おでん文庫の本棚

大人もこどももみんなで味わう児童文学をご紹介

初読みから時間を経て再読へ

 こんにちは!ばったばったのここ最近なのですが、本が読めてブログの記事が書けて嬉しいです。小さい歩みですが、ブログの記事がもうすぐ100本を迎えるので引き続き踏ん張っていこうと思います。

 

 さてさて本日紹介をするのはこちらの本です。アイスランドに興味が膨らむきっかけとなったお気に入りの一冊です。

 

 『地震と火山の島国 極北アイスランドで考えたこと』

 島村 英紀 著

 

 アイスランドというと、アイスランドのことを初めてSNSで投稿したときに、アイルランドと打ち間違えたことが思い出されます…。アイスランドと言い出したきっかけとなったのは『Ástarsaga úr fjöllunum』(邦題『女トロルと8人の子どもたち<アイスランドの巨石ばなし>』)という絵本からでした。

アイスランドの想像が膨らむトロルの物語 - おでん文庫の本棚

 

 当時はアイスランドという国のことを知る機会がなかったため、この絵本で描かれているアイスランドの自然風景をみたときに、雪が降り積もった山は想定内でしたが、緑のじゅうたんが広がっている風景が目に入ったときに、自分の思い違いにハッとなったものでした。

 

 アイスランドについて知らないことばかりだったのが、今では(ちゃっかりと)いつか行ってみたい場所のひとつとなっています。人類が月へ初めての到達を目指していたころ、月に降り立つときの予行演習の場として選ばれたアイスランド。硬貨には海の生き物が描かれ、地表にひょっこり現れた地球の割れ目があり、間欠泉、滝、温泉、火山と共に暮らす人々。

 

 本のタイトルから想像していた自然科学の厳つい内容ではなく、人々の生活に著者が入り込んでその様子をスケッチしているおかげで、アイスランドという土地の特徴とそこにからめた人々の暮らしが想像しやすくなっています。火山、温泉など日本と共通点を比較して書かれていることも理解の助けになっています。

 

 そして嬉しいことに、本の中で触れていたバトナ氷河の下にある火山の噴火について調べてみようと検索をしたら著者のHPを発見しました(更に後になって本にHPのアドレスが書かれていることに気が付きました)。本に収録されていない写真が多数掲載されていてありがたいです。

島村英紀の ホームページ

 

 しかし今回、おでん文庫の本棚にこの本を置くということで久しぶりに読み直しをしたのですが、前回ほんとにこの本を読んでいたのかと疑うくらい、記憶に残っていたのがほんの一部の内容のみで、今になって内容が頭に入ってくる箇所がいくつかありました。

 

 この何かと何かが繋がる感覚、本を読む機会が増えていくと共に感じることが増えてきた気がします。それがどうしたかというと、言葉から想像を働かせようとするようになってきた気がするのです。

 

 例えば少し前は、地球の直径がおおよそ1万2千キロメートルで、円周がおおよそ4万キロメートルなんて言葉が出てきても、言葉をつらでしか見れなかったのですが、少し前に宇宙に関する本を読んでいて、地上から百万キロを超えたら宇宙とみなされることや、地球から月の距離(忘れた…)など、距離に関するさまざまな数字が並べられてしかもとてつもない規模にロマンを感じながら読んでいたら、少しずつ距離を想像して認識しようとする気になってきました。

 

 火山についても、『火山はすごい』の本を読んだときには、専門用語を覚えることを諦めてただ楽しく読んでいたのですが、その後に『地震と火山の島国』を読むと、前回は分からなかった火山の噴火のときの溶岩や灰がもたらす被害の深刻さを文字から広げて想像していました。

 

 また、繋がるとは思ってもみなかったデンマークに関する本を思い出すきっかけもありました。

 

 この繋がりというのが、球がピン、ピン、ピンとはじかれて壁にぶつかりながら転がっていくときのようなちいさい衝撃をもたらして、目がぱっと開かれるようなイメージです。

 

 自分のことを知っている人なら分かるかもしれませんが、物覚えがあんまり得意ではなく、通り過ぎれば漠然とした記憶にしか残らず、本を読んでいる割に書いてあることの説明は出来ないわで、傍からみたら「なんでそれで本を読んでいるの?」と尋ねたくなりそうな状態なんですよね。

 

 そういうモヤモヤを抱えていたのが、最近ちょっと考え方が変わってきた気がします。『せいめいのはなし』の本を読んだのも、変化をもたらしたきっかけのひとつなんだろうなあと思いますが、点としては存在しているが動かない球たちをピンッと動かせるとよいのだなと感覚的にですが思い始めました。このことについては、どこかのタイミングで丁寧に記事にできたらなあと思います。

 

