あおのりん!

おのりんです。なにとぞよしなに。

忘れたいこと

エンタメというものが死んでしまって一年経った。まだ死んでないと意地をはっている大人はいても、エンタメにこれから飛び込む人は減ってしまった。私も人よりいじっぱりな自覚はあるけれど、板の上に立つ将来についてはもう諦めるしかなかった。今年度もオーディションが中止となった今、ダンススタジオに通う19歳の私たちにはプロとして踊る道は残っていなかった。

私がバレエをはじめたのは3歳の頃らしい。毎週毎週教室に行って稽古をして、たまに発表会に出て、それから稽古をして、発表会に出て稽古する。そんな生活を10年もしていたらそれなりに上手くなった。私にやる気があったとかではなくて、それだけずっと稽古をしていただけだと思う。もしかしたら子供の頃から才能があったのかもしれない。そんな感じでずっと稽古ばかりしていた時期、13歳の春に教室の工事だかでレッスンが休みになって、家族旅行でディズニーに行った。稽古を休んで旅行に行くのは初めてだったし、おばあちゃんの家じゃない所へ家族みんなで泊まりの旅行をするのも初めてだった。そのときディズニーシーでショーに出会ってしまって、私のやりたいことは決まった。今でもはっきりと思い出す。シアタージャズ、ロックダンス、ヒップホップ、コンテンポラリー。ひとりひとりのダンサーがどのジャンルの振りも美しく、感動のせいで私が泣いていたのをみてお父さんが慌てだしたのも覚えている。それからは教室の先生にお願いしてコンテンポラリーのレッスンを増やしてもらったり、シアタージャズのダンススタジオにも通うようになった。レッスンの邪魔だから中学から部活は入らなかった。遊ぶ予定がつかないからか友達も増えなかった。それでも取り憑かれたようにレッスンに打ち込んだ。私はなんとしてもあの舞台に立ちたいと思ってしまった。

たぶん私はダンスが得意だった。数年のうちにクラシックバレエだけじゃなく、どのジャンルも相当踊れるようになっていった。いろんな振りを覚えて、流行のジャンルも勉強して、絶対に採用させるためになんだってやった。きっと同世代で私より踊れる子はいないだろう。きっとこの世界で私より踊りたい人はいないだろう。そう思っていたし、そう思われて当然だった。高校ではもっと打ち込んで、いろいろな賞は数えきれないほど獲った。勉強の成績はよくなかったけど、それだけずっと稽古していた。私には踊る将来しかなかった。というより、踊る以外の道なんてないと思い込んでいた。実際には他の将来を見つめるのが怖くて、他の全てから逃げてレッスンに打ち込んでいた。そうして振り返ったとき、私にはダンスしか残っていなかった。それでも舞台の上だけは私の居場所になると信じていた。

高校卒業を控えてオーディションを受ける年、エンタメの世界は壊れてしまった。

 

今もレッスンは続けながら、先生の手伝いで子供たちの指導をさせてもらっている。

新規のダンサーオーディション再開の気配はまだない。

踊る子供たちをみていると、あの春にはじめて出会った舞台を思い出す。

立てなかった舞台を、忘れられる日は。

 

輝かしい春の記憶と

今日みたいに天気がいい日には、ふと春先の記憶がよみがえる。別に死にかけてはいないが、走馬灯というのはこんな風に浮かぶのだろう。自転車に乗って校区外まで出る小学生の記憶。新しい図書室の蔵書数に目を輝かせる中学生の記憶。クラスの友達と花見に繰り出す高校生の記憶。ひとり暮らしを始める準備の記憶。日本中から集まった田舎者が新生活の不安を共有して仲良くなる大学の記憶。次々と情景が浮かぶこうした輝かしい春の記憶の底に、仄暗い思い出が沈んでいる。

