asmykk0412の日記

82180と4180が歩む日々の、言跡

人間は言葉を話す動物です

言葉と向き合う時間が減ったなあ。
単なる情報記号としての言葉ではなく、救われたり開眼したりする方の、且つ、創造の歓びにも通じるような方の、言葉。
理由は自分でもだいたい察してはいて、まずは「信じる」という行いが減ったから。
つまり「疑う」ことが増えたのか?と言えば必ずしもそうではなくて、自分なりに素直で居たいと願った結果、言葉に依る機会が少なくなったように感じている。
あとは、加齢で面倒臭がりになっているせいもあるかな…気力体力使うのを避けるという笑。

さて、そんなこんなで次はいつここに書くかもわからないから、時事を少し記しておこう。

今年、2020年はCOVID-19…新型コロナウイルス感染症パンデミックで世の中はてんやわんや。
地球規模で見ると地域ごとに差異はありながらも、感染、発症して亡くなった人の数が日々報じられ、回復しても障害の残った人も居ると聞いた。
感染拡大防止のため人々の行動に多くの制限、変化が求められ、それに伴って立ち行かなくなった業態、価値観、一気に表出しだしたボロ…などなど、とにかく近年中では最も"只事ではない"感が社会全体を覆っている。
生活するための収入源を全て絶たれたような人も居るので、病気に罹った場合の致死率だけでなく、生きるか死ぬかの問題であることは確かだ。

では私と4180の暮らしぶりはどうか?と言うと、もれなく影響は受けつつも、有り難いことに不穏ではない(心身、経済共に)。
むしろ良い意味でマイペースに則って過ごせているようにも思う。
外出自粛要請なども出ていたし「不要不急」なる行いには風当たりが強く…以前より気軽にレジャーなどには行けない。
しかし、様子を見つつ、先日の4180の誕生日には"小出かけ"的な趣きで、約半年ぶりに1泊2日の羽伸ばしをしてきた。

4180の誕生日なのだから4180の好きなものづくしで良いのに、私が動物好きなため…遊びの時に4180はだいたいいつも動物要素を入れてくれて(そして私はそれに乗じる笑)、今回も同様。
ダチョウ、インコ(数種)、九官鳥、アヒル、ウサギ、アルパカ、ウシ、エミュー、ニワトリやそれに似たような鳥、猛禽・中禽類、犬、猫…
彼らの居た場所は平時と比較して人間はとても少なかったであろうと思われるので、のんびりとした空気感の中、見たり触れ合ったりすることができた。
そして猫については4180も好きだから、関わり方にもまあまあ積極性を見せる笑。
「猫が居るらしい」という情報を得て訪ねてみた神社にバッチリ人懐っこい三毛猫が居て、暫し、私たち二人とも仲良くしてもらえたのがとても嬉しかった。
そこに居てくれるだけで素敵だし可愛いので、なるべく健やかに幸せに暮らしてもらえたら満足ではあるけれど、やはり触れ合いができるとさらに大満足だなあ笑。

物言わぬ動物を愛でるのは、言葉に縛られて暮らす我々人間たちの、一種のオメデタイ逃避行動なのかもしれない。
勿論その限りではないにしろ、少なくともFF外から失礼してきた奴にいきなり罵詈雑言を浴びせかけられるような心配とは無縁だ(しかしSNS内では動物への態度如何で喧々轟々している場面さえもあるな…人間同士の問題だけれど…)。
勝手な妄想で言外を埋め、"嘘"など無いようなその有り様に憧れたり癒されたりして、心満たされる。
なんなんだろう。

好むと好まざると、どうせ言葉で作られた世界を生きるならば自らの一言もひと粒の種と思い、僅かながらでも決して愛を忘れることなくその胚に込めたいものだ。
枷ではなくしなやかな脚や翼のように、伸びやかに息づけるだけの深さ高さ、幅広さ、奥行きを生むように、言葉を使いたい。
そのココロは、信じるや疑うの次元じゃなく、できることならばただ祝いたいからなんだよね。
祝詞とか福音とか、実はそう遠くない意味合いだったり…しないか?(全然知らないけれど笑)
生きることに素直に在り、祝うような言葉をもっとたくさん使うことはできないものだろうか。
動機が善意であれ悪意であれ、呪いとして作用してしまっている言葉が多過ぎはしないだろうか。
多過ぎるのに足りていない、そんな渇きが、人々を全然可愛くない動物にしてしまう気がするのだ。

