おっす!オラ、悟空!
目ぇズレてっけど、気にするな!!
厚紙とペンさえありゃぁ、オラの完成だ!!
いっちょ、やってみっか!ಠ_ಠ
おっす!オラ、悟空!
目ぇズレてっけど、気にするな!!
厚紙とペンさえありゃぁ、オラの完成だ!!
いっちょ、やってみっか!ಠ_ಠ
2019年といえば、ラグビーW杯が盛り上がりましたね!!
ぜーんぜん、ルールも知らなければ選手も知らない。ラグビー自体もあまり観たことない。で、世の中がラグビー熱が高まってても関心をもっていませんでした。
子どもの寝る前にはテレビは付けない我が家ですが、特別に夜にテレビをつけてラグビー観戦をしました。
ところがどっこい!屈強な男たちの集まりがぐっと力をぶつけ合う姿は画面からでも迫力が伝わり、一気に見入ってしまいました。
画面にはルールも出てくるので観ながらでもルールを学びながら観れたので、ラグビー超×1000(古い)初心者でもすっごく楽しかったです!!
そして、惜しくも日本が負け、準々決勝のニュージーランドvsアイルランド戦の10/19。
ホットプレートで串焼きパーティーを家族で楽しみながらワイン飲みながら、こちらも万全の態勢で観戦に挑みます!
この時、不安な事が一つ。
なんかお腹痛くなりそう…
そんな事よりも、かんぱーい♫♫
うんまー♫
んー、うずらのたまごが目玉のオヤジみたいになってるーー♡
なんていいながら、お腹が痛くなりそうなことを忘れてどんじゃか飲んで食べて試合観て…
最高な気持ちでした(*´-`)
が
ん、、、
お腹痛いし、なんか吐きそう!!
ソッコートイレ。
そう、嘔吐下痢です。
この時を境に朝までトイレでうずくまり、身動きがとれず、日曜の朝に救急外来に連れて行ってもいました。
急性胃腸炎でした。((((;゚Д゚)))))))
最高なひと時から一変して、地獄の胃腸炎。
半日点滴をしてもらう事になった私ですが、一晩寝ないで嘔吐下痢をしてたもので、病院のベッドに横になると一気に眠気が。
起きると1時間半経ってました。
ん…
腕が痛いぞ…
点滴の腕を見ると2倍ほどにパンパンに腫れ上がっていました((((;゚Д゚)))))))
ナースコール!ナースコール!!
看護師すぁーーん((((;゚Д゚)))))))
うでがぁぁ(´༎ຶོρ༎ຶོ`)
看「あ、はーい、漏れちゃってるねー。今挿し替えるねー。」
また点滴打つのー(´༎ຶོρ༎ຶོ`)
血管が細くなって漏れてしまう体質なので、つわりで入院中もそうでした。
以上、最高&最高の2日間でした。
今週のお題「応援」
人生の戦友、それは夫。
朝から晩まで時には土日の休みすらなく働く姿は立派です。
風邪をひこうが、食中毒になって40度熱が出て救急に行こうが、夜泣きに付き合って寝不足だろうが、遅刻せず休まず出勤し続けるあなたの姿勢は本当に素晴らしい!
そして、休みの日には洗濯・食器洗い・朝ご飯作りに子どものおむつ替え・遊び相手…と、率先してくれて感謝しかないです。
私も家事育児・仕事頑張ろう!って思えるのはその姿を見ているから。
休みなく遅くまで働くのでワンオペ状態になったりするけど、共に戦ってると思って頑張れるのはあなたのおかげ。
早期退職して早々に2人で過ごせるように、今を頑張ろう!!
いよいよ転院の日。
ソーシャルワーカーさんの提案により、転院する際は久々の外出となるので普段着を着て介護タクシーに乗って転院先の病院に行きました。
転院先の病院に1歳半の次女と私は先に到着して父と付き添いの母を待っていました。
父は目を閉じてうなだれるように車椅子に座り、介護付き添いの方と一緒にロビーにいたのを見つけました。声をかけると次女を見るなり上体を起こしてニコニコっと表情が晴れたのが今でも印象に残っています!
