のおとのノート

若者の”勇気ある一歩”を見まもる「のおと」主宰者のそこはかとない書き散らかしです。

橘家

2013年9月号

先日、この春卒業したAさんが遊びに来てくれました

Aさんは現在芸術系の大学に通っています。

表情も明るく、大学は毎日楽しく通っているとのことでした。

私たち職員にとって、卒業生が「毎日楽しい」と近況報告してくれるのが何よりの報酬です。

そして、彼女がそれを簡単に手に入れたのではない事を知っているだけに感慨もひとしおでした。

 

2年生から転入したAさんとは、学習の合間や面談でコミュニケーションを重ねることで、

“自分に必要な物”を徐々にハッキリとさせていきました。

Aさんは自分の気持ちを言葉で伝えるのが苦手で、転入前には人間関係に苦労する面もありました。

そんなAさんの出した結論は、「自分の心を表現する手段として芸術を学びたい」というものでした。

芸術は人間の、ひいては自分の根本を見つめるものだと言えます。

以前から絵を描くことで心の安らぎを得ていたAさんにとって得意な表現は「描く」こと。

芸術を学び、自分の心を表現することを通して己と向き合い、自分に対する理解を深める事。

それが生きる上での基盤となり、自分自身をコントロールできる大きな武器となる。

それが時に涙を流しながらAさんが導き出した“必要なもの”でした。

 

先日、ガラス工芸のアーチストである友人を尋ねた折、ふとAさんの話になりました。

友人は「彼女の作品があれば見たいよ」と言うのです。

理由を聞いてみると、

“自分の内面をアウトプットするための手段”として芸術に向き合うのはとても大切なことだが、

それに気付いている芸大生や関係者は多くない、とのこと。

苦しみもがき辿り着いたAさんの考えは間違っていなかったんだと嬉しくなり、

その場に立ち会うことが出来たことを誇りに思いました。

私もAさんの作品を見るのが待ち遠しいです。夢である絵本作家、叶ってほしいと思います。

 

わたしたちの個人面談は、お茶を飲みながらゆったりと話すことからはじめます。

まずはリラックス。どんなにいい種を蒔いても畑を耕していなければ作物が育たないように、

緊張していたり信頼関係がない状態では円滑なコミュニケーションなど望むべくもありません。

楽しく学校での時間を過ごしていたら、気づけばしっかり学んでいた・・・

それが私たちの目指すところです。

 

2013年8月号

今月の学校通信用の文章です。・・・・・長い(笑)
以前書いた文章を再構成したものです。
メモで残す用。クッソつまんないから読まなくていいよ。

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インターネット上の交流サービス、
いわゆるSNSソーシャルネットワークサービス)と呼ばれているもの。
TwitterFacebookMixi、LINEなどがそれに当たります。
これらサービスを通じて膨大な量の情報が、広大なネット上を飛び交うのが日常となっています。
 
私は新しもの好きなので、各SNSは比較的初期の段階から利用しています。
海外など遠く離れた友人や音信不通だった知人と気軽にやり取りしたり、
趣味の仲間との面白い出会いや活動に繋がるなど多くのメリットが有りました。
 
これらサービスは世間に広まるにつれトラブルも増加します。
そこで重要になってくるのはSNS利用におけるリテラシー
(正しく利用できる知識と能力)を高めることだと思うのです。
 
SNSで若者が不用意な発言や非常識な行動を撮影した画像を公開し、
問題になった事例が多数あるのをご存知でしょうか。
最近では、
コンビニエンスストアで商品が入ったままの冷凍ケースで寝転んでいる姿を撮影した画像が出まわり
問題になりました。同様の出来事も後を絶ちません。
 
昨今はパソコンよりもスマートフォンからSNSを利用する人の割合が急速に増加しているそうです。
スマートフォンなど携帯端末は、
利用者にパソコン以上に広大なネットの世界を矮小化・パーソナル化したと錯覚させ、
ついでに万能感を得たような気分にさせてしまうという側面があります。
それは、「誰も見ていないから」と気が大きくなって、非常識な情報を発信してしまいやすくなる
と言い換えることが出来るのではないでしょうか。
 
