」や、前述二文の末尾「せいや!」→「するぞ!」の変換によって得られる各種意識によって発生したり、なんとなくデモやっているからついていくか、なんか投票日だった、紙に特定の人名を書き、箱に投入するか、などといったバリエーションがあるがとにかくクリエイティヴ(クソみたいな語彙)な活動との大きな違いは、原則的に同志同士の競争過程という形を取らないところだ。「より強えーやつがカッケエ」みたいな話ではなく、とりあえず何らかの政治目標があったとして、それが実現したとすればそれに最も貢献したのは誰か、とかそいつは経済的に報われるべきだ、みたいなことはひとまず重要ではないということが言いたかった。今は「今からクリエイティヴ(クソみたいな語彙)な活動や政治活動をしようかな」という段階の人間の視点で話をしているんだ。制度論やら戦術論やら内ゲバの歴史やらの話はしていない。とにかく同志同士で消耗することなく何かを実現しようとする動き、少なくとも理想的には政治活動をそのように言っていい。いいだろ、言わせてくれ、頼みます。

 

 さてこうなってくるとなぜわざわざつらく、くるしく、自身を際限無く衰弱させる愚劣な行為(イデオロギー((イデオロギー、と読みます)))ことクリエイティヴ(クソみたいな語彙)な活動を止めて、政治活動に邁進しないのか不思議でしょうがなくなってくるように見えるが、見えるのは一瞬だけで、当然いくつか言いたいことが出てくる。①どっちもやればよくね?②やっぱ違いはデカくね?

 

 ①労働経済学から学べる画期的な知見として「一日には二十四時間ある」ということと、「経済主体には働いている時間と、働いていない時間がある」というものがあり、こういう風に書くとあんまりにもあんまりだがそう馬鹿にするものでもなくて、両立しようとするならクリエイティヴ(クソみたいな語彙)な活動と、それで食って行けなければ賃労働の時間と、政治活動の時間を平等に所与としてある24時間のうちで割り振らなければならない。だが厳しいことに、クリエイティヴ(クソみたいな語彙)な領域にある行為は、先述のイデオロギーと一体化している場合、あらゆる仕事の中でもトップレベルに位置する過酷な資本の投入を要求する。そら詩とかパンクスをすぐに反例に上げたくなる気持ちはわかるが、パンクスはそのジャンルの歴史的コンテクストに乗れるかがめちゃ大事で詩はそもそも売れてねえだろ! 創造行為の話じゃなくて「クリエイティヴ(クソみたいな語彙)な仕事」の話に専念させてくれというわけで話を戻すと、美的価値に基づく商品ジャンルは(特に現在)猛烈な速度で洗練していくが、個々の商品の洗練の度合いは、大体、生まれてきてからその商品を生み出すまでにクリエイターが関係領域に投入した時間と資本の量に比例する(映画の話をやめろ!)。「天才」という文字からは甘いにおいがしますね。しますか? 天才というのはそのように表示された文字で、それだけです。突き抜けたいなら他のことやってる場合ではない。この領域に新規参入するにあたり週5・8時間労働などというのは舐めきっており(例えば『天才による凡人のための短歌教室』を参照)、世間には夢の中で書いた文章を起床後現実に持ってこれる小説家まで存在するという。恐ろしい話であり生身の人間による365日24時間労働の可能性が示唆されたわけだが普通に寝たほうがいいという話もあり実践にあたっては諸説あるが諸説あるとかいい出したらここで投入される資本には具体的な活動ジャンルにもよるけど「ボーッとする」とか「遊びまくるとか」とか言ってしまえば「政治活動をしてみる」とかだって選択肢になりそうになってくると話が全部おじゃんになってしまう! どうしよう! 今のはなかったことにしてくれ! また脇道にそれてしまったので戻すと、クリエイティヴ(クソみたいな語彙)な行為を仕事にできるほど突き抜けられた人間は「競争社会の権化」みたいなことになってくる。マジ成功したいのに政治活動などやっている場合なのか? となるのももっともなことである(もうある程度突き抜けて時間や資本に余裕のあるやつの話はしていない、「今から〜しようかな」の人間の話だとさっきいった)。これらの話をぜんぶドブに捨てる例外があるが後述する。

