国会議員は平等である必要があるのか?

 統一地方選挙が近いということもあって、今日は選挙に関するネタみたいな話。よってネタみたいなタイトル。(今日の元ネタの半分は、去年の『ised』の発刊記念シンポジウムから。行ったくせに内容を結構忘れていた。)
 今、国会議員は制度上一人一人平等だけど、本当にその必要はあるのだろうか?。簡単な話、100万票獲得した当選した議員と、30万票獲得して当選した議員は扱いに差を設けてもいいんじゃなかろうか。例えば、100万票で当選した議員が賛成を投じた場合は賛成側に1000点が加算され、30万票の議員なら300点というのにするのはどうか。もちろん法案の賛成反対は、「過半数の賛成」から、「過半数の得点を獲得」になる。
 この「傾斜方式選挙」によって、長年問題になってきた「一票の格差」と「投票率の低下」の解決にもいい影響を与えることができる。
 まずは「一票の格差」。傾斜方式選挙は、「一票の格差」の改善によく働く。これまで、選挙区内の有権者の人数が多く一票の格差に泣いていた地域(主に大都市)では、これにより「強い議員」を送ることができるようになる。100万票獲得の議員の賛成は、30万票議員3人分以上の価値があるのだ。
 次に「投票率の低下」の改善にも一定の効果がある。今までの勝者を決めるだけの選挙では、結果がすでに見えている選挙区では選挙区にいくインセンティブ(誘引)が小さかった。例えば、一般的な2人区の場合は自民党民主党議席を分け合うことが容易に予想される。だが、傾斜方式では、自分が応援したい議員に投票すれば、その分だけ国会で力を発揮しやすくなる(上では1000票で1点にしたけどもっと細かくしてもよい)。
 傾斜方式の利点はこれだけではない。この傾斜方式と同時に「選挙区の定数不定化」を導入すれば、「死票を減らす」ことにもつながる。どういうことか。
 小選挙区制度(定数1)の場合、どんなに票を獲得しても、1位にならない限り、それは死票となってしまう。(実際、落選した人の得票数が、違う選挙区で当選した人の得票数を上回ることはよくある)。そこで、一定の得票(○○票以上)を獲得した人は、何人でも当選させてしまうのである。こうすれば接戦の選挙区での死票の大量発生を防ぐことができる。圧勝の選挙区ではこれまで通り1人しか当選者はだせないが、その分その当選者国会で多くのポイントを持つ強い議員となる。
 死票を減らすことでいえば、定数を2以上にする単に大選挙区中選挙区)制度を導入しても効果はあるが、同じ政党同士の候補者が同士討ちをおこすリスクもある。
 というわけでいいことづくしの、傾斜方式選挙はいかがでしょうか?

・もちろんこれは、国会に限らず、地方議会でもあてはめ可能ですね。
・この方式でいうと、比例代表制(特に小選挙区比例代表制)をどう処理するかが大きな問題。
・誰かこんなことをきちんと研究してそうな人がいると思うので、ご存知のかた是非コメントください。
・今日のもうひとつの元ネタ本。以前にも取り上げた。今日書いたような選挙は扱ってはなかったと気がするが、選挙に関するいろいろなアイディアが分析されており興味深い。

選挙のパラドクス―なぜあの人が選ばれるのか?

選挙のパラドクス―なぜあの人が選ばれるのか?

