アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

アート観客のはじまり

 このところ、アートを見る機会が、ほぼなくなってしまいました。

 今の状況では、仕方がないとも思いますが、この20年以上、特に辛い時など、気持ちを支えてもらってきた事実も変わらないと思っています。そして、今振り返ると、ありがたい気持ちにもなります。

 実際に、直接、アートに触れることがほぼできなくなってしまった、この機会に、ここまで見てきた展覧会、個展、本、作品などのことを、少しずつ、書いて、伝えてみたいと、思うようにもなりました。

 最初は、それまでアートにほぼ興味がなかった人間が、どうやってアートを見るようになった話から書いてみたいと思います。

 

 

 昔は、美術やアートと呼ばれるものに、ほぼ興味が持てなかった。

 学生の授業の時も面倒くさくて、美術が好きではなかった。

 美術にまつわることも、好きではなかったと思う。

 

 高校の時、隣のバス停から乗ってくる女子が、肩かけのカバンを頭にかけて後へたなびかせていた。頭にみぞがある、といわれるくらい、そのカバンはズレなかった。その子は演劇部だった。美術とは違うのだろうけど、自分の中では一緒で、バスの窓から走る姿が見えるたびに、不思議な気持ちになっていた。

 

 大学の時、美大系のサッカー部と試合をしたことがある。約30年前なのに11人の選手のうち、2人もモヒカン刈り(ハードバージョン)だった。あまり近くに寄りたくないのに、マークすべき選手がそのうちの一人だった。彼はチームの中では上手いのにヘディングをしない。そのぶん守っていて楽だった。

 

 社会人になって、スポーツのことを書く仕事を始めた。

「芸術的なプレー」という表現に、「なんで、芸術の方が上みたいな書き方をするんだ?」などと軽い反感を憶えていた。

 

 1990年代「トゥナイト2」という深夜番組があった。とても軽いタッチの深夜番組。そこで、イベント紹介があった。「TOKYO  POP」。その展覧会は神奈川県の平塚でやっていることを知った。わずかに映る場面はちょっと魅力的だけど、都内からは遠い。でも、妻が行きたがった。

 

 出かけて、良かった。

 身近な印象の作品も多かったが、それが逆にリアルで、いいと思えた。

 これまで、ひたすら自分と関係ないと思っていたアートの方から、初めてこちらに近づいてきたように思った。

 30代になって、初めて、アートが面白いと思った。

 

 それまでの遠ざける感じから見たら、調子がいいとは思うのだけど、それから、アートは自分にとって必要なものの一つになった。

 それが1996年のことだった。

 

 気がついたら、美術館やギャラリーに、作品を見るために、出かけるようになっていった。自分にとって、ウソのない作品が見たいと思っていた。辛い時ほど、触れたくなった。気持ちを支えてくるものになっていた。週1レベルだから、たいした数ではないかもしれないけれど、気がついたら、20年以上の時間がたち、何百カ所は行ったと思う。

 

 今回の機会に、これまでの記録を少しずつ、お伝えしていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

(右側のカテゴリーは、

 「展覧会の開催年」

 「作家名」

 「展覧会名」

 「会場名」

 「イベントの種類」

 「書籍」

 

 の順番で並んでいます。

 縦に長くなり、お手数ですが、

 そうした項目の中で、ご興味があることを

 探していただけると、ありがたく思います)。

 

 

書籍  『根本敬ゲルニカ計画』 ニコ・ニコルソン

https://amzn.to/3WdANpv

根本敬ゲルニカ計画』 ニコ・ニコルソン

 

 特殊漫画家、という肩書きのある根本敬が、突如、大きい絵を描く、と決めてから、完成するまでの話。それが漫画によって描かれている。

 アドバイザーの現代美術家会田誠の距離感が、敬意を持って接する、というのは、こういうことなのだと思った。

 さらには、作品が作品として成立するまでの、他の誰もが助けられない苦悩のようなものもきちんと記録されている。

 貴重な文献だと思う。

 元々、作者は、根本敬の凄さに若い頃に触れ、それが受け入れられずに「敗北感」を持った過去がある、といったことまで描かれていた。

 

 例えば、根本敬と、会田誠が会話をしている姿を見て、この書籍の作者 ニコ・ニコルソンが、こんなふうに記している。
 

 会田さんは根本さんが

 自分の提案に

 引っ張られすぎないよう

 常に気を遣い

 

 根本さんはなるべく

 会田さんの意図を

 汲めるよう心がけているようだった

 

 2人の関係は

 お互いへのリスペクトの上に

 成り立っているんだなあ 

 

 大きな絵を描くことの技術的なことも含めて、重要な情報があると思う。

 

『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』。2024.3.12~5.12。国立西洋美術館。

『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』。2024.3.12~5.12。
国立西洋美術館

2024年3月27日。

https://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2023revisiting.htm

(『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』サイト)。

この展覧会は、国立西洋美術館においてはじめて「現代美術」を大々的に展示する機会となります。こんにちの日本で実験的な制作活動をしている、さまざまな世代の20を超えるアーティストたちの作品が集います。

 

 

主として20世紀前半までの「西洋美術」だけを収蔵/保存/展示している国立西洋美術館には、いわゆる「現代美術」は存在しません。過去を生きた、遠き異邦の死者の作品群のみが収められているともいえます。けれども、1959(昭和34)年に松方コレクションを母体として開館した国立西洋美術館の成立前史の記憶を紐解いてみると、この美術館はむしろ、開館以後の時間を生きるアーティストらが所蔵品によって触発され、未来の芸術をつくってゆける刺激の場になってほしいという想いを託されながらに建ったということができます。しかしながら、国立西洋美術館がそうした「未来の芸術」を産み育てる土壌となりえてきたのかどうかは、これまで問われていません。

西欧に「美術館」という制度が本格的に誕生した時期とも重なる18世紀末、ドイツの作家ノヴァーリスは、こう書いていました。

 

 展示室は未来の世界が眠る部屋である。――

  未来の世界の歴史家、哲学者、そして芸術家はここに生まれ育ち――ここで自己形成し、この世界のために生きる。

 

国立西洋美術館は、そのような「未来の世界が眠る部屋」となってきたでしょうか。本展は、多様なアーティストたちにその問いを投げかけ、作品をつうじて応答していただくものとなります。            

(「国立西洋美術館」サイトより)

 

 これが、今回の展覧会の美術館側のステートメントだった。

 

https://www.nmwa.go.jp/jp/about/history.html

 (「国立西洋美術館」歴史)

 

 戦後にできた国立西洋美術館の完成までのいきさつを少し知るだけでも、戦争をはさんでの複雑な歴史や政治的な動きと無縁ではないだろうという予測はつく。

 基本的には、ずっと「美術の本場」の「西洋」の作品だけを展示してきた、といっていい、だから、この美術館の設立に関わった人たちの理想は、もしかしたら、この国立西洋美術館に一歩足を踏み入れたら、そこはヨーロッパ各国にあるアートミュージアムにいるような気持ちになることだったかもしれず、そう考えれば、今回、日本の「現代美術」のアーティストたちが展覧会を開くことは、やはり、思った以上の歴史的な意味があるかもしれず、何より、この展覧会をおこなったあとは、西洋美術館のあり方に影響が出るかもしれない。

 この展覧会の企画と実現を知った時から、そんな期待もしてしまっていた。

 

 上野駅で降りて、国立西洋美術館に入り、地下に降り、ロビーのようなスペースがあって、そこの壁には田中功起の映像作品が流れていて、広い平面のソファーに座って見ていた。保育士というケアのプロの方々が、仕事に関するいろいろなことを、社会的な環境は待遇など、大事なことなのに、おそらくは普段は話しにくそうなことを、とても率直に切実に話をしてくれる映像だった。それは、話をする側の勇気や覚悟も重要だけど、こうして話を聞くことができるアーティストの能力に、こうした作品の質はとても大きく左右されるから、田中の聞く能力の高さを勝手に感じていた。

 そして、ここにはおそらく臨時だと思われるけれど、託児所も設置されていて、そうしたことも含めて作品になるのが現代美術だと思った。

 

内藤礼

 この展覧会のサブタイトルが「国立西洋美術館65年目の自問|現代美術家たちへの問いかけ」とあるので、展示にはテーマがあり、本当に問いかけのような形式になっている。

 例えば、「1、ここはいかなる記憶の磁場となってきたか?」は、その歴史の蓄積なようなものに関しての作品が並んでいるように感じたが、個人的に印象深かったのは内藤礼の作品だった。

 展示室から展示室への導線はなんとなくあるものの、「順路」というような文字も矢印もないので、その自然な流れからは少し外れていて、だから、もしかしたら見落とした観客もいるのではないか、という場所に内藤礼の作品が展示されている。

 それは、セザンヌの絵の隣に、ほぼ同じ大きさの平面だったけれど、ただ、何もない白いキャンバスにしか見えない。その前には、若い男性が、しばらくずっと立って見続けていた。とても注意深く見ると、そこにはわずかに色が見えてくるようだったのだけど、この作品についての詳しい説明などは、作家からはなかったようだ。

 これまで内藤礼の作品を見るたびに思っていたのだけど、決して親切とはいえなくて、何しろ、こちらから見ようとしなければ、分かろうとしなければ、何もない空間のように見えたり、ただの紙などに思えてしまうような物質を並べたりしているのだけど、他にはない場所になっていた。

 今回も、ややこじんまりとしていたスペースだけど、ただ、白い壁にセザンヌと、ほぼ白く見える内藤の作品が並ぶシンプルな空間だった。

 そこにそういう作品があるだけで、いろいろなことを思え、同時に何か少し力が抜けるような気持ちにもなった。

 

