最終更新:父・哲の思い出


(2016年、地元の高級割烹にて)

このブログの著者、尾崎哲(id:apgmman)の息子の隆(id:TJO)です。2022年5月13日17時27分、父は甲状腺扁平上皮がん及びその合併症である呼吸不全のため逝去いたしました。77歳でした。読者の皆様におかれましては、生前に賜りましたご厚情に深くお礼申し上げます。


このブログは、2021年10月に大きく進行した腫瘍が見つかり11月にステージIVの甲状腺扁平上皮がんと診断され、姑息療法のため入院したものの無聊をかこっていた父に「折角時間があるのだからこれまで仕事や趣味で取り組んできたことを振り返ってブログにでもまとめてみてはどうか」と僕が勧めたことで、始まったものでした。


最終更新となるこの記事では、父自身がこのブログの中で語ったこと、そして語らなかったことも交えて、亡き父を偲んで息子から見た姿を振り返ってみようと思います。


研究者・企業人としての父



(1986年、ヨーロッパ出張にて)

記事最後の略歴にもあるように、父は東大工学部・原子力工学科で博士号を取得し、その後東芝で原子炉材料の研究に従事した企業研究者でした。


しかし、以前より母から聞いていた話では、父は最初から企業で働くことを目指していたわけではなかったようです。企業に進んだのは、1) 学生結婚していて既に母が働いていたのでのんびり食えない学者をしている状況ではなかったこと、2) 当時はオーバードクター(OD)問題が深刻でそもそも学位取得後も有給の仕事があるとは限らなかったこと*1、の2点が大きかったようです。上記の回想記事にもあるように、父は研究室の助教授の先生の紹介で東芝に入社しています。一方で、父の同期の中にはODを経て東大に職を得て、最後は東大の教授になった人もいました。


そういう経緯があったせいか、父は時折アカデミアへの未練とも取れる態度を見せることがありました。実際、何度か色々な大学のアカポスに応募しないかという誘いを受けた時には、業績を整理して応募しようとするところまでいったことがあるそうで、一度は京大の准教授のポジションにも応募しようとしていたそうです。ただ、どういうわけか毎回父は結局応募しなかったのでした*2。その代わりとして息子である僕に父は期待していたようですが、その僕も最終的にはアカポスに就けず企業に転じています*3。親子2代でアカポスには縁がなかったようです。


とは言え、父は東芝でも真摯に研究課題に取り組む研究者であったように息子の目には映っていました。これは、父の業績をGoogle Scholarで調べた結果や特許情報をJ-PlatPatで調べた結果*4からも窺えます。父が現役の頃は書斎やリビングの棚に原子力工学や機械工学に関する学術書や、量子力学など関連する物理学の教科書、さらにはモンテカルロシミュレーションを手掛けていた*5こともあって数値解析の専門書などが並べられていました。僕は子供心に「研究者というのはこれほど勉強しなければならない仕事なのか」と思ったものでした。一方で、後述するように父は典型的なマイホームパパだったこともあり、帰りが遅くなることはあっても朝帰りするようなことは一度もなかったと記憶しています。携帯電話もない時代に、帰宅が遅ければ必ず電話を寄越すような律儀な父でした。


もっとも、昭和の時代に大企業に勤めるというのはたとえ研究所採用であっても「宮仕え」的サラリーマンになることを意味していたわけで、回想記事にもあるように何度も出向を命じられてその都度研究活動を中断し、時には畑違いの仕事もしていたようです。どちらかというと、息子の目からすると父は研究の仕事よりも本社勤務の仕事を真面目にやっていたという印象がありました。結局、父が最後に研究活動に本腰を入れていたのは回想記事中にある「軽水炉のチャンネルの影」に関する仕事で、これは実際に当時も「珍しく3本もまとめて論文を書いたぞ」とかあまつさえ「ノーベル賞も狙えるぞ」などと父自身も誇っていたのですが、あまり脚光を浴びなかったのは残念な話でした。


父は後述するマイホームパパ的な性格もあってか部下や後輩の人たちには優しかったそうで、母からの伝聞では父の下についた人たちは皆父よりも上の職位に出世していったそうです。しかしその反面、父は気に入らない上司には公然と刃向かっていたそうで、何回かあった出向の中には上司から半ば懲罰的措置として「出された」ケースもあったのだとか。案外会社では、家族の誰もが知らない強情な側面を見せることもあったのかもしれません。


僕にとっては、自分に物心と分別がついて以降の父がやっていた仕事で一番印象に残っていたのは原子力広報担当部長時代のことでした。当時はOB会社にも所属していて時には珍しく締切に追われるような仕事もしており、父が仕事のために泊まり込みで徹夜するというシーンもありました。そしてそれ以上に面白かったのが、役得というわけではないですが社外のイベントか何かの打ち上げで、当時社長だった西室泰三さんに同席し、さらには西室さんからお酌されたという話でした。それを聞いた家族全員が「これだから学者バカはいかん、お父さんの方が真っ先に西室さんにお酌すべきだった」と呆れたのを今でもよく覚えています。その教訓があったからかどうかは分かりませんが、その後父は仕事絡みで色々な宴会に出ることが増えるにつれて宴会マナーや宴会芸を覚えていったようで、ある時にはどじょうすくいの芸を覚えてきて親族の前で披露したこともあります。


定年を迎えた後は、元来の工作好きが活かせる場として各地の科学館のボランティアの職を転々とし、時には初等教育向けの科学実験の実演をしたり、また時には「放射線活用教育」としてGM管の自作といった活動をしていました。その様子はこのブログの初期の記事で詳しく書かれている通りです。後述しますが、父にとってはこの定年後の仕事の方が楽しかったように見えます。


ただ、皮肉なことに2011年の東日本大震災では福島第一原発事故が発生したことで「原発安全神話」が崩壊。また2015年以降は長年勤めた東芝粉飾決算事件を皮切りに経営の混乱と危機に陥っています。父の最晩年は、生涯に渡って身を捧げてきた二つのものが衰退していくのを目の当たりにさせられるという、寂しいものでもあったように思えます。


家庭人・一個人としての父



(2020年、孫娘のピアノ発表会にて)

どちらかというと、息子にとって父は「東大の博士号を持つ企業研究者」というよりは「いつも穏やかで家族思いだが普段は無口でちょっと変わり者の父親」でした。嫁さんに言わせると「いつも真面目そうな顔をして口を軽くへの字に曲げて腕を組んで人の話を聞いていてほとんど喋らない」という印象だったそうですが、僕にとってもそれは全く同じです。


食事の席でもそれは同じで、夕食になると父は料理が揃っても全く手をつけずにしばらく静かにビールを飲んでいたものです。ところが、僕が父を見てああビールを飲んでいるなと思いながら自分の分を食べ始め、次に父に目をやると既に父が自分の分を綺麗残らず食べ切った後だった、というのが毎回の定番でした。これは冗談でなく、父は本当に食べるのが早い人で、家族の間では「食事を食べる前と食べた後は見たことがあるが食べているところは見たことがない」とまで言われる始末だったのです。当人に言わせると「札幌・桑園での大家族時代に食いそびれないように他人よりも早く食べる習慣が身についた」そうですが、それにしても本当に早かったという記憶しかありません。そして食べ終わるとまたいつもの腕組みして無口な姿に戻る、というのが定番でした。


父は中年の頃は上記のように早食いであるのみならず結構な大食いで、一時はかなり体重も多かったのですが、あまり味にはこだわりがなかったようです。栄養学専攻出身の僕の嫁さんが手料理を振る舞った際にも、どういうわけか「食事にとって重要なのは喉越しと腹いっぱいになった感であって味は腐っていなければ何でも良い」と力説して、嫁さんをがっかりさせる一幕もあったりしました。


そんな父ですが、酒が沢山入ると饒舌になって色々と喋り散らかすのが常でした。割と父は酒に強い人で、僕が酒を飲んでも顔が赤くならないのは父譲りのようなのですが、一方である程度以上の酒量を越すとどこでもごろんと転がって寝てしまうことが多かったです。長らく、家族から見ると父は「酒が入った時だけ良く喋るがそれ以外は寡黙な人」でした。ちなみに母に言わせると「根は意外と短気な人」だそうですが、息子の僕が父の短期な様子を目撃した回数は多分闘病生活に入る前だと五本の指で数えられるくらいしかなかったと思います。


父の性格で特記されるものは「無類の工作好き」ということ。例えば僕が子供の頃は「学研の学習・科学」を毎月買っていたのですが、「科学」についてくる付録の工作は毎回父が作ってしまうのがお決まりのパターンでした。それは僕が不器用で毎回すぐ放り出してしまっていたせいもあるのですが、今にして思えば無類の工作好きの父にとっては自身が(息子を差し置いて)楽しみたい定番の娯楽だったのかもしれません。


今でも良く覚えていますが、東芝を役職定年になった後の父と僕の2人で実家の玄関ドアを修理していた時に、ふと父がしみじみと「本当はこういう工作みたいなことをずっとしていたかったんだよね、成り行きで博士課程に進んで企業研究者になったけど、本当にやりたいことではなかった気がする」という趣旨のことを言ったことがあります。そういう父だったので、引退後に各地の科学館ボランティアで子供向けの科学実験工作を手がけたのはまさに「天職」だったのでしょう。


真面目一筋の父は勉学を極めてそのまま博士課程にまで進んで工学博士になったわけですが、一方でそこまで進んでしまったことで逆にキャリアに硬直性が生まれてしまったことにずっと戸惑っていたのかもしれません。母からの伝聞では「会社でもテストを受けた成績で昇給や昇進が決まればいいのになぁ」と言っていたことがあるそうで、良くも悪くも「学校の優等生」的な人だったように思います。


優等生的な側面が変なところに現れることもありました。母が自宅で小中学生向けの学習塾をやっていた都合もあり、時々父はカレーライスやおでんといったメニューの夕食を作ってくれていたのですが、必ず「説明書きに書かれている通りぴったり正確に作る」んですね。これが、恐ろしいほど一切のアレンジや独自の工夫がなく、うっかりすると没個性なのではと思うくらいマニュアル通りの作り方をするのです。父の中では「レシピに沿って忠実に作るのが料理」だったのでしょうが、これはきっと実験工作からの延長だったのだと思われます。


そんな優等生的な父だったのですが、不思議と仕事に関してはそれほど真面目でも熱心でもなかったように伝え聞いています。回想記事にもあるように、折角東芝の研究所に入れたのに「研究テーマにはこだわりがなかった」そうですし、会議中は良く居眠りしていたそうで*6本社出向時には当時の上司からわざわざ「本社では会議中に居眠りしないこと」と釘を刺されていたと聞きます。しかも父は、朝起きてちょっとでも熱があったら「熱があるので休みます」と平気で会社に電話していましたし、何なら雪が降ったら「雪なので休みます」と電話しかねない勢いでした。そういう諸々があって、昭和の時代の会社にあってはあまり出世できなかったというのが母の述懐です。上述のように、むしろ引退後の科学館ボランティアの仕事をしている時の方がずっと楽しそうで尚且つ意欲的でした。


