他人の人生

きわめて個人的なこと

追いかけていたいだけの背中

会社勤めに向いていないのではないかと、ずっと考えていた。自分でもなんとなく感じていたし、適職診断や性格診断をしても、そのような結果が出ることが多いからだ。

 

ずっと何かを追いかけていないと気が済まない性格だ。頑固で頑張り屋で負けず嫌い。少し頑張れば手が届きそうな、斜め上を見上げた時にいつも追いかけるべき誰かの背中があって欲しい。それがないと頑張れない。絶対に届かないような存在には惹かれない。長期的に物事を考えるのが苦手な私は、少し先にあるもののことまでしか考えられない。

 

尽くしたい人の下でしかちゃんと働けない。理念や方針や商品に共感できないと頑張れない。その代わり、尽くしたい物や人のためなら命削っても働ける。極端でサイアクだ。

 

今の仕事では、ずっと身近に目指す人がいて、その人の背中を追ってきた。きっと考え方や価値観が似ている部分があったんだと思う。尊敬もしていたし、どう頑張ってもこの部分はこの人には敵わないなと思うこともあった。いつだったか「君は自分と似てると思うよ、権力を持って嬉しいタイプでしょ?」と言われて笑った。多分そうだから。あの頃の私は今はないギラギラ感が物凄かったと思う。気持ちと体力と運と勢いだけが取り柄でパワープレイで走り続ける毎日だった。先輩みたいになりたかったし、先輩に一目置かれたかった。

 

昨日、退職を先輩に報告したとき、先輩は変わらず私の先輩だった。私がこの役割を続けてくることができたのは、身近に追いかけるべき背中がちゃんとあったからで、目標を失うとすぐに迷子になってしまう自分が目指したい明確な存在だった。ずっと目標にしていました、先輩のおかげでやってくることができました、と伝えたら、「自分も負けず嫌いでこの人には負けたくないと思うことが多いけど、君には敵わないなと思うところがあったよ、後輩だけど見ていてすごいなって思っていたよ」とありがたい言葉をもらった。

 

 

この言葉が事実でもそうでなくても、それが先輩と私の価値観が同じというだけで良く見えていた評価だとしても、素直に嬉しかった。どこに行っても天井が見える、自分はここまでだと悟ってしまう。追いかけたい背中がいつもある人生だとは限らない。私の取り柄は真面目さだ。それは長所でもあり、致命的な短所でもある。目標なんかなくてもそれなりにやり過ごしていけばいい、自分の好き嫌いなんて顧客には関係ないのだから好きでない商品でもうまいこと言って売ればいい、だけど私にはそれができない。努力せずに手に入ってしまうものはつまらないし、努力しても叶いそうにない夢にはやる気を出せない。

 

 

自分勝手だ。

 

 

一年前、不安ですと言いながら泣いてコンタクトが外れてドタバタしていた私のことを先輩は覚えているだろうか。あの頃の自分が、今まわりから見て少しでも成長していたらいいなと思う。強くなってしまった自分は、もう一年前の自分の気持ちを忘れてしまっている。

 

 

 

 

 

 

預けたままの心と、返品不可のギブの暴力

よく笑ってくれる人だった。

すぐに調子に乗る私は、その人が笑ってくれるのが嬉しくて馬鹿みたいにボケ倒した。言葉のつかいかたがグッとくる、言い回しにセンスがあると褒めてくれるのが嬉しくて、自分の価値を人からの評価で決めてしまうバグを抱えていた私はその人によく懐いた。

 

君が笑ったり君が泣くのが私のことだなんて許せない 君に届くな/大森靖子

 

才能がないこと、努力する力もないこと、よくできた人間でないこと、優しさや余裕を落っことしていること、多分致命的な何かが欠けていること、目の前にあるものしか信じられないこと、生きることのベースに居心地の悪さがついてまわること、全て嫌だった。だけど、いとも簡単に人を好きになってしまう。「ああこれが恋に落ちるときめきなんだろうな」と無責任に他人事のように思う。こんな風だから、偽物の恋に落ちる感覚ばかりが積もっていって、決して恋愛という形にはならない。

 

心を預けると、その後取り戻す作業がとても辛い。預けたとしても大して増えないことも学んだ。なんなら預けたまま戻ってこないものすらある。それなら預けない方が良いじゃんと思うのは捻くれているのだろうか。