もう最終回だけど、今から見始める『フラクタル』

 今日はアニメ『フラクタル』の話。関東圏では今週最終回を迎えた『フラクタル』。とりあえず3話まで見たけど、その後は録画したままだった。一気に見ようかなと思い、期待と感想をしるす。
 ここまで見たところ『フラクタル』のテーマは「環境管理に対抗する生き方はあるか?」といったところ。原作なしとはいえ、ストーリー原案が東浩紀ということもあって、このテーマ設定は予想の範囲内という気がする。環境管理というワードや批評家?東浩紀知名度がどれくらいあるのかというとよくわからないけど、環境管理への対抗というテーマは、いろいろ形を変えて多くの作品で使われている流行形ではないだろうか。個人的には、映画『アイロボット』や『イーグルアイ』を思い出す。
 環境管理への対抗というテーマを出発点を簡単に言ってしまうと、「このまま技術が進化すると、人間はコンピュータに何もかも支配されるんじゃない?」、「私たちがこのコンピュータの支配から逃れるにはどうしたらいいの?」ということになる。これを幹にして、作品によっていろんな枝葉がつけられるていったりする。単純な見方だけど、間違ってはないと思う。そして、枝葉といいつつ幹と同じくらい重要な要素がいくつかある。ひとつは「コンピュータが力をもつからといって人々が不幸になるんじゃなくて、各個人のニーズをきちんとコンピュータが合理的に考慮してくれるので人々の生活はむしろよくなるよ」というもの。二つ目は、「コンピュータが支配するといっても、何か悪の親玉がすべてを牛耳ってるとかじゃなくて、いろいろな小さなシステムがちょっとずつながってるだけだし、そもそもそれを作っているのも人間じゃないか。」というもの。三つ目は(一つ目と少しかぶるけど)、「支配といっても誰かが、あれしろこれしろとい命令するわけではなくて、みなさんがやりたいことをできるような自由を保障しますよ」というもの。こういった要素をどこまで取り入れるか、この手のテーマの作品の場合は、その踏み込み具合を私はワクワクしつつ見守ってしまう。当然、踏み込めば踏み込むほど、物語は明快な善悪二元の勧善懲悪というわけにはいかず、話をうまく着地させるのは難しい。かといってこういう枝葉をまったく取り入れないのは、「侵略者に立ち向かう俺達」みたいな話になってこのテーマとしての旨みがないような気がする。というわけで『フラクタル』も、どこまでやるかを注目していた。
 ふたを開けて3話まで見てみると、予想していたよりも踏み込んでないのかなという印象。フラクタルシステムと僧院が悪の親玉という立ち位置っぽい。フラクタルシステムの外にいるエンリみたいな人たちも、結構容易にフラクタルシステムから逃れている感じがするし、エンリたちが批判するフラクタルによって失われた「人間的な生活」というのもフラクタルが(もっと優秀であるという設定であれば)実現可能ものばかり。人々をフラクタルにつなげるための「星祭り」という儀式も、フラクタルには大きな弱点となっている。
 30分全13話と比較的短いということもあって、踏み込んでとっちらかるより、このテーマになじみのない人をターゲットに丁寧なストーリー展開を狙っているのだろうか。3話までの進行もゆったりめである。
 今後、どこまで踏み込むのか、どう話をまとめるか注目しつつ、見てみよう。
(おしまい)

最近の興味

・経済現象と権力問題
個人的に最も重視している問いは「インセンティブカニズムはどの程度権力か?」。
要は、課税や補助金だったりといった金銭的な誘引を与えることが、人々の思考にどれだけ影響を与えているのか。
別角度で問いを分けると、インセンティブカニズムは環境管理か。環境管理はどれくらいの影響力があるのか。環境管理をどう評価すべきか(規範的な議論)。


・コンテンツに関する規範的経済分析
とくに二次創作、ネット、著作権、メディアミックスなどなど。
二次創作と著作権が最大の問題。
二次創作は、コンテンツ全体の効用を増やしているのか。
コンテンツ世界全体の価値を最大にするような著作権制度は設計可能か。
それ以外に最近、メタ的ネタ(パロディーネタ)に「価値」はあるのかみたいなことも考えてます。

外部経済と社会政策に関するメモ

 最近、外部経済と社会政策について考えている。社会政策において、外部経済というロジックが明示的に使われていたり、明言はされていないものの実際の政策の背後にある思想として外部経済があったりしているのではないか。(外部経済を知っている場合、第3節から本編)