母とも合流してみんなで病室まで行く為エレベーターに乗る時に、父が自ら次女に手を伸ばしてタッチを求めていました。さっきまでぐったりうなだれていたので心配していましたが、エレベーターでの姿でみんなでほっこりしたのを覚えています^_^
転院先の病院は総合病院で、一階には散髪屋さんもありました。
肋骨の痛みもあり、自分で動くのが辛い時でしたが、母はいつも散髪屋さんに連れていきたいと言っていました。
病室にも散髪屋さんが出張しに来てくれると聞き、その点も転院してきて良かったなと母は言っていました。
また、一階にはパン屋が入っていて病院が焼きたてパンのいい匂いがしています。「ここの病院は好きなのを食べてもいいんだって」と母が父に声をかけると、「あんぱん」と答えたそうです。
この頃、父の食欲がだいぶ減っていました。また肺癌のせいもあり、咳をするので咀嚼が上手くないと詰まらせることが考えられたので流動食を一口二口くらいしか食べれていませんでした。
早速食べたいと言っていたあんぱんを一階で買い、一口くらいでもという気持ちで食べさせると、「もっと」とのことで二口、1/4.半分、そして結局丸々1つ食べたとのことで、私もびっくりしました!
あんぱん効果もあってか顔色も良く、孫達の様子も笑って過ごすほど元気になったような気がします。
しかし、2週間後には体調がどんどん悪化して、流動食すら食べれないので点滴から栄養をとる形となりました。
やはり、口にしないこともありその頃からぐっと痩せて別人のようでした。
そして、亡くなる3日前の夜8時半頃、子ども達を寝かせようとした時に私の携帯が鳴りました。
こんな時間に電話がかかってくるなんて滅多にない事なので、その時にはもうだめかと一瞬で悟りました。
母からの電話で「パパの呼吸があがってすごく苦しそう。もうだめかも。さっき医者から電話があって仕事終わりに今かけつけて病室にいる。」とのことでした。
もう今から行ってもだめかと思い、すぐに「パパにかわって!」と言い、「パパ、今から行くよ!本当にいままでありがとう!パパの子どもで幸せだったよ!」と咄嗟に叫んでいました。
旦那もその時いたので子ども達は旦那に任せて、すぐタクシーを呼び、急いで病院に駆けつけました。
寒空の下でタクシーを待っている時もタクシーの中も病院に着いてからもずっと震えが止まらなかったのを覚えています。
死を受け入れたつもりで緩和ケアに転院手続きをしたものの、まだ死を受け入れられず、その時が来るのが怖くて怖くてパニックになっていました。
着いたら父は目をひんむいて酸素マスクがつけられていて呼吸が早くとても苦しそうでした。
私は見ていられない状態でしたが、とにかく感謝を伝えなければ!と必死でした。
一番初めの面談で院長先生の話では、とことん痛みをとるのを目的としているとのことだったので、その場にいた看護師さんに泣きながら「父が苦しそうなので一刻も早く痛みをとってあげたいです!なんとかなりませんか!?」と訴えると、柔らかな穏やかな声とは反対に目は潤んでいる看護師が「今、緩和剤を入れますね。少しずつ効いてくると思います。」と言って、点滴のところから投薬してくれました。
しばらくは変わらない感じで、いつ急変するか分からない様子に母も私も手を握って声をかけるだけで精一杯の心持ちでした。
1時間も経つくらいから少しずつ呼吸が穏やかになり、目は半開きで寝ている様子でした。
私「寝たんかな」
母「なんかそんな感じするね」
私「目閉じないね」
母「目閉じさせてあげよっか」
そんなやりとりをして、その夜は泊まることにし、緊張から眠気も起こらず朝を迎えました。
朝方も相変わらずな様子で酸素マスクは外せなく、一気に大量に息を吸うような呼吸の仕方をしていました。
