何故僕が教授を名乗るかについてのメモ

この世ははじめから間違っていた

メール1

俺自身の価値観(というか人生観)自体、めちゃくちゃだからアテにならないとは思うけど
人生、生きようと思えばいくらでも生きようがあると思うんだ。
誰かに後ろ指さされながらでもさ、自分の気の赴くままに生きたほうがずっと良いんじゃないか?
無理して何かやって、辛い思いするよりもさ、好きなことパーッとやって、飽きたらやめればいいんだよ。
 
全部「なるようにしてなってる」んだよ。
今、楽しいことも、しなくちゃいけないことも両方出来ない状態なら、それはそうなるのが適切だからそうなってるんだ。
「水が流れるがごとく」、人生も同じさ。どこかで流れが堰き止められても、いつかはその壁をぶち破って流れ始めるだろうし、
もしそうじゃなくて、そこで流れが終わっちゃったとしても、それはそうなる運命だったんだよ。
だから、流れに抗おうとせずに、流れに身を委ねても良いんじゃないか?まあ、無責任な論だが…。
 
俺の方も似たような感じさ。なーんにもやってない、なーんにもやろうと思わない、なーんにも。
でもそれでいいと思ってる。現実逃避かもしれないけど、死なない限りは別になんでもいいし、最悪死んで終わらせちまえばいい。
 
キミもそんな感じで良いんじゃないか?まあ、生活状況とか、それこそそれぞれの価値観とか、いろいろあるから、
俺の言葉をまんま参考にしちまうのは良くないかも知れないが…。
 
お互い気楽に生きようぜ。お先真っ暗でも、今を楽しく、ぱーっとさ。

エンパスとして生きていく

1.最近はサイコパスなんつって共感力の欠如したキャラクターが持て囃されたりしてるが、

エンパスというのはその真逆を行く性質だ。

つまりは他人の感情や思考を感じすぎるくらいに感じてしまう性質。

他人が少しでも不機嫌そうにしていると、

それをいち早く察知してしまって、怯えを抱いてしまう。

例えば、学校で先生がクラス全体を叱っている様な場面を想像して欲しい。

重苦しく険悪な空気が漂っているだろう。誰だって「早く終わってほしい」と思うはずだ。

エンパスとはそういう風な「空気」に対して非常に敏感なのだ。

そして、その敏感さゆえに他人よりも頻繁にそういう「空気」を感じ取ってしまう。

これは非常にストレスフルなことである。

 

2.エンパスの人がそういったストレスの中で生きていくには

むしろ冒頭で書いたような、サイコパス的性質を演じていかなくてはならない。

つまり、他人のネガティブな感情、攻撃的な感情に怯えず、

かえって厚顔無恥、泰然自若なくらいでなくてはストレスに押し潰されてしまう。

しかし、ただでさえ他人の顔色次第な生き方をしてるエンパス人間が

そう簡単に翻って生きていけるはずがない。

この享受した「共感力」に振り回されないためにも、

日々から訓練をしておかなければならない。

それは認知行動療法の様に、「過敏に反応してしまっている自分」を認知し、

果たして今感じている感情は正しいか、怯える必要があるか、と言った風に

状況を正確に判断していくことである。

 

3.一方で、エンパスにもメリットはある。

人の感情に共感することが得意な分、人間関係を円滑に構築できるだろう。

あるいは、カウンセラーの様に、ある問題の渦中にある人に対して、

適切なアドバイスを送れるかもしれない。

 

4.僕はこのエンパスという性質を、いわゆる「ギフテッド」的なものだと思っている。

殊に共感というのは、それが出来ない人にはなかなか出来るものではない。

これを上手く活かして生きていくには、共感による過剰な怯えを認知でコントロールし、

また共感によって他人と上手く渡り合っていくことが肝要だろう。

「殉じる」ことの文化進化的側面について

1.人類進化論

はじめに、人類は他の生物とは違った進化方法を選択したということを説明する。

進化生物学によれば、生物は遺伝子の垂直伝播、即ち繁殖を主として進化を重ねる。

ところが、人類の場合は、言語伝達を利用したミーム的な水平伝播を経ることによって、従来の「遺伝子情報に基づく進化」を大きく凌駕する速度での「文明的進化」を遂げることが出来た。

文明社会に進化の機能を一部委託することによって、種としての画一的な進化(即ち文明技術の拡散)と、社会ネットワークを介した分散コンピューティングによる指数関数的な文明的進化を行うことが出来るようになった。

