雪が降りそうだった。灰色の雲は厚いのに、不思議と暗くはない。目に優しい霞んだ色の景色が、自分の吐く息で濃度を増した。冬だ。

市営地下鉄の終点を降り、地上への長い階段の前。僅かに迷ってから、隣のエスカレーターを歩いて上がる。時間短縮という名の、横着。

古都の山並みに隠れる様にある俺の大学は、最寄り駅から少し距離がある。だから、地下鉄利用者の殆どが駅前から出るスクールバスに乗る。勿論俺も。

7時54分。いつも通りの時間にバス停に着く。もう既に並んでいる数人の後ろにくっついた。先週買ったばかりで未だ使い慣れないアイフォンでタイムラインを確認する。いくつかリツイートしてから、何も呟かずに画面を落とす。息をした。

耳にはずっと、少女の転がる歌が流れてる。

遠くから、でかでかと大学名が入ったバスが来るのが見えた。7時58分。時間通り、8時始発でバスが出る。俺の平日の、日課。

 

 

 

「 月曜日のインスピレーション 」

 

ビーーッ、という警告音の後、バスの扉が閉まった。中型のバスの中に、4人だけの乗客。静かにバスが走り出した。

窓の外を見るとも無く眺めながら、意識は耳から注がれる音楽の方を向く。もういいよと言われた疲れた少女が、息を止めた。一瞬で音が止む、と。

 

―――――――?

 

自分のプレイヤーの音が止んだその一瞬、覚えのある曲調が微かに聴こえた気がして、素早く上着のポケットの中にあるプレイヤーを操作して次の曲の再生を止める。イヤフォンは抜かないまま、さも今も音楽を聴いている体勢で、耳だけを澄ました。後ろの座席から僅かに漏れる音。

 

(・・・・・・?・・・、・・・・・・・・・っ、・・・・・?・・・・・・・・・・・・あっ)

 

これ、もしかして。

 

「マダラカルト?」

「・・・えっ!?」

「え?」

 

あ、と思ったけど時既に遅く。青ざめる俺とドン引きの彼女が座席越しに目を合わせた。あ、なんかすごい気持ち悪そうにこっち見て、る。ああああ、これは。

 

(もうだめかもわからんね・・・)

「・・・?」

 

白畑さんと出会ったのは、2年前。これが最初だった。

 

 

「 火曜日のアクティベーション 」

 

 

 

 

 

 亡き祖母が好きで集めていた着物の中に、酷く綺麗な十二単を見つけた。驚いたのは、その十二単が子供用の丈であったこと。そして俺宛の手紙が添えられていたこと。

 手紙の中で祖母は持っていた着物を全て俺へ譲ることを述べ、自分亡き後の俺の幸せを願っていた。宗一郎が一番物を観る眼があるわねと、生前よく言っていた祖母は、自分の宝を俺に託してくれたのだろう。

 十二単の一衣を手に取る。すべらかでズシリと思い。丹精に織り込まれた上物だろう。古い桐箪笥の匂いが移る程には時代のあるものだ。

「・・・・・これ要ちゃんに似合うかな」

呟いた途端、当人に背中を蹴り上げられてしまった。

 

 

 

「着ないぞ」

 そんな事を言わないで、ね?と何十回目かの応答を俺は繰り返した。

 この十二単の丈は本当に要ちゃんにぴったりだし、鮮やかな緋色の上掛けは彼女の黒髪をさぞ映えさせることだろう。髪飾りは見当たらなかったが、おかっぱの彼女にはそう問題は無いし、なにより。

「今日は雛祭りだよ?」

「いやだ!」

 黒目がちな猫目を吊り上げて、要ちゃんはびしっと言い放つ。9才児がとんだ怒り様だ。しかし、激情とは違う赤みに染まった要ちゃんの顔を見ると、おやおやどうやら恥ずかしいらしい。

「そんなに嫌ですか?」

「いやだ!」

「どうしても?」

「いやだ!」

「だめです」

きっぱり言い切る俺の一言に、要ちゃんが大声を上げて慌てた。顔を余計に真っ赤にさせて、着ない着ない!と喚き立てる。そんなに嫌なのかと寂しくなりながらも、意見を変えるつもりのない俺は十二単を両手に抱えた。そのまま祖母の部屋を出て、庭に面した広い居間へ。先日張り替えた畳の匂いに、桐箪笥の古い香が混じった。

