あたりまえの未来は自分たちでつくる

「あたりまえの未来は自分たちでつくる」という小学校設立を目指しています。

どんな学校をつくりたいのか?~2018年1月30日現在~

前に「どんな学校をつくりたいのか?」

を書いたけれど、

何かが違う、

と思い、

あらためて考えていました。

 

 

しばらく考えてみたところ、

 

あ、そうだ。

こうだったんだ!

 

ということが思い出せたので、書いてみようと思う。

どこまで言葉にできるだろう?とは思いつつも。。。

 

 そう、それは

「いきたくなる学校」

 

子どもたちはもちろん、

そこに関わる大人たちも

「いきたくなる」

そんな学校。

 

そんな「いきたくなる」学校に行き、

いろいろなカタチで、

いろいろな人たちが子どもたちと共に、

いろいろなことを学んでいく。

 

そうすると、必然的に、結果的に、

「あたりまえってなんだろう?」

「どんな未来をつくりたいのだろう?」

「未来がどんなあたりまえであふれていたらいいのだろう?」

 

そんなことを考え、

そんな「あたりまえの未来」をつくっていくために、

今からできること、始められることをしていく。

 

自分で調べたり、

他の人に教わったり、

誰かのところに行ってみたり、

試しにつくってみたり、

 

とにかく、あたりまえの未来をつくるために、

今からワクワクした気持ちを持ちながら、

いろいろやっていく。

 

同時に、

やってみたらうまくいかなかったり、

失敗したり、

思いがけない邪魔が入ったり、

法律とか規則の壁にぶるかったりもする。

 

それでも、「いきたくなる」。

そんな学校。

 

あえて、ひらがな「いきたくなる」としてみた。

なぜかというと、複数の意味を含めたいから。

 

 

その複数の意味は、次回、あらためて書こうと思う。

 

 

 

なぜ教育なのか、なぜが学校なのか

そうだ!これを書いておかなければ、ということを思い出しました。

 

「なぜ教育なのか?」

「なぜ学校なのか?」

 

学校をつくる、という原点の想いを書かずしてどうするのだ!?

 

ということで、書いてみると、その理由は、

 

「ない」

 

です。

 

そう、理由は「ない」のです。

 

思い起こせば5年前、ふと「授業」とか「学校」というキーワードが、自分の頭に浮かんできた。

なぜ頭に浮かんできたのか?と、いくら考えても、その理由がない。

楽しい学校生活を送ってきた、とか、とても尊敬する教師に出会った、とかいうポジティブな理由もない。

いじめられた、とか、ダウンロード中心の授業で苦しかった、というネガティブな理由もない。

 

そもそも、自分が教師を選ぼうと思ったこともなかった。

大学を選ぶとき、教職課程(つまり教員資格を得る)をとるか、と考えると、「ない、ない。絶対に生徒を贔屓(ひいき)する自信あるし!(生徒を)平等になんか扱えるわけがない!」と確信をもっていたので、自分が授業をするとか、学校に携わろうと思ったことが欠片もないのだ。

(ある意味、こういうことを考えていた時点で、学校や教育というキーワードが、自分の頭の中に浮かんでいた、とも言えるのだけど。)

 

なので、5年前に「授業」「学校」というキーワードが頭に浮かび、そのキーワードに妙に心動かされている自分がいたのが、今思っても不思議で仕方がないのだ。

 

それからというものの、時折、「学校」とか「授業」に関わるものに、少しずつ携わることになる。

 

「聴きあう授業、をやりたい!」と言い出したり、千葉県の房総地区にある小学校の廃校イベントで、300人くらいの人たちと共に、校かを使ったミュージカル(創作ダンス)の企画運営に加わったりしていた。

 

徐々に、自分の内側にある「学校」や「教育」への”根拠なき”想い、声が大きくなってきたのだ。

そして、自分にも子どもができ、上野原市西原に移住し、そこで起きた小学校の統廃合問題。

そこで、ついに「火がついて」しまった。「学校をつくる」ことしか考えられなくなったのだ。

 

寝ても覚めても、どんな教育を提供できたらいいのだろう?どんな学校が運営されていたらいいのだろう?、と考えてばかりいる。

朝起きて、布団の中でぼんやりしているにも関わらず、ほとんどのとき、学校や教育のことを考えている。

そんな私が学校をつくろう、という。

もう非常識でしかないし、わけわかんない。それは、自分自身でもそう思う。

 

でも、つくらざるを得ないのだ、学校を。

立ち止まって、考え直し中です

「あたりまえの未来は自分たちでつくる」という学校をつくりたい。いや、つくる!