自分の部屋や休み時間の教室での何気ない小さなつぶやきが、
意図せずとも直接相手に突き刺ささる凶器になったり、
天下の往来に響き渡る大声になってしまう。
 
また、不道徳な姿を撮影した画像を日本中の多くの人に見られてしまったり、
個人情報を調べられ精神的苦痛を受けることもあります。
軽率な行為が多くを失う結果となるのは、もはや珍しい事ではなくなりました。
 
また、通常現実世界では黙殺されるような”よろしくない考え”がネット上の情報発信でカタチになり、
ネット上の度を超えたいじめ・差別や卑怯なリンチ的な行為に繋がることがあります。
 
「よからぬもの=汚いもの」の強い力がネット世界の即時性・拡散性で勢いを増し、
更に見るものそれぞれのストレスや誰もが持っている心の薄暗い部分とリンクし
多くの人の心を熱狂的に支配してしまう。
 
得体の知らない多数の何者かが、ある日突然見るに耐えない言葉を投げかけてくる・・・
便利さの裏返しにあるそのようなリスクを充分に意識する必要があるのです。
 
残念ながら、SNSはまっとうに生きていたら見聞きせずに済んでいたものに触れる機会を爆発的に増やしました。
大人にも影響があるのだから、子供とっては言うまでもありません。
経験の分母が少ないのだから1つの経験がより大きな影響力を持ちます。
 
”汚いモノ”の力は強い。
 
それに対抗するには目を塞ぐ事よりリテラシーを高める方が得策ではないかと私は思います。
 
生徒のみなさんに伝えたいことは
 
キミの持っている「ちいさな端末」は便利だけれど、
自分の頭のなかが広く人目に触れてしまったり、
自分や他人を苦しめる可能性がある危険な道具でもある。
 
ということです。
 
大人がすべきは、規制・排除に注力し無菌状態にする事ではなく、
「泥の中からまっとうなものだけ拾い集める事ができる力」
を付けるための機会を様々な方法で提供することだと思います。
 
そして薄っぺらな正義や思想を持ったものが薄っぺらな悪意で気軽に他者を攻撃する、
からかうと言った行為を断じて許されないことであり、
悪意に悪意を以って迎え撃ってはいけない、ということをまず大人が実践することだと思います。
 
子どもたちには「誰も見ていなくてもまっとうな行動をする」ことと、
「やっていいことと悪いことは何か」を根気強く伝えること。
これはSNSの知識が豊富でなくても出来ることです。
 
クルマやバイク同様「便利で楽しいものだが
使用者のモラル次第で凶器にもなる」
 
それがSNSひいてはインターネットというものの本質なのではないでしょうか。

2013年6月

大人の世界は欲得絡むので、人間関係が複雑です。
 
大人同士、摩擦を恐れて不満やストレスをタメながら
薄ら笑いでやりすごそうとする。
 
「それが社会さ」と分かったようなことを口にしたり、
ツイッターで愚痴こぼしたってなーんも解消しないんです。
 
信念を持って仕事しているなら、ストレートに思いを伝えないと
ただの影口野郎のままです。
ハンパは一番いけない。感情ではなく整理して自分の思いを伝えなければ。
妙に知恵がついて損得考えるから奥歯に物が挟まったようなことしか
言えなくなってしまうのではないかと思います。
 
ワタシも若い頃は
集団で活動するレベルに達していない人間だったと思います。
いや、今でもかな・・・。
ただ、今は失敗したりトラブルに遭遇したり、
頭パンパンになるまで考えたいくつかの夜を経て、なるべく
 
損得勘定で動かず、愚直でも自分の信念で歩き、
他者には出来る限り思いやりをもって真正面から向き合う。
 
シンプルにこれだけを心がけているので、
人に迷惑をかけることはいくらか少なくなりました。
早くそれに気づけばよかったのだろうけど、
それが自分のタイミングだったんだろうなぁ。
 
