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アニメや本についての雑記です。オタクが書いてます。

『借りぐらしのアリエッティ』と「ビン詰めのこびと」モチーフ

 

 

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先日『借りぐらしのアリエッティ』を観たんですが、とてもいい映画でした。ラストでアリエッティと翔の「別れ」をきちんと描いているのが印象的でした。「別れ」といっても、ただ悲劇的なだけの「別れ」ではなく、アリエッティと翔のふたりが互いに成長していった過程での「別れ」であるところが良かったです。決して甘くはありませんが、「成長と別離」という主題に対して真摯的なラストだったと思います。

 

それで、今日書きたい話は、作中に出てくるハルさんと「ビン詰めのこびと」というモチーフについて。家政婦のハルさんがこびとであるアリエッティのお母さんを床下で見つけ、捕まえてビンの中に閉じ込めてしまう、というあのシーンです。ハルさんめっちゃ怖かった。それから、一連のハルさんの振る舞いに感じた”不快さ”について、考えてみたら結構根が深い問題なんじゃないかと思い、この”不快さ”がなんなのかをことばにしてみたいと思います。

 

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まずは、ハルさんの「こびとをビンの中に閉じ込める」という行為について。この行為の中にはユング的な「母なるもの」の「母性の裏の顔」が象徴的に描かれているのかも知れません。

 

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ユング派は「母なるもの」について、「養い育てる側面」と「包み込み呑み込む側面」の二面性を持つ存在として説明しました。幼い子どもが成長していくためには、母親の包み込むような愛情をその身に受ける必要があります。子を「養い育てる」という好意的な母性です。しかしその好意的な母性ー母親の「包み込む愛情」は転じると、「子どもの成熟を阻むもの」ともなりえます。いつか「外の世界」へ旅立たなくてはならない子どもを、永遠にそのからだに包み込み押しとどめようとした時、母胎は子どもにとって「成熟を阻む檻」へと転化します。「母なるもの」は「死」とも接近しています。これがユング派の説明する「母なるもの」の持つ二面性です。

 

例えば、ジブリ作品の『千と千尋の神隠し』の湯婆婆と坊の関係には、ユング的な「母なるもの」のイメージが鮮明にあらわれているんじゃないかと思います。おもちゃとクッションでいっぱいの坊の「部屋」は、湯婆婆の坊を溺愛する精神性の延長であり、坊にとってまさに「成熟を阻む檻」でした。

 

ハルさんの話に戻ると、「こびと」を「ビンの中」に「閉じ込める」というハルさんの振る舞いからは、「子ども」を「胎内」に「閉じ込め」ようとする「母なるもの」のイメージを読み取ることが出来るのではないかと考えます。

 

またその前段で、ハルさんが翔の部屋に鍵を掛けるシーンが挿入されていますが、このシーンにおいても「翔」を「部屋」に「閉じ込める」ハルさんの姿から、「ビン詰めのこびと」と同様「母なるもの」を読み取れるのではないでしょうか。だからこそ、翔がアリエッティの助けを「借り」てあの「部屋」を抜け出したことは、翔の成長にとって大きな意味を持つ行動でした。

 

或いは、翔にとっての「部屋」をもう少し拡大して、療養のために訪れたあの大叔母の「屋敷」全体と捉えても良いかもしれません。翔は心臓が弱く、さらに仕事で忙しくする母親からも半ば取り残された「可哀想な子ども」です。大叔母はそういうまなざしを作中で翔に投げかけています。そして、大叔母は翔が少しでも「屋敷」の外に出ようものなら、身体に悪いから控えるように、と翔をたしなめます。

 

この「屋敷」は大叔母の精神性の延長であり、この母胎の中にとどまり続ける限り、翔はある種の「こびと」にならざるを得ません。この母―子の関係性を、翔はアリエッティに対して正確に反復しようとします。翔はアリエッティを滅びゆく小さな存在として捉え、彼女にミニチュアの「家」をプレゼントしそこに住んでもらおうとします。しかし、滅びゆく小さな存在は、この時点で翔自身の自意識でもあります。翔はアリエッティと自分を同一視していました。

 

そしてそれゆえ、アリエッティはこの翔のプレゼントを拒むのです。彼女は与えられた「家」に住まうのではなく、「家」を出て出発するという「針の道」を選択する存在だからです。

 

翔は鍵の掛けられた「部屋」をアリエッティの助けを借りることで抜け出します。ここでアリエッティが翔の「部屋」からの脱出を手助けることが出来たのは、彼女が翔に先んじて、「外の世界」への一歩をすでに踏み出している存在だからです。アリエッティはお母さんの待つ「家」を出て、お父さんに導かれ、借り―狩りの世界―外の世界へと既に足を踏み入れています。アリエッティが腰に差す「まち針」は、お父さんのリュックにつけられた「安全ピン」とは対比されるアイテムであり、彼女が「外の世界」―「針の道」を歩み始めた存在であることを暗喩しています。