ありきたりな公立中学校の例に漏れず、僕の周りにもいじめの現場があった。とはいっても暴行や窃盗があったわけではない。別件としては多少あったが今日はその話じゃない。被害者と呼ばれるであろう彼に対して、誰も積極的に関わろうとしないだけだ。それはクラスのほとんどみんながそうで、僕もそうだった。彼は外見が整っているわけでもなく、話は自分の話が多くて面白くなく、なんというか多くの人からみて「友達」にはリストインされない感じがした。そんな彼との思い出だ。

春先、学校というのは定期的に行事をやらなければ気が済まないらしく、合宿があった。確か林間学校とか宿泊研修とか、そんな名前がついていたと思う。端的にいえばある程度の制限の中で生徒がはしゃぐ行事。青春の1ページの養殖イベント。そこで僕と彼はふたり同室になった。部屋割りの発表後、僕は内心で青春の終わりを確信していたし、周囲からの同情的な声もあった。それでも学校生活ではこの程度の理不尽は仕方がないので、僕は気にしないフリをして当日を迎えた。

行事本編である昼の詳細は省こう。夜の自由時間、僕は友達の部屋でこっそりとはしゃぎ、青春らしさを摂取して、消灯前に部屋に戻ると彼がいる。それはそう、彼と僕は同室なので当然いる。同じ空間にいる相手を邪険には扱えないので人並みに間をつなぐ程度の会話をする。そんな曖昧な世間話でも、しばらく話すとだんだんと本質的な話に転がることがある。彼はいつもの調子で自分の話をするはずだった。しかしこの晩に限っては、彼の話は内面の吐露だった。

彼の話はとても単純な悩みの告白だった。人間関係がうまくいかないと。実際もっとまわりくどい言い方だったが、おおよそそんな話だった。僕は悩んだ。普通なら人と会話をして、悩みを告白されたら手を貸すべきだ。特に中学生の社交経験では、聞かなかったことにする言葉選びはできない。しかし、ここで親密な間柄でするような返答を選べるほど、僕から見た彼は面白くない。彼と絡む時間があれば別の友達と話す方が万倍有意義だ。僕は悩んで、こんな返事をしたと思う。

「僕は正直、今日みたいに人間関係に悩んでいると言われて『じゃあ今日から友達だ!これで解決!よろしくね』とはならないし、親しく楽しげにやっていける気もしない。それでも、これから続く学校生活でわざわざ仲の悪い相手を作りたくはない。これからも積極的に仲良くする気はないけど、積極的に攻撃する気はまったくなくて、困ったことがあったら協力するくらいの気持ちはある。お互い、仲良くはできないにせよ、うまくやっていこう」

彼がどんな顔をしていたか、翌朝どんな話をしたかは覚えていない。僕の学生生活で彼と内面的な話をしたのはこれだけだった。悩みを明かしても軽くあしらわれた彼にとっていい思い出ではないだろうけど、仲良くなりたくない人と揉めない程度に距離を取った僕はそんなに悪ではないと思う。誰もが誰かと仲良くなるチャンスがあって、同じように仲良くしない判断はあっていい。それを明言してしまった中学生の僕が幼稚だっただけで、誰だって同じようなことはしている。

今日みたいに天気がいい日には、ふと春先の記憶がよみがえる。輝かしい春の記憶も、沈んだ思い出も。

 

エサやりがへたくそ

秋も終わり、公園のベンチで過ごすには肌寒いを通り過ぎた。週明けには直さないといけない自分で仕込んだわけじゃない不具合のことをぼんやりと、そして焦って考えながら、遠く視界の端に猫とおばさんが映る。あれはなんだ、餌付けか。コンビニで買ったらしいネコ餌のカンヅメをぽんと置き、集まってくる野良猫をおばさんが満足そうに眺めている。こんな忙しいときに厭なものをみてしまった。

残念なことに人間には、人に食品を与えると満足する機能がついている。なんだろうね。祖父母が孫のことを常に空腹だと思いこんでいるかのようにお菓子を与えるアレ、思いやりじゃなくて娯楽でやってるって自覚して欲しい。きっと人類が共同体を維持するために必要な機能だったことは想像できるし、餌付けが楽しいのは共感できるけど、自分の欲を満たすための行動だってことに気付いてくれ。