万が一のことも考えて、しばらくは旦那が仕事を休んでくれて、それに甘えさせてもらい私は少し家に戻りながら父の側にいさせてもらうことになりました。旦那がいなければ、悔いが残るお別れになったのではないかと思うと感謝してもしきれないくらいありがたかったです。
長女の幼稚園の準備など朝はバタバタするので朝のみ帰らせてもらい、見送った後にお風呂に入り、また病院に向かう生活をしていました。
長女が幼稚園から帰ってくるとみんなで病院に来てくれて、夕飯を食べて夜に帰って行ったのですが、ママが近くにいない寂しさが2人の子ども達は日に日に増していたようで、帰り際は大泣きだったので、それを見送るのも毎日辛いものがありました。
そして危篤状態から3日後、いつもの様に子ども達が帰った夜、この生活にも少し慣れてきてこの頃には病院でも母と交代で寝れていたこともあり、私達は思い出話をしたり父の好きな落語をYouTubeで検索して携帯を耳元に置いて聴かせたりしていました。
ふと母が、「八代亜紀とみやぞんが歌っている『だいじょうぶ』という曲をパパの(障害者の作業所からの)お迎え車の中で聞いてたんだよね」と話していたので、早速携帯で検索して耳元に携帯を置いて曲を流すと、母は歌い始めました。
母が歌っている姿はカラオケも行かなかったので私が子どもの時以来なのか記憶が無いくらいだったのでとても新鮮でした。
優しい声で語りかけるように、父の手をトントンとしながら見つめ合うように母は歌っていました。まるで子守唄を聴かせるように。
父はもうこの時には息をするのに必死であまり反応を示さなかったのですが、この時にギュッと手を握ってくれたのが嬉しくて母と泣きました。
この歌を聴くとその頃を思い出して切なくなるのでまだ聴けていませんが、母の歌った声や父と母の夫婦の姿は鮮明に思い出します。
その日の明けの2時半頃、私が寝て起きると母は父の手を握ってベットに顔を埋めて寝ていました。
その時、父の呼吸がまた早くなっていることに気がつきました。
すぐにナースコールをすると、看護師さんが来て「そうですね、少し呼吸が早くなっているとのと酸素濃度もだいぶ低くなってます。今緩和剤を投薬するとそのまま…ってなってしまうかもしれません。自然に任せた方がいいかもしれません。一応今先生に(電話で)聞いてみます。」と静かな口調で言ってくれました。
確かに呼吸は早いものの危篤の時より一見苦しそうな感じは見えませんでした。
3日間母と沢山話をして、父ともゆったりした時間の中で過ごし、死の恐怖がだんだんと薄れて、とにかく早く楽にしてあげたい気持ちが強くなっていました。
なのでこの時には「パパ、ありがとうね、もう楽になるから大丈夫だよ!」「ママも私も近くにいるからね!」「安心してね」「よく頑張ったね」「今までありがとね」「大好きだよ」と恥ずかしげもなく心からの声がきちんと言えたのが今となっては良かったなと思います。
本当は元気なうちに沢山言うべきなのですが、やはり恥ずかしさが上回ってしまいますね。なのでここぞとばかり伝えた感じです。
その後30分も経たないくらいでだんだんと呼吸の間隔が長くなり、最期を終えました。
最期は母も私も静かで
私「今のが最後の呼吸だったかな」
母「そうっぽいね」
私「よく頑張ったね。先生呼んでくるね」
と、やりとりをしたあとに先生が来られて、心電図の確認・脈の確認・瞳孔の確認をして時間を教えてくれました。
最期は弟が県外にいて居なかったけど、家族3人でゆったりとした中で過ごせた事、最期まで父らしく人間らしくを第一に考えて下さった病院の方々に感謝しています。
こんな気持ちで父を看取れたので、転院して良かったと今でも母と話しています。
末期の方・その家族の為に、緩和ケアの認知・施設の普及を切に願います。
2019.10.30
父は肺癌の為、亡くなりました。
享年68歳でした。
父は10年前に脳梗塞を起こして倒れ、そこから言葉がうまく出なくなったり片足がうまく動かせられず歩行器を使っての移動。