・外部経済とは
 まずは外部経済に関する私自身の理解を。外部経済とは、ある経済取引(とそれに付随する活動)が、その経済取引に参加していない第三者になんらかの影響を与えることです。工場の煤煙なんていうのはよく言われる例ですが、この例で言えば工場は、そこで生産活動をして、出来上がった製品を消費者(実際は小売店や卸売りだったりするけど)に販売するという活動を行っている。工場の製品が売買されるという取引の中で、その取引に参加しているのは工場と消費者の二者ということになる。しかし、工場が生産活動を行った結果、工場から煤煙が発生して近隣住民に被害を与えたとする。この場合、近隣住民は工場の生産活動の直接の当事者ではないにもかかわらず、その生産活動の影響を受けているので、外部経済が発生しているという。それで、よく言われるように外部経済には二種類あって、よい影響をもたらす外部経済(正の外部性)と悪い影響をもたらす外部不経済(負の外部性)の二種類がある。

・外部経済と社会政策
 外部経済自体の話はそれぐらいにして、外部経済と社会政策の関係について考えてみたいと思う。(その前に、以下では外部経済という概念について、かなりゆるく捉えておくことを断っておきます。)
 ここまで外部経済について自分なりの理解をまとめたものですが、外部経済という議論は、実際の政策と深いつながりがあるものだと思う。外部経済という用語自体は知名度があるかどうかはわからない専門用語ですが、普段の日常言語で言えば、外部経済(外部不経済)とは「人の迷惑になる」と言い換えてもいいだろう。工場と煤煙の例も、工場の活動が近隣住人に迷惑をかけている。人に迷惑がかかるから、それを政策でなんとかしようという議論は直感的に理解できる話で、その点から外部経済と政策議論のつながりの深さを指摘することができる。工場と煤煙の例でも、外部不経済に対して、例えば工場に税金(排出税)をかけるとか、法律で規制をかけるとか、政策での解決につながるわけです。

・外部経済の問題
 外部経済と政策の間にはつながりがあるという話をしてきたわけだけど、「外部経済→政策」という発想はいつでも成り立つか、あるいはどんな外部不経済でもそこに政策による解決を準備するべきかどうかということを、最近考えているわけです。そのためには外部経済の考察と分類が必要になってきます。外部経済に関しては、それが市場を通じたものかそうでないかという分類があるそうですが、それとは違った分類をちょっとしてみたい。
 ここで二つの例を準備しておく。一つは、上の工場の例。工場が生産活動をして、それに伴い煤煙という被害を周辺住民に与えている。もう一つの例として、お酒をあげる。酒類の販売は、時としてひどい酔っ払いを作り出す。お酒でひどく酔っ払った人は、大声を上げたり絡んだりして周囲の人間に迷惑をかける。これもひとつの外部不経済ということができる。
 この2つの例をもとに、その解決策について考えてみる。工場の場合は、煤煙に税を課すという方法がある。排出量に応じて税を課すことで、工場の減産や設備の改良を通じて、煤煙の排出量が社会的に望ましい水準に導かれる。(工場は社会に有用な生産物を供給するので、工場を封鎖するという考えは普通は望ましくない)
 ではお酒の場合はどうか。工場の例のように、酒類に税金を課すことが考えられる。酒類に税金をかけることで、迷惑行動を減らして、望ましい社会状態が目指されることになる。
 お酒の例はわかりにくいかもしれない。そんな理由で、お酒に税金がかかっているなんて馬鹿げていると。そこで、もうひとつお酒と同様の例を作ってみる。それは銃である。
 銃は、不適切な使用法がされると悲惨な事件につながる。銃による被害を受けた人は、銃の売買という状況からは無関係の第三者の人たちであり、銃による被害は、銃販売が引き起こした負の外部効果といえる。そこで、銃の販売を抑える政策が登場する。銃の購入に税金をかけるとか、銃の取得に厳しい条件をもうけるとか(それによって取引コストが増える)。
 さて問題は、「工場の例」と「酒・銃の例」を同列に論じることができるかどうかという点だ。つまり、2つの解決策は同じ性質のものか。
 確かに、両者はかなり似通っている。ある行為があって、それがその行為に参加してない第三者に迷惑をかける。だから、政策によって望ましい状態にする必要がある。ある行為とは、工場の例では工場の生産活動だし、酒の例では酒類の販売であり、銃の例では銃の販売である(工場の例に近づけるならば銃の生産でもよい)。だが、その解決策をみるとそこには決定的な違いがあるのではないだろうか。
 工場の例から見てみると、「生産の意思決定→生産→煤煙の発生→被害」というプロセスを描くことができる。その中で被害にもっとも関係する煤煙の発生のところに政策の焦点が当てられている。だから、煤煙の排出量に税金をかけたり、煤煙の排出そのものに規制がかけられる。では、銃の例ではどうか。銃の場合、そのプロセスは「銃購入の意思決定→販売→銃使用の(事件を起こす)意思決定→事件の発生→被害」というものになるだろう。大事なことは、工場の例と違って、銃の例ではもうひとつ個人の意思決定が挟まっていること。そして、にもかかわらず販売という意思決定の前の段階に政策の焦点が当てられていることである。
問題点を一般化して言えば、複数の過程をひとつのものとみなしてしまっていることにある。そしてその結果、問題行為(銃の販売)と被害の発生の間にある主体の意思決定という局面が無視されてしまっている。それが、工場の例との大きな違いである。