祖母が生きていた頃は、よく家がこの匂いになった。祖母亡き後家を任された俺の両親は、和室の掃除も碌にせず畳を痛めてしまっていたし。畳に掃除機をがーがーとかけていた母を思い返して、苦笑がもれた。あの時、目にそって箒をかけてと言えなかった自分がいる。両親に対する遠慮か、祖母を庇う故の白い目を避けたのか。今では祖母も両親もいないので、心苦しくなる必要はもうないが。

「宗一郎?」

ふと物思いに沈んでいた思考を、心配そうな声が掬った。右ひじの横から伺うように覗き込んでくる要ちゃんに、何でもないよと返す。安心した要ちゃんの顔を見届けてから、十二単と共に腰を下ろした。ゆっくりと畳に寝かされた一式を見渡し、着付けの順番を頭で並べる。よし、いける。

「さて要ちゃん」

くるっと振り向き、背後から様子を見ていた要ちゃんを呼ぶ。それだけでこれから起こる着せ替えを鋭く察知した要ちゃんは、1秒かからず目を吊り上げた。

「嫌だぞ!」

即答する要ちゃんの襟首を向かい合ったままでつまみ上げる。

黙って微笑む俺と眉を垂れる要ちゃん。

俺は襦袢を手に取った。

 

 

○●○●○●○●○

 

 

「お、お、重い」

「我慢して、もうすぐ甘酒できるから」

 

 

コートに立てなくなってどれだけ経つのかを未だによく考える。思考の船は白く濁った記憶の海を渡り終える前にずぶずぶと沈んでいく。眠りに落ちる前はいつもこうだ。そしてこのまま、あの夢をみる。まるで意識だけ異世界に飛ぶような、現実味の無い夢を。

一切の色彩を感じない部屋には、大きなガラスの嵌められた壁がある。部屋を真っ二つに断裁するように設えられたそれは、部屋に意味を持たせる。窓も扉もないその部屋には、ガラスを挟んで置かれた椅子が二つ。

今日もまたこの白い面会室で俺は、俺と会話をする。

 

 

「検査はどうだった?」

薄く微笑みを浮かべて、ガラスの向こうから俺が問いかける。まずまずかな、とこちらも薄く微笑んで答えると、まるで鏡を見ているようだ。ガラスの向こうの俺は、目の色も、髪の長さも、来ている入院服すら同じで、文字通り“俺”だ。首一つ傾げる所作を取っても、俺であるとしか言いようがない。そして俺は未だに、向こうの俺を何と呼ぶか決めかねている。

「善くもなく、悪くもなくってとこかな。まぁ、入院してる時点で善くはないんだろうけどね」

「まあね。でも悪化してないだけでも恵まれてると思わないと」

「そうかもね」

そういって向こうの俺はまた少し笑う。それを見てふと、自分はいつもこんな顔で笑っていたんだろうかと思い巡らした。学校で、家で、テニスコートで、自分はどんな顔をしていたのだろうか。考えても、思いつかない。たった数ヶ月前の自分の顔がわからないなんて、おかしな話だと思う。だって真田や蓮二は勿論、ガムを破裂させた丸井の顔だって一瞬で思い出せるのだ。自分に無神経だったのだろうかと思う程に、何も頭に浮かばない。

「何を考えてるの」

ふいに問いかけられ意識を目の前に戻した。

 

 

特別じゃない折原臨也の存在疑惑

 

 

 臨也さんはまるで何も知らない子供の様にまた一人、人間の感情の底床をぶち抜いて微笑んでいる。凶悪でもなく、優越でもなく、クラスメイトの結婚式でも眺めているような目だ。底を抜かれた当人は、指一つ動かせない茫然自失の状態であり、今から暫くの間は物理的に何の進展も見られないことは予測が付くが、この一本線な状況すら、彼にとっては浸るべき人愛の時なのだろう。全くもって反吐がでる、死ねばいいのにこんな屑野郎。感動で涙が出そうな程私は今辟易している。

 それでも私は深夜1時も回った時間に鳴り響いた彼からの電話に出たし、寝間着からきちんとした外服へ着替えてお誘い通りの場所へ行き、彼に言われた通りの行動を取り、言うなれば彼に協力したと取られても反論出来ない言動をしたのだ。それはすべて過不足無く完璧な彼の為の行為であり、私の中にある彼への尊敬の感情がなし得たことである。そうなのだ。私は彼を尊敬している。何偽り無く。心の底から。

