13.誤解、そして旅立ち(ウィルマリア編)
どうしよう、どうしよう、どうしよう───……!
この場から逃げ出したいと思うのに、ラザールの視線から逃れられない。
それどころか、自分の視線をラザールから逸らす事さえ出来なくて、思わずゴクリと唾を飲み込む。
「は、話……?」
「うん。そう。昨日の朝の話」
「………っ」
────もう、ダメだ……!
ここまで言われたら、昨日のキスの話以外あるわけが無い。
頭が一瞬にして真っ白になって唇が僅かに震える。
「あ、……アタ、シ……」
「うん」
「……………」
バレていた事への焦りなのか羞恥なのか、顔がぶわりと熱くなって一気に頭がグルグルしてくる。
今までキスを拒まれていたにも関わらず、我慢できずに自分からしてしまった羞恥と、それをこうやって恋人に問い質される事への虚しさで更にカッと頭に血が昇る。
───……ヤバイ。泣きそうだ。
素直に謝る──それが出来れば苦労はしないのだけど、アタシはその場でスクッと立ち上がり、キッとラザールを睨み付けた。
「……悪かったわねっ! 変な事して! もうニ度としないから安心して!」
……あまりにも自分の可愛げの無さに、悔しくて目頭がジワリと熱くなる。
驚いたように目を見開いたラザールを一瞥して、アタシは目元をグイッと拳で拭い、帰ろうと勢いよく彼に背を向けた。
それからまさに一歩、踏み出そうとした瞬間。
「はい、ストップ」
「……っ!」
左手首を掴まれ、後ろにグイッと軽く引っ張られる。思わず身体がよろけて背中から倒れると思った次の瞬間、スッポリとラザールの腕の中に収まっていた。
「え、ちょっ……ラザール!?」
驚いて彼の腕の中で身を捩り、ラザールの顔を正面から見上げる。すると彼は、少し困ったように眉尻を下げてふわりと笑った。
「ウィルマリアさん、勘違いしてる。私が話したかったのは、昨日の朝のような事をこれから私の方からしても大丈夫なのかって事を聞きたかったんだけど……」
「……え? ど、どういう事!?」
「えーっと、だから───」
そう何か言いかけて、ラザールはアタシの額にコツンと自分の額を当てて来た。
ち、近いっ!!!! 顔が物凄く近いっ!!!!
ドッドッドッドッと、あまりの心臓の煩さとのぼせてしまいそうな程の顔の熱さに今にも倒れそうだ。
それに、あと少しでも動いたら唇が触れてしまいそうで思わず目をギュッと瞑る。
「うん。こういう事」
「…………え?」
唇が触れるでもなく、ラザールの少し残念そうな声と顔が離れていく気配に目を開けると、眉尻を下げて苦笑いするラザールと目が合った。
「ウィルマリアさんは私が触れると、いつも今みたいに身体が強張るんだ。だからまだ、もう少し慣れてからの方がいいのかなって」
「え………あっ……!」
ラザールにそう言われてハッとする。
確かに、今までのラザールとのどの触れ合いを思い出しても、アタシは極度の緊張から身体が固まっていた気がする。
けれど、触れてほしくなかった訳では決してない。
それをどう伝えれば良いのか分からなくて、アタシは顔を俯けてラザールの服をぎゅっと握った。
「だ、だって、仕方がないじゃない。アタシはラザールが全部初めてなんだし、……もっとたくさん触れてくれなくちゃ、アタシだって慣れないっ」
ラザールの過去の恋人を思い出して、ズキリと胸が痛む。アタシは全部初めてでもラザールは違う。
この国では“情念の炎”や“色づかぬ果実”を使用しない限り、初めて付き合った人と添い遂げる人が多いけれど、アタシ達の場合はそうじゃない。
それは当然ラザールが悪いわけでもないし、そんなに珍しい事でもないけれど、アタシの胸のモヤモヤはずっと残ったままだ。
何も答えないラザールが気になって下から見上げると、何故か口元を右手で覆っていた彼はパッとアタシから顔を逸らした。
「ラザール?」
「……いや、ゴメン。これは……参ったなぁ」
そうぼそりと呟くように言ったラザールをよく見ると、彼の耳が真っ赤に染まっているのが見える。
えっ、と驚いて背伸びをするように顔を覗き込むと、今まで見た事がないくらいラザールの顔が真っ赤だ。
驚きと共につられてアタシの顔もジワリと熱くなる。
「え……、あ、の……」
ドキドキと心臓の音が煩くて、最早どちらの心臓の音なのか分からない。
観念したようにゆっくりとアタシの方へと顔を戻したラザールは、口元は手で隠れているけれどやっぱり真っ赤だ。
「……ゴメン。まさかそんなにストレートに言われるとは思ってなかったから」
「え……? あっ……!」
自分で言った言葉を慌てて思い返して気付く。
アタシ、ラザールにもっとたくさん触れろって言ったの!?
顔から火が出るんじゃないかってくらい一気に体温が上がる。そんなアタシを見て、ラザールがふはっと柔らかく笑った。
「……焦らず、ゆっくり進もうか。でも、私も遠慮はもうしない事にする。二度と触れられないのは困るからね」
アタシの頭を撫でながら目線の位置を合わせて屈んだラザールが、ふと目を細めて少し意地悪く笑った。
自分で言った言葉を思い出して、カッと頬の赤みが増していく。
悔しいけれどラザールは、やっぱりアタシよりもずっと大人だ。
そんな彼を少しでも翻弄してやりたくて、アタシはラザールの服をギュッと握り上目遣いでジッと彼を見つめた。
遠慮しないんでしょう? と意思を込めた瞳で、彼を少しだけ挑発してみる。
するとラザールは、ふと小さく笑って、
「軽くだったら大丈夫?」
と、確認してきた。
律儀だな、と思いつつも“何が”とは言わない彼に、心の準備をする僅かな時間を与えられた私もコクリと頷く。
ゆっくりとラザールが近づいてくる事にドキドキしつつもそっと目を閉じると、唇にチュッと軽く触れて離れていった。
本当に軽くだったなぁと、少しだけ心に余裕が生まれて目を開けると、更にチュッ、チュッと額や頬、鼻先、そして何度も唇へと軽くキスされてパニックになる。
「ちょっ……待っ……ラザールッ!? 軽くって、あのっ、……一回じゃ、ないの……!?」
逆上せるんじゃないかってくらい全身が熱くて、必死にラザールの胸へと手を置いて距離を取ろうともがく。
するとアタシの耳元にチュッとキスを落としたラザールは、「そんな事言ったかな?」とアタシの耳元で囁くと、また唇へと軽いキスを繰り返してきた。
そ、そんな事、言ってはいないけれど……!
でも軽くなんて言われたら、誰だって一回なのかなって思うでしょう!?
嬉しいけれど状況に心が追い付かなくて、ドキドキし過ぎて足腰に力が入らなくなってくる。
「も、無理……」と、足元から崩れ落ちそうになるアタシをラザールがグッと腕で引き寄せて支えてくれた。
「……ゴメン。やり過ぎた」
「ゆ、ゆっくりって言った」
「うん、ゴメン。反省してる」
眉尻を下げたラザールに顔を覗き込まれて、嬉しいやら恥ずかしいやらでアタシは顔を見られないように彼にギュッと抱きついた。
「ふ、ふふふ深く、は、あの、もうちょっと慣れてからで……お願い……します」
「ハハッ! うん、了解ー」
やっぱりラザールは、いつでも余裕で腹が立つ。
絶対いつかはアタシが翻弄してやるんだから! と心に誓いつつ彼にもう一度ぎゅっと抱きついた。
***
最近、やっと仕事にも慣れてきて行事も上手くこなせるようになってきた。
ラザールとの交際も順調で、正直なところ少しの間も離れていたくはないのだけれど……そろそろ遊学でオスキツ国王の国に行かなければいけないのだ。
王家の人間は代々、国をより良い方向へと導く為に時間軸の違う王国へと一定期間遊学に赴く事になっている。
行き先は自分で決められる為、アタシは以前この国に遊学に来ていた彼らの国に行こうとずっと前から決めていたのだ。
ブヴァール家のみんなに久々に会えるのは楽しみだけれど、ラザールと離れるのは少し、いやかなり憂鬱で正直気分が全然上がらない。
「……はぁー」
父さんの肖像画を見つめながら、今日何度目か分からない大きな溜息を吐く。
ラザールも一緒に行ければいいのに、なんてあり得ない事を考えながら、もう一度父さんの肖像画に視線を移してハッとする。
そうだ……! そうだよ……っ!
なんでこんな簡単な事に気付かなかったんだろう!
なにも“他の国”に固執しなくても、時間軸の違う国であるならば、遊学はどこでもいいはずなのだ。
となれば、アタシが行きたい国はただ一つ……!
さっきまでの憂鬱な気持ちが一気に吹き飛んで、今度はワクワクしてくる。
単純なアタシは、三日後に迫る遊学の日に向けて、大急ぎで仕立て屋へ向かうべく城を飛び出した。
***
旅立ちの朝、港に立つアタシのお見送りにラザールが来てくれた。
彼はお人好しな性格ではあるけれど、ちょっと心配性でもある。アタシが寝坊して朝ごはん抜きで国の行事に出たりすると、こうやって必ずお弁当を届けてくれたりするのだ。
でも今朝は、流石に母さんに起こされて朝ごはんはしっかり食べさせられたのだけれど。
心配そうな顔でお弁当を差し出すラザールに、嬉しくてアタシは笑顔で頷いた。
「ありがとう、ラザール。船の中で食べるね!」
流石ラザール。アタシの大好きなラゴサンドのお弁当だ。
お弁当を笑顔で受け取ろうと両手を差し出すと、左手首を掴まれてグイッとラザールの方へと引っ張られた。
あっという間に彼の腕の中にいる事に驚いて顔を上げると、ラザールがふわりと笑う。
一気に胸が高鳴った。
突然の甘い空気に咄嗟に反応が取れなくて、目を見開くアタシにラザールがふと笑ってキスをする。
「行ってらっしゃい。身体には気を付けてね」
「うん……」
ポンポン、と優しく頭を撫でてくれるラザールに愛しさが募って、思わず彼の服をギュッと握りしめる。
───離れたくない。
だけど、……アタシにはどうしても会いたい人がいる。
帰ってきたら、目一杯ラザールに甘えようと心に決めて最後に彼にギュッと抱きついた。
***
あっという間だったな、なんて思いながら静かな港を見渡しつつ、ゆっくりと船から降り立った。
まだ早朝だからか周りには誰もいない。
降りる寸前に着替えた旅人の服の地味さに、また少しだけ気分が下がった。
王族が遊学の時は目立ったらいけないらしく、旅人に紛れる為に着替えさせられるのだ。
それにしても、───変な感じだなと思う。
見た目は全く自分の国と変わらないのに、アタシはこの国に“まだ”存在してはいない。いや、存在するかもこの先分からない国なのだ。
そう思うと、なんだかドキドキしてくる。
早速、会いたい人の元へと向かうべくアタシはエルネア城へと急いだ。
***
───王家の居室。
自分が産まれてからずっと、今でも住んでいる場所だ。
変な緊張で、一気に心拍数が上がってくる。
そう───、アタシは、父さんに会いたいのだ。
王の仕事を学ぶのならば、アタシは父さんから学びたい。子供の頃は学生だったし遊ぶ事に夢中で、父さんの仕事なんてほとんど見てもいなかった。
だから大人になってすぐ、父さんが居なくなって物凄く後悔したのだ。
そっと居室のドアを開けて、中へと声を掛ける。
だけど返事は返ってこなくて、勝手に中を見渡すと父さんは出掛けた後だった。
えっ、今何刻!? と慌てて時間を確認するも、まだ朝の二刻だ。
父さん、こんなに朝早くからどこに行ったんだろう、と疑問には思ったけれど、居ないのなら仕方がない。手持ち無沙汰で隣の騎士隊長の居室をノックすると、中から聞き覚えのある、だけど少し幼い声が聞こえてきて一気に嬉しくなった。
───母さんだ……!
