ボルトとルイス

 ボルト「カール・ルイス氏への敬意を失った」と銘打たれた記事があった。
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120811-00000002-jij_afp-spo

 記事の内容は、ルイスさんが
「批判するつもりもなければ確信を持っているわけでもない。本当のことはわからないが、すべての人がより精密なドーピング検査を迫られた時、受ける必要はないと言い切れるだろうか。陸上競技では特にね」

 という発言をしたということを受けて、ボルトが題意のようなコメントをしたことを報じている。
 実はさらに、ルイスさん以前からボルトやジャマイカ勢に対して薬物疑惑をかけるような発言をしていた模様。
 そのような積み重ねもあり、ボルトはウンザリしているという状況らしい。

 
 かつてのアスリートとして研鑽を積んできたルイスからすると、ボルトの記録、強さが信じられないのだろう。
 私のような一般人からすると、ボルトを始めとするジャマイカ勢は持ち前の才能に加え、
懸命にトレーニングを積んだ結果、現在のような好記録を残していると考えてしまう。

 だが、多くの才能を押しのけ、圧倒的なトレーニングを積んでいたであろう元王者からすると、疑惑を疑いたくなるほどの凄まじさなのだと思う。一般庶民はフィクションの世界等でも何かにつけて圧倒的なる天才像を生み出す。
 が、実際の世界でトップを張ってきた者からすると、その圧倒的の度合いは微妙なものであることを知っているのだろう。
 生物には限界がある。どれだけ才能があり努力をしても超せない壁が存在するのだ。
 才能ある者達は圧倒的な努力によって、微妙な差を埋めるよう努めるのだろう。
 それは、努力量に結果が中々結びつかない、酷く苦しく大変な作業だと思う。

 その現実を知っているルイスは、あれだけ圧倒的な強さを信じられないのだろう。
 まして、彼らの母国が自らの母国アメリカよりも、科学的トレーニング法や知識、実績が遥かに劣っているであろうジャマイカなのだから。
 加えて、薬物の力により、一時的に自分の前に立ちはだかったベン・ジョンソンがジャマイカ出身ということも大きいのかもしれない。


 ルイスの一連の発言はボルトやジャマイカ勢がいかに凄まじいかを痛感されされるのではないだろうか。




 ただ、私は少し心配にもなる。 
 それは、選手達は気づいていなくとも(コーチ、スタッフ陣も含めても良いが…)何か引っかかる可能性があるのではないかということである。
 ジャマイカ人の国民性としてノンビリした体質はあると思うのだ。(本でチラッと見ただけで確証はない。)
 一方で、現在のドーピング検査はかなり厳しくなっていると聞く。  風邪薬すら飲めないらしいし…
 彼らはドーピングを意図せず、また気づかずに、何かを食べたり、飲んだりすることがありそうな気がするのだ。
  (もちろん、ジャマイカに限った話ではない)
 そして、陽性反応→記録抹消→引退→黒歴史 なんて流れは勘弁して頂きたい。
 しかもそれが、ショーモナイ効力の薬や化学物質だったりしたら…
 彼らの記録がことごとく無効になるのは、あまりに惜しい。


 今回のルイスさんの発言により、本人だけでなく国というレベルで注意力がアップすれば良いなと思うのであります。
 

オリンピック

 オリンピックが結構盛り上がっている模様。

 オリンピック特有の競技というと、やはりアマチュア競技。 そして個人期には陸上。
 特に短距離が好き。 世界最速の名を与えられる男子100mは最大注目競技の一つ。
 
 ここ最近はボルトという化物が登場したため、そこに注目が集まっていた。
 が、私の最大の注目選手はジャスティン・ガトリン!!
 母国アメリカにおいて、ゲイを破りチャンピオンとなり乗り込んだ今回のオリンピックにおいて
 9.79のタイムで見事銅メダルを獲得した彼である。
 

 アメリカ代表でアテネオリンピックの100m王者。
 この時22才で五輪史上最年少100m王者。
 翌年の世界陸上では100、200の2冠を達成している。
 さらにその翌年2006年には当時の世界タイ記録である9.77を記録。
 まさに前途有望なる絶対王者であった。
  