 

 ②デカい。政治運動をするのと、評伝『大便師・大海軽暗』を執筆することの間にはやはり差がある*3。どこかで欲望というものがあって(パラメータ的な話だけど)、芸術やらエンタメやらなんやらに行く方向と、政治活動やらボランティアやらに行く方向と、人それぞれ偏りがあるように見える。やはりこの二つを両立させるのは難しいのか。しかし、差がなくなる場所というものが存在する。

 

 要するに、政治活動とクリエイティヴ(クソみたいな語彙)な仕事を完全に同一化するという選択肢があり、いわゆるファシズム(政治の美学化)であって、文字通り現実世界を制作するというアートに人生をぶっこむということは考えうる。大変困ったことであり、これに対してネチネチと(それこそクリエイティヴ((クソみたいな語彙))のように)反論を考えてもいいのだが、しない。ここでは、「お前のやってることが『世界を作り出すこと』っつったってその世界はフィクションでしょ。こっちの政治はノンフィクションな世界を作り出すアートなわけ。お前、ショボない?」と言われるシチュエーションに集中したほうがいい気がする。「アートとしてのファシズムが現実化しうる、考えうる限りで最も美的に魅力的な世界」に対して拮抗しうる「フィクショナルな世界」とはそもそもどういうことなのか、何が起きているのか、ここへきて確かに一切が急速に判明ではなくなってくるが*4、私は欲張りだからフィクションもノンフィクションも諦めたくはない。しかしこんなにガチガチな感じでやる必要があったんだろうか。自室のトイレで大便を排泄した際、排泄した大便を流す前に、誰に見せるともなくそれを素手で加工し、瞬間的にしか存在しないさせる気もない塑像を毎回のように作っているあなたのことを考えると、もう少し肩の力を抜いてやっていってもいい気がしている。

 

 

団鬼六先生、本当に申し訳ありませんでした。

 

本文中ではどスパルタみたいに見える書き方になってしまったが(とはいってもある程度いくとどスパルタ性も見えてくるのだが)、今から短歌を始めようとしている人への優しさが第一に伝わってくる。いい本だと思う。

 

「現実制作としてのアート=政治」を考える時、いつもここに立ち返ってくる。世界制作者=世界征服者としてのスターリン。この記事を書いていて、ボリス・グロイスは今でも自分が追っている数少ない批評家だということに気づいた。

 

 

 

 

*1:理想としての真善美というのはまだなんとなく受け入れられるものの、現実を分析するに当たっての対概念を考える時、真/偽、善/悪はまだいいとして、美の対概念となるとどうしてもモヤモヤしてしまう。境界を超えるにしてもそれには当然境界が前提されなければならないので、例えば美/醜と入れてみるが、これではあまりにもカバーされていないものが多すぎるし、しかしカバーされていないものをどの対概念でカバーしようかとなると、やはり美/?という感じがしてしまう。美という理念はどうも、真や善に比べてあまりに多大なものを背負わされている感がしなくもない。ともあれここでの美的はとりあえず美/非美とでもいうほかない二項を前提としているとおおらかに受け取ってほしい。ここを詰めはじめたら全然別の記事になっちゃうだろ。現在では美と、美の対概念になりそうなものとの境界がことごとく溶解しているように思われる。

*2:「政治とは可能性のアートである」という言葉があるが、それを踏まえれば「クリエイティヴ(クソみたいな語彙)な仕事とは可能性から/へのアートである」という形でひとまず差異を表現することができるかもしれない、が、本文にはうまく繋がらないなあということで以降本文が蛇足のように存在するわけである。というより書き終わってみると本文全体が蛇足だろというか全く凡庸なことしか言っていないな〜という気持ちになってすっきりした。