どうやら過去の年末にアタシはやって来ていたようで、成人前の母さんに会えてなんだかほっこりする。
小さい母さん、可愛いーっ!!
と、なれば。
母さんだけじゃなく、アタシの周りにいる既に大人だった人達は、全員まだ子供だという事だ。
父さんに会う事ばかりを考えてこの時間軸の国を選んだけれど、自分より幼いみんなを見れるなんて一気にワクワクしてくる。
母さんと少し話した後、アタシは国中の人に声を掛けて回った。
いろんな人が若かったり幼かったりで、楽しくてめちゃくちゃ気分が上がる。
小っちゃいレノックス可愛いーーーっ!!!
まだ学生前のレノックスに会えるって事は、もしかして、もしかしなくとも……!
そう思った時、遠くに居ても分かる彼の姿にドキリと胸が高鳴った。
───ラザールだ……!!!
まだ幼い、学生の頃のラザールだ。
なんだか急に緊張してきて、近づいて来る彼に声を掛けようかどうしようか迷う。
一瞬、チラリとこちらを見たラザールと目が合った。
だけどすぐ様視線を逸らしてアタシの横を通り過ぎてしまったので、思わず彼の背に向かって声を掛けた。
わーーー!! わーーーー!!! ラザール可愛いーーーっっ!!!!!
振り向いて挨拶を返してくれるラザールが可愛くて、緊張で顔が引き攣っていたアタシの頬も自然とゆるむ。
あまりの可愛さに何度も話しかけてしまって、別れ際のラザールは若干引き気味だった気がする。
んーーーー、ちょっと失敗した、かも。
とりあえず、ヤーノ市場でご機嫌取り出来る何かを買おうと向かうと、一気に場の空気が変わった事にドキリとする。
これ、……この空気、アタシは知ってる。
市場の前の人混みを抜けて、会いたかった父さんの背中を見つけて涙が込み上げる。
「あ、あの……っ!」
父さんだ、父さんだっ、父さんだっ……!!
アタシの声に振り返った父さんは、あの頃と変わらない穏やかな表情でこちらを見て立ち止まった。
「はい、なんでしょう?」
涙が溢れそうになって、だけど必死に溢さないように言葉を紡ぐ。
───旅の人。
そう、今のアタシはただの旅人だ。
久々に会えた父さんに抱きつきたい衝動をグッと堪えて、目の前に生きて立っている父さんを見れた喜びを噛み締める。
「あの、この国の王様のお仕事を教えてください」
上手く笑顔で言えたかは分からない。
だけど、父さんが笑顔で頷いたところを見ると、
──アタシはちゃんと笑えていたのだろう。
12.そろそろ話をしようか。(ウィルマリア編)
────……やってしまった。
これはどう考えても、もう完全にアウトだ。
噴水通りを走り抜けながら、アタシは恥ずかしさと後悔で叫び出しそうになる口を必死に抑えた。
あの様子だと、ラザールには完璧にキスしたことがバレているはずだ。
どうしよう、と青くなる自分もいれば、恋人なんだからと開き直る自分もいる。
……けれど実際は、ラザールに向ける顔がなくて必死に彼から逃げているのが現状だ。
***
昼前までウロウロと王国内を意味もなく彷徨い歩いては、誰かに声をかけられる度にドキリと心臓が跳ね上がる。
ラザールと顔を合わせられなくてウロウロしているくせに、ついどこに行っても彼が居ないか探してしまう。そして彼が居ないことに落胆している自分がいるのだ。
あまりの矛盾ぶりに笑えてくる。
あぁ、もう本当に……自分が情けない。
ラザールには会いたいのに、会ってなにを言われるのかを考えるとどうしても尻込みする自分がいて、情けなさに自ずと視線を足元に落とした。
すると昼を知らせる鐘の音が聞こえてきて、思わずハッと顔を上げる。
───今日は、ラザールとデートの約束をしているんだった……!
どうしよう、と焦りで思わず転移石を握りしめる。
いつもなら迷わず街門広場に飛ぶのだけれど、どうしても今日は躊躇してしまう。
こんな事をしたってどうしようもないのに、アタシは魔法のカバンに転移石をしまうと、代わりにあるものを取り出した。
───馬鹿げてる。そう、思う。……だけど。
アタシは手にした“それ”を、そっと手から離して地面へと落とした。
パリンッ、パリンッ───と、心が痛む音と共に、二つの緑の結晶の破片がキラキラと足元を舞う。
───『時界結晶』───。
それはこのエルネア王国において、ほとんどの人間が使用する事のない時間魔法の結晶。
これを一つ使用すると、一刻の時が勝手に過ぎ去ってしまうからだ。
ただでさえ短い大切な人との時間が、更に短くなってしまうこの魔法。
アタシが使う事なんて、一生ないと思っていた。……はずだったのに。
昼一刻に農場通りに立っていたアタシは、あっという間に周りが夜の刻に包まれている現状にズキリと胸が痛む。
二つの結晶を一気に使って、昼から夜へとアタシだけが時間移動したのだ。
更に自分でラザールへ顔向けできない事をしておきながら、今日のデートをすっぽかしてしまった事に胸が苦しくなる。
………そんな風に思う資格なんて、アタシにはないのに。
明日、どうやってラザールに謝ろう……と、城へ向かうべく俯きながら街門広場へ出ると、
「ウィルマリアさん」
と、聞き慣れた声に名を呼ばれて、アタシは弾かれたように顔を上げ───目を見開いた。
「あ……、ラザー、ル……?」
目の前に立つラザールの姿に、ドクリと心臓が跳ねてぶわりと全身に冷や汗が滲む。
まさか。
まさか、まだ……アタシをここで待っていてくれたの……?
一瞬、頭が真っ白になった。
──……そうだ。
彼はこういう……優しい人だ。
お人好し過ぎて心配になるくらい、優しい……人なのだ。
───それなのに、アタシは……!
申し訳なさと、馬鹿な事をした自分が許せなくて、アタシは慌ててラザールに駆け寄りガバリと頭を下げた。
恐る恐る顔を上げたアタシを見たラザールは、一瞬だけ目を細めてホッとしたような表情をしたけれど、すぐに呆れたように大きな溜息を吐いてゆっくり視線を伏せた。
──呆れられた。嫌われた。
グサリと胸をナイフで刺されたように、心が痛む。
……呆れられて、当然だ。
アタシは彼に、それだけ酷い事をしたのだ。
彼に嫌われても……当然なのだ。
自分が悪いのに。全部自分で撒いた種なのに。
………心が痛くて、息が出来ない。
アタシに背を向けて帰って行く彼の後ろ姿を見て、してもしょうがない後悔を繰り返す。
あの、優しいラザールが。
こんなに怒った姿を、……アタシは初めて見た。
いつもふわりと微笑んでくれる彼が、ニコリともしてくれなかった。
全部自分が悪い。悪いのに……っ。
昨日までの自分を、叩きのめしたいと心底思った。
なにが、ラザールの違う反応がみたい、よ……!
穏やかで優しい彼が一番好きなくせに、こんな風に冷たくされたら、死にそうな程苦しくなるくせに……!
きっとこれは、あんな事を思ってしまったアタシへの罰なのだ。
ボロボロと両目から涙が溢れてくる。
こんな風になってしまうのなら、キスなんて望むんじゃなかった。
アタシはラザールと一緒に居られれば、それだけで幸せだったのに。それ以上を望んでワガママな事を考えてしまった……アタシへの罰。
……だって、悔しかったのだ。いつでもアタシといる時は余裕があって、クラリーチェの時みたいな必死さが感じられなくて。きっとクラリーチェとはキスだってしていたはずなのに、アタシには絶対してくれなくて。
不安……だったのだ。
だけど、不安だからって何をしてもいいって訳ではなくて。
そんな事、分かっていたはずなのに───。
……その日アタシは、夜遅くまで街門広場から動く事が出来なかった。
***
翌朝、泣き過ぎて腫れた目をしているアタシを心配した母さんが、アタシの大好きなイムムースを大量に作ってくれていて思わず笑みが溢れた。
母さんはいつもと変わらない素振りをしてくれるけれど、心配しているのだという気持ちはとても伝わってきて、母さんの優しさにじんわりと心が温かくなる。
いつも通りに二人で朝食を済ませた後、母さんが温かいイム茶を淹れてくれた。
「人生、上手くいく日ばかりじゃないわ。それはみんな同じ。でも、今の自分の幸せの基準を当たり前だと思わずに、少し見直してみるのもまた新たな幸せに繋がるものよ」
と、朗らかに微笑む母さんの言葉で、ハッと気付かされる。
……そうだ。最初は、ラザールがアタシの想いを受け止めてくれるだけで嬉しくて、幸せだったのだ。
それがいつしか想いはどんどん膨らんで、側に居るのが当たり前になっていて、その先に進めない事をアタシは幸せではないと勝手に決めつけていた。
でも、きっと母さんが言っているのはそういう事じゃない。その先を望むのは恋人として当然で、でも、その前の過程を当たり前だと思ってはいけないという事だ。
───そうだ。好きな人と両想いになれるというのは、ある意味奇跡なのだから。
アタシはモヤモヤしていた気持ちが一気に晴れていくような感覚に、自ずと口元が緩むのを感じた。
それにこうやっていつまでも落ち込んでいるのはアタシらしくないし、母さんに心配をかけるなんてガノスから父さんに怒られそうだ。
アタシの取り柄は切り替えの早さと、推進力。
そうと決まれば、アタシはラザールに会いにいくべく一気にイム茶を飲み干した。
***
……とは思ったものの。
やっぱり会いに行く事への緊張感は半端ない。
噴水広場で一度心を落ち着けようと深呼吸をしていると、
「ウィルマリアさん」
と、後方から緊張の原因である人物の声が聞こえてきて、アタシは弾かれたように振り返った。
「ラ、ラザールッ……!」
「おはよう」
「おっおは、よう!! あ、あの! 昨日は本当に、ごめんっ!! あの、アタシ……」
「うん。その事だったらもういいよ。昨日も謝ってくれたんだし、もう気にしないで」
昨日とは違い、ふわりと優しく微笑んでくれたラザールに、涙が出そうな程嬉しくなる。
少し屈んでアタシの目線に顔を合わせたラザールが、柔らかく微笑んでアタシの頭を撫でた。
「まだ朝早いけど、東の森にでも散歩に行こうか?」
コクコクッと何度も頷くアタシを見て、ラザールはふわりと笑いそっとアタシの手を握った。
手を引かれつつ、少し斜め前を歩く彼を見つめて気持ちが溢れそうになる。
───アタシは……この人が改めて好きだと思う。
好きで、好きで、好き過ぎて、困ってしまう程に好きだ。
好きな人と手を繋いで歩く。
それが、こんなに幸せな事だったのだと改めて気付かされる。
しばらく他愛もない話をしていると、あっという間に東の森に着いてしまった。
まだ早朝過ぎて、アタシ達の他には誰も居ない。
それまで普通に話をして歩いていたはずなのに、二人きりという状況と、なんだか森の静けさも相俟って妙に緊張してくる。
ふと、ラザールが昨日の朝のキスの事には一切触れていないことに気が付いた。
昨夜も先程も、デートをすっぽかしてしまった事に気を取られ過ぎて、そうなってしまった原因をすっかり忘れてしまっていたのだ。
途端に、心臓がバクバク鳴り出し頭が混乱してくる。
───あれ? え?? ラザールは、キスには気付いていなかったって事……?