 何が由縁でその尊敬心が私に植え付いたのかを私は覚えていないが、ほじくり返した所で何も出てはこないだろう。それさえきっと、彼が構築したシチュエーション、システム、プロセスに導かれた結果なのだから、私がそれを認知する必要は無い。彼がそう仕組んだのなら、それはすべからく正しいのだ。だって彼は折原臨也なのだから。彼は完璧であると私は思っているし、実際にそうではなかったとしても、私がそう思っているのなら問題は無い。私が私の自我を脱せないことは、今までの人生で分かっていることだし、いつだったか彼もそう言っていた。それで十分である。

 彼は揺るぎなく完璧であるのだ。容姿も能力も才能も、一般と言われる人間のそれとは上回るものがある。私は確かにそう思っているのだが、なんだろう。最近酷く感じるこの人間臭は。それもチープで、私の理想の彼とは違う決して神がかっていない人間の、匂い。あの美しくて残忍な彼の身体の中身は、狂気的に輝いた折原臨也という宝石が入っていると以前は思っていたのに、どうしてか今はそうは思えない。大きな裁ち鋏で彼の背中をざくざくと切ったら、ただの23歳の男が出てくる気がしてしまうのだ。ああ、ああ何故こうなってしまったのだろうか。私の思考をこんなにも醜悪に導いたのは何なのか。ああ何故だ。何が悪いのだ。私が悪いのか彼が悪いのか、はたまたどこぞの第三者が悪いのか。

 ただ一つ言えるのは、彼は恋愛はしないと、そう私が間違っていたということだ。

 

 

 

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僕は臨也は人生一回目の人間だと思ってて、

一回目だから見るもの全部面白いし興味があるし試してみたくてって、

ただそういう人に見えるからあんまり嫌悪感とか無いんだけど、

一つだけ嫌いなのは平均以下な部分が無い所ですかね。

これだけは能力的に低いってとこがあったら、可愛かったんだろうけど。

そんなこと思いながら、恋愛能力平均以下な折原と臨也教信者の話。

 

 

 

デッサン再び

 

 前回の美術で昏倒してから一週間。いま再び始まるデッサンの授業を考慮して昼飯は食べていない。吐いている余裕はないのだ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。さっさと描いて終わらせなければ、長田さんを恨み始めてしまいかねない。悪いのは長田さんじゃないことなんて重々承知であってもだ。

 そもそも長田さんがどこであの血まみれ男子をくっつけてきてしまのか皆目検討もつかないが、血まみれ男子の服装や頭に被った防災ずきんなどを見る限り、かなり昔にお亡くなりの子供だろう。いつも半月笑みで、煤けたチラシで作ったであろうお花の折り紙を手に持ち立っている。大量の血液さえ無ければ本当に普通の子供だと思うと何だか切なくなってきた。戦争だろうか、世の中は辛い。しかし俺も辛い。

 昼休み終わりの5時間目にある美術の為に渡り廊下を抜け、美術室のドアを恐る恐る開けるが、長田さんの姿が見えない。まだ来ていないことに胸を撫で下ろしたが、授業開始まであと2分を切っていることを考えると長田さんの動向が気になる。時間には気を配る長田さんが、いつも5分前行動なのはクラスでは有名な話だ。既にクラスメイトの殆どが揃った教室の中から、近場の女子を選んで長田さんの行方を訊くと、昼休みの時から姿が見えないらしく、友人達も心配しているらしい。これはもしや。

 

「体調不良で早退なのでは!?アイムウィナー!?」

「最低だな藤原」

「あっ、ちがっ!ちがくて!」

 

 女子からの評価を落としてしまう程感極まった声を出してしまったことに些か後悔しながらも、このまま長田さんが来なければという期待を捨てきれない。黒板の真上に鎮座している簡素な電波式アナログ時計の分針を見つめる。授業開始まであと1分を切り、分針が次の目盛りを指すのを待ちながら廊下の足音に耳を澄ます。無音だぞ、これはもしやほんとのほんとに?