思考が共同体の成り立ちへと旅立つのを抑えて、視界に捉えたネコのことを考える。いや、おばさんのことを考える。きっとこの餌付けを促す欲求は、本来であれば共同体維持のためにある。その餌付け欲をこうして野良猫に向けて発散するということは、この人は自分の施しを受け取ってくれる人間が周囲にいないのだろう。まして自宅で動物を飼う余裕もなく、街中にいるネコにエサやりをして過ごす。

野良猫が多い地域はきっと、野良猫が誰かにとっての福祉になっている。行き先のない欲求がネコに向かい、野良猫を増やす。ネコが自制心を失った住民の存在を周囲に知らせてくれる。だれかの寂しさがネコに餌を与える。ネコの形を纏って街に広がっていく。いちばん楽しい場面である餌付けだけを寂しさを埋めるために使われて、ネコは街に帰る。そんな光景が急に浮かんでしまった。

餌付けはこんなに楽しいのに、自分にエサやりするのがこんなに難しいのはどうしてだろう。三度の飯が三度の飯より好きなデブの英才教育を受けた私でも、ひとり分のご飯を用意して自分に食事させるのが面倒になる。面倒になるというより、起動する条件をなぜか満たせなくなってしまう。餌付けスイッチを自分用につけたいのに、なぜか動けない。自分に給餌するのが退屈でどうしようもない。

ひとりぶんの食事を自分で作ろうとすると、大抵どうしようもない悲しい粗末な食事か、作りすぎたカロリーの暴力が出来上がる。人間の一生は3万日も無いので、人生10万食すら体験できない。なのにその貴重な食事を曖昧な粗食や暴食に費やしたくない。そんな消極的な考えが積み重なって、間違えたくないから給餌したくないって理由をいまでっちあげた。ほんとうは理由なく面倒だからやりたくない。

そういえばお昼ご飯が遅かったからか、まだ夜ご飯を食べていなかった。餌付けする相手もされる相手もいない夜は面倒だけど、それでもお腹は空く。お腹がすいたせいか、寒さが厳しくなってきた。はやく自分へのエサやりが上手くなりたい。

手癖で台本を書くんじゃないよ

こんにちは。私です。

最近どうですか、台本書いてますか?別に小説でも創作実話風ツイートでもなんでも良いんですが、ふたり以上の人間を作中で会話させてますか?

私も高校演劇に浸かっていた頃は脚本書いたり掌編書いたりしてましたし、今も気が向いたら書いてます。最近もカクヨムにこんなの書いてました。

駄目なひと - 短編集:ゆるやかな癒し(遠嵜結乃) - カクヨム

これ書いたあと「こういうのって、どんなこと考えながら書くんですか?」と聞かれたことがありました。

これが驚くべきことに、無なんですよね。

無の状態で、考えずに書きものをするというのがどういうことか、実際に執筆の様子を思い起こしてみましょう。

人物1と人物2を、喋ることが自然であるような空間に配置すると、なにもしなくてもどちらかが喋りだします。そうしたら、人物1または人物2がリアクションをとるので、もう一方がリアクションに対してReリアクションをとります。あとは適当なタイミングでオチになるように祈りましょう。

以上、なにも考えてない、脊髄反射で会話する台本の出来上がりです。

 

私、このタイプの凡庸な、時間の無駄でしかない会話劇が嫌いなんですよ。作る方は楽ですよ。妄想の書記になって議事録取ればおわりなので。ただ、この方式の登場人物は、自由意志を持たない場合が多すぎます。

演劇における会話、または物語の台詞は、いくつかの人間の限界を超えることができます。たとえば、意味もなく聞き返されることがないとか、人の台詞に食い気味で返すときには意図があるとか、馬鹿の役でないならば発言の内容を完全に理解するとか。