それならそれに越した事はないけれど、確かめる術もなくて胸の鼓動だけが加速していく。
急に昨日の朝の羞恥も襲ってきて、アタシは思わず小走りで先に倒木へと駆け寄った。
「だ、誰も居ないね! やった、キノコ取り放題!」
「うん。朝の森は静かだねー」
アタシの焦りとは正反対の、のんびりしたラザールの声に少しだけホッとする。
アタシのすぐ隣に座ったラザールが、「ウィルマリアさんはキノコ料理は好き?」なんて呑気に聞いてきたので、なんだか構えてしまっていた分肩の力が一気に抜けて声を出して笑ってしまった。
「うん! 好き! ラザールは?」
「私も基本的にはなんでも好きだけど、……ヌメ茸だけは苦手かなー」
「あはは! なんか意外! じゃあ今度ヌメ茸使った料理のレシピがないかウィアラさんに聞いてみようかな〜」
「えー……それはちょっと、私は遠慮したいなぁ」
「ダメでーす! 好き嫌いは許しませーん」
「えぇ……手厳しいなぁ」
クスクス二人で笑いながら採取をしていると、ふとラザールの採取する手が止まっている事に気付いて顔を上げる。
するとラザールが片膝を立てて、その上に頬杖をつきアタシをジッと見ていたのでドキリと心臓が跳ねた。
「ウィルマリアさん」
「……!」
何故だか直感的に、ヤバイ、と思ってしまった。
ラザールから視線を逸らす事が出来なくて、ドクドクと心臓が騒ぐ。
逃げ出したい衝動に駆られるのに、動くことも出来なくて───、
「そろそろ、気になっている事の話をしようか」
───そう、言われた瞬間。
ビシリ、と全身が固まるのが分かった。
いくら脳筋で鈍感なアタシでも流石に分かる。
さっきまでの楽しさは何処へやら。背筋を冷たいものが伝っていく。
……これは、絶対、昨日の朝の話だ───と。
11.キスと後悔(ウィルマリア編)
“順調”? と、聞かれれば、そうだと頷ける。
───うん。
アタシとラザールは晴れて誤解も解きあって恋人同士として、二人の関係は世間一般から見て至って順調……なのだと、思う。
うん、思う。
思うの、だけど。
……それでも、今のアタシには大きな大きなモヤモヤがあったり、する───。
***
ラザールは、デートの約束の時はいつもアタシより先に街門広場に来ていて、そしてすぐにアタシを見つけて声をかけてくれる。
───うん。これは普通に嬉しくて、アタシもつい頬が緩んでにやけてしまうのだけど、問題は……ここからなのだ。
二人で酒場での食事デートでも、
なんてアタシが呟いても、
と、ラザールはふわりと優しく微笑んでアタシの話を肯定するだけ、なのだ。
どのデートの時もそう。
どのデートでも、彼はいつでも優しくふわりと微笑んでアタシの意見を肯定して甘やかす。
……うん。本当優し過ぎるし、それがラザールらしいな、とも思うし、嬉しくも思うのだ。
思う、の───だけれど。
……そうじゃない。
そうじゃないのだ、アタシが求めている恋人同士っていうのは……!!
もっと、こう、刺激というか、優しいだけじゃなくて、ラザールがヤキモチ焼くところとか、拗ねるところとか、怒るところとかっ……とにかく!
とにかく優しさだけじゃなくて、想われていると分かるような何か違う反応が欲しいのだ。
そんなの、アタシのわがままだという事は十分過ぎる程分かっている。
分かっているけど、だけど。
今のラザールの優しさは、恋人に対する優しさというよりは、年下、もしくは妹、最悪は子供……に対する態度のような気がしてならないのだ。
その何よりの証拠に、……アタシはラザールからいまだに“唇にキス”をしてもらった事が……ない。
デートの別れ際にキスはしてくれるけれど、彼の場合は全部“頬”か“額”のみだ。
いくらアタシの性格が超ワイルドでも、自分からキスを強請るのは流石に恥ずかし過ぎる。
……でもだからと言って、このままのお付き合いで我慢できるかと言われると、首を縦に振ることはできないのだけど。
デートには誘ってくれるし、会いにも来てくれる。
そして何より、アタシの全てを包み込んでくれるかのように優しく甘やかしてくれる。
それで十分幸せ……な、はずなのに、それでも“もっと”とわがままなアタシは望んでしまう。
目に見える形で、アタシは好かれているのだと自覚して安心したいのだ。例えば、……ラザールのヤキモチとか、キスとか、キスとかキスとかキスとか。
年下であるアタシは、どうしても経験がなくてリード出来ない分、自分に自信が無くなりがちなのだ。
だけど、そんな事考えているなんてラザールに知られたら……恥ずかし過ぎてガノスに召されそうだけど。
中々素直になれなくて、本当自分の性格が損な性格だなぁとしみじみ思う。
デートの帰り道、そんな事を悶々と考えながら王城まで送ってくれている隣のラザールをチラリと盗み見る。
するとアタシの視線に気付いたのか、ふとラザールがこっちを見たのでバッチリ目が合ってしまった。
「ん? どうかした?」
「な、んでも、ないっ!」
「……?」
この至近距離で小首を傾げる仕草は反則だ。
胸がキュンキュンし過ぎて、慌てて繋いでいない方の手で真っ赤になっているであろう顔を煽ぐ。
そんなアタシを見て、ラザールは柔らかく目を細めてふわりと微笑んだ。
王城まで送ってくれて、また明日、と約束をして帰っていくラザールの後ろ姿を眺めていると、不意に片想いの頃の自分を思い出した。
───かつてラザールには、旅人の恋人がいた。
今でもあの時の光景は、忘れる事なくハッキリと覚えている。あの時の───……感情も。
好きだと自覚した途端、失恋確定だったあの頃。
アタシの質問に対してラザールがあまりにも嬉しそうにクラリーチェの話をするから、悔しくて、悲しくて、……アタシの想いは一生報われないのだと思った。
───それが。
……運命は巡り巡って、今、こうしてラザールはアタシの恋人として側にいるのだから、人生何が起こるか本当に分からない。
***
翌日、畑で野菜の収穫と種まきをしていると、料理を手にしたラザールがやって来た。
仕事をしながらでも食べられるようになのか、差し出されたのは綺麗にラッピングされたラゴサンドだ。
ラザールって本当にマメだなぁとか、これって多分立場が逆の方が良いんだろうなぁとは思うけれど、ラゴが大好きなアタシは飛びつくように喜んで受け取ってしまった。
すると、それを見ていたラザールが楽しそうに声を立てて笑った。
「喜んでもらえて良かった」
そう言って、柔らかく笑う彼の笑顔にドキリと心臓が高鳴る。
だけどなんだか食い意地が張っているみたいで恥ずかしくなって、つい顔を逸らそうとするとラザールがふわりと結んでいるアタシの髪を手に取った。
それから、スルリと流れるような動作でアタシの髪に口付ける。
「……明日、デートしませんか?」
そう言って少しだけ上目遣いでこちらを見上げたラザールが、目を見開くアタシを見てふと小さく笑った。
……その、余裕ある表情に悔しくなる。
けど、どうしようもなくドキドキする自分もいて。
ジワリと顔に熱が集まるのを感じたアタシは、悔しさでフイッと顔を横に逸らして口先を尖らせた。
───ずるい人だと、思う。
アタシが断らない事を知っているくせに、いつも彼はこうやってアタシに決定権を委ねるのだ。
それは、ラザールなりにアタシを思いやった結果であって、アタシの為なんだって事も分かる。
分かるのだけど、でも……そこに、どうしてもラザール“自身”の意思が感じ取れないのだ。
例えば、どうしてもアタシとデートしたいのだと強引にでも言われるならば、アタシはきっと喜んで頷くのに。
でも、彼の場合はそうじゃない。
用事があると言ってアタシが断れば、彼はきっとすぐにでも引き下がる。
だから───、ラザールの優しさは、時に残酷だとも思ってしまうのだ。
これだけ優しく大切にされているのに、何故だか常に不安が付き纏う。
彼の優しさは、アタシの今の立場故なのかな、とか。本当はまだ、妹みたいな感覚から抜け切れてないんじゃないのかな、とか。
とにかく、アタシだけがこんなに彼を好きなんじゃないかって、胸がぎゅっと締め付けられるのだ。
「も……、いい加減、手を離して」
「どうして?」
「は、恥ずかしいから!」
「でも、まだ返事を聞いていないからなぁ」
「い………行くに決まってるでしょ!」
アタシが真っ赤な顔でラザールを少し睨みつつ叫ぶと、彼は楽しそうに笑った。
悔しい。余裕ぶってるところが、本当に悔しい。
こういう時でも、ラザールは顔色ひとつ変えずにアタシと話していられるのだから、想いの大きさの違いに胸が苦しくなる。
それなのに、彼は呑気にふわりと笑ってアタシの髪からゆっくり手を離し、今度はその手を頭の上へと優しく乗せる。
「じゃあ、また明日」
ポンポン、とアタシの頭を優しく撫でたラザールの手が、そっと離れていく。
甘い空気は恥ずかしいけれど子供扱いされたようで悔しくて、アタシは咄嗟にラザールの手をギュッと握って彼を見上げた。
ズキリ、と胸に大きな棘が突き刺さる。
「そ、そっか、だよね! 急にゴメンっ」
サッと手を離して無理矢理笑顔を作って見せる。
するとラザールは、眉尻を下げたまま何か言いたげにしていたけれど、申し訳なさそうにアタシから離れて行った。
───……やっぱり。
やっぱりラザールは、アタシとのキスを避けている、と……思う。
今のは、アタシなりに最大限に勇気を振り絞ったつもりだったのに。
ラザールの困った表情が脳裏に焼き付く。
困らせたいわけじゃないのに。
ただ、アタシは──……ラザールともっと近付きたいだけなのに。
……ラザールは、アタシと同じ気持ちじゃないのかな──。
そんなアタシの心の声がラザールに届く訳もなく。
農場通りへと向かって人混みの中に消えていく彼の後ろ姿を、アタシは見えなくなるまでずっと見ていた。
***
───翌朝、まだ誰も起きていないだろう時間に目が覚めた。
日に日にモヤモヤは大きくなる一方だけど、恋愛初心者のアタシにはどうしたら良いのか分からなくて、完全に燻る気持ちを持て余してしまっている。
───だけど、やっぱり……こんなの、アタシらしくない。
まだ隣で眠る母さんを起こさないように、そっとベッドから抜け出したアタシは、本能のままに城の外へと駆け出した。
会いたいなら会いに行こう。触れたいなら触れれば良い。だって恋人なんだもの。元々駆け引きじみた事なんてアタシには向いていないし、こうやってウダウダ悩むのもアタシらしくない。
ズンズンと城下通りを下りながら、うっすら見えてきた陽の光に目を細める。
まだラザールは寝ているだろうから、久々に寝顔でも堪能してから起こそうかな、なんて。
───考えるだけで頬が緩んでいく。
こういう時、恋って良いなと思う。
***
ラザールの家に着いて、そっと彼の寝ているベッドへと近付く。
なんだかとても悪い事をしている気分になって、ドキドキと心臓が煩くなる。
早く起きて欲しいような、そうでないような。不思議な感覚に胸がキュッとなりつつも、そっと彼の寝顔を覗き込む。
起きている時は優しいけれど大人の顔しか見せてくれないラザールも、こうして眠っている姿は少年のようでどこかあどけなさを感じる。
ついイタズラ心から、ラザールが目を覚ました時に目の前にアタシの顔があったらどんな反応をするのかな、なんてニヤニヤしつつ顔をそっと近づけた。
───ドキン、と胸が高鳴る。
自分で近付いたのに、思わず逆上せそうな程顔が熱くなるのが分かる。
────……このまま、キス、しちゃいたいな。
そう一度思ってしまえば、もうダメだった。
自ずとラザールの唇に視線は集中してしまい、ドキドキと心臓は煩く鳴り響くのに身体が止まってくれない。
勝手にキスするなんて、昨日断られている手前絶対にダメだと自分の心が警鐘を鳴らすのに、今ならきっとバレない。なんて、単純思考なアタシが首をもたげる。
そしてそう思ったが最後、アタシはそっとラザールの唇に自分の唇を落としてしまった。
────……柔らかい。
そう思った瞬間、パチリとラザールの瞼が開いて目が合った。
「……っ!」
驚いたのもだけれど咄嗟にヤバイ、と思ったアタシは、思わず自分でも驚く程俊敏にラザールから後ずさる。
驚いた表情をしながらもゆっくり体を起こしたラザールを見て、アタシはまた一歩、二歩、と彼から後ずさる。
「え、ウィル……」
「ゴメンッ!!!」
ラザールが言葉を発しかけたのを、咄嗟に自分の言葉を被せて遮った───のと同時に、アタシは弾かれたようにその場から逃げ出した───。
10.諦めた恋(ウィルマリア編)
あれからアタシは────、
……落ち込んで、落ち込んで、落ち込んで、
──────そして、開き直った。
今のアタシにとって、「二人でどっか行かない?」は、もはやラザールに対する毎日の挨拶と化している始末。
何度断られようとも諦められないのだから、こうなったらラザールに恋人が出来るまでアタックするしかない。
半ば、もう無理なんだろうな、と諦めている自分もいるけれど、決定的な瞬間が来るまで諦めたくない自分もいる。
だからアタシは、今日も声を掛ける。
「おはようラザール。二人でどっか行かない?」
「おはよう陛下。今日も遠慮しておくよ」
「そっか。じゃあハーブ採りに行こうよ」
毎日毎日同じセリフで誘っていると流石にラザールも慣れてしまったのか、最初の頃は申し訳なさそうに間を置いて断っていた返事が、今では彼も早くなってきた。
そしてその後お決まりのように採取に誘うアタシに、最初は苦笑いだった彼も最近ではふわりと笑顔で頷くようになった。
……その度に、思うのだ。
恋人を前にしたラザールは、どんな風に笑うんだろう───と。
そしてきっと、アタシは一生見る事が出来ないんだろうな、とも思う。
それでも、彼に恋人が出来るまでは……このままアタシの我儘に付き合って欲しい──と、願ってしまう。
***
今朝は朝一で出掛けていたのか、木造橋付近でラザールを見掛けてアタシは恒例行事の様に彼に駆け寄った。
「ラザール、おはよう。今日もいいお天気ね」
「おはよう陛下。うん、良いお天気だねー」
「ところで、何してたの?」
「うん、朝のお散歩を、ね」
「ふーん、そっか。木造橋から見える川の流れは穏やかで落ち着くもんね」
「そうだね。朝は特に人が少ないから、ゆっくり眺められるんだ」
「あはは! なんだかラザールらしいね。ねぇ、この後二人でどっか行かない?」
「──うん。いいよ」
今朝もいつもの世間話の流れで彼を誘う。
当然、いつもの如く断られるものだとばかり思っていたアタシは、聞き慣れない返事に一瞬思考停止した後、橋から川を眺めるラザールの横顔を凝視した。
……あれ? アタシ、夢を見てる……?
