当たり前? ~6~

今日の気づき。

 

数学の講義中、よくわからないことがあって友達に質問したんです。

丁寧に説明してくれるんだけどなかなかこっちの疑問点とマッチしなくて、

お互いどういったら意思が伝わるんだと頭をひねったんです。

最後の最後に、その友達がチラッと言ってくれたことがこちらの求める解説になっていて、おぉ~、となったんですが、

「どうしてそれを最初から言ってくれなかったんだ」

と聞いたところ、

「当たり前すぎて言う必要ないと思ってたわ」

と。

なるほど、確かに言われてみればそらそうだな、と思えることだったんですが、理解するまでの自分には到底思いつかなかったんです。

気づいてしまえば、出来てしまえば当たり前のことが、それに気づくまでの自分にはとてつもなく大きな障害に思えていたわけです。

 

さて、自分はバイトで個人指導塾の講師をしているんです。

そこで常々思うのは、

なぜこの子はこんなにも当たり前のことが出来ないんだろう、

もうほぼ答えを言っているのになぜできないんだろう、

といったことなんです。

何度かその生徒を見て、癖が見えてくると、どんなところでつまってしまい、どんな風に説明したらできるようになってくれるかは見えてくるんですが。

実際、その生徒に合った教え方が出来ると、以前分からなかったものより高い障害も、ひょい、と、さも当然のように超えてくれるんです。

 

これら二つから、当たり前、っていうのは思うほど当たり前じゃないんだ、と。

逆に、できない、っていうのは少し動かせば、小さなきっかけさえあれば、当たり前でしかないことになるんだと。

そう思ったんです。

 

 

これからは、

一度無理だと思ったことにも、少し頑張れば当たり前のことになるかもしれないと希望を持って挑戦し、

自分が当たり前にできると思ったことでも相手にとっては高い壁なのかもしれないということを肝に銘じていきたいですね。

 

 

と、なんだか立派な意思表示をした後に愚痴が始まります。

自分の中学では「当たり前のことを当たり前にできるようになりましょう」なんていうことを、不要物が見つかったり、他に問題が起きたりすると、教師が口癖のように言っていたけど、今思えばあほらしいな~

やっぱ人によって当たり前なんて違うんだから、そんな押し付けばかばかしいよ。

そもそも、その人にとって当たり前のことは、今できていることなんだから、「できるようになる」ものではないでしょ。

むしろ、それが悪いことであると、説明して説得するのが教師としてあるべき姿。「当たり前に悪いから」で片づけるあの姿は見習えたもんではないな。

 

 

と、思いっきり脱線しましたが、こんな感じに学ぶ上で思うことはたくさんあるので、ある程度煮詰まり次第どんどん書いていきたいです。

 

カトウ

 

 

 

大人 ~5~

最近、教職の講義で話題になっていたので「大人」について思ったことをつらつらと。

 

まず、大人、って何なんでしょう

成人した人、責任を持てる人、自立している人、頭が固くなった人、、、講義での話し合いではいろんな「大人」が出てきました

 

成人した人が大人なんでしょうか?19歳までは子供で、誕生日になって(法律上では誕生日の前日)20歳になったら大人、というのはあまりに陳腐な大人ですよね。

ここで思い出すのは漫画、「クロエの流儀」

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これなんて印象的でした。

ここで話したい「大人」とはなんぞや?という問には答えてないわけですが。

 

 

責任を持てるようになれば大人なんでしょうか?

政治家を見ていると責任とれていなかったり、不祥事起こした会社の役員を見ると責任をとる、という言葉を盾に逃げていたり。あんないい「大人」でさえ責任に対して曖昧で、なんだか「大人」を考える上ではビミョウです。

逆に、失敗してもそれを取り戻してけじめをつけられる、責任のとれる人ってすごいかっこいいですよね

 

 

自立したら大人なんでしょうか?

そうであれば自分は一生大人にはなれないと思います。

親はやはり心のよりどころとして想い続けるだろうし、多かれ少なかれ誰かに助けてもらわなければ絶対に生きていけないという自信があります。

だって人間だもの。

徹底的に大人になって、徹底的に自立して一人で生きていくなんてのはしたくないです。

やっぱり人間、どこかでは子供の部分を持ち続けるんじゃないでしょうか

この観点から、という限定の中でですが

 

 

頭が固くなったら大人なんでしょうか?