・人間観の問題
 しばしば工場の例と銃の例の解決策は、他人への被害を防止するという意味で、同等のものだとみなされるけれど、銃の場合においてどんな人間観がとられているかということは考慮しておくべきだろう。
 そこでは、人間は銃をもったら一定の確率で事件を起こしてしまうものと思われていて、そこでは人間は理性を持った合理的な存在というよりも、一種の機械(動物)のようなものとみなされている。
 インセンティブカニズムによって人の行動に影響を与えようという試みでも、両者にはその人間観において大きな違いがあるのだと思う。特に後者(銃の例)のような政策は奇妙なような気がする。

・大急ぎの補足
 ここで銃の規制には反対だと言いたいわけではまったくない。テーマとなるのは、擬制的にせよ合理的な個人モデルが中心を占めている(特に外部経済の解決といったインセンティブカニズムの問題では)中で、そうでない人間観が結構割り込んでいるということです。

今さらながら、アニメ『けいおん!』の余談的感想。

その1その2で書きそびれた感想の断片。
この余談的感想より、その2のコメント欄のほうが分厚い内容になってきていますね。

■アニメ全体の感想
 アニメ全体の感想を一言でまとめると、いい意味で「普通のアニメ」なのかなと感じた。物語の展開に奇抜さがあったとはいえないし、舞台設定やキャラクターも過激なものではなかった。むしろ、奇をてらわず、小ネタを高密度で投入して、それを巧みな作画、演出、声優で成り立たせていたという感じがする。作り方、見せ方の上手さは、文脈に依存しない名言(迷言)の多さからも感じた。唯の「うんたん」や、紬の「もうひとこえー」とか、いろいろ。

■笑いの様式
 想像でものを書くもの(swampman)さんが、『けいおん!』の笑いは、キャラクターに回収されるものが多いと指摘していたけれど、これは鋭いと思う。
 笑いの様式というと、あるあるネタ、シチュエーションコメディ、ギャグ(一発芸)の3つの分類が思い浮かんだんだけど、笑いのどこに回収されたかという観点から笑いの様式を整理した方が有用かもしれない。上に合わば、視聴者の感覚・常識に回収される笑い(あるあるネタ)、状況に回収される笑い(シチュエーションコメディ)、そしてキャラクターに回収される笑い(ギャグ)の三種類か。
 『けいおん!』の話に戻ると、確かにキャラクターに回収される笑いが非常に多く、それ以外はあまりなかった。音楽あるあるが少しあったぐらいか。12話で、憂が唯の変装をする場面なんかはシチュエーションコメディにもできそうだか、結構あっさりな味付け。
 こうしてみると『らき☆すた』は、アニメ・ゲームを中心としたあるあるネタが多かったなあと思える。キャラクターに回収される笑いが多いのは、原作からつながるこの作品の特質なんだろう。これは好意的に解釈すれば、それだけキャラクターの造形が見事だったということになるだろうが。

けいおん! (1) (まんがタイムKRコミックス)

けいおん! (1) (まんがタイムKRコミックス)