ここで大事なのは最後のひとつ、理解力です。

物語の登場人物は過剰に頭が良い。相手の発言の意図を考える。相手にとって善であろうとする。相手の反応を予想して自分の利を得ようとする。ちなみにこれはあなたにかける呪いなんですが、SFと呼ばれる物語での実現不可能な技術的な嘘よりも、恋愛や日常に分類される物語で人間の常識を超えたコミュニケーションが行われる方が多いです。なのに、私たちはこの会話が実現不可能だとはあまり思わない。

私の知る限り、現実の人は何か発言するときには「相手から善に見えるまたは自分に利があるから」ではなく「その瞬間に思い付けたから」発言します。ほとんどの会話はそうですし、現実の人間がこの水準から脱却した会話をするのは極めて困難です(私の言語能力が発達していないだけで、たいていの大人には可能だったら残念ながらこの記事は不要になります)。

ただ、普通の人でもワンランク発達した会話をする方法はあります。文字を使い、時間を味方につけながら、脊髄反射ではないコミュニケーションをすることです。

台本を書くことの利点がここにあります。役者と役者を舞台に置いて、即興芝居をさせたとします。そこでは生のリアクションはあるかもしれないですが、相手の意図を考えたキラーパスを投げることはほぼありません。良い役者であっても人間の限界はなかなか超えられません。

だから台本を書きます。

 

お客さんや読者は、人間の能力を超えた会話が目の前で起きていても受け入れてくれます。そして、目の前の会話を楽しみます。それが議事録ではなく、立ち聞きでもなく、物語だから楽しみます。

ですから、手癖で台本を書きそうになったそのときは、時間を味方にしながら次の台詞を書いてあげてください。

 

これは自戒です。

推しは推せるときに推せるだけ推せ

こんにちは、私です。早速ですがみなさん、推し、推してますか?

一般によく知られているように、やる気は水物です。ごく一部の作ってないと死んじゃうタイプの人を除いて、多くのクリエイターはリアクションのないプロダクトを作り続けることはできません。だから私たちは感想を投げるべきなんですね。

だというのに私は推しを静かに、草葉の陰から見守るように応援していました。なんてもったいないことでしょう。推すならカタチにするべきなのに!

というわけで、今日は推しを推す回です。「伝道師になろう」みたいに初心者に伝えるための回じゃないので説明は控えめです。さらに言えば今日はクリエイター重点回です。

 

本日推すのは以下の皆さんです。

「vi quino (機能美P)」

「TamifuruD(たみふるD)」

「コウノス」

 

前置きはこれくらいにして、推していきます。

 

機能美P

https://youtu.be/SOfstFs0oCo

 

多くの作品でセンスと言葉遊びが密です。

機能美Pの作品との初めましては『煩悩事変』だったかと思います。ちなみにリンク先は私の好きな『平面惑星』です。

機能美Pの作品はシンプルな音楽に対して文字の情報を特盛にするスタイルの、言葉遊びと文字遊びの効いた動画です。機能美Pの長い動画が好きですが編集にどれだけ工数かけてるのか想像するだけでふらふらするので軽率に次回作をねだれません。新作楽しみにしてます。

私、こうしたキネティックタイポグラフィと呼ばれる映像作品にあまりご縁がなくてですね、つまり、煩悩事変の初視聴時にはこれが何者か弁別する言葉を持たないままに煩悩事変に衝突してしまいました。こうした突然の出会いが無限に発生するからインターネットはやめられないんですよ。

今にして思えば、キネティックタイポグラフィといえばあのMVだとかあのアニメのあの演出だとか、後付けで分類することはできるんですが、私が最初に好きになったのが機能美Pなので、私にとってこの手法の第一人者は機能美Pです。

手法そのものが手間とセンスの塊なので、ついそちらに注目してしまいますが、音楽も配色もストーリーも台詞回しも良いんですよ。ちょっとした言葉遊びの応酬も、たたみかけるような軽快な音韻もとてもいいので推しです。

何もかも整ってる。投稿ペースにも納得のクオリティ。でも新作が待ち遠しい!