 読んだ本がどこでどう繋がるのかは読んでみないと分からないので、まずは興味を持つことが出来て、自分が読みたいと思える本を手に取ることが大事に思います。また専門的な本へ絞り過ぎずに手に取るのもよいかもしれません。アイスランドの本、宮沢賢治グスコーブドリの伝記の火山、火山専門の本、浅間山の絵本など、それぞれの本からまた興味が広がるので、尽きない楽しさが続いてくれます。

 

 補足となりますが、今回紹介している本を出版をしているのは、児童文学を読むのにお世話になっている岩波書店です。”岩波ジュニア新書”という、小中学生から大人世代まで、幅広く読める入門新書を出しているのだそうです。今回の本が読みやすく内容も充実しているので、他の本もこちらを頼りに探してみたいです。

岩波ジュニア新書 - 岩波書店

 

 おでん文庫の1~4月の本棚テーマ”おうちの本棚”も気が付けばあと1か月となりました。残りの期間も引き続き、どうぞよろしくお願いします。

 

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【雑記】理解しようと意気込まない

 こんにちは!最近、読みたい本を本棚から引き抜いて机のまわりに並べ始めてよくない状態になっています、読みたい本を1冊に絞るのが難しく、そういうときは図書館で借りた本だと返却日が近い順に手を付けていくことになるので、強制的に読み順が決められるので助かります。返却日が近い分厚い本を読むターンになると、朝も早起きになります。図書館は本を借りるだけでなく生活を整えてくれる存在になりつつあります。

 

 さてさて本日記事で書こうと思っていたことが、直近で読み終えた生物学者・作家である福岡 伸一さんの本『せいめいのはなし』の濃厚さにヤラれて、ぼやけてしまいました。福岡さんはドリトル先生シリーズの新訳も手掛けていると後から知り、素敵なインタビュー記事を発見したのでリンクを貼っておきます。

www.tjapan.jp

 

 さてさて『せいめいのはなし』に書かれていることに思わぬ発見がいくつもあり、なんて面白いんだと感動していました。そこで旦那さんとの会話で本の内容と接点がありそうなことがあれば「ところでこの話といえば最近読んでいる『せいめいのはなし』っていう本でね…」と話題を本の方へ持っていこうと試みるのですが、いざ話そうとすると、細胞の説明が全く上手にできません。どうしようもなくはがゆいです。(海外の映画で、過去の時代にタイムスリップしてしまった男性が、言葉の通じない女性を前にして自分の思いを伝えられない状況に、ぽつりと「はがゆいな…」という風なことを呟いたのを思い出してしまいました。それにしても、あのとき状況が読めずキョトンとしていた女性はかわいかったな)

 

 学校の授業で分からないことや解けない問題に出くわしたとき、この目の前の内容を理解できていないとはっきりと自覚して、立ち止まってしまうことがよくありました。目の前の問題が解けないと次の問題に移ることができず、家でひとりで数学の勉強をするのは骨が折れた記憶があります。それでもなんとか正解にたどり着くことができれば、一問クリアーということで、そこから次へと進むことができます。

 

 それが本を読むときでは、少し行動が異なるような気がしています。本の内容を正しく理解することを心掛けて読もうとすると勉強と同じで、例えば火山を題にしたらマグマの温度はいくつなのか、日本で最後に噴火したのはいつでどの山か、有名な火山写真家は誰か、といった情報を意識して拾おうとします。しかし、数字や情報だけならまだ悩みは小さいかもしれません。もしこれがマグマが噴火する経緯をきちんと理解・説明しよう考えると、本の中で答え探しになり、見つけた答えに自信が持てなければ先に読み進めようという気も起らなくなっていくように思います。

 

 理解するというのはきっともっと気の遠くなるような話で、例えば火山の本1冊から、発せられるガスの成分を記号的に覚えることができたとしても、その成分がどんなものかを知らなければ、そのものを十分に理解したとは言い難いです。なので今度は成分について調べる本を読もう…という具合に、理解するには興味のあるSNSのアカウントをどんどん下へスクロールをするように、どんどん物事を掘り下げて、情報を集めていく行為が必要になるのではないかと思います。

 

 ただ、もう一方の読み方として、作者が「火山はすごい」と語るその理由に自分の感情が乗っかり、火山へのまなざしが熱くなっていくことがあります。専門的な話だとしても分かりやすく説明されているのも大いに助けとなっていると思います。それでもきちんと理解できているかは大変怪しいですが、読んでいるその瞬間は不思議と分かった気になっていて、つい楽しくなって、ページが次へ次へと進んでいきます。関心が最後まで続いていった結果、本が読み終わって満たされたような気持ちがあり、そこからさらに詳しい本を読んでみたい、と次にも繋がっていく可能性も大いにあります。

 

 たとえその面白さを自分の感覚でしか認識できていなくても、ひとまずはそれで良しです。読書の楽しさは内容をきちっと理解しようしたり人に伝えようとするのは二の次で、心が目覚めるような本と出会い読む楽しさをかみしめる、そういうひっそりとしたところで盛り上がっているのが大切に思います。

