あけましておめでとうございます。

 いまさらながらあけましておめでとう。
 ブログめんどくなっちゃった。。。
 でも続けます。暇なときに…。


 5〜6年前の青少年の心の叫びは
 自由になりたいとか
 個性を主張したいとか
 大人は間違ってるみたいな
 未来を切り開く言葉が主流だった気がする。
 それがここ数年は、生きたいっていう
 ある種、後ろ向きな主張が増えたようだ。
 社会における勝ち負けが顕著になってきたからだろうか。
 昔よりも、底辺に存在している人間を救う小説や歌詞が共感を呼んでいるんだろう。
 良いことだけど、悲しいことだね。。。


 生きたいとか
 死にたいとか
 そんなこと考えても
 結局は生きちゃうんでしょ?
 仕方ないよね。
 恵まれてるんだから。


 必死に追い求めたものが手に入った。
 でもそれは思っていたほど良いものではなかった。
 どうやって捨てようか迷う。
 なんて贅沢なんだ。


 アフリカの子供たちには
 今日食べるご飯が無くて
 今日生きることができない
 そんな子供がいる。
 恵まれた僕たちは
 今日食べるご飯があって
 今日死ぬことはないだろう。
 明日もきっと生きるだろう。
 明後日も、明々後日も生きるだろう。
 人生はドミノのように倒れ続ける。
 なんて恵まれているんだろう。

教育について

 僕の通う大学が去年から教育方針を変更したようで
 TOEICとか簿記の資格を取るための授業が増えた。
 役に立つことを学ばせようということらしい。
 実際将来役に立つからいいんだけどね。
 なんかもったいないなぁ。


 僕は大学で経済学を学んで一番ためになったことは
 経済学的な考え方をするようになったことである。
 資格や知識はどっちでもいい。
 将来経済学に関係のない方面で働いたとしても
 この考え方を生かして行こうとと思う。


 夏に出会った人に
 様々なボランティアに参加してきた人がいた。
 NGOに参加して外国で働いてきたり
 地震の被災地で働いたりしてきたそうだ。
 その人とその友達との三人でボランティアの現状について話し合った。
 ボランティアに参加したことのない僕は現状を知らない。
 だから率直な意見を彼らにぶつけた。
 「経済学的に考えたらそうなんだろうけど
  現実はそんなにうまくいかないよ」
 そんな答えが返ってきた。


 経済学というものは理想論である。
 すべての人間が効率的に、理論的に行動しなければならない。
 もともと理想主義で野心的な僕には最適な学問だった。
 それに対し、彼らは現実と闘った。
 人間は追い込まれると
 理論的ではない行動、心の闇の部分を見せる。
 そんな光景を見てきた。


 資格があると武装ができる。
 自分の強みを主張できる。
 でも、それじゃあ所詮ハリネズミ
 内面を鍛えろよ。
 頭と心を鍛えろよ。


 そんなことを考えながら簿記の勉強をする真夜中。
 難しいよ…。
 試験は20日なのに…。

秋の夜長に。

 多くの科学者が超常現象を科学的に解明してくれた。
 火の玉とかポルターガイストなんかはプラズマらしい。
 じゃあなんでプラズマが発生するの?ってなると
 特殊な環境が原因だと言う。
 これじゃあ解決じゃない。
 幽霊が出る。それがプラズマだとしても
 プラズマを発生させているのが幽霊だとしたら?
 不幸な出来事に遭遇する確率を高めているのが幽霊だとしたら?


 「1出てくれ!」って願ってサイコロを振る。
 結果1が出る。これはなぜ?
 確率の話をしているのではない。
 1が出たということと1が出ることを願ったことに
 関係がないことを証明して欲しいのだ。
 1万回サイコロを振って結果を見せても証明にならない。
 「気持ちが足りないんだ」って言われれば反論できない。
 鼻で笑って見下してみても解決しない。


 どんなに科学を信奉しても
 量子論が出てからは結果を確実に予測できないことがわかった。
 相対性理論ではものさしが役に立たないことがわかった。
 絶対的なものは何もない。
 それが確立されたはずである。
 今こそ超常現象番組を復活させて欲しい!
 UFOが観たい!幽霊が観たい!超能力が観たい!UMAが観たい!
 なんとなくそう思った。