 本文に書いていることの大半は昨日寝る前にぼんやりと考えていたことであるが、どうしてこんなことを考えたのだろうと考えてみると、クリエイターに分類されるであろう多くの仕事は、(実質的に)フリーランスの個人が、巨大な生産技術と流通技術を持つ資本と協働することによってなされている。フリーランスという語は傭兵の謂であって、近年(マネタイズがいくらかでも可能になるようなインターネット各種インフラが整備されたのはデカい)なにかクリエイティヴなことをやろうという人間が増えているということはつまり傭兵志望者が増えているということか! 潜在的に増え続けている在野の兵士たち……おもしろ! ということはどういうことがいえるだろう……とイメージが短絡した結果だなあと思い至った。

 とはいえ特に結論部に関してはムヤムヤと折りに触れ思い出される問題だったし、書いてみて、そうか、そのように自分は思っていたのだな、と気づいたところがある。書かなくても考えることはできるが、書くと手をかける場所のようなものができるのを感じる。頭の中は見えないが文字は見えるということはとても大きいことなのだろう。大きいことといえば、自室のトイレで大便を排泄した際、排泄した大便を流す前に、誰に見せるともなくそれを素手で加工し、瞬間的にしか存在しないさせる気もない塑像を毎回のように作っている人間が一人もいない世界がこの世界だとしたら、どうだろう。それでいいと100%思いながら超過した5%くらいで「ちょっと寂しい……」と思うのではないだろうか。私はあなたに、自室のトイレで大便を排泄した際、排泄した大便を流す前に、誰に見せるともなくそれを素手で加工し、瞬間的にしか存在しないさせる気もない塑像を毎回のように作っている人間になって欲しいとは、全く、決して、100%思っていないし、無論超過した5%くらいでなって欲しいと思っているが、こうした秘めやかで過剰な欲求がかの大便師・大海軽暗を生み出したと言ってもいい。大海は「新宿の痔ならし屋」の異名を持つ、日本最強の大便師だった。大便師という言葉を聞いたことがなくても不思議ではない。かつて日本には「賭け排便」という博打があった。博打と言ってもなんのことはない。一本糞、この長さですべてが決まる。この一本糞をひり出す役目を負った者が「大便師」と呼ばれた。大きな勝負で他の大便師より短い糞を出してしまった大便師は、尻を拭く間もないまま命を奪われる危険さえある。そんな中、大海は勝ち続けた。圧倒的と言ってよかった。「一本勝負」とはちがい、「連チャン」ではただ長くひり出せばいいというものではない。予備糞を丁寧にコントロールし、今日の大一番がどこにあたるか、相手はどう考えているか、腸の調子はどうか、これらすべてを全身で読まなければならない。大海は「連チャン」でも負けなしだった。目にレントゲンがついていると言われた。相手の腸内が見えているかのように、絶妙な塩梅の一本糞をひり出し続けた。

 生前、「どうしてあなたは勝ち続けられるのか」という、それまでなんども浴びただろう質問に、寡黙だった彼がただ一度だけ答えたことがある。彼ははにかみ、洗ったばかりの左手でボサボサの頭をかきながら、こう言った。

 「固くなっちゃあダメだね。こっちがガチガチじゃあ、ウンコの機嫌が悪くなる」  

*3:「書くことそのものが政治的なのだ」と、後ろめたいものなしに言い切ることが可能な状態というのは、その時々の政治的状況との関わり合い抜きには考えられない。「言うだけならタダ」という粗暴な言い回しがあるが、少なくとも書くということについて考えるに当たっては、この粗暴さをもっとも残酷な水準で受け止める気持ちはどこかで持っておいたほうがいいと思う。

*4:似た類型の話として、「理想世界においてフィクションは制作されるか?」というものがある。これに対してはプラトンの「詩人追放論」を経由して考えたことがある。理想国家というものがあって、詩人は現に追放されたのだと考えてみる。詩人がその詩により風紀を乱すから理想国家が実現されないという類の、詩人を原因とみなす考え方より、詩人が存在するのでここは理想国家ではない、と逆向きに考えるほうが私にはしっくりくる。信号としての詩人。私は人間の創造欲求というものを純粋な良きものとはとても考えられない。それは途方もなくややこしく、困ったもんですなあとなる類のものだろうという直感を今でもずっと抱いている。