それとも、今のは幻聴……?
混乱しつつも彼を凝視するアタシの視線に気付いたラザールが、ふとこちらを見てふわりと微笑んだ。
────瞬間、アタシの頬がぶわりと熱を帯びる。
予想外。
……これは完全に、予想外だ。
ドッドッドッドッ、とアタシの心臓があり得ないぐらい早鐘を打つ。
いや、まだ、──……勘違いしたらダメ。
告白の返事でOKを貰ったわけではないのだ。
「じゃ、じゃあ、幸運の塔に……行こうか」
「うん」
声も若干震えて、緊張で手に汗がじわりと滲む。
どうしてラザールは、誘いを受けてくれたんだろう……? どういう意味で……?
無言で二人、幸運の塔まで歩きながら同じ思考がぐるぐるとまわる。
もしかしたら、アタシのあまりのしつこさにハッキリ言って断ろうと思っているのかもしれない。
それでもアタシは、まだ彼に恋人がいない内は諦めてやるつもりなんてない。
そう思ったら、自然と告白することへの勇気が湧いてきた。
どんな結末でも良い。
アタシの気持ちは、アタシだけのものであって、誰にも変えられるものではないのだ。
幸運の塔、別名“告白の塔”に着いて、アタシはぐるりと勢いよく後ろを振り返った。
振られてしまうとしても、想いを告げるチャンスをもらえたのだ。
全力で彼に想いの丈をぶつけてやろうと、アタシは両手にぎゅっと力を込めた。
「……好き。ラザールが、好き。大好き。これが、今のアタシの想いの全て。今はまだ、アタシのことは妹の様にしか思えないかもしれない。でも、絶対、絶対アタシしか見えないくらい振り向かせて見せるから! だから、」
気持ちに言葉が追いつかなくて、言葉が詰まる。
想いが昂り過ぎて、目頭がじわりと熱くなった。
チャンスが欲しい。貴方を、振り向かせるチャンスが───。
そっと上げた視線の先に、ふわりと優しく目を細めて笑うラザールが見えた。
それだけで、胸が詰まって涙が溢れそうになる。
「──陛下には……負けたよ。こんなに真っ直ぐ向かってこられたら、もう逃げるなんて出来そうにない」
そう言って、ラザールがふわりとアタシの頬に優しく触れた。
一瞬、恋人になる事を了承した彼の言葉が信じられなくて、瞬きを繰り返してしまう。
だけど徐々に思考が追いついてきて、嬉しくて、好き過ぎて胸が苦しくて、いっぱいいっぱいになったアタシは、ラザールにぎゅっと抱きついて思い切り泣いた。
少しでも、この“好き”の気持ちが彼に移ってしまえばいい。そう思いながら────。
***
その後、アタシが泣き止むまで背中をトントンしてくれていたラザールは、アタシが泣き止むと同時に顔を覗き込んできて、ふと目を細めた。
胸がキュン、と疼く。
嬉しくて泣き過ぎてしまった手前、恥ずかしいけれどやっぱり嬉しくて。
アタシはコクンと頷いてラザールの手を握った。
───嬉しくて、夢みたいで。
彼に手を引かれて歩きながら、斜め右上に見える横顔をそっと盗み見る。
アタシよりも、ずっと年上のラザール。
きっと、もうこんな事ぐらいじゃドキドキなんてしないんだろうな、なんて思う。
少しだけクラリーチェの姿が脳裏に浮かんでチクリと胸が痛んだけれど、好きな人が想いを受け止めてくれるのはこんなに満たされるものなんだ、と頬が自然と緩んだ。
アタシの家である王の居室に着いて、別れ際ラザールがアタシの頬にそっと触れた。
恋人の定番である、家に送った際の別れ際のキスはアタシも知っている。
ドキドキと高鳴る鼓動に言葉少なになっていると、ラザールがふと小さく笑ってアタシの額にそっと口付けた。
……あれ? 口、じゃ……ないの?
呆気にとられてキョトンとしていると、ラザールがふはっと吹き出すように笑った。
「ウィルマリアさん、表情が硬いから。まだ早いかなって」
まるで心の声が聞こえていたかのような返答に、ボッと顔が一気に赤くなる。
なんだか年上の余裕を見せつけられたようで面白くない。それに、突然の不意打ちの名前呼びにもドキリと心臓が跳ねる。
……悔しい。
真っ赤な顔をツン、とそらして、そのうち絶対にアタシにメロメロにさせてやるんだから! と心の中で叫んでおいた。
***
翌日、アタシは朝から悩んでいた。
───さて。
問題は、どうやってラザールをアタシにメロメロにさせてやるか、だ。
……正直、昨日の告白の返事は、“アタシのしつこさに負けた返事”だと思うのだ。
アタシの誘いを断るのを諦めた、と言ってもいい。
だって。……彼はまだ、きっとクラリーチェの事を想っている気がするから。
ズキン、と胸は痛むけれど、ラザールとアタシでは温度差があるのは目に見えていて。悔しいけれど、惚れた方が負けなのだ。
クラリーチェと恋人になれた時のラザールは、もっと生き生きとしていたように思い出されて更に胸が痛む。
それでも、恋人になれた今、アタシのやるべき事は一つ……───なのだ。
───そう、一つ、なのだけれど。
突然の恋愛の成就にアタシの心はまだ追いついていなかった。
正直、昨日の今日でどんな顔をしてラザールに会えばいいのか分からない。
彼がアタシの恋人なのだと思うと、こう、胸がキュンキュンするのだけれど……昨日まではただの仲良しな友人だったのに、いきなり今日から恋人と言われても中々アタシの中でスイッチが切り替わらない。
まぁ……所謂、ただ恥ずかしいだけ、なのだけれど。
そんな事をぼーっと考えながら歩いていると、前方にラザールの姿が見えて。
ふと視線を上げた彼は、アタシを見つけてふわりと優しく笑う。それだけでドキリと鼓動が早くなった。
素直に彼に駆け寄ればいい、───それだけなのに。
急に恥ずかしさが勝ったアタシは、ラザールに気付かないフリをして隣の人に紛れ込んで横をすり抜けてしまった。
……あっ、ヤバイっ!! つい、無視しちゃった!
どうしよう、と思うのに恥ずかしくて引き返せない。焦りと恥ずかしさで身体中が火照る。
急いで波止場に出たけれど、チラリと肩越しに振り返った後方にはラザールの姿が見えて。
またドキリ、と心臓が飛び跳ねて慌てて階段を駆け上がってしまった。
このままじゃダメだ、そう思うのに、顔の熱は引かなくて後ろが振り向けない。
なんだか昨日告白した自分が信じられないくらい、恥ずかしさが一気に押し寄せてくる。
なんでだろう───、
恋人になる前は、あんなに堂々と話しかけられたのに。
……多分きっと、今までと意識の仕方が変わってしまったのが原因だ。
仲良しだった時と比べて、恋人になったら手だって繋ぐし、デートもする。それに、キ、キスだって……。
そこまで想像して、ボンっと音がしそう程顔が真っ赤に染まって必死に想像を掻き消した。
こんな状態じゃ、ラザールをアタシにメロメロにする前に呆れられて振られてしまいそうだ。
取り敢えず、気持ちを落ち着けてからさっきの態度を謝りに行かなきゃ、そう思ってしばらくいろんなところを転々としながらシズニ神殿に足を踏み入れると────、
……また前方にラザールの姿が見えて、ぶわりと顔に熱が一気に戻ってくる。
なんでここにいるの……!?