しかし、それは今にして思えば「仕事より家庭」という父の「マイホームパパ」ぶりがなせる業だったのかもしれません。昭和の時代の父親にしては珍しく、父は何かというと仕事を放り出して早く帰ってきたり、母や子供の具合が悪いと堂々と年休をとって看病に当たったりしてくれたものです。思い起こせば、息子の僕が東大の合格発表を見に行った時も会社を半休して一緒に来てくれたのでした。とにかく家庭が最優先の父だった、というのが強い印象です。


なお、父が亡くなってから知ったエピソードなのですが、僕と姉が既に学生or社会人となって昼間は家にいないようになった時分に、虚弱体質の母が朝食時に気分が悪くて戻してしまうということがあったそうです。それを見た父は「とりあえず午前中の仕事を片付けてくる」と言って会社に向かい、昼頃に突然帰宅してくるなり母のためにお粥を作り、母に食べさせたら再び会社に向かったという話でした。当時の父は片道2時間半ぐらいかけて通勤していたはずですが、それでも母のために1日で2往復することも厭わなかったのです。


勿論「臼で挽いても死なない」と言われたほど頑健だった父ならではのエピソードなのですが、自分の奥さんや子供のためにはどんな努力も厭わないというのが当たり前の、昭和の時代としてはかなり珍しい家庭最優先のマイホームパパだったというのが息子から見た印象でした。


なお全くの余談ですが、父はどういうわけか極端な飛行機嫌いでした。このブログの自筆記事にもあるように「新婚旅行で遭遇した飛行機のトラブルで飛行機に乗るのが怖くなった」そうですが、それにしては随分と極端で実際に海外出張も相当な回数断っていたようです。どうやら断り切れずに行ったのが米国の1回とヨーロッパの2回だったようで、プライベートでは子供たちが結婚するまでは一度も海外どころか国内でも飛行機が必要なところに家族旅行で行ったことはありませんでした*7。けれども、2010年に我が家夫婦と一緒にハワイに行って以降は積極的になったのか、同年には当時エンゼルスにいた松井秀喜の試合を観戦しに飛んでいますし、2014年にははるばるニューヨークまで我が家夫婦と一緒に飛んでいます。案外ただの食わず嫌いだったのではないかと、息子としては思っています。


闘病生活



(2021年12月、入院先にて)

当人にとっても家族にとっても、父のがん発覚は晴天の霹靂でした。元々父は原子炉エンジニアであり普通の人に比べて格段に放射線被曝を重ねている上に、祖父(父の父)が進行性胃がんで60歳という若さで亡くなっていることもあり、非常にがんを恐れていました。それゆえ毎年の甲状腺の検査やがん検診には非常に熱心で、その執拗さは語り草になっていました。そして実際、2019年まではがんを窺わせる微かな兆候すらありませんでした。


ところが、2020年に入ってから「臼で挽いても死なない」と思われるほど頑丈だった父が細々とした体調不良に見舞われるようになり、2021年5月に「喉がつかえる気がする」ということで病院を受診したところ、胸腺腫と思しきしこりがCT/MRIで見つかりました。外科からは生検を兼ねた摘出手術を勧められたものの、タイミング悪くこの直後に新型コロナウイルス・デルタ株による第五波が襲来したこともあり、結局「胸腺腫なら進行も非常に遅いので半年後のフォローアップで良い」という判断になったのでした。


しかし同年10月になると父が「喉がつかえる」だけでなく声が上ずって枯れたようになった上に、嚥下障害を起こすようになり、当人自身が調べて「これは反回神経麻痺による声帯麻痺ではないか?」ということで予定を前倒して造影CTを撮ることに。その結果、胸腺腫と思われたしこりが2倍以上の大きさに拡大していたことで、まず「胸腺がんの疑い」と一度判断されました。しかしこれほど増殖が早い胸腺がんはあり得ず様子がおかしいということでPET検査や生検による組織検査を経て、最終的に同年11月に「稀少がんである甲状腺扁平上皮がんのステージIVで根治は不能」と告知されたのでした*8。姑息療法以外の選択肢はなく、放射線治療抗がん剤を併用して進行を遅らせるのみである、と。


他の家族がショックを隠せない中、父が見せた態度は意外なものでした。主治医に対して父は「自分はこれまで原子力のために生涯を捧げてきたが、原発事故などもあって社会や世間が原子力をただただ危険なものとのみ見做すのを残念に思っていた。だが、こうしてついに原子力そして放射線が役に立つと示す機会がやってきた。残りの時間は放射線の有用性を身をもって証明することに充てたい」という趣旨のことを言ってのけたのです。そこで、最初は通院で週1回放射線治療を行うことになりました。この頃の父は嚥下食に使うとろみ剤をうまく水と攪拌するための電動ファンなどを自作して「手でかき回すよりはこの方が効率的だ」などと得意がっていたりしたものでした。


ただ、皮肉なことに甲状腺扁平上皮がんは放射線抵抗性が強く、しばらく放射線治療を続けたものの腫瘍の拡大が収まらないことから、意味がないという主治医の判断で中止することに。当初父が抵抗を示していた抗がん剤での局所制御を目指すことになったのでした。この頃には父も体力が落ちてきて週1回通院するのがしんどいということで入院することになり、さらに腫瘍に圧迫された気管と食道がみるみるうちに細く潰れていったことで口から物が食べられなくなり、経鼻経管栄養に頼ることを余儀なくされました。自然と水平生活が長くなり、父は無聊を慰めるために当時非常勤で勤めていた北の丸科学技術館の仕事(以前にも紹介した「らでぃ」など)をベッドサイドでやっていたそうです。聞くところでは、GM管キット一式を持ち込んで工作までやっていたそうで、主治医が院内の運営委員会を説得するのに苦労したとか。このブログを書き始めたのもその頃です。


一つ愉快だったのは、「病室に電子工作キットを持ち込みブログまで書いている76歳(当時)の老博士がいる」という噂が主治医や担当看護師を通じてフロア内に広まり、そのフロアのスタッフで父のことを知らない人はいないというほどの人気者になったということ。往年の寡黙で人付き合いの苦手な父を知る身としては意外な感がありましたが、今にして思えば原子力広報担当部長時代に覚えた「人との付き合い方」が功を奏したのでしょう。上の写真は父と親しくして下さった看護師の方々に撮っていただいたもので、当時の入院フロアでの父の人気ぶりが偲ばれる一枚です。主治医からも「可能なら私が責任を持ってお看取りしたい」との言葉をいただいたほどで、よくよく周囲から慕われたものだと感心するばかりです。


その後、幸運なことに1コース目の抗がん剤がある程度効いたため、主治医からは「同じ姑息療法なら在宅の方が良い」と勧められ、同時に実家の近くの実績豊富な在宅医療・看護専門クリニックを紹介されたので、思い切って中心静脈栄養*9に切り替え、退院してきたのでした。同年12月末のことです。この頃の父はまだまだ健啖で、自分でミキサーを使ってスープを作ったりして口から食事もしていました。流石に正月のお節料理と酒はダメでしたが。


ところが、1コース目の抗がん剤が効かなくなってきたのか、父の嚥下障害が進行したことで翌年1月に再度入院することに。両側声帯が麻痺すると呼吸不全で命に関わるため、気管切開を行なって呼吸経路を確保した上で再度退院したのでした。2コース目の抗がん剤は週1回通院して点滴で投与するタイプのもので、非常に良く効いたことから一時は狭まっていた気管が11月の時よりも大きく広がるというところまで腫瘍を押し返すことができたのでした。同時に左肺にあった転移巣もほぼ消え、長期生存の可能性が見えてきたかに思われました。


この頃の父はそれ以前にも増して健啖なもので、何でもカレーライスを食べてみせたりしていたそうです。父の嘯いて曰くは「やや水分が少ないくらいの料理の方が食べやすい」と。ただ一方で、迫り来る最期を見据えて父なりに色々な整理もしていました。特筆すべきは、長年法事をお願いしていたお坊さんに依頼して、母と揃って生前戒名を授けてもらったことでしょうか。そのついでに祖父母の戒名に院号を追加してもらったり、さらには近所の葬儀屋に会員登録して事前に葬儀即応の手配をしておくなど、「終活」も着々と進めていました。一方で日々新たな食事のメニューに挑戦するなど、飽くなき生への執念というか食への執念を見せていたのを思い出します。北の丸の科学技術館の最後の仕事も、この頃にまとめて科学技術館に提出していたそうです。


また、入院していた頃に見せた同じ謎の「慕われ力」を、この頃の父は訪問医療・看護のスタッフの方々に対しても遺憾無く発揮していました。僕も時々実際の場面に立ち会ったことがありますが、何でもすぐ調べ物をして勉強して知識を仕入れてしまう父は、事あるごとに訪問の看護師さんに「自分が調べたところではその処置は合理的ではない、自分が提案するこちらの処置の方が良い」などと指摘して回ったそうで、たちまち訪問医療クリニックのスタッフの間でも「訪問看護に自ら指導する老博士」ということで有名になったそうです。最後まで担当してくださった看護師さんに至っては「尾崎さんは私の師匠です」とまで言わしめるほど心酔させていたとか。


しかしながら、4月半ばになると父はかなり深刻な呼吸障害を訴えるようになり、見かねた周囲が緊急入院させたところ、2コース目の抗がん剤の副作用と思われる薬剤由来間質性肺炎を起こしていたと判明。しかも、反対側の肺も転移巣が消滅したことで穴が空いて気胸を起こしていたのが進行していて、機能不全を起こしていたのでした。結局、このままでは腫瘍より先に両肺がダメになるということでこの抗がん剤も打ち切りに。この時、主治医から「今退院しないとここで入院したまま衰弱していってしまう」とのことで退院を勧められ、4月末に在宅での酸素吸入措置の手筈を整えた上で退院することとなりました。


以後、父の体調は坂道を転げ落ちるように悪化していき、ゴールデンウィークの初日には娘・息子とその家族全員を集めて、衰弱著しい父が自ら訣別の辞を述べたのでした。それからはGWを通じてみるみるうちに衰弱し、父は起き上がるのも難しくなり一日中横になるようになり、さらには呼吸障害がどんどん進行して際限なく酸素吸入の流量を増やしていかなければならなくなりました。GW明けの5/6には一度主治医の診察を受けに行ったのですが、既に外来で検査を待つ体力もないということで診察も受けず帰る羽目に。この時、主治医からは「緩和ケアのためのベッドを空けるので入院しないか」と勧められたそうですが、父は断固として断ったようです。その後はさらに体調が悪化し、あれほど生と食への執念を見せていた父から「あまりにも苦しい、頼むから今すぐ死なせてくれ」という電話を受けることすらありました。このような状況で、老々介護を強いられていた母にはかなりの負担がかかっていたように思います。