 

 そして、内容の説明は難しいけど感想であれば、よくよく自分の気持ちを見つめていたら何かしら出てくるはずです。『せいめいのはなし』は対談形式で書かれているのですが、同じテーマで話していても、著者と対談者それぞれ話の視点は異なります。月に浮かぶシルエットがカニに見える人、うさぎに見える人がいるように、同じものを見ていても見え方が異なります。そうした個人個人のフィルターを通して見えてくる世界が、内容の難しさを補って、気持ちを惹きつけるのではないかと思いました。

 

 今回の読書で自分の視点を持って分かりやすい言葉を紡げるようになりたいなと、そんな気持ちも芽生えつつ、ではでは次回もどうぞよろしくお願いします。

 

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児童文学の扉を開くなら

 こんにちは!2月から3月にかけて、お仕事で異動の話を聞いたり、引っ越しのトラックが目に付くようになったりと、変化の訪れをちょっとばかりですが感じることがありますね。私も2月末から新しいことを始めた身、不安と反省の波にしばかれながらですが、残り半分となった3月もやれることをやろうと思います。

 

 ではでは本日は前回の記事に続いて、こちらの本を紹介していきます。

 

  『幼い子の文学』

 瀬田 貞二 著

 

 ↓前回の記事はこちら

翻訳で大切なことを勘違いしていたお話 - おでん文庫の本棚

 

 前回の記事は本について書く一歩手前のところで終わっていました。

 

 今回紹介する本の著者は『ナルニア国物語』シリーズや『指輪物語』など児童文学の翻訳に携わっており、児童文学関連本で名前を見る機会が増えていくと共に名前をよく知る様になったのですが、そもそも翻訳者への興味というのをどのくらい持つものなのだろうと、そこを切り口に前回はつらつらと書いていました。

 

 翻訳というものを原文に従って正しく正確なものを良しと想像していたのですが、子どもへの伝え方という目線が必要であると気が付いたとき、翻訳の難しさと奥深さにハッとなり、児童文学の世界を作る側の目線で知らなければと意識するようになります。

 

 そうしたいきさつがあり、児童文学を学ぶ本を選ぶなら翻訳者の本はきっと信頼がおけると思えて手に取ったのが、今回紹介する本になります。

 

 タイトルが簡潔で分かりやすいのも、手に取りやすいですよね。それでいて、表紙の情報がすっきりしている分、内容が専門的で厳ついのか、初心者でも読みやすいのか、ちょっとどんな風になっているのか気になります。本屋さんで見かけることがあったら手に取ってページをいくつかめくり中身を確かめていそうです。

 

 幼い子どものための文学、と聞いたときに、切り口をいくつか想像できるかもしれません。一番最初に思い浮かぶのは、分類に分けて紹介をしていく流れ。例えば国や地域毎(日本・イギリス・アメリカ・ドイツ…など)に分類ですね。もしくは、年代順に文学の歴史を辿る。日本と海外を比較して児童文学を語るというのも、あるかもしれません。

 

 ひとまずきっと触れているだろうと考えるのが、海外の児童文学です。児童文学というと、イギリスやアメリカ、グリム兄弟にちなんでドイツ、アンデルセンデンマークといった海外の文学に馴染んできた思い出があるので、あるかなあと想像します。

 

 実際、蓋を開けてみると、海外の知らない作家の名前がじゃんじゃんと、作品を引き合いにして登場していました。世界は広い、というより、広いのを知らなさ過ぎたために、途方もなく広い…。(この本を読んだ頃はアリソン・アトリーの本を読んだこともなく、今やっと読める箇所が出てきている状況です)

 

 しかし、内容が専門的で読むのが難しいのかというと、内容を理解するには時間が掛かりそうでも、初心者でも読みやすい内容となっています。というのもこの本の内容というのは、著者が児童図書館講座というのを開き、児童図書館員に話していたことが本となっているので、意味が分からないような難しい言葉が少なく、読者に語り掛けてくる様子が優しく丁寧です。

 

 内容についても、歴史をさかのぼったり作者のずらりと並んだ著作を細々解説といった全体を捉えるための網羅的な内容というのではなく、児童文学で大事と思える要点を据えて、各講座(各章)ごとに語られているので、要点がすっと入ってきやすいです。各章のタイトルも短い言葉で分かりやすく書かれているので、目次で何の話がされるのか理解しやすいのもホッとします。こうした気遣いや言葉選びから、すでに翻訳をするときの心がけが生かされているようにも思えてきます。

 

 学生の頃、茶道を習っていたときのことを突然例えで上げてみるのですが、一般的な勉強である様なテキストは一切なく、茶道というものうんぬんといった知識を付けるでもなく、ただただ、先生に見てもらいながらお点前の手順を何回も繰り返し、身体に覚え込ませる、というやり方でした。映画にもなった森下 典子さん著の『日日是好日』でも、茶道の世界が描かれているのをみると、自分が昔習ったこと重なるところがあり、特殊なものだなあと思いました。