久々日記。

 『蒼天航路』が終わってしまった…。
 大好きだったのに。
 長い間お疲れ様でした。


 三国志は物語にしやすい。
 主人公になり得る人物が大勢いるからだ。
 そのため、これまで三国志を題材とした多くの小説、漫画が創られた。
 しかし三国志にはひとつの大きな問題がある。
 それは、期間が長いということである。
 三国志初期から中国が統一されるまで生き抜いた人物はほとんどいない。
 横山光輝氏の『三国志』は
 主人公を劉備玄徳から諸葛亮孔明へと主人公をかえることで
 この問題を解決した。
 それに対し『蒼天航路』は曹操を主人公に貫いた。
 そのため歴史物語としては不完全な終わり方をしている。


 『蒼天航路』は圧倒的な迫力で曹操の人生を描いた。
 だから歴史物語ではなく曹操孟徳の人物伝だ、ともいえる。
 ともいえる、というよりも作者はそのつもりで描いたのだろう。
 しかし残念。
 作者は劉備を魅力的に描きすぎた。
 創作物は作者の手を離れ
 他者と触れた瞬間
 作者の意図とは関係なく振舞う。
 僕は作者の描いた劉備に魅かれた。
 当然、曹操にも魅かれている。
 その魅力的な両者の戦いに期待した。
 僕にとって『蒼天航路』は人物伝ではなくなった。


 本当ならば第一部(赤壁の後)で終わるべきだったのだろう。
 さらにいえば長坂で劉備が天下三分を宣言した場面だ。
 二人の英雄がもっともキラキラしていたところで終わらせるべきだった。
 後半の展開も非常に面白かったが
 おっさんになった二人はあんまり見たくなかったなぁ。
 でもこれが連載物の難しいところ。
 みんなの期待があるもんね。
 やめられないよね。


 最終話は僕的に満足できた。
 ただ最後のコマは…。
 さすがダサいポーズを描かせたら天下一品やね。

言葉のこと

 リバウンドが『揺り戻し』に変わるらしいね。
 外来語を日本語に直すってことらしい。
 無意味だなぁ。
 言葉なんてただの道具でしょ?
 伝わればいいんだよ。


 精神分裂症も
 「症状を正しく表していない」って
 名前が変わったらしいね。
 これは大正解でしょう。
 でも痴呆症が認知症になったのはどうなんだ?
 正しくないやん。
 不認知症はいかが?


 「最近の若者は言葉遣いがなってない」
 「昔の日本語は美しい」
 これらの批判は無意味だ。
 若者同士では問題なくコミュニケーションができているのだから
 若者にとっては「なってない」言葉遣いが正しいし
 「美しくない」言葉が美しいと思われている。


 ただ、年代が違う相手に対しては違う言葉を使わなければならない。
 通じないんだもん。
 言葉としての意味を為してないんだもん。
 敬語の練習はしないとね。


 気持ちを伝えるのは難しい。
 ありきたりの言葉で表しても
 100%は伝わらない。
 どうせ伝わらないのなら
 自分の言葉でいいじゃないか。

笑点で笑う

 バイトまで時間があったので笑点をみた。
 最近笑点が面白くなってきた。歳かな?


 笑点大喜利はベタな回答が多い。
 (でも社会風刺が多いのがいいところ)
 だいたい答えが読める。
 面白くないってひとはそんなところが嫌いなんだろうね。
 斬新な発想を求めているんでしょう。
 これは吉本新喜劇にも言えることで
 毎回同じボケを繰り返す。
 しかしそれで笑いがとれる。
 オール阪神巨人,カウスボタン等々のベテラン漫才師にしても
 僕の記憶では10年近く昔から同じネタを繰り返している。
 しかしそれで笑いがとれる。


 アーティストは世界にひとつしかないものを創り上げる。
 対して職人は何万個という同じものを造り続ける。
 どちらが優れているというものではない。
 そんな職人芸を「笑い」の世界でも認めてあげようよ。

告白

 僕はとても冷たい人間で
 おじいちゃんが死んだときも
 特別悲しいとは思わなかった。
 年に数回しか会わなかったからだろうか。
 それ以前に小学6年くらいから泣いた記憶がない。
 両親が死んでも泣かないかもしれない。


 残酷なもので時間は過ぎる。
 特にキラキラしたやつは一瞬だ。
 残った思い出を心に刻んで
 新しい時間を生きようとしても
 足が前へ出ない。


 涙ってそんな時に出るのかな?
 だとしたらまだまだ思い出が足りない。
 「今」が終わるときに泣き叫んでしまうくらい
 心をここに縛り付けてやる。