にもかかわらず、亡くなる前の最後の1週間で父は驚くべき行動に出ました。何と「物が食べたい」と言い出し、カットしたバナナ・ヨーグルトorゼリー・野菜ジュースを母や姉に持って来させては、貪るように飲み食いするということを何日も続けたのです。亡くなる前日ですらそれをやっていました。恐らくですが、「喉越し良く腹いっぱい食べる」ことが大好きだった父としては「最後の食い納め」を、明日死ぬかもと思いながら毎日繰り返していたのではないでしょうか。


残念ながら、生と食への執念を見せ続けた父もその最後の1週間でどんどん呼吸不全が悪化し、あまりの息苦しさから自ら強い鎮静剤で眠らせて欲しいと希望する場面が増えていきました。一時は入院させて24時間の管理環境下で穏やかに逝かせてやるべきだという議論を僕が提起し母も姉も検討しましたが、亡くなる前日まで意思疎通のできた父はこれを断固拒否。コロナ禍で家族が病室に立ち入れない点、そして何よりも住み慣れた家以外で息を引き取るのが嫌だったのでしょう。最終的に、強い鎮静剤でほぼ昏睡状態に陥る中、5/13夕刻に僕も含めた家族3人に看取られて父は亡くなりました。5/17の金婚式(結婚50周年)を目の前にしての最期でした。


しかし在宅ケアで最期まで看取ったことで、残された家族にとっても「やり切った」という感があります。ある意味で清々しさがあり、亡くなった後に訪問看護師の方々と一緒に死化粧を施したり死装束を着せる際には、父の闘病中の破天荒なエピソードを思い出しては声を上げて皆で笑い、そして笑い合いながら皆さんが玄関から出て行かれるという一幕もありました。無類のマイホームパパであった父が固い意志で最後まで押し通した在宅ケアを通じて実現したかったのは、もしかしたらそういうことだったのかもしれません。


略歴


最後に、父の略歴を記しておきます。プライバシー保護及び読みやすさなどのため、当人直筆の略歴を息子の判断で一部改変・加筆修正したり註を付している点ご了承ください。


1945/03/04:北海道札幌市桑園で出生、父・正*10、母・文*11とともに大家族で暮らす。

1951/04:札幌市立桑園小学校に入学、父が結核北海道大学付属病院に入院し、母と弟、妹*12は、北九条の帝国製麻社宅に転居したが、哲は桑園に残った。

1952/04:札幌市立北九条小学校に転校、社宅に転居。

1954/10:静内町立高静小学校に転校、父の回復で転地療養を兼ねて、静内工場に転勤、雪の積もる中、馬橇で社宅入り。

1957/04:高静小学校卒業、静内町立静内中学校に入学、理科クラブで大沼公園にキャンプ、駒ヶ岳登山が初めて旅行体験。

1958/08:世田谷区立駒沢中学校に転校、父の転勤で世田谷区上馬の社宅に転居、真夏に学生服で上野に降り立ち、暑さの違いに驚いた。

1960/04:東京都立戸山高等学校に入学、部活動はなし。

1963/03:卒業したが、東大、横浜国大とも大学入試に失敗、駿台予備校に通う。

1964/04:東京大学理科一類に合格、駒場教養学部に通う、サークルはコールユリゼンという混成合唱団。

1966/09:進学振り分けで工学部原子力工学科に、後期から旧浅野邸跡*13原子力本館に通う。

1968/04:修士課程に進学、原子炉材料研究室、向坊教授*14、菅野助教授に師事、トリウム化合物の製造と物性を研究、放射線作業従事者。

1970/04:博士課程に進学。

1972/05:結婚、千葉県市川市・真間山下のアパートが新居。

1973/03:単位取得退学、学位取得(工学博士)。

1973/04:株式会社東京芝浦電気に入社。

1973/08:総合研究所に配属、高速増殖炉の材料研究に従事、重イオン注入の際のイオンの動きをモンテカルロシミュレーション、金属材料のナトリウム腐食を支援、つまり徹夜要員、放射線作業従事者、アスベスト取扱者。

1973/10:長女*15誕生。

1976/04:鼠径ヘルニア手術*16

1977/04:主務。

1977/09:長男誕生*17

1978/03:動力炉・核燃料開発事業団に在職出向、本社燃料グループで常陽MarkII炉心の照射装置ともんじゅの燃料集合体の開発を担当。

1979/04:米国出張。

1980/04:出向解除、原子力技術研究所に配属。

1983/10:磯子エンジニアリングセンター駐在。

1986/03:英国、フランス、ドイツ、イタリア出張。

1986/04:主研(主任研究員)。

1990/04:本社技術企画部。

1992/04:原子力技術研究所原子力管理担当。

1993/04:原子力管理担当部長。

1994/04:原子力材料グループ。主幹。

1995/04:横浜事業所駐在。

1996/04:本社企画室原子力広報担当部長、アイテル技術サービス*18兼務。

1997/11:原子力文化振興財団主催原子力広報調査団(フランス、ドイツ、ベルギー)団員。

1999/11:東芝退職。

1999/12:アイテル技術サービス入社、東芝原子力企画室原子力広報担当部長兼務。

2000/02:コバケンの第九を歌う会(市川市文化会館)に参加。

2005/03:東芝定年退職。

2005/04:原子力文化振興財団入社、未来科学技術情報館技術相談員。

2007/12:未来科学技術情報館の閉館に伴い原子力文化振興財団退職。

2021/11:ステージIVの甲状腺扁平上皮がんと診断され、療養生活に入る。

2022/05/13:自宅にて家族に看取られ逝去(77歳)。

2022/05/18-19:通夜・告別式ののち荼毘に付される。戒名は叡明院峻岳哲瞭居士。墓所市川市営霊園。

*1:当時はポスドクの概念がなく、常勤の助教(助手)の職に就けなければ無給の研究員に甘んじる以外の選択肢がなかった

*2:その理由はついに父から聞きそびれました

*3:研究者を辞めた時のこと、そしてその後のこと - 渋谷駅前で働くデータサイエンティストのブログ

*4:j-platpatで「尾崎哲 東芝」で検索して1997年7月以前を参照しています

*5:パンチカード式のコンピューターぐらいしかなかった時代にはこれは物凄い話なのです

*6:2回目のヨーロッパ出張の時の写真では現地での会議中に居眠りしている様子を撮られています(笑)

*7:「乗っている飛行機が落ちて一度に全員死んだらどうするんだ」が口癖でした。なお例外として、一部遠隔地の国内出張と北海道の親戚が危篤になった時は飛行機に乗っています

*8:生存期間中央値が9ヶ月と膵臓がん並みに短い

*9:中心静脈に通じるカテーテルを常置してそこから栄養点滴を行う

*10:息子から見て祖父に当たる

*11:息子から見て祖母に当たる

*12:息子からは叔父・叔母に当たる

*13:浅野キャンパス

*14:向坊隆(1917〜2002)、のちに東大総長(1977〜81)。なお余談ながらid:TJOの名は向坊先生から父が勝手に頂戴したもので、父は時々先生に息子の話をお伝えしていたようです

*15:息子から見て姉

*16:2020年12月にも反対側を手術している

*17:id:TJOのこと

*18:東芝のOB会社

回想裏話(3)

大学時代


東大には一浪して入れた。戸山高校では、その後に大学の教授や総長になるような連中に囲まれていた。もともとエンジニア志望だったので東工大を狙っていたが、何を間違ったか模擬試験で2番という結果を見て、東大もありかなと思うようになった。クラスメートからは、番狂わせの腹いせか、今更志望校は変えないほうがいいよという忠告もあったが、一浪なら東大に入れそうだという期待は持てた。


現実はそう甘くはなく、やはり時間切れで現役合格とはならなかった。一次試験でも点数は伸ばせず、二次試験の数学は散々だった。国立二期校は横浜国大を受験したが、ここは東大以上の難関でまったく歯が立たなかった。早々に駿台予備校を受験して、理系昼間部に百番台で入れた。席順が成績順なので、二番目のクラス。それでも二学期には上のクラスに上がれた。午前中は予備校、午後は家で勉強の毎日。当時流行っていた「傾向と対策」を三回繰り返すことを実践した。人間どこかで死ぬほど努力出来るかどうかで人生が決まるのではないだろうか。


恥ずかしながら、エンジニア志望と言いながら、できたのは化学だけで数学と物理はできなかった。理一に合格するには数学は五問中三問は正解する必要があると考えて、実際の試験では二問はほぼ捨てた。逆に言えば、国語と人文地理、世界史で点数を稼いだようなものだ。まあ、何にでも作戦は必要と思う。合格を一番喜んだのは父で、早速角帽を買ってきて被せてはご満悦だった。父の受験失敗の無念さを晴らしたようにも思う。すでに角帽を被る学生は少なくなっていたので、被るのは恥ずかしくて実際には入学式でしか被っていない。


サークルは混声合唱団に入った。一番金のかからないのはコーラスかな思ったから。一年間は真面目に活動し、暮れの定期演奏会では、ピアノ伴奏ながらベートーベンの第九合唱付きを暗譜で披露した。その後も第九を歌う機会が何度もあり、市川市文化会館小林研一郎指揮ハンガリー交響楽団の「第九を歌う会」では、娘婿と共にステージで熱唱した、いい思い出がある。しかし、二年生になって進学振り分けが気になって、コーラスは辞めてしまった。その甲斐があってか、進学振り分けの成績は、3000人中1000番前半だった。これならどこにでも進学できると考えたが、まずは工業化学、航空、などと考えていたときに、合唱団仲間が、これからは原子力だと言うのを聞いて、それも夢があるなとも思った。当時原子力工学科はできたばかりで、就職先も限られていた。牛に引かれてのような選択ではあったが、今考えると一番自分に合っていたように思う。あらゆる分野を学習するので、大変おもしろい。工学部で医学系の講座があるのも珍しい。