 

ちなみに機能美P、YouTubeチャンネル概要でこのように言及しています

しゅみでどうがをつくってるものです。 いいかねがくせいさん、どうがはね、そんなにはやくつくれるものじゃあ、ないんだよ。 とくにしゃかいじんにはね。 わすれたころに、あがってる。それがちょうどいいってことなんだ。

https://www.youtube.com/user/quinovi/about

いつまでも待ちます。

 

 

 

次の推し、推していきますね

たみふるD

https://tamifuru-d777.hatenablog.com

 

この方は本当に知識量とプロダクトのクオリティがすごい。あと、自分の興味を内省して文章にするスキルが突出している。

ディズニーのBGS(バックグラウンドストーリー)を中心とした作品が多く、考察記事を多く投稿しています。YouTubeへ動画投稿もしており、海底2万マイル実況動画などの最高にトチ狂ったゴキゲンコンテンツを投稿しています。観てると爆笑してしまいますね。

https://youtu.be/WrwQVPsSgZ0

私、海底2万マイル実況動画好きなんですよ。

さて、たみふるDの代表作は「Voice of the Sea」かと思います。これは何かと言いますと、東京ディズニーシーの非公式音声ガイドです。美術館とかで借りるあの音声ガイドをテーマパークで体験するわけですね。プロダクトコンセプトだけでも強い。さらに言えば、たみふるD作成台本の調査量、知識量と情報圧、読み上げる本人のアナウンス力も含めて、非公式の作品とは思えない仕上がりになっています。

この「Voice of the Sea」、ウェブアプリ形式でまとまっているので現地でお手軽に楽しむことができます。今日現在、疫病でパークがクローズしている点を除けば完璧なUXですね。聴くだけでディズニーにトリップできるのでリンク貼っておきます。

https://tamifuru-d777.hatenablog.com/entry/voiceofthesea

他にもpixivやカクヨムで小説を書いていたり、#たみふるDのアトラク論 でツイッター検索するとテーマに沿ったツイートが一覧できたりと、コンテンツ山盛りです。

ツイッターハッシュタグとVoice of the Seaに共通することとして、コンテンツの中身も良いんですが、アクセシビリティなどUIの良さが際立ってますね。ユーザーに優しいフォーマットで濃いネタをぶち込む。素敵なスタイルだと思います。

 

 

 

 

最後まで推していきましょう。

コウノス

https://www.youtube.com/channel/UCGtJeud3GXC2dERJy_IYEYQ

 

ニコニコ動画のユーザーであれば、「結月ゆかりのお腹が空いたので」シリーズがランキングの上位に長期間いるのを見たことがある方も多いかと思います。最近は新シリーズ「ゆかりな」が始まりました。

私はこの「ティラピアミルクティー」の動画がはちゃめちゃに好きです。

https://youtu.be/OiV1qR4450Y

どの動画も安定して面白いですし、食材への愛が感じられますね。あと、旨い料理を毎回選んでいるところと上手いことを高頻度で言うのと冗談の語彙が豊かなところと動画の構成が安定している点が推しポイントです。

話の面白い人がかわいい立ち絵に面白い話乗せて美味しそうな料理作ってコンスタントに手の込んだ動画上げているわけですよ。誰だって推しますね。

正直、コウノスさんをこの記事に書くか逡巡しました。どうせみんなもうゆかペコチャンネルは登録してるんだろうなって思いました。それでも、私はコウノスさんの動画楽しんで満喫してるので書きます。

推しは私が推せるときに、私が推す!

