道連草

由の無さは兼好法師に勝っている

記事(1/3)(仮)

僕は、個人ブログを4回更新したことがない。
字義通りの三日坊主なのだが、この三日坊主という言葉にある種の呪いを受けている、と言えばこれは言い訳として成り立つのか否か。
死屍累々、恐らくは一番親しい友人の一群にすら存在を知られないまま風雨に晒され化石になったブログたち、毎度毎度その開設後4日目の夜に思う。

ああ、今回も三日坊主としての完成をみたのだ、と。

三日坊主、これが意外と快い響きなのがいけない。そういうことにさせておいてほしい。皆さんの寛容で出来た石橋を僕は叩かずに渡って生きています。
要は『三日坊主で終わったブログ』という作品を作り終えることである程度悦に入っていた部分がどこかにあるのだろう。こういった曖昧な言い方も今後許してほしい。以下寛容石橋のくだり。

何かテーマのようなものがあれば毎日取っ掛かりやすいのかもしれないが、4回目以降に今度はそのテーマからの束縛を受けそうな予感に背筋が凍る。

そうなると事実、着想、出力、この3つが記事毎に要求されそうだ。週刊少年ジャンプの友情・努力・勝利よりは簡単そうだけど、ブログを毎日更新している人はやはりサイヤ人か火影ではなかろうか。

話は変わるようで変わらないので暫く付き合って頂きたいが、円城塔の『道化師の蝶』という短編小説作品を読んだ。芥川賞を受賞した作品だから、御存知の方も多いだろう。
章ごとに語り手が変わる(そしてそれが誰であるか、どの語り手とどの語り手が同一人物かは明言されない)難解な構造を持った小説だった。
この内容については僕もちゃんと理解している自信がないので、今日のところは割愛或いは逃亡をかますとして、とにかくこの小説には印象的なモチーフが現れる。
それが『着想を捕らえる捕虫網』だ。銀の糸で編まれた小さなこの網は、文字通り人の着想そのものを捕まえることが出来る。それも高速で移動している乗り物の中だとよく引っかかるらしい。
人の着想を捕まえてしまうのはかなり気が引けるが、ならば自分の頭に乗せて流れ出てしまう思考を堰き止める目的でこの網を使ってみたいという思いが、この小説を読んでからというもの時折頭の中に浮かぶ。
とはいえこの思いが頭の中に留まっているということは、案外こいつは僕の頭の中の捕虫網に引っかかってもがいているのかもしれない。
ところで、この段落自体に全く意味はない。僕はこの段落自体を捕虫網として構えながら記事を書き進めているが、さて、いよいよこの段落を結ぶに当たって捕虫網の中身を覗いてみると、果たしてそこには虚無が広がっていた。僕の冒険はここで終わり。兼好法師の244分の1の旅路は山も谷も川もなくて楽しかったです!

そもそも兼好法師がいう心に移りゆく由無し事とは、一体どこから拾ってくるのか。彼は銀糸の捕虫網を持っていたに違いない。
徒然草には伝聞とか観察結果みたいなものもあった気がするが、どちらにせよ自分が介在しなければ長きに渡って人を惹きつける文章にはなるまい。

自分。この自分というのが厄介で難しい。

多くの人にとって、自己省察という行為には限界が設けられているとみえる。それも自分を理解した、と自称する資格が与えられる水準より遥かに低いところに。

本来自分にも存在するはずのある欠点について、相手の中にそれを見出し否定する様は第三者から眺めれば滑稽窮まりない(実際に笑えるかどうかは別として)。
それもまた、限界ギリギリに理解した自分の中にはその欠点が見当たらないために起こる事態なのかもしれない。その限界まで満ちた自己理解というものが、本当は半身浴も出来ない湯量、平泳ぎも出来ない水量であることになかなか人は気付けない。
湯を張っている途中の浴槽にも、水を入れている途中のプールにも人はあまり興味を持たない。
幸せな一番風呂の為に、楽しいプール開きの為に、何とかして浴室の建て付けの悪い扉を、プールの前のあまりに冷たい消毒槽を、何食わぬ顔で突破する方法をこれから考えてみたい。
4回目以降があればね。

さて、やめときゃいいのにブログなんぞ始めてしまったからには、そして冒頭でうだうだ三日坊主のくだりをやったからには、2回目である次の更新の段階で既に為されなかったら笑うか怒るかして頂けると僥倖の極みであるところ。

そう、笑ってくれる人も怒ってくれる人もありがたい。目の前を歩きスマホで横切られるよりは。

お付き合い頂きありがとうございました。