相変わらず物理はダメで、量子力学や相対論になると歯が立たない。もともと理論派ではなく実験派なので、大学院は化学系を考えていた。各講座からは勧誘があって、結局、原子炉材料学を選んだ。教授は向坊隆先生、助教授が菅野昌義先生だった。原子炉材料学と言っても対象は核燃料で、ウランやトリウムの研究をしていた。研究室では一年先輩の下請けから始まる。決まったテーマは、「トリウム化合物の製造と物性」。なぜ、トリウムだったかと言うと、まだ、核燃料の本命が決まってなくて、あらゆるウラン化合物に手を染めていた中で、ウランがダメでもトリウムがあるという考えで、トリウムも対象になっていた。トリウムは核燃料ではなくて、核原料物質。トリウムが中性子を吸収してウランに代わり、そのウランが核燃料となる仕組み。黒鉛炉でも可能なので実現性は高いと思われていた。トリウムの埋蔵量はウラン以上に多いことも魅力だった。向坊先生の思い入れもあったと思う。


原子力工学科の定員は30数名。ワンクラスなので、密着度も高くて誰とでも親密になれるという、自分にとって気楽な環境だった。大学院になると、研究室での生活が中心となる。各学年二人ずつなので、博士課程まで入れても院生はたかだか12名だが、実際は半分の6名だった。しかし、卒論生や他大学からの卒論生もいて、毎年結構賑やかだった。野球の1チームは作れたので、よく草野球をやった。皆下手なので気後れすることもない。研究室同士の定期戦まであって、野球の後は飲み会で盛り上がった。


野球だけではない。夏は湿度が高くて実験ができない。夏は実験装置を作ったり、プールに泳ぎに行ったり、夜な夜な酒盛りをしたりの野放図な研究室だった。自分にとって初めての濃密な世界だったと思う。それでも、博士課程に進学し、学位を取ることができた。先生方や仲間に感謝したい。研究室仲間との付き合いは、今だに続いている。


就職では菅野先生のお世話になった。まだ、就職先が限られている状況で、当時は、原子力研究所、動力炉や核燃料開発の公団、核燃料会社、大手のメーカーくらいしかなかった。原子力工学科は新しい学科なので、諸先輩がいる中で大学に残るという選択肢はなかった。菅野先生に東芝を勧められて、総合研究所の中にあった原子力研究所の所長面接を受けた。実は東芝とはその前に、工場実習と称する必修の単位で、夏休みに東芝の核燃料施設でインターンを行っていて、なじみもあった。東芝を選んだのには他にも理由があって、前年に結婚していて、遠くには行けない事情も影響した。


所長面接は形式なので、来るかと言われたときに即座に受諾すべきだったが、何を思ったか、家内と相談して決めますと答えてしまった。何となく、一存ではと思ったのだろう。翌日、すぐに受諾の電話を入れて就職は決まったが、後々、研究所では「家内と相談して」が笑い話になったと聞いた。よほど珍しかったのだろう。研究所は川崎市の浮島地区にあって、通勤には片道1時間15分くらい掛かったが、当時は、駅から15分程度のところに住んでいたので、それほど大変ではなかったが、子供の成長に連れて家が駅から遠くなってしまったので、通勤時間は長くなる一方だった。


会社時代


研究テーマについてはとくにこだわりはなかったので、何でも引き受けた。配属先は加速器応用技術開発と金属材料のナトリウム腐食が二大テーマだった。前者も後者も徹夜の実験がある。新人は労組に入っていないので、徹夜要員にはよく駆り出された。主に取り組んだのは、加速器から材料中に注入されたイオン飛跡のモンテカルロ計算で、まだ、能力の低い中型コンピューターで毎日のように計算を繰り返した。計算機科学の黎明期だったが、計算機の能力が伴わなくて大した成果は挙げられなかった。


実は、東芝では博士には社宅を提供することになっていたが、当時は川崎公害の真っただ中で、何カ所も案内されたが環境が悪いのですべて断ってしまった。古い社宅で間取りが狭く、トイレや風呂も貧弱だったせいもある。結局、遠距離通勤を甘受することになった。入社時には五人いた博士も、次々と大学に戻るなどして東芝に残ったのは二人だけだった。まあ、企業の研究所では博士の使い道というのも難しかったのだろう。なのになぜ残ったかと聞かれると、答えに詰まるが、とくにやりたいテーマがなかったということだと思う。どのテーマでもそれなりに興味が持て、成果も出せたと思っている。生来、ダボハゼなだろうが、要するに器用貧乏。


係長クラスになった年に、動力炉・核燃料開発事業団に出向を命じられた。勤務先は虎ノ門の本社で、燃料材料のプロジクトを担当した。これも良い経験になった。担当したプロジクトは、もんじゅ燃料集合体開発と常陽第二炉心の照射装置開発。前者の関係先は東海事業所、後者は大洗工学センターで、毎週のように東海や大洗に出張した。一日のうちに両方行くこともあった。なぜか、大洗雨男でいくたびに雨に祟られた。一度などは、大洗では雨にあったが、その後東海に移動すると晴れたりして、大洗には嫌われているのかなとも思ったりした。ただ、地理的に大洗では雨でも水戸では降っていないことも多く、海岸特有の気象なのかも知れない。プロジェクトリーダーの特典で、燃料集合体の流動解析など専門外の論文にも何報か名前を連ねている。三年で出向解除になったが、この間の蓄財で家が買えるようになったのは役得だった。


研究所には戻ったが、係長クラスから課長クラスに昇進して、管理職が仕事になった。研究所業務から離れたうえに、組織も変わって居場所がない思いをしていた最中、本社技術企画部に二年間の転籍を命じられた。業務は技術者教育で、係長クラスから幹部クラスまで対象なる。トレーニングセンターが仕事場になって、教材や会場の準備から講師役まで勤めることになった。人前で話すのは苦手というか、気後れがするタイプだったが、否応なしに矯正されたように思う。やはり、必要なのは十分な準備であるが、原稿を作って話すのはまったく不向きで、原稿通りに話したことはない。学校の先生にならなかったのも、同じ話しを二度、三度と繰り返すことができなかったという理由による。一回で気に入る原稿などなく、常にもっとよくしたいという意識が強いのだと思う。研修の後は必ず懇親会で盛り上がり、我々スタッフは打ち上げ後も、残飯整理と称して飲みつづけたのも楽しい思い出となっている。


研究所には戻ったが、所長補佐が仕事になって、その後は総務部長職を一年間経験した。防災訓練の指揮を取るなど、めったにない体験ができたが、やはり馴染まないポジションだった。結局、一年で首になり研究業務に戻ったが、本流ではないのでテーマが見つからない。その中で、当時、謎とされた現象があって、その解明を命じられた。軽水炉のチャンネルの影という現象だったが、簡単そうなのに簡単には説明ができず、機構の究明が求められていた。あるとき閃いて、炉内での照射環境が酸化皮膜に電位差を惹起しているのではないかとの仮説を立てた。得意な計算シミュレーションでうまく説明できたので、学会誌に投稿し、査読にもパスして掲載の運びとなった。査読者も理解できたかどうか疑わしいが、結局、3報を出して一時は学会賞の候補にもノミネートされたが、実用性が低いとして受賞には至らなかった。これらが最後の投稿論文だった。


役職定年間近に、原子力広報担当部長を命じられ、研究とは縁がなくなった。人と付き合いたくないから選んだ研究者の道だったのに、180度の転向を余儀なくされたが、本社での経験などを経て、気後れはしなかった。原子力広報とは、メーカーとしての立場から、電力や他の同業者とともに原子力発電を推進する活動で、主に工場や研究所の見学や発電所の見学を行っていたほか、パンフレットやノベルティを作ったり、見学用の展示模型を作ったり、社内向けのセミナーを企画したりするのが、主な業務だった。そのほかに、業界団体や電力業界あるいは各地にある原子力懇談会との付き合いもあった。人事権はなかったが、予算は確保されていて、かなり好き勝手にやらせてもらった。実は、OB会社も兼務することになったので、OBとも付き合ってカラオケに行ったり飲み歩いたり、あるいは研修旅行に参加したりして、行動の幅がかなり拡大した印象がある。


役職定年になって、OB会社の社員の身分でありながら、東芝原子力広報担当部長を兼務した。OB会社の仕事は営業で、電力を中心に、展示模型やPRビデオの制作を売り込んだが、入札ではほとんど負け、取れたのはごくわずかだった。それでも、PRビデオの制作や、模型製作を受注して、儲かったかどうかは疑わしいが、社業にはそこそこ貢献した。ビデオや模型は外注なので、スタッフに依るところがきわめて大きい。つくづく最高の仲間に助けられて、気に入った仕事ができたと自負している。


これらの仕事がその後の再就職に繋がったのだから、何が幸いなのか分からない。経験の連鎖が結果を招くということと思う。何にでも前向きにチャレンジすることの大切さを強調したい。


(※id:TJOid:apgmmanから受領したWord原稿を元に再構成、代理投稿したものです)

未来を担う世代に

宇宙と死生観


我々は地球という環境の中にいる。もっと広げれば宇宙という環境の中にいる。我々は地球から生まれ、地球によって育った。我々の身体は原子でできている。その原子はどこから来たかというと、まぎれもなく地球から来たものだ。つまり、我々は地球の子なのだ。地球はどこから来たかと言えば、遠い昔に宇宙で輝いていた星が死んで、宇宙に散らばった塵が集まってできている。星の誕生と死は、幾度となく繰り返されて、今に至っている。


宇宙の始まりはビッグバンだった。何もない空間から突然、エネルギーが湧き出た。最初にあったのは、光(光子)だけ。言い換えれば、高エネルギーの放射線だけの宇宙だった。宇宙の膨張とともに温度が下がり、素粒子ができ、軽い原子ができ、星が誕生した。輝く星の中では、水素を燃料とする核融合反応が起こってヘリウムができ、水素が燃え尽きるとヘリウムが燃え出し、それを繰り返して最後は鉄に至る。もはや、星の重さを支えるだけの内部のエネルギー源が無くなると、星は死ぬ。星の最後はいろいろなタイプがあるが、もっとも派手なのが超新星爆発超新星爆発の中で、鉄よりも重い元素が作られ、塵となって宇宙にばらまかれる。その塵が集まって、また星が誕生する。宇宙でも、死と生が絶え間なく繰り返されている。輪廻という言葉があるが、宇宙の深淵もそこにある。


我々もまた、地球から生まれ、地球に帰る。人間だけでなくあらゆる地球上の生き物も同じ。これも輪廻。たとえ話をしよう。我々の身体は無数の細胞でできているが、共通の要素は水である。地球上の水は有限で、地球を循環している。我々もまた、水を摂取しては排泄している。ほぼ同じ量の水を身体は維持しているが、その水は常時入れ替わっている。分子レベルで考えれば、誰かが摂取した水の分子は、誰かが排泄した水の分子である。誰かは人間とも限らない。動物や植物、あるいは鉱物の可能性もある。水は体を通り抜けるのではなく、身体を構成した後に排泄される。ということは、誰かの身体のかつての一部が、我々の今の身体の一部になっているとも言える。そう考えれば、過去の偉人とも、ご先祖様とも、近所の隣人とも、あるいは世界中の人々とも、水を介してつながっていると言える。地球の水は、宇宙から来たらしい。宇宙とのつながり考えると、壮大な気分になる。


