深い思考は浅い思考より優れているのか
深い思考というのは、物事をシンプルに理解するための前処理だ、と考えると、
「浅い思考」が目的となり「深い思考」がその手段となるので、どちらが優れているというようなものではないとも言えるのではないかと思います。
例えばイチローや武井壮などは、非常に深い思考を持っていますが、その話は誰にもわかりやすく、とてもシンプルです。
他にもスポーツ選手だとこのような人が多いのではないかと思います。
これは、自分や他の人の「状態」等を把握するためには、より細かく、より深い思考がないとできないため、深い思考は「プレー」を開始するまでにしていると思います。
これがないと、状態が正確にわからないわけですから、思った事をやっても思った通りにいかないわけです。
でも、「状態」等が全て明確にわかっているなら、実際のプレー中はごく単純に、わかっている事をわかっているように、体を思った通りに動かすだけ、というごく浅い思考で良い事になります。
このように、スポーツの場合「プレー」が本番だとすると、その本番をよりシンプルで簡単に、浅い思考で出来るように、事前に深く思考するわけです。
ちなみにスポーツの場合は、本番で深い思考をすると体が動きませんから、結果など出るはずがないわけです。
人間の行為のほとんど全ては、肉体の動きを伴って現実を変化させる事と言えるので、スポーツだけではなくほとんど全ての事に同じ事が言えます。
このような事から、浅い思考というのは「いざ本番」という時には「体を動かす」「いちいち凹まない」などのメリットがたくさんあります。
そして、その浅い思考を支えるのが事前の深い思考であり、本番でない時であれば、状況や状態のより正確な洞察、仮説検証によるより細かな明確な確認、それらを総合した把握など、メリットがたくさんあります。
逆に言えば、「本番」の最中かそうでないかで「深い」と「浅い」使い分けないと、デメリットしかないわけです。
だから、端的に「深い」と「浅い」どちらが優れているか、というようなものではないと考えます。
そして、メリハリをつけて使い分ける事で、両者のたくさんのメリットを享受する事になるのではないかと思っております。
思考停止を防ぐ方法ってあるの?
思考停止を防ぐ方法は何だと思いますか?
人が思考停止をする理由がわかれば、なにか見つかるかもしれません。
なぜ人間が思考停止をするのか。
人間の脳には、不確定な情報を排除したいというメカニズムがあります。
不確定な情報は常に敵なのか味方なのか、必要なのか不必要なのか、その判断の枠にいるので、脳はそれがとても疲れます。
なので、それらを排除するために、必ず結論をつけようとします。
人は不確定な情報を放置することが苦手なのです。
そこで、思考停止がおこります。
分からないことが苦手なので、「わかったこと」にしちゃうんです。よくわたし自身はやらかし気味です。
昔の人々が、「地球ではなく太陽が動いてるんだ」と天動説を唱えてやまなかったように、今でも「これはこういうものだ」と結論をつけてしまうことは続けられています。
それを、思考停止で留めずに、調べ続けたのが、「コペルニクス」や「ガリレオ」ですね。
そういう人たちも同じく、今でもたくさんいて、大いに活躍していますよね。
自分が思う解決方法
例えば、あなたが知らない「花」を見たとします。
あなたは過去の経験から「花」ということは知っていますが、
それがなんという名前の花なのか、どういう歴史があるのか、知りません。
ここで「思考停止」が試されます。
この「花(不確定な情報)」の名前を知ろうとするのか。
それとも「花」ということで「わかっていること」にするのか。
思考停止とは、不確定な情報(知らないもの)と対峙したときの、態度なんです。
思考停止の反対の動きは「知ろうとすること」です。
「好奇心」や「知識量」が思考停止を解くための重要な鍵になります。
知りましょう、たくさんのものを。
どんな思考が大切なのか
複数の思考を持てると、物事の立体視が可能になると思っています
論理的思考や批判的思考、デザイン思考とか、ナントカ思考にせよ、筋が通っていればいるほど、一面的な見方では把握できない様々な事象を、視点を一つに決めてみるようなものです。
