哲学者のつぶやき

哲学科出身者が考えたことを適当に書くブログ

「生きている」ということの不思議さ

生きていることってやっぱり不思議なことだと思う。この宇宙のなかで生物というものが生まれて、新しい個体を生み出したり、怒ったり笑ったり悲しんだりして死んでいくのって、全然当たり前のことではないと思う。ただの物体の塊が意識というものを持って、感じたり考えたりしながら生というものを営んでいる。それ自体は何か意味のあることではないけど、そういう営みが果てしない宇宙の片隅で起こっていて、いずれは消滅する。宇宙の視点から見たら、人間の営みってそういうものだと思う。

 

 

だから人生に意味がないとか、虚しいとか言いたいわけではなく、そういう宇宙的な視点でものを見ることができたら、もっと人間社会の色々な出来事を温かい目で見れるし、一大事と捉えずユーモアをもって見られるような気がする。

今この時代に生きていることに感謝する

僕はときどき、ふとした拍子に「今この時代に生まれることができてよかったなあ」と感じることがある。

 

僕たちがこうやって今平和に暮らしていることは、当たり前のようでいて、全然そうじゃない。ちょっと時代を遡れば、今より医療は発達していないし、治安はよくないし、食料は十分じゃないし、今みたいに安心して暮らせることは少なかった。

 

人は自分のいる時代だけに意識が集中してしまいがちだけど、前の時代というのも確かに存在していたわけであって、そこは今よりはるかに不便で、不衛生で、危険で、人の生は短かった。今の時代はどこも清潔だし、食料は豊富にあるし、司法制度が整って安全だし、奴隷も独裁者もいない。これは当たり前のようでいて、何回感謝しても足りないくらいのものであるはずだ。

 

たまには過去の時代と現代を比べてみることで、自分が今この時代に生きていることのすばらしさを実感してみるのもいいのかもしれない。

人生に意味なんてない

「人は何のために生きているのか」とか「人生の意味は何か」と問われることがある。率直に言ってしまえば、人生に意味というものはない。人間という生物が生まれてきたのは、物理法則と進化のプロセスを経てただ起こっただけのことであり、何か目的があって起こったわけではないからだ。神のような知的な存在が何らかの目的をもって人間をつくったというのならば、人間やその人生に意味はあるということはできるかもしれないけど、神がいると信じるべき根拠は乏しい。やはり人間は、物理法則にしたがった物体同士の化学反応・自然淘汰のプロセスを経て生まれたと見るのが妥当だ。物理法則は意思や目的を持っていないし、その意味で人間がいるのは何か目的があるからではないといえる。

 

しかし、これは別に人間に限ったことではない。世界にある人工的なもの以外はすべてそうだ。山や海や空、鳥や猿や花やウイルス、雲や波や風、月や太陽など、自然界のものは何か目的があって存在しているわけではない。ただ存在しているだけだ。そもそも世界はただあるだけであって、何かのために存在するわけではない。車やパソコン、かなづちやボールペンなど、世界にある目的のあるものはだいたいが人間が意図的に生み出したものなのだ。世界にはそもそも意味や目的はない。それは、人間が生み出しているのだ。

 

人間は本来的に目的志向的な動物だ。これは、何か目的を設定してそれを達成することに喜びを覚える個体のほうが、そうでない個体より、生存上有利なことが多かったからなのかもしれない。十分な食料を得ること、安全な寝床を確保すること、獲物を一撃で仕留められる武器をつくることなどに没頭し楽しむことができれば、生存上有利になる。人間のこうした「目的を求める心」が、人生という本来目的のないものにも意味を求めようとしてしまうのかもしれない。

 

「人生の意味」の問題には、こうした目的を求める人間の性質が絡んでいて、それが「人生に意味はない」という簡単な答えを見つけにくくしているのかもしれない。

「宇宙を考える」ということ

何か悩みを抱えたときに、僕は昔から「宇宙のことを考える」という戦術を使っている。宇宙のことを考えると自分の悩んでいることの小ささがわかる。自分が住む街の外にも世界は広がっていて、地球はとてつもなく大きいし、宇宙はさらに広大だ。こういうイメージをもつと、自分の悩みのちっぽけさがわかる。

 

人間はどうしても、自分が見たり聞いたりする範囲のことに意識が集中してしまうようにできている。地球の裏側のことや、宇宙のことに自然と意識が向くようにはできていない。これは、自身の生存にとっては自分の身の回りで起きることのほうが重要であることが多いからなのかもしれない。地球の裏側で何が起ころうがだいたいの場合自分に影響はない。

 

ただ、人は自然と自分の身の回りのことばかり考えてしまう傾向があると言っても、それが正しいとは限らない。身の回りのことばかり考えていると疲れてしまうこともあるし、もっと世界とか宇宙とか大きなことを考えて、自分と利害関係のない広大な世界について思いを馳せることは、精神の健康という点でいいことなんじゃないかと思う。たまには意識的に宇宙とか広大な世界のことを考えてみるといいと思う。

 

 

死ぬのが怖い

哲学科出身だと言うと、「どうして哲学科を選んだの?」と聞かれることがある。そういうときはだいたい、「高校時代に哲学の入門書を読んで面白かったから」とか答えているんだけど、実際のところもっと切実な思いがあった。それは「死ぬのが怖い」という感覚だ。

 

高校の終わりから大学の始めにかけて、取り憑かれたように「死」のことを考えていた時期があった。「死」といっても、「死にたい」という気持ちではなく、「死ぬのが怖い」という気持ちだ。「死んだらあとはもう永遠の無で、何億年経っても何兆年経っても生き返ることはないんだな」とか「永遠の無っていったいどういう感じなんだろう」とか、「どうせ死んでしまうならどう生きたって同じなんじゃないか」とか、そういうことを受験を控えた高校3年の夏休みに勉強もせず家の窓から空を眺めつつ考えていた。この「永遠の無」というのが怖くて、「死ぬのって怖いな。死にたくない。永遠に生きたい」と思っていた。

 

たとえば、何兆年か後に生き返ることができるのなら、それは僕にとって全然怖くない。実質、それは普通より長いだけの睡眠だ。死が恐ろしいのは、「無になる」ということ自体ではなく、「無が永遠に続く」というところにあるんじゃないだろうか。

 

就活したり就職したりするうちに、そういう感覚はほとんどなくなってしまった。まあ、死の恐怖に囚われて生きるのって楽しくないし、自分の幸せを考えればこれでよかったのだと思う。あの頃の感覚を取り戻したいとも思わない。ただ、死に対するそういう感覚が、死って何なのかとか、生って何なのかとか、そういう根本的なことを考える動機になっていたのだろうと思う。

文章を書くことで考えは整理される

大学時代、哲学科の教授が「頭の中にあるだけの考えっていうのは意外と怪しい。自分で思っているほど論理的でないことが多い」というようなことを言っていたのだけど、確かにそうだと今さらながら思う。人の思考の仕方って、ひらめきとか直感からある考えを思いついて、それを後から論理化していく感じじゃないかと思う。文章にすると、論理化される前の自分の考えの曖昧さがはっきりする。

 

もっと文章をたくさん書いて、自分の考えを整理していきたいな。

ブログをアップするということ

自分はブログを書いたりとかツイッターでつぶやいたりとか、そういうネットで発言することが苦手だ。知らない人に自分の発言を読まれるのが怖い。でも自分の発言を聞いてほしいという気持ちもある。そういう相反した気持ちのなかでこのブログを書いている。