TARの足と才能について

 映画『TAR/ター』を観て、まだ映画館でやっていてよかったと思った。

gaga.ne.jp

 エンドロールから始まるところで男性の声がして、「自然な感じで歌ってごらん」的なことを言っていた気がする(何しろ3時間近くあり、最初の方のセリフや声の質感までは覚えられなかった。大概オペラは3時間とか4時間とかあって暗譜しなくてもいいとはいえよく振れるものだと思う)。女の子の歌う声がして、ちょっと緊張に由来しているような喉の苦しさと音程のブレがある。終わるとターが立っている。もう苦しそうであり、人間の苦悶に満ちた表情と仕草のバリエーションの豊富さがあらためて確認され、この人はもうすでに大変な状態にあるんだなと思う。

 

 素晴らしい対談シーンのことを映画が終わった後で思い出してみると、(『トリビアの泉』を観ていた世代には常識であろう)リュリのエピソードがあった。初の独立した指揮者リュリは杖で指揮をしていた。床を打ち鳴らすのだがそれが手へと移っていったのは、あるときリュリの突いていた指揮杖が足を貫いてそのまま死んでしまったからだ。ターは指揮者が時間を支配するという、それは手によって行われるのだが、この映画で印象に残ったのは手の動きよりもむしろ足の部分だった。

 

 トイレの扉の隙間から覗く足元、ブラインドオーディションの衝立の隙間から覗く足元(この連関で落選したチェリストがいた)。ペトラは足を握ってくれという。劇中唯一第四の壁を超えているかにみえる、ペトラとターが急にカメラの方へ振り返るシーンも、ターがペトラの足を握っているときに起こったことだ。マジで無茶苦茶な部屋に住んでいる隣人に呼ばれ、何がなんだかよくわからんがとにかく大変なことになっていて倒れている同居人?の足首を持たされるターは自室に帰った後全部脱いでいるが洗面台の前で執拗に洗うのは足である。本番、マーラーの5番冒頭をBGMに、彼女は舞台へ上がってきて、指揮者をはっ倒す、その手は時間を止める、そして転がった指揮者を足で踏みつける。もうBGMは鳴っていなくて、それはBGMではなかったからで、時間は止まっているということになっている舞台の上で、彼女は転がった指揮者を足で踏みつける。リュリが昔、指揮棒として使っていた杖で自分の足を刺して死んだ。時間が止まっているので、誰も死んでいないとも言えるし、誰も生きていないとも言えるが、殺すことはできない。彼女は指揮者ではないから。

 

 足といえば忘れてはいけないことがあって、ドイツ・グラモフォンのレコードを景気よく床にバラまいて、足でぞんざいにより分けていくシーン。2つの足が指し示したのはクラウディオ・アバドベルリン・フィルによるグスタフ・マーラー交響曲第5番』、1993年5月のライブ録音。どうしてアバドだったんだろう。確かにターがこれから挑もうとしているのは5番のライブ録音であり条件としては一致しているが、それだけで済ませていいことなんだろうか。