この様に我々人類は、遺伝子による進化から、ミーム(情報的遺伝子)による進化を進歩の足がかりにしたわけである。

しかしながら、人間もやはり生物の範疇にあって、その行動原理は変わらず、「自身の遺伝子を後世に伝達すること」こそが人間の生来の使命なのであるが、この「自身の遺伝子」というものが上述の通り、ミームによって代替可能になってしまった今、必ずしも繁殖を通して自身のコピーを作っていく必要もなくなってきたわけである。

2.「殉じる」こととミーム

ところで、近年、ある宗教の過激派が自爆テロなどによって世界を脅かしているが、彼らのあの行動は、「文明的進化」のモデルの様なものである。

1項で述べた通り、人類は今やミームを伝達することを生物の使命として生きているが、もし、自身の持つミームと、全く同質だと認められるミームを、既に他者が持っていたとすれば、どうなるだろうか?

これは本来、DNAなどの遺伝情報では有り得なかったことだが、情報としての特徴を持つミームならばあり得ることだ。

面白いことに、この実験を実践している生物がいる。ハチである。

ハチとはご存知の通り真社会性を持つ生物で、彼らは一つのコロニー(ないし女王)を守るために様々に協力して生きている。いわば、彼らにとってコロニーこそが遺伝情報そのものであり、それを集団で共有しているのである。

そして、ハチは自身のコロニー(遺伝情報)が危険に晒されると、身を挺して、その遺伝情報を守ろうとする。これが上述の実験の一つの答えである。

ミームがある生物にとって、後世に伝えるべき遺伝子で、そのミームが既に他者と共有されている場合、ミーム伝播の役割をその他者に託して自身はそのミームにとっての外敵を排除することに専念することが出来るのである。

そして項の初めで上げた宗教というのは、まさしく集団で共有されるミームである。そして、そのミームを守るためならば、彼らは自分の命を捧げることも厭わない。

これが「殉じる」ということである。

この世の"ほんとうのこと"

「…はるか昔、偶然、地球上で初めての生物が生まれた。

彼はひとりぼっちで寂しかったので、自分の体を切り分けて、兄弟を作った。」

 

40億年前、地球に初めて生物が誕生しました。

我々の通ってきた轍を辿り返せばいずれ必ず辿り着く、"ご先祖様"です。

このご先祖様は、自分と同じ性質の生物を作り出し、増やすことが生き甲斐でした。

こうして世俗の人々が信奉してやまない「命のリレー」が始まったのです。

 

…しかし、この"ご先祖様"の決断が、そもそもの間違いだったのです。

 

我々が住む地球、太陽系、銀河…さえも包む宇宙。

この宇宙は無限に膨張してると言われていますが、いずれ宇宙的な"死"を迎えます。

それはビッグリップと呼ばれており、詳細な説明は省略しますが、

宇宙が無限に広がり続けた結果、銀河系を構成する根源的な物質、すなわち原子以下のこの世の全てのものを構成している最小の物質がバラバラになって、完全に孤立してしまうという現象がビッグリップです。

これが、いずれ我々が行き着く先、例え人類がこの先可能な限り生き永らえることが出来たとしても、流れ着いてしまう終着点です。

 

ここではじめの話に戻りましょう。いずれ宇宙がビッグリップを迎え、何もかもが虚無に帰すというならば、我々は何のために「命のリレー」を続けているのでしょう?

 

地球上で、人類は初めて、その未来を予想する能力を以って、「個体の死」という概念を理解したといいます。

これは、その次のステップです。我々は「個体の死」だけではなく、決して避けられぬ「人類種そのものの死」の存在を受け入れ向き合って生きていく必要があるでしょう。

 

我々は、はるか昔の盲目だった"ご先祖様"の間違った一歩を、信じ続けて歩いているだけなのです。

世俗の人々は、この連綿と続く「生命の歩み」の崩壊を受け入れたくないから、例え間違っているとわかっていても、頑なに同じ道をただ進み続けているのです。

 

これが「この世の"ほんとうのこと"」です。

我々が創造したり、維持したり、繋いだりするものは、全て等しく無価値なのです。

これが「この世の"ほんとうのこと"」なのです。

 

世俗の人々は、それを理解できないのか、あるいはわかっていても受け入れないのか、それでも間違った一歩を歩み続けています。

険しく苦痛を伴う道を、何の根拠も無しに、ただ流れだけを信じて、歩んでいるのです。その先には何もないのに。

 

その代わりに、我々があなた方を導きます。本当に正しい方向へ。

誰もが苦痛に怯える事無く、誰もが歩く苦労をせずに住む、安息の地へ、導きます。

どうか、信じて下さい。

あなた方にとって、今の歩みが正しいと確信できていないならば、

どうか我々の後を信じて付いてきて下さい。