分針がカチリとずれるのと同時にチャイムが鳴った。

 

「はじめるぞ〜、スケッチブックだして向かいあえ〜」

 

椅子を引く音とざわめきが広がる中、俺は喜びに打ち震えながらゆっくりと席を立った。完全に勝利の気分に酔いしれながら、滲み出る笑顔を隠そうともせず雑多に並んだ机の合間を縫って美術教師の元へ進む。デッサン相手がいなければ、他に余った生徒がいない限りこの先生を描くしかない。今日はこの先生のもみあげを俺史上最高の画力で描き上げてやろうではないかと机を3つ越した所で教室のドアがすぱん!と開いた。すぱん!と開い、開い、え?

 

「遅れましたっ」

「おー長田、お前いなかったのか」

「すみませんっ、昼休みから身体が重くて。あ、でももう大丈夫なんです」

「そかー、んじゃ席つけー。無理はすんなよー」

「ありがとうございます」

 

 開い、開い、開い、え、え、え、え?開い、え、まっ、え、ちょ、なんで、えっ!?

 

「…………………え?」

「遅れてごめん藤原くん」

「…………………え?」

「え?」

「ふたり」

「え?何が?」

 

 一体何のことかと目を丸くして長田さんは首を傾ける。その傾けた隙間からこちらを見つめる赤いスカートの女の子。首をギギギと下に向けると、半月笑顔の血まみれ少年。あ、こりゃびっくり。もう一人連れて来るなんて!

 お願いですから勘弁してくれ!!!!!

 

「ふっ、藤原くん大丈夫!?か、顔が真っ青だよ!?」

 

 わんわんと歪み始めた視界の中で、長田さんが心配そうに問いかける。床が柔らかくなるような錯覚と共に後ろに倒れ込みながら、長田さんの目頭に涙か溜まってるのだけ認識して、そこからまぁ、いつものように…。

 

 

『先生ー藤原がまた倒れたー!』

『そのうち起きるからほーっておきなさーい』

 

 

 自分のこと見て2回も気絶されたら、そりゃ嫌だよなぁ。

 悪いこと、したなぁ…。

 

 

 

 

デッサン初回

 

 昔からそういうモノはよく見るもんで、慣れてない訳ではないのだが、慣れることと平気だということはイコールではないのだ。小学三年のある日、担任の吉澤先生の背中に赤い服をびしょ濡れにした女性が負ぶさっているのを見た時は、1秒かからず気絶したものだ。隣の竹中さんちの花壇からにょろりと生えた青白い腕を見て気絶したのもついこないだのこと。上げ始めたらキリがないし、誰に相談しようにも分かち合える経験者が乏しいこの体質で十七年生きてきましたが、何年経とうがこの苦手意識は変わらない。だからつまり、俺はそういうのが見えていて、そういうのが大層苦手である。

 だから今目の前の椅子に座って画材を準備している長田さんの背中にいつもいる、頭から血を流しながら突っ立っている少年を見て、筆箱の中身を床にぶちまけてしまったとしても仕方ない。いつもなら彼(もちろん血まみれの少年)のこともあり長田さんには関わるどころか近づくことすらしないが、今は週に一度の美術の授業だ。美術の担当教師のアバウト極まりない席決めによって、つい十分前に長田さんと席が隣になった俺は、学期末である七月までの視界的な平和を断たれるに至った。そしてこの長峰高校二年C組の特に記念すべきでもない第一回美術授業は、よりにもよっての、

 

「……………デッ……サン…」

 

デッサンである。

 

「がんばれよ、優介」

「だいじょーぶだって、今まで取り憑かれた事ないんだろ?元気だせほら」

「がんばれねえよ晃一。代わってくれよ、たつみ」

 

 恨めしい俺の目線を受け流しつつ、ひらひらと手を振って自分のデッサン相手に向かう二人を見送って、深く細い溜め息を吐く。俺の心霊体質を知ってる二人は、俺が長田さんに関わらないようにしているのを知っている。今後3回に渡り行われるこのデッサンで、長田さんと向かい合ってデッサン、という状況に至った俺を慰めに来たのだろう。いいやつらだ。いいやつらだが、ちくしょうこのやろう涙が出る。

 初回の今日は席決めに使った時間の残りをデッサンの時間に取ってある。つまりあと三十分、俺は長田さんと向かいっこしなけりゃならない。三十分。三十分か…。

 

「藤原くん」

「っあい!?」

 

 唐突に呼ばれた自分の名字に完全に上擦った返答が出た。反射で向けた視線の先には、無表情に近い顔でこちらを見ている長田さん。……と。

 