 が、2006年にドーピング検査で陽性が出てしまう。これがキャリア二度目であったため、最長8年もの出場停止処分となる。
 ここで問題となったのが一回目の違反。
 実はこの方、注意性欠陥障害であったようで、その治療薬が最初の陽性の原因であり、無効であると主張していた。
 そのようなこともあってか(これはあくまで私のかってな予想。)、処分が4年に短縮される。

 そこから復活しての今回のアメリカチャンピオンそして、見事な銅メダルである。
 そりゃ見事としか言いようがない。 

 24〜28才というスポーツ選手にとって最も大切な時期に表舞台から去らなければならなかったのだ。
 モチベーションを保つのはさぞや大変だったであろう。
 実際NFLに挑戦しようともしていたらしい。 
 (ちなみにこの時の40yの記録が4.45 4.42という平凡な記録なので、100mの練習をメインで続けていたのかもしれない。)


 今回の復活を聞くと素晴らしいという想いと同時に惜しい気持ちが抑えられない。
 彼がもしも
キャリアを順調に積むことができていたら、ボルトの良いライヴァルとなっていたのではないだろうか?
 それによって、ボルトのポテンシャルが今以上に発揮されていたのではないだろうか?
 などと考えてしまうのだ。 
 今回のボルトの圧倒っぷりを見ていて、改めてライヴァルのいない彼のモチベーションが気になったのね。

 確かにボルトの異次元さを見ていると、難しいかな?とも思うが、やはり「たら、れば」を考えずにはおれない…



 それにしてもガトリン選手、立派!!
 おめでとうございます!!!
  
 ボルトさん凄すぎデス…

フェルマーの最終定理

 数学という教科に嫌悪感を抱く人は多いようである。
 かくいう私も中学ぐらいまでは、そこまで好きな科目ではなかった。


 そんな数学であるが、実際は結構面白かったりする。 数学をそんなに知らない私ですらそう感じる。
 特に数論とよばれる。 数そのものを考える分野は興味深い。
 
 数年前に話題になった「博士の愛した数式」という本に出てくる話も数論であった。
 例えば「完全数
  その数自身を除く約数の和が、その数自身と等しい自然数のことである。(from wikipedia)
  
 具体的には6がそうである。 6の約数は 1,2,3,6である。 その内その数自身である6を除くと1,2,3  その和は1+2+3=6

 となりその数自身と等しくなる。 このような性質を数学者は「美しい」やら「完全である」と表現するわけである。 
 
 これで少しでも数論の面白さを、感じていただけたのではないであろうか?

 さて、この本の主要テーマとなるのは 
       3 以上の自然数 n について、x^n + y^n = z^n となる 0 でない自然数 (x, y, z) の組み合わせがない
     というもので一般に「フェルマーの最終定理」と呼ばれるものである。 ここで^は累乗のことである。
   n=2の時はかの有名な「ピタゴラスの定理」となり成り立つのである。が、それが増えると…
      

 この本ではその歴史的経緯を、様々な数学者の人生や功績と供に綴っている。
 「この問題がどうしてここまで騒がれることになったのか」や「この簡単な式が示す世界の一端」
  を感じさせてくれるよう書かれた傑作である。

 細かい内容にはここでは触れない。



 私がここで一番述べたいのは、
数学の強さと他の学問及び文化の難しさである。
 
 この本のamazonでのレヴューが凄まじい。http://amzn.to/HhwCwS
 最高点の星5つが107、星4つが18、星3つが3である。 (2012年4月3日)
 比較的低評価の方も、「完全に理解できなかった」とか「もっと高度な数学にも触れて欲しい」とかいったレベルで大したことない。
 というのも、証明の最終段階に近い分野の数学はあまりに高度で、一般読者向けには記述しきれないからだ。
 そこを万人に理解させるには、とてもこの一冊では無理だ。 レヴュアーの方々もその辺りは承知のようではあるが…
 