内藤礼はこのたび、国立西洋美術館ポール・セザンヌの《葉を落としたジャ・ド・ブッファンの木々》を見たのちに《color beginning》という一連の絵画のあらたな一枚を描いた。セザンヌの絵の記憶を残しながらに描くためではない。両者を比較してみるためでもない。ましてや影響関係などありはしない。内藤は、鑑賞者の見る経験/時間をつうじて生起してくる絵画のあり方において、みずからの描く《color beginning》とセザンヌの作品とのあいだに通底しあうものを見出したのではないか。

              (「展覧会インタビュー集」より)

 これは、展覧会場にもあったし、インタビュー集にもあった言葉だけど、これを読んで何かがわかったり、理解が深まったわけでもなく、正直、何を書いてあるのか全部を理解できなかった。もし、内藤の作品の横にセザンヌではなく、別の作家の全く違う作品、例えばクレーでもカンディンスキーのような抽象画があったとしても、この説明は成り立ってしまうように思た。

 ただ、こうした言葉を読み、内藤の作品の前に立ち、色が見えてきたような時間、その中で、どこかだまされているのでは、という疑念が少し起こってくるところまで含めて、内藤礼の作品なのだと思っていた。

 

西洋美術館という存在

『2、日本に「西洋美術館」があることをどう考えるか?』というテーマで二人の作家の作品が展示されていた。

 

 一人は、小沢剛

 個人的にはアート界のスターの一人であり、1990年代後半に見た小沢の「ジゾーイング」は、いわゆる「批評性」もあるし、とても優れた作品でありながら、サービス精神のようなものも感じて、好きだった。それは、当初は小さい地蔵のような立体を持って、世界各地に行って写真を撮る、とういうものが、だんだん紙に地蔵のような形を描き、それとともに撮影する、というもので、当時の歴史的に意味があるような、たとえば天安門での撮影には緊張感も写っていた。

 ただ、それは、現在、自分の推しのアクリルスタンドを携帯し、いわゆる聖地巡礼をして撮影された写真と、かなり近い意味を持つものだと思う。

 それから、小沢は様々な作品を制作し、森美術館で個展をおこなった時は、なんだか嬉しくて、こたつ布団を盛り上げた部屋を見て、なんだか喜んでしまっていたが、私が知っている以上に、アート界の第一線で活躍してきたのだから、想像できないほど、考え抜いてきたのだとも思う。

 そして、今回は藤田嗣治をテーマとしていた。

 藤田の作品も飾られている展示室には、小沢剛が藤田に扮して、戦前にフランスで脚光を浴び、日本に帰国してから戦争画を描き、そのことで戦後は、また日本を後にしてフランスに戻ったという、西洋と東洋だけではない様々なことを考えさせられるストーリーを画像にし、さらには映像作品にしていた。

 西洋中心主義というものを考えるときに、藤田嗣治は、本人が意識しているかしないかに関わらず、ある意味で象徴的な存在なのは間違いないように思えてくる。

 国立西洋美術館は、国立なのに、原則として自国の作家の作品は収蔵しないのが、特殊でもあることを、学芸員が自覚していることも、展覧会のインタビュー集を読むとわかる。

 ただ、これだけ徹底した西洋中心主義が、それほど表立って不思議に思われないのは、戦後も、日本がそういう社会だったから、とは思うのだけど、その重いテーマは、本来は、展覧会という形だけではなく、美術館側が主体となって、それこそ文章としてどこかに発表し、世に問い続けるべきではないかなどとも思ったが、それでも、こうしてこれまで縁がなかった現代美術作家の力を借りて行っているから、何もしないよりははるかにいいのかもしれない、などと思った。

 

 もう一人は小田原のどか

 小田原も、国立西洋美術館の在り方のようなものまで考えさせる作品を展示していた。

 この美術館ができたのは、戦後であり、だから、戦前からの転向のようなものを考えることもでき、その転向については、様々な文章の資料を扱うことで表現しているのだけど、そこに関しては、とても膨大で少ししか読めなかった。

 その展示空間で目を引くのは、横倒しになったロダンの彫刻作品だった。

 どうやら、小田原が注目したのは彫刻を展示するときにその足元にある免震機能のある台座だった、というようなことは展覧会のインタビュー集でも確認ができた。

 確かに西洋、特にヨーロッパでは地震が少ない。だから大地が揺れない前提で作品をつくり、保存されている場所と、地震が多発する国で、その西洋の作品を展示したり、保存したりするときには、本来は台座に必要なかった免震機能がつけられる。それ自体が、考えたら、少し変なことでもあるのは、こうして横倒しになった彫刻作品を見せられたりしなければ、考えたこともなかったことに気がつく。

 

飯山由貴

 美術館に来て、入場料を払って、作品を鑑賞する。今回は、2000円で、やっぱり高いと思いながら、展示室に入ると、どうしても自分の好みで作品を見る時間は変わってくる。当然ながら、人によって「いい」と思う作品は違ってくるし、鑑賞にかける時間も違いがあるはずだ。

 だから、「3、この美術館の可視/不可視のフレームはなにか?」という美術館の枠組みというか、つくりそのものを問うような展示室があって、そこに布施琳太郎や、田中功起の作品があった。

 特に田中の作品は、文章が多く、それは、この場合の必然だとは思うのだけど、ただその膨大さに気持ちがついていけなくなって、そのテーマに関しては、自分の理解が追いついていなくて、残念ながらあとになってもまだ感覚にも頭にも入っていない。

 そのあとの「4、ここは多種の生/性の場となりうるか?」には、私も知っていて、これまでにも作品を見てきた作家が揃っているように思えた。

 鷹野隆大、ミヤギフトシ、長島有里枝、それは鑑賞側の見方の問題でもあるのだろうけれど、それまでのその作家のイメージがあって、それとは違う種類の印象の作品も並んでいて、それは自分の理解の狭さのようなものだと思いながらも、すごく集中して見ることができなかった。

 

 ただ、この「4」のテーマの作家の中で美術館に来る前から個人的には気になっていたのは飯山由貴だった。

 かなりプライベートなことや、歴史の中で目を背けられてきたようなことを、静かな映像作品にしている印象があって、だから、2年前にも人権プラザという場所なのに、その作品が上演禁止になるようなことに巻き込まれているような感じもしている。

 それは、飯山の自身の作品への誠実さのようなもので起こっている出来事でもあると思ってもいたのだけど、同時にそれは社会自体が変化していて、だから、そのような立場に追いやられてしまっているだけかもしれない、とも思っていた。

 それは、今回の展覧会でも起こっていたようだ。

https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/28608

       (「美術手帖」飯山由貴の抗議)

 

 恥ずかしながら国立西洋美術館のメインスポンサーが川崎重工だったことも知らなかったし、この抗議の内容のことも理解していなかった。だけど、自分が知らないだけで、社会はいろいろなところで関係していると思うと、改めて怖くもなる。

 ただ、その抗議という行動も、この国立西洋美術館の作品を並べ、その松方コレクションの由来なども含め、戦前からの歴史なども美術作品には反映もされているはずで、そうしたことも考えていけば、その行動にもつながっていくのは、展示を見ても納得はできた。

 絵画が飾られ、その周囲に、手書き文字で、その空いている部分を埋め尽くすように飯山の言葉がある。その展示で、その言葉全てを読む気力が続かなかったけれど、今回の川崎重工への抗議も、こうした美術館の歴史そのものを振り返り、掘り下げたら、そうなるのだろうとは思った。

 だけど、その行動までつなげるには、今の時代であれば、相当の覚悟と勇気が必要だったとは想像できる。インタビュー集を読むと、この2年間は、自分の作品が展示できなかったことに対しての正当な抗議というか、問いかけでもあるのに、その誠実な行動が、逆に作家の活動を制限させるとすれば、それ自体もやはりゆがんだ状況なのかもしれない。

 

弓指寛治

 弓指寛治というアーティストは、独特の存在だと思う。

 どうして、そう感じるのかといえば、まずいつも絵画を中心とした作品を展示しているのだけど、その画風で、弓指の作品とわかることだ。

 写真のようにリアル、という技法とは縁遠く、うまさが表面に出ているような絵画でもない。そして、どうやらとんでもなく長い時間を絵画制作に費やしている、ということも聞いたことがあるが、そんなオーソドックスな方法を続けていることも、映像作品も多くなっている現代では、特に少数派になってきている可能性もある。

 それだけの修練を積んでいるとはいえ、それがうまさとして現れているのではなくて、特に人物を描く時に、形として似ている、というのではないけれど、そこには、「こういう人なんだろうな」という説得力として、その工夫と努力が表れているのが、やはり、現代では他にあまりない存在にしているような気がする。

 そして、そのテーマも一貫していて、当初は自身の経験から「自殺」をテーマに作品を制作し続けていて、そうした重くて、だけど、とても大事なことから全く目を逸らさずに作品を制作し続けていくことは、敬意も感じるけれど、それだけ負担も強いから、ただの観客に過ぎないのに、勝手に心配するような気持ちになっていたのだけど、そのうちに弓指の射程はもっと遠くまで届くようになり、歴史上の出来事さえ、今そこに起こっていることのように描き始めたようだった。

 そういう作家も、今は、それほどいないはずだ。

 

 だから、いつの間にか、というよりは最初から、人間の生死を描いてきたし、今は、人が生きることそのものを表現する作家になっているように思うから、今回の上野公園にも以前はもっと多く住んでいた印象のある「路上生活者」をテーマにするには、確かに適任かもしれないと、美術館に来る前から感じていた。

