ただの一滴もいつかは大海へ

特にこだわりもなく、継続が苦手な人間が一つ一つ新たなことを学び、その過程や得られた結果を報告するブログです。

仕事の雑感

 

案の定、書くことに馴染みを憶える前に筆不精になってしまったので、更にハードルを下げて、とりあえず思った事について書くだけにしてみました。

 

今日感じた事として、

人は立つ時に足の裏に体重は掛かっていて、骨の上に骨が乗っている積み木と考えた場合、ほぼほぼ力は必要としない(もちろん最低限は必要)。

 

けども、病院でリハビリを受ける方々は皆立つとフラフラするし、めっちゃ力を入れて立とうとする。場合によっては腕で思いっきり物にしがみついている人も。

 

この時点で筋力が問題では無いだろうなと分かるはずなのに、世の中の医療職は「筋力が弱いから」で済ましてしまう。周りにそう言われるもんだから、本人も「筋肉をつけないとねえ」みたいなことになる。

 

もちろん筋肉をつけることが間違っちゃいないけども、立つための筋肉をつけるのは目的がズレてる。まずは体重の乗せ方を伝えてあげる事が目的でしょうと。乗せる足の位置、その時の感覚、踏ん張ってた時と比べた際の楽さ。

 

もし恐怖心が強いのなら座った姿勢で頭、胴体、骨盤で楽に支えられる場所を一緒に探してあげる。

 

座るのが無理なら寝たままで楽な位置を。

 

もし立てないならそっからでしょ。

非習慣の積み重ね

 

今日はセミナーにてお勉強をしてきました。

 

自分の身体を通して、今までに持ち合わせていなかった、もしくは昔々に捨ててしまった動きを学んでいくセミナーです。

 

 

 

その場に見合う動きができるようになると余分な緊張は取れるし、動きが楽になる。

 

下手に筋肉を付けなくてもパフォーマンスが向上する、かもしれない。

 

もちろんスポーツになると筋肉は必要だけど、必要以上には付ける意味は少ないと思う。

 

 

 

動き以外にも気付きをくれるセミナー。

 

ただ教えてくれる訳ではなく、自分自身で気付かないと何が良くなったかは分からないままという、人によっては不親切ともとれるセミナー。

 

 

 

けど、分からないことに気付いた時にはすごく楽しいし、気持ちも良いもので。

 

非習慣的な動きは馴染むまでは違和感でしか無いけども、それを通り越すと非常に心地よく楽に動く。

 

きっとこれは動きだけでなく普段の行動や考え方とも共通する部分で、自分自身を良い方向へ変化させるためには馴染みのないことにどんどん触れていくのが大切。

 

その積み重ねをし続けることが、楽しい人生に繋がっていくのだろうと確信に近いものを得ました。

 

毎日が成長です。

違いを感じる

 

段々と冬に近付いてくるとポスターやスマホの日付ではなく、肌から感じてきますね。

 

現在、うちの病院へ学生が実習に来ていますが、自分が学生だったときを彷彿とさせます。

 

「この病気ならこうしたらいいんですね!」

 

「この時はこのアプローチをしたらいいんですね!」

 

 

 

いやいや、ちょっとまって。間違ってないけど間違ってる。

 

その見方、患者さんをみてないよー。

 

そうなんです。病気の治療で薬を処方するのとは違って、僕たちは身体の動きを楽にするお手伝いをするのが目的です。

 

一人一人生きてきた道は違ってるので、ちょっとした癖や習慣は違ってきます。

 

なので、同じ病気でも動き方や問題点はちょっとずつ違ってきます。

 

 

 

その動きのちょっとした違いを感じる。

 

それはきっとリハビリだけじゃなく、生活の中でも同じなはず。

 

違いを感じて食事をする、座る姿勢をとる、歩く。

 

そんなちょっとの違いを感じられるようになるときっと人生は幸せになれるんじゃないかと思いながら明日も仕事を頑張ります。

内言の表出

 

簡単に言うと、体験して感じたことを言葉や文字に表すということ

 

その際にどうしても言葉がうまく変換出来なくていつも語弊を生んでしまう

 

 

 

今までのブログの記事も、それっぽいことを書いてるけども中身はない薄っぺらな言葉

 

徒然に書くのは悪くないが、虎の威を借りて放った言葉が過ぎる

 