 さて、ここで私が考えたのは他の本で、このようなことがあり得るかということである。
 
 内容的には一つの大きなテーマを設け、その基礎となる話を学問的面とそこに関わった人々の伝記的面とで積み上げられており、
単純に面白さがある。
 さらに、一人の人物に特に集中してスポットを当てているわけではないので、文句もつけにくい。

 そして扱う学問が数学という最も論理的なものである。それ故に、実社会や人それぞれの感性の入り込む余地がない。
 つまり、好き嫌いや文句のつけようがないのである。


 
 一方で、文学や社会科学等は、人それぞれの価値観や好き嫌いが入り込みやすい。
 だから、どんなに多くの人に支持されていようとも、文句をつける人が後を絶たない。

 これは非常に面倒なことではある。 
 自分自身の信念と論理性を駆使して作り上げたモノが、大したことないレベルでの批判を受け得るのである。 
 そして、それに対する明確で絶対的な反論は成り立ち得ない… 何とも悲しい。 むなしい。
 
 しかし、そのような脆弱さを百も承知で、必死でもがくのが美しく素晴らしいのだろう。
 一人でも多くの人に届くことを伝わることを信じ、ベストを尽くすのである。
 そして、批判者に対しても寛容にそのアティチュードを変革できるよう、努める。

 私もそのような人でありたいものである。

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

フェルマーの最終定理 (新潮文庫)

 
 

西尾維新の文学

 凡人は天才に憧れる。 と同時に天才像というものを創る。
 
 天才なる画家とは?
 天才的料理家とは?
 天才的頭脳を持つものの人格は?
 超能力者には世界がどのように見える?

 
 我々は夢想する。 自分の見てきた、感じてきた世界の情報からストーリを紡ぐのだ。

 
 圧倒的な頭脳を持つものの引きこもりで、一人でその存在が完結している少女がいたら。
 その少女の唯一の友人があなたであったら。


 未来も過去も見通せる超能力者がいたら。 彼女は幸せだろうか。
 自分が死ぬ時も、嫌なことも分ってしまうが、それを止める術はない。


 一つの能力に圧倒的な才能を持っていても、他が普通であったなら、
 その人は劣等感を感じずにおれるのだろうか。


 
 例えあなた自身が「普通の人間」だったとしても、それは不幸なことだろうか。 無価値なことだろうか。

 人はその価値観でその人自身の価値が判断されるべきだろうか。 それとも能力だろうか。


 そんなことを少しは考えさせてくれるかな。  
 やる気は出るかも…

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社文庫)

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社文庫)

カジノって

ところどころでパチンコ批判を目にする。 また、友人にもパチンコ批判をする者がいる(彼自身が打つにも関わらず…)。

個人的にはギャンブルは無くならないと思うので、表に見える範囲で行うのが良いという考えだ。
さらに、サービス産業の発展は必要と考えている。
そんなことから、カジノの合法化には賛成の意見であった。




図書館でふと目に入った新書が「カジノ解禁が日本を亡ぼす」

カジノ解禁が日本を亡ぼす(祥伝社新書255)

カジノ解禁が日本を亡ぼす(祥伝社新書255)

そこでサラッと読んでみた。

文体は平易だし、書いている内容も専門的なことは少ない。 非常に読みやすい。
加えて、インタビューした人数が7人だとか実体験を基に書いていたりと、科学的というより印象論が強い感じがした。
そんなこともあってか、しっかり批判されている。http://casinopachinko.blog58.fc2.com/blog-entry-62.html



で、私の印象だが「良いんじゃね」という感じ。
筆者の一番の主張は「ギャンプルは良くない」ということと「カジノ誘致によって街の雰囲気が壊れる」
という2点が大きいようだ。
そして読後は、それに同意できるような気になったから「良いんじゃね」という印象になるのだ。


確かに細かいミスはあるようだし、どうも全体的に感情論が強い感は否めない。
経済的な効果についての批判も、根拠が「放射能汚染の問題があり、外国人観光客が減少傾向の日本では期待できない」
 とか「放射線問題を抱える日本ではマカオや香港には勝てない」とだけで、あまりに脆弱。


