久しぶりに妻と新幹線に乗って東京からとんぼ返りで帰ってきました。
帰りの時間に少し余裕があったので、東京駅を外から眺めようと駅正面の丸ビルにあるスタバに。
たまたま、駅に向く一人かけの席が一つ飛ばしで2つ空いていたので、とりあえず男性を挟んで、2人席を確保したのです。
妻がコーヒーを買いに行っている約6~8分の間、私は隣の男性の行動を観察し席を変わってもらうタイミングを見計らっていました。
妻が戻って来て落ち着いたのち、男性がPCから目を離し身体を起こした機を見て、男性の右肩を人差し指でトントンと・・・
男性は気づかず、2度目でヘッドフォンの片方を外してこちらを向いてくれたので、「席を替わってもらえませんか?」と尋ねました。
すると男性は「何で?」と。
私はその返事を想定していなかったので、どぎまぎしながら妻を指さし「話がしたいから・・・」と答えると、
男性は舌打ちをしながら、PCの蓋をドンと音を立てて閉め不機嫌な顔をして席を変わってくれました。
その後、ちょっとした旅行気分もなくなり、こんなことは東京では当たり前なのだろうと反省しながら重苦しい気分で家路に着くことになったのです。
考えてみれば、スタバの人口密度は大変高く、後ろでは女性二人が大きな声で話に盛り上がる中、PCとタブレットを駆使しながら作業に打ち込もうなら外界の情報をシャットダウンしなければ集中できないでしょう。
だから、両隣に席を替わってほしそうな夫婦連れが来ても気付かず「何で?」と答えたのでしょう。
集中力を高める手段として余計な情報をシャットダウンすることは有効です。
しかし、デメリットもあるでしょう。
あのシチュエーションで気弱な私だからよかったものの、護身用に刃物を忍ばせた短気な者であればカッとなって、刺されていたかもしれません。
それに、いつもそのような環境にいると外界の様子に関心を持たない習慣がついてしまうのではないでしょうか。
大きなお世話だが、身近で危険な状況が起こったら逃げ遅れる可能性が高くなるでしょう。
そんな事がないように、五感を周りに向けて危険を早い段階で察知する習慣があった方が、危険から回避できる可能性は高いはずです。
集中する事が苦手な私は、自分の席の両横が空いていて夫婦連れが店内に入ってきた時点で意識はそちらに削がれて、変わってくれと言われるだろうか?それとも先に隣へ移動しておこうか?余計な気を使わない方が良いだろうか?とか色々考えてしまい、自分の事に全く集中できないタイプである。
私の肌感覚としては、日本人はこのタイプの方が多いように思います。
要は、空気を読んでしまうのです。
どうして日本人はこの、空気を読むタイプが多いのでしょうか?
私見として、侍文化が日本人のDNAに染み込んでいるのではないかと思います。
侍は戦いのプロフェッショナルであり、
侍は常に身の安全を確保するために、
このような環境で育った日本人は、
状況判断には、情報は不可欠です。
現代での情報収集はインターネットが主流ですが、当時の情報収集は「気を配る」ことだったのではないかと考えます。
「気」という感覚に近い何かが、自分から電波のように発せられ、周りの状況を察知し、この気が多ければ多いほど情報量が増え、自らが有利に振る舞える可能性が高まります。
これが「気を配る」意味であり「気配り」の元々の使い方ではないかと思います。
そして、電波のように放たれた「気」を感じ取る能力を「気配を感じる」となります。
能動的な「気配り」と受動的な「気配を感じる」は侍の一番の武器ではないでしょうか。
そんな「気」のやり取りが行われていた当時は、今みたいな便利なツールは無かったので自分の身体能力を最大限引き出し情報のやり取りをしていたと想像します。
便利なツールを駆使する現代人と当時の侍はどちらが身体能力が高いのか?
情報の中に埋もれる現代人と刀一振りの侍の情報処理能力はどちらが高いのか?
モノや情報で溢れる現代環境は、身体能力なんて必要としていないことがよくわかります。
これは進化なのでしょうか?退化なのでしょうか?
いずれにしても、日本人が空気を読むことが得意なのは侍の身体能力が染み込んでいるからだと考えます。