名画座のように…

映画素人による備忘録的ブログ

第九回「Dolls」

第九回「Dolls

 

2002

 監督 北野武

 出演 菅野美穂
    西島秀俊
    松原智恵子
    三橋達也
    深田恭子

 

 

 

******ネタバレ注意!!********

 

 

 

 


 のっけから、人形浄瑠璃で始まる。演目は近松門左衛門の「冥途の飛脚」。遊女に恋をし、身請けするために大切な仕事のお金を使い込んだ男と遊女の逃避行の物語…

 

 ストーリーは三部仕立てのオムニバス


 松本(西島秀俊)と佐和子(菅野美穂)は恋人同士。結婚を約束した仲。だがそこに、松本に社長令嬢との婚姻話が持ち上がる。松本は佐和子の事を愛しており、当然この婚姻を嫌がる。が、地位と名誉、そしてお金の面から両親は強くこの婚姻を推す。結局それに流される形で松本は社長令嬢と結婚する事になる。


 結婚式当日、佐和子が自殺を図ったと旧い友人に知らされた松本は、式直前に教会を抜け出し、車で佐和子の元へ。
 大量の薬を飲んだ影響もあるのか、佐和子は既におかしくなっており、会話も出来ない状態だった。そんな佐和子を車に乗せ、松本と佐和子は逃避行を始める…

 二人で逃げたはよいが、おかしくなっている佐和子は、目を離すと何をするかわからない。松本が寝ている間に、車道に飛び出したり危険極まりない。

 最初、自分が寝ている間は車と佐和子を紐で繋いでいた松本だったが、遂には二人、腰に紐を結びつけた状態でいることになる。

 

 松本の車はなんの変哲も無い大衆車のセダン(この頃は大衆車といえばセダン、だったのです…)なのだが、色がすごい。はっとするような鮮やかな黄色。

 

 裏切りの色という意味合いも、無論、そこには込められている筈で…

 

 鮮やかな黄色だった車は、いつしか薄汚れ、道端に打ち捨てられる。二人は腰に赤い紐をくくりつけ、どこまでも彷徨う旅に出る。

 

 「繋がり乞食」となって

 

 この作品、色の使い方はさすがに秀逸

 

  桜咲き乱れる春の小道

 

  夏草が眩しい夏の土手

 

  紅葉が燃える秋の山道

 

  どこまでも続く一面の雪景色…

 

 

 二人、運命の赤い紐で繋がりながら、美しい景色の中、ひたすら、歩く。生活観が全く見えないところがファンタジーではあるが、それだけに美しい…

 

 オムニバス形式ではあるが、これがメイン・ストーリー。

 

 いかに綺麗な映像表現でも、それだけだと間が持たない。旨いことは旨いが、ともすれば単調で飽きのくる料理を引き立てる、スパイスのようなもの…それがこの映画に加えられた、二つのサブ・ストーリーである。

 

 だけどこれがどちらもピリリと辛い…

 

 ヤクザの親分(三橋達也)がふとした事から、若い頃別れた女性の事を思い出す。
 毎週水曜日に、公園のベンチで逢引を重ねていた二人。いつも女性はお弁当を作ってきてくれ、二人で仲良く食べていた。


 そんなある日、一方的に別れを告げる男。立派になって帰ってくる、それまで会えないと男は告げる。

 

そんな男に、彼女は

 ずっとここで、毎週水曜日にお弁当を作って待ってるから

 と、去り行く男に声を掛ける。


 何十年か振りに、ふと、その事を思い出した親分。その公園に行ってみると、なんと、彼女(松原智恵子)がベンチに座っていた。彼女は毎週水曜日、必ずお弁当を作って、そこで彼を待っていた…

 


 春奈というアイドル(深田恭子)の追っ掛けをやっている男、温井。彼ともう一人の男は昔から春奈のファンでありつづけている、古参の追っ掛け。


 ある時、春奈が事故に遭い、アイドルにとっての商売道具ともいえる顔を傷つけてしまう。


 失意の元に引退する春奈。傷ついた自分の姿故、人目を避ける生活。昔のファンとも、会おうとはしない。


 春奈が事故により引退したとき、温井は、自らの目を傷つける。写真集などでは、変わらず綺麗な姿でいる春奈。

 それを「見てはいけない気がして」自ら失明の道を選ぶ。


 やがて春奈に会いに行く温井。他のファンとも会おうとしなかった春奈だが、彼が失明していると聞いて、会う気になる。

 