今さらながら、アニメ『けいおん!』の感想。その2

今さらながら、アニメ『けいおん!』の感想。その1
 アニメ『けいおん!』の感想と、ちょっとした分析を。『けいおん!』は個人的に今年もっともはまった作品でした。客観的に言ってもも、今年最も成功したアニメの一つでしょう。
ここでは、原作との大きな2つの違いに着目して、けいおんの特徴を整理してみようと思う。
今日はその2つ目。
=以下、『けいおん!』と、少し『涼宮ハルヒの憂鬱』のネタばれあり=
(2)原作よりも、演奏がうまい
けいおん!』は、アニメとして成功したが、それ以上に音楽として成功をおさめた。オリコン・チャートなどで数々、記録を打ち立てた。
 しかし、主人公たち、桜高校軽音部(放課後ティータイム)は、あまりに演奏がうますぎる。高校生のバンドという設定から現実離れしてるし、そもそも原作ではもっと演奏は下手だった(ように描かれている)。原作を完全に追っているわけではないので今後どうなるかはわからないが、2年になっても唯はコードをぜんぜん覚えてないし、二年目の学園祭も失敗が多々あった。そんな『けいおん!』の音楽から、いろいろ書いてみよう。
 検証1…「ある程度うまくないと、視聴者が見づらい」。これは当たり前ですね。その1で『けいおん!』はリアル指向なとこもあるけど、うまくはずしてるとこもあるみたいなことを書いたけど、こんなところでリアルを追求されても視聴者は困るというのは事実。高校生の作品(作中作)で思い出すのは、同じ制作会社のアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』の(第一期の放映順第1話)「朝比奈みくるの冒険」の作中映画だけど、あれもある意味で視聴者を困らせた(原作既読者、全話見てから見返した人はニヤニヤしたでしょうが)。あれだって、普通の高校生が普通の力で作ったものではなかった。要は、ある程度はうまくないと見栄えがしないということですね。
 検証2…音楽は成長物語の裏返し。その1で、アニメは日常系の雰囲気をもちつつも、「廃部寸前から出発した軽音楽部が文化祭で成功を収めるまでに成長する」という物語、と「何をしたらいいかわからなかった主人公・平沢唯が軽音楽に出会い成長する」という物語を、構造としてとりいえれたと書いた。そう考えるならば、演奏がうまくなるのは、成長の証として、必要なことだったし、物語を成り立たせるためには必然だった。
 検証3…実はこのアニメはメタフィクションである。前二つの自然な発想から、急にメタフィクション好きの妄想に話題は変わるわけだが。見立てはこうである。アニメ『けいおん!』は、高校卒業後に成功を収めた、軽音部メンバー(放課後ティータイム)が自身の高校時代を、自伝的に振り返ったドラマ(アニメ)である。それが自伝的ドラマとして作られたからこそ(そして視聴者にとっては『けいおん!』は作中作になる)、そこには物語があるし、演奏もうまくなければならない。演奏がうまいということとリアリズムの両立のためにこねくり回した屁理屈に近いんだけど、アニメEDの「Don't say lazy」の音楽とアニメーションを見ながらそんな想像をした。なんとなく、あの曲の絵は少し年上に見えるかなと思ったので。
 検証4…音楽を魅せることを重視していた。妄想的な閑話休題から、まっとうなな話へ。製作陣は、魅力的なアニメ作品を作るだけでなく、魅力的な音楽と演奏シーンを作ることにも意欲的だったようだ。音楽と演奏がうまくある必要の直接的な要因は検証2で述べたことによるとは思うが、商業的な要因もあっただろう。キャラクターソングなどの関連CDは収益上重要だし、『けいおん!』に関しては大成功を収めた。補足的な要因として、『涼宮ハルヒの憂鬱』の「ライブアライブ」できっちり演奏シーンを描写したように、この制作会社自体に演奏シーンへのこだわりと意欲があったのかもしれない。