 

 そういう、資格を得るために知識を蓄えていくことと違い、身体で覚えるということは、身体で感じるとも言えて、児童文学に限らず文学作品に触れるときの心が感じる、動かされるという感覚、感動する瞬間、もしくは身の毛のよだつ恐怖に興奮したり、そうしたことが物語を読むときの面白さのひとつだと思います。

 

 そうした心に届く物語を子どもの本で描くとしたら、どんなものが子どもに届くのか、子どもにとって良い本といえるのかを、著者が多くの本と子どもと触れ合った中での経験と発想を、分かりやすく丁寧に言葉にしています。著者の特に素晴らしいなと思うのが、言語化。説明が出来るのがすごい。

 

 そして伝えたい要点を説明をするにあたって引用する作者や本が豊富で、そうした紹介も刺激になります。実際に児童文学を読まないと始まらないので、読まなきゃ、と半ば義務的に思ってしまいそうなところを、この本から知る本は、読んでみたいという気持ちになるところがよいです。

 

 この本で紹介している本で、まだ読めていないものや、理解できていないところもまだまだありますが、ともしびのような期待感と燃えるような気持ちを与えてくれる、手元に置いていたくなる一冊です。

 

 児童文学のことを学びたいと思ったときに、個人的にはまずはこの本に書かれている児童文学の核心をついているような内容に触れて気分を高めていけたら読、書がますます楽しいのではないかと思います。

 

 ではでは、次回は火山の話か雑記を書こうと思います。次回もどうぞよろしくお願いします。

 

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翻訳で大切なことを勘違いしていたお話

 こんにちは。カレンダー、みなさんはきちんと月替わりの1日にめくっているでしょうか。私などはつい、月日が流れることを認められずにカレンダーをめくることをせず、留めてしまうことがあります。まだ2月でいたいんだ…。

 

 さてさて本日紹介をするのは、こちらの本です。

 

  『幼い子の文学』

 瀬田 貞二 著

 

 瀬田 貞二さんの存在を意識したのはどこが初めだったのか、『ナルニア国物語』シリーズや『指輪物語』、『ホビットの冒険』と児童文学の翻訳者だということのを知り、またさらには『英米児童文学史』といった貴重な資料の編集にも名を連ね、そして児童文学に携わった方の書籍にもちらほらと名前を見かけることがありと、児童文学における各方面で接点があったことで、印象が強まっていったように思います。

 

 SNSYoutubeでフォローをしていないアカウントも、おすすめで表示がされて何回か遭遇している内に記憶に残ることがあるように、するっと懐に入り込んできます。そこから興味が湧けば、どんどんアカウントの投稿を遡って見にいくことも。ではこの興味が湧くという現象は、翻訳者という立ち位置の人に対して、どのくらい反応が起こるものなのでしょうか。

 

 SNSなどのアカウントに関しては、運営している人の多くはアカウントを所持している本人で、アカウントで発信する制作物についても本人が制作を行っていることが多いと思います。例外的にアカウントの運営が本人でない場合で、芸能人など思い当たりありますが、自分が即座に思い浮かぶのは漫画家の高橋 留美子先生の公式アカウントです。アカウントがあるだけでもう感謝いっぱいな気持ちになっており、スタッフの投稿もチェックをしますが、つい期待してしまうのは先生の発するコメントの投稿です。漫画家の先生然り、小説家の先生、絵本の作者、と原作者本人への注目度は高くなるだろうと思う中で、翻訳者という人達への注目度は、どのくらいあるのだろうと気になるところです。

 

 今思うととても恥ずかしい浅い考えなのですが、昔、翻訳というのは外国語が堪能で海外の文化に理解があれば出来るものだと思っていました。もとの文章を都合でアレンジせずにそのまま伝えるのが大事だと、まあ語学の語の字もないからこそ思えていたわけです。いろいろな本を読んでいるうちにそうした浅い考えが払拭されていくのですが、考えを変えるきっかけとなったのがいくつかあります。

 

 そのうちのひとつは『星の王子さま』の翻訳を行った内藤 濯さん。子どものための読みものだということをよくよく念頭に置き、言葉の紡ぎ方、読点の置き方ひとつにもこだわっていた、というエピソードをどこかで(いつも大事なところをメモし忘れてすみません)聞いたことです。

 

 人への情報の伝え方、そうしたテクニック本が巷に出ていることは知っているのに、翻訳となった場合にどうしてそうした発想が抜けてしまっていたのだろうと、はっとさせられました。

 