 満開のバラ園、春奈に手を引かれ散歩する温井…

 


 どの話も、一歩引いてみれば、なんて馬鹿な事を、と、そう言える…

 だけど恋愛というものは、そういうものなのですね。わかってても、そうせざるを得ないときがある…

 

 覚めて、捨てて、逃げて忘れれば楽なのに…恋愛の渦中にいるものは、そこから抜け出すことはできない。

 

 あたかも誰かに操られている人形のように…

 


 さて、映像は美しいが、脚本そのものは単純。三つのストーリーを、絡める事もしていない点は若干気になりますか…


 そして…

 主演の菅野美穂さん

 

 菅野美穂さんは、素敵な女優だとは思います。特に表情の作り方はすばらしい…

 

 ただ

 

 この人の(女優さんとしての)欠点、「舌っ足らず」な印象があります…
 あくまで個人的な感想に過ぎませんが…「舌っ足らず」は、女優さんとして致命的だと思っています。

 


 だって…

 

 「舌っ足らず」は、すべての脚本を殺すんです…

 


 北野武監督は、それをわかった上で、この役を割り振ったのでしょうか…だとすればすごいですが、なんとまぁ、残酷な話でもあります…

 


 それから

 二つのサイド・ストーリーの重さ。

 


 私がもし、捨てた女に40年変わらず待ち続けられていたとしたら、多分、立ち直れない。

 


 そしてアイドルを思う男の純粋さ。アイドルの追っかけなんてと笑うなかれ。いや、一歩引いて見れば、その感覚が正解なのだが…だが、こんな純粋な恋の貫き方があるだろうか。まるでギリシャ神話みたいだ。

 


 三つのストーリーとも、良いラストは用意されていない。松本と佐和子は、雪山で足を滑らせて最期を迎える(もっとも、この二人の話はあまりにも幻想的なので、どこからどこまでが現実の話なのか…とうの昔に二人はついえていたのではとも解釈できる)。

 


 親分は…昔の彼だとは気付かれなかったのだが

 もう待たなくてもいいんです、だって、いつも貴方が来てくれるから…

 と、彼女に言われた矢先

 敵対する相手?が放った刺客に、公園で撃たれてしまう。

 

 

 春奈が引退する前、ライバルの男の方が、彼女の覚えが良く、彼はさびしい思いをしていた。

 皮肉な事に、失明したことでライバルの男よりも、アイドルのそばに来られた温井。きっと、そのままなら、春奈は最後まで彼を受け入れたことだろう。だって、これほど彼女を思う男はもう、世界に一人だけ…

 

 だが、そんな温井も、あえなく交通事故でこの世を去る。おそらく、目が見えないが故、事故に巻き込まれたのだろう…

 


 ストーリーを結ぼうという意思は、はなからなく、いずれも、芸術性を追求した作品であるが故の最期ではあります。

 

 だが

 

 そう考えると、松本と佐和子は、二人仲良く命を落とす分、救われているといえるのかもしれません…

 

 
 女性を裏切った覚えがある人には、とても重い作品


 え?貴方、重くなかった?真っ直ぐな、良い人生を送っておいでだ(笑)

 

第八回「グッドモーニング・ベトナム」

第八回「グッドモーニング・ベトナム

 

 1987米
 監督 ハリー・レヴィンソン
 出演 ロビン・ウィリアムズ
    フォレスト・ウィテカー
    チンタラー・スカパット


******ネタバレ注意!*******

 

 

 

 

 舞台はベトナム戦争下のサイゴン。兵士向けのラジオ番組のDJとして、エイドリアン・クロンナウア上等兵ロビン・ウィリアムズ)がやってくる。


 クロンナウアは前任者のDJたちとは比較にならないしゃべりの面白さで、たちまち前線の兵士たちの心を虜にしてゆく…

 

 というわけで、マシンガントークでジョークを連発するDJが主人公の映画なのですが…「パンチライン」のときも思いましたが、ジョーク要素が入った洋画は本当に難しいですね。字幕(または吹き替え)でそれを表現しなければならないわけですから。