結局自分の腑にも落ちていない言葉を遣うほどダサいことはない

 

 

 

まずは日々の中で快く感じたことを言葉にする備忘録としてこのブログを活用していきたい

 

本来の目的とは異なるかもしれないが、それもまた大海となるための一滴

 

 

 

人より歩みは遅いけど、進むしかない

 

と、思うようになっただけでも成長かな

焦りばかりが募る

 

他者と比べてはいけない

 

という言葉が逆に重石になる

 

よく臨床で、

 

「○○へは意識しないでくださいね」

 

というが、言われると逆に意識してしまうのが人の習性

 

今自分がそんな言葉を言われている感じ

 

 

 

どうしても目立つ人たちが目に映って、

 

「あぁ、自分は全然動けていないのに、同年代の奴らや歳下がどんどん輝いていってるな」

 

と卑屈になってしまう

 

 

 

もちろん一つ一つ、自分もやるべき事はやっているが、

 

あまりにも牛歩

 

あまりにも亀の歩み

 

進んでるのか止まっているのか分からない

 

そうこうしている内にモチベーションという燃料が切れる

 

 

 

燃料は誰かへ有言すること

 

締め切りを作ること

 

分かってはいるけども、怠ける習慣が中々抜けない

 

 

 

とりあえずそんな時は、僅かでも進んでいる自分を褒めてやる

 

形だけでもいいから

 

よくやってるぞ、自分

響く言葉

心に響く言葉、響かない言葉

 

その違いって一体何なのか

 

 

 

分かりやすさ?聴き馴染みのないフレーズ?

 

 

 

いや、きっと内容もそうだけど、それを誰が言ったかが重要だと思う

 

同じことを言っても、反応が違うって経験をよくする

 

あの人と同じ言葉を言ったのに、相手の反応が全然違う

 

 

 

それはきっと、その人の経験してきた重みの違い、考え方の違い

 

 

 

生きていく上での様々な事象について思い、考えた上での産まれてきた言葉だと思う

 

それを人が容易く引用して使ったところで、バックボーンが違うから相手には響かない

 

聞いている人もその内容の重み、発した言葉の質感はしっかりと伝わっているはず

 

 

 

虎の威を借る狐はいつまでも狐

 

別に狐のままでいい

 

狐なりに生きてきて得られたものがあるならそれはきっと強く、響く言葉になるはず

慣れ

難しくて何回も失敗したことが、段々成功するようになって、いつの間にか無意識でも出来るようになったこと

 

が、慣れなのかなと何となく自分の中で定義している

 

上の文章の中の

 

「無意識でも」

 

は中々に厄介

 

 

 

無意識ということは、意識をしていない

 

つまり、意識が自分の中にない状態である

 

ということ

 

いやいや、意識はあるがな、ただ動かしている方に気が向いてないだけ

 

ってなるんだけども

 

 

 

動かしている部分はやっぱり自分の意思と離れて勝手に動いてますよね

 

 

 

もちろん、日常で一つ一つのことに全て気を回していたら、疲れて夜まで持たないわってなると思う

 

ただ、逆に僕らは普段の生活で、自分のやっている行為に、意識を向ける時間ってどれだけあるだろうか

 

いや、ほぼない(反語)

 

おそらく自分の感じている瞬間、頭は違うことを考えていたり、並行作業で違うことをしていると思う

 

思い当たる節はあるし、自分自身も今日の食事中に携帯を見ていた

 

 

 

慣れることで何が問題なのかって話だけども

 

それだけ、自分の感覚を無視しているってことは

 

 

 

段々自身が認識している自分が解離していくということ

 

 

 

本来受けている感覚の量と、感じている量が違っているということはそういうこと

 

無意識で動いている、とはそういうこと

 

慣れ、とはそういうこと

 

 

 

慣れが全て悪い訳ではないし、生活を円滑にするための手段なので必要なものだけども、そればっかり頼って、意識が他に向いていると自分というものがズレていきますよって話

 

 

 

もちろんこれが科学的に証明されているかは分からないけども、少なくとも身体のイメージでいえば証明されている内容

 

なので、自分の戒めとして、自分の行為に意識を向け、おかしいなと思う動きがあれば変化させてみる、という遊びを明日一日課してみる