 

そして「部屋」を抜け出した翔は、今度は「びん」に閉じ込められたアリエッティのお母さんの救出を手伝います。「部屋」を脱出する手続きを経たことによって、翔は今度は「手助ける側」に回っています。それまでの翔がアリエッティに示そうとした好意ープレゼントが空回りし続けたのとは違い、ここで初めて翔はアリエッティたちをちゃんと助けることが出来ました。そして最後に、翔は「屋敷」を出て手術する―彼自身も「針の道」を歩むこと決意します。危険を引き受けてなお生きることを肯定する道を、アリエッティと同様に翔は選択するのです。

 

ここからは「ビン詰めのこびと」について、あまり纏まってないですが書いてみようと思います。はじめに「ビン」をユング的な「母なるもの」の象徴かもしれないと書いたのですが、ちょっと違和感も残ります。というのも、透明で無機質な「ビン」は母性―肉感的―情緒的なイメージとは少し離れたもののように感じるからです。

 

例えば「坊の部屋」はおもちゃとクッション―湯婆婆の溺愛によって埋め尽くされたものでした。「屋敷」は情緒的な大叔母の精神性の延長であり、翔にとって療養のための場所です。こういった母性―情緒―胎内―闇―眠り―死に繋がるくらい場所と「ビン」とは、どこか結びつきづらい気がします。「ビン」とは一体何なのでしょうか。

 

「閉じ込める母性」の表象としての「部屋」は、他者性の排された閉じた空間です。母が子を包み込む、この関係性の中に他者はいません。しかし、「びん」は透明であることを考えた時に、「ビン詰めのこびと」はその外側に他者の存在する関係性を暗示してはいないでしょうか。それは、鑑賞する/されるという関係性であり、「ビン詰めのこびと」の鑑賞者という他者の存在です。ハルさんは「誰か」に見せようと思って、捕まえたアリエッティのお母さんをビンに閉じ込めたのでした。

 

実は「ビン」は極めてオタク的な欲望として読めるんじゃないか、という思いがあります。

 

「ビン詰めのこびと」を見たときに何かに似てると思い、はじめに自分が思い出したのが『gatebox』でした。『gatebox』は装置内にホログラムによって映し出された二次元キャラクター「逢妻ヒカリ」と一緒に生活を送れてしまうという現在開発中の罪深いバーチャルホームロボットです。罪が深すぎる……。

 

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思い返せば、石黒正数の『外天楼』のなかに描かれていた、ケースに入れられた観賞用の人工生命体「フェアリー」は、このハシリだったんじゃないかなあと思います。

 

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「ビン詰めのこびと」はサブカルチャーの領域で反復されているモチーフのようです。勉強不足で分からないのですが、遡れば近いものはまだまだ見つかるんじゃないかという気がします。「閉じた世界」に住まうこびとー二次元キャラー少女を鑑賞したいという欲望は、オタクにとってかなり普遍的な欲望なんじゃないでしょうか。アニメオタクとかアイドルオタクとかには顕著なように思います。「ビン詰めのこびと」が繰り返し表現されるのは、そういうオタク的欲望のとりうる形としてある程度普遍性を持つからではないでしょうか。

 

そして、「こびと」ー「フェアリー」ー「逢妻ヒカリ」ー「少女」を「びん」ー「ケース」ー「gatebox」ー「アイドル」という閉じた世界にとどめたものは、ひとつはかわいいー少女ー萌えを鑑賞し消費するというオタク的な欲望の存在、そしてその欲望を商品として形にしようとする資本ーつくり手の存在、さらに場合によっては「ビン」という閉じた世界で「こびと」のままで居続けたいという、「こびと」本人による「成熟忌避」という形での自己実現の欲望の存在、の3つがあると考えます。この三者による共犯関係が、「ビン詰めのこびと」という閉じた世界を成立させたものではないでしょうか。

 

しかし、『借りぐらしのアリエッティ』に戻ると、アリエッティのお母さんは「ビン」を抜け出すことを選びます。彼女は閉じた世界の中で「こびと」であることを選択はしませんでした。ハルさんの眼差しでは「こびと」である彼女は、しかしアリエッティの母であり「産む」という身体性を受容した大人の女性です。彼女の願いはいつか海を見ることであり、海の写真を家に貼って眺めながら日々家事をこなしていたのでした。だから彼女は翔とアリエッティの助けによって「ビン」を抜け出すし、プレゼントされた家具には多少心揺られながらも、最後は新しい家を探す度に出るのです。

 

こういうふうに考えた時に、『借りぐらしのアリエッティ』において描かれたハルさんと「ビン詰めのこびと」、そしてそこからの脱出劇は、アニメオタク的な欲望に対しての批評としても読めるような気がするのです。ハルさんの振る舞いを気持ち悪い、許せないと言って観るのは簡単です。しかしそう言って観たもの、あるいは目を背けたものの正体は、実は鏡に映し出された自分自身の姿なのかもしれない。彼女のグロテスクさは、消費という沈黙の言葉によって、自分が暗に肯定してきたものの所在なのかもしれない。そんなことを考えました。