 それでも「パンチライン」は十分笑えた…少なくとも面白さは伝わってきたのですが、この「グッドモーニング・ベトナム」となると、ギャグそのものの面白さが伝わってこないものが結構ある。


 その時代、アメリカに生きたアメリカ人が笑うためのギャグなので、難易度は高め。

 例えば着任の挨拶で、ある上官にクロンナウアが罵倒される。その上官が去った後

 

 目元がドナ・リードにそっくりだ

 

 とクロンナウアがつぶやくシーンがある。これなんか、ドナ・リードアメリカの女優で、この時代はベトナム反戦活動を行っていた、という知識がないと全く笑えない。

 

 でもこれはまだいいほう。調べれば成る程、とわかるから。でも、言い回しによる駄洒落的なものに関しては、もう、お手上げでさっぱりわからない。字幕無しで観て、そのまま理解できる人で、なおかつスラング的なものにも精通していて…なんて人でなければ、本当の意味でこういう映画は愉しめないのかもしれません。

 

 

 昔、ヘミングウェイとかスタインベックとか、向こうの小説を読んでいた頃、そんなのは原文で読まなければ意味が無いよ、とかうそぶいた友達がいましたっけ。

 

 まぁ一理あるのですが…

 

 言語が違うのだから、どうしてもニュアンスがずれてしまう時がある。それは確かに、その通りだとは思います。

 

 ただ、私は翻訳文というものがとても好きでして…違う言語を何とか表現しようとしたあの独特の文体。それはそれで得がたい魅力があると私は思っています。

 

 それは字幕に関しても同じ。別の言語圏であるから、字幕を通じて作品を見る。だけど多分、ネイティブの人には味わえない何かを手にしている時があるはず…そんな風に私は思っていたりします。

 

 …自分に英語力が無いことの負け惜しみ…ではなくてね(笑…多分)

 

 ついでに書いておくと、その友達は海外小説を原語で読んだりは決してしないヤツ、ということも書き加えておきましょうか…憎まれ口叩きたい年頃だったんですね、きっと(笑)

 


 さて着任当初から、ベトナム若い女性に、というかアオザイに反応しまくっていたクロンナウア。

 

 ある時、お目当ての女性トリン(チンタラー・スカパット)を追跡。英会話教室に通っている彼女に近付くため、彼は無理矢理先生役に収まる。

 まぁそれが、酷い下品なスラングとかばかりを教える授業で、生徒たちは爆笑。クロンナウアは皆の心を掴んでゆく…英語力がついたかどうかは怪しいですが

 

 授業が終わった後、当然、クロンナウアはトリンに声を掛けようとするが、一人の少年に遮られる。

 

 彼女は駄目だ。と

 

 彼はトリンの兄ツアン(ドゥング・タン・トラン)。トリンに近付きたいが為に先生役を買って出たクロンナウアの事を最初、彼は信用しない。

 

 クロンナウアは、まず、彼と仲良くなるところから始める。アメリカ兵御用達の店(ジミーの店)にツアンを連れて行く。そこで喧嘩に巻き込まれそうになったツアンを助けたことで、二人は仲良くなってゆく。

 

 まぁ、ツアンに因縁をつけてきたアメリカ兵は、札束をちらつかせたクロンナウアに女性たちを取られた…という経緯があったが故で、元を正せばクロンナウアお前が全部悪い!としか言いようがないシーンなんですけど。

 

 ツアンの協力も得て、トリンとの初デートにこぎつけるクロンナウア。だが待ち合わせの場所にいたのはトリン一人ではなかった。トリンの家族がみんな付いてきていたのだ。家族一行十数人を引き連れ、二人はデートする。

 

 映画みたいなシーン。まぁ映画なんですけどね。デートの待ち合わせ場所に相手の家族が同行していたら、普通の人は引きますよね。でも平然とデートして度量の大きさを見せる。この表現方法は時々見るような気がしますね…どの作品かは忘れましたが…

 

 このクロンナウアは善良なんです。だけどおそらく、当時の平均的なアメリカ人の理解力で、ベトナム戦争をみている。共産主義の脅威から、守ってやるためにアメリカが援助してあげている…強いアメリカ。まっすぐ前を向いていられるメンタリティ。