 

これは一切変わっていない。

でも、一つ前の記事を書き終え、投稿を終え、数日後、改めて自分で記事を読み返してみると、ほんのわずかに違和感を感じた。

 

どの言葉も嘘ではない。少なくとも、その記事を書いた時点では、それがいい!と思って書いたことは間違いない。

でも、、、何かが違う。

 

投稿をしなくなって1カ月経ったけれど、まだその違和感の原因はわかっていないし、こうすればよい!ということが見つかったわけでもない。

 

いまの状況を、そのまま書き残しておくこともとても大切だと思ったので、こうして書き起こしています。

 

実際、このブログの閲覧者数は限りなくゼロなので、誰に何の影響を与えているわけでもないのもわかっている。

それでも、書き残しておく必要性を感じた。

 

次の更新がいつになるのかわからない。

でも、実際に「学校をつくる」ということについては、引き続き動きつづけている。

 

次の投稿では、どんなことを書くのだろうか?

どんな学校をつくりたいのか?~2017年12月版~ その1

 今回は、どんな学校をつくりたいのか、について、現時点(2017年12月)バージョンを書いてみたいと思います。これらは、どんどんアップデートされていくので、何か大きく自分(と一緒にやっていく人たち)の中で変わってきたときに、ここでも書いていきたいと思います。

 


どんな教育を実現したいのか?

 

 私は、どんな教育をこの西原でやりたいと思っているのか。

 それは一言で言うと、「自分の望む未来を自分たちでつくる」ことを学び続ける、その土壌をつくる学校、です。別の表現をすると、「あたりまえの未来を、自分たちでつくる」学校です。

 今、私たちが「あたりまえ」と思っていることは、本当にあたりまえなのでしょうか?こうしてインターネット環境でブログを書いて公開していること、テレビを観ること、暖かい服を着ていること、電気を使っていること、毎日ご飯を食べられること、水を飲めること、、、それは本当にあたりまえなのでしょうか?

 違いますよね。

 かつて、誰かが「こんなことできたらいいよね」「こんなものがあったらいいよね」「こういう社会であったらいいよね」と考え、どうやっていいのかわからなくてもいろいろ試してみて、実現するまでやってきた人たちがいるからこそ「あたりまえ」になっている。

 それは、かつての話ではなく、今だって、ネット環境を整備してくれている人たちがいるからブログが書ける、電気を安定的に供給できるシステムをつくり運営してくれている人たちがいるから電気を使える、米や野菜を育てたり豚を育ててくれる人がいるからご飯が食べられる。人だけでなく、今も動物がいたり自然環境があるからこそ、あたりまえと思うことがあたりまえのようにできる。

 では、私たちはどんな未来を望んでいるのだろう?
 自分たちだけでなく、自分たちの子ども、孫、それよりもずっと先の未来に生まれ生きていく人たちが、どんな暮らしをしていけたら、どんな社会であったらいいのだろう?
 そんな望む未来を描く。そして、その望む未来は誰かに与えられる・誰かが与えてくれるのではなく、自分たちでつくっていくことができる。そのためにはどうしたらよいのか、を子どもたちと大人たちが一緒に考え、知り、学び、実際にやってみる。そんな学校をつくろうとしています。

 

その教育の柱となるものは何か?

 

 今、大きく3つの柱があると思っています。それは、「パーマカルチャー」「プロジェクトアドベンチャー」「ダイアローグ」です。そして、この3つの柱を結ぶものが「探究型学習」であり、その探求型学習の軸で考えているのが「国際バカロレア教育」です。これらの柱や軸を持つと、グローバルな視点・視野を持ちつつ、その地域にあるローカルなもの(文化など)を最大限に活かしていくことができる。そう考えています。これらの柱や軸の一つひとつについては、あらためて書いていきたいと思います。

 予め書いておくと、私自身はこれら一つひとつを教えていくプロでもないし、教育関係者でもありません。ただ、これらの柱や軸は、私自身の人生を大きく転換する経験に大きく寄与したものであったり、妻や身近な人たちの経験を通じて、これらがとても素晴らしいことを知っています。

 

一つ目の柱、パーマカルチャーに観ているもの

 

 今回は、まず、パーマカルチャーについて、少し書いてみます。

 パーマカルチャーには、3つの倫理があります。それは、「Earth Care」「People Care」「Fare Share」です。日本語にすると、「地球に配慮すること」「(自分自身を含む)人に配慮すること」「公平に分け与えること(余剰物を分け合う)」となります。伝える人によって、日本語の言葉は異なりますけれど、本質は同じです。

 この3つの倫理に基づき、自然に触れ、畑仕事や山仕事を行い、家作りや道具づくりをする。食べるものも、住むところも、着るものも、自分たちの手でつくっていく。自由に自然あふれるところで遊ぶことも、とても大切なことだと思う。同時に、とても大切な倫理に基づき、さまざまな体験を通じて学んでいくことは、とても重要だと思っています。