 そして、展示室には、絵画、それも1年の間に一人の人間が描いたとは思えないほどの膨大な量の作品と、マンガのふきだしのように紙に手書きで書かれた短い言葉が、その絵画の周りに配置されていたり、四角い紙に状況を説明する文章が並んでいたり、この設置方法自体も、ありそうでなかった独特の方法なのだけど、美術館の中で文章に出会うと、例えば絵画のような視覚的な作品と別のもの、という印象になるのだけど、弓指の作品は、絵画と言葉が一体化し、その作品の没入感を高めている。

 さらには、この「ホームレスについて作品制作を」と依頼される時から作品になっていて、弓指の、それまで特に興味もないし、知り合いもいないし、というスタート地点から、それでもツテをたどって、山谷に行き、ボランティア活動にも参加することによって、そこに生活する人たちを紹介してもらったり、知り合ったり、ということにつながる。

 山谷の人たちを看護している訪問看護センターの人たちも描かれ、もちろん、山谷に暮らす人たちのことも描かれていく。

 

 弓指は、一人一人を、生きている人間として描いている。当たり前のことだけど、自然な敬意がなければ、できることとは思えない。さらには、一人の男性の話を、おそらくはかなりの時間をかけて聴き、その全くの他人であった年上の友人と一緒にホームレスになりながらも長く一緒に生き、最期は介護まで引き受けているという、なんともいえない美しさのあるストーリーも作品として展示され、それを見ている観客も、わずかかもしれないが、追体験させてもらう。

 絵画と文字の組み合わせだけで、こんなにどこか別の場所へ、そこに描かれている人の生きている時間へ連れていかれるように思えるのが、作品の力なのだと思う。

 ただ、それを可能にしている要素は絵画の力を筆頭に思ったより多く、実は複雑なのだと思うけれど、その中の一つに、どの言葉を選ぶのか、があると思った。

 訪問看護ステーションで働いている人たちは、その看護をしている人たちが、ついギャンブルに手を出してしまったりする、困った部分もあるのは承知の上で、みなさん苦労されてきている方ばかりなので、といったつぶやきのような言葉を、小さい紙に書いて、絵画の合間に置いている。

 弁当を配るボランティアをしている作家に対して、元気なのはいいけれど、元気すぎるのは、ちょっと。みなさん、人の目を避けているようなところがあるので、といった言葉で注意されていたようだけど、その言葉がいくつかの紙片に分かれて、書かれている。

 さらに、展示の終盤。山谷からスタートした調査は、そのボランティアの活動が上野公園までも届いていることを知り、元々、このテーマを発案した国立西洋美術館学芸員も、ボランティアに参加し、その途中で、配っている相手から声をかけられる。あなたのことは知っている。このあたりで、いつも見かけているから。それで、自己紹介をする学芸員。そのやりとりも書かれている。

 様々な場所に行き、いろいろな人に会う。

 もしも、同じ経験をしたとしても、何を見るか、何を聞くか。どんなことを思うか。それは、人によって驚くほど違うはずだ。

 だから、弓指と同じような活動をしたとしても、どこを描くか。どんな言葉を取り上げるかは全く違ってくると思う。

 どうして、最も大事なことを、こんなに表現できるのだろう。

 こうして、かなり真っ直ぐに気持ちに届いてくる作品を体験させてくれるのが、何より弓指作品の独特の特徴のはずだ。

 すごかった。

 この弓指の作品は、今回の展示の「章」には入らず、というよりは、入れられなかったのかもしれないが、[反― 幕間劇―上野公園、この矛盾に満ちた場所:上野から山谷へ/山谷から上野へ]というタイトルがつけられていた。

 

パープルーム

 弓指の展示を見て、没入感と圧倒的な迫力もあり、ここで、もう展覧会が一回、終わったような気持ちになっていた。それは、ここまでの展示を気がつかなかったけれど、より集中して鑑賞してきたせいか、疲れも出てきていた。ここまで2時間ほどが経っていた。

 ただ、当然のように、ここからも展覧会は続く。

「5、ここは作品たちが生きる場か?」というテーマで、その指し示そうとすることと、そこにある作品をあまり結びつけられなかったが、そこにある作品は印象的だった。

 かなり破損しているように見えるモネの作品が壁にあり、その前に絹糸のカーテンのようなものがある。それは、正面から見ると、そのモネの作品を独自に修復しているようで、それ自体がきれいな存在だった。竹村京の作品。

 繊細な印象で、妻はかなり気に入っていた。

 

 さらに歩いて、次は「6、あなたたちはなぜ、過去の記憶を生き直そうとするのか?」に続くが、そこにも密度が高い作品が並んでいる。

 個人的には、「パープルーム」が出展することは、今回の展覧会に来ようと思った大きな動機の一つだった。

 パープルームは、最初は予備校、という名称もついていたが、それは、生活と作品制作と、作品までが、これほど切り離せない環境で続けてきたアートの集団でもあるのだけど、もう10年ほど継続している。

 10年ほど前は、こうしたアートコミュニティといっていい集団が、もっといくつもあって、そのうちに、そうしたアートコレクティブとも言われた集団は、解散のような形になったり、活動休止のようになっていく中で、パープルームは生き残った。

 相模原に拠点があり、生活と制作と場所が一体化するように見えていて、さらには動画も使って、その思想も積極的に伝えているから、作品だけでなく、そこにいるアーティストたちのことも、少しでも関心を持つようになると、気になってくるし、知るようになってくる。

 だから、作品だけでなく、特に現代美術では、どんな人がつくっているのか、といったことも、当たり前だけど、とても重要ではないか、といったことも考えさせられてしまう。

 今回のパープルームの展示は、まるで大きな部屋のような場所になっていて、壁にも床にも作品はあって、映像が流れ、壁には絵画もかけられ、あちこちに立体もあり、その場所には、どこまでが作品というはっきりとした区切りがあるわけでもなく、その展示室は混沌としているけれど、膨大な印象に取り囲まれるような気がする。

 だから、その展示室は、今回のテーマの流れに収まっている、というよりは、全体としても異質で、だから、この部屋の中に閉じ込められているような印象もあった。

 実は、もっと他の作品と近接させて、どんなふうに見えるのか、そういったことも考えれば、パープルームの作品は、もっと違う展示もできて、その方が効果的だったし、劇的だったかもしれないけれど、でも、それをしてしまうと、今回の展覧会の全体がパープルーム色が強くなりすぎるかもしれず、そんなことを考えると、こうして一カ所にまとめるのも正解なのかも、などと思ってしまう。

 ただ、こんなふうにいろいろと書いても、自分が何もわかっていないような気持ちにもなるし、同時に、だからなのか、また見たいという思いになるのかもしれない。

 今回の展覧会のインタビュー集にも、パープルームの主宰者でもある梅津庸一が「ここは東京藝大系および、美大教員系アーティストたちが眠る部屋なのか?」と、この展覧会自体への疑問を提示しているのだけど、このこともパープルームの作品なのだとは思う。

 こうした言い方は、梅津やパープルームのアーティストたち自身は好まないだろうと予測はできるけれど、やはり人生すべてをアートに捧げているように生きているような人たちの凄さが、ここにはあるのだと思った。

 

絵画

 最後の「7、未知なる布置を求めて」では、展示室に絵画作品が並んでいた。

 それは、ただ作品を見せるのではなく、絵画という昔から制作され続け、現在も、この美術館に所蔵されている過去の作品と、現代のアーティストたちの作品を並べる、という方法だった。

 展覧会のインタビュー集に記されている美術館側の意図によれば、過去に実験的な存在であった作者たち----クロード・モネジャクソン・ポロックといった存在と、現在でも(一人はすでに亡くなっているが)実験的な試みを続けていると思われる4人の作家の作品を並べる、ということだったようだ。

 観客としては、過去の作品だけではなく、辰野登恵子、杉戸洋、梅津庸一、坂本夏子ら現代の先端を進もうとしている作家たちの作品を一堂に見られるのは、ありがたい気持ちにもなる。

 梅津庸一は、パープルームの主宰者でもあるけれど、一人の製作者でもあるし、坂本夏子はパープルームと関係が深いので、ここにもパープルームの影響が及んでいるとも言えるのだけど、そうした邪推のような思いとは別に、静かな空間にも感じた。

 辰野登恵子の作品は、これまでも時々見たくらいだけど、今回も新鮮な気持ちになれた。杉戸洋は、特に昔の作品ほど気持ち良さがある。ただ、だんだん年月が経つと、さまざまなことを意図的に画面の中で構成するような意志が見えてくるような印象もあり(そのことは個展では、かなり明確だった)、梅津庸一の作品は、これまでの絵画の歴史のようなものを意識していることが、こうした過去の作品や、他の実験的な試みをしようとしている作家と並べると、より明らかになるような気もしてくる。

 この中で、これまで見たことがあるはずだけど、改めて魅力的な絵画だと思ったのが、坂本夏子の作品だった。

 絵画というのは長い歴史があって、それまでに名作と言われるものも数限りなく制作されてきて、だから、今、改めて描こうとすれば、そうした歴史などを意識して、だから単純に未来を信じられるような作品に見えなくなりがちなのだけど、坂本夏子の絵画は、本人の言葉によると、まだ知られていないこと------未知に向かって描いているらしい。

 そうした作者の言葉に誘導されているのかもしれないが、確かに、描くことに対しての迷いがないというか、最初から「絵画のおわり」のようなことを、ある意味で無視しているような、新しい場所に向かっているような広がりを感じて、なんだか新鮮だった。