よく子供の発送は自由で柔軟だ、なんて言いますが、研究者なんかは自由な発想・常識破りの案を出しています。

自分の中で研究者は尊敬できる大人ですが頭は固くなってはいない、ハズ。

頭が固くなる、というのは分別がつくとか諦めることが出来る、みたいなニュアンスで使われることもありますね

それならば自分はずっと子供でいたい。諦めの悪い、こだわりはこだわりとして持ち続ける人間でありたい。と思います。

 

 

なんだかまとまりがなくなってしまいました。結局「大人」って何なんでしょうね。

一応成人はしましたがよくわからないです。ずっと考え続けると思います。また何か考えられたら書きだしたいです。

 

カトウ

見たこともない景色 ~4~

菅田将暉さんの「見たこともない景色」、聞いたことあるでしょうか

 

テンポなんかいい曲だなあ、歌詞もなかなかだなあ、と思って聞いてたんです

ただ、「日本の風に~」のくだりがどうにも好きになれなくて。

でも、「日本」という言葉を、国としてではなく、地名として考えるととってもいい歌詞だな、と今日思いました

 

なんだか自分の中で、国としての「日本」というのはプレッシャーを与える物であったり、愛国心を強制させるものであったり(愛国心があるのはいいことだと思いますが強制するのは違うと、悪だとも思います)といったイメージがあるんでしょうね。

 

しかし「日本」を地名と考えてからはなんだか四季折々の自然あふれる風、太陽がイメージ出来て、それが曲のリズムとマッチしたんです。

そうすると喉に引っかかったものが取れたようでもう違った曲に聞こえて。

まさに見たこともない景色、聴けた気がしました。

 

良い曲だなあ...

 

カトウ

小さい憧れ ~3~

最近、幾何学基礎で「近傍」というものを少し使えるようになったんですね

この「近傍」、高校の時何かの本で見て、なんとなくこの言葉を使うことに憧れてたんです

意味もどこで使うかもよくわかってはいなかったんですが、ただ、なんとなく憧れがあって。

これを使うために大学の数学科に入ったとまではいかないけど少しは理由に入っていて、なんだか嬉しい、そんなこの頃です

 

ま、「近傍」って書くときは画数多めで面倒だな~、とか思いながら書いてるんですけどね。

 

以上、小さいけれど自分の中に確かにあった憧れを実現させたお話でした。

 

カトウ

数学は役に立つか? ~2~

数学に携わる人がよく聞かれる質問であり、数学がしんどいと感じる人が思う疑問なんじゃないでしょうか。
これについて日々の中で考えてきたことが少しまとまったので、少し長めですが興味があればぜひご一読を。

まず「役に立つ」とは何ぞや。
お金になる、娯楽になりうる、新製品につながる、そして日常で使うことが出来る、、、ここら辺がぱっと思いつく「役に立つ」になるんじゃないでしょうか。
さて、数学はこれらの観点から「役に立つ」と言えるのか?以下が私の意見になります!

 


お金になるか

いきなり俗な話題になりましたが大真面目です。自分は大学の学部生の身分なので詳しくは知りません。ただ、率直に言えばお金にはならないと思います。
お金にできても、賞に値する人であったり、学校の先生や教授職だったりと、ごく限られた範囲です。一般社会で生きていく分には中学校、いや、小学校の算数でも事足りると感じます。義務教育なんてくそくらえです。

ただ、限られた範囲でのみお金になるのは数学だけでしょうか?例えばサッカー。これなんて、プロになれるのはたった数パーセントの人ですが、「役に立つのか」なんてことを聞く人はいません(「娯楽だからだ」なんて意見はまた後で書きますのであしからず)。「お金を稼げるかな?」、転じて「役に立つかな?」なんて考えながらサッカーしてる人はあんまりいないんじゃないでしょうか。

(claim:精神力や体育会系特有のコミュ力は就職等に有利。--数学での柔軟な思考、良好な成績は就職等に有利。これにより相殺)

だらだらと書きましたが言いたいことは、「役に立つかどうかは、お金になるかではない」「物事をやるかどうかはお金になるかどうかではない」ということ(反例を一つ上げただけですので、厳密には言い切れませんすみません)。この観点から数学が役に立つかは判定しがたいでしょう。

 

娯楽になるか

なります。

あら、このセクション終わりですね。

...さすがにこれだとひどいので少し書きます。

娯楽になるか、という問いに答えるには、数学を娯楽に感じている人を見つければいいわけです。私です。

知的好奇心を満足させ、問題解決いや問題を発見した時でさえ楽しさを感じさせるのが私にとっての数学です。ナンプレも数学か怪しいですが楽しいですね。また、一世を風靡したパズドラやツムツムはコンボの倍率計算・確率、ポケモンGO連立方程式なしには成り立たないゲームです。直接的にも間接的にも数学は娯楽になりえるんです。