コロナ渦の只中で、4180と、今のところマイペースに過ごせていることには安堵している。
私たちの暮らしの物理的構造は特に堅牢な訳ではないのだけれど、少なくとも精神構造は決して脆弱なものではない、と思えるので。
猫になりたい〜とか、ニャーとかミュウとか言って(鳴いて?)人語を捨てつつある私たちではあるが笑、
私と4180のはじまりは、言葉だった。
そのことを最近、映画『ハーフ・オブ・イット:面白いのはこれから』を4180と一緒に観て、改めて思い出したんだよね。

そこに居てくれるだけで素敵だし可愛いので、なるべく健やかに幸せに暮らしてもらえたら満足ではあるけれど、4180が私と触れ合ってさらに楽しさや嬉しさを感じてくれるのなら、これ以上の幸福はない。
4180の存在に、感謝と祝福を捧げる。


82180

夏でもなくて春でもない

最近温かくて嬉しいけど、季節感が狂っている感じは喜んでいいのか分からない。


前回は年明けに書いたけど、ここ4ヶ月で私は職を変えていた。


まぁ、かえらざるえなかったからなんだけど。


天の力が働いたとするならば、自分の執着心をきっとリセットするようにしてくれたのかも。


1歩進むためには、必要なことをやる。ただそれにつきる。必要なことが意外にわからない人が多いんだと思うけど。


無理やり必要なものを作っても意味ないし、思い込みかもしれないし。


自分と対話して、空と対話する。すると風が吹くから、風に乗って運ばれてみる。


身が軽くないと風に乗れないから、不必要なものはいったん足元に置いてごらん。


今日は82180と久々に夕寝して気持ち良かったー。


お腹空いたなぁー。


何食べるかなー。


結局、大事なのは82180と何を食べるかなのだ。ほんとに。


これは私にとって1番必要なことで大事な営み。


それを続けられるような生活にしていく。必要なこと。





任意の✔︎はお楽しみの印

先日、わたしの用事の合間を縫う形ではありつつ、4180と神戸、京都へ行って来た。

京都は最早お馴染みだが、4180と一緒に神戸に降り立ったのは初めて。

そしてお互い初めての有馬温泉に弾丸で浸かりに行き、既に夕闇に没した温泉街の景色を見ながら、また今度ゆっくり出直したいな、と思った。

京都では常宿(我が妹宅)の近くを少し散歩できただけだったけれど、レンタルバイク屋さんを発見。

一瞬、京都の街を4180と2ケツで走る!なる愉快計画が持ち上がるも、今回は時間が無さ過ぎた。

これも、また今度のお楽しみだ。

京都に限らず、4180とレンタルバイクで走るという遊びは各地でしてみたいと思っている。

(しかしバイクには数年乗っていないので、できれば4180を後ろに乗せて走る前に少し練習時間を取りたいものである)


「改めてまたゆっくり…」と、心の中で✔︎をつけてある土地、行いがまあまあ増えてきて、

未来のお楽しみも増えてゆく、と考えれば非常に具合が良い。

まあ、実現させるための時間はあくまで作るものだけれど、さ。


最近テレビで、ガンを患った20歳のキャバ嬢が「余命?知らない、アタシ100歳まで生きるし〜」と笑って話していたのを見て、

酒に酔ってはいただろうが自棄っぱちにも見えないその佇まいに、余命なんか訊かれても答えられる人間なんか居ないよな、と思った。

より良く在るために気遣うのは大切だが、ヘンに気にすることはない。

何があるかなんてわからない。

そんな行方不明さを、不安と呼ぶかお楽しみと呼ぶかは、今を生きるわたし達の気持ち次第なのだろう。

目下、わたしは今晩4180とハンバーグを食べる(松屋だけれど笑)ことを楽しみに、仕事を乗り切る心算です。

ハンバーグの後、どこかで夜桜でも見れるといいな。



82180


わたしはあなたの気安めに

先日、4180と谷川俊太郎展に行ってきた。

様々想起させられたが、中でも最もしょーもなく、且つ、一番正直な感想を述べるならば…非常に疲れた。
谷川さん自身もそう語られており、わたしも同感であることとして、
詩とは無責任なものだから、如何に自分が日々「責任」に紐づけられ「責任"感"
」という正義を振りかざして暮らしているか、まざまざ思い知ったが故の疲労である。
責任も責任感も大事だとは思うんですよ。定職に就いたことこそ無いけれど、社会の中にある自分だし…。
ただ、正義まで振りかざしちゃってるのは危険だし、なんかダサいなと笑
空飛ぶ鳥の様子に自由を見たり、役には立たないけれどなんだか素敵なものを愛でたりする、感性。
そんな勝手で無責任な感性が無くなった時、目前は即座に戦場と化し、詩人は職を追われるのだろう。
やだー!そんなの。
上手いことやっていこう。