なんでも「今でしょ」なんてありえない。
成長もアクションもタイミングは人それぞれですから。

2013年7月

いつもの鍼灸院の看板娘、ヒナちゃん(3歳)との会話。

ひ「おじちゃんはなんでテンテー(先生)になったの?」

や「先生やるのが好きだからかな」

ひ「なんで好きなの?」

や「一番楽しいからだよ。ヒナちゃんは何してる時が一番好き?」

ひ「お歌うたってる時」

や「歌ってるときが一番楽しい?」

ひ「うん!」

や「じゃあおじちゃんが先生やってる時と一緒だね」

ひ「ヒナちゃんが大きくなったらおじちゃんに教えてもらう」

…泣きそうなんですけど。

その他、「ロールパンナちゃんは何故顔に何か巻いているのか」など質問もらいました(笑)

やなせ先生のみぞ知る内容ではありますが、
「ロールは英語で"巻く"って意味でさ、ロールパンナちゃんは巻くのが得意で好きなんだと思うよ」
と答えました。

子どもの「なぜ?」に向き合って真摯に答えるのは大人の役目だと思います。
その原点に立ち返らせてくれたカワイイ哲学者に感謝です。

そして、自分の仕事を「一番楽しい」と子供に胸を張って言えること、その環境を作ってくれた全ての人にも感謝しました。

ヒナちゃんは、最近わからない事があったら「おじちゃんが来たら聞いてみる」とよく言っているそうです。

わしゃウィキペディアか。

2013年4月

いじめは、多様な価値観を認めない集団の中で発生します。
集団はしなやかで自律した個人が構成するものが理想だと思ってます。
 
学校には社会に人を測る基準値押しての
「貧富」や「雇用•被雇用」という価値観は存在しません。
その代わり、それとは別に
「指導」と言う名の平等•均一化、
集団の「空気」への服従、
学力•スポーツの優劣…。
というようなものが人の価値を測る基準になっていることがあります。
 
すべての人にオーダーメイドのようにピッタリな群れなど
存在しないのが当たり前です。
群れに合わない人が出るのは自然なことなんです。
 
「コミュニティーに属するのは、ある価値観に適応すること」
との考えで様々なものが組み立てられてしまったら、
群れに適応しているかが、重大な意味を持ってしまいます。
つまり、不自然なことを強いられる人が必ず出る仕組みなのです。
 
選択権を与えられないままクラスに配属され、
その場を支配する空気と合わない、あるいは教員や同級生と
上手くいかないなんていうのはもうほとんどが運不運の問題です。
その時点で他者を受け入れられなかったり、
集団に属することがストレスなら、
学校に「適応」させるより優先的にやるべきことがあるはずです。
発達の段階はその子ども毎に違うのですから。
 
くだらない価値観に合わない人は排除の論理で追い詰める。
他者に対する好き嫌いは構わないけれど、やたら攻撃したり、
他人を共犯者に引き入れるなんてことはとても卑怯な事。
嫌いなら関わらなければよい。それだけのこと。
友人の友人だからといって自分も友人になる必要はない。
そこを恐れるから歪んだ関係が生まれてしまうのでしょう。
 
「友達の多さが人の価値だ、」
なんて事を本気にしてたらそりゃ多くの人が疲れますよ。
 
子供が子供にやるならまだしも、
大人がくだらない集団の価値観に合わない子供を排除するなんて
ワタシは言語道断だと思います。
それが教員ならば「どっち向いて仕事してるんだ」という話です。
 
たとえば、自分の感情のまま生徒に暴力・暴言を浴びせたり、
反省文を書かせれば「仕事」が終わったと思うようなボンクラさんは、
教育に携わらなほうがよろしいかと思います。
 
多様な価値観を認めていたら手間がかかって面倒です。
「同じ」であるものは扱うのが楽なのです。
だから「みんななかよく」同じであることが正常だと設定する。
そんなことあるかい、って話です。
もう根本的に歪みが生まれる構造なんだから、
対症療法やってもしょうがないんです。
 
歪みひずみが大きくなり、淀んでしまった集団は、
人が死んでも、自分たちの利益を守ろうとするほど
感覚がおかしくなってしまうんです。
入試を即中止し、空気の入れ替えに着手した橋下市長の
桜宮高校に対する対応は、
決して極端なものではなくむしろ控えめであったとさえ思います。
 