 

 

 

サクラクエストにみる「方言お姉さんキャラ」の趨勢

 

 

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漫画やアニメにおける人物の描かれ方はしばしば記号的だったり類型的だったりします。例えば「無口でミステリアスな美少女キャラ」とか「ツンデレお嬢様キャラ」とか、ぱっと固有名のキャラが思い浮かぶ人も多いんじゃないでしょうか。これらの組み合わせがアニメファンにとって馴染み深い感じがするのは、漫画や萌えアニメの一時代の基底になるくらいまで流行ったパターンであるからだといえると思います。

 

今日書いてみたいのは、そういう類型の一つ「方言お姉さんキャラ」についてです。

 

最近この「方言お姉さんキャラ」が密かに流行りつつあるんじゃないか、とふと思いつきました。具体例としてまずあげたいのが、「サクラクエスト」に出てくる「四ノ宮しおり」というキャラクターです。

 

「四ノ宮しおり」は作中で「田舎」である地元に愛着を持つ「母性的」なキャラクターとして描かれています。彼女のくちぐせは「だんないよ」で、これは心配ないよ、大丈夫だよ、という意味の富山弁の方言です。作中の人物が失敗したり落ちこんだりするたびに、彼女は「だんないよ」と優しく励まします。

 

この「田舎」「母性的」「キャッチーなくちぐせ」という属性を持つ「方言お姉さんキャラ」と呼べるような様式ですが、実は他作品のキャラにおいても登場します。それが「なんくる姉さん」です。

 

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なんくる姉さん」は現在ヤンマガで連載中のラブコメものの漫画です。作中でヒロインの「姉さん」は「南国」風のちょっと不思議な美少女として描かれ、極度の気にしいである主人公が何かに思い悩むたびに、「なんくるないさー」と主人公を励まします。この「南国」「姉さん」「なんくるないさー」という属性は、「田舎」「母性的」「だんないよ」という四ノ宮しおりの持つ属性にほぼ正確に対応するのではないでしょうか。

 

ここでの「田舎」は、回帰すべき場所としての「母」そして「自然」の象徴としてあると思います。だから、これらの要素は「母性的」であるということにまとめられると思います。

 

「母性」への執着がサブカルチャーを通底する主題の一つとして元々あったのは間違いないです。母子間の濃密な情緒の中に失われた安息の楽園の幻影を見ようとする欲望は、きっと昔からあったものだと思われます。ただ、以前にもまして「母性」が表に、より直接的に描かれるようになったという印象が強くあります。それに呼応してか、キャラへの愛着を示す言葉は、かつての「俺の嫁」から「バブみ」へといつの間にか変化してしまいました……。

 

なので「方言お姉さんキャラ」、今後も出てくるのではないでしょうか。何かあった時に「せわーねー」と励ましてくれるせわーねーさん(岡山)とか、「あんじゃーねー」と励ましてくれるあんじゃーねーさん(群馬)とか。ちょっと見てみたいです。

 

 

 

 

『心が叫びたがってるんだ』 ”呪い”という移行対象と結末の違和感

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 文章にいかつい言葉や言い回しが使われる理由は、書かれてる内容の幼稚さや未熟さを覆い隠すという点にあるんじゃないかと思う。ホントは情けなくなるくらいどうしようもない何かを、恥ずかしいからゴテゴテした文体でなんとか覆い隠そうと努力した痕跡が、そこにある。自分の書いた文章を自分で読んでいて、ふとそう思った。あぁ……。

 例えば思春期の頃、自分の見た目やファッションにとても強く執着したり、逆に嫌悪したりするのも、それが理由の一つになっているのかもしれない。この時期はとにかく内面と外面が屈折した結びつき方をして、極端にふれがちだが、それも多くの人々が人生のある時期に経験し、通ってきた道だと信じる。(自分だけじゃないと思いたい)

 『心が叫びたがってるんだ』もそんな”思春期の呪い”をテーマにしたお話と言えるだろう。

 子供の頃、順はおしゃべりをキッカケに自分の家庭を壊してしまう。浮気が結果的にバレたお父さんは、「全部お前のせいじゃないか」とに言い残して、家を出ていってしまった。失意の底で、王子様による救いを夢見る順。しかし、そんな順が山で出会ったのは王子様ではなくヘンな玉子の妖精だった。玉子の妖精は、順のおしゃべりを呪いで封じて、の言葉をたまごの殻の中に閉じ込めてしまう。喋るとスクランブルエッグになるぞ!と玉子は順に脅す。こうしてはおしゃべりの出来ない女の子になってしまう。幼い順が空想の中で編み出した、この不思議な玉子の妖精との出会いはなんだったのだろうか。