 子どもにとって、もしかしたら絵本や児童文学は初めて出合う言葉の宝庫であるかもしれません。そうしたときに、日本語のゴロのよい言葉の響きだったり、正しい言葉の意味の伝わり方といった経験や知識が必要になってくるのだろうと予測できます。

 

 言葉選びが面白いとおもったのは、『ドリトル先生』シリーズにでてくる、不思議な生き物”オシツオサレツ”。頭が2つある生き物なのですが、この名前から生き物の生態がなんだかおもしろおかしく見えてきます。頭の側がそれぞれ押し合って、まるでおしくらまんじゅうをしているような、そんな絵面が浮かんできます。しかし考えてみると、このオシツオサレツの言葉のニュアンス、一体自分はどこでどうやって知ったのだろう。まあなんにしても、この言葉のひとつを面白いなと感じて楽しめているのが嬉しいものです。

 

 こうして、翻訳とは語学が堪能であることだけでなく、日本語力が大切だということに気が付かされるのと同時に、翻訳者の頭の中がどんな風になっているのか、本に書かれた言葉の奥にどんなことを秘めているのか、気になってきます。そうして手に取ったのがこの一冊となります。

 

 さてさて本の内容にたどり着くまでの前置きが長くなってしまったので、次回に続けたいと思います。次回もどうぞよろしくお願いします。

 

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【雑記】絵本の表紙の色使いについて考える

   

 こんにちは!今日から3月だと思い込んでいたので、まだ2月があるなんて、なんだかありがたい1日となりそうです。

 

 今週は本を読むことよりも絵本の絵を眺めている時間の方が長かったので、今回は絵本の絵について書いていこうと思います。

 

 そこでちょっと触れておきたいのが、ブログを書いている中の人についてです。このおでん文庫のブログでは本にまつわる記事を書いている一方で、Instagram上では手描きの絵をマイペースに発信しています。絵を描くのが好きなのです。この絵を描くのが好きで尚且つ絵本が好き、という2つの要素を掛け合わせると、大体の人に絵本を描いているのか尋ねられることがあります。私もそういう人物が目の前にいたらおそらく同じことを尋ねるでしょう。ちょっとワクワクしますよね。ですが実際のところは、眉毛はハの字になり申し訳ない気持ちで、絵本を描くのは考えていない、とお返事しています。理由は本当につまらないことですが、絵本として描きたいと思うものが今のところ思い浮かばないというのがひとつと、もうひとつは圧倒的な技量不足です。絵本を描く気が無いのを理由にただただ絵の世界に浸って楽しむ、それでいいかなと思っていました。さらに正直に言ってしまうと、絵について掘り下げると自分の未熟さに気がづいて打ちのめされることが分かりきっているのであまり考えないようにしていました。

 

 そんな具合で絵本の絵については触らぬ神に…状態であったのですが、それでは駄目だと思う状況にもなってきました。きっかけとなったのは、お知り合いの赤ちゃんに絵本を紹介するようになったことからです。絵本を読んだ感想をお知り合いから教えていただくのがとても楽しみで、赤ちゃんの反応から発見もあり、ほんとうにありがたいです。

 

 ご迷惑でない限り絵本の紹介を続けていきたいと思う反面、相手がお知り合いとはいえ、赤ちゃんが面白いと思わない絵本ばかり選んでしまっては親に見限られてしまうプレッシャーをひっそりと背負い、そんな中で頼りになるのは良書として選ばれた絵本の資料のみ。何十年も読まれてきた絵本の中身の何が良いのか、自分の中で答えを持っていないといけないという危機感がじわりとやってきて、絵本の内容そして絵の方にも注目を向けることを始めました。

 

 ヒントを得るために、これまで読んできた児童文学に携わる方々の本を思い返すことがもちろん助けになっています。瀬田 貞二さんが絵の表現について言語化されていたのが理解の助けになったり、渡辺 茂男さんの子育て中の実体験を通したお話が腑に落ちたりとありました。松居 直さんの判断力からは、過去にどれだけの心がきらめく読書体験があったのだろう、と思い馳せます。

 

 そうした助けも借りながら、よくよく観察してみようと手に取ったのが、 H.A.レイの『ひとまねこざる』と、かこ さとしさんの『あさですよ よるですよ』でした。本来はこの話の流れで0~2才の赤ちゃんの絵本について考えるのがよいと思うのですが、手元に赤ちゃん向けの本が無かった…ので、今回は少し対象年齢を上げた2~5才あたりの絵本について書いていきます。

 

 上で取り上げた2冊を対比したときに、まず気になったポイントが色使いです。『ひとまねこざる』は表紙が鮮やかな赤・青・緑・黄色です。『あさですよ よるですよ』の表紙は白の余白がほとんどを占める中に、赤色と黄色の控え目なサイズの太陽のアイコン、紫から青そして緑のグラデーションの色玉と鮮やかな黄色の帯があります。どちらの絵本も色の配分は異なりますが、使用している色は、赤・青・緑・黄色が含まれており近いものがあります。このようにはっきりとした色使いで構成しているのが子どもに好ましいのかどうか、考えてみたいと思います。