引用元:https://thefas.jp/thinking-methods/multi-angle-thinking/
例えば、ある製品を「法律」の観点から見るか、「利益率」の観点から見るか、「アイデア」の観点から見るか、「デザイン」の観点から見るか、「生産者」の観点から見るか、「ユーザー」の観点から見るか、「手に取ったが買わなかった人」の観点から見るか、着眼点は無数に考えられます。
複数の観点から立体的に見られることが、非常に大事なわけです。
「論理的」と「批判的」と言う言葉は、「立証的」「建設的」と「あら探し的」「破壊的」という方向性と言い換えられそうですが、であれば両方必要です。片方だけでは機能しにくいはずです。
思考回路として機能しうるものと言うと「論理」「感情」「感覚」「直感」の4タイプと「外向」「内向」の2つの方向性がある、とユングが言っています(確か)。
「論理」タイプの人間からすると「感情」は非合理そのものに見えるかもしれません。
ですが、「感情」には感情の固有の必然性や機能があり、自分の意志で使いこなすこともできます(幼児をなだめて機嫌を直す母親とか、オッサンをなだめて手玉に取る夜の蝶たちですかね...)。
「直感」はあてずっぽうや思い付きに見えるかもしれませんが、頭の中に必要な情報がしっかり入っていて熟成された状態で邪念やバイアスに曇らされずにスカッと見通しが開けたなどと言う場合、無意識を活用して有為なアイデアや結論を得たことになります。
「感覚」は、上手い説明ができませんが、それはそれで固有の機能があり、把握できる人は居るものと思います。
こうした、「観点」「方向性」「思考回路」の組み合わせは、まず機能するものとどうやって機能させるのか分からないものがあるでしょう。
「法律」+「あら探し的」+「論理」とか「デザイン」+「立証的」+「感覚」などは機能しそうですが、「利益率」+「立証的」+「感情」とか「生産者」+「あら探し的」+「直感」とかはどう機能させたものか、ちょっとわかりません。
「論理」は比較的機能する組み合わせが多そうです。
が、機能する組み合わせをいろいろと持てていると、より多くの人に届くものを生み出せるのではないかと思います。
先ほどの透視図のたとえで言えば、多様な方向から「形状」を見るか「色」を見るか「明るさ」を見るか「質感」を見るか、みたいな話でしょうか。
どの思考方法が正して間違っているかではなく、ひとつの思考方法に固執せずにマルチアングルの複眼的な考察が大事だということです。
自分はどんな時に楽しい時間を過ごせるか
夢中で何かをしている時
いろいろ考えた結果、自分の場合は「夢中で何かをしている時」なんだと思います。
自分がやろうと決めたことでも、人から指示されたことでも、どちらでも構わなくて。
ただ、その内容がただただ作業、時間潰し、やり過ごすための時間稼ぎ、ではなく、自分自身が興味を持ってああしよう、こうしよう、もっとこうした方が良いかな?と自分に考える余地があり、その考えた結果がきちんとそこに反映できる時、夢中になって、楽しさを感じているような気がします。
ほんとうに内容は、ほんの些細なことでもいいんです。
例えば、A駅からB駅に行くにあたり、地下鉄一本で行けるとした時、このあたり知らないところだから、地上の景色見たいな、バスで行ける方法無いかな?あ、ありそう、あ、時間的に乗れそう、あ、乗れた、あ、こんなとこなんだ、とか情報を探せて実際体験している時とか。
仕事している場合だと、コードを書きながら、動いたけど、なんか違うんだよなー。もっとこうしたいのに出来ないし。ああ、良さげのコードを書いてみたけど動かんくなってもうた。あーようわからん。なぜなのか。エラーがなにを言っているのか。お?なんか言うてますやんか。あ、なるほど。そうゆうことなのね。と、なにか発見したり、なにか考えている時とか。
つまらないことで楽しさを感じているんだな、と思われるかもしれません。
もちろん、非日常的な経験をすることで楽しさを感じることもあります。
でも、その非日常空間が楽しいのではなく、結局、そこで「夢中で何かをしているから」楽しいのだと自分は思っています。
普遍的な答えは無い。人間万事塞翁が馬
本日、わたしの38歳の誕生日です。
もうそろそろ40歳に近くなってきて「四十にして惑わず」といいますが、振り返るとフラフラして迷ってばかりの人生です。