きっとわたしが4180を好きで、大切に思う気持ちの源も
本質的には何ら役立てるためのものではない。だから、良い。
(とか自ら言う…笑)
4180の番いの生活者として役立たずではいけないが、
心寄せ合う連れ合いとしては、多少の抜け感…無目的さがあった方が、良くないですか。
4180には気持ち良く呼吸をしてほしい。しょーもないことで笑い合ったりしていたい。
それは、わたしを勇気付けてくれる力でもあるからね。

仕事や春の憂鬱も、手強くはあるけれど戦争ではないよ。
大丈夫。上手いことやっていこうね。


82180






逃げるが勝ち

あけましておめでとうございます。


今年は初詣も行かず、ゴロゴロしていますが、


なんとなく良い年になる予感がしています。


気持ちがシンプルになってきました。


嫌だなぁ〜て感じることにも、自分に責任持てる感じ。


今までは、そんな自分を追い詰めていたけど、そんなことはする必要性がなく。


良い気持ちが続かないものに対して無理することはしません。


それで良いのです。


切っても切っても切っても金太郎飴というより、


切っても切っても切っても、空洞なんだな。


意欲という刀を持った私は、それを切り続ける理由が無くなってしまったよ。


空洞ですは好きな歌。


4180








茶色い季節

大切な選択だから、あらかじめ考えておいた答えの為に行動しないよう、ただベストを尽くすことでサイコロがどう転がるのかを見たい。

そして先行きを決めたい。
結果を見れば直感はだいたい正しいが、決が出る日を明確に用意した今、その時まであーだこーだ考えなくても良いんじゃないかしら。
とは、思いつつ。
何かのサインのように感じてしまう事象が目の前をチラつかなくもなかったり、
まあ、なかなかどうして感受性は目敏く働いている。
肝が座ることと心が動かないことは別なのだ。
出来ればこんな時は静かにしていたいものだけれど、そういうわけにもいかない。
騒がず、されど黙さず。

以上、あるバンドと自分とのこと。

昨日は4180と少しの時間、近所をブラついた。
遅めの昼ごはんをお気に入りの中華屋さんで食べて、その後古着屋を何軒かチラ見。
我が家の近くは古着屋絨毯爆撃地区でありながら、4180とこうして一緒に古着屋に入ることも少ない。
というか…、だ。
少ないよね。こういう時間自体が。

古着屋では4180によく似合う綺麗な色で、デザインも遊び心とエレガントさを兼ね備えた素敵なコートを見つけたが、
残念ながらサイズがしっくり来ず。
(&値段)
4180は「なんとなく」や妥協で服を買わないので、あと一歩及ばずな物を見つけた時、わたしはかなり悔しい。
4180が気に入って着ているものなのであれば、別に数が少なくたって良いのだし、いつも同じものでも構わないけれど、
新しく気に入る&似合うものと出会った時、4180がふんわりと嬉しそうな表情をするのが、それを見るのが、わたしは好きなのだ。
幸せを感じる。

実現という言葉の意味を考える。
枯れて現れるもの、腐って現れるもの、自然界の中ではどれがスゴイ!とかいうことでもない。
たとえば土ならそうやって循環するのだから。
しかし、一人称と二人称で紡ぐ世界においては、どうだろう。
やっぱり、実って現れるものが嬉しいのではないだろうか。
種を蒔いたり、芽吹きを待ったりすることが楽しみなのではないだろうか。

冒頭の件、こうして捉え直してみるとなんだか「花さか爺さん」の世界のようだ。
わたし達にとって意地悪爺さんは存在したのか?
ポチはいつ死んでしまったのか?
最早、わたしには最後の1ページがあることまでしかわからない。
その先の白紙に現れるものを、冷たい土に足をつけて待っている。


82180






晴れと猫

今日はとても暖かい1日だったな。


猫たちが日向ぼっこしながら気持ち良さそうにしているのを久々に見たな。



ここ数週間、身体にまとわりついていた緊張や不安が、すぅ〜と消えていったから視界も晴れやかになったし。


こういうことが繰り返されていくのだね。自分の人生は。



あ〜もっと心臓に毛を生やしたい。



4180