なんか強引な感じがした人は、した人こそ、次のセクションへどうぞ。

 

新製品につながるか

 新製品につながった発見として、最近では青色発光ダイオードBlu-rayの、歴史上ではペニシリンは抗生物の、といった例が挙げられます。数学は絡んでいませんね。いえ、実は絡んでいるんですが、絡んでいないように見えるんです。

そんな簡単には納得できないと思うので、自分的に気に入っている例え話を一つ。

 

数学とは土を耕すことである。そこに物理学が種をまき、化学や応用物理学が水を撒いて世話をし、論文として収穫され、企業の開発部がそれを加工・調理して、やっと消費者に届く。

完成された料理を見て育つ消費者は、土を耕す数学者を見て「なんだあの馬鹿は土なんか掘って、あんなところから味噌汁が出てくるわけないじゃないか」と思う。でもちゃんと美味しい味噌汁につながってるわけですよね(数学者が味噌汁につながっていると知っているかどうか、私は知りません)。

 

要は、数学の発見が消費者の手元に届くにはある程度の年月が必要で、その形も大きく変わり、原型はわかりずらい、ということです。

事実、数学から物理学につながる段階で何年何十年とかかることもあります。というか、トップで研究する数学者から、それを確かめてわかりやすくする数学者までの過程も無視できないですし。

また、どんなに耕しても種をまいても不作になることはあります。でもそれは無駄ではなく、経験になり、肥やしになるんです。無駄に見える物もいつか花開くんです。

そう考えるのは私のロマン...だけではないと信じます。

 

結論:新製品にちゃんとつながってます。つながります。つなげます。

 

日常で使うことが出来るか

うーん、難しいですね。数学科の先輩院生は「暇があれば数学をする、はまだまだ未熟で、夢の中で数学するようになったら数学者だ。」なんて言ったりするんですが、正気の沙汰ではないっす。自分も時々数学者になれているので正気ではないんでしょうが。

 

話がのっけから逸れたので戻します。

数学を日常で使うのはレジでのお釣りの計算くらいで、これも数学というより算数です。弟が△分前に〇㎞/hで歩いて行ったから□㎞/hで追いかければ◇分で追いつける!なんてやってる人は見たことも聞いたこともないです。前のセクションで書いた通り、数学を使っているものは皆さん使っているはずですが(今見ているPC、スマホにも数学は隠れています)、ほとんどの皆さんは日常で数学を使うことはないと思います。

 

ただ、こう考えてほしいんです。日常で数学を使えたら、考えることが出来るようになったら、楽しいですよ。小さいころ、ゲームの攻略法を必死に考えたり、漫画の展開を予想したりしましたよね?今となっては少し幼稚で色あせてしまったかもしれませんが、数学ならあのワクワク感を、ちょっと大人になった今でも楽しめますよ。どうですか。身構えてやる必要はないんです。興味を持てる数学を見つけてみませんか。

 

また話が逸れました。しかも引かれる方向に。申し訳ないです。

結論としましては、日常で使うことはまずないでしょう。しかし、数学で培われる思考力や発想の柔軟性なんかは日常的に生かしてもらえると、少し数学に携わっている身としては嬉しい限りです。

 

 

まとめ

お読みいただきありがとうございます。いかがだったでしょう?

個人的には数学は役に立つ、というテンションで書いてまいりましたが、結論付けは皆さんにお任せで...

数学、楽しんでみようかな、と思ってくれた方には多湖輝「頭の体操」、イアン・スチュアート「数学の宝箱」をパラパラ読むことをお勧めします。

数学が苦手で見たくもなかったという方には前者、ちょっと得意だったんだけど途中からよくわからなくなったという方には後者が良いかな、という感じです。

バリバリに数学やってる方は勝手にやってください。Green-Taoなんかがせきゅーんさん(http://integers.hatenablog.com/about)がブログにあげていておススメです。自分には難しすぎましたが。

 

それでは、また。

 

カトウ

 

はじめまして ~1~

初めまして、カトウです。

 

ブログでは、数学関連で考えたこと、学生生活で感じたこと、教育関連で思うこと、などなど書くと思います。多分。好きな音楽やアイドルなんかも書くかもしれません。

Twitterを主戦場に生きてきたので長文などとても拙いですが面白い中身をお届けしたいな。いや、お届けします!

 

それでは、よろしくお願いします