 それは、過去の作品や、現代の他の作家と並べていることによって、より感じたことかもしれない。

 

未来をかえようとする切実な試行錯誤

 これで、この展覧会の展示は終わりだった。

 入場してから3時間が過ぎていた。

 それでも、全部の作品を丁寧に見た、という印象はなかった。特に、文章がかなり多いので、それも含めて全部をもっと読めば、もっと深く鑑賞できたのは間違いなのだろうけれど、それでも、満足感と疲労感の両方があった。

 だからもしも、この展覧会を、俗なことを言えば2000円という安いとは言えない入場料のもとを取ろうとすれば、もっと長い時間、たとえば、4時間とか5時間を見込んでもらえたら、さらに作品を理解できるだろうし、あちこちに座る場所もあるので、休みながら、それこそ作品を体験できるように鑑賞できると思う。展覧会のインタビュー集にも掲載されていないような言葉も多いので、すべてを吸収しようとするならば、この展覧会の現場にしかないことも多い。

 この展覧会をおこなった後の、国立西洋美術館は、これまでのあり方と、意識しても、無視したとしても、どうしても、少しだけど変わってくると思う。

 

 これまでを振り返って、考えて、本当に反省し、これからのことをなんとかしよう、という切実なこころみがなければ、未来がなくなっていく、という姿を、この30年間、ずっと見続けてきた気がする。

 だから、今回、65年目に、日本の現代美術家が作品を出品した、こうした展覧会をおこなったことによって、すでに古くて特殊なシステムとして今後衰退していったかもしれない国立西洋美術館は、未来へも必要な場所になっていくかもしれない、とは思った。

 

 

(『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』インタビュー集)

https://amzn.to/4aEGrp6

MOTコレクション。特集展示『横尾忠則 水のように』。2023.12.10~2024.3.10。東京都現代美術館。

特集展示『横尾忠則 水のように』。2023.12.10~2024.3.10。東京都現代美術館

2024年3月10日。

 東京都現代美術館の常設展は、ここ何年か充実していることが多い。

 1階は「歩く、赴く、移動する」をテーマにし、それまで見た記憶がないような作品も多く新鮮だった。

 そのあと、3階に上がる。

 展示室に入ると、サム・フランシスの作品が並んでいる。

 とても大きく、空白が広すぎると思っていた作品が、壁一面に広がるように設置されていて、そこにはベンチもあるから、時間があればもっとゆっくりとしたいくらいだけど、やっぱり気持ちがよかった。

 そして、こうした作品は、何枚も、広くて天井が高い空間にあってこそ、力を発揮するように今回も思えた。

 

 そのあとの展示室には「横尾忠則のゆかりの作家たち」というテーマで作品が並んでいる。

 こうした「ゆかり」というくくりで、紹介される場合は、かなり強引なことも多いのだけど、横尾忠則は、長く現役で積極的に作品を制作し続けていることもあって、本当にいろいろなアーティストと関わりがあることを改めて知ったりもする。

 

 ジェニファー・バートレットという作家は、初めて知った。

 重く強い色合いで、力強く描かれた絵画。それと呼応するようなざっくりとした立体がそばにあって、何とも言えない広がりを感じた。

 そして、こういう場所で、知らない作家を知ることができたのも、収穫だった。

 

 横尾忠則は、「水のように」というテーマで、また特集展示がされていた。

 この20年間でも、横尾忠則の作品は、あちこちで見てきた。昔のスター・デザイナーでもあったことは知っていたし、ポスターも有名だし、それは過去の作品ではあったけれど、新鮮だったし、何より横尾は、この時間も現役で、しかも、新しい作品を文字通り次々と大量に制作していたから、新作も見ることができてきた。

 もちろん、その作品は、いつも一目見て「あ、横尾忠則だ」と分かる作風は同じだったのだけど、次々と違うことをテーマにしていて、だから、いつも新鮮に感じた。年齢のことを語るのは失礼だとは思うけれど、80代後半で、観客も次の作品へ期待させるのはすごいことだと改めて思う。

 今回の特集展示も見たことがある作品と、見たことがないかもしれない作品が混在していて、それも時代も結構バラバラだったはずなのだけど、横尾作品としての統一感はあった。

 何だかすごい。

 

常設展

 3階の最後の展示室には、いつも宮島達男の作品がある。

 壁を覆うような大きさのボードに、無数のカウンターが設置されている。

 それは、少し遠くから見ると。星の瞬きようにも思えるけれど、それぞれのカウンターは、9から1までを繰り返し、0のときには、ただ暗くなるから、黒に見える。

 そのそれぞれのカウンターの数字が変化していく速度も違うから、とても早く変わっていくところと、なかなか次の数字にいかない場所もある。全体をぼんやりと見ていると、ちょっと眠くなるような感じにもなるし、そうやって、個々のカウンターに注目すると、その違いが気になってもくる。

 

 常設展も、大体が企画展に合わせて、会期が決まっているから、今回、こうして紹介してきた展示も、おそらく全く同じように作品が並べられることはないはずだ。

 だから、終わってしまった展示を書いても、それを読んでもらって、興味を持ってくれた場合にも、もう同じ展示を見ることはできない、と思う。

 それでも、東京都現代美術館の常設展示は、これからも収蔵作品は増えていくはずだし、そして、今回も、前回も期待を裏切らない新鮮な展示をしてくれたので、まだ見ていないことに対して何かいうのは難しいとしても、次の常設展も、きっと、いつも同じではなくて、テーマを掲げて、まるで企画展のような展示が見られると思う。

 

 そして、常設展の最後に、宮島達男の作品があるのは、おそらく変わらないのは、かなり巨大で重量もありそうで、場所を変えるだけでも大変そうだからだけど、変化のある常設展の後に、いつも同じ作品が見られる気持ちよさは感じるので、ずっと、この場所にあることも嬉しいように思う。

 

 

『GENKYO 横尾忠則

https://amzn.to/3Ji0sFK

 

MOTコレクション『歩く、赴く、移動する 1923→2020』。2023.12.10~2024.3.10。東京都現代美術館。

MOTコレクション『歩く、赴く、移動する 1923→2020』。2023.12.10~2024.3.10。東京都現代美術館

東京都現代美術館

 美術館に行くときは、その時期に開催されている企画展を目的に出かけることが多い。

 だから、常設展は、その鑑賞のあと、心身の余裕があれば見ることになる。だから、どうしても、気持ちの中で、ついで、といった感じがあって、東京都現代美術館ができた頃も、そんなふうに常設展を見ていた。

 建物の隅っこに常設展の入り口があって、そこから歩いて入ると、現代美術の定義の一つといわれる1945年以降の作品が並んでいる。それは、確かに日本の美術の歴史であって、重要なのはわかるのだけど、2000年代の初頭までは、常設展では、そこにいつも同じような作品を見ることになって、だから、どうしてもマンネリな感じがしてしまって、余計に、見る機会が減っていた。

 

常設展の変化

 それが、いつのことかよく覚えていないのだけど、東京都現代美術館の常設展は変わってきた。もしかしたら、3年の期間を使ってリニューアルした後の2019年以降かもしれないし、それ以前かもしれない。

 どちらにしても、明らかに変化をしてきた。

 毎回、常設展であってもテーマを掲げることは慣習化されているようなのだけど、最近は、そのテーマに沿っていて、企画展と思えるほど新鮮で充実した展示になっている。

 だから、ここ何年かは、企画展を見て、それが興味深いほど微妙に疲れるのだけど、それでも、常設展に足を向けるようになった。

 妻と一緒に東京都美術館に行って、企画展を見て、そのあとに疲れていたとしても、妻にも、できたら常設展を見ようと、以前よりも積極的に誘うようになったのは、その展示が魅力的になっていたからだった。

 そして、見る前には、どんな展示かもわからないのだけど、ここ最近は、実際に鑑賞しても、期待を上回ることが多くなっていた。

 今回の常設展は、2023.12.10~2024.3.10までの期間だった。

 

『歩く、赴く、移動する 1923→2020』

 展示室には戦前の作品から並んでいた。それは「現代美術」という定義から見たら、違うのかもしれないけれど、それにはきちんと意味があった。

 最初の展示室のテーマは「1.東京を歩く」だった。

 街を歩き、そこで出会った風景を描くこと----- 冒頭の一室では、今年100年の節目を迎えた関東大震災から、第二次世界大戦後までの東京を一堂に展示します。

 災害のことは、自分自身が当事者でないほど、忘れていくことが多い。それは、自分でも情けないというか、恥ずかしい思いもあるのだけど、もしかしたら、大災害ほど忘れたい、というような気持ちさえあるのかもしれない、とも感じる。

 だから、関東大震災から100年経ったことも、全く知らなかったのは、そうしたことを覚えたくないような思いがあるせいだろうけれど、それだけの年月が経っても、こうして、その現場を知っている作家が描いたスケッチでさえも、何もなくなってしまったことは伝わってくるし、日常が嫌でも変わってしまったことも描かれている。

 その行為は、パンフレットによると、鹿子木孟郎は「罹災者の避難を浴びながら」の写生でもあったようなのだけど、それは、いつの時代の災害でも共通することでもあって、だけど、このことを残さなければ、という使命感のようなものもなければ、できなかったことだろうとは思う。