自分の経験や思考を改めて振り返る材料として、自分の考え方をまとめたものです。
最初の理解として
わたしたちが生きているのは人間社会です。
人間社会は相対関係で出来ています。
これが理解できていない人が多いと思っておりますが、自分が今いる位置は「誰か」や「何か」を基準にしてます。
そうしないと、ふわふわ浮いてしまって、定まりません。
自分が優れている、あるいは、劣っている。そう感じるのは、誰かを基準に物事を考え感じるからです。それは「親」が教えてくれた基準かもしれませんし、「学校」でそう習ったからかもしれません。 ここで注目すべきは、考えたり感じたりしているのは「自分自身」だ、ということです。
そうやって、「考える基準点」を自分で決めているのです。
これをわたしは自分の「ものさし」と表現します。自分の「ものさし」ということは、長くて硬くて柔軟性のない「ものさし」もあれば、短くても弾力が備わった「ものさし」もあります。わたしが目指している「ものさし」は、長くて柔軟性に含んだ仮に自分の範疇を超えたからといって、自分だけの「ものさし」では測らない「ものさし」です。
考える基準点を低くすれば物事は容易く達成できますが、それは誰でもできることで自分だけが出来ることではありません。そうなると代替えの効く消耗品に過ぎなくなってしまいます。
人は他人とは違うものを持ち、だからこそ価値が生まれます。
考える基準点
考える基準点を高くすると、達成できた時は多くの価値を生み出します。
このように「考える基準点」というのは貴方の行動と価値を決めています。
低いレベルに留まりたいですか?
安い給料で生きていきたいですか?
誰にも理解も認知されない人生が好きですか?
やりたいこともできないウジウジした人生が好きですか?
考える基準点を変えると、これらは一転します。
上記のような生き方も否定はしません。が、わたしは嫌だとはっきりと断言します。
基準になっているヒトやモノやコト
相対的な理解として、基準になっているヒトやモノやコトがあると思います。
それも全て人間関係です。自分の目を通して、現象としてそれを捉えます。
そしてそれが、良いか悪いか、役に立つかそうではないか、といったことを頭で判断しています。
その時に使っているのが基準点、つまり「ものさし」です。 その時に「ものさし」としている人の考え方で、あなたも考えているのです。
何かを理解しようとする時、誰かや何かを基準にして物事を考える動物なのです。
そしてもう一つ、人は自分で経験しないと、そのモノやコトの本当の意味を理解できません。だから、本を読んだだけでは、経験していないので、受け売りにしかならず、応用が利きません。
つまり、出会った人と経験で決めています。
沢山の人に会いましょう。
沢山のコトに出会いましょう。
そうすると、それぞれのケースで、目に映る景色の中で、自分の頭で考えるようになります。
沢山の判断基準が備わってきます。
それを重ねていくと、大筋で対応できる自分なりの「型」というのが出来上がってきます。
物事はケースバイケースなので、型を使って物事を自分で考えて、その判断基準がその場合に適切なのか、自分で判断できるようになります。
型が出来たら、それを使って全く違う事象で試してみます。
自分自身のモノの見方や判断が周囲に受け入れられれば、それが正解です。
正解も相対的なもの
正解も相対的なものです。場所や時が変われば正解が変わってくるのは、歴史を見れば明らかです。
どんどん人に出会って、どんどん経験を積んで、どんどん正解を自分の頭で見つけていけばよいと信じています。
あなたがいる環境(人間関係)での正解の集合体が、あなたにとっての「物事の本質」です。
物事には、正解はありません。
普遍的な正解など何一つないと信じています。「人を殺してはいけない」という一見正しいことでも、見方を変えると正しくないのです。
わたしは自分の子供が殺されようとしているときには戦い、時には相手を殺す場合もあるかもしれません。
物事はケースバイケースです。物事の「ものさし」を変えると、見方は180度変わります。
物事の本質には普遍的な答えは無い。人間万事塞翁が馬
だから自分で考え判断するのですが、その場その時の出会ったコトを、どう判断するかが自分にとっての「物事の本質」です。