 恐らく、決定的だったのがその前の両親の言葉だ。お母さんは「順、それ以上喋っちゃ駄目よ」と玉子焼きで順の口を塞ぐ。”おしゃべりを封じるモノ”としての玉子の元型が、このシーンからは読み取れる。父親は浮気相手の元へ出ていく。失意の底で順は家を飛び出すが、飛び出したところで帰るべき家庭はもはや残されて居ない。一度口から出た言葉を無かったことには出来ないし、壊れた家庭がもとに戻ることもない。スクランブルエッグが元の玉子の形に戻ることはないのだ。壊れてしまった家庭は、どんなに辛くても順にとっていつか着地しなくてはならない現実だ。しかし、幼い順にとってそれは辛く受け入れがたいものだった。だからこそ、順は現実ではない空想の中に救いを求めて、王子様との出会いを夢見るのだ。幼い順にとって、それは切実な願いだった。そして、順は王子様と出会うため、お城(ラブホテルである)を目指し山を彷徨う。玉子の妖精は、そんな順の前に現れるのだ。

 発達心理学に移行対象と呼ばれる概念がある。母親と離れた子供は、不安を癒やすために、ぬいぐるみや毛布や空想の友達に愛着を寄せることがある。このぬいぐるみが移行対象である。この時、ぬいぐるみや毛布、空想の友達の役割は、子供にとって失ってしまった何か、つまり母親との一体感を補償するための、代償として存在する。失ったものを、”そのものではない何か”で補償するのだ。

 移行対象は、子供が母親を”良い面も悪い面も持ち合わせる他人”として受け入れるまでの間のいっとき、側に寄り添って、子供の不安を癒やしてくれるのだ。しかし、移行対象は成熟のためにいつかは離れ無くてはならない存在でもある。受け入れることを留保した現実に、いつかは帰着しなければならない時が来る。この”移行対象との分離”に主題を置いたのが、ここさけじゃないかと思う。

 ここでは、玉子の呪い、つまり”順を包む玉子の殻”を移行対象として捉えたい。映画の呪いからはネガティブなイメージを連想するが、玉子の殻には来るべき”殻を破る瞬間”に備えて、それまで弱い雛を外界から保護するというポジティブな意味も併せ持つ。不安定な順にとっての空想の世界は、一時的な庇護者でもあるのだ。

 そんな彼女の殻は、王子様との出会いをきっかけにして破られる。王子様は順の秘密を偶然に知る。そして、順は王子様を救い、晴れて二人は結ばれる......とはならない所が、このお話の特徴であり、観ていてあれ?となる部分だと思う。

 この違和感について、「姥皮」と呼ばれる昔話を引き合いに出して考えてみたい。

「姥皮」はここさけによく似た構造を持つ昔話である。詳しいお話はこちらを参照。

nihon.syoukoukai.com

上記の姥皮は前半部分に蛇婿入譚が挿入されるタイプの話型となっている。

後半部分について、以下、構造を抜き出して比較してみる。

①主人公の娘の家からの離別(家からの分離)

②山姥と出会い、姥皮を渡され(移行対象)老婆として姿に身をやつす(仮の姿)

③長者の家で働く

④長者の息子に、姥皮を脱いだ娘の姿を観られる(真の姿を知る異性との出会い)

⑤長者の息子の病を、娘が治す(異性の救済)

⑥娘は真の姿を取り戻し、長者の息子と結ばれる

 さて、上記の構造を途中まではかなり正確にここさけは反復する。

①両親の離別、順は帰る家を失う(家からの分離)

②玉子の妖精と出会い、玉子の呪いをかけられ(移行対象)喋れない姿に身をやつす(仮の姿)

③学校に入学

④拓実と出会い、順は拓実に過去を打ち明ける(真の姿を知る異性との出会い)

⑤順と関わる中で、拓実がピアノを再び弾けるようになる(異性の救済)

 また、拓実の視点から観ても同様に姥皮の構造は起動していて、パラレルな関係になっている。

①ピアノをきっかけに両親が離別、祖父母と暮らす(家からの分離)

②ピアノが引けなくなる(仮の姿)

③学校に入学

④順に音楽室でアコーディオンを奏でる姿を観られる(真の姿を知る異性との出会い)

⑤拓実と関わる中で、順が言葉を取り戻す(異性の救済)

と、ここまではいいのだが、問題は⑥である。その後、順と巧実は結ばれること無く、お互い別々の相手の元へ行く。さらに、その相手との関係性がどうなるのかもハッキリとは示されないまま、終わってしまうのだ。以下、どうして姥皮の構造が崩され、この結末が取られたのかを考えてみたい。