 そして、松本竣介の戦中戦後のデッサンや、スケッチなども並んでいた。

 その展示室の意味の重さに改めて気がつけたのは、常設展とは思えないほど、40ページにも及ぶ、デザイン的にも力が入ったのがわかるパンフレットがあって、それを持ち帰り、読んだからで、鑑賞後に時間が経ってからでも、そうした資料があると、自分の中で作品の意味自体が変わるのが、わかる。

 

現場、清澄白河、世界

 赴いたり、歩いたり、移動するのは、東京だけではなく、さまざまな場所になる。

「2. 現場に赴く」では、社会の現場といえる場所を描いた作品が並んでいる。

 戦後日本において政治的/社会的な事象の現場に赴き、それを取材して描く「ルポルタージュ絵画」と呼ばれる表現を見せた作家たちを取り上げます。

                    (パンフレットより)

 労働問題など、さまざまな課題があり、そうした現場のことについては、おそらくは内部に入って撮影なども難しくても、そうした事象を取材して描くことはできる。そうした思いもあって、制作された作品で、それは重さもあるけれど、当たり前だけど伝わる力も強かった。

 そして、こうした作品が、この東京都現代美術館の初期の常設展で、展示室に入ると最初の方で並んでいた印象だった。

 

「3. 清澄白河を歩く」

 この美術館の地元が清澄白河で、1990年代後半に、この美術館ができた頃は、何もないような場所に思えていた。古くからの商店街はあったけれど、個人的な印象では、2015年にブルーボトルコーヒー清澄白河に日本初上陸してから、他のカフェやオシャレなショップが増えてきたように思う。

 それ以前のスケッチや、現在に近い風景は、「ワタリドリ計画」が作品化してくれていた。

 麻生知子と、武内明子の二人が、日本全国を旅して、それを題材にして展示を行うプロジェクトで、「ワタリドリ計画」の作品を最初に見たのは、岡本太郎美術館で、受賞作品としてだった。そのときも、人間が感じられる範囲を、丁寧に手作り感が伝わってくる形にしていて新鮮だったが、今回も、2020年当時に、美術館周辺の深川を旅して制作されたものだった。

 絵画を中心に、カルタの制作まで行っていて、それは、都内という身近な場所であっても、旅が成立することや、美術館の周辺は観客として何度か訪れている場所だったから、知っていると思っていても、まるで知らないことが多いようにも感じた。映像もあって、それは、テレビで見る「街歩き」のようでいて、柔らかさはあるものの、独特の生々しさがあって、目が離せなかった。

 この「ワタリドリ計画」の作品があったことで、今回の常設展を見てよかった、と改めて思えた。

 

(「ワタリドリ計画」サイト)

http://www.wataridori-keikaku.net

 

 他にも、世界を歩いたり、移動そのものを作品化したりして、スケールも大きく、もしくは視点が混乱するようなものだったりもして、それは、これまでの常設展でもしかしたら見たことがない作品が並んでいたように思う。

 ここまでも、長い時間を行ったり来たり、身近な場所だったり、遠い世界へ向かったり、といった作品が展示されていて、気持ちや思考もあっちこっちへ動かされた気もして、少し疲れたけれど充実した思いになった。

 

 そして、1階の展示の最後には、文庫本を使った作品があった。

 それは、ささやかに見えて、物理的にも小さかったけれど、文庫本に刺しゅうを施した作品は、特に妻は、とても熱心に見ていた。それは、小さな工夫にも思えたけれど、その文庫本は、旅や冒険に関する作品で、作者の福田尚代が繰り返し読んでいた大事な本らしく、そのことが、その文庫本を読み込んだ状態にしていたし、そこに時間が形になっているように思えて、作品に力を与えているように見えた。

 

(「ひかり埃のきみ」福田尚代)

https://amzn.to/3VJQm89

 

『具ささ』。2024.3.2~3.24。青山|目黒。

『具ささ』。2024.3.2~3.24。青山|目黒。

(『青山|目黒』 サイト)

https://dictionary.goo.ne.jp/word/具に/

 この展覧会のタイトルは「つぶさささ」と読むと、ギャラリーのサイトで初めて知った。

 もし、文章で使うとすれば、「具に」ということになるらしいし、それは「細かくて、詳しいさま」になるから、「具ささ」という言葉が正確かどうかはわからないけれど、おそらくは、細かさ。だけど、その細かさだけではなく、詳しさ、とかも含めた表現なのではないか、といったことを考えてしまう。

 

キュレーション

 最初に目に入ったのはキュレーションした人の名前だった。

 遠藤水城

 2017年に栃木県での展覧会をキュレーションし、そのことを書いた記事を読んで、どうしても行きたくなって、まだ介護中だったけれど、妻と相談して、家から片道2時間以上かけて、知らない街の駅に降りて見に行った。

 

(『裏声で歌へ』 「アート観客」ブログ)

https://artaudience.hatenablog.com/entry/2020/07/08/104941

 それは、意外なほど派手な印象のある「戦争柄」と言われる着物や、地元の中学校の合唱コンクールの映像や、それに最も見たかったのが、東日本大震災にショックを受けて制作した「水中エンジン」で、そこに探知機があるような場所で、だから、場合によってはリスクのある作品だけど、それが作動し、クルマのエンジンが水の中で動いているだけなのに、どこか怖さとか不思議さとか、いろいろな感情が起こったのを覚えている。

 その展覧会のテーマは、おそらくは重いものでもあるのだろうけれど、作品は多様で、もちろん「水中エンジン」もそうだけど、視覚的な刺激も新鮮で、自分にとっては遠出でもあったのだけど、行ってよかったと思えた。

 これは、やはりキュレーションの力を強めに感じた。

 それから、年月が経っていても、その名前を覚えていたくらいだった。

HAPS

 美術界のシステムなどは、よく知らないのだけど、今回の展覧会は、HAPSという団体によって開催されているらしい。

 

(「美術手帖」サイト)

https://oil.bijutsutecho.com/gallery/277

HAPS2011年に東山 アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)として設立され、2019年より一般社団法人HAPSとして活動するアート・インスティテューション。HAPS OfficeHAPS StudioHAPS House京都市内に3ヶ所の拠点を持ち、若手芸術家の居住・制作・発表支援、文化芸術による共生社会実現など、現代美術に関わる多様なプログラムを展開。
 

 HAPS KYOTOではHAPS監修のもと、京都出身、京都を拠点として活動するアーティストを紹介。今後の飛躍が期待される若手や商業ベースに乗りにくい作家、京都のアートシーンに確かな足跡を残してきた作家をHAPS独自の視点でセレクト、その収益を作家本人ならびに今後の作家支援に還元する。

                            (「美術手帖」サイトより)

 こうした活動が本当に正常に機能していたら、それはアーティストにとってとてもありがたい団体だと思う。

 

(「HAPS KYOTO」サイト)

https://haps-kyoto.com/tsubusasasa/

今回の展覧会「具ささ」は、「HAPS KYOTO」出展作家である武内ももと、大田黒衣美・黒田岳・斎藤玲児・千葉雅也といった、ジャンルや年齢にとらわれない表現者が一堂に会します。多様な作家それぞれの方法が積み重ねられた作品を、会場に配された「具」ととらえ、作品同士の相互作用とそれらを包摂する部屋の様相を「具に」ご覧いただくことを通じ、手法やメディウム、空間を超えた共鳴が直感されることでしょう。

                         (「HAPS KYOTO」サイトより)

 やや分かりにくい文章だけど、その空間が、あまり経験のないような気配になっているかも、などと楽しみになったのは、キュレーターの遠藤水城の展覧会の記憶があったせいだと思う。

 

2024年3月16日

 今回は中目黒から歩いた。

 目黒区役所を通り過ぎ、さらに歩いて、かなり遠くまで来たのでは、と思う頃に急にギャラリーは現れる。

 入り口は、鉄でできていて、一見、ドアのように見えないが、そこを開けると、中に入れる。

 思ったよりも、ガランとしていた。

 それは、壁に設置されている作品のサイズがどれも小さめだったからだ。

 陶器や紙やキャンバスのようなものだったり、とその素材は様々なのは分かったけれど、どれもA4サイズに収まる大きさだった。

 さらには、その形も色も一見主張が強くないので、白い壁になじんでいて、さらには、展示されている作品同士も、自分が前に出る感じではないから、刺激も少なく思えた。

 それで、その空間には「具」があるのに、そして、それなりの数の作品も存在しているのに、鑑賞者に迫ってくるような気配は薄かった。

 だから、空間が広く感じたのだと思う。

 

つぶさに

 その奥のスペースでは、映像作品が流れている。

 人やものや風景が断片的に、つながりもそれほどなく、それもブレたりピントが合っていなかったりする画面が変わっていく。

 何が起こるわけでもなく、そして時々、静止画(たぶん、写真なのだろうけど)になる。

 全く知らない人や、見たことがない場所のはずなのに、なんとなく懐かしい、という感じがするのは、誰かの日常の映像で、それも、例えばドラマのようなフィクションや、バラエティ番組で耳にする「撮れ高」とは全く真逆の、だけど、見ていて感じる退屈さや親近感は、生きている時間の大部分が、こうしたことなのではないか、といったことを思うのは、やはり、ここに来る前に「具ささ」のことについて、どうしても考えてしまっていたせいかもしれない。

 それは、斎藤玲児の作品だった。

 しばらく少し暗い中で、その映像を見て、また明るい展示室へ戻る。

 

 それぞれの作品は、やはり小さく、さりげなく、だけど、「つぶさに」見ていくと、当然だけど違う。

 その中で、最も日常的な素材と制作方法だと思ったのは、紙にテープを貼り、そこに何かを描き加えただけの平面だった。

 千葉雅也。

立命館大学大学院先端総合学術研究科教授。20世紀の哲学思想を起点とし、芸術、文化、社会について幅広く考察している。小説家としても活動する。以前行っていた美術制作を2020年に再開した。本展がその最初の展示となる。