パッと思わず視線を逸らして慌てて踵を返そうとすると、ポン、と後方から肩を叩かれて飛び上がりそうな程驚いた。
……なんだ、レノックスか。
と、何故かホッとしたような残念なような妙な気持ちになりながらも、後方にラザールが居るのかと思うと気が気じゃない。
レノックスは採取に行かないかと誘ってきてくれたけれど、正直今はそれどころじゃなくて。
慌ててレノックスの誘いを断ると、アタシは急いで転移石を握り締めた。
なんでこんなにラザールから逃げ回ってしまうのか自分でも分からないけれど、とにかく恥ずかしくて心臓が保たないのだ。
転移石で王家の温室まで飛ぶと、ふぅ、とアタシは長い息を吐き出した。
思わず、何やってるんだろう……と苦笑いが溢れる。
好きな人と、想いの差はあれど恋人同士になれたのに───。
自分の幼稚な行動に、ラザールは呆れてアタシの事が嫌になってしまったかもしれない、と思う。
ガックリと肩を落として温室の小さな噴水を眺めていると、ポン、と肩を叩かれ驚いて振り返った。
「……っ!! ラ、ラザー……ッ」
目を見開くアタシをラザールはチラリと見て、手に持っていた青い貝殻をアタシの隣にコトリ、と置く。
噴水の淵にアタシを囲うように両手を置いて、彼はジッと視線を合わせてきた。
「……やっと捕まえた」
「……っ」
ラザールとの距離の近さに、顔が耳まで一気にボッと赤く染まるのが分かる。
だけど、いつも優しいラザールが今はニコリともしない。
それだけ怒らせてしまったのだろうかと、焦ってつい目が泳いでしまう。すると、
「避ける理由を……教えてほしい」
と、目の前から思いの外沈んだ声が聞こえてきて、アタシは驚いてラザールを見た。
「さ、避けて、ない」
「避けてる」
「こ、これは、避けてるんじゃなくてっ!」
「これで避けてないって?」
「なっ! だって……! ラザールがっ」
「私が、何?」
ラザールにジッと瞳を覗き込まれて、思わずパッと視線を逸らしてしまった。
……なんだろう、ラザールの機嫌が凄く悪い。
自分の態度が悪いのは重々承知しているけれど、ラザールだって一昨日まで私の誘いを断りまくっていたくせに、となんだかついモヤモヤしてくる。
「だって……だって、一昨日までは友達って態度でアタシの誘いを断りまくっていたくせに、ラザールこそどういう風の吹き回しで……」
言いながら、そっとラザールへと視線を戻す。完全なる八つ当たりだ。
すると、真剣な瞳の彼と目が合った。
「……私が断っていた理由を、知りたい?」
ドキリとして、つい口を噤む。
……ラザールが、アタシの誘いを断っていた理由。
知りたいけど、知るのも怖くて反応を取れずにいると、ラザールがそっと視線を伏せた。
「貴女に、どんどん惹かれる自分が……怖かったからだよ」
ポツリと呟くように吐き出された言葉に、思わず「怖い……?」と問いかける。
すると伏せていた視線をパッと上げたラザールは、アタシの瞳を真剣な表情で見つめてきた。
「ウィルマリアさんに好きな人がいる事は知っている。その彼に恋人がいる事も。そして私が恋人に旅立たれた事で……貴女が同情しているのだという事も」
一瞬耳を疑う言葉が聞こえてきて、「え?」と呟きが口から漏れる。
「……最初は、妹みたいだと思っていたんだ。小さな貴女は世話焼きで、妹がいたらきっとこんな感じなんだろうなって。……でも、いつの間にか私は、会いに来てくれるウィルマリアさんを心待ちにするようになっていた」
思わぬラザールの本心が聞けて、嬉しさに胸がキュッと詰まる。だけど同時に、苦しげに目を細めて話すラザールに不安が過ぎった。
「同情からくる気持ちは、いつか終わる時がくる。分かっていても、いつか私の元から離れてしまうかもしれない貴女に、私はこれ以上惹かれずにいる自信が無かった。だから、逃げてしまった」
「ちょ、ちょっと待って! 好きな人って……それってレノックスの事!? 確かに、アタシはレノックスが好きだったけど! でも、それは過去の話であって! ラザールの恋人が旅立った時なんて、正直ライバルが居なくなった事にホッとしたくらいなのに、同情なんてあり得ないっ! 逆に、ラザールの方こそまだクラリーチェの事を引き摺ってるんじゃないの!?」
「……え? 彼女の事は、私の中ではちゃんと整理が出来ているのだけど……ウィルマリアさんこそ、私を避けていたのはやっぱり私ではダメだったからなんじゃ……」
「えぇ!? そうなの!? っていうか、だから! 私のは避けてたんじゃなくて! その……は、恥ずかしくて!! あ〜っ! もう! とにかく一旦離れて!! ドキドキし過ぎて心臓壊れちゃう……!」
アタシが手でラザールの胸を突っぱねる様に押すと、ラザールが更にグッとアタシに近づいてきた。
「……じゃあ、ウィルマリアさんは本当に私を……?」
「そ、そう言ったでしょ!? 昨日! ちょ、近いっ! 離れ……」
必死に距離を取ろうとするアタシの腕を、ラザールがグッと掴む。
それから嬉しいのか泣きたいのか分からない表情で彼はふわりと笑うと、そっとアタシの肩に額を乗せてきた。
ドッドッドッドッ、と心臓が早鐘を刻む。
アタシの心臓の音がラザールにまで聞こえているんじゃないかと恥ずかしくて身動きが取れずにいると、ラザールがまたそっと額を離してジッと見つめてくる。
今度はなんだろう、とドキドキしていると、
と、さっきとは打って変わって少し緊張した表情でラザールが言うので、アタシは思わず声を上げて笑ってしまった。
────彼が……好きだなぁ、と、思う。
アタシがコクンと素直に頷くと、ラザールは嬉しそうにふわりと笑って、アタシの頬にそっと触れてきた。
「これから全力で甘やかすから、覚悟しててね」
───ラザールの、甘い言葉と微笑みにくらりと来たアタシは、これから心臓を鍛える事に専念した方が良さそうだな、と思った。
9.恋愛対象外。(ウィルマリア編)
───毎日が……忙しなく過ぎていく。
父さんがガノスに旅立ってから、アタシの毎日はガラリと変わった。
──まず、みんなに『殿下』ではなくて、『陛下』と呼ばれるようになった。
そして、国の祭事や行事には必ず出席して、祝いの言葉や激励の言葉を述べなければいけないのだと、叔父であり神官であるオスキツおじさんに教わった。だけどまだまだ半人前のアタシは、オスキツおじさんに威厳や礼節を叩き込まれる毎日だ。
そして母さんも、あれからもう一度騎士隊長を目指すのだと今では毎日張り切って元気に北の森に通っている。
アタシも母さんも、なんだかんだとやる事が多くて忙しく過ごしてはいるけれど、穏やかに毎日は過ぎていた。
それは、決して嫌でもないし苦でもない。
そう───、嫌でもなければ苦でもないのだけれど……、そろそろ、そろそろね。
アタシも周りの同級生の様に恋愛でドキドキする毎日を送りたいなぁ……なんて、思っていたりする今日この頃。
戴冠式から今日までバタバタしていて気付かなかったけれど、気付けば周りにはチラホラとカップルが出来ていて。
少し焦っているアタシは、父さんの葬儀以降ラザールと会っていない事に気が付いた。
……なんとなく、前に言われた言葉を思い出す。
───『大切な友人』もしくは『妹』───。
あの時は彼には恋人がいたし、しょうがない事なのだと思ったけれど……今思えば、アタシはまったくラザールの恋愛対象に入っていないって事なんじゃない!? と、妙に焦って麦の収穫日である事も忘れてラザールの家へと朝から向かった。
噴水通りでラザールの姿を見つけて、ドキリと心臓が跳ねる。
「あ、ラザー……」
声を掛けようとして、一瞬躊躇う自分がいる。
なんとなく……気恥ずかしいのだ。
そのまま躊躇っている間に、ラザールはアタシに気付かないのでどんどん後ろ姿が遠ざかっていく。
いつもの自分からは考えられない程の臆病ぶりに、思わずギュッと頬をつまんだ。
成人してから父さんの葬儀の時には会ったけれど、あれ以来まともに会話という会話をしていないのだ。
そしてその事に気付いて妙にイライラする自分に気付いた。
以前はあんなにラザールと会いたくなくて避けまくっていた癖に、今度は会いに来てくれない事に怒る自分の傲慢さに呆れてしまった。
“ラザールが会いに来てくれない”。
イコール、アタシは彼にとって“恋愛対象外”って事だ。
そう思うと、途端にアタシの闘志に火がついた。
なんだか物凄く悔しくて、ムカムカしてくる。
───こうなったら、
ラザールに恋人が居ない今、絶対にアタシに振り向かせてやる……!
そう意気込んで、アタシは麦の収穫をするべく農場へと向かったのだった。
***
昨年父さんと母さんが育てた麦を、ザクザクと収穫していく。
一段落したところで、親友のキャロラインがクスクス笑いながら声を掛けてきた。
「さすが超ワイルドね。刈り取り方もワイルド」
「ちょっと、仕事が早いって言ってくれる? 冷やかしに来たんなら……あ! ちょっと待って!」
慌てて魔法の鞄に収穫した麦を入れると、ガシッとキャロラインの両腕にしがみ付いた。
「ねぇ! 異性を振り向かせる方法を教えてっ!」
「え、えぇ?? どうしたの、急に?」
驚いたように目をパチクリさせるキャロラインは、成人式の後に速攻で幸運の塔に呼び出されて恋人が出来ていたのだ。その魅惑? というか色気? を伝授願おうと詰め寄ると、キャロラインは暫く考えて……それからアタシの全身を見て、何故かムーグの図書室で料理のレシピでも読んで来いと言った。
なんだか腑に落ちないけれど、しょうがない。
今のアタシじゃ、料理は専ら母さん任せなのだ。確かにこれじゃダメだとムーグの図書室へと転移石で飛ぶ事にした。
***
うーん……、と唸りつつ、ミアラさんに聞いてみようかと振り返ると、オスカルがあたしの後ろに何故か慌てた表情で立っていた。
「あら、オスカル。どうしたの? アンタもレシピ本見に来たの?」
「い、いや、俺は……」
なんだかオスカルの歯切れが悪い。
オスカルはアタシの幼馴染みで弟みたいな存在だ。
学生の頃はよく二人で遊んだりもしたけれど、成人してからは、何故かアタシの顔を見るなり逃げ出すようになった。
そんなに怯えなくたって、パシリに使ったりなんてしないのに。
アタシが首を傾げてオスカルを見ると、オスカルは少しソワソワと落ち着きなく視線を彷徨わせてから、アタシをジッと見つめて、それからゆっくりと口を開いた。
ドキッとして、つい目を見開いた。
二人で……どこかに行く。それは、学生の頃ならば単なる遊びの誘いだったけれど、大人になったら“意味”が違う。
途端に焦って、つい首を横に振ってしまった。
「ご、ごめんっ! アタシ、用事があって……! また今度誘って!?」
アタシの慌てようにオスカルは一瞬視線を伏せると、すぐにまたアタシを見て小さく笑った。
「うん、こっちこそ急にゴメン。……じゃあ、またね」
「う、うん! また!」
ヒラヒラと小さく手を振りつつオスカルを見送った後、ぐるりと回れ右をして思わずその場に頭を抱えてしゃがみ込む。
びっ、びっくりしたぁあああああっ!!!
ドッドッドッドッ、と、心臓が口から飛び出るのではないかというほど早鐘を打つ。
まさか、まさかあのオスカルが……! アタシに告白!? しようとするなんて……!
全然、……全然、気付かなかった。
耳がじわりと熱を持つ。
───……嬉しくないわけじゃ、ない。オスカルの事は好きだ。でも、アタシにとってオスカルは弟のような存在で……。
そこまで考えて、ハッと目を見開いた。
───これって、ラザールがアタシに対して思う気持ちと同じ……なんじゃないの?
さっきまでの勢いとは裏腹に、アタシの胸にドスンと大きな鉛を打ち込まれたように一気に気持ちが沈む。
え、───待って。どうしよう。こういう場合、どうしたらいい……?