 

 だが

 

 物事は違う角度から視線を投げると、全く違った表情をみせてくる。

 

 それにクロンナウアは徐々に気付いてゆく。
 

 元々米軍放送局推薦の音楽など相手にせず、若者受けするロックを中心に選曲していたクロンナウア。彼の放送はノリとジョークとサービス精神で満ちていて、あるときなどニクソンのインタビューをハチャメチャに編集して流したり…そういう姿勢に反感を持つものも軍上層部にはいた。

 

 ある時、ジミーの店が、ベトコンのテロにより爆破されるという事件が起こる。その時たまたま店にいたクロンナウアだが「たまたま」ツアンが彼を呼びにきて、外に連れ出してくれたおかげで彼は被害をまぬかれる。

 

 ところが、店が爆破されたこの事件を軍は伝えようとしない。ラジオでそれを話すことは検閲により許されなかった。

 

 だが、クロンナウアは自分の番組でそれを伝えてしまう。

 当然、大問題になり、彼はしばらく休職扱いとなる


 ところが、後任のDJが全く面白くない。前線の兵士たちは、クロンナウアの復帰を渇望する。

 

 この頃、クロンナウアはトリンたちが住む村に遊びに行く機会があった。

 

 当然、トリンの村には、戦争で家族を失ったりしたものもいる。そこに軍服で遊びに行くクロンナウアの無邪気さ…

 

 その日、クロンナウアはトリンに

 

 二人は(立場的に)違いすぎる。一緒になれない、友達でもない。

 

 と、告げられる。まぁ振られたわけだ。

 

 さて、休職中のクロンナウアだっが、あまりにも後任がつまらないので、クロンナウアの復職が決まる。しかし、当の本人は乗り気でない。

 

 そんな時、たまたま兵士が満載のトラックとクロンナウアは出会う。そこで彼は、彼ががどれだけ兵士に支持されていたかを実感する。

 復職し、以前にも増して張り切るクロンナウア。現地取材なんかも敢行したりするようになる。

 ある時、その現地取材に行く途中、彼はベトコンに襲われてしまう。実はそのルートは危険だと軍は把握していたのだが、クロンナウアを好ましく思わないものが、わざと通行許可を出させたというウラがある。

 

 さて、その事実を知ったツアンは、クロンナウアを助けに行く。最終的に、米軍のヘリで無事に救出されることになる。

 

 ところが

 

 このクロンナウアを救出してくれたツアン。彼はなんと、ファン・ドクトウという別名をもつベトコンで、爆破犯として追われる身だった。

 ジミーの店爆破も、実は彼の仕業。

 ベトコンと友達というのは大スキャンダル。これを公にはしないものの、クロンナウアは除隊、帰国と決まる。

 

 ツアンの仲間の少年は既に処刑された事を知ったクロンナウアは、ツアンの身が危ないとトリンに告げ、彼の所まで案内してもらう。

 

 

 結局、ツアンはアメリカに恨みを抱くベトコンなのです。アメリカは敵であり、アメリカのせいで彼の母や兄、隣人も大勢殺された。だから、ジミーの店で二人死んだんだぞ、と、クロンナウアになじられても、それがどうしたと彼は言う。

 

 クロンナウアは、アメリカが友人として、ベトナムを助けに来たと、半ば本気で信じている。

 

 だがツアンの言うように、殺しに来たのは、確かにアメリカの方なのだ。

 

 アメリカ人はみな敵、当然、それがベトコンのメンタリティ。ツアンにとって、アメリカ兵は憎悪しなければならない対象、なのだ。

 

 だが、皮肉な事に、クロンナウアは「いいやつ」だった。だから敵として憎むべき相手なのに、二度も命を助けた。

 

 本当は二人は、友人などには決してなれない関係だった。その事はトリンも同じ。

 

 そうとは知らず、無邪気にそして自信たっぷりに、彼らに近付くクロンナウア。アメリカ人である彼の「仲良くしようぜ」というシグナルは、とてもまっすぐで善良なもの。だが、集団としてのアメリカは、ベトナムという国を反共の一戦場として捉え、彼らに援助を押し付け、そして苦しめる。

 