                  (「HAPS KYOTO」サイトより)       

 ギャラリーで見ていたときは、失礼なことだけど「千葉正也」と思い込んでいて、いつもの作品と違うなどと勝手に思っていたが、哲学の分野で、自分が理解が届かないところもあるが、小説などでも重要な作品を発表している「千葉雅也」だったことに後になって気づいた。

 ギャラリーで見ているときは、この誰でもできそうな行為で、だけど、それを最低限な動きで、作品として成り立っていることに、しばらく見ていると、「具ささ」といったことを、分かっていないとしても、思っていた。

 他にも制作方法としては、伝統的な焼き物としての作品もあって、かなりオーソドックスに見えるものと、ただ焼いただけではなく、それを方法として選択しただけで立体作品のように思えるものがあった。

 それぞれ、黒田岳と、武内ももの作品だった。

1946年長野県生まれ。萩陶芸家協会正会員。南地工房にて作陶。一度焼いた上からさらに焼成を重ねる「鬼萩」と呼ばれる手法を用い、通常の萩焼より強度が高く、力強い表情と質感の器を生み出している。

                         (「HAPS KYOTO」サイトより)

 これは黒田岳のプロフィールだけど、このギャラリーに並んでいるせいか、その「強度」が目立たなかった。

 

1997 年生まれ。2021年京都精華大学芸術学部陶芸コース卒業。陶芸と人、その周辺で同時に起こりうる複数の時間や身体のあり方について関心を持ち、暮らしにまつわる人やもの、風景や現象を起点に、陶芸の素材に由来する特性や焼成による変化を重ね合わせた作品を制作・発表する。

                        (「HAPS KYOTO」サイトより) 

 これは武内もものプロフィールで、この作品にまつわるあれこれに関しては、その立体は大げさでなく、でも素材も含めて複雑さは感じるし、作品名に、その要素が表されているように長い文章があった。

 

こちらから見に行くこと

 そして、小さいとしても、絵画のような作品もあった。

 それも、あいまいな仕上がりだから、オーソドックスとは言えないけれど、ここにあると、変な表現だけど、美術作品に見えたが、ただ、その表面は半透明な紙のようなもので覆われていて、よく見えない。

 だから、近づいてよく見ても、でも、その全体としてつかめない感じは変わらなくて、それでも、最初にギャラリーに入ったときのように、ただ見まわしただけだったら、その感じは、味わえなかったと思うから、やはり、こちらから見に行く感じがないと、印象も違っていたと思う。

 

ウズラの卵やチューイングガム、ティッシュペーパーなどを素材として、絵画、写真、映像、インスタレーションなど、さまざまな手法を用いて不安定な心に潜む原始的な知覚や思念を顕現させる作品を制作している。

                    (「HAPS KYOTO」サイトより)

 

 これは大田黒衣美のプロフィールで、ここまでの感覚は分からなかったけれど、それでも、見ようと思って見たから、この感じには、少しだけど近づけたかもしれない。

 

だから、もしも、この小さい作品が並んでいて、その前に「具ささ」といった言葉や、どういった経緯で、この展覧会が開かれているかを知らなかったら、おそらく、ただ空間が広すぎる、といった印象で、こちらから見に行かないと、分からない部分が多い作品が多かった、と思う。

 

 そうであれば、やはり、こうした展覧会は、そこにまつわる言葉に触れた方が、より豊かになったし、それこそ「つぶさに」見ることができたのは、そうした言葉のおかげだったと思う。

 

 

 

 

未来のアートと倫理のために | 山田創平, 鬣恒太郎, 今井朋, 樅山智子, あかたちかこ, 小泉明郎, 内山幸子, 吉澤弥生, 竹田恵子, 飯田和敏, 鷹野隆大, 緒方江美, ウー・マーリー, 住友文彦, 猿ヶ澤かなえ, 三輪晃義, 遠藤水城, 百瀬文, 堀井ヒロツグ |本 | 通販 | Amazon

 

 

 

 

『都市にひそむミエナイモノ展』。2023.12.15~2024.3.24。SusHi Tech Square。

『都市にひそむミエナイモノ展』。2023.12.15~2024.3.24。SusHi Tech Square。

 美術館に行くと、だいたい少し隅っこのスペース。入り口付近や、トイレに行く時の動線に、他のギャラリーや美術館のチラシが置いてあるスペースがあって、そこで、次の機会に行きたいところを探す。

 その中に、いつも使ういくつかのサイトには載っていないような展覧会などもあって、それは思ったよりもいいのか、それとも残念な展覧会なのか、といった邪推をしてしまうけれど、とにかく行ってみないとわからない。

 今回も、『都市にひそむミエナイモノ展』は、自分にとっては未知の展覧会だった。

 

作家名

 まず行ったことがない場所だった。

 最初は、何を書いてあるのかよく確認もしないで、浜松町の駅から近いこと。無料で観覧できることだけをみて、チラシをもらってきた。

「スシ・テック・スクエア」という名前で、それは、おそらくは海外むけのネーミングではないかとは思うのだけど、坂本九の「上を向いて歩こう」の曲を「スキヤキ」としてヒットさせる感覚を思い出してしまい、ちょっと警戒もした。「クールジャパン」を押し出した政治がらみの動きは、納得もできなかったからだ。同時に、本当に、ここに寿司屋もあればいいのだけど、と余計なことまで考える。

 

 あとは、当たり前だけど、誰が出品しているかで、判断したりもする。

 自分の無知もあるのだけど、ほとんど知らない作家ばかりだった。その名前が並ぶ中に、「八谷和彦」という名前を見つける。正確に言えば、「八谷和研究室」に所属する作家が二人作品を出すということだった。

 島田清夏・平野真美

 それで見にいこうと思えた。

 

八谷和彦

 もう、随分と昔になってしまうけれど、八谷和彦というアーティストを知ったのは、メールソフトの「ポストペット」の開発者だったことで、現実の社会で商品化できて、それもヒットする作品を出せることに、次の時代を感じていた。メディアアーティストと呼ばれていた。

 2000年代には、「風の谷のナウシカ」に出てくる、ナウシカが乗って空を飛ぶ「メーヴェ」を実際に制作し、それに乗って空を飛ぶ、というプロジェクトを10年かけて行っていたが、その前に、エアボードプロジェクトにも取り組んでいたのを覚えている。

 https://artaudience.hatenablog.com/entry/2020/07/27/102809

 東京都現代美術館の中庭のような場所で、「バックトゥーザフューチャー」の主人公が「未来」で乗っている「エアボード」を実作し、本人が試乗したことがあった。最初は、多くの人が取り囲んでいて、かなり近くにいたのだけど、小さいながらもジェットエンジンがかかり、音が無段階に上がっていき、その後のごう音は、あまり近くで聞いたことのない災害のような印象だったから、私だけではなく、そこにいる人たちみんなが後ずさりしていたと思う。

 ただ、八谷本人は、そのエアボードに乗り、冷静な表情のまま浮遊していた。

 その作品への覚悟も含めて、すごいと思っていたから、さらに危険性のある「メーヴェ」を本当に飛ばしたということを知っても、なんだか納得がいった。

 今は、アーティストでもあるけれど、東京芸術大学の「先生」でもあって、その研究室で学ぶ人が作品を出展するというので、行こうと思えた。
 

キュレーター

 あとは、展覧会のキュレーターによって、随分と違う展示になるはずだから、チラシに書いてある塚田有那という人を調べた。失礼ながら、どんな人かを知らなかったし、他の展覧会でもその名前を見たことがなかった。

 

『BE AT TOKYO  塚田有那』

https://be-at-tokyo.com/projects/beatcast/5846/

 

 こうした記事を読むと、申し訳ないのだけど、恵まれた環境で育って、20代から才能を発揮しているキラキラした人に思えて、なんだかとても縁遠く感じたし、企画した展覧会なども、コロナ禍もあって知らないままだった。

 ただ、同時に、こうした記事にも気がついた。

 

(『都市にひそむミエナイモノ展』 本展キュレーターのご逝去について)

https://sushitech-real.metro.tokyo.lg.jp/second/news/52/

 

 プロフィールによると、1987年生まれだから、まだ40歳にもなっていないはずで、どうやら病気だったことも他の情報で知ったものの、それは、やはり理不尽なものに感じた。

 それも、キューレーターを務めた展覧会が始まった翌日に亡くなったことを知った。

 

 

『都市にひそむミエナイモノ展』

https://sushitech-real.metro.tokyo.lg.jp/second/

 

2024年3月9日。

 どうやら東京都が主催しているかどうかもわからないけれど、そうした「スシテックスクエア」の「スシ」は、「サステナブル ハイ シティ」のアルファベットから作った略語のようなものらしいが、そういう言葉を知ると「官製展覧会」ではと、再び警戒心が募る。

 浜松町で降りて、歩いて、元「無印良品」があった場所に、その「スシテックスクエア」はあった。入り口付近にスタッフが大勢いて、何かを配ったり、あちこちに机があって、チラシのようなものが置かれていて、会場の雰囲気は、東京ビッグサイトでの展示会のような感じだった。

 入り口付近には、この展覧会の大きいタイトルがある。

 そのそばには、小さく、キュレーターの死去に関する文章があった。

本展キュレーターの塚田有那さんが、2023年12月16日に逝去されました。
本展覧会への多大なるご尽力に感謝申し上げ、心よりご冥福をお祈りいたします。

 こうして明らかにするのは、まともなあり方だと思わせた。

 