悶々と頭を抱えて悩んでいると、オスキツおじさんに伝心で近衛騎士トーナメントの開会式の時間だと、王立闘技場へと呼び出されてしまった。
***
───翌朝になっても、頭の中を同じ思考がグルグルと回っていた。
だって、アタシはオスカルの事は好きだけれど、それは決して恋愛感情ではないと言い切れる。
そしてそれは、ラザールにも同じ事が言えるんじゃないかと思うと、またズドンと大きな鉛が胸に埋め込まれていくのだ。
それでも、このままこうしてウジウジしているのはアタシらしくない。
そう思ったら、自然と足はラザールの家の方へと向かって歩き出していた。
噴水広場まで出ると、噴水通りからこちらに向かって歩いてくるラザールの姿が見えた。
アタシが、あっ、と気付いたのと同時にラザールも顔を上げてこちらを見た。
それだけで心臓がドキリと跳ね上がる。
目が合っただけでコレだなんて、先が思いやられる。
だけどそう思うアタシの意思なんて関係ないように、頬がぶわりと熱を持つ。
子供の頃と比べて想いが伝えられる大人になってしまうと、声ひとつ掛けるのにこんなに緊張してしまうなんてなんとも複雑だ。
アタシがまた、ラザールを前にして躊躇っていると、今日は彼の方からにこやかに声を掛けてきた。
「おはよう、陛下」
「お、おはっ、……よう」
「?」
アタシの緊張ぶりにラザールが不思議そうに小首を傾げたものだから、恥ずかしくなってつい乱暴に先を促した。
「アタシに何か用があるんじゃないの!?」
アタシがツンと顔を晒してそういうと、ラザールは小さく噴き出すように笑ったけれど、すぐにコクリと頷いて言葉を続けた。
(やった!! ラザールから誘って貰えたっ!)
心の中で小さくガッツポーズを決める。
ふふふ、とそれだけで鼻歌でも歌ってしまいそうな程気分が高揚していく。
遺跡の森に着いて、早速ガツガツとキノコをむしりながら───、
───チラリと横目で隣のラザールを盗み見る。
すると丁度目が合ってしまい、ラザールがニコリとアタシに笑いかけた。
それだけで一気に頬が真っ赤に染まる。
もう、もう、無理っ……!! アタシの心臓がドキドキし過ぎてもたないっ!!
………やっぱりここは、女は度胸! 直球勝負よね!!
グッと両手に力を込めて、スクッと立ち上がる。
するとラザールが、アタシにつられて一緒に立ち上がった。
「陛下? どうしたの? もう帰……」
「待って! ゴメンちょっと黙って」
手で制しながらラザールの言葉を遮る。
不思議そうにアタシを見るラザールから少しだけ視線を逸らして、大きく深呼吸をした。
よし、いざ、勝負……!!!
少し、いや大分、声が震えた気がした。
それでも負けじとラザールの目をジッと見つめて返事を待つ。
すると、一瞬驚いたように目を見開いたラザールだったけれど、すぐに申し訳なさそうに眉尻を下げてゆっくりと首を横に振った。
……正直、予想していなかったわけではないけれど。
想像するのと実際に聞かされるのとでは……心に受けるダメージが全然違う───。
あのあと、どうやってラザールと別れたのかハッキリとは覚えていない。
それぐらい、ショックで。
心が真っ黒に塗り潰されていく───。
まだ、ラザールはきっと、───クラリーチェの事を想っている。
そしてきっと、彼にとってアタシは、やっぱり──“恋愛対象外”──なのだ。
***
あれからアタシはショックに押し潰されそうだったけれど、こんな事で諦めるなんてそんなにアタシは柔じゃない。
こうなったら、とことん、アピールしまくってやるんだから!! と、あれから毎日ラザールを何回も誘い続けた。
採取に誘うのは当たり前で、
時には探索に二人で行ったり、
以前キャロラインに聞いて、ムーグの図書室に行った時のレシピで作った料理を手渡したり、
とにかく、アタシはありとあらゆる方法でラザールに毎日アプローチし続けた。
最近では、ラザールが家から出てくるのも待てなくて、家まで押しかける始末……。
正直ガンガン攻め過ぎかな、と心配にはなるけれど、それでもアタシを少しでも意識してもらわなきゃ困るのだ。
だから今日も、朝から朝食を終えるラザールをジッと見守り?つつ、食べ終わったところを見計らってすぐに釣りへと誘い出した。
肩が触れるか触れないかの位置で、二人で並んで釣りをする。
すると、突然ラザールが噴き出しながら笑い出した。
「ふはっ、あははっ! ゴメン、もう、我慢できなくて……ははっ、本当、さすが陛下だなぁ」
急に笑い出すから「何よ!?」と少しむくれて隣を見ると、ラザールが目尻の笑い涙を拭いながら優しく目を細めた。
「いや、今の陛下の行動力を見せつけられたら、小さい殿下が私に説教をするはずだなぁと思って」
「あ、あれは……っ!」
ラザールは、アタシが子供の頃彼に散々恋人を作れと説教していた時の事を言っているのだ。
それでも、さっきのラザールの言葉は、アタシが彼にアプローチしている事に気付いているからこその言葉だ。
そう思ったら途端に、少しでも意識してもらえているって事なんだろうかとドキドキしてくる。
アタシが口籠ったのをきっかけに、なんとなくラザールも黙ってしまったので、触れそうで触れない二人の肩の距離にドキドキが加速する。
何か……言わなきゃ。
そう思うけれど、緊張で喉がカラカラに渇いて中々言葉が出てこない。
それでも、一歩を踏み出さなきゃ、と、意を決して口を開いた。
何度口にしても慣れない言葉。
声どころか、手まで震えている気がするから笑えてくる。
ドキドキし過ぎて、周りの音が何も聞こえない気がした。
───沈黙は、数秒で。
でも、アタシにとってはとても長い時間に感じる沈黙を破ったラザールは、また、ゆっくりと首を横に振った。
───今度こそ、泣きそうだと思った。
ラザールはとても申し訳なさそうに、また、眉尻を下げて悲しそうな顔をする。
「ゴメンね」、そう口にするラザールの方がアタシよりも苦しそうで。
その顔を見るのが辛くて、悲しくて。
……なんで、アタシじゃダメなんだろう、と。
何度も何度も思った。
8.「王」になるということ(ウィルマリア編)
───どうしたらいいのか、分からなかった。
そんなあたしに出来ることは、一つだけ。
“ラザールと距離を置くこと”
今のあたしには、それしか思いつかない。
あの日からラザールを見掛けては、転移石を使って逃げての繰り返しで。
忘れたくても、そう簡単には忘れられない事ぐらい分かってはいるけれど、旅人のお姉さんと幸せそうに歩くラザールを見て、あたしの入る余地なんて無いのだと悟った。
それこそ、“情念の炎”なんて以ての外で。
アレを使ってでも手に入れたい相手がいたら、その時は──、なんて思っていたけれど、全く逆の気持ちなのだと気が付いた。
本気で好きだからこそ、絶対に使えないのだ。
……情念の炎を使うと、使った恋人同士の二人から大切な思い出の記憶を抜き取ってしまう事が出来るらしいと聞いたことがある。つまり意思操作して、二人を他人に戻す事が出来るという事だ。
レノックスの時は、使いたいと思う程の気持ちではないのだと思っていたけれど、そうじゃなかった。
彼は単純に憧れの存在であったからこそ使うまでもなかっただけで、本気で好きだと気付いたラザールには、絶対に使いたくないと強く思った。
良い子ぶっていると言われればそれまでだけれど、ラザールが……好きだった彼女との記憶を、スッパリ失ってしまうところは見たくない。ううん、本当はそれだけじゃない。
そんな事をしてまで彼の気持ちを自分に向かせる行為は、あたしの“プライド”が許さないのだ。
……そんな風に思いはしても、今はまだ失恋から全然立ち直れていないあたしは、ラザールから逃げる事で自分の心を必死に守っていた。
───それなのに。
掛けられた声に、一瞬草虫を握りしめたままフリーズしてしまう。
しまった、油断した……!
のんびりと何も知らないラザールが、あたしの側にしゃがんでふわりと笑った。
「やっと殿下を捕まえた」
「……っ!」
「ごめんね。殿下が私の事を避けている事は分かっていたんだけど……どうしてなのか、理由が知りたくて」
隣でラザールがハーブを摘みながら、眉尻を下げて遠慮がちにあたしの顔を覗き込んでくる。
至近距離で目が合った瞬間、頬に熱がじわりと集まるのが分かって、あたしは急いで顔を逸らした。
「そ、そんな事ないしっ! ラザールの勘違いでしょ!」
「んー……そうかな?」
「そうなの! あたしなんかの事より、大切な彼女の元にでも行きなさいよ! じゃなきゃラザール捨てられても知らないわよ!?」
ラザールには好きな人がいて、この恋は叶うことはない。そう分かっているはずなのに、こうして構ってもらえると嬉しくて、あたしが避けていた事に気付いてくれていた事にもなんだか心が浮き立ってしまう。
ドキドキしつつも、何故か急に黙り込んでしまったラザールをチラリと盗み見ると、ラザールは採取する手を止めてあたしをジッと見つめていた。
「なっ、何っ?」
恥ずかしさに慌てて採取を再開するも、気になってついラザールをチラチラみてしまう。
すると、ラザールが寂しげな表情で小さく笑った。
「いや、私にとっては殿下も“大切な友人”なんだけど……いや、しっかり者の妹?みたいな感じかな……? どちらにせよ、私にとっては殿下の事も大切な存在に変わりはないんだけどなぁ」
のんびりと、いつもの調子でラザールが言うものだから、ついピクリと身体が反応して採取する手が止まってしまう。
思わず掴んだガーブ草を握る手にギュッと力を込めてしまい、慌てて誤魔化すようにその場に立ち上がった。
「……し、失礼な奴ねっ。未来の女王を勝手に妹扱いしないでくれる? ラザールなんてイムのフンでも拾っちゃえばいいのよ。じゃぁね、ご機嫌よう!」
フン!っと、鼻を鳴らしてその場を離れようとすると、後ろからクスクス笑う声が聞こえてつい立ち止まってしまった。
チラリと肩越しに後ろを見ると、ラザールが楽しそうに笑っていたので、ムッとして「何よ!?」と振り返る。すると彼は立ち上がりあたしの側までくると、ガーブ草をドサリとあたしの手の上に乗せてふわりと笑った。
「やっぱり殿下は殿下だなぁと思って。……私はこの国が好きだよ、未来の女王様」
「は、はぁ!?ちょっ……何よこれ!?」
一瞬、彼の言葉の意味を測り兼ねて戸惑うも、ラザールの笑顔にドキリと胸が高鳴ったのを誤魔化すように、あたしは手の上に乗せられた沢山のガーブ草を見て非難の声を上げた。すると、彼は楽しそうに「今夜の献立にどうぞ」と笑うばかりだった。
***
───次の日の朝だった。
ラザールの言葉の“意味”を、あたしが理解したのは。
この国には、全国民に朝を告げたりその日の行事や出来事を伝える“伝心”という魔法がある。それも成人式のような、この国にかけられた大掛かりな魔法の一つだ。
その伝心が、……伝えたのだ。
ラザールの恋人であるクラリーチェがこの国から旅立ってしまったという事を。
あたしはガバリと起き上がり、すぐにラザールに会いに行こうとして…………結局やめた。
……どんなにあたしがラザールに詰め寄ったところで、結果は変わらない。二人のことは二人で決めるのであって、完全に部外者であるあたしが口出しなんて以ての外なのだ。
それに、きっとこれが……、
これが、ラザールと彼女が出した───答えなのだから。
そう思った時、ラザールの言葉があたしの脳裏をふと過ぎった。
自由に旅をする彼女が好きだと言ったラザール。
彼女をこの国に引き止める事は出来ないとしても、彼女についていく事は考えたはずだ。
だけど彼はこの国が好きだと言って、一人この国に残った。
きっと彼の中での葛藤は、とても、とても大きかった事だと思う。
それでもあたしは、
──どんなに最低だと思われようとも、この国を好きだと言ってこの国に残る事を選択したラザールに、心底ホッとしてしまった。