人類は、これまで科学技術で発展してきたと言われるが、科学技術に止まらず、あらゆる知識や文化、制度の蓄積で今日に至っている。その原動力は、人類の知恵と言うべきだろう。解決すべき課題を見つけ、普段の努力でそれらを克服してきた。障害があれば乗り越えたいという意欲が、それを支えてきた。意欲とは欲に他ならない。制御系では、行き過ぎを修正するフィードバックという機能が備わっているのが普通だ。しかし、人間にはフィードフォワードという厄介な機能がある。いわば欲の源だ。興奮して自分では制止できなくなるのが、それだ。ときには役に立つが、ときには問題を起こす。このフィードフォワードが人類の発展に寄与してきた。人類は飢えからの解放と、生活の豊かさを求めて発展してきた。大多数が農業従事者だった時代から、都市を中心に工業へ、商業へと分化を遂げてきた。食から生活へと目標が変化してきた。


昭和世代は、戦後の食糧難を克服し、モノづくり文化を推進してモノを使用することで生活を豊かにする方向に邁進してきた。衣食住が満たされてくると、余暇の利用や労働の軽減が新たな目標に加わり、娯楽産業やサービス業が隆盛を極めるに至っている。人間の欲は止めなく、十分豊かになった生活にも飽き足らなくなっている。モノも食も満ち足りた時代は、これからどこに向かうのだろう。格差社会とも言われる今日、持てる者が娯楽に明け暮れたあげくに滅亡した、かつてのギリシャの再現すら頭によぎる。皆が共通の夢を持ち、皆でその夢を実現していった時代は終わった。昭和世代は、終戦を機として、皆が同じスタートラインからスタートし、同じように豊かな中産階級になった世代と言える。高度成長後の停滞の時期を境にして、徐々に格差が広がった結果が今日の格差社会なのだろう。


世の中には解決すべき様々な課題を生じている。地球温暖化や先進国と発展途上国との関係もそう。これだけ課題が多ければ、やるべきことはいくらでもある。課題を解決するのが人類に備わった能力だとすれば、解決できないことはない。


これからの世代へ


生きて何をするか。子どもは、保育園や幼稚園、小学校、中学校、高等学校と学ぶことから始める。学びは、将来、何をするにも絶対に必要なプロセスだ。何故なら、人類がこれまでに獲得してきた膨大な知恵を授かることができる。自分で考えることができるようになるまでは、どうしても模倣が必要だ。「守破離」という言葉もある。自分で考えることの重要さは言うまでもないが、それは簡単にはできない。赤ん坊は大人を真似て育つ。学校はまさにその延長にある。人類の知恵も膨大になり、それもますます増えていくが、要らなくなった知恵もある。片方では捨てながら、片方では拾っていく、それが営々と続く。ゴールをどこに置くかによって、どの段階まで上がればよいかが決まる。


どの段階まで上がろうとするかは、個々人が自分で決めるものだ。必ずしも能力で決まるものでもない。そもそも、個人の能力など、簡単に判るものではない。だから、未熟な段階、早い段階で自分の能力を見限ってしまうのは避けたい。何かの能力が足りないと思ったら、足せばよいのだから。それは簡単ではないかもしれないが、不可能ではない。そこに必要なのは、やはり意思の力だろう。最初から諦めてはいけない。継続は力なりという。続ける気力と努力が必要だ。


異業種交流のセミナーで、講師に「気力を養うにはどうしたらよいか」と尋ねたら、その答えは、「歩くことです」だった。遠くまで歩くには、気力が必要だ。あながち、間違った答えではない。山登りに例えてみよう。ゴールは山の頂上。途中にはつらい山登りがある。起伏があるかもしれない。転落するかもしれない。風雨に襲われるかもしれない。しかし、ひたすら歩を進めれば、いつかは必ず頂上に立てる。努力を惜しまないこと。決してあきらめないこと。それが肝要だ。同じ仲間がいれば心強いかもしれない。が、頼りすぎてもいけない。仲間はときとしてライバルにもなりうる。基本は、やはり自分自身。自分一人でもできれば、これほど心強いものはない。自分を信じること。


別の側面から見てみよう。学校教育の目的は、一人前の大人を作ることに尽きる。自分で考えて判断できること、それが目標だ。ただ、実現は難しい。主観とは、一本やりだ。主観を押さえ、客観的に、俯瞰的に、広く、ときには精緻に見る態度が必要だ。と同時に、先を読むのも忘れてはいけない。短絡的にものごとを決めてはいけない。とくに昨今、刹那的、直感的、短絡的な反応が世の中には多いように思う。ソーシャルメディアがそれを助長しているような気もする。昔は手紙、少し前はメール、今はSNS。考える時間も、伝える内容もどんどん短くなってきている。それが心配だ。使うのには便利だが、それに振り回されないようしたい。


できるだけ早くゴールのイメージを持つようにしたい。少なくとも、中学生の間に、将来の目標を決めておきたい。漠然とでもいい。そうすれば、その目標達成のために何が必要か、今、何が欠けているかに気付くことができる。目標も定めずに漫然と過ごすのは怠惰だ。先に行ってからでも修正はできるが、先に行くほど修正に手間も時間もかかる。多様化の時代、無限の選択肢がある。解決すべき課題も多い。いくらでもやりたいことはあるはずだ。誰もやっていないことに手を出すのもいいだろう。自分で考え抜いて、判断すればいい。ただ、世のため、人のために役に立つという視点を忘れないでほしい。皆、地球の子なのだから。


(※id:TJOid:apgmmanから受領したWord原稿を元に再構成、代理投稿したものです)

繰り言

発展なのか


発展という言葉は、内在的に肯定的な価値観を含んでいる。発展と言っても、長い目で見たときには実は退化だったということもある。軍事技術などはその例ではないだろうか。紛争は、人類が耕作を始め、土地の縄張り争いから始まった、と言われている。専制的政治には紛争が付き物だ。個人レベルでケンカをするのと同様に、国レベルで戦争をする。しかし、必ずしも専制君主や専権的指導者が主導しているとは限らない。歴史的に見ると、人民の側がそれを支持していたことが多い。人民の熱狂を、陰に陽に指導者は利用する。人民が望まないことは指導者にもできない。情報統制、プロパガンダフェイクニュースなどの、あらゆる手段で人民をその気にさせる。その潮流を、人民の側に立つべき、マスメディアが煽っていたことも歴史が証明している。


ともあれ、人類は科学技術や制度、政策によって発展を遂げた。しかし、これまでの成長一本やりの思想では、これからは立ち行かない。例えば、高度成長は公害を生み出した。公害は克服されたが、これからの課題の解決には、科学技術や制度、政策の生み出す負の側面を先読みすることが必要と考える。世の中の潮流は、往々にして問題点があるのを軽視する、あるいは意図的に無視する。例えば、モノを作るには、資源とエネルギーが必要だが、必ずその過程で、廃棄物や無駄が発生する。あるいは、製造の過程で有害な副産物ができる可能性もある。公害も後で問題になったように、最初から分かるとは限らないが、可能な限りすべてを想定しておく必要がある。


原子力開発は、最初から自然災害や廃棄物のことを考えてシステムを設計した。それでも事故は起こった。人間は都合の悪いことを考えたくない性質があり、都合よく考えたがる。判断は難しいかもしれないが、現状の知見では想定外でも、その兆候があると考えられれば、最低限の対策は考えておく必要があると思う。


世の中の潮流をマスメディアが左右することも多い。売れなければという、商業主義は仕方ないにしても、物ごとの良い面も悪い面も余さず伝えてほしい。また、それだけの矜持がなければ、マスメディアはただのアジテーターに堕落する。これまでも多くの例を見てきた。当然、マスメディアだけに罪を負わせるわけにはいかない。昨今は、ソーシャルメディアの影響も大きい。いずれにしても、受け取る側も賢く、吟味して受け取る必要がある。そのためにも、自分で考える教育は必要だ。フェイクニュースも騒がれる昨今は、余程の眼力がないと見分けがつかない。誰もがもっともっと賢くならないといけない。知識だけではなく、選別眼という総合的な判断体系を磨いておく必要がある。


人はそれぞれ考え方が違う。だから、お互いを摺り合わせるために、会話や議論が必要になる。相手への思いやりは、そのプロセスで生まれる。議論は優劣を決めるためのものではない。相手の考え方を知り、こちらの考え方を伝えるプロセスでもある。日本人の特性として、対立を避けたがる傾向があると言われる。議論は、往々にして対立を生む。対立は勝ち負けにつながりやすいが、妥協点を探るのも議論の役目だ。多数が正しいという保証はなく、お互いに納得のいくまで議論して、落としどころを探る必要がある。


発展と言えば、昨今は脱炭素社会実現に向けて、自動車のEV化や太陽光発電の加速が取りざたされているが、製造コストや性能ばかりが強調されているような気がする。リチウムバッテリーや太陽光パネルの資源獲得や製造から廃棄までの問題点を、エネルギー確保も含めて、つぶさに解説した記事は見たことがない。勉強が足りないのだろうかと疑ってしまう。国家間の思惑や、業界の期待は分かるが、世の中の潮流を煽るばかりでなく、冷静に物事を見つめることが肝要と思う。何事にも、良い面と悪い面がある。


SDG’sも流行のように見えるが、地球が閉鎖系であることを強調していることは間違いない。しかし、SDG’sは持続可能な成長を掲げていて、まだ成長を夢見ている。先進国と発展途上国の問題も、格差がある間は解決したことにはならない。閉鎖系の中で、全体が発展することが困難だとすれば、これはゼロサム問題になる。先進国が生活レベルを下げて、発展途上国の生活レベルを上げるしかない。SDG’sをビジネスチャンスと見て先進国が主導しているように見えるが、先進国に生活レベルを下げる覚悟はあるのだろうか。地球が資源とエネルギー源で破綻すれば、自然が持つ年間の再生産能力の範囲で、人も減り、自給自足の生活に戻るしかない。


皆さん、頑張ってください。


(※id:TJOid:apgmmanから受領したWord原稿を元に再構成、代理投稿したものです)

回想

性格


生まれは北海道。札幌市の桑園というところ。父は五男二女の長男で、大家族で同居していた。終戦前はどこも同じだったらしい。北海道には曽祖父が祖父を連れて移住してきた。祖父は生活が苦しいために職業軍人の道を選び、軍馬を扱う輜重部隊として満州事変にも出兵している。その後は、大学で獣医学の講師をしていた。