 

 色というのを赤ちゃん~幼児にかけて触れて知っていくというのは、せな けいこさんの『このいろなあに』の赤ちゃん絵本で、色を認識していくというのが伺えます。そして自分の記憶で恐れ入りますが、幼稚園の頃には色数が多い色鉛筆に憧れを抱いていた記憶があるので、色の世界は年齢が上がるにつれて広がっていく一方なのではと想像します。そうなると、小さい頃からさまざまな色に触れていくことが感性を育てていくようも思えます。

 

 その一方で、色といえども多くの情報をたくさん浴びるというのは、頭が混乱もしくは疲弊してしまう可能性をはらんでいるのではとも考えます。例えば何か資格を取ろうと思ったときに、初心者向けの参考書だったり、学校に通学するなどをして、まずは基礎を学ぼうと考える人が多いと思います。資格の級が5級、4級、3級としているのも、学ぶ範囲を絞り、段階を追って知識を広げていくかたちを取っていることからだと考えます。

 

 多くのことを一気に身に付ける人もいるかもしれませんが、それは意識して行っていることなので尋常ではない集中力と努力があってだと思うので、よほどの心がけがなければ、普通の生活で情報があれこれ飛び交ったとしても、情報を受け止めきれず、右から左に受け流してしまうことの方が多いのではないかと思います。

 

 私自身は、格闘ゲームストリートファイターのボタン操作、上・上・下・B的なものが、何度説明書を読んでも全然覚えられず、最近ではモンスターハンタースプラトゥーンをする場合もコントローラーのボタンや十字キーを駆使するのに苦労し、ゲーム脳を鍛えられずにここまで来てしまいました。もっというと、ボタン操作よりも、ビジュアルを見る方が楽しく、そちらに意識がとられていました。そんな風に、戦いに集中しきれない…というと大げさかもしれませんが、分からない、知らないことがあると、簡単に気が逸れてしまう、という事態に陥ります。

 

 これが絵本でも同じく、頭が情報の処理が追い付かないと、集中力を欠いて気が逸れてしまうということが起こってしまうのではと考えました。お菓子の詰め合わせなら話は別ですが、色使い、内容、紙質など、すべてが最高なものを詰め込んだ絵本よりも、子どもにとって読みやすい、集中しやすい、何回も読みたくなる絵本は何かと考えたときに、必要以上のものを盛り込んでいない方がよい場合があるように思えてきます。

 

 色について、クレヨンのセットにあるような基本的な色をまずは認識する段階にいる幼児にとっては、知っている色が絵本の表紙にあると少なからず嬉しい気持ちもしくは興味がわいてくるように思います。最近では小さい頃からテレビやYoutubeなど映像を見る機会が多いので(自分はテレビっ子で育ちました)、もしかしたら分かりやすくすっきりとした色使いに物足りなさを感じる可能性があるのかなとも想像しますが、絵本を目の前に並べてどれを読みたいか尋ねた場合に、手に取りやすさのひとつの選択肢として、見知った色がある絵本な気がしています。そういう理由で、表紙で使われている色が限定されて尚且つ明瞭であるのは意味があるように思えます。想定の話ですみません。いつかきちんと検証してみなければなりませんね。

 

 今回は表紙についてつらつらと書きましたが、本文の色味となるとまた見え方が変わってきます。今回のように考えたことをつらつらと書いて大丈夫か少し心配もありつつ(もっと勉強してからの方がよいのかなと)、よく観察して、またそのうちに記事で書けたら思います。また次回もどうぞよろしくお願いします。

 

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火山と科学と壊れたパソコンの話

 こんにちは!金曜日が祝日というのはなんだかうれしいですね。朝きちんと起きられるかどうかのドキドキが一日少ないというのが特にうれしいです。

 

 最近このブログを書く度に触れているパソコンの故障の件、尽くす手もなく本体を交換することになりました。直接的な原因は謎で、つい先ほどまではいつも通り使えていたのが、突然電源が入らなくなくなるという症状だったため、電源が入らないのでは中にあったデータを救い出すこともできず、修理に出して一週間程が経過したのち、中身はまっさらで、デスクトップにはごみ箱に捨てるデータさえ無い、きれいな状態になって戻ってきました。

 

 強制的なデータの断捨離が今はいっそ清々しいのですが、物と違って、割れた茶碗、枯れた植物、擦り切れた靴下といった、手元に残るものが在りもせず無になるというのは、涙も出ないような虚しさがあります。

 