トイレも自力で行けたのですが、思うように体が動かせられずに間に合わないこともしばしばでてきたので介護用オムツを着用するようになりました。
要介護認定がおり、脳梗塞でお世話になった病院のケアマネの方からリハビリの一環として通所の障害者作業施設を紹介してもらい、週に2回通ったりしていました。
病気が発覚したのは8月の末。
その前のゴールデンウィークあたりに咳をしたり胸のあたりの苦しさを訴えるようになったので病院で診てもらうと、レンタルゲンで影が見つかり、その時は肺炎と診断されました。
熱もあったのでそのまま入院。
退院後は熱は無いものの胸の苦しさは残っていたようです。
痛くてもうまく言葉で伝えられないイライラから、介護をしてくれていた母に怒鳴り散らしたり、痛みがあると夜中でも叫ぶので母も眠れず父に対して怒ったり…と、お互いにストレスが溜まっていたようです。
8月のお盆が過ぎた頃、かかりつけの個人の病院で見てもらったところ「やはり影があるので大きい病院で検査が必要です」との事だったので、総合病院に行き再検査を行いました。
しかし、その時もMRIを嫌がって怒鳴って暴れて大変だったようでなかなか検査が進まず、やっと検査を終えて結果が出た時には
肺癌の末期。
「そりゃぁ痛いわけだよ」
母から電話で知らされた時、どこかそうでは無いかと思って覚悟していたこともあり、ぽろっと出た言葉がこれでした。
寿命は持って半年。あと2.3ヶ月。来年は迎えられるかどうかとのことでした。
痛みは癌が肋骨に浸潤しているのが悪さしていたようです。肋骨のあたりは神経が通っているので痛みも相当とのことでした。
寿命を聞かされた時、そこまでは覚悟しておらず、その時に"頭が真っ白になる"を初めて経験しました。
すぐ父に会いたくなり、少しでも側に居たいと思い、次の日には入院している病院に2人の娘を連れて会いに行きました。
その時はベットに横になりながらも冗談で笑ったり孫達を見て目尻が下がる顔も見れて、不思議と安心して帰宅したのを覚えています。
それから、見舞いに行ける日は、幼稚園から長女が帰ってきたと同時に車に乗せて病院に向かい、おやつをじい(じいちゃん)のいるところで食べる毎日を送っていました。
父も孫達に会うと表情もにこやかになり、頑張ってゆっくりと起き上がったり、ベッドで横になった状態で帰り際に手を振ってくれたり…
父もそうですが母も私もこの時ばかりは、ただただ楽しい笑顔の時間を過ごすことができたのではないかと思います。
父の入院している総合病院は以前、私の祖父母が入院の果てに亡くなる間際に病室を移されてそこで亡くなりました。皆癌で亡くなったのですが、その時の病院の雰囲気は暗く閉鎖感があり子どもながらに怖かったのを覚えています。
父も同じ癌になり、もう治る手立ては無く、最期はをこの病院で過ごすことになるとなると、そのような最期を迎えさせるのが可哀想な気がしたので、母にその旨を伝えて緩和ケアのある病院に転院するのはどうかと提案しました。
緩和ケアとは、がんと診断されたときから行う、身体的・精神的な苦痛をやわらげるためのケアです。
引用:http://www.kanwacare.net/kanwacare/
福祉の大学に出ていたこともあり、緩和ケアは知っていましたが、母はほぼ知らない状態でした。しかし、祖父母の時の病院の雰囲気や今の看護師さん達の声かけのキツい感じ(父の2人部屋のもう1人の方が父のロッカーを間違って開けようとしてしまった時に、ある看護師さんが「ねぇ、開けないでって言ってるじゃん」とお年寄りに言っていた…等)
を感じていたので、そういうところがあるならとすぐにケアマネの方に連絡して動いてくれました。
運良く、近くの病院で緩和ケア病床があり、またまた運良く1人空きそうな状態(一時退院される方がいた)だったので、トントンと話が進み、1週間後には転院が決定しました!