 前後してしまうが、いったん冒頭に戻って考えたい。玉子の妖精との出会いのシーンで、玉子の妖精が”点”を隠して王子さまに変身する下りがある。漢字の「玉子」と「王子」のシャレになっているが、このシーンは恐らく玉子の妖精と王子様の密かな同一性を示すものとしてある。つまり、玉子の呪いも空想の王子様も、どちらも順にとっては移行対象であり、離れなくてはならない存在として描かれているのだ。順が着地しなくてはならない現実は、夢見がちに王子様と結ばれることではなく、田崎との始まったばかりの関係だった。それは、何の保証もないあやふやな未知の可能性であり、まさに現実そのものだ。

 この崩された構造には、あるメッセージ性を感じた。それは、”現実に立ち向かえ”というメッセージだ。しかし、玉子の殻を破り、理想の王子様が存在しないことを受け入れ、それでも現実の中に未知の可能性を見出す順の姿は、きっとこのアニメを観る自分のような層のーいわゆるオタク的な人々には、このメッセージにある種の受け入れ難さを感じるのではないだろうか。

完全に偏見だか、オタクは程度の違いはあるにせよ、友人や家族、学校、或いは会社など、その人の所属する現実の物語の中に、どこかで乗り切れなかった人たちなんだと思う。少なくとも著者はそうだ。現実を受け入れることを留保し、欠けた何かを抱えながら、二次元の空想の世界を消費し、想像上の一体感に身を浸し続けている。だから著者にとって、順の姿はどこか自分のパロディとして映った。

 例えば幼女とラブホテルの取り合わせや、夜の学校で周りの目を盗んで交わされる情熱的なキス、DTM研究会のいかにもな面々…こういうある種の生々しさを含んだ要素の数々も、観ていてやはり現実を強く意識させる作りになっている。このお話は、夢を魅せる話ではなく、夢から覚める話なのだ。だから主題として”移行対象との分離”が玉子と王子様の二度繰り返されなくてはならなかった。

 作中、ふれ交準備のために拓実の家にみんなで集まるシーンで、DTM研究会の岩木くんが「くま殺し」の文字が書かれたtシャツを着ている。岩木くんは二次元至上主義者のオタクである。ボーカロイドのミントさんがイメージと違う曲を歌っているのを許せないようなーつまり、想像上の一体感に浸るピュアなオタクなのだ。

 熊はしばしば移行対象の暗喩として出て来るモチーフであり(最近のアニメだとガルパンのみほとボコが分かり易い)熊殺しの儀礼が通過儀礼の中で意義を持つ事を指摘しているのがユング派のJ・ヘンダーソンである。このくま殺しtシャツは、熊殺し―つまり移行対象との分離を描く、作品全体の暗喩になっているのだ。(半分冗談です)

 言葉や音楽は人を傷つけるだけじゃなく、人を繋いでいくことも出来るということを、順と拓実は関わる中で互いに教え合う。一つずつ夢から覚めていきながら、それでも受け入れなくちゃいけない現実をより良い何かに変えていくために、順は王子様とも玉子とも別れて、殻の外へと一歩踏み出した。そんな順の姿は、まだアニメの安心毛布をしばらく手放せそうにないオタクの著者に、憧れと少しの痛みをくれるのだ。

君の名は。 三葉のお父さんと母の死

 

 瀧くんが御神体の中で観た回想シーンのなかで、三葉の母親の死、それから父親が宮水家から勘当され出ていくまでの三葉の生い立ちが示される。そしてその後、再び三葉と入れ替わり、隕石から町の人々を救うために奔走し、三葉の父親と対峙する。ここには父親殺しの主題が見て取れる。

 ここで三葉(瀧)は事情をなんとか説明し、お父さんの協力を得ようとするが、「妄言は宮水家の血筋か」と取り合ってもらえない。業を煮やした三葉(瀧)はお父さんに掴みかかっていく。そこで初めて「お前は誰だ?」と、三葉の父は目の前の自分の娘の姿をした存在が、娘ではない何者かであることに気付くのである。”誰そ彼”のモチーフはここでも繰り返されている。

 さて、ここでは三葉のお父さんの視点から観た物語について考えて行きたい。瀧くんが御神体で見た回想の中で、三葉のお父さんは一度は宮水家と結びつき、そしてお母さんの死を経て宮水家から切断された存在であることが示される。冒頭のシーンで、父親の町長選挙の話がラジオから流れてくるのを、お婆さんがラジオのコードを抜いて電源を切る姿が描かれているが、この”コードを抜いて電源を切る”という行為は、”糸を結ぶ”という行為と真逆の呼応性を持っていて、お父さんが宮水家から切り離された存在であるといことを象徴的に示すものである。

 そこでお父さんと三葉(瀧)の対峙するシーンに戻って考えたい。このシーンはお父さんにとって、母の死と、宮水家から切り離されるという”切断”の持つ意味を深く悟った瞬間だったのではないだろうか。お婆さんの口から、不思議な夢をお婆さん自身、また三葉の母もかつて見ていたと語られるシーンがある。「妄言は宮水家の血筋」というセリフを発した時、お父さんは三葉の背後に恐らく母親の面影を見ている。