 会場は思ったよりも広く、そして、想像以上に人が多かった。入り口で、パンプレットのようなものを渡してくれて、さらに、子どもたちの姿が目立ち、ちょっとした観光地のようで、ちょっと気持ちが引けた。

 入り口の付近には、映像が目立って、それは、子どもたちが参加していて、シミュレーションゲームのような作品は、ちょっと遠くから見るだけだったり、横断歩道を、AIに見つからないように向こうまで渡り切るようなチャレンジは面白そうだったし、困難な課題をクリアしてゴールをした人には拍手が起こっていて楽しそうだったけれど、列ができていてあきらめる。アニメの聖地をテーマとした作品は、映像をしばらく見ていて、その字幕で語られている内容での期待を上回りそうもないと感じ、席を立った。

 それでも、会場は広くて、もう少しいろいろと回ると、目をひく作品はあった。

 

あの山の裏

 藤倉麻子の作品は、出来上がりの途中のような小屋のような立体があり、その壁に抽象的で、でもちょっと得体のしれない映像が流れていて、それは印象に残るようなものだった。
 

 いつも目にする景色の「裏側」を想像したことはありますか?かつて共同体のなかでは、その地にそびえたつ「山の裏」に楽園や死後の世界があるとも考えられてきました。それは物理的な場所と捉えられることもあれば、人々のイメージのなかにだけ存在する世界であったりもします。

 都市郊外で生まれ育った藤倉麻子は、現代の都市がつくりだす風土のなかにも、「山の裏」を想起してしまう、ささやかな信仰が生まれていると言います。巨大なインフラ構造のすきまからのぞく遠浅のビーチの看板。そんなかすかな景色の残像が、人々に現代の楽園を想起させるのだと。

 手渡されたパンフレットに書いてあった作品の説明自体が、とても興味深かったし、そうした都市のすきまのような部分のことを、その藤倉の映像作品を見ながら、自分にとっても、そうした「山の裏」のような場所があったのではないだろうか、という記憶の検索のようなものをしていたと思う。

 だから、自分にとっても普段の意識とは違う働きをしていたはずだ。

 

特別展示

 この「特別展示」と、他の展示がどう違うのかはよく分からないし、その説明もなかったはずだけど、平野真美と、島田清夏の二人の作家は、東京藝術大学の「メーヴェ」に乗った八谷和彦の研究室で学んでいる学生だった。

 

 平野は「蘇生するユニコーン」という作品。

 ケースの中には、ぐったりと横たわった「ユニコーン」がいて、それは平野が体のさまざまな部位を創作し、そこに酸素や液体を送り込んで、蘇生させている。

それは、その創作物のあり方が、架空の生き物なのに、いるのかもしれない、といった気持ちになったりもして、それは、その周りのにぎやかさとは異質な作品に思えた。

 

 島田は「おとずれなかったもう一つの世界のための花火」という作品。

 それは、もともと日本の花火大会は、祭りと鎮魂の意味を持っていたにも関わらず、災害時には中止になりがちだった。

 2020年にコロナ禍で日本各地の花火大会が中止になった。もしも、行われていたら、という仮定で、それを映像化した作品。

 もしも、鎮魂という意味があるのであれば、コロナ禍での犠牲者のことも含めて、意味を重ねてほしかった、といった観客としての勝手な思いもあったけれど、花火、というもの自体の存在については、少し考えさせてくれた。

 

 他にも広くて、プレイグラウンドというような、いってみれば参加型のような場所もあって、本当にゆっくりしようと思えば、二時間以上はいられそうな展覧会だった。

 最初は、すぐにでも帰ろうと思っていたのだけど、何人かの作家の作品のおかげで、40分くらいはいることができたし、スタンプを集めて、帰るときにステッカーももらったので、楽しめたのだと思う。

 ただ出口のところに、何分くらい滞在しましたか?ということで、押すボタンがあって、それに協力はしたのだけど、そうしたデータもとるところが、公共事業っぽいし、ちょっと怖さも感じた。

 当初は、3月10日までだったので、少し焦って行ったのだけど、24日まで会期が延長になった。

 それが納得できるほど、人が多くいたのも事実だった。

 

 

 

 

 (『ART SCIENCE IS.』 塚田有那)

https://amzn.to/4amwAUe

 

2024.3.13 アートブログ 『豊嶋康子 発生法──天地左右の裏表』。2023年12月9日〜2024年3月10日。東京都現代美術館。

 

2024年2月27日。

 1990年代の末だから、もう25年くらい前のことになる。

 豊嶋康子の作品は目にしていて、記憶に残っているけれど、印象に強いわけではない。

 

 確か、一本の鉛筆の真ん中を削って、そこに両方から芯が出て、それがつながっているような鉛筆がケースに入っている作品だった。それはパッと見ると鉛筆が二本ありそうだけど、一本の鉛筆が、そのような形になって、でも、使えない状態になっている。

 それは、学生のアイデアのようなものを形にしていて、誰もができそうで、しかも身近でスケールが大きいとはいえなくて、だけど、少しでも考えたら、鉛筆はその頃は、もっと日常的に使われていて、このように真ん中を削って、鉛筆だけど、鉛筆ではないようなものを実際につくって、それを作品として展示するまでが、実はかなり困難なことに後になって気がついたりもする。

 さらには、壁にたくさんの振込カードが展示されているのは分かった。そこに作者の豊嶋自身の名前もあったから、作家本人が行った行為なのも理解できたのだけど、その意味自体がよく分かっていなかった。

 だから、人目をとてもひく、というような作品ではなかったから、強く印象に残ったわけではなかったのだろうけれど、でも、そうした誰もができそうに思えた作品も、意外と、似ている作品が少ないまま、年月が経った。

 

習慣

 私も1990年代が終わる頃に、介護を始めて、仕事もやめて、それから、20年近く介護を続けることになったけれど、その間も、アートを見に行くことで、気持ちが支えられる習慣は続いていた。

 介護が終わった後に、コロナ禍になりアートを見る機会が圧倒的に減った時期もあって、それでも人混みを避けながら、時々見に行った。こういう言い方は失礼だとは思うけれど、私が行きたいと思うような現代アートの展覧会は、かなり空いていることが多かったから、そういう意味ではコロナ禍でも行けたのかもしれない。

 そして、2023年の年末から、豊嶋康子のかなり大規模な個展が初めて行われるということを知った。

 

インタビュー

『Tokyo Art  Navigation  豊嶋康子インタビュー』

https://tokyoartnavi.jp/column/33746/

 そうした個展が開かれることもあって、インタビューも行われ、考えたら、初めて作家の考えていることを、比較的詳しく知ることもできたし、この30年の経過も少しだけど、分かるような気がした。

 勝手に意外だったのが、アーティストとして、かなり苦しんだ時期が長いことだった。

 

若くしてデビューしたものの、その後は大きな活動の機会も減り、悩みの時代が続いた。地道に制作を続けるも、展示やレジデンスの機会に恵まれず、周囲の動きに戸惑っていたという。

豊嶋 2000年代はターニング・ポイントがないことがターニング・ポイントのような時代でした。デビュー後、1994年には美術評論家の鷹見明彦さんらが企画した展示に呼んでいただき、今後発表の機会が増えるのだろうと思っていたら、そうでもなく。95年には一人暮らしを諦めて埼玉の実家に戻りました。そして、戸惑いのうちに2000年代が進みました。
少し上の世代は海外に行っているという情報もあり、私もどこかにいくべきかといろいろ申請しましたが、《ミニ投資》や《口座開設》は日本のシステムを使っていますから、文脈が複雑で説明が必要な作品になってしまう。そうして私がもたついている間にコマーシャル・ギャラリーが増加し、自分より若い世代はそこに所属することが普通になった。ちょうど世代の狭間に落ちたような感覚でしたね。「私はこんなに考えているのに、なんで上手くいかないのか」と不貞腐れていた。「ポイント」ではなく、長期的な焦りのような「ターニング・ゾーン」とでもいう期間が200007年頃まで続き、とても悩んだ時期でした。

──その長いトンネルをどう抜けたのですか?