本当にありがたいです。
問題は、父にどう伝えるのかということ。
緩和ケアを母が知らなかったと同様に父も知らない可能がある。しかし、なぜ転院する必要があるのかを疑問に思うとおもうのでしっかり伝える必要があると感じました。
しかし、その後に行われた緩和ケア病床での面談を通じて、転院に対して以前にも増して前向きな気持ちになり、父にもこんなに良い病院なんだよ!と嘘偽りなく話せると思い、面談後は安心した気持ちになりました。
転院前の緩和ケア病床での面談・説明は院長先生と看護主任の方と病院のソーシャルワーカーの方としました。
母と私の2人で話をしに行きました。
面談内容は父がどの程度病気が進んでいて、どんな程度の介助が必要なのか。前の病院で飲んでいた薬の数や種類などの父に関すること。
また、緩和ケアとはどんなことをしてどんな風に過ごすのか、一般病棟との違いなどを教えてもらいました。
質疑応答の場では、父がもしものことが起きた時にどんな風になってしまうのか、苦しんで死んでいくのか、その苦しみはどの程度取り除けるのかを院長先生に伺いました。
話を聞いて、死を準備している感覚になり急に死が近く感じて少し気が動転していましたが、院長先生は優しく、細かく親身に教えてくださいました。
「肺癌ということもあり、だんだん呼吸が苦しくなります。免疫力が低下しているので何か合併症になって急に亡くなったり…と亡くなり方は人それぞれなのでなんとも言えませんが、痛みに関してはその都度薬を投与して緩和させていく方針です」
とのことでした。
緩和ケア病床は同じ棟に内科があり、その一画を仕切り、家庭的な雰囲気で落ちた中で過ごせるようにしたところで、一般病棟のようにナースセンターのピコピコ音が無くクラシックが流れていました。
また、家族は24時間出入りok・泊まりokなので家族も時間に縛られずに、患者とゆっくりと過ごせるのがすごく良いなと思いました。
午後から仕事をしている母や午後から長女が帰ってきてバタバタしている私にとって、午前中にゆっくり見舞いに行けるので、それだけでも転院して良かったとすぐ実感しました!
また、患者には最期まで人間らしい生活をとのことで患者の想いを汲んで、本人の希望があれば医師と相談して食べたいもの飲みたいものの持ち込みok・なんならお酒を少し嗜むくらいはok4だったり、本人の希望があれば家で使っていた馴染みの食器などを使って食事を取るのもokとのことで、話を聞いていて暗く怖い病院のイメージが払拭されました。
面談後、病院を出てから駐車場に向かう間母と「ここなら安心だね!」と、意見が一致してお互いにホッとしたのを覚えています。
前前回の記事から半年ぶりの記事になりました。
というのも、1歳前から、まぁーーー動く動く。
そして、体力がどんどんなくなる母にとって、どんどん体力がついてくる1歳児についていけず、子どもに合わせて寝ることもあれば、子どもが寝てからのつかの間の自由時間を謳歌したり…
まぁつまりはブログ、サボってました。
やっぱり書き始めると楽しいのがブログのいいところ!!!