 簡単にゼロになるものといえば、SNSの投稿などでは、書いたことに間違いがあれば簡単に消すことができますし、アカウントの削除も自分の気持ち一つで行えます。スマホの中の写真もごみ箱に放り込めば、あっけなくサヨナラです。思いのままに扱えることを便利に捉えていましたが、自分の意志と関係なくゼロになる可能性がいつでも待ち構えているとも言えます。そういえば昔、カセットゲームで遊んでいた頃には、ある日突然セーブデータが消えて一からやり直し…なんてこともたまにありました。懐かしい苦い思い出…。

 

 こうなってくると、デジタル上のものに関しては、ものとしては残らないけれど、目に見えないようなこと、例えば経験、人との関わりの育み、情報収集など、そうした価値を自分の中にプラスしていきたくなりますね。いやもう、するしかない。

 

 加えて、最近読んだ本である『火山はすごい 千年ぶりの「大地変動の時代」』鎌田 浩毅 著 からも、考えることがありました。

 

 読書のきっかけは現在おでん文庫の本棚に置いているこちらの絵本。

 

 『火山はめざめる』

 はぎわら ふぐ 作 早川 由紀夫 監修

 ↓記事はこちら

火山の活動がわかる絵本 - おでん文庫の本棚


 この絵本で取り上げている浅間山は、群馬と長野にまたがる活火山で、活火山とは「概ね過去1万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」のことを指します。日本で初めて火山の観測所が設置されたのもこの浅間山であり、その火山活動の記録がこの絵本の中で描かれています。紀元前となるとはるか遠い出来事としていくらかあっさりと受け止めるところがありますが、江戸時代頃になってくると、急に身近に感じられてきます。最近起こった阿蘇山の噴火なども記憶にまだ新しく、日本の活火山が現在111あるというのも知り、その多さにも驚きます。

 

 絵本の中では、テレビのニュースで見たことのある上空から撮影したもくもくと上がる煙と(絵本の表紙のような煙)、違う迫力を見せる煙がありました。鱗のように細かいふくらみがいくつも重なって大きな壁となって立ち上がる煙が、普段みたこともないような迫力を帯びており、目に焼き付いていました。

 

 そうして図書館に置いてあった本をぱらぱらとめくっていたときに現れた写真が、その忘れられないうろこがたくさんの煙で、絵本は実際にその通りだったのだと知ることができたのが『火山はすごい 千年ぶりの「大地変動の時代」』でした。

 

 この時点でもうすでにこの本を読んでみたくなっていましたが、専門的な本となると、初心者でも解読できるかどうかが気になるところで、書き出しを読んでみると、するすると読みやすい。作者が火山に目覚めたことから飽くなき探求心と情熱を注いできたというその熱量が、火山初心者にも飛び火するような内容で、誰にでも理解できて伝わる内容であることを大事とする姿勢で、富士山や阿蘇山も含めていくつかの日本の山を例に、火山にまつわる用語や、過去の事例、避難に関する情報などを網羅した充実の内容です。

 

 火山を詳しく調べていくには科学の分野に入り込むことなってくるので、どうしても人によっては得手不得手な感情が湧いてくる気がするのですが、自分はなんとか、理解しようと今頑張っています。学生時代は、科学はあまり興味を持てませんでした。元素など目に見えないものが捉えようがなくよくわからないという…理由です。ただ、火山のマグマの温度によって石の色が白くなる、だとか、空気中とはいえ、風がなく二酸化炭素がおおい空間が出来上がりそこにいると息ができない…など、初心者でもわかりやすい説明によってなんとか想像が働くので、とても親切でありがたい本だと感じています。

 

 さてこれがどうして最初の方の話につながるのかというと、自分にとって科学は目に見えないもの、捉えどころのないものと漠然と感じていたが、それはデジタルの世界も同様で、実のところよくわかっていないのではということ。

 

 漠然と活火山は噴火する恐れがあるので怖い、と思っているだけでは、活火山が日本111もあると聞いたら倒れてしまいそうですが、活火山の定義が1万年以内に活動がある山という期間を聞くと少し心境が楽になるように、生活に関わってくるものに対して、ちょっとでも知識をつけておくことは悪いことじゃないように思います。

 

 デジタルも同様に、道具として使っているはずが、さまざまな大事な部分を任せっきりになり、頼った末にすべてがゼロになり、と、危険を分かった気でいたようで、分かっていませんでした。最近は、電車の乗り換えや地図情報も完全にデジタルツールに頼りきりで、そういう頼れるところにすべて任せきりでいいのか、ちょっと立ち止まりながら考えて聞きたいと思います。

 

 本紹介がなんだか戒めのような記事になってしまいました。おでん本棚の本棚に、火山の本に関連してもう一冊、紹介したい本があるので、次回はその本について書くか、雑記をはさむかどちらかでいこうと思います。また次回もどうぞよろしくお願いします。

 