 ターの人物造形のネタ元としてはアバドより明らかに近いカラヤンでもなく(出られなくなったチェリストの代役の採否にはじまり、エルガーの協奏曲のソリスト選定にまで至る、オルガを巡るオーディションのいざこざがザビーネ・マイヤー事件を思い起こさせるというのは確かにと思った)、自分の師匠だというバーンスタインでもなく、アバドアバドベルリン・フィルの前任カラヤンのようなカリスマ指揮者ではない。バーンスタインみたいに自分自身が音楽だと言わんばかりに燃え上がるカリスマ指揮者でもない。とにかくアバドは少なくとも(音楽面においては)ターに似ていない。いやカリスマはあったといえるのかもしれないが、音はカリスマの音ではない。トップダウンというよりボトムアップ、しかも音楽の底の底、まだ知られていないがたしかにはじめからそこにあったボトムから音を引き出してくる人であり、なにより演奏者たちと一緒に引き出してくる人だ、という印象がある。ルツェルン祝祭管弦楽団という、地球上のうまいやつ全員いれる気なんかというスーパー・オーケストラのマーラーにしたって、それはクラウディオ・アバドという稀有な人間性の持ち主だったからこそ成立し得たのであり、そういったものはターが意識してか知らずかかなぐり捨ててきたものだろう。あとアバドはオペラを振りまくっているが、ターにそのような描写はなかった。そんな彼女が来るべき新盤のジャケットをアバドに似せようとする、というかそもそも、どうして彼女はこんなに真似をしたがるのだろう。カプランには「人真似とかやめろ、自分で考えろ」みたいに言っていたのに(そしてそれすらメモ帳に書き残すカプランのことを、ちょっと物悲しい気持ちで思い出してしまった、今)。

 

 リディア・ターはペトラ以外の他人と向き合う時、相手の話を本当に聞くということができない。プログラムでの指導にしたってそうだし、フランチェスカにせよシャロンにせよ、とにかく間がない。すぐ威嚇するように、上から返答する(キスシーンの前にLi'l Darlin'とは!)。指揮台は高く、ケイト・ブランシェットの身長はすごく高い。クラシック音楽と称される西洋音楽への憎しみは、その音が人間を疎外するところからはじまるように思える。かつて純正律による倍音は、その音を歌っている人間がいないにもかかわらず聴こえるがゆえに、「天使の声」といわれたりしていたのだった。いっぽうで、幻聴にせよ、家電の振動にせよ、一人でいる時のターは恐ろしいほどよく聴く人で、なんならその音を楽譜に書き写すところまでいく。この差は何なんだろうと思ったときに、またオルガのことを思い出す。

 

 リディア・ターを演じるケイト・ブランシェットの指揮は酷い。いや別に酷くない映像作品の方が珍しくてそれは悪くない(ジャストならともかく、先振りができていた俳優を観た記憶がない)。俳優はプロの指揮者ではないから。後ろや周りがプロなので、シャロンの弓使いも指使いも酷いことが際立つのと同じようにありふれたことで、普通の音楽映画を観た感想というのなら意識に上ることすらないと思う。だがこの映画は普通の映画ではなくTARなので、書かなくてはいけない。

 というのも、チェリストのオルガ・メトキーナの身体技術が尋常ではないからで、観ながら俳優にしては上手すぎる、本職じゃないのか? と思って調べてみたらオルガ役のゾフィー・カウアーはプロのチェリストだったので安心したがそれで終わることはできなくて、そのせいで「リディア・ター」の指揮のみじめさがあらわになる。ところどころ演奏に遅れてしまっているシーンまであり、演奏に置いていかれるなど指揮者失格ということになるのだが、翻って思い出すと、ターは暗雲漂うアメリカでの出版イベントにオルガを連れてきているが、オルガには言葉が陳腐、クソなどとめちゃくちゃ馬鹿にされている。彼女がジャケットを誰か似せようとすること(他のジャンルでは先行作品やアーティストへのリスペクトとして似たジャケットを作ることはよくある気がするが、基本的に作曲家・演奏家の肖像がオーソドックスなクラシック音楽のジャケット業界には、そのようなリスペクトの文化はないような気がする)、カプランに人真似を止め、自分で考えるよう言っていたこと、それらが繋がってしまい、どうしてもこう思ってしまう。ターには「才能」なんてあるのか?