「大丈夫?顔色悪いけど」

 

 その後ろから同じくこちらを見ている半月笑みの、血まみれ少年。

 

 ……………おえっ。

 

 視界が回って爆ぜたのを最後に、俺は後ろにぶっ倒れた。

 

 

 

『先生、藤原がまた倒れましたー!』

 

 

 

 

はるさんとはるさんの彼のはなし

 

世界は何であるか。その答えを出せなかった世の哲学者達に彼のソクラテスは言った。私達は“わからない”ということが“わかっている”、と。そして続ける。人間は賢いと。

それを国中の民に説いて回り続けたソクラテスはAC.399年、死刑となる。

たった今の講義で教授が語ったソクラテスを、結局わからないじゃないかと思ったわたしはほんとに失礼だ。

 

 

「はるさん」

顔をあげる。テーブルの向かいに立った友人が呼びかけていた。気付かなかった事に内心驚く。なに?と返すと、それ、と机の端を指差された。

「はるさんの携帯、光ってるよ」

気付かなかった受信ランプを伝える友人は微笑ましそうに「みずいろ」と付け足した。

「あー、はいはい」

「メールでしょ?見ないの?」

「後でいい」

やや投げやり気味にそう返して、手元のレジュメに視線を戻した。黙々とシャーペンを動かして黒の面積を広げていく。三限の始まった大学ラウンジは静かで筆音が目立った。向かいの友人が椅子に座る音がして、また「はるさん」と呼ばれる。

「なに?」

「喧嘩?」

人の感情には敏い友人だ。心配を滲ませた表情でそっと訪ねられて、投げやりに返せなくなる。こいつのことだから、その表情は作成されたものかもしれないが。

溜め息を吐いて、椅子の上で体を起こした。背もたれに寄りかかって友人から視線を外した。もうひとつ、溜め息。

してない、とすぐに言えなかったのは何故か。自分達が喧嘩をしているのが事実だからだろうか。そもそもあれは喧嘩なのだろうか。よく理解できない。

歩いていたら急に手を取られた。手を繋いだと理解した瞬間思わず手を離した。あいつの驚いた表情が見えたと思ったら、一瞬傷付いた顔をして、そのまま走って行ってしまった。わたしはただ、揺れる長い髪を追えずに眺めていた。

つまり。

「・・・わからない」

よくわからないのだ。

 

友人と分かれて出た四限ももう残す所五分になった。板書が多くて利き手の片側が黒ずんでいる。疲れた指を伸ばしてから、いつもの癖で携帯を手にとった。

開いた画面に表示された新着メールのアイコンを見て手が止まる。一件の新着が誰からなのか、ランプの色で分かりきっていた。なんでこの色にしたんだ。あいつの髪の色だからだ。分かりやすいからってこれにしたんだ。だからこの色だ。そんなこと分かってる。

自分が苛々しているのか怒っているのか分からない。悲しいのが寂しいのかも分からない。めんどくさいのか、呆れたのか。ただ、落ち着かない。それだけは分かった。

終業の鐘が鳴った。ぞろぞろと学生が教室から散っていく中、メールを開かないままで自分も続く。手にそのまま携帯を握り、重っ苦しい鞄を背負って教室棟を出る。帰る為に駅へと向かった。

ホームに備え付けられた時計が、七分後に電車が来ることを示している。乗車口の前で並ぶ。周りを静かに伺ってから、携帯を開いた。ぱちんと液晶が開くそのままの勢いで、押しなれたメールボックスを開く。一人しかグループ分けされてないそのフォルダに1件の表示があった。開いて、目を眇める様に文面を追った。

 

急に握って悪かった。

 

本日三度目の溜め息を吐く。眦が垂れた気がした。

打ち慣れた携帯で一分かからず返信を打つ。

 

今度するときは一言かけて。

 

送信の完了を見届けて、ぱたりと液晶を閉じた。遠くて遮断機の音がして、すぐに電車が来た。

目の前で止まった電車が空気の抜けるような音を出して乗車口を開く。一歩で肌寒い屋外から暖房の付いた屋内へ移動した。空き席を探して腰を掛けた所で、再び光る水色のランプ。

 

約束する。

 

なるほど。結局二人とも照れ屋さんという訳である。

「わたし賢いわ」

 

今年は手袋やめてみようか。