「入試を受けられなくて狂う生徒の人生をどうする」だって?
大学の認可取り消しの時の安倍現首相のコメントも同じような
ものでしたが、
人生なんか大小様々なもので左右されっぱなしや、と想います。
多様な価値基準を認めないから「1つの道が消えたら即絶望」
というような硬直した思考しかできなくなってしまうんです。
安倍のコメントはマキコ(notショムニ)を攻撃したいがために
若者の人生をダシに使った卑怯なコメントに過ぎないと思いますが。
 
 
ワタシは、職業柄
人間関係で悩んでいる中学生と話す機会があるときには、
 
「教員も同級生も、中学の人間関係なんてこの先クソの役にも立たない。
捨てても構わないものにエネルギー使うの勿体無いよ」
 
と伝える事があります。また、
 
「大丈夫、出会う人の9割とは合わないから。」
 
とも。とにかく無理するのが一番疲れるんですから。
自分が本当に思っていることを伝えたまでなんですけどね。
 
本人に問題があってもなくても、集団に馴染めなければ
一旦合わない環境からは抜けだして、コミュニケーションであったり
モラルであったり、今後生きていくために必要なことを
優先順にトレーニングする機会を設ける必要があると思うんです。
 
違いがありすぎたら同じであることに意味がなくなります。
いや、そもそもそんな価値観存在しません。
そういった場所も、あるんです。
 
”キミの今いる場所だけが世界じゃない”
この世に無数にある世界の中の、
ほんのちいさなちいさな、ひとつ。
 
一つの道がダメなら別の道を。
希望の反対は失望、絶望じゃない。
見失ったら、別のさがそうよ。
 
 
たくさんの悩んでいる若者たちに伝えたいことです。

2013年3月号

3月分の学校通信用の文章です。
編集前で荒い文章ですがご容赦を。

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平成24年度がまもなく終わろうとしています。
前述しましたが、3年生の皆さんは卒業を迎え、
2年生はいよいよ進路を確定する時期になります。
1年生は1年の流れがやっと分かったところでしょう。

私は、生徒の皆さんには「自律した人」を目指して欲しいと願っています。
「自律した人」とは、正しい価値観を持って自分でしっかり考え、
判断し、自分の力で自分の人生を切り開いていくことができる人の事です。
「自律するためには」ということをすべての基盤として
生徒の皆さんと日々向き合ってきました。

本田技研工業(HONDA)の創業者、本田宗一郎氏に
「学校で教えることも必要だけれども、 教えるのは過去のことなんだ。
ほんとに必要なのは、未来なんだ。」という言葉があります。

確かにそのような側面もあると思います。
しかし、私は5年先、10年先の生徒が笑顔で生きてくれることを願って
この場にいます。
そのために何をなすべきか。
未来を見つめてすべての対応を行なってきたつもりです。  

今の環境は褒め・励まし・叱り・赦し・諭すを繰り返す、
という学校の役割から時にぬるま湯とも言える状況があります。
しかし社会は厳しく、時に辛く険しい壁が行く手に立ちはだかることも
当然のようにあるでしょう。
卒業すれば他人がいちいち世話を焼いてくれる機会が少なくなり、
反比例するかのように自らの責任で人生の選択を行う機会が増えていきます。
だからこそ未来に必要なのは「自律」なのです。

大人は時に若者を正しい方向へ導くどころか悪い影響を与えます。
「世の中こんなもんだ」
「今さえ良ければいいんだよ」
「金と権力が全てだ」
「努力しても無駄、やめとけ」
「自己保身と自分の利益を最優先する」
・・・若者が尊敬するに値しない大人もいるでしょう。

私が口を酸っぱくして言い続けていることをざっと並べてみます。
「自分が真になすべきことを考える」
「自分自身を把握する」その上で
「自分を上手くコントロールできるようにする」そして
「他人と誠実に向き合い、何かしてもらえば感謝する」
「卑怯なことをせず、落ち度があれば素直に謝罪する」
多くはこんな内容です。