父は大学受験に失敗し、高等商業に在学中に召集されてサハリンの国境警備に就き一旦復員したが、その後、再度、招集されて房総で首都防衛に就いて、そこで終戦を迎えている。父の兄弟はまだ若く、初孫というか初甥をおもちゃにしていたらしい。3歳ころにはドイツ語の「菩提樹」を教え込まれ、ちゃぶ台に載って歌っていたという話はよく聞かされた。


さいころから何にでも興味を持ち、古い百科事典が愛読書だった。分からないことがあると、「何で?」と聞いては周りを悩ませていたようだ。この習性は今でも変わらない。頬杖をついて百科事典を読むので、両肘にタコができ、畳屋の肘のようになっていたくらい。家にいるのが好きで、外で友達と遊んだ記憶はほとんどない。したがって、運動はからきしダメだった。父は、機械体操が得意で、スポーツマンタイプだったらしいが、脊髄カリエスを罹って、片方の肺の半分ともう片方の肺の1/3を切除する手術を受けている。その後は、さすがに運動はできなくなっていて、結局、父から運動を教わることは無かった。


大家族の中で育ったが、弟や妹が生まれてからは、もっぱら祖父母と一緒に寝起きして、実際はお爺ちゃん子だった。父が入院したころの結核は不治の病で、子供心にも不安を感じたのか、一人ぼっちになるかもしれないと思ったことがある。自分だけでも生きているようにという思いは、今に通じるものがある。何でも自分でやりたがるのは、悪い癖かもしれない。人に任せられない性格では、世の中では大成しない。


まだ、幼いころは市電に乗るときにも、満員電車で大人に埋もれ、恐怖を感じて乗れず、乗らないと言い張って家族を困らせた記憶がある。デパートに行っても人混みが怖くて、母に掴まっていた記憶もある。対人恐怖というか、その記憶は高校生のころまで残っている。多分、その性格なのだろう、小学校に入学した翌日のことをよく覚えている。母は父の看病があって、小学校の入学式は祖母に連れて行ってもらった。翌日、見知らぬ子供たちの中で、不安だったのだろうか。何を思ったのか、突然、教室の窓を開けて窓枠に載った記憶がある。学校から呼ばれ、祖母が来て連れ帰ったのを覚えている。特異な行動は他には記憶にないので、その後は収まったらしい。


桑園で小学校に通ったのは1年間だけで、その後は父の会社の社宅に移った。北海道大学が近く、父が大学病院に入院していたこともあって、北大にはよく遊びに行き、自分の庭のようなものだった。あるときは、友達と一緒にポプラ並木を進んで農場の牧舎まで行き、勝手に牧舎に入ってひどく怒られたこともあった。大学病院は野戦病院のようなありさまで、患者の身の回りの世話は家族が泊まり込みでするか、付き添いを頼んでいた。母は幼児がいたので付き添いを頼んでいた。父の会社の社長が渡米して、当時の最新医薬を従業員のために買い求め、治療に役立てていた。そのおかげで命拾いをしたと父から何度も聞かされた。


確か、小学3年生のとき、社会科の授業だったか、先生が「男と女とどちらが偉いか」と皆に尋ねたことがあった。「偉いか」だったかははっきり覚えていないが、そういう趣旨の問いかけだった。当然、男の子は「男」と言い、女の子は「女」と答える。その中で、「どっちでもない。両方だ。」と発言したところ、男の子からは裏切り者扱いされ、女の子からは変な人と思われたらしい。妥当な発言だったので、先生がその場はうまく収めてくれたが、自分が正しいと思うことは曲げずに主張する態度はこの頃からあったらしい。


話しはズレるが、この独善的とも言える性格が現れて周りを悩ませてきたのが、手書き文字。誰が書いたか、一目で判るとも言われた。下手かと言われると反論する。下手な字というのは、同じ字が同じに書けないのを言うと思っている。同じ字は同じに書いているので、特徴を掴めばむしろ判りやすい。〇〇〇フォントと言われた。他人の字を下手だという人は、自分が下手だから言うのだと勘ぐっている。言い訳がないでもないのは、たまたま、学校で習字を学ばなかった世代だったことがあるかもしれない。最近は、トメ、ハネ、ハライを過度に矯正する先生もいるらしいが、トメ、ハネ、ハライで、別の字になることはないと考えれば意味のないことと思う。また、一画は一画なので、カドがなく丸く書いてしまうのも〇〇〇フォントの特徴となっている。父も母も書道をやっていたので、別に手筋が悪いとは思えないが、これも性分なのだろう。その後の、ワープロやパソコンの普及によって、手書きがプリント出力に取って代わり、周りを困らせることはなくなった。ワープロは、東芝が出したポータブルワープロのルポを今でも残してあって、インクリボンも取説も整っている。


自然の中で


小学校高学年から中学2年生までは、日高郡静内町に住んだ。札幌からは汽車で2時間ほど。雄大日高山脈がそびえ、静内川が流れる牧歌的な町。父が勤務していた亜麻工場が静内川の河川敷にあって、社宅もその一角にあった。当時は北海道一円で亜麻が栽培されていて、米がとれないので換金作物としての価値があった。戦前から亜麻製品は南方用の軍服として需要があり、繊維業でも大手だった。亜麻工場では、亜麻を水に漬けておき、乾燥させてからムーラン(羽根車)で茎を落として繊維だけを取り出す。水に漬けた亜麻は悪臭を放つので、立地は限られていた。まわりは、アイヌ部落で、まだ、刺青をして、アツシを着る年寄りも多かった。河川敷には牧場もあって、馬や綿羊が放牧されていた。河川敷から出ると広い農地が広がっていて、いかにも北海道的な風景だった。別の言い方をすると、他には何もない。近くには店もなかった。町の中心部までは2kmほどなのでそれほど遠くはないが、未舗装の道路をトラックの土ぼこりを浴びながら歩くのは結構大変だった。バスはあるが、本数が少ないので歩いた方が断然早い。札幌という都会育ちからすると、静内は自然豊かで新鮮だった。


静内であったできごとで、印象に残っているのは、台風の増水で静内川の堤防が決壊し、工場が一面水浸しとなって、夜、膝まで水につかりながら唯一の避難場所であるボイラー室のボイラーの上に避難したこと。昼間になると、氾濫した川を風倒木が流れ、蛇がそれに絡まっていたこと、川近くの孵化場の住人がヘリコプターで救出されるのを見たことなど、自然の驚異を身にしみて感じた。その後片付けは大変だった。まだ、家具の少ない時代で、机とタンスくらいしかない。タンスはダメになったが、今ならば家具も多いので被害は甚大になる。もう一つは、オーロラを見たこと。そのときは、北の空が赤く染まるのを見て、皆、山火事かと思ったが、後で、それが北海道で見られた珍しいオーロラだったことが分かった。北天が薄い赤で染まるのは神秘的で、これも自然の驚異と感じた次第。


転校生は何かとちょっかいを出されるのが常である。とくに都会からくると、そううだ。すぐにちょっかいを出してくる同級生が隣にいて、よくケンカした。力では負けるが、強い味方がいていつも形成が不利になると助けてもらった。あるとき、授業中に我慢の限界を超え、取っ組み合いのケンカになったことがある。それ以来、二人が並んで座ることはなくなった。


小学4年生から卒業までは、担任は持ち上がりだった。引っ込み思案で、手も上げないのを見て、先生も何とかしたと思ったのだろう。当てられれば、正解はする。学級委員にさせられたこともあったが、統率力はおろか、発言力が全くないのですぐにお役御免になった。ただ、一度だけ、理科の授業でモーターを作ったことがある。そのときは、先生の助手としてコイルのまき直しや、不具合の修正などを手伝って、すっかり面目を施した。将来はエンジニアにというのは、当時の流行でもあったが、口下手で人見知りの性格から、人と付き合うことのない研究者になりたいと思うようになったのはこの頃からかもしれない。


中学校でも本領を発揮している。元々、勉強の反復練習(ドリル)が嫌いで、何で分かっているのにいちいち回答しないといけないのか、という思いがあった。中学1年生の頃、宿題を全く出さずにいた時期があった。担任の先生に呼ばれて、怒られるかと思ったが、そうではなく、なぜ宿題をやってこないのかと尋ねられた。分かり切っているから、と答えたかどうかは記憶にないが、結局は、先生に宿題の意義をこんこんと説教されて、その後は渋々従ったように覚えている。


同級生に神社の神主の息子がいた。学級委員をやらせても、弁舌さわやかで、統率力にも優れていたが、勉強の方はからきしダメだった。お互いをうらやましがったが、そんなものかもしれない。スーパーマンは滅多にいない。


眠れるライオン


このような性格でも、世の中では過度に自己主張することも、その勇気もなく、どちらかというとその場の流れに任せていた。負けるが勝ちというか、ここで譲っても何とでもなるという自信だけはあった。勝負事はしない、ケンカもしない、これは祖父の教えだったような気がする。勝負事をしないのは、勝てないからもあるが、むしろ勝つことの喜びがなく、時間の無駄とさえ思っていた。他で勝てばいいのだ。


人間には、自分でも分からない潜在能力がある。体験しないとその能力には気付かない。できないと思って逃げ回っていると、せっかくの機会を失ってしまう。そういう意味では、強制された方が開花は早いような気がする。


最初の機会は、研究所から出て、本社で技術者教育を担当したことだろうと思う。教育の企画だけでなく、進行役やコーチング、ときには講師まで勤めなければならない。受講者も、それほど多くはないところで、経験を積んだ。当然、先輩たちの真似をして。そのうちに、100人相手でも動じることはなくなってきた。と同時に、準備をすることや、それに必要な勉強をすることの重要性も学んだ。20分のスピーチなら、きっかり20分で起承転結を述べる技術も身についてきた。元より、同じ話を2度繰り返すのは嫌いで、原稿は作るが、原稿をそのまま暗唱するようなことはできなかった。教師にならなかったのも、同じ話を繰り返せないないからだったと思う。


その後、研究所には戻ったが、研究職ではなく管理職。役職定年間近には、今度は原子力広報という広報担当のリーダーに回された。研究所ではもう居場所がなかった。広報というと、人と話をして、しかも、どちらかというと説得するのが勤め。本来の性格からすると、真逆の世界だった。原子力広報は、本社広報部とは違って、電力業界に協力しつつメーカーはメーカーの立場を理解してもらう趣旨で、実際の製品を見てもらうことが主眼だった。初めて見る誰もがその巨大さに驚いた。


原子力広報の仕事はというと、工場の見学者を前に事業の説明をする、現場を案内して回る、あるいは、原子力発電所に案内をすることもある。実際、バスをチャーターして、ツアーコンダクター役をやったこともある。ここでは、いかに参加者を楽しませるかという技術を学んだ。できるだけ、良い印象を持って帰ってもらいたいから。ノベルティーの重要性も含めて。