世界は自分の脳の中にあるのです。
沢山の人に会いましょう。
沢山のコトに出会いましょう。
難解に見えて極めてシンプルです。
恐れから自分を解き放つとき、本当の自由が手に入ります。
思考の自由は体の自由に繋がります。
自分自身の心の筋肉を鍛えましょう。
ランニングの良さを自分なりに語る
わたしはランニングをしている人で、しっかりしていない人を知りません。
コロナ禍でリモートワーク主体になり身体がなまりすぎたことをきっかけに毎週土日のどちらにランニングを始めました。
それから一年あまりが経ち最初は月5キロ程度から始めたものが、最近では月40キロ走れるまで成長しました。
その1年余り走ってきて、ランニングの良さをまとめました。
- ランニングで「粘り強さ」を学ぶことができます。ランニングとは、どのような行為であるのかを全体として見てみると、体が発する「止まりたい」という衝動に耳を傾けず、その代わりに粘り強く走り続ける、ということなのです。 もちろん、シンドイ、もうダメだと思ったら歩くのもよいでしょう。動き続けることが大切なのです。最初から完璧に走ろうとせずに粘り強く継続することが重要なのです。
- ランニングでは、1つの目標に集中し、目的地に到着するまで足を動かし続ける方法も学ぶことができます。集中力というスキルは、過小評価され、誤解されていると感じております。多くの人は、集中力は生まれつきのものだと思っていますが、わたしは個人的な経験から、集中力は鍛えることのできるスキルと信じております。
- ランニングをすることでより一層のスタミナがつくので、階段での登り降りや、急な小走りで息切れすることがなくなります。
- ランニングは、タバコのような悪い習慣をなくす役にも立ちます。走りながらタバコを吸い続けるのは大変ですからね。現にわたしはランニングを始めてからタバコを卒業しました。子供が産まれたことも背景にありますが、ランニングのおかげだと感謝しています。
- 旅先でもランニングを続ければ、その街の景色をより深く知ることになるでしょうし、その街の朝方に走ることで新しい街の一面を知ることができるかもしれません。まだ試したことはないので想像でしかないですが、コロナ禍が終わった暁にはぜひ実践したいと思っています。
- 走りながら色々なことを学ぶこともできるでしょう。ポッドキャストやオーディオブックは、長い距離を走る時に聴くのに最適です。 ランナーは健康的な食事をする傾向があるので、ダイエットや美肌にも効果があります。
- ランニングをしていると、とても自信が湧いてきます。自分がより一層強い人間になり始めたような気がしてきます。気のせいかもしれません。
基本的に継続してランニングするためには「頑張り過ぎない」ことが肝心なのかもしれません。
最後に、ランニングはしておくべきだ、と言っておきます。いつか、したくてもできなくなる日が来るからです。
物事の本質を掴むには
盲人とゾウの話はご存知でしょうか。
ゾウの傍らに立った盲人らが、めいめいにゾウの身体を撫でては「ゾウとは細長い蛇のような生き物である」「いや巨大な丸太のような生き物である」と言い争う、というものです。
わたしたちにとっての物事の本質とは、ちょうど盲人にとってのゾウのようなものだと捉えています。
ゾウがどういう形の生き物なのかを理解するには、少し撫でた程度で「本質を理解した!」と騒ぐのではなく、全身を撫で回してみるしかないのです。
ところで、仮にあなたが盲人だったとしましょう。
傍らにいるゾウを丹念に撫で回し、その全体像を把握しようと奮闘したとします。
あなたが「ゾウの全身」を全て撫で回したことを、どうやったら把握できるでしょうか?
よし、全身を撫で回したぞ!と確信するには、一体どうすればいいでしょうか?
ひたすら丹念に記録を付け、新しい事実が出尽くしたと思えるまで撫で回すしかありません。
中途半端に「全てを把握した!」と信じ込むとその瞬間、ゾウがあなたを尻尾ではたき、今のは一体何だと驚愕するハメに陥ります。
そう、物事の本質を掴むには、本質を掴んだと信じないことが重要なのです。
常に疑う気持ちを持って「これが正解でいいのか。他のやり方はないのか」と考え続けることが次につながります。
そして、ひたすら物事の本質を探り続けるしかないのです。