 三葉の父親民俗学者→宮水家の神主→町長という経歴を持つ人である。これは作中の雑誌の記事のカットによって明かされている。お父さんは神主として、宮水家のしきたり、巫女の血筋、御神体の隕石の壁画、湖の由来、地方に伝承される万葉時代の言葉(万葉時代は約1200~1300年前、隕石が落下した年代と符号する)などに触れていたはずである。

 これらの断片から、繭五郎の大火によって失われた宮水家の儀礼の意味に、お父さんはある程度まで迫ることが出来たんじゃないかと思う。元民俗学者として培った素養が、神主として携わった糸守での断片的な事象の数々を俯瞰的に捉え、その中に一貫した流れを見出すことを手助けた。一貫した流れとは、かつて隕石の落下から始まり、伝承されて来たであろう”結び”の事象の数々である。その最後のひと押しをしたのが、三葉(瀧)との対峙だった。そしてお父さんは、自分が今ここに居る意味を、その大きな”産霊”の中に見出すのである。

 つまり、隕石から町を救うためには、自分が今この瞬間この場所に町長という立場に居ることが絶対に必要だった。消防署の出動権限や避難訓練の実施は、神主ではなく町長という立場に居なければ出来ないことだからだ。そして、町長になるためには、宮水家から一度切り離される必要があった。町を隕石から救うために誂えられたかのような状況の布置。さらに、全ての契機として、母親の死という”切断”が意味付けられることに、お父さんは恐らく気付いたのだ。民俗学者としての素地、神主としての経験、母親の死、宮水家からの分離、町長としての今......自身の全てが、かつて隕石の降った時から始まった大きな”産霊”の流れの中に編み直され、町を救ったあの瞬間に集約されたのだ。

 

君の名は。 口噛み酒と祭事の意味

  

 口噛み酒はお米をベースに、現役巫女JKの唾液を混ぜて作られるカクテルの一種である(大嘘)三葉は儀礼の中で、噛み砕いたお米を口から出すところを同級生に観られてしまい、それを気に病んで、来世は東京のイケメン男子として生を受けることを固く誓ったのだった。

 この口から食べ物が出て来るというモチーフや、それを見た同級生の反応は、どことなくオホゲツヒメの神話を想起させる。オホゲツヒメは口や尻から食べ物を出すが、その姿を見たスサノヲは汚いと怒って、オホゲツヒメを斬り殺す。ところが死んだオホゲツヒメの体から植物や蚕が生まれ出てきて、カミムスビがこれを取って穀物等の種としたという、食物起源の神話である。このように、オホゲツヒメは死と再生、つまり生命の連続性を体現する神様で、さらに産霊の神とも縁の深い神様である。

 さて、口噛み酒を持って御神体にお参りする途中に、三葉(瀧)は「身体の中に入ったものは、その人の魂と結びつく」とお婆さんから語られる。口噛み酒は一度三葉の身体の中に入ったものだから、三葉と結ばれた三葉の半身であるということが、ここで示される。

 お婆さんのセリフは直接的には口噛み酒についてのものだが、ここで三葉の身体の中に入った存在として、瀧くんの意識についても範囲を広げて語ることが出来ると思う。入れ替わりはすなわち、互いの身体の中に意識が出入りする現象であり、入れ替わりを通じて三葉と瀧は相手の魂と深く結びついた。「身体の中に入ったものは、その人の魂と結びつく」のだ。

 この後三葉(瀧)は御神体に口噛み酒をお供えして帰ってくるが、このシーンでもう一つ考えなくてはならない”身体”は、御神体そのものである。洞窟は御神体、つまり神様の身体であり、胎内である。洞窟は暗闇、穴、人を呑み込む空間であり、地母神の胎内として古来より儀礼の場とされてきた。三葉(瀧)はこの場所に入って、そして出て来るという手続きを通して、御神体そのものとも結ばれたのだ。ここで瀧くんが御神体との結びを得たことが、三葉との入れ替わりが切断された後、自分の体でもう一度この場所を訪れる際の下敷きになったのだと考えられる。

 三年後、御神体に再び訪れた瀧くんは、三葉の口噛み酒をのむ。ここでの口噛み酒は三葉の身体を経由し、御神体の中に入ったものであり、瀧くんが口にすることで、三葉ー御神体(隕石)ー瀧くんの全てを結びつけるものである。そして、回想を通して全ての始まりである1200年前の隕石の落下から三葉の生い立ちまでを知り、再び三葉と入れ替わる、超重要シーンに入る。