世の中や他人をナメている、ウソや逆ギレなどの不誠実な態度、
いい加減なことをやる癖・すぐに投げ出す癖・時間を守らない癖は
社会人になってから大きな障害になります。
これらに対しては時に厳しく何度も諌めてきました。

たとえ不誠実なものに影響を受けることがあっても、
自ら軌道修正出来るようになって欲しいのです。
いつも絶好調の人生なんてありません。

この軌道修正こそが「自律」なのです。
生き方が不器用でも、大金持ちにならなくても、
誠実な人でいて欲しいと思います。

どうか誠実さをベースに自律した人になり、
自分の好きな仕事を使って世の中を笑顔で渡っていける人になってください。
ここで得た何かひとつでも卒業後の人生に役立てば本望です。

 

 

2013年2月

ツイッターに連投したものを貼り付けました。
 
朝鮮学校無償化問題に思う。
 
誰にでも学ぶ権利はある。
ただし「無償で」ではない。
高校生1人あたりに掛かる費用はざっと年間70万円。
人件費をかなり切り詰めて
(安月給や非正規で働く教員を増やす)
何とか回してる私立学校の何と多い事か。
介護と問題は同じだよ。
それでも好きな仕事に打ち込んでる。
正規非正規問わず手取り15万円いけば御の字の人も結構いる。
 
それだけに補助を出すには、
それ相応の資格が必要なのは言うまでもない。
正直、それなら先に病気など様々な困難と闘いながら
何とか通信制とかに通っている生徒・保護者を先に補助しろよ、
と言いたくもなるよ。
他の外国人学校と差別だ!って言うけど、
ほかの国は無断でミサイル飛ばしたり核実験しないもの。
近所の頭のおかしな乱暴者のおっさんが相手にされるか?
 
「学びたい」
という気持ちが実を結ばない子どもも沢山いる。
 
公的援助が必要と思われるが、
制度のエアポケットにはまり込んで
適切な進路選択が出来ない場合もある。
強い声や訴訟が勝って、
弱い声を後回しにする事は間違いだと思う。
 
公の定めたものに不満があれば私設の場所に行けばよい。
代わりに公的援助がなくなる、
或いは減らされるのは仕方がない。
公立学校に拒否されて仕方なくそこに行っているのではないだろう。
 
義務教育の中学までは、
その選択があまり自由ではないので多くの問題が起こる。
高校になると選択肢がようやく増える。
それでも貧困やその他問題で選択出来ない人もいるのだ。
自分で選んだものへの責任が必要だ。
 
 
僕は中学2年生のある朝の出来事を忘れない。
毎朝順番に生徒がスピーチしていくのだが、
その日は在日コリアンの生徒の番だった。
 
彼はこう言った。
「僕は小学校の時、
差別みたいなことをよく言われていました。
悲しかったです。
でも、この学校に入学して、
今日まで一度もそんな事は言われてないです。
本当にこの学校に来て良かったと思います。」
 
彼のスピーチは僕の心に強く響いた。
心の底からのものだったからだろう。
でも同時にみんなこうも思っただろう。
「当たり前だろ。」って。
 
彼の国籍なんか関係ない。
彼が好きかどうかだけが問題だ。
自分でも本当にいい学校で学んだと思う。
ゲイのヤツも難病の子もいた。
自分の知る限り
集団でひとりに危害を加えるような卑怯者もいなかった。
 
自分はラッキーなだけかもしれない、
でもそのような雰囲気は諸先輩方や先生方が築いてきたものだ。
自分も受け継ぎ次へ繋ぐ資格がある。
自分の教育理念のベースもここにある。
 
社会はカオスだ。
外見、年齢、国籍、主義主張、目指すもの、バラバラでよい。
好きキライはあくまで個人に対してのものであり、
自分ではどうしようも変えようのないものを攻撃すべきではない。


その国と個人の話はまた別だ。
しかし、補助がほしければ適用される学校へ行くべきだ。
闘っていいのは国籍を理由に学校側から入学を拒否された場合だけだ。