***
───あれからラザールとは会えないまま、あたしは成人式である今日を迎えた。
朝から母ちゃんはバタバタとあたしの準備に追われて、父ちゃんはあたしの成人式用に着替えた姿に穏やかに目を細めて───。
つつがなく式は終わり、あたしは今日、大人になった。
───だけど大人になれた事に浮かれて、あたしは全然気付いていなかった。……母ちゃんが朝からあたしの服装の準備に時間をかけていた意味や、父ちゃんが子供用の王冠をかぶるあたしを穏やかに見つめていた意味を───。
成人式が終わって、すぐに母ちゃんがバスケットを持ってあたしと父ちゃんをピクニックへと誘ってきた。
子供の頃はよく、叔父のサミュエルや叔母のレナ、じぃじやばぁば、その他の従兄弟達と一緒にピクニックへと出掛けていた。
でも今日は、母ちゃんが親子三人で行きたいのだと譲らなかった。
最初は、せっかくあたしが成人できたのだからみんなでワイワイしたいと母ちゃんに訴えていたけれど、釣りに夢中になる頃には三人で過ごす穏やかな日常がくすぐったくも嬉しくて。
釣った魚の大きさを競う父ちゃんと母ちゃんの姿に、本当に仲が良いなぁなんてほっこりもした。
昼食の時、母ちゃんが作ってきたサンドイッチをあたしが大口をあけて頬張ると、父ちゃんは「ワイルドだなぁ」と声を立てて笑っていたけれど、母ちゃんは「もう少し御淑やかにっ」と慌てて父ちゃんの笑い声を遮り嗜めていた。
成人してもそんないつもと変わらない風景に、あたしの頬も自然と緩む。
そう言って笑ったあたしに、父ちゃんも母ちゃんも優しく微笑んで頷いた。
***
翌朝、母ちゃんに無理矢理起こされてダイニングへと向かうと、ケーキが用意されていて自分の誕生日だった事を思い出した。
───今日からあたしも6歳だ。
確か、母ちゃんが父ちゃんと結婚したのも6歳だったと聞いた。そう思うと、なんだか感慨深いなぁなんて思いつつ席につく。
そう父ちゃんにお祝いの言葉をもらって、嬉しくてはにかんだ。だけど、すぐに父ちゃんの顔色の悪さに気付いてドクリ、と心臓が嫌に騒つく。
慌てて母ちゃんの方を見ると、母ちゃんはいつも通りの笑顔であたしにお祝いの言葉をくれた。
───母ちゃんは、この日を覚悟していたんだ。
だから、昨日。
三人だけで出掛けたいと言った。
頑張って準備したあたしの成人式の服装も、生涯父ちゃんが見ることが出来ないあたしの“晴れ姿”を見せてあげるためだったんだ。
だからあたしが女王になる時は、父ちゃんが崩御する時を意味する。
父ちゃんは、あたしの“晴れ姿”を生涯見ることは出来ない。ううん、父ちゃんだけじゃない。
この国を担ってきた代々の国王は、みんな自分の子供の晴れ姿を見ることが出来ない。それがこの国の決まりだからだ。
母ちゃんは、そんな父ちゃんに、あたしの晴れ姿をどうしても見せたかったのだ。それは父ちゃんが……もう長くないという事を───分かっていたから。
頭が真っ白になった。
この先もずっと、両親は揃ったまま、あたしも歳を重ねるものだと思っていた。
結婚して、子どもが出来て、そうしてずっと一緒に過ごしていくものだと……思っていた。
それなのに────。
***
気が付いたら居室に、父ちゃんと二人になっていた。
母ちゃんはいつも通りに過ごしていたけれど、父ちゃんの好きな料理を作るのだとヤーノ市場へと出掛けて行く時、目が赤くなっているのがチラリと見えた。
あたしも、泣くのを必死に我慢して、そっと父ちゃんの隣に腰掛ける。
すると父ちゃんが、あたしの方を見てふわりといつもの優しい笑顔をくれた。
その父ちゃんの笑顔を脳裏に焼き付けながら、あたしは両手をスカートの上でギュッと握りしめて俯いた。
「……父ちゃん、あたし、今日、6歳になったんだ」
ポツリと呟くように言ったあたしの頭を、父ちゃんは優しく撫でた。
「うん。……大きくなったね、ウィルマリアさん」
「……っ、あたしっ、今日っ、6歳に、なったのっ……」
堪らなくなって、もう一度、声を絞り出すように言って父ちゃんを見上げる。
すると父ちゃんは少し眉尻を下げて、それでも優しい穏やかな表情であたしの頭を撫でた。
「……うん。ごめんね、ウィルマリアさん」
父ちゃんのその言葉に、あたしはついに堪えきれなくなって、ぶわりと溢れた涙をボロボロ零しながら父ちゃんに抱きついた。
「あ、謝ってっ、欲しいんじゃ、ない……っ。もっとっ、もっと、父ちゃんと一緒に色んなことっ、したかったっ……! もっと一緒にっ、居たいよっ……! ガノスなんて行っちゃヤダよ……! あたしなんかじゃっ、まだ、全然っ、国王になんてなれないのにっ……!」
必死に、必死に父ちゃんをガノスから遠ざけるように掴んで、わあぁっと泣き喚く。
今、ここにある温もりが、消えてしまうなんて信じられない。
あたしには、まだ、何の覚悟もない。
成人したてのあたしには、まだまだこの国を背負うなんて荷が重すぎるのだ。
あたしが泣き喚く間、父ちゃんはずっと温かい手で頭を撫でてくれた。そしてゆっくりと、ホッとするような穏やかな声で言葉を紡ぐ。
「ウィルマリアさん、この国はね、国民みんなで支え合って出来ている国なんだ。だから、誰か一人に重責を押し付けるようなそんな国じゃない。みんながいて、私達王族が成り立っているんだ。そこを勘違いしてはいけないよ。……それに、ウィルマリアさんなら絶対に立派な女王になれるよ。だって、私とシャノンさんの子なんだからね」
ゆっくりと顔を上げて父ちゃんを見る。
そこには、幸せそうにふわりと笑った父ちゃんの笑顔があった。
***
その後、父ちゃんはみんなが見守る中、静かに、穏やかにガノスへと旅立った。
母ちゃんも、あたしも、いっぱい泣いて。
それでも、父ちゃんが幸せそうに笑って目を閉じたから、引き止める言葉は紡がなかった。
───翌朝、いつものように父ちゃんの分まで朝食の用意をしていた母ちゃんを見て、胸がギュッと苦しくなった。
父ちゃんは────もう居ない。
この国のどこを探しても、もう、どこにも……どこにも居ないのだ。
必死に明るく「間違えちゃった」と食事を片付ける母ちゃんを見て、今までは大きく見えていた母ちゃんの背中が、とても、とても小さく見えた。
───母ちゃんって……こんなに小さかったっけ……?
そんな母ちゃんを見て、これからは、“アタシ”が母ちゃんを守っていくんだ。そう、心に決めて。
肩を震わせてキッチンに立つ母ちゃんを、そっと後ろから抱きしめた。
***
父ちゃんに最後の別れを告げる為に、母ちゃんと葬儀に出席した。
───人は皆、遅かれ早かれいつかはガノスへと旅立つ日がやって来る。
だから、何気なく過ごしている一日を、大切に、大切に過ごさなければいけないのだ。
ガノスへ旅立つのが、自分であれ、相手であれ、アタシは絶対に後悔のないように過ごそうと強く思った。
……かつて父ちゃんが、そうしていたように───。
葬儀が終わると、みんな帰っていく中、母ちゃんはずっと父ちゃんの眠る墓石の前で佇んでいた。
王家の蜂蜜をギュッと握りしめたまま、「これ、料理に使うのワイアットさん好きだったの」と小さく呟きながら。
母ちゃんはアタシの前では明るく頑張ろうとするけれど、憔悴しきっているのは明らかで。
そんな母ちゃんに、アタシはある一つの仮説と共に、提案をしてみる事にした。
「あのね、母ちゃん───……」
***
アタシの提案に、戸惑いながらも了承した母ちゃんは、準備の為に居室へと戻って行った。
それからアタシは一人、父ちゃんの墓石の前に立つ。
そして静かに、───覚悟を決める。
───母ちゃんを、そして、この国を守る覚悟を。
戴冠式までの時間、父ちゃんとの思い出に浸っていようと墓石の前に佇んでいると、不意に後ろから声を掛けられて振り返った。
するとそこには、数日ぶりに会うラザールの姿があった。
「……殿下、」
「……久しぶり、ラザール」
ラザールの言葉に、また泣きそうになる。
だけどアタシは、グッと涙を堪えて顔を上げる。
そう。きっと、父ちゃんは、アタシ達がいつまでも悲しむのを望んでなんかいない。
前を向いて、未来に向かって元気に歩む事を願っているはずなんだ。
だからアタシは、もう立ち止まらない。
そう気持ちを込めてラザールへと小さく微笑むと、彼はふわりと優しく頭を撫でてくれた。
……だから不覚にもまた、泣きそうになってしまったんだ。
***
午後からはお城で戴冠式が行われた。
───もう、アタシは、弱音なんて吐かない。
父ちゃんの墓石の前でも誓ったんだ。
父ちゃんの意思を継いで、この国を守る女王になると────。
神官様が静かにアタシを見つめて言葉を紡ぐ。
「誓います」
アタシの決意のこもった返事に、神官様は優しく微笑んで頷いた。
ゆっくりと目を瞑り頭を下げると、代々受け継がれてきた王冠がアタシの頭にそっとかぶせられる。
その瞬間、その王冠の重みに、アタシの覚悟が魂に刻まれていくような気がした。
ゆっくりと目を開けて、しっかりと前を見据える。
───……アタシは、今日。
この国の“王”になったんだ───。
***
戴冠式が無事に終わり、外で待つ母さんの元へと走った。
小さく見えた母さんは、今度は別の意味で少女のように見えた。
母さんの旅立ちに相応しい、良く晴れた青空がとても眩しくて、アタシは自然と目を細めてしまう。
すると母さんが、心配そうな表情でアタシの顔を覗き込んできた。
「ウィルマリアちゃん、本当に大丈夫?やっぱり、」
「もう! だから大丈夫だって何度も言ってるでしょ! それに、何度も言うけど“この国で過ごす母さん”は残るんだから、気にすることなんて一つもないの!」
腰に手を当てて踏ん反り返るアタシを見て、母さんは穏やかに笑った。
───アタシが母さんに提案した事。
それは、“魂を分かつ祈り”だ。
この国では、生きたまま魂を分かつ祈りという儀式が存在する。
それは、その名の通り同じ魂を二つに分けて、二人の同じ人間が存在する事が出来るというものだった。
この国に信仰されているガノスという所は、死者の国というよりは、旅人として新しい国へと生まれ変わりをする場所だと聞いた事がある。そこへ行くにはやはり寿命を全うしなければいけないのだけど、ただ一つだけ“魂を分かつ祈り”に成功した者のみ、片方の魂が行くことが許されているという話しを聞いたことがあるのだ。
ただしその祈りは、不確定要素が多く成功例をいまだ聞いた事がなかった。
それにもし、成功したとしても、母さんが父さんと同じ世界の国に旅人として生まれ変われるとは限らない。
───だけど、何故かアタシには分かる。
母さんは、絶対に成功して父さんの居る場所へと転生出来るって。
母さんもその想いがあったから、きっとアタシの提案を受け入れたのだ。
祈りの儀式の場所はシズニ神殿の地下墓地。
ここにあるピンクの水晶が、多くの死者をガノスへと導くという。
ここでの祈りに成功したら、“この国に残る母さん”と転生する父さんと同じ国に“生まれ変われる母さん”とに分かれるのだ。
──
───
─────……
……───その後、勿論母さんは祈りに成功した。
アタシの目の前で魂が二つに分かれた母さんは、一人はこの国へと残り、もう一人は他の国へと旅立って行った。
……また今頃、どこかの国で二人でラブラブしてるんだろうなぁなんて想像しては、口元が緩む。
アタシも頑張らなくちゃ!とマントを翻して踵を返し、クスリと唇に弧を描いた。
7.あたしの願い(ウィルマリア編)
───……夢を見た。
それはあたしが、ずっと……ずっと、思い描いていたはずの──。
……──王子様のようなレノックスに手を引かれ、「殿下」ではなく「ウィルマリア」と甘く囁かれる───、そんな夢。
ずっと思い描いていた事を、夢で見ることが出来た。それなのにあたしは……目が覚めた時、夢で良かったと何故かホッとしていた。
───今のレノックスには、恋人がいるから?
