自己肯定感はどのように育まれるのか(2)

 前回のブログでは、自己を形成する要素として、「身体」と「文化」について検討してきました。

 今回のブログでは、3つ目の要素としての「言語」について説明したいと思います。

 

自己は名付けられることから始まる

 ここで言う「言語」とは、他者から与えられ、教えられる言葉のことを指します。人は生まれた直後から、他者から声をかけられ、言葉を与え続けられます。こうした環境の中で、人は言語の世界に入っていくわけですが、その際に重要な出来事が、他者から名づけられることです。

 人は誕生した時点で、それぞれ名前が付けられます。この名前には、様々な意味が付与されています。個人の名前は、名字と個々に名付けられる狭義の名前に分けられます。名字には、代々の家系に受け継がれてきた歴史が存在しています。何代も前から引き継がれてきた家があり、その歴史の中に位置づけられた今の家があることを名字は意味しています。

 一方、狭義の名前は、両親や親族から与えられる固有の名称です。この名称には、両親や親族からこのような人物になって欲しい、またはこのような人生を歩んで欲しいという願いが込められています。

 このように名前には、家系に刻まれた歴史、そして子どもに対する家族の願望が込められています。これらの意味が込められた名前が、「自己」の出発点になっているのです。

 

自己の存在根拠は他者にある

 自己の出発点が他者に名づけられて始まることから、自己の存在根拠は他者にあることが分かります。

 自己は、社会的要請によって親から名付けられ、親の願望や欲望によって方向づけられることでその原型が形成されます。この時点で親に必要とされなければ、自己の存在根拠は希薄なものとなりますし、そもそも名づけられることがなければ、自己自体が存在しないことになります(その場合は、別の他者によって異なった自己として出発することになります)。そして、その後にも、親以外の他者との偶然とも言える関わりを重ね、彼らの願望や欲望にも影響を受けながら自己は形づくられます。もちろん、自己は他者によって一方的に規定されるわけではなく、自らの性質や欲望によっても形成されます。

 こうして自己は、自己の欲望と他者の欲望がせめぎ合う中で、自らの性質が他者からの影響を受けることによって作り上げられています。したがって、どのような環境の中で人生を送ろうと必ず同じ自己になるということはあり得ないことであり、逆に言えば、現在の自己が必然的にこうなるはずだという根拠は、実は存在していないのです。

 

存在根拠を遡れば神話に行き着く

 別の言い方で譬えると、自己とは、「私はこのような存在である」というテーマで生涯を綴った「物語」に支えられています。物語のストーリーは多様な可能性を含んでいますが、テーマである私の存在理由については架空の前提を出発点としています。
 一般に青年期において、「私とは何者であるのか」という自己の出発点を追求し始めることは、精神の危機的状況を招く可能性を孕んでいます。なぜなら、自己の出発点において、自己の存在根拠を与えてくれる絶対的な確証は存在しないからです。上述したように、自己は社会(または社会の構成要素としての家族)の要請によって、他者から名づけられた存在として出発しています。つまり、自己の存在理由は他者にあるのです。しかも、他者による存在理由も確固としたものではありません。その他者自体も、別の他者から名づけられた存在に過ぎないからです。
 こうして他者による存在理由を遡って行くと、それは社会全体の存在理由に行き着くことになります。しかし、その社会とて絶対的な存在ではありません。社会もまた人工の産物であり、だからこそ、社会や文化の起源には触れてはならない神話が必要になるのです。

 

人は本能によって生きられなくなった

 自己は、社会的要請によって親から名づけられ、親の願望によって方向づけられることでその原型が形成されますが、親の願望の原点である欲望についても、一言触れておきたいと思います。

 前回のブログで、文化とは、自然の摂理から離反することによって生じた独自の適応方法・行動様式であると指摘しました。文化が発達するに従い、人は自然環境に働きかけて人工の環境を創り、この環境の中で独自の生活様式や習慣を持って生きるようになりました。つまり、文化の発達は人工の生活環境を創造することへと進展し、それは人々の生活を自然環境から遠ざけることに繋がりました。このように文化によって人工の環境が創られ、人々が人工の環境の中で生きるようになると、環境と本能の満足との間にズレが生じ、環境と本能の役割が一致しなくなるという問題が生じます。
 人間の本能は、文化を持つ直前の段階では、自然環境に対応するように作られていました。つまり、人間の本能は本来、自然環境の中でサルの一種として生きて行くように設定されていたはずです。しかし、文化を持った人間は、それ以降生物的な進化ではなく、文化によって生き延びる道を選択しました。文化によって創られた人工の環境は、自然環境とは異なっています。文化が発達すればするほど、この違いは大きくなります。すると人間の本能は、人工の環境の中でますます役に立たなくなったのです。

 その結果、文化で創られた人工の環境の中で、人間は本能に従って生きることができなくなりました。そのため人間は、本能に代わる生きる指針を新たに創り出さねばなりませんでした。それが、文化によって定められたその文化に固有の「掟」でした。

 

欲望は文化によって絡め取られている
 一方で、人間が文化の掟に従って生きるようになると、人間の本能は役割を果たさなくなっただけでなく、満足を得る対象を失うことになりました。動物の本能は、自然環境の中で適応するように設定されており、生きて行くための行動が取れれば満足を得られるように仕組まれています。しかし、人間の場合は、本能が想定していた自然環境とは異なる人工の環境の中で生き、文化の掟によって本能の満足が目指す方向とは異なる行動をとるようになりました。そのため文化に従って生活を営めば、必然的に本能の満足を得ることはできなくなるのでした。
 こうして人間の本能は永久に満足の対象を失い、対象を失った本能は、際限のない欲求を求め続けるようになりました。人間の本能は、もはや環境に適応するための本能と呼べるものではなくなり、人間には本能の名残、つまり決して満足を得ることのない多様な「欲動」が残されました。さらに欲動は、文化による影響を受けて多種多様な欲望を生み出すことになったのです。

 このように、文化によって生きる指針を与えられている人間は、本能に従って生きられなくなり、文化に絡め取られた欲望に翻弄されるようになりました。自己の原点は、文化に絡め取られた、いわば本能からは歪んだ欲望によって方向付けられています。そのために自己は、その成立の原点において、必然性や蓋然性を欠いた不安定な要素を内包することになりました。

 

 以上のように自己は、本能に基盤を置くことがない、他者の欲望に左右される不安定な存在であると考えられます。そして、その基盤は、文化の根底をなす神話に根拠をおいているという不確かな存在でもありました。

 では、基盤が不安定である自己は、どうすれば確固たる存在となり得るのでしょうか。(続く)