・主から従へ?
 理由の検証はこれくらいにして、『けいおん!』の楽曲それ自体の影響について、すこし感想を書く。特に、アニメ本体と楽曲の関連について。
 『けいおん!』関連曲は、アルバム『放課後ティータイム』がオリコン週間1位をとるなど、楽曲単体としても大きな人気を得た。これだけ、作品全体の広がりの中で音楽の存在感が大きくなってくると、「アニメ=主、音楽=従(派生)」という図式の逆転が起きているのかもしれない。「音楽=主、アニメ=従」へ。
 主と従の反転は3パターン考えられるが、「音楽は知ってるけど、アニメは知らない」というパターンはあんまりないだろう。まだまだ、アニメの音楽と「一般」の音楽の間には、少なからず壁があるようだし。
 2つめとして、「音楽を最初に知って、そこからアニメを見はじめた」というパターン。3つめは、「音楽もアニメも知ってるけど、音楽の方によく触れる」あるいは「音楽の方が好き」という場合。要は、両方知っているけど、音楽からより意味を受け取る傾向があるということか。
 まずアニメ本編にはまって、次に音楽をきいて、今は音楽を聴いてるという人は結構いそうだ。私もそんな感じで、アニメ本編を見た時間より『けいおん!』関連曲を聴いてる時間の方が長いような気もするし、これを書ているときも、「CagayakeGirs!」をかけてたりする。
 こういう場合、音楽を聴いていると自然とそこからアニメ本編が思い出されると思うけど、「音楽→アニメ本編」と参照するとき、その1で書いたアニメ全体の成長物語という薄い物語は都合がいいのかもしれない。
 音楽(特に「ふあふあ時間(タイム)」とか)が本編では物語の中に埋め込まれるているので、音楽を聴くときには物語との結びつきを通じて多くの意味(アニメ本編の断片)を読みこむことができるのである。そういう意味の読み込みやすさは、ハルヒの「God knows...」や『らき☆すた』の「もってけ!セーラーふく」と比べて、顕著に表れている気がする。

 無駄に長くなったので、余談的な感想を改めて書くかもしれない。

今さらながら、アニメ『けいおん!』の感想。 その1

この想像でものを書くもの(swampman)さんの記事に触発されて、アニメ『けいおん!』の感想と、ちょっとした分析を。
けいおん!」は個人的に今年もっともはまった作品でした。客観的に言ってもも、今年最も成功したアニメの一つでしょう。