違う。
いや、確かに、「情念の炎」を使っていたとしたら罪悪感でいっぱいだったかもしれない。でも、そうじゃない。そういう気持ちであたしはホッとしたんじゃない。と、何故か心の中の自分が強く否定する。
何故だか分からないけれど───。
いや、違う。原因は……分かっている。
原因は、
───“ラザール”だ。
昨日あれから、彼に恋人が出来た事に酷く動揺したあたしは、一日どう過ごしたのかも酷く曖昧で。
レノックスの時には感じなかった何か大切なものを失ってしまったような、そんな酷い喪失感に苛まれていた。
喪失感を感じる理由が分からなくて、ラザールはあたしのものなんかじゃないのに、と苦笑いが溢れそうになるけれど、何故か同時に酷く胸がぎゅっと掴まれているように苦しくなった。
いつもなら学校の授業の時間まで友達と遊びまわっているはずなのに、今朝はそんな気も起きなくて幸運の塔の池のほとりでただぼーっと佇む。
どうしても今の自分の気持ちに納得がいかなくて、昨日の様子を思い出そうと幸運の塔に来てみたけれど、なんとも言葉に表し難い感情に苛まれるだけでモヤモヤは一向に晴れない。
レノックスの時とは、全然違う……───。
分からない。──どうしてなのか、自分の気持ちが全然分からない。
あのラザールに念願の“恋人”が出来たのだ。喜ぼう、応援しよう、そう思うのに。
……彼が、あのクラリーチェという旅人にいつもの優しい笑みを向けているのかと思うと、堪らなく胸が苦しくて何故か涙がこみ上げて来る。
負のループの様にグルグルと定まらない感情に俯いていると、背後からポンと肩を優しく撫でられた。
心配そうな顔の父ちゃんに、あたしが思わず空元気で返事をすると、父ちゃんがふと寂しそうに笑った。
「……ウィルマリアさんがどんどん大人になっていくのは嬉しいけれど、やっぱり寂しいなぁ。無理だけは、しないようにね」
そう言って、父ちゃんはあたしの頭をポンポンと優しく撫でた。
やっぱり父ちゃんの目は誤魔化せないんだなぁと思わず泣きそうになったけれど、父ちゃんの温かい手にふとラザールに頭を撫でられた記憶が重なって、切なさに両手で胸をグッと押さえた。
父ちゃんはあたしの様子に気付いているようだけれど、何も言わずにあたしの頭を撫で続けてくれる。
そんな優しい父ちゃんに心配ばかりかけてちゃダメだと、あたしはギュッと両手に力を込めてコクンと大きく頷いた。
「こんな風にウジウジするなんてあたしらしくない! 父ちゃんありがとう! あたしハッキリさせてくる!」
ガバリと顔を上げて力強い瞳で父ちゃんを見上げると、父ちゃんは柔らかく目を細めて小さく笑った。
そうと心を決めてしまえば、あたしの行動は早い。
素早く魔法のカバンから導きの蝶を取り出して、ラザールの居場所を確認する。すると彼は近くに居たようで、導きの蝶はすぐにラザールの元へとあたしを運んでくれた。
……のはいいのだけれど、彼の後ろ姿を見つけて何故か身体が前に進めず固まってしまう。そうこうしている間にラザールがどんどん離れていってしまうので、あたしは必死に前へと一歩を踏み出した。
「……ラ、ラザール!」
自分自身が尻込みして踵を返さないように、咄嗟に声を出してラザールを呼び止める。するとこちらへと振り返ったラザールが、あたしに気付いてふわりと笑った。
「おはよう、殿下。どうしたの?」
ラザールが振り返ってあたしに笑いかける。それだけ。そう、たったそれだけなのに、今までにないくらい、あたしの心臓はドキッと跳ね上がった。
「……っ」
「……?」
ドキドキドキ、と加速する心音と共にあたしの顔も一気に赤く染まっていく。
どうして? なんで? そう思うのに、赤く染まっていくのを止められない。
「……殿下?」
ずっと押し黙ったままのあたしに不安になったのか、心配そうな顔でラザールが一歩近付いて来た。
なのでつい、反射的に後ろに一歩下がって叫んでしまった。
「ち、近付かないでっ!」
「え、」
ラザールがあたしの言葉に一瞬ポカンとした後、急に真面目な表情になって「殿下、もしかして具合が悪いんじゃ……」と、また近付こうとしたので慌てて手で制した。
「ち、違っ……、あーー、もうっ、えーっと、あーっと、んーーーー、」
自分でも何を口走っているのかもはや分からない。
こんなの自分らしくない、とあたしは必死に自分の頭の中を整理しつつ、そしてハッと閃いた。
今、学生の間で流行っていて、尚且つ今の自分のこのモヤモヤの原因を晴らせるかもしれない魔法のセリフが……一つだけ、ある。
……昨日目の当たりにした手前、今頃こんな事を聞くなんてバカげているとも思う。
でも、あたしの中で確信に変えて、自分の心にちゃんと向き合いたいと思った。
小さく深呼吸をして、心なしか震えている気がする両足にグッと力を入れる。
あたしはラザールの目をジッと見つめて、モヤモヤを吐き出すようにゆっくりと言葉を紡いだ。
あたしがそう聞いた瞬間、ラザールは少しだけ目を見開いたけれど、すぐに嬉しそうにふわりと微笑んで頷いた。
分かっていた事だけれど、ズキリ、と胸が酷く痛む。
その痛みを誤魔化すように、思わずあたしは矢継ぎ早に彼に言葉を投げ掛けた。
そして祈るように、彼の目をジッと見つめて返事を待つ。
するとラザールは、あたしの次の質問には少しだけ間を置くと、寂しげに微笑んで小首を傾げた。
「それは……まだ分からないかなぁ」
そのセリフにドクン、と心臓が大きく跳ねる。
一瞬、『嬉しい』と思ってしまった自分の感情は、すぐにラザールの寂しそうな笑顔に打ちのめされた。
「ど、……どうして? しっかり、捕まえておけば良いじゃないっ」
つい強がったセリフを告げながら、ツンッと顔を逸らす。
喜んでしまった自分の感情に罪悪感を抱いたのもだけれど、なによりも、寂しそうなラザールを元気付けたいと思ったからだ。
そんなあたしの言葉に、ラザールは楽しげに笑った。
「ははっ、殿下らしいなぁ。……うん。でも、彼女は旅人で……私は、自由に生きる彼女に惹かれたんだ。だから、そんな彼女を私の為だけにこの国に縛り付けたいとは……思えないんだ」
ここにはいない彼女を思い出しているのか、ラザールの優しげで愛しげな眼差しに、あたしは頭を殴られたような衝撃を受けた。同時に、ラザールはバカだと怒りも込み上げる。
「……っ、バッ……バッカじゃないの!? そんなの、ただの綺麗事じゃない!! それじゃあラザールは、彼女にこの国に残って欲しいって思える程、彼女の事を想っていないって事になるのよ!? 本気で好きだったら、例えこの国に縛り付けてしまう事になったとしても、彼女に帰化を望むもの!!」
怒りに任せて叫んだあたしに、ラザールは驚いたように目を見開いたけれど、暫くするといつもの優しい笑顔であたしの頭をふわりと撫でた。
「……そう、かもしれない。殿下の、言う通りだね。……ありがとう、殿下。私は臆病だから、誰かに背中を押して欲しかったのかもしれない。……彼女としっかり、向き合ってみるよ」
ラザールの優しい笑みに、思わず唇をぎゅっと噛み締める。あたしは彼の手を頭から乱暴に振り払うと、彼に別れも告げずにその場から走り出した。
後ろで何かラザールが言っていた気がするけれど、振り返って聞いてあげるなんて……そんな余裕は今のあたしにはない。
悲しいのか悔しいのか、自分の小さな手を見つめてギュッと握りしめると、あたしは夢中で彼から出来るだけ遠くへと走って逃げた。
───どうして、こんなにも心が掻き乱されるのか。
あたしはその日、初めて学校をサボってしまった。
どこに行くでもなく、フラフラと王国中を歩き回る。
───いや、違う。
本当は、ラザールと彼女が居そうな所をことごとく避けまくっていた。一つの場所に止まっていると、二人の姿が目に入ってしまう恐れがあるからだ。
いつの間にか陽は沈み、あちらこちらで魔法のランプの明かりが灯る。
この国の明かりは、陽が沈むのと同時にふわりと自然に灯る。何が明かりの原動力になっているのかは定かではないけれど、絶え間なく夜を照らしてくれる温かく優しい光だ。
そんな光にホッとさせられながら、ふと小さく息を吐く。あたしはカルネ皇帝の橋で、じっと海を見つめていた。
この国は、お世辞にも大きいとは言えない。
だけど、人口は近隣諸国に比べたら居る方だと思う。そう、三百人以上の人間が生活しているのだ。
それなのに────。
思わず顔を俯けそうになった瞬間、優しくトントン、と肩を叩かれた。
驚いて振り返ると、
と、レノックスがニコリと微笑んで小首を傾げた。
「こ、こんばんは……」
あたしはそう答えながら、落胆している自分に驚いた。
……一瞬、ラザールだと思ってしまったのだ。
その、自分の変化にさらに驚く。
あんなに好きだったレノックス。
ずっと、ずっと、追いかけていたレノックス。
それなのに、今。
あたしの心はレノックスに会えても、全く揺れ動かない。それどころか、“違う”と、何故かガッカリする自分がいた。
その後は、心ここにあらずといったあたしの態度に、レノックスは心配げに一言二言声を掛けると、早く帰るんだよ?と、少し心配そうに眉尻を下げて手を振るあたしを見送ってくれた。
もう、分かりたくなくても分かってしまう。
城までの帰り道、あたしは嫌でも自分の気持ちに気付かされた。
──あたしは、ラザールの事が好きなんだ──。
気付いた途端、切なくて寂しくて胸がぎゅっと苦しくなった。
この国には三百人以上の人間がいる。
それなのに───どうして人は、たった一人をこんなにも好きになってしまうんだろう。
……レノックスの時とは全然違う。確かに彼の時にも苦しくはあったけれど、胸の苦しさが全然違う。
レノックスはあたしにとって、王子様のような人だった。でも、今ならわかる。それはきっと御伽話に出てくる王子様に憧れる感覚と一緒なんだ。だけど、ラザールは───。
……今更気付いても、もう遅い。
ラザールに散々恋人を作れと消しかけたのは自分だ。
───『じぃじに似ている人がいる』───。
それが、あたしの彼に対する第一印象だった。
だけどそれから、彼を見かける度になんとなく気になって、自然と目で追ってはいつも声を掛けていた。ラザールのあの、お人好しで優しげな笑顔が好きで。頭を撫でてくれる大きな手が好きで。マイペースだけど努力家なところも好きで。
ポトリ、と涙が一筋頬を伝った。
シズニ神殿前で立ち止まったあたしの頬を伝う涙が、神殿の温かい明かりに照らされてポトリ、ポトリと地面に染みを作っていくのが見える。
───あたしの願いは、
『好きな人と幸せになる事』
それが、あたしの光星に願った願いだ───。