が、ギャンブルの危険性への危機感や、
カジノ立地による街全体や人々の雰囲気の変貌に関する個人的な印象などは、大いに参考になると思うのだ。
そこには、合理的な説明や統計データだけでは説明のできない価値があるように思うからだ。
そして、その価値の提示に筆者はある程度成功しているように思う。
ギャンブルやカジノといった業界の知識がまったくない私のような人間には、少なくともそう感じられた。


例えば、街並や景観、芸術といったものの価値は合理的な説明がつけ辛い。
しかし、それぞれの中に価値を見いだすことができるのが文化的人間だろう。

人間はそもそも不合理な存在だ。 どれだけ論理的に正しかろうと、受け入れられないものはある。
一方で物事を進める時には合理的な判断を行う方が効率が良い。
そのため近代化を遂げた現在、社会の至る所で合理的な行動・思考が求められる。

そのギャップを埋めるのが文化的姿勢だ。 
そしてそのような姿勢を獲得した生き方を目指す国の方が良いと、私は考える。
そんな私には響くものがあった本である。



さて、もう少しカジノについて学ばねば…

娚の一生

 若い頃は運命やら情熱といったことから恋愛が始まり、最終ゴールとして結婚を描く。
 それは最上級の幸せの証であり、幸せの達成を保証してナンボのものである。

 この漫画での結婚像は違う。
 まず、淡々とした日常があり、その延長上に結婚があるのだ。
 結婚も大人同士が互いに尊重しあい、たまに助けあうという形を理想としているように見える。
 幸せを誓い合い、手を携え合って一緒に歩もうという感覚は希薄。
 勿論、恋愛感情はあるのだが、それも情熱的とは言い難く大人の冷静なるものだ。(表面的には)


 長年夢に描いていた理想が目の前に現れても、愚直な想いと平凡な日常がそれを凌駕する。
 関係性においても、時には熱さを見せるも日常においては淡白で平凡だ。
 
 
 人は平凡でのどかな日常に、どこかで憧れている面があるのかもしれない。
 ジブリ映画や素朴な田舎生活を取り上げる番組や本が支持されるのは、そういうことだろう。
 
 一方でそれらが含む問題点に目をつむり賞賛している人々もいるだろう。
 どのような道を選んでも苦労はある。
 その時に冷静に対処できるような状況を自分の周りに築くことが大事なのだろう。
 心の余裕は幸福感から生まれると思うからだ。

 多少の不幸が訪れても乗り越えていけるような関係性を。
 そして自分が最も大切に考える価値が何であるかを探せたら…

 人は幸福を感じることができるのだと思う。

娚の一生 1 (フラワーコミックスアルファ)

娚の一生 1 (フラワーコミックスアルファ)

Strawberry shortcakes

“strawberry shortcakes”  魚喃 キリコ

 絵が好きで職業にしている 棟子。
 表面的に強く振るまうが、心は繊細。

 ルックスが良く、人付き合いも悪くない ちひろ
 平凡な自分の存在に価値を見いだせず、嫉妬と承認を求めさまよう。

 抜群の人気デリヘル嬢(タブン…) 秋代。
 専門学校時代の同級生に長き片想い中。

 小説や絵、音楽といった多趣味な 里子。
 恋に恋するも実際に動く気はない。


 現代の女性達の恋愛模様を中心に人生観をえがく。
 恋愛模様といっても、この中で“いわゆる”幸福な人は一人もいない。

 一方で、悲壮感や苦しさも淡々と描かれる。
 これは単純な線のみで描かれた絵にもよるのかもしれない。
 

 凄まじい不幸もなく、大きな幸せもない。
 が、日々を淡々と生きていく彼女達。
 それは本当は圧倒的な“強さ”なのだと思う。

 客観的な視線など気にすることなく、己の道を能動的に歩む人々。
 このような生き方を最大限に尊重すれば、
  もっと幸福な社会が訪れると思うのだ。


 「あんたが泣いてくれるんだったら
  あたしいくらでも生きれる」

Strawberry shortcakes (フィールコミックスGOLD)

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