 ここで、回想シーンに入る前に、洞窟の壁に描かれた隕石の絵を瀧くんは目にしている。この洞窟の壁画から、宮水家に伝わる祭事の失われた意味について考えて行きたい。作中では、祭事の意味は繭五郎の大火のために分からなくなってしまい、今は形だけが残っているということがお婆さんから語られている。恐らくこの祭事の始まりは、1200年前に落ちた隕石に遡るもので、隕石の伝承を目的とするものではないだろうか。当時の人は隕石の落下地点に出来た洞窟を御神体とし、隕石の落ちる様子を壁画にすることで、いつの日かまた落ちてくることに備え、信仰と共に後世に記録として残そうとした。そして伝承の一貫として、隕石の落ちてきた日を祭りの日に設定する。祭りの日に偶然隕石が落ちて来たというよりは、かつて隕石が落ちてきた日を毎年の祭りの日と定めたというのが、正しい因果関係ではないだろうか。この隕石の伝承が、宮水の信仰であり、繭五郎さんが燃しちゃって分からなくなった祭事の本来の意味だと考えられる。

 

 

 

 

 

 

君の名は。考察 なぜ入れ替わった相手は瀧くんだったのか? 切断と結びの主題

  • 産霊の主題

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「産霊は土地の氏神様。この言葉には深い意味がある。糸をつなげることも結び。人をつなげることも結び。時間が流れることも結び。」

作中でお婆さんから語られる話の数々は、どれも示唆に富んでおり暗示に満ちている。

例えば、「産霊は時間の流れそのもの。寄り集まって形を作り、ねじれて絡まって、時には切断されて、また繋がる。それが産霊。それが時間」このセリフは瀧と三葉、2人の人格が入れ替わり、3年の時間が混線し、切断され、再び結ばれるというお話全体の構造を暗示するものである。

ここに示される産霊-結びは人の繋がりであり、時間の流れであり、更には作品の主題でもある。以下、”結び”そしてその対となる”切断”から君の名は。の二人の主人公について考えて行きたい。

 

  • ”結び”と”切断”

”結び”と”切断”のモチーフは、作品全体に通底するテーマになっている。”結び”は関係の原理、すなわち母性原理、女性的なアニマの象徴である。対して、”切断”は裁断の原理、すなわち父性原理、男性的なアニムスを表す。 この対となる二つの属性は、本作の主人公である三葉と瀧の二人それぞれに分け与えられたものだ。つまり、三葉の持つ属性が”結び”で、瀧の持つ属性が”切断”である。

例えば、作中で瀧くんと奥寺先輩がデートするシーン。

三葉は瀧と奥寺先輩のデートの約束を勝手に結ぶ。(結び)

ところが瀧はデート中、奥寺先輩との会話をうまく続けられず、途切れ途切れに喋ってしまう。(切断)

三葉はそんな時のためにと、会話のハウツー、彼女の作り方、みたいなサイトのリンク集を瀧のために用意している。これらの内容はどれも人との関係、繋がりに関わるものである。(結び)

更に、linkという英単語の意味する所はーそう、”結びつけるもの”なのである。(weblioで調べた)

こんな具合に、”結び”と”切断”のモチーフは作中のあらゆる所に散りばめられている。

隠れミッキーを探すが如く、映画の中で”結び”と”切断”を探してみる観方も楽しいかもしれない。

デートの舞台がスカイツリーという場所であったことにも注目したい。スカイツリーの意味するところは空であり天である。天は父性原理と結びつくものであり、瀧の属性を暗示していると思われる。

デート中に『郷愁』というタイトルの写真展に立ち寄るシーンがある。瀧が飛騨の山の写真を偶然に見かけるところだ。このシーンでは、東京という場所そのものが、田舎から旅立って分離された人々の集まった場所、つまり”切断”された場所であることが示されているように思う。 

さて、瀧の持つ”切断”と三葉の持つ”結び”は、互いに入れ替わった身体の中でも発揮されていく。まずは、三葉の視点で追っていきたい。

 

  •  三葉と”結び”

 

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三葉の”結び”の属性は髪の毛を編んで、組紐で結ぶシーンによく表されている。編む、組紐、結ぶなどのモチーフが意味する所は一つである。”結び”だ。 

一方で三葉は、町長の父との確執、巫女としてのしきたり、人々の近すぎる距離感、噂話__これらに代表される田舎の暮らし、つまり”結び”にどこか息苦しさを感じていて、東京への憧れを胸に抱いていることも示される。そして、三葉の願いを体現するかのように入れ替わりが起こるのだ。

三葉と入れ替わった瀧の行動を追っていきたい。以下、三葉(瀧)と書く。

三葉(瀧)は、カフェづくりのためにノコギリで丸太を切断する。町長選挙の噂話の中で、キレて机を蹴る。これは、教室内の嫌な流れ、空気を断ち切ったのだと考えられる。その後の不敵な目線もメンチを切ってる(切断)と言えなくもなくもない。

 

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三葉(瀧)がとったこれらの”切断”の行動は、周囲の驚きの反応を伴って描かれる。それは、以前までの”結び”の三葉の行動とは対照的だからだ。 