ここでは、原作との大きな2つの違いに着目して、『けいおん!』の特徴を整理してみようと思う。

=以下、『けいおん!』のネタばれあり=

1)なぜ原作よりも、シリアスな展開が多い?…物語と日常の二面性
 これは『けいおん!』をめぐって最も賛否が分かれるところでしょう。第9話の「梓の入部後の逡巡」第11話の「律と澪のすれ違い」、最終回の「学園祭のどたばた」は原作にはほとんどない。これらは、原作では短くそしてギャグ(萌え+笑い)の形で描かれているのすぎない。
 さて上の疑問を念頭にいれつつ、アニメ全体について考えてみる。『けいおん!』はある意味で、二面性を持ったアニメといえる。つまり、一方で「物語」という構造を持ちつつ、他方で表面上は「日常」という装いを持っているということだ。ここでいう「物語」とは、全体として起承転結という一本の筋が通っているものを指し、「日常」はそうではない。逆に言えば、日常を描く作品は、作品内の要素の順序を入れ替えることが容易であり、同じアニメで例を挙げると『らき☆すた』や『みなみけ』がそれにあたる。『らき☆すた』でいえば、第1話のチョコ・コロネのくだりは何話に入れても違和感はないだろうし、少しの手直しで一話まるまる場所を動かすこともできるだろう。逆に、「物語」は要素間の順序入れ替えが難しく、例えば『鋼の錬金術師』の各話の前後を入れ替えるなんてことはほとんど不可能に近い。
 話を『けいおん!』に戻そう。果たして、けいおんに物語はあるのかないのか。いくつかの観点で検討しよう。原作は、「物語」としての性質はかなり薄く、「日常」系にかなり近いのではないか。部活を中心に据えている以上、入れ替え可能性は高くないかもしれないが、それは日常系における四季の変遷が入れ替え可能性を低めること、と似ていると言える。
 問題はアニメ。どうやらアニメ制作陣は、限られた話数ということも手伝ってか、原作の「日常」系の良さを残しつつ、そこに「物語」という強い土台を置くことを意図していたように思われる。その「物語」のひとつは「廃部寸前から出発した軽音楽部が文化祭で成功を収めるまでに成長する」ものであり、もうひとつは「何をしたらいいかわからなかった主人公・平沢唯が軽音楽に出会い成長する」というものであった。それは、最終回に明確に現れていて、後者の物語に関してはナレーションベースで明言されている。
 こうして、アニメ全体に「物語」という筋を通そうとするならば、各話はその物語の成立に向かってきちんと配置されなければならない。あたりまえだけど。「平凡な日常をたんたんと描く」わけにはいかない。結果、第1話は「部活の結成」と「唯が軽音に出会う」、第2話は「楽器の購入」というように、各話が起承転結を持ちつつ物語全体の起承転結の中での役割を担うことになる。
 かなりくだくだと書いたが、結局第9話の「梓の入部後の逡巡」第11話の「律と澪のすれ違い」
がシリアスなのは、それが物語全体における起承転結の「転」であったからにすぎない。第11話のサブタイトル「ピンチ!」だった。
 ようやく話は本題へ。原作よりもシリアスに描くことはどんな効果をもたらしたのか。たぶん、シリアス展開が好きじゃなかった人は二種類いるだろうなと思う。「日常」が淡々と描かれる期待していた人には、シリアスな展開は、日常から離れた物語性の強すぎる展開と映ったのかもしれない。また、シリアス展開そのものの物語としての稚拙さを批判している人もいるかもしれない。どうしても、第9話では梓が、第11話では律が、「うざく」感じられてしまうのは否めないところだし、話の展開も「痛い」と思う人も多いかもしれない。
 個人な感想としては、シリアス展開は、上で言った見た目としては「日常」系としつつ、後ろに「物語」という糸を通すと言うアニメ全体の構図をぎりぎりで乱してない点で、悪くないと思う。ただ、製作陣が、「部活を作る」という物語をはっきりと見せることを意図していた(ここは微妙なところだけど)としたら、それは失敗したと言ってよい。あくまで、『けいおん!』は日常を描いた作品であって、部活という成長物語はあくまで後景にあるのにすぎない。
 じゃあ最初から物語なんていらなかったじゃないかという意見も成り立つわけだけど、私としては「日常」と「物語」を両立させる形式はおもしろいと思うし、ヒットしやすい形式なんじゃないかと邪推する。
 そういえば(同じ京都アニメーションの)『涼宮ハルヒの憂鬱』も、「日常」と「物語」をうまく両立させた作品だった。そこでは同じ出来事が、部外者あるいはハルヒの視点からは「日常」となり、キョンなど当事者にとっては「物語」として現れていた。(顕著な例が「涼宮ハルヒの退屈」であった)

補足)『けいおん!』とリアリズムと萌え要素 
 シリアス展開に関しては、「シリアスにしたりピンチを描くにしても他のパターンもなかったのか」という疑問(つまりシリアス展開の物語としての出来のよさ悪さという問題)もあるだろう。
 トラックバック元でも指摘されていたけれど、『けいおん!』は、リアリズムっぽさが結構あって、シリアス展開もそんなリアリズムの一環と考えてもいいのかなと思う。自分と仲のいいはずの人が他人と親しそうなのを見ておもしろくないと思ったり、期待して入った組織(部活)が思ってたの違ってがっかりするのは、普段よくある話だったりする。
 リアリズムに関していえば、キャラクター造形もリアル指向なような気がする。髪は茶髪と黒髪に押さえ、設定も比較的おだやかで、天然系お嬢様という紬のありきたりな設定が目立ってしまうほどでもあった。
 じゃあ、『けいおん!』が完全にリアル指向だったっかということはなくて、きちんと「萌え要素」を導入してくるところは、賢いつくりに思われた。後半は、主人公達の輪にぎりぎり入らないくらいの距離感に配置された顧問「山中さわ子」が、萌え要素の供給源として機能したのも、うまいなと思った。


長くなってしまったのでその2へ
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