 

 

 

というわけで、私が一方的に楽しい記事「推しは推せるときに推せるだけ推せ」でした。

あなたもほら、推せるうちに推して。

 

仮想現実数学デー

こんにちは、私です。

 

この記事は数学デーアドベントカレンダーのアレです。

https://adventar.org/calendars/4029

3日目の記事です。

 

アドベントカレンダーのリンクから来た方の中には、誰だお前はという方もいらっしゃるでしょう。

申し遅れました、おのりんです。

2018年上半期くらいまでは、数学デーの参加費支払い額ランキングを作ったら絶対に五指に入るタイプの数学デーT.O.(トップオタ)だったのですが、この頃数学デーに顔を出す頻度がじわじわ減ってきてしまいました。仕事なんてするもんじゃねえな。

高校レベルを超えた数学教育は一切受けていない、数学に明るくないタイプの数学デー常連です。マーケティング社会心理学とディズニーとチョコレートの話をよくしています。

数学デーの開始以来、コミュニケーションとコンテンツを数学デーで摂取するタイプの生活をしていたのでこのまま数学デーが不足すると生活リズムや精神衛生が悪くなってしまいますね。

仕方がないので数学デーに参加した各位の報告ツイートや、ネタの断片、写真などを見ながらその日の数学デーを想像したりして、数学デー分を摂取しています。(数学デー分:数学デー以外ではなかなか発生しない雰囲気。突飛な発想ほどポジティブに捉えられる傾向が強い)

そこで本記事では、私が行けなかった数学デーを、ツイートを頼りに想像して、文脈を補ってみます。VR数学デーです。

主な検索ワードは「#数学デー」や「数学デーパワーワードアワード」です。

 

例えば、2019年9月25日のこの発言をもとにして、この近辺の数回がどんな数学デーだったのか想像してみます。

 

 

プラナリアの端を縦に二分割するのを10回やったときにありうる形は37通り」という言説が出てくるということは、グラフの数え上げをやったことは容易に想像できます。問題は、なぜプラナリアを切り落とさないように切り刻む話に至ったのかです。気になりますね。

少し遡ってツイートを追いましょう。

 

今日も今日とてヒドリフドリトドラ37種ととトヒドラ?66種をを人力で漏れダブりなくあげ尽くしました!

 

ひどりふ……は?

 

おそらくヒドラか何かの話をしていることと、命名法に基づいて名称を与えてしまったことはわかります。なるほど、さっきのプラナリアはグラフの具体例だったわけですね。

こうなったということは、木構造を持ったグラフの数え上げで盛り上がったのでしょう。たしかに、楽しいし成果があるし、数学デーはちょくちょく力技で全部数える日が生まれます。

具体的に力技で数えて、n=5くらいまでやったら検索して先行研究を調べて、一般化を考えた上で、より異常な具体例を考える。非常に数学デーらしい様子ですね。

 

とはいえ、何をきっかけにこの数え上げをしているのか予想がつかないですね。もう少し遡ってみましょう。

 

バトルドーム!言えたのは良いことですね。私も言えたら嬉しいです。

 

……さっぱりわからねえ!

ので、別の方のツイートを頼りましょう。

 

想像するのが無理になってきました。

分子構造なのか、なにかの薬品なのか。命名されてると化学っぽいけど、これはたぶんグラフを名付ける語彙を自作したな?数学デーに形式重視みたいな概念はないので、便利そうならご自由にご利用ください状態になることは知られている。

というかさてはこれヒドラ関係ねえな。関係あるのか?

 

文脈が強すぎるから前回の数学デーを漁ってみましょう。

「ウツロドリモノダンゴ」

 

これは……たぶん団子を分類してますね。

はい、団子です。団子と串の関係性に化学の命名法を借用して、正しい呼称を与えています。なんで与えた。

ということは冒頭に立ち返って、数学デーで団子を分類していたはずなのに、気づいたらプラナリアを切り刻んでいたということですね。あと、バトルドームと叫べる。

 

と、こんな愉快なことを真面目に笑顔でやっていくのが数学デーです。要約する箇所を間違えてる気がしていますが、私が行ってる数学デーはだいたいこんな感じなので、おそらく間違ってないでしょう。

この回、数学デーらしさが大爆発してますね。ものすごく行きたかった……

 

この記事でみなさんにお伝えしたかったことは大きく2点ありまして、

ひとつは、こんなとち狂って楽しい場所が毎週開催されてるので、一人でも多くの方に一回でも多く体験して欲しいということです。

そしてもうひとつは、不参加組は今回の記事みたいに、巨大なハテナを浮かべながらツイートを読むしかできないので、みんなもっとツイートしてくれということです。

 

よろしくお願いしますね?お願いしましたよ?