 倫理とか書くと少し難しそう、って感じにもなるかもしれませんが、私の妻をはじめとして友人・知人にパーマカルチャーを学び実践し始めている人たちがたくさんいます。その人たちは、とても心豊かで楽しそうで、充実した暮らしをつくっています。それは大人たちだけではなく、そこにいる子どもたちも同じ。本当にとても豊か。

  子どもたちが大人たちと一緒に、畑仕事や山仕事で、土や木やさまざまな自然に触れる。そして、人や自然の持つさまざまなチカラを分けてもらう。同時に、人としての学びを培っていく。人とも自然とも共生していくくらしかた、生き方を学んでいく。
そんなことが、パーマカルチャーを通じてできるのではないか、と感じています。

 

西原という場所でパーマカルチャーを柱にすること

 

 日本の多くの"田舎"と同じように、西原は自然にあふれる地です。海はないですが、周りは山に囲まれているので森林資源は多く、傾斜地なので小規模だけれども、あちこちに畑がたくさんあります。人柄も、とても優しく、「お茶飲んでいくか。」と頻繁に声をかけてくれます。口調はちょっと柄が悪い感じがありますが、その口調とは裏腹で、とても思いやりがあり、さりげない気遣いをしてくれる人がとても多いです。

 一方、課題として、子どもがどんどん減り、働き盛りの若い人たちは町や東京に移り住み、65歳以上の高齢者ばかりが残る。人口も、40年前に比べて1/4になり、現在は580名ほどの地域です。イノシシやサル、シカなどにより畑も日常的に荒らされるし、畑ができなくなった高齢者の人たちも増える一方。なので、利用されていない畑も増える一方です。働き盛りの20-40歳台の人たちは、上野原の街や八王子や立川などに働きに出たり、家族と共に移住してしまうことも多い。なので、そういった世代の人たちが、あまり地域のことに関われない。テレビ世代・ネット世代でもあるので、都会・街の生活への憧れも強いように感じます。(西原の人は西原が嫌い、という言葉も、複数人の地元の人たちから聞いたこともあります。)

 西原はそんな場所ですが、だからこそできることがたくさんあると思っています!自然だけでなく、昔から続いているさまざまな伝統行事も、今ならまだ継承できるものがあります。畑も今からなら、少し開墾しただけで使えるところがたくさんあります。素朴でちょっとしたことをとても大切にしているおばあ、おじいも多い。だからこそ、パーマカルチャーがとても大きな学びにつながると考えています。

 

最後に

 

 いろいろ書きましたが、子どもたちとともに、大人も、その地域にいる人たちも、楽しく、笑いながら、でも、いろんなことに挑戦しながら学んでいく。そんなことをしていたら、地域にある"問題"と言われていたことが問題ではなくなる。住んでいる人が少なくても、「この村、コミュニティはイキイキ輝いてる!」という場所になるんじゃないか、と勝手に思っています。

 

 また改めて、他の柱や軸についても書いていきたいと思います。

逆説の10カ条

 6年前に初めて知った言葉。

それ以来、クリアファイルに入れたり、Facebookに投稿したりして、何度も読み返した言葉。

今、改めて、この10カ条が身に染みる。

 

逆説の10ヵ条 (The Paradoxical Commandment)

1.  人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しなさい。

     (People are illogical, unreasonable, and self-centered. Love them anyway.)

2.  何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。それでもなお、良いことをしなさい。

     (If you do good, people will accuse you of selfish ulterior motives. Do good anyway.)

3.  成功すれば、うその友だちと本物の敵を得ることになる。それでもなお、成功しなさい。

     (If you are successful, you will win false friends and true enemies. Succeed anyway.)

4.  今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。それでもなお、良いことをしなさい。

    (The good you do today will be forgotten tomorrow. Do good anyway.)

5.  正直で率直なあり方はあなたを無防備にするだろう。それでもなお、正直で率直なあなたでいなさい。

    (Honesty and frankness make you vulnerable. Be honest and frank anyway.)

6.  最大の考えをもった最も大きな男女は、最小の心をもった最も小さな男女によって撃ち落されるかもしれない。

    それでもなお、大きな考えをもちなさい。

   (The biggest men and women with the biggest ideas can be shot down by the smallest men and women with the smallest minds. Think big anyway

7.  人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていない。それでもなお、弱者のために戦いなさい。

    (People favor underdogs but follow only top dogs. Fight for a few underdogs anyway.)

8.  何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。それでもなお、築きあげなさい。

     (What you spend years building may be destroyed overnight. Build anyway.)

9. 人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。それでもなお、人を助けなさい。

    (People really need help but may attack you if you do help them. Help people anyway.)

10. 世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい

   (Give the world the best you have and you'll get kicked in the teeth. Give the world the best you have anyway.)

 

 

著書