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伝わる言葉を洋書の絵本から考える

 こんにちは!先週パソコンが壊れた話をここで書いたのですが、今読んでいる田部井 淳子さんの『それでも私は山に登る』を読んでいると、山と関わる中で学んだ教訓が、ストレスとの戦いといいますか、極限状態の中でも平常を保ち判断を下せる状態でなければ、誰かの命が落ちるかもしれない、という状況との闘いで、自分もこんなことでへこたれてる場合じゃないなと励まされています。まだ読みかけで、今はガンとの闘いのところを読んでいます。読み終わるまであと少しですが、とてもいい本です。

 

 ではでは本日は、1~4月の本棚に置いている本の紹介です。

 

 『ふゆねこさん(THE WINTER CAT)』

 ハワード・ノッツ 作 まつおか きょうこ 訳

 

 話題に上げるなら本の内容に合わせてまだ寒いうちに、と思い今回選びました。実はこの絵本はブログで2回目の登場です。本棚でもブログでもそのときは邦訳された本を取り扱ったのですが、今回は洋書の方を棚に置いています。こちらは松岡 享子さんの翻訳を原文と見比べてみたいという好奇心から手を出したのでした。

 

 ↓前回の記事はこちら

冬ってなんだろう?から始まる猫の物語 - おでん文庫の本棚

 

 そういえば、本のつくりはほぼ同じですが、洋書の方は紙質が画用紙のように少し手触りがありました。手触りでも本の印象が変わるもので、それが読書体験の一部に知らずに組み込まれているようです。小説でも、本文の紙が真っ白に近い色の本と出会ったときに、普段読んでいる紙には色があることに気が付きました。古くなるほど日焼けしたり、黄ばんでしまうこともあり、経年劣化というと価値を落としているように感じますが、自然と作られていく風合いだと思うと、馴染みはよいです。

 

 こんな話もありました。フランスの映画で、これからの本の在り方を話題にしている中で、本の内容はオンラインで管理をして、紙で読みたいという読者がいる場合には、自らが紙質を選んで本を作る、というより印刷するという表現が正しいかもしれません。

 

 そうした環境負荷を減らすアイデアも素晴らしいひらめきだと思う部分と、本に限らずですが、それこそ、編集者、校正担当者、デザイナー、印刷所など、さまざまな技術が寄せ集まってできたものを、個人のカスタマイズに頼っていくと、本のつくりとして良質なものと出会う機会が少なくなってしまうのではないかという心配も、机上の空論ですが少し頭をよぎりします。ジブリの映画「紅の豚」で、持ちつ持たれつ、という言葉が出てくるのですが、自分だけに頼らないものたちのありがたみを考えています。

 

 さてさて内容については、英語で書かれてはいるのですが、日本語訳と見比べながらで読めている次第です。この絵本に限らず英語と日本語訳を見比べていてたまに思うのは、英語の1文が日本語で2文になったりすることです。ただ、今回絵本を読んでいて考えたことがありました。

 

 人、物、動作、場所、時間、季節、にそれぞれ副詞や形容詞をつけて説明を出来るのは、日本語も英語も同様ではあると思うのですが、

 

 春に赤いリュックを背負った元気のいい小学生が犬と広い公園で遊んでいる

 

 という文章を英語のように型に当てはめて、

 

 (リュックを背負った+元気のいい+小学生)+(犬)+(広い+公園)+(春)

 

 の様に、要素ごとに情報が整理して頭に入ってくるように思うのですが、日本語の場合は言葉の順番に絶対が無いことと、助詞を意識して聞きとろうとするためか、一息で読むのに少し苦労します。一か所でも情報を区切ったり、場所を最初に持ってくると情景が先に予想が付き少し読みやすくなります。

 

 春。広い公園で、赤いリュックを背負った小学生が元気よく犬と遊んでいる

 

 さらに、春をただ春とだけ書くのは、どうも存在感がある割に言葉が無味乾燥なので、この文章の情景を想像したときの印象を与えてみます。

 

 ポカポカの春。広々とした公園で、赤いリュックを背負った小学生が元気よく犬と遊んでいる

 

 という風に連想していくと、これが正しい考え方かは分かりませんが、情景が伝わってくることで内容に入り込みやすくなった気がします。

 

 英語ならではの味わいがまだ掴めていないので、もう少し勉強する必要があるのですが、絵本を読む子どもたちが、初めて出会う言葉がどういうものなのか、分からないままにならずに伝わることを意識したときに、それが場所のことなのか、もののことなのかが分かるように、この絵本では文章の区切り方に気を付けて説明することを意識しているように思いました。タイトルのふゆねこさんが、初めて出会う冬がどんなものか、考えているように、子どもがこの絵本を読んで、冬を知り、あたたかさを知り、と、新しく知ることに胸をときめかせるのではないかと思います。

 

 子どもの知らない言葉の伝え方を考えるきっかけとなったこの絵本、日本語訳の『ふゆねこさん』と見比べて楽しんでいただけたらと思います。ではでは次回もどうぞよろしくお願いします。

 

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