 

というわけで、突貫記事は以上です。

次回の数学デー記事も楽しみですね。

 

それではまた、いつかどこかの数学デーでお会いしましょう。

 

青春高校3年C組の話_2

こんにちは、私です。

突然ですが私、テレビ好きなんですよ。

 

たまに感極まってブログ書くんですが、前回は青春高校3年C組で感極まってまして、今回も青春高校3年C組の話です。

とはいえ、前回のようにリベラルマインドに心が浄化された話とかではなく、今回は団体芸にアベンジャーズ的な楽しみを感じた話です。

 

お笑い好きな方にとっては基礎用語だと思うんですが、天丼ってあるじゃないですか。同じ展開を繰り返すと面白いアレです。

さらに、団体芸って概念があります。トークバラエティの発達で顕現したボケジャンルだと思っているのですが、大勢でテンポよく天丼すると面白いみたいな概念です。というわけで、今回は団体芸で感極まったんですよ。

 

が、その前にアベンジャーズの話をします。

みなさんはもう『アベンジャーズ エンドゲーム』はご覧になりましたか??ものすごく簡単に言うと映画の連ドラなんですが、全作品必修です。人生が倍楽しくなります。これまでの11年かけて描かれた各ヒーローのバックグラウンドがごちゃまぜになって、画面の全ての情報がこれまでの道のりを思い起こしてくるせいで全部が最高になります。普通に映画単体として観ると特別にエクストリームなわけではないのに、登場人物への思い入れの深さが映画体験をブチ上げてくれます(映画単体の完成度も素晴らしいことは付記しておきます)。文脈が多ければ面白い。ざっくりとそういう仕組みです。

 

というわけで青春高校の話です。

最高になったのは2019/07/05(金)の放送回です。LINELIVEで配信中ですので、お時間ある方はぜひご覧ください。何かと言いますと、東京03の飯塚さん相手に団体芸でボケ倒していた回です。

春高校3年C組は、素人を集めてなんやかんやさせる番組だったんですが、毎日テレビ出てるせいか、出演者がテレビ的なお笑いの文法を学んでいるんですよ。その結果、この放送回では大勢でボケ倒す団体芸やっています。異常な密度で。佐久間Pの指示が上手いのかもしれませんが、実行できている出演者の技術は完全にバラエティ文脈にあります。簡単に言うと出演者みんな芸人状態です。

私、この回観ていてめっちゃ笑いました。音声バランスとかカメラスイッチングとか全然発言に追いついてないのに、不思議なくらいものすごく楽しかったんです。

なんでこんなに楽しめたのか考えました。そしてわかりました。青春高校3年C組はアベンジャーズになっているんです。

 

もう気づけば一年以上もやっている番組です。出演者ひとりひとりのキャラクターも固まっていますし、わかっている前提で番組も進行します。つまり、番組で発生する全てのくだりに対して、バックグラウンドストーリーを感じ取れるわけです。内輪ネタの内輪を広げる技術がすごい。だから単発のボケの威力が上がる。

あとは数の暴力です。手数で勝負です。キャラクターのしっかりした人がボケたらそれだけで面白いに決まってます。それをテンポよく30分続けられたらもう優勝します。だって記号と文脈が多いんですから、これはもうアベンジャーズです。(は?)

 

最近のテレビではこの規模の団体芸を見かけなくなりました。そもそも20人も画面の中に人がいる番組がそう多くないので当然ですね。「有吉の壁」くらいの特番ならありますが稀です。思わぬタイミングで最高のテレビを観ることができました。

というわけで、テレビの「お約束」を大掛かりにやっていく番組を令和のこの時代に観ることができて嬉しくなった話でした。やってる側は精神すり減らしながら作ってそうで怖くなりますね。