 

もう失いたくないし、傷つきたくないし、大切なものを増やしたくないし、面倒なことしたくない。

 

たくさんの線を引きながら歩いてきた。

自分のことを言い当てられたとき、嬉しい気持ちと警戒する気持ちが同時にわいて、そっけない返事になってしまう。もう恋愛なんてたくさんだ。いずれこの友情も恋愛なんてみっともない関係になるのだろうか。たしかにハグもキスもそれ以外もないけれど、だからそれが何なのだろうか。他の人にとられたくないという理由で恋愛に昇格させるのはありなのだろうか。結局誰かのものになりたいし、一人になりたくないし、名前がつかないと不安だし、法律で守られた関係は強いし、一言でわかりやすく説明できるのは楽だ。

 

仕事を辞めることを告げ、結婚?と聞かれてうんざりする。皆、理由がほしいんだよね。それなりに真面目に働いてきた人間が(相手にとっては)急に退職するなんて言ったら驚くだろうよ。私も一言で説明できるそういう理由があった方が楽だよなと思ったよ。「他にやりたい仕事があるので」も「今の仕事が辛すぎます」も「転職します」も「色々限界だからやめます」もどこかニュアンスが違うから、一言で相手を黙らせる「結婚」が理由だったら良かったのになと軽率なことを考えたり、実際に寿退社だと去っていった同期や後輩を羨ましく思ったりした。

嘘をつくのが上手なはずのに、馬鹿正直で本音しか言えない。本当のことを言えない私は、あなたの目を直視できない。

 

たまに、「あんたは強すぎる」という褒め言葉(だと私は解釈している)をそっと取り出して眺めている。私は本当に強いのか?たぶんそんなことない。強いという側面が必要な場面で生きてきたから、強く見えるだけだ。ここにいなければ、私はもっとずっとぼんやりした、優柔不断で人任せで無責任な甘えたがりな人間だ。だけどそんなんじゃこの社会を生き抜くことができない。知らない人を簡単に信用すると危ない。疎遠だった人が急に近づいてくると怪しい。心を許していない人にB面を見せるのはリスクがあると思っている。そんなんだから、信用しきってしまった相手にはわかりやすく全て預けてしまう。全部あげたいと思ってしまう。ギブギブギブギブギブ。いらないものを与えようとするのも立派な暴力なのにね。愛が重すぎる。

いつか私の言葉で大切だと思える人を笑わせたいと思う。いつになるかは分からないけれど。

 

よく笑ってくれる人だった。その笑ってくれる姿に私が救われていた。

 

笑わせたいな特別なキスの魔法で君を守ろう

ランデブー/YUKI

 

 

 

置き忘れられるための傘

月が綺麗。大好きだった。人を大好きと言える自分に安心していた。好きになるのは絶対に、綺麗なものを見上げる時に隣にいない人だった。

 

同じものを見て同じ気持ちになることができなくても、同じものを同じ高さから見ることが必要で、それこそが幸せなのだと思っていた。思いを馳せるのは隣にいない人。隣にいる人のことを愚かな私は忘れてしまう。

 

たまに、ほんのたまに、誰のためにも生きていないことが虚しくなる。ふと立ち止まった時に守りたいものが一つもない。自分を大切にするのが面倒だ。セルフネグレクトの達人。丈夫で強い子。健康優良児。毎日泣いていたとしても、体はそう簡単に死なない。

 

軽薄な謝罪も、傷つかないための工夫も、作り物の無関心も、全て身につけてしまった。手に入れたいものは、意図的な涙や無意識の涙を駆使して手に入れてきた。イージーじゃないけれどイージーみたいな人生、白線の上だけを適当に飛び跳ねながら歩んできた。世間知らずで怖いもの知らずで苦労を知らない生ぬるい陽だまりの中でひたすら与えられ続けて生きてきたから、誇れる魅力が何もない。争いたくない。対立するくらいなら笑って誤魔化して折れたくなる。ぶつかるエネルギーが無駄だと感じてしまう。

 

何のために生きていますか。誰のために生きていますか。いつになったら私はマトモになりますか。帰り道、訳もなく涙が出そうになる。あー空っぽだなと思う。でも日々に大きな不満はない。戻りたい過去もない。ただ、本当に小さな不安が積み重なっていくだけ。