豊嶋 その状況に飽き飽きして、どうして不貞腐れたのかわからなくなるほどエネルギーを使い果たしたのが2007年ぐらいです。ちょうどそのころ、相撲を見ることに不思議なほど集中した時期があって、そこで毒が抜けたと言いますか、徐々に道が開けていきました。 (「Tokyo Art  Navigation 」より)

 

 豊嶋は、東京藝術大学在学中に、美術館でのグループ展に作品を展示していたのだから、未来は明るく見えていたはずだ。さらには、このインタビューの中にあるように20代のうちに美術評論家の企画した展示にも呼ばれれば、もっと発表の機会が増えると思ってしまうのは自然なことのはずだ。

  だから、私が豊嶋の作品を初めて見た1990年代の後半は、すでに本人的にはうまくいかず実家に戻っている頃だったのも、このインタビューで初めて知った。

 

  ただ、1990年代後半の観客にとっては、豊嶋はまだ若手で、新表現主義という、かなり粗い説明をすれば、その時代の「新しい絵画表現」が盛んになっていた頃だったから、豊嶋のようなコンセプチャルな表現を続けている作家は希少なようにも思えたし、そこに勝手に強い意志を感じていたから、当たり前だけど、作品にそうした戸惑いのようなものを見ることができなかった。

 

  その後、実はかなり長い年月が流れていて、その間も現代アートを見続けていたけれど、豊嶋の作品は時々、見かけていた印象があるし、2010年代半ばには、グループ展で見たのは新作のはずで、それはパネルを使ったものだったけれど、スタイルは違っているにも関わらず、20年前に見た作品と、一貫してつながっているように感じた。

 

  インタビューによれば、2000年から2007年という長い年月の間、かなり戸惑いと焦りの中にいたことは、観客としては感じなかった。

 

  ただ、今回、こうした本人の言葉を少しでも知ると、若くしてデビューできたとしてもアーティストとして続けていくことの難しさを改めて感じ、こうしてコンパクトにまとめられているものの、その焦りと戸惑いの時間は、豊嶋の30代とほぼ重なっていたはずで、作品制作に関してはもっとも体力も気力も充実していたはずの時期に、発表の機会に恵まれなかったのに、それでも、やめなかった凄さのようなものの、勝手に感じていた。

  それで、より今回の個展に興味が持てた。

 

 

豊嶋康子 発生法──天地左右の裏表

https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/toyoshima_yasuko/

(「東京都現代美術館」サイト)

 その展示会場は、東京都現代美術館の1階で、外からも内部が見える。木製の並んでいる姿は、窓を通しても、なんだか美しく見えた。

 最初の部屋には、木製のパネルが並んでいる。

 そして、最近の展覧会には紙製のハンドアウトは少なくなってきて、QRコードを読み込んでください、といった場合も増えてきて、スマホも携帯も所持したことがない観客にとって少し戸惑うこともあったのだけど、この展覧会はそのハンドアウトはあった。

 そして、普段はそれほど見ないことも多いのだけど、今回の展覧会に関しては、この説明が必要不可欠だった。

 展示されている作品には、キャプションなどはないから、ハンドアウトを見て、現在位置を確認して、そして番号と作品が一致しているのも見直して、その番号の説明を読む。

38 パネル

2013―

本来は干渉する部分ではない

パネルの裏面に、他にあり得るであろう

骨組みのパターンを増やし続ける。

壁に斜めに掛けてあるので、鑑賞者は

作品の横から裏面を覗き込むことができる。

         (展覧会「ハンドアウト」より)

 そんな言葉があったものの、それで、何か見え方が違ってくるわけではなかった。ただ、実際に存在するものに対して、作家が働きかけて、本来とは違うものにしている。そういう意志のようなものは伝わってきた。

 壁には、色のついている不定形なピースが並べられていて、それは不規則な曲線を描いているが、目指すべき正解ははっきりしているジグソーパズルのピースが使われていた。

 そのことを知ると、ちょっと見え方は変わって、そのピースがその正解のどの部分だろうということを、分かるわけもないのに、ちょっと探ろうとしている自分の意識に気がつく。

 透明なケースの中に、たくさんのサイコロが並べられている作品もある。

04

サイコロ

展示会場でサイコロを振る。

片手に一握り、箱ごと一気に、

アンダースローで、など

私が決めたさまざまな振り方によって

サイコロの目が出る。

        (展覧会「ハンドアウト」より)

 

 この偶然性をギャンブルなどの「実用」に使うこともあるのだけど、このサイコロは、ただの偶然を記録するように形にしたものだった。しかも、この「制作」は1993年とあるから、それから30年以上が経っても、それは過去の偶然が、そのまま残されている、ということになると思うと、ただサイコロが並んでいるのに、ちょっとだけ違って見えてくるような気がする。
 

個人と社会

 廊下のような、外も見える場所には「復元」と名づけられた作品が並ぶ。

 それは、現代陶器のような外観をしているが、作家の想像力を形にしたものだった。

25 復元

身の回りに落ちていた破片を集め、

もともと在ったであろう形体に復元する。

今ある破片からかつて在った全体を

創造(想像)する成り行きを、

「器」の形としてあらわす。

        (展覧会「ハンドアウト」より)

 

 見ていて、ちょっと面白く意外だったのは、その「破片」が復元した全体に比べると、本当に小さくて、この小さい「破片」から、この全体をつくったことを想像すると、その想像力の強さみたいなものも感じられたことだった。

 

 次の広い展示室には、初期の作品も並べられた。

 もっとも最初期の「マークシート」。(1989-1990)

 イスと机が一体化していて、かなりコンパクトなのだけど、白くて、ちょっとかっこいいその机の上に紙が並べられている。それは、いわゆるマークシート方式の解答用紙の、本来、塗るべき細長い楕円の部分だけを残して、他の部分を鉛筆で真っ黒に塗りつぶしている、という作品だった。

 入試試験というシステムを、採点する手間を少しでも省くために開発されたのがマークシート方式のはずで、このテストのために、普段はあまり使わない鉛筆を用意し、何本もよく削って、そして、このマークシートは塗りにくく、面倒臭かった印象も思い出し、さらには、こうして他の部分だけを塗りたくなるような衝動も確かに少しはあった気もしたが、でも、実際にできなかったのは、試験に関係ない行為である以上に、とても手間と時間がかかることを想像しただけで気持ちが萎えてしまうからだった。

 だから、この行為をしているだけでも、なんだかすごいと思えてしまったし、他にも、見たことがない作品や、過去に見た記憶がある作品も並んでいるが、個人が社会に対して、それも大規模ではなく、スキルや時間は必要だとしても、誰もができるような介入方法を提示しているようにも思えた。

 

 分度器や定規をオーブントースターで加熱して、本来とは違う形にしてしまったものは、その偶然性も含めて、どこか美しくも見えたし、作家が自分と社会が関わった結果を、そのまま展示することによっても、作品として成立していること自体に、ちょっとうれしい気持ちにもなったのは、自分にも何かできるのではないか、といった思いになれたせいかもしれない。

18

発生法2(断り状)

これまでに受け取った各種の断り状を

保存・収集し、印刷物の作品として扱う。

       (展覧会「ハンドアウト」より)

 たくさんもらった就職活動の時の「お祈りします」と書かれた自分の断り状も、まだ保管していることを思い出した。

 

19

発生法2(通知表)

1998

小学校、中学校、高校から受け取った

通知表を展示する。他者が

私の存在について入力した方法を、

自分の方法としても提示する。

          (展覧会「ハンドアウト」より)

印象の強い作品

 そして、過去に見て、この作家のことを覚えさせてくれた、印象の強い作品も並んでいる。

13

 鉛筆

 1996-1999

 鉛筆の中心付近に芯が出るように、

 両側から中心に向かって削っていく。

 1本の鉛筆は2本で向かい合う形となり、

 内向きの芯を折らない限り

 使用することができない

       (展覧会「ハンドアウト」より)

「ミニ投資」(1996-)は、とても少額で株式投資をしながらも、その変動を列挙しながらも、生涯売却しない作品だったし、「振込み」(1996-)は、現在では違う意味合いを持つ言葉にもなってしまったけれど、自分の銀行口座に、ATMから振り込みを続け、その際に「振込みカード」も発行し続け、その振込みカードを展示している作品。

 こうした詳細はハンドアウトを見ながらわかっていくことだけど、やはり、ただ作品を見るだけよりも、こうした意味合いを知りながら鑑賞すると、その淡々とした物質に違う意味を帯びてくるようにも感じる。

 振込みカードは、通常は、こうした使い方をしないものだけど、でも、こちらが機械に対してリクエストすれば、毎回、律儀に発行され、それにかかる経費なども考えてしまう。

 そして、ケースの中に通帳が何十冊も並んでいる。

 そこに記された銀行名は、2020年代の現在では、すでに存在しない銀行もいくつもある。

 

15

口座開設

1996-

銀行口座での口座開設の手続きで

1,000円を入金して、2週間後に届く

キャッシュカードを待つ。

カード到着後に口座開設時の1,000円を

引き出し、別の銀行で口座を開設する。

この手続きを繰り返す。

         (展覧会「ハンドアウト」より)

 

 昔、最初に見た時は、この方法まできちんと理解していなかったけれど、これは原理的には銀行が存在する限り、無限に続けられるはずで、しかも入金1,000円ですぐに引き出されるとしたら、やはり銀行側の経費としてはマイナスになるのではないかなどと思ったけれど、こうした誰でもができるけれど、思いつかず、さらには実行するにはややハードルが高い行為を形にして作品化していることに、20年ぶりに見て、改めて感心もした。

 他にも、木彫りや、照明や、比較的、身近な材料や、それほど困難でない作業だけど、無意識に他の方法はないと思われているようなオーソドックスな作業を選択していないことで、作品になっている。

 できそうでできないことが形になっているように感じた。

 

 それが作品の種類としては50以上も並んでいて、このハンドアウトの番号は、作品の制作順に並んでいるようで、数字が若いほど、より古い作品になっているのだけど、そのためいん一見、ハンドアウトでは数字の並びがアトランダムで、ちょっとわかりにくくもなっているが、そのことも含めて、作品の意味を増やしているようにも思える。

 

 コンセプチャルアートは、個人的な印象としては、かなりクールで、それは言葉を変えれば理性は動かしても感情に関わってくることは少なかったので、展覧会場に入る前は、少し構えるような思いもあった。

 だけど、展覧会場に滞在する時間が長くなるほど、その作品を、美術作品、それも現代美術の作品として成り立たせるために、作者がどれだけ考え抜いたのだろうか、といったことを想像すると、それは自分の気持ちにも届くような気がした。

 

 さらには、30年以上、作品を制作し続けた歴史の蓄積にも思いが至ると、それだけでもさらにさまざまな気持ちになれた。

 

 

 

『豊嶋康子作品集 1989-2022』

https://amzn.to/49BrinQ