 戦争は、人を人として捉えなくなる。

 アメリカ人だって、ベトナム人だって、勿論、いろいろな人がいる。
 だが、国家、という集団が幅を利かせている状態では、誰もがその国家、というレッテルを背負わされる…

 

 そういう事を、考えさせらる映画です…


 最後まで、現地の人たちにクロンナウアが好かれていたのが、この映画の救いです…


 クロンナウアが機上の人になっているころ、録音テープで、クロンナウアの番組の最終回が始まる。

 

 先の朝鮮戦争で、アメリカがいかに押し付けがましく介入したか、コメントする。おそらくベトナム戦争そのものを批判できない、彼の精一杯のコメント。

 

 そして、ベトナムで戦う兵士たちに、無事にお家に帰れますように、と、願いを込める…

Good bye, Vietnam…

第七回「シンシナティ・キッド」

第七回「シンシナティ・キッド」


 1965(米)
監督 ノーマン・ジュイソン
出演 スティーヴ・マックィーン
   エドワード・G・ロビンソン
   アン・マーグレット
   カール・マルデン
   チューズディ・ウェルド

 

******ネタバレ注意!*******

 

 

 

 

 シンシナティ・キッド(スティーヴ・マックィーン)は若手ギャンブラー。その腕の良さは評判で、今売り出し中の勝負師。
 彼の住む町ニューオリンズに、伝説の勝負師ランシー・ハワード(エドワード・G・ロビンソン)がやってきた。彼は長らくポーカーの世界で勝ち続け、それ故「ザ・マン」という称号で呼ばれていた。
 キッドの親友、シューター(カール・マルデン)の計らいで、キッドとランシーとの勝負の場が持たれる。彼に勝つことが出来れば、その日からキッドが「ザ・マン」と呼ばれることになる。金、そして何より名誉がかかった大勝負だ。

 

 この勝負の前、スレイド(リップ・トーン)という男が、ランシーと勝負し、そして敗れる。その彼が、ランシーとの勝負が決まった時点で、情婦が身体に触れることを拒むというシーンは印象的。
 いうまでもなく、(大抵の)男には女性が必要なのだが、ある瞬間、それが邪魔になるときがある。

 だが大抵の男は、それは思っても言わない。実行しない。

 当然相手を思いやったり、失いたくなかったりという気持ちが働くからだが、それをあえてすることで、勝負前の緊張状態を表現している。

 

 一方キッドはといえば、女を追い払ったりはしないのだが、彼女、クリスチャン(チューズデイ・ウェルド)は、彼が大勝負を控えていると知って、邪魔にならぬよう田舎に帰る。二人の会話の中、一瞬キッドが上の空になるシーンがあるが、そういうところから、彼の心情をそれとなく察している。

 

 キッドの親友シューターはどうかといえば…彼はかつて、ランシーと勝負して、負けた経験がある。それ以来堅実になった、とは本人談。つまり彼はギャンブルに携わり続けてはいるが、彼は第一線の勝負師ではない、と、そういう描き方である。キッドとランシーとの勝負の場でも、一応プレイヤーとしても途中まで参加するものの、とことんまではいかず、浮きも沈みもしない状態で勝負から身を引く。


 だけどこれが意外とカッコイイ。ギャンブルにかかわりながら、大勝負はしない。堅実で大怪我しない所でスッと身を引けるというのは、相当の技術、経験がいる筈だからだ。

 

 シューターにもメルバ(アン・マーグレット)という女性がいる。彼女はどうやらあまり良い過去を持っていないようで、それをシューターが拾ってあげた感じだ。彼女がジグソーパズルのピースを「削って」無理やり完成させようとするシーンに、彼が説教をする場面がある。

 

 なんでもごまかそうとするな

 

 どちらかといえば、二人の関係は父親と娘のようなものかもしれない。そういうこともあってか、メルバはキッドに惹かれている。

 

 スレイドはランシーに敗れた事をうらんでいる。彼は良くわからないが裏社会に通じている感じのある危険な男。キッドとランシーの勝負の場で、メインのディーラーを勤めるシューターを呼びつけ、キッドが勝つように細工しろと脅す。曲がったことが嫌いなシューターだが、ランシーに対して多額の借金があり、親友を裏切るべきか、悩む。