 

なぜだろうか、平凡な人間が、平凡に生きることってこんなに難しい。

吹き抜けて春の風

立ち止まったら色々なことを考えてしまうから、立ち止まらないようにしてきた怒涛の数年間だった。

 

私は朝起きてから仕事へ出かけるまで、座らない。だいたい時間ギリギリまで寝ていることが多くて、これ以上ダラダラしていると間に合わないというラインになったら反動をつけてびょんっと布団からとび出る。そして身支度をして家を出るまで、ずっと動き続けている。朝ごはんも立って食べる。覚えている限り、ここ五年くらいはずっと立ったままの朝食スタイル。泳ぎ続けていないと死んでしまう魚みたい。でもこの方法でないと、もしも朝から余裕ができてしまえば「仕事に行きたくない」「会社怖い」「働くの怠い」「何のために働くのか」「働く上での心配事や悩み」みたいなものが次々に浮かんできてしまって多分仕事に行けない日が訪れる。

 

仕事中も、一度手を止めてしまうとそこでぷっつり切れてしまうからずっと働き続けている。仕事中はお腹がすいたとかいう感情も忘れている。常に頭の中で複数のことを考えながら、優先順位とか締切とかごちゃごちゃと全身がTodoリストで埋め尽くされている。

 

そんな生活をしてきたから、感性は死んでしまった。物事を見つめて深く考えるということを放棄してきたから、たまにふと立ち止まると、余白が怖い感覚、なんというか、空っぽで寂しいみたいな感覚が襲ってきて身動きがとれなくなる。寂しさは身体をより疲弊させ、あらゆることを考える力を低下させる。だから、仕事帰りに家の駐車場で車からなかなか降りられなかったり、何も欲しくもないのにコンビニに寄ってアイスカフェラテを買ってしまったりする。大して必要ともしていなかったものを手に入れて、大して望んでいないものを食べて飲んで、そうやって私はどんどん自分を無くしてきた。自覚があるだけまだマシかな。

 

先週、夜、無性にどこか遠くへ行きたくなって、ボロボロの部屋着とノーメイクメガネのまま車に乗った。桜を見に行こうと思った。車で十五分程の公園まで車を走らせる。窓をあけると、春の夜の生ぬるい風が少しだけ懐かしくなった。ちょうど去年の今頃、私は不安でたまらなかった。喫煙所で先輩に励まされて泣いて、駐車場で缶コーヒー飲みながら泣いて、深夜の高速道路を法定速度でぶっ飛ばしながら泣いていた。今より無知で世間知らずでひ弱でおめでたい「オンナノコ」だった自分。でも、"今夜でっかい車にぶつかって死んじゃおうかな"って歌詞はどこか理解できるような気がしていた自分。季節を重ねるごとに、どんどんキラキラした希望みたいなものが減っていく。若さを失うこととはまた少し違う。「若さを失う」と「大人になる」は全然違うし。「諦める力を身につける」のと「希望を捨てる」のも全く別物だってわかっているんだけど、それをちゃんと別物にできていない自分を目の当たりにして苦しい。春が巡るたびに私の感性は退化する。

 

夜のライトに照らされた桜は綺麗だった。美しいなと思った。来年はこの桜を見ないんだろうなと思ったし、来年も夜にここで一人で桜を見ている未来は不正解だなとも思った。正解、不正解だけで物事をはかるのはナンセンスだけど、これだけは絶対に不正解。花を見ると心が多少穏やかになる。でも、花を至近距離で見つめると、結構恐ろしい構造をしていると思う。喰われそう。美しいって恐ろしいことだ。美しいというのはたった一面。面だけで捉えてはいけない。何事も。しばらく桜を眺めて、なんとなく私が殺し屋だったら桜の木の下には死体は埋めないなあと思った。

 

 

桜を見に行った翌朝は土砂降りだった。昨日の桜は雨に打たれてしまったんだろうなと少しだけ残念に思った。それでも生活の余白がかき消される雨の音は好きだ。「一瞬で散ってしまうからこそ美しい」とは言わない。昨晩の桜は、一瞬で散ってしまわなくても百点満点に美しかったから。

 

 

いつの下書き???