再度お付き合い頂けたら幸いです♡
次女はあっという間に1歳5ヶ月になりました。
今はおうむ返しで喋ったり、自分の意思を持って「ちゃちゃ(お茶飲みたい)」だの「おんぶー(おんぶしてくれ)」だの、要求をするようになりました。
嬉しい反面、厄介な面も(TT)
言葉に関してはだいぶ成長し、家族を誰だか認識をして指を指しながら名前を言ったり、好きな絵本の展開を覚えて、大人が読むのに合わせて言葉を重ねるように言ったり…歌をなんとなく合ってる風に歌ってる風だったり…
食事面は長女の赤ちゃん時代とは種類の違う苦労をしています。ザ・和食好きの長女は違い、ザ・揚げ物好きな次女。
野菜は見た目からしてほぼ手をつけないので細かくしてハンバーグやカレーに混ぜ込み、意図としないで野菜を食している感じです。
その名も、いつのまにか健康な体作戦。
ぐんぐん大きくなあれ。
↑
#何度言ってもテレビ近い。
#ネコの哀愁さ感。
#2人とも大事にし過ぎてだいぶ汚い。
#2人とも大事にし過ぎて洗うタイミング失う。
#インスタやってないから初めて#を使った。
#昭和みたいな絵の令和。
今週のお題「理想の老後」
今、一軒家を建てる方向に進んでおります。
なぜならば、まず、新婚当初から住んでいた今のアパート(1LDK)は子ども2人が増えて狭い狭い!
2階の我が家では、ドタバタ走ったりドンドン跳ねたりして遊ぶのをちょくちょく注意せざるを得ず、親子共々暮らしが窮屈になってきました。
そして今、年中組の長女は再来年には小学校1年生に進級します。
学区を決めて長く暮らせる場所を決めなければという話になり、前々から気になっていたBESSというログハウスのハウスメーカーに遊びに行き、家を建てたい欲が更に高まり、この1ヶ月の間に一気に土地探しまで至っております。
『土地探しと家』を考える時にどんな暮らし方がしたいのかが重要になることを学びました。
ほぼ一生に一度の大きな買い物ということで、理想はかなり高くなってしまいます。
今の暮らしは子どもも小さく、のびのびと育てられるような家にしたい!と、庭は大きく開放感のあるようにしたいと思ってても、10年後は思春期真っ盛りの女子中学生は庭で遊ぶわけでもなく、開放感があるのも嫌になるかもしれない…
更に夫婦2人になり、老後を迎える時に、無理して買った大きい家と土地がそんなにいらないんじゃないかと思うかもしれない。
暮らし方はどんどん変化していくにあたり、家も変化していかなければ、今のように暮らしが窮屈になる気がします。
BESSの理念が住むより楽しむなんですって!
それはなんぞやと、担当の方に聞くと、ただ暮らすだけでなく、大人も子どもも遊び心を持っておおらかな気持ちで日常を楽しく過ごせるようにというのがコンセプトとか。
BESSはいい意味で荒い作りの家です。
大人も子どもDIYをしながら暮らし方を作り上げていくイメージで、それは家族との絆も必然的に生まれそうな感じが良いなと思い、BESSの理念に賛同しました。
特に子どもが小さいうちは新築の傷や汚れが気になりそうですが、BESSは荒い感じから始まるのでそれも思い出として良しとできるところがまたママ心を掴みました(*´∀`*)
話は逸れましたが、理想の老後は子ども達2人が各々好きなことを十分満喫して人生を楽しんでいるのを聞きながらお酒を家族みんなで飲みたいと思います。
なので、私も主人も趣味を沢山見つけて、好きなように過ごし、それを子ども達にも見て真似したいと思われるように暮らしていきたいと思います。
これからの暮らしや子ども達の育て方を考えた時に、5年後10年後…老後をBESSの家で過ごすことは想像しやすくて、やっぱりで建てたいという気持ちが高まりました。
私は外の空気を感じながらご飯を食べたりお酒を飲むのがとても好きです。
今でも2階の窓やカーテンはなるべく開けて、空の色が変化する様子を子ども達をお話ししながらご飯を食べたり、天気が良い時はお弁当を持って公園に出かけたりしています。
↑映えとかを気にしてないのであまり写真が無いのですがσ^_^;
老後も四季を感じながら衣食住ができるように暮らしていくのが理想だと最近気付きました。
↑とはいえ、土地探しの時は、虫は苦手なので自然すぎるとこは一歩勇気が出ないのが本音です。
自然を感じながら過ごす夫婦2人、または娘家族とワイワイできるのは幸せだなーと、すでにばーちゃんの気分です(*´-`)