 

 YouTubeでデュ・プレのエルガーを聴いてチェロを初めたというオルガはその演奏の指揮者バレンボイムのことには興味がなかった(バレンボイムはデュ・プレの夫でもあった。オルガは結婚に興味がなく、くまのぬいぐるみを持っている。ペトラは家の床にぬいぐるみをならべて、鉛筆を民主主義的に行き渡らせようとしている)。じゃあターはどのように音楽をはじめたのだろう。バーンスタインに師事していたのではないのか。そうではない気がする。流れ着いた「実家(?)」で、彼女は思い出のクローゼットの中からVHSを取り出す。そこには白黒のバーンスタインがいて、ターに語りかけている。ターは泣いている。手が顔を覆い隠しているので、どんな顔をしているのかよくわからない。VHSとYouTube。今から輝いていくだろうオルガと、もう輝くどころの話ではなくなっているだろうターのあいだに、意外と距離はなかったんじゃないだろうか。最初のきらめきの場所の話であって人間関係のことではない。

 

 自分はテレビゲーム・ビデオゲームと無縁の人生を送ってきてしまったため(デジタルゲームにまで広げたとしても『艦砲射撃・甲改』の話くらいしかすることができない、あれは素晴らしいFlashゲームだった)、最後のシーンの流れている曲が調べないと分からなかった。この映画を観る人間としては致命的なことだがそれでも思ったことはあって、彼女は冒頭のシーンのように舞台袖ですごいことになったりしていない。楽屋でまだ楽譜をみている。そして舞台に出てくる。そのリディア・ターはとても小さい、こぢんまりしている。カメラの焦点が彼女にあっていないということではないけれど、カメラの中心はもう彼女ではないように見える。拍手もベルリンより大きくない。さあ振り始めるということになって、誰かが後ろから彼女に近づいて、ヘッドマイクを被せる。演奏が始まる。舞台の上から幕が下りてくる。彼女の演奏は観客に届くことはないし彼女にも届くことはないと一瞬思う。それは緞帳ではなかった。スクリーンに映像が映し出され、ナレーションが始まる。客席には多種多様なコスチュームに身を包んだ人々が、静かにしている。このときの自分はこれがゲーム音楽の演奏会だということを知りようがなかったので、なにか異様な儀式のようなものを観ている気がしている。彼らは今からどこかへいくのだろうかと思っている。今はゲーム音楽だということを知っているので、それがコスプレをしたファンの観客なんだと思う。けれど同じことを思っているところがあって、クラシック音楽のコンサートというのは静かにしていること、動かないことを公然のルールとしている代表的なジャンルで、昔はそうじゃなかったけれど今は同じルールをもっている似たものとして映画館がある。彼らの身体からゲームの世界の記憶に突き動かされた同調現象のようなものは見えなくて、彼らはただ音楽を聴いている。多分ターが指揮をしている。

 

 経験の貧困、それは(正確に言えばWWI後のドイツで)経験から語られる言葉の不可逆的な貧困さのことだけれどそういうことを言い出したベンヤミンという人が死んでからもうだいぶ経っていて、現代の言葉の貧困なんて自分が書くことはとても恥ずかしくてできることではないけれど、VHSの白黒のバーンスタインが言っていたように、感情には言葉で名前をつけることができるものもあるが、音楽はそうしようがない感情にまでしっくりきてくれることがある、ということへ向かっていく人間たちまでもが、言葉を使うこと、使わざるをえないことについて自分はどんな言葉を持っているだろうか。音楽へ向かっていく人間が口にしたり書いたりタイピングしたりフリックしたりする言葉とは、その人が本当に発していい、いや、発したいと思っている音なのかどうか。そして発されてしまった言葉について、どのように聞くことができるのだろうか。音楽は半分くらい人間じゃない気がするけれども、音楽へ向かっていく人間は人間でしかないはずで、逆さまになった裏切り者のTARが(彼女は画面に映らないほどの遠い昔にまずもって自分の涙を裏切ったのだろうと思う)迎えるエンディングはもはや何にがんじがらめになっているか分からなくなるほどのがんじがらめによる舞台袖の痙攣でしかない。しかしそれでもエンドロールはあって、そこでは不器用な女の子の歌声があるのだけど、顔もわからない男性の優しい声色も聴こえる。そう、あの声は優しい声だったと思う。

 

 

音楽の「力」について考える時どうしてかここに戻ってきてしまう。

 

アバドの一番好きなマーラーが5番でもベルリン・フィルでもないことに、申し訳ないという気持ちが、少しだけ、あります。