 

 勝負前、キッドはクリスチャンの実家まで足を運ぶ…キッドにとって彼女は大切な存在であることがわかる。彼女の両親と会い、カードのマジックで打ち解け…本気の相手でなければ、こんな風に実家には行かない。

 


 いよいよ勝負当日

 

 キッドとランシーがそれぞれ勝負の場に持っていく物をカバンに詰めるシーン。戦う前の二人が醸し出す、空気が素晴らしい。

 

 キッドとランシーが初めて顔をあわせるシーン。地元の期待を一身に集めるキッド。ランシーが完全にアウエーである事を示すキッドに対するみんなの歓迎。そしてそれを演出するためにキッドはわざと遅刻してくる。

 

 勝負は席に着く前から始まっているという事だ。

 

 この手の勝負は、結局は心理戦。おそらく…ポーカーというのはこの心理的な要素が一番強いゲームだと思われる。この競技を極めたわけではないので確かなことはいわないが…


 相手に心理的な傷を作ったり、自分を恐れさせたり、こういう要素が一番大事。
 他の競技、スポーツもそういう要素は当然あるが、それだけで戦えるものではない。技術ありきで、その上にそうった要素も加わってゆく、という比率の筈。

 

 だがポーカーは、その心理的な部分こそが技術、といっていい。そしてさまざまな方法で相手を心理的に追い詰めたり、読み違えさせたりと技を仕掛けるためには、軍資金は多ければ多いほどいい。そう考えるとこれは本当に破滅の競技だといえる。

 

 最初は5人が勝負に加わっていたが、最終的に、キッドとランシーの二人が残り、サシの勝負となる。

 

 ここで一旦睡眠休憩。
 休憩前の勝負で、ディーラーをつとめるシューターが、キッドが有利となるようにカードを配る。それに気付いたキッドは、わざと降りる。

 

 休憩中、キッドは彼を呼び出し、シューターにそういうことをやめるようにいう。実力で勝つ、と。

 さらにその後の休憩中、スレードに呼び出され、シューターに協力させろと脅されるが、ここでもそんなことをしなくても俺が勝つ、と、言い切る。


 さて、睡眠休憩中、キッドの部屋にメルバが訪ねてきて、ベッドにもぐりこむ。今まで親友の彼女だから手を出さなかったキッドだが、ここでついにメルバを抱いてしまう。

 ところが、ここで間の悪いことに、部屋に突然クリスチャンが訪ねてくる。
 当然、クリスチャンは悲しそうに出てゆく…

 

 勝負再開。

 ランシーは読み違いを連発し、キッドが勝ち始める。だがそれは罠だった。 ポーカーの決着は、最終的にはお互いによい手が入ったときだ。そういうとき、掛け金は釣り上がる。

 

 観客の誰もがキッドの勝ちだと信じた最後の勝負

 

 だが、キッドのフルハウスに対し、ランサーはストレートフラッシュを完成させており、一瞬でキッドは敗北する

 

 悪役、というかやられ役っぽく描かれたランサーに対し、どうみても最後には勝つ主人公っぽく描かれたキッド。ところがそのキッドのまさかの敗北。

 

 この意外性は秀逸

 

 すべてを失ったキッド。帰る途中、いつも小銭を勝負する少年に勝負を挑まれ、それにまでも敗北する。

 

 勝ち運が逃げた

 

 傷心のキッド。だが、街角で彼を待っていたのは、失ったはずのクリスチャンだった…

 

 派手な展開も大仕掛けもない映画ではあるが、なにより全編に漂う空気感がよい。マックィーンがカッコイイのはもちろん、脇を固める人たちが渋い

 

 ランサーの長年勝負に勝ち続けてきたがゆえの貫禄…

 

 レディ・フィンガー(ジョーン・ブロンデル)の妙に映えるピンクのマニキュアと、同色の唇。女だてらに長年勝負をしてきたものらしいアピール…

 

 カードが配られるたびなにやらメモをとる勝負師、我に勝算あり、という精神的アピールなのだろうか…

 

 カードギャンブルという難しいテーマを、それに携わる人間を濃厚に描いてみせることで、見事に表現した作品。

 

 今の目からみると地味かもしれないが、その分、良質に作りこまれている映画である。