とてつもなく喉が渇いている。だけどどうしても水分が入っていかない。「また連絡するね」と「行けたら行く」と「なんでも相談する」の確率なんてほぼゼロに近い。まともな気持ちで文は書けない。

 

「好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないものなのよ」

 

もしも恋愛を認めなければ、今もふらっと会えたのかもしれない。手に入れたいと思うことはとても暴力的だ。人を傷つけてしまう正直さ、平熱の高さ、後頭部の寝癖。

 

絶対に幸せになってやるよ、だから達者で。

 

その狭い世界でずっと生きて、幸せを信じて疑わないキレイな心で生きていたいし、生きていてほしい。傷付かないでね。明日も会えるくらいの軽さでさよならしようね。

 

生きていく場所を選ぶ賢さを持て。人任せにしていたら、心が満たされる瞬間を忘れてしまった。どうしても人の目は気になるし、憎まれたくないし、他人の感情に振り回されるし、過剰な責任感と義務感で自分の首を絞めてしまうけれど、自分のそういう傾向を自分自身が理解しているから、今は前よりも少しだけ強い。私が幸せにならないなんてありえない。

 

 

swim

近況。タイトルは昨日書こうとしてやめたnoteのタイトル。下書きも消しちゃった。書きたかった内容も忘れてしまった。

 

仕事を辞めようと決意してから半月が経った。未だに退職の決意を上司に言えていない。というか、退職を決意してから上司に会っていない。月に一度会えるか会えないかだ。次に確実に会えるのは15日以上先。早く言いたい。だけど、電話やメールではなく、直接言いたい。早く言わなきゃいけない。次の人に仕事を引き継いでいかなければならない。私は、少しずつ綴じていく。自分のすべきことと誰かに渡すものを分けて、綴じてゆく。

辞めると決めてから、仕事の手は抜いていないけれど、確実に「半年後自分はいないから」という線引きのようなものが芽生えていて、どんなに懸命に取り組んでも少しだけ虚しくて寂しい。これまで築いてきたもの、評価されたこと、うまくいかなかったこと、中途半端になってしまっている案件。未来の話が積極的にできない寂しさ。そういうものを全てひっくるめて、それでも糸を切るのならば今だと思った。自分の決断と選択を愛している。いいよ、十分頑張ったよ。自分の力量以上のことを経験させてもらった。信頼して任せてもらった。今は随分と慣れて楽しいし、もうチームを動かすことの楽しさを知ってしまったら一般社員には戻れないなという気持ちすらある。だけど、ここまでくるのに相当苦労した。去年一年は地獄だったし、去年の夏頃に耳が聞こえづらくなって、謎の高熱と胃腸炎を無理矢理一日で治して出勤したときに、ああ私はもうだめだと思った。一旦立ち止まらないと気づかないうちに壊れると思った。割と抱えるタイプだ。私の良くないところ。仕事をうまく振れない、信用して任せられない、後先考えず自分の体力を過信してしまう、人前でかっこつけてしまう、頼れない。

 

その後数ヶ月かけてなんとか持ち直して、今に至る。少しマトモに思考ができるようになって、やっと退職を決断できた。

 

今の仕事はなんだかんだ言いつつも楽しかった。向いているかと言われるとあまり向いていない仕事だったかもしれないけれど、やりがいもあったし、何より周囲に恵まれていた。文句や愚痴を言いたいわけではない。楽しかったし、その分、シンプルにつらかった。いつも何かしらに不満があって、それを燃料に働いていた。いいの、ハングリーじゃないと食べようと思わないし。何を燃料にしてもいいんだよ。よく頑張ったよ。心身ともにゴリゴリ体育会系でのし上がってきた。本当はそんなの望んでいなかったけれど、残念なことに私はゴリゴリ体育会系に適応できるタイプだったのだ。無理だと言いながらしぶとく走り続けてこれてしまった。最悪だ。

 

まだ上司にも言えていないのに、退職の気持ちは日に日に固まっていくし、退職日も近づいていく。

 

けっこう怖い。新卒からずっと勤めてきた会社だ。退職も転職もしたことがない。辞めた後のこともふんわりとしか決めていない。社宅を出てから行くところがない。実家に帰るのか、どうするのか。できるだけ迷惑をかけないタイミングでと思って色々の区切りがついた時期を選んでいるけれど、それでも職場の人に申し訳なさもある。板についてきた仕事、慣れた環境、助けてくれる同僚、安定した仕事と増えてきた収入、手に入れたポジション、そういうの全てを投げ捨ててまで次にすることが大事かと問われたらそうでもない。なんでもよかった。誰でもよかった。右手の手相、運命線が真っ二つにわかれている。もしかしてこの決断はこの線と関係がある?手相見れんから知らんけど。