人事権はないが、こと原子力広報ではやりたい放題だった。同業他社ともその頃は和気あいあいで、楽しめた。それぞれの会社のカラーも透けて見えた。多くは、企画部門か営業部門なので、現場ではない。こちらは、全部を受け持って、自ら額に汗して働く立場なのが大いに違った。逆に言えば、その方がすべて自分でできて楽しかった。最近は、どこでも専業化が進んで、トータルで判断したり、細部の業務に疎かったりするケースが多いように思う。自分にできないことを他人に指示することは不可能と思う。こと、技術職に関しては。つくづく、役所と付き合ってその感じを強く持つようになった。少なくとも、相当勉強したうえで、現場に出ないとできないはずだ。


いつの間にか、100人を超す人の前でも、それがどんなに偉い人たちでも、臆することが無くなった。慣れもあるのだろうが、やはり、眠っていた潜在能力が目を覚ましたと思っている。誰にでもその可能性はある。やってみなければ分からないし、できないからと言って簡単にあきらめることも、しないでほしい。この歳になってみると、これまでの経験はすべて無駄ではなかったと感じている。できるだけ多くの経験を積むことが、その人の人生に必ず役に立つと信じて疑わない。成功体験ではなく、失敗体験の方が何倍も役に立っている。失敗すれば、誰でもその理由を考える。それが、次の飛躍の糧となるはずだ。失敗してもめげないこと。失敗は人生の肥やし。その人を一回り大きくする。


(※id:TJOid:apgmmanから受領したWord原稿を元に再構成、代理投稿したものです)

自然エネルギーってなんだ(2)

apgmman.hatenablog.com

自然エネルギーってなんだ(1)」の続きです。

太陽光発電とソーラー」


太陽エネルギーは、から、さまざまな形でのらしに役立ってきました。物がくのも、魚のや干しシイタケができるのも太陽から届く熱を利用しています。また、植物は、太陽の光を利用して成長します。


太陽エネルギーのいろいろを学んでみましょう。


地球温暖化対策として、今、太陽光発電が期待されています。家庭でも、屋根に太陽電池(光電池)を置いて自家発電をするようになりました。


照明のない昔の暮らしでは、人間は日の出とともに働き始め、夕暮れになると休みました。、電気は主に夜間の照明として利用されていましたが、現代では電気は、人間の活動に合わせて、動力や通信など、さまざまに活用されています。しかし、夜にも照明がある現代になっても、人間の活動は太陽の出ている日中が中心です。夜間の照明は別にして、人間の活動に合わせて太陽エネルギーを利用するのは当然と言えます。


また、光や熱は電気で作ることができます。白熱電球や、最近では発光ダイオード有機ELなど、いろいろな照明があります。
太陽光発電模型や、太陽エネルギーを利用して光るソーラーの模型を作って、太陽エネルギー利用のあれこれを体験してみましょう。
次の質問に答えてください。


太陽エネルギーとは
太陽エネルギーとは、(   )が生み出すエネルギーのことです。
(   )は、1500万度の中心で、水素原子4個から、(最終的に)ヘリウム原子1個ができる『反応』で輝いています。
(   )からは、(地球の大気外で太陽に正対する面で)面積1平方メートルあたり毎秒1.37kWのエネルギーが届いています。
(   )の表面の温度は約6000℃で、このエネルギーを主に光(赤外線、可視光線、線)として放出しています。
(   )のない夜間や、雨の日、りの日は地上に届く太陽エネルギーは少なくなります。
(   )の高度によって地表に届く太陽エネルギーは変化するので、晴天の日中でも朝とは少なく、が高い地域ほど少なくなり、季節によっても変化します。
太陽電池(光電池)が(   )に向かう角度によって発電量が変わり、正対する(垂直の)がもっとも発電量が多くなります。
太陽電池(光電池)の性能は光の(   )によって異なるため、多層化によって発電効率を大きくすることができます。


太陽エネルギーの利用
太陽エネルギーを利用する身近な例をあげてください。
 (                                     )
(人工の)光を利用する例をあげてください。
 (                                     )
太陽光発電は、(     )を使って発電します
太陽熱発電は、太陽の熱で水を蒸気に変えてタービンを回し、タービンにつながった(   )を回して発電します。


【解説】
1.太陽電池について:
太陽電池(光電池)は、シリコン半導体のタイプが多く利用されていて、実験用に市販されている太陽電池は、一般家庭で利用されている電力用の太陽電池と同じ多結晶型の太陽電池です。
太陽電池は、2種類の半導体(p型とn型)を接合して作られていて、光(主に赤外線から可視光線)が当ると、光のエネルギーで電子と(電子の)空孔を作り出すことによって電圧が生じ、光エネルギーが電気エネルギーに変換されます。この太陽電池が作る電気は直流です。

2.太陽エネルギーと太陽光について:
太陽は、太陽の中心核(約1500万度)で、水素から重水素、ヘリウム3を経て、ヘリウム4を作る核融合の連鎖反応で熱(エネルギー)を発生させています。この熱(エネルギー)は、数十万年をかけて放射層を経て対流層に到達し、太陽の表面から宇宙空間に、主に光などの電磁波として放出されます。太陽の表面の温度は約6000Kで、太陽の光は、高温の物体が光を放射する「黒体放射」という共通のメカニズムによるものです。
白熱電球の光も「黒体放射」によることから、原理的には太陽光と同じ(連続スペクトル)と言えますが、白熱電球のフィラメントの温度は約2500Kと、太陽表面の約6000Kよりも低いので、色の見え方(スペクトルの形)は異なります。なお、蛍光灯などの放電灯やLED電球の光は、太陽光や白熱電球のような連続スペクトルではありませんが、人間の目の特性を利用して、太陽光の見え方に近くなるように工夫されています。


地熱発電地熱発電模型」


地熱は、から、さまざまな形でのらしに役立ってきました。地熱発電のほかにも、温泉や温水を利用した温室などがあります。しかし、地熱はどこでも利用できるわけではありません。


地熱のいろいろを学んでみましょう。


地球温暖化対策として、今、地熱発電が期待されています。火山地帯では、地中から出る高温の蒸気や温水を利用して地熱発電が行われています。


日本は火山地帯にあるので、地熱を利用できる場所がたくさんあります。地中の温水を利用する温泉は、あちこちにあって、多くのが保養に利用しています。温水プールや熱帯・熱帯植物園などもありますね。


地熱発電模型を作って、熱利用のあれこれを体験してみましょう。


次の質問に答えてください。


地熱とは
地熱とは、(   )が内部で生み出すエネルギーのことです。
(   )の中心は、高温高圧で、主に鉄(とニッケル)からなる(固体の)合金でできていると言われています。
(   )は、中心部から順に、、マントル、で構成されていて、外は液体、マントルは固体ですが、極めてゆっくりですが、形を変えていく性質があります。
(   )は、の初期のけた状態を経て、冷えて固まってきましたが、初期に得た熱のほかに、岩石にまれる、ウランやトリウムなどの『放射性物質』から出る熱があって、地熱の元になっています。地球の中心部()の温度は約6000℃といわれ、太陽の表面と同じくらいの温度で光りいていますが、その外側には約2900kmもの厚さのマントルとがあるので、地球の表面付近は約15℃と低く保たれています。
(   )の表面では、平均して1平方メートル当り87mWのエネルギーが熱として放出されています。
火山地帯では、地下10km辺りまで1000℃近い高温の(    )がしていて、地下水に熱をえています。


地熱の利用
地熱を利用する身近な例をあげてください。
(                                      )
(人工の)熱をエネルギーとして利用する例をあげてください。
(                                      )
雪や氷などの冷たい熱も熱の利用です。自然の冷熱を利用する例をあげてください。
(                                      )
地熱発電は、マグマの熱で水を蒸気に変えてタービンを回し、タービンにつながった(    )を回して発電します。
熱エネルギーは、(   )に比例しますが、外に取り出せるエネルギーは、高温源と低温源の(   )差に比例します。


【解説】
1.ペルチェ素子について:
ペルチェ素子は、2種類の半導体(p型とn型)を交互に並べて作られていて、接合部は金属板です。全体は、ちょうど、p型とn型を直列に接続したような構造になっていて、(電気的には絶縁されながら)熱を伝える上面と下面があります。この上面と下面に温度差があると、熱のエネルギーで電子と(電子の)空孔を作り出す度合いに差ができることによって電圧が生じ、熱エネルギーが電気エネルギーに変換されます。このペルチェ素子が作る電気は直流です。
ペルチェ素子は、この逆に、電圧を加えると上面と下面に温度差ができるので、温・冷蔵庫やパソコンの冷却素子として利用されています。


2.地熱発電模型について:
地熱発電は、地熱で発生する高温の蒸気や温水を利用してタービン/発電機で発電するものですが、それを模型で実現するのは極めて困難です。そこで、地熱を熱利用の一つと捉え、比較的簡単に熱を電気に変えることができるペルチェ素子を応用しました。原理的には温度差発電ですが、熱利用についても学習ができます。


3.地熱エネルギーについて:
地球の内部構造は、地震波の伝わり方の違いから、中心部に半径約3470kmの核があり、その外側に厚さ約2900kmのマントルがあるとされています。マントルの上に乗る地殻の厚さは約50kmです。核は、鉄が主成分で、半径約1270kmの固体状の内核と、その外側にある厚さ約2200kmの液体状の外核でできており、平均温度は約6000℃とされています。マントルと地殻は固体ですが、マントルの上部(厚さ数百kmの部分)は、1年間に10cm程度の速さで変形しており、長い時間で見れば流動性があります。マントルの平均温度は約3500℃、地殻の平均温度は約1000℃といわれているので、地球の内部は暗黒ではなく、実は、光り輝く世界なのです。
一方、地殻表面の平均温度は約15℃なので、そのままでは利用しにくく、良質な熱エネルギー源とは言えません。一般に利用されている地熱エネルギーは、プレートの摩擦熱などによって溶けたマグマに起因するので、マグマが地表に到達して火山となったり、地下水を加熱して熱水や蒸気を生成したりするには、地域的な特殊性があります。


質問の回答


水力発電とスクリュー船」の回答と回答例
質問1.①から⑥は、水。質問2.①の例は、水力発電、水車小屋、潮力発電、波力発電、など、②の例は、洗濯機、ポンプ、噴水、など、③の例は、洗濯機、ポンプ、噴水、など、④は、発電機。