ここで、三葉(瀧)の取った三葉とは正反対な行動の数々について、もともと三葉が秘めていた潜在的な願望の反映でもあったとは考えられないだろうか。

三葉の東京への憧れには、三葉が”結び”に息苦しさを感じ、ここではないどこかや自分にはない何かーすなわち”切断”を求める想いが、多分に投影されていたと考えられる。

恐らく三葉は、心の中で誰よりも”切断”の力を求めていた。

入れ替わった相手がなぜ瀧だったのかという疑問がある。これは、三葉にとって瀧くんが、自分には無い力、つまり”切断”を持った存在だったからだと考えられる。三葉は自身の”結び”を補償するものとして”切断”の力を求めていた。三葉(瀧)のとった行動は、三葉にとって正反対の方向に実現した存在であり、あり得たかもしれないが決して選択されることの無かった自分自身の影である。”結び”の三葉にとって瀧くんの持つ”切断”の傾向は、三葉自身の影であり、欠けているものーつまり、かたわれなのだ。

 

  • 瀧と”切断”

続いて、瀧くんの視点で考えてみる。

瀧は都会育ちの男の子。瀧くんの持つ”切断”の属性は、例えば仲間からの遊びの誘いを「今日バイトだから」と”断る”行動に表されている。奥寺先輩から語られる「瀧くんケンカっぱやいから......」というのも堪忍袋の緒が切れやすいという、瀧くんの”切断”の属性を暗示している。 

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瀧くんの家庭は恐らく父子家庭であり、お母さんの姿は作中に描かれていない。ここに語られる”母の不在”は、女性性の象徴、母性原理としての”結び”が、瀧くんに欠如していることを暗示している。そして、欠けた”結び”を求める瀧くんの願いが、年上の奥寺先輩への憧れにも繋がっていったんじゃないかと推察する。 

瀧(三葉)が取った行動も、三葉(瀧)が取った行動と同様に捉えられる。

瀧(三葉)のとった象徴的な行動を抜き出してみる。

奥寺先輩の”切られた”スカートを糸で縫いつける。(結び)

奥寺先輩との仲を近づける。(結び)

デートの約束を結ぶ。

etc...

これら”結び”に象徴される女性的な傾向は、やはり瀧くんにとって欠けているものであり、元々の潜在的な願望の顕れとして捉えることが出来ると思う。

二人にとって、互いは互いの影、つまり無意識の願望と深く結びついた自分の半身であり、自身に欠けているものを持った理想の男性像、女性像でもあるのだ。このことが、相手が瀧でなければならなかった理由であり、二人が初め「あの男は!」「あの女は!」と反発しあいながらも、次第に惹かれ合っていく必然性なのだと考えられる。 

  • 邂逅のシーン

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このことを踏まえた上で、縁での邂逅のシーンについて観てみると、あの瞬間は自分自身の影と初めて向き合った瞬間でもあったんだと考えられる。

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下敷きになるのは、授業のシーンで語られる黄昏時の語源の内容である。

「黄昏時は夕方、昼でも夜でもない時間。世界の輪郭がぼやけて、曖昧になる時間」

黄昏時の語源は”誰そ彼”である。お前は誰だ?君の名前は?という問いかけへの繋がりを予感させる。 

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黄昏時は逢魔時とも言われ、この世のものではないものと出逢う時間でもあると示される。ここで出逢う”魔”とは何だろうか? 魔が差すという言葉を引き合いに出して考えてみたい。ふとした拍子に、普段なら考えられないような行いをしてしまうという意味の言葉である。この瞬間はつまり、自分の中に在って自分では無い、普段は眠らせている半身の存在ーすなわち影の存在が、表出した時では無いだろうか。(でも、魔=出会うはずのない異界の存在と捉えて、3年間の時間を越えた存在、あるいは生者にとっての死者、死者にとっての生者という風に観たほうが素直だししっくり来る……)

類語の最後が、”かたわれ時”という言葉で締めくくられるのは真に象徴的だと思う。 

邂逅のシーンに戻って考えたい。

時間は黄昏時、昼と夜の境界の時間である。境界という意味で、場所にも注目してみたい。2人の立つ場所は産霊の御神体の湖のほとり、つまり水と大地の境目である。

この場所があの世とこの世の境目でもあることは、作中お婆さんの口から語られている。更に、雲を見下ろすような山の頂上は、空と大地の境目であるとも言える。

この場所は水、空、あの世3つの境界なのだ。

ここで水が象徴するものは母性原理としての”結び”で、天が象徴するものは父性原理としての”切断”に他ならない。この両属性がバランスよく整ってこそ、高い次元での安定性が保たれるのであり、三葉の”結び”がより高次元の”産霊”へと統合される前に、必ず”切断”という手続きが踏まれる必要があった。

境界の上で、世界の輪郭がぼやける黄昏時に、この世ならざる魔ーすなわち自分自身の半身、影に出逢う。二人は入れ替わるべくして入れ替わり、出会うべくして出会ったのだ。