 

二十代後半の私はどこか色々を諦めたところがあって、捨てられるものをことごとく手放そうとしてきた。一寸先も見えない人間って、失うものがなにもない。人生なんでもありで、こんなちょっとむちゃくちゃな決断も旅行先の空港で思いついてそのまま決めちゃったりする。別に希望がないとか夢なんて馬鹿馬鹿しいとか思っていない。努力すればそれなりに叶うこともあると思っているし、自分のことを信じてもいる。どこにいても何をしても、楽しいことにも苦しいことにも出会うし、それはそれで結構幸せだと気づいている。だけど、根底には「飽きるのが怖い/飽きられたくない」「捨てられる前に捨てたい」「変わらないこと・停滞することが怖い」という恐れがある。ずっとずっと臆病。

 

一人いなくなったところですんなりまわるのが地球です。一人いなくなったところで大して変わらないのが職場です。できるだけ迷惑をかけないようにと作る引き継ぎ書やマニュアルも無意味かもしれないし、私が抱く去る寂しさや申し訳なさも無駄かもしれない。少しだけ感傷的になりながらも、ずっとここにいるよ〜みたいな顔で働いている。これ以上自由なことなんてないと思っていたけれど、まだ自由になりたいと思ってしまうのはどうしてだろうか。愛されたいおばけは旅人になりがちだと言っていたのは誰だった?思い出せない。

 

雑記というのも申し訳ないくらいの雑記

菜の花の黄色が目に飛び込んできた。もう春なんだ。ひんやりした空気の中で、花の鮮やかさが綺麗に映える。季節はちゃんと巡る。私は来年にはこの土地に確実にいない。一期一会の毎日だ。きっともう会わない人、この先思い出さない人、忘れてしまったことも忘れてしまう人。大好きだけどずっと一緒にはいられない人、大好きだけどずっと住み続けられない場所、大好きだけどずっと同じではいられない関係。いつになったら「とどまることが不安」だという病が治るのだろうか。ずっとこのままがいいな、というのが私の口癖で、それなのに「ずっとこのまま」が現実的でないことを誰よりも確信している。「誰のことも信用ならねえ」が、私の心の中の口癖だ。生きるというのは自分の身を守ること。可愛くない、ずっと。

 

あなたもどこか歪んでいると言われるほうが、真っ当だと言われるよりも楽なんだろうなと薄々気づいてはいたけれど、実際そうだった。ああ自分は歪んでいるからこんななんだ、って、どこかすとんと腑に落ちるような、赦されたような気持ちになった。大人になったつもりで、ちっとも私は自分のことを理解していない。最初にくるのはいつも、傷つきたくないという感情。きっと誰よりも傷つきたくないという気持ちは強いと思う。それなのに、自分は不用意に人を傷つける。

 

「真の人間好き」という人間の種類があると思っている。私は残念ながらそうではない。人は好きだ、でも同じかそれ以上に怖い。接客業をしているのに怖い。訓練してもまだ怖い。あとあまり他人に興味がない。そんな私なので、「真の人間好き」を目の当たりにすると溜息が出るほど羨ましくなる。

私は犬みたいな愛らしい性格に憧れているけれど、人に言わせれば我儘な猫らしい。尻尾をぶんぶん振り回して、全身であなたがいないと生きていけないよと表現できればどんなに良いだろう。あっけらかんとした愛情を飼い慣らしてみたい。来世に期待。

 

 

春だからどこかに行っちゃいたくなるよ。白いスニーカーを履いてどこまでも歩いていきたい。春だから走り出したくなっちゃうよ。痛くも痒くもないって顔してるけれど、本当は痛いし痒い。嫌いとか言わないで。大丈夫とか言わないで。私を諦めないで。手離さないで。捨てないで。忘れないで。まあそんなこと一つも言えずに、いつも軽々しい棒読みの「サヨナラ〜」を繰り出すんだけど。頼むから私に何も教えないでほしい。君が言っていた「人参は油で炒めると栄養アップ」みたいなことを、別れた後に思い出してしまうから。