風力発電とハイドロプレーン」の回答と回答例
質問1.①から⑥は、空気、⑦は、380、⑧は、10。質問2.①の例は、風車、帆船、グライダー、など、②の例は、気圧が高いところから低いところに向かって空気が動くから、など、③の例は、扇風機、エアコン、換気扇、ドライヤー、など、④の例は、人工の風を作るには動力が必要だ、空気を押す板が必要だ、など、⑤の例は、凧揚げ、飛行機、など、⑥は、発電機。


太陽光発電とソーラー灯台(とうだい)」の回答と回答例
質問1.①から⑦は、太陽。質問2.①の回答例は、洗濯物干し、ふとん干し、干物、天日干し、など、②の回答例は、ろうそく、ランプ、白熱電球、蛍光灯、発光ダイオード、レーザー、など、③は、太陽電池(光電池)、④は、発電機。


地熱発電地熱発電模型」の回答と回答例
質問1.①から⑤は、地球、⑥は、マグマ。質問2.①の回答例は、地熱発電、温泉、温水プール、温室、など、②の回答例は、ゴミ焼却熱利用、廃熱利用、など、③の回答例は、温度差発電、食品貯蔵、など、④は、発電機、⑤は、温度。


小学校高学年向けの模擬授業でしたが、どうでしょうか。


(※id:TJOid:apgmmanから受領したWord原稿を元に再構成、代理投稿したものです:なお本記事は元の原稿に多く機種依存文字が含まれていたせいか、一部の文字に欠損があります。伏してご容赦ください)

自然エネルギーってなんだ(1)

自然エネルギーとしての、太陽光、太陽熱、水力、風力のエネルギー源はいずれも太陽であり、太陽の中で起こっている核融合反応という原子力がエネルギーの源泉である。地熱は、実は、多くの熱源が地球内部の放射性物質が出す熱で、原子力、正確に言えば崩壊熱がエネルギー源と言われている。結局、自然エネルギーはすべて原子力と言っても過言ではない。


原子力は自然あるいは宇宙に備わった原理を、人類の知恵が獲得し、世の中を豊かにするための科学技術として発達してきた。科学技術故に欠陥や限界もあるが、これも人類の知恵で乗り越えていきたいと切に思う。


自然エネルギー体験ランド」で教えたこと


情報館の閉館後、しばらくして「自然エネルギー体験ランド」という企画に元科学館員として加わったことがある。自然エネルギーについて子供たちに教えるという、一種の模擬小学校で、実際は子役を使ってスタジオで工作教室の撮影をし、その動画をYou Tubeにアップするというものだった。その先生役を任され、授業の流れから、工作の企画、試作、部材購入に合わせて、授業での工作の手順、テキストやホワイトボードの使い方に至るまで綿密に決めた。


自然エネルギーはやや古い言い方で、昨今は再生可能エネルギーの方が主流となっているが、大きな違いはない。ただ、再生可能エネルギー化石燃料に寄らないことを強調していて、何か政治的な臭いが感じられるのに対して、自然エネルギーの方は素直な感じがする。また、自然エネルギーは、太陽光、太陽熱、水力、風力、潮力・波力、地熱の範囲で、発生源が太陽と地球に限定されていて、小学校の理科の授業には馴染む気がする。


nandemo-lab.cocolog-nifty.com

以下では、「自然エネルギー体験ランド」のテキスト(配布物と解説)を紹介したい。工作物の紹介については省略した。工作物の概要は、ココログ「科学館員の独り言」の「自然エネルギー体験ランド」に掲載してあるが、詳細には触れていない。なお、発電による自然エネルギーの利用が本企画の趣旨なので、発電が中心になっていることに留意されたい。


水力発電とスクリュー船」


水力は、から、動力としてのらしに役立ってきました。川の流れを利用した水車、や水力発電。逆に水の流れを作って、それを利用する道具や機械もあります。


水力のいろいろを学んでみましょう。


地球温暖化対策として、今、小規模の水力発電が新たな期待をされています。産業革命よりも前、蒸気機関などの動力が発明されるまでは、水力や風力が動力として利用されていました。水力で粉をいたりしていたのです。
蒸気機関やエンジンやモーターが発明されると、逆に水の流れを作ることができるようになり、な形でらしに役立っています。は分かりやい例ですが、水道にも水を送るポンプが利用されています。


水力を利用した交通機関もあります。動力で動く船は,スクリューなどで水の流れを作り、その反作用で動いています。
水力発電模型や、水力を利用して動くスクリュー船の模型を作って、水力利用のあれこれを体験してみましょう。


次の質問に答えてください。


1.水力とは
水力とは、(  )が動いて起こす力(またはエネルギー)のことです。
水力を作り出している元は太陽ですが、海や川の水を暖めて水蒸気に変え、水蒸気が冷えて雨や雪として地上にり、川となって流れる(  )の動きができます。
(   )には重さ(質量)があります。
(   )の重さは、1立方メートルの大きさで、約1トンです。
深さ1.5メートルの(   )が面積1平方メートルの底面を(垂直に)す力は、約1.5トン(正確には、約150ニュートン)にもなります。
流速1メートル(/毎秒)の(   )が持つエネルギーは、面積1平方メートルあたり、約500ジュール/秒(=500ワット)です。
水力エネルギーは、流速の3乗と面積に比例します。水道のから出る水の流速との面積では、流量を毎分8リットル、の面積を約1.3平方センチメートルとすれば、での流速は約1メートル/秒となるので、水力エネルギーは、(     )ワットとなります。


水力の利用
① 水力の利用には、自然の水の動きを利用するものと、水の動きを作って利用するものがあります。自然の水の動きを利用した水力の例をあげてください。
(                                      )
②(人工の)水の動きを作ってその水力を利用する例をあげてください。
(                                      )
③ 板(平板など)にめに水の流れが当たると、水の流れの下流にされる力()のほかに、水の流れに直角の方向にされる力()が生じます。を利用した例をあげてください。
(                                      )
④ 水力発電は、水力で水車を回し、水車につながった(   )を回して発電します。


【解説】

1.『水力』について:
一般的な『水力』の説明では、水力発電を中心に捉えて、水の流れの落差を利用する場合として位置エネルギーの観点から説明しています。
ここでは、『水力』を水の動きと捉え、いわゆる水力以外に、潮力(潮流=海流と潮汐)や波力も含めて扱っています。そのため、水の位置エネルギーではなく、運動エネルギーの観点から説明していて、『風力』との比較が容易にできるように配慮しました。


風力発電とハイドロプレーン」


風力は、から、動力としてのらしに役立ってきました。自然の風を利用した風車、そして、今は風力発電。逆に風を起こして、それを利用する道具や機械もあります。


風力のいろいろを学んでみましょう。


地球温暖化対策として、今、風力発電が期待されています。産業革命よりも前、蒸気機関などの動力が発明されるまでは、水力や風力が動力として利用されていました。風力で粉をいたり、水をくみ上げたりしていたのです。ヨットなどのも風力の利用といっていいでしょう。


エンジンやモーターが発明されると、逆に風を起こすことができるようになり、な形でらしに役立っています。やは分かりやい例ですが、エアコンや冷蔵庫にも風を送るファンが付いています。ドライヤーやにもあります。そう、パソコンの中にもありますね。
風力を利用した交通機関もあります。ハイドロプレーンという浅いなどで使われるボートや、き上がって動くホバークラフトなどです。広い意味では、飛行機やロケットも風力を利用しています。


風力発電模型や、風力を利用して動くハイドロプレーンの模型を作って、風力利用のあれこれを体験してみましょう。


次の質問に答えてください。


風力とは
風力とは、(   )が動いて起こす力(またはエネルギー)のことです。
風力を作り出している元は太陽ですが、地球の陸地や海洋の暖め方にいができることと、それに地球の自転のが重なって、複雑な(   )の動きができます。
(   )には重さ(質量)があります。
(   )の重さは、直径1メートルのゴム風船の大きさで、約677グラムです。
風速10メートル(/毎秒)の(   )が面積10平方メートルのを(垂直に)す力は、約1.3トン(正確には、約132ニュートン)にもなります。
風速10メートル(/毎秒)の(   )が持つエネルギーは、面積1平方メートルあたり、約647ジュール/秒(=647ワット)です。
しかし、この風力エネルギーをすべて利用することはできません。最大でもこの59%、約(    )ワットが理論上の限界(ベッツ係数)とされています。
風力エネルギーは、風速の3乗に比例します。日本の住宅地の年間平均風速は約3メートル/毎秒ですから、直径1.12メートルの風車(面積1平方メートルに相当)では、平均(   )ワット程度にしかなりません。


風力の利用
風力の利用には、自然の風を利用するものと、風を起こして利用するものがあります。自然の風を利用した例をあげてください。
(                                     )
自然の風はどうして起こるのでしょうか。理由を考えてください。
 (                                     )
人工の)風を起こしてその風を利用する例をあげてください。
 (                                     )
自然の風と人工の風のいをあげてください。
 (                                     )
板(平板など)にめに風が当たると、風の下流にされる力()のほかに、風に直角の方向にされる力()が生じます。を利用した例をあげてください。
 (                                     )
風力発電は、風力で風車を回し、風車につながった(    )を回して発電します。


【解説】

1.自然エネルギーと電気:
自然エネルギーは、風力、水力、太陽光・太陽熱、地熱などの自然に存在するエネルギー(またはエネルギー源)で、太陽や地球に備わった無尽のエネルギーを利用するものであり、再生可能エネルギーの仲間です。古くから利用されていますが、最近では電気エネルギーに変換することで、小規模の分散型電源として昔とは違った活用法が期待されています。
エネルギーは形を変えることができますが、電気エネルギーは、動力や熱の供給以外に、照明や情報・通信など、さまざまに活用できる特徴があり、便利なエネルギーとして広く利用されています。自然エネルギーを電気エネルギーに変えて利用するのもそのためです。


2.電気二重層キャパシターについて:
電気二重層キャパシターは、普通のコンデンサーよりも桁外れに大容量のコンデンサーで、蓄電池並みに電気を貯めることができます。また、瞬間的に大電流を流すことができる特徴があるので、現在は、携帯電話などの機器の電源安定化に活用されています。
自然エネルギーの多くは出力が変動するので、出力を一定に保つためには、蓄電池などの電気を貯める装置が必要になりますが、将来、電気二重層キャパシターが大型化されれば、蓄電池に変わる手段として期待されています。
電気二重層キャパシターと蓄電池の違いは、蓄電池の電圧がほぼ一定であるのに対して、電気二重層キャパシターは電流を流すと電圧が直線的に低下します。そのため、電気二重層キャパシターを使用する場合は、電圧を一定に保つ回路が必要になります。


以下は、「自然エネルギーって何だ(2)」に続きます。


(※id:TJOid:apgmmanから受領したWord原稿を元に再構成、代理投稿したものです)