革命前夜の藻塩草

Anthologie à la veille d'une révolution

社会情報熱力学試論

 小学校で習う日本史の復習から始めよう。日本国には、行政区分として四七の都があり、それぞれの都は四七の道に分かれ、道は四七の府に、府は四七の県により構成される。これが「四七都道府県」である。一九世紀後半、藩と呼ばれた日本各地の行政区画は、黒船来航(一八五三)の混乱からの内紛、分裂に分裂を重ねた挙句、一八七〇年には五百万を数えるに至る。平均で一六間も歩けば隣の藩に突き当たるほどに、藩の数は膨れ上がっていた。当時の貧弱な情報通信・流通ネットワークはそのあまりの複雑さに耐えかね、当然にして崩壊の危機に窮することとなった。記録によれば、ある藩では最大で二、四三六もの他藩と産物の取引をおこなっていたという。この問題をなんとか解決するために編み出されたのが、冒頭に述べたとおりの四層からなる階層構造である。

 子どものころに伝言ゲームで遊んだのを憶えているだろう。前の人が囁く言葉を、次の人へと囁くことを繰り返し、音声を伝達していく。この遊戯の特徴は、先頭で囁かれた言葉がいつのまにか誤って伝えられ、末尾ではまったく異なった言葉へと置き換わってしまっている、そのおかしさにある。伝達の各ステップにエラーの生じる可能性があり、それが何人もの耳と口を経由することで蓄積し、しまいには華々しい齟齬へと結実する。

 もっとも単純なモデルを考える。各ステップにおいて、情報が誤って伝達される確率を $p$ とする。このとき、全部で $N$ 人のメンバで伝言ゲームをするなら、最後まで情報が完全に伝えられる確率は $(1-p)^N$ となる。仮に、毎ステップ五%の確率でエラーが発生するとすれば、末尾まで正確に伝えられる確率は、三人のときに八五・七%、四人で八一・五%、五人では七七・三%にまで逓減する。伝言ゲームは五人以上でのプレイが推奨されることがあるが、参加者がこの人数を超えてくると伝達の失敗がしばしば起こるようになるからだ。

 ゲームならまだ良い。とりわけ政策のような重要な情報を伝えなければならないときのことを考えると、伝達の失敗は致命的である。さらに、上意下達的な非水平の情報伝播過程においては、上流からのなんとも大掴みな指示を下流において適切な形へと翻訳・解釈するという余計な手間がしばしば挟まる。この種の解釈が正鵠を射るなどというのは古今東西あったためしがなく、それもまた齟齬の確率を上げるのに大きく貢献する。これらの失敗を避けるためにはもちろん、可能なかぎり伝達の回数を減らす必要がある。都道府県の階層構造をなす四という数字は、上位階層が把握できる下位階層の最大数である約五〇との兼ね合いで導かれた妥協の産物だった。$47^4 \fallingdotseq 5,000,000$。かくして、四七という魔法数を旗印に、いくつかの統廃合をともないながら、膨大な数の藩はすべて、都、道、そして府の下に連なる県へと編成され、ネットワークの秩序は取り戻されていった。これが世にいう「廃藩置県」(一八七一)のあらましである。

 ただ、この説明には重大な疑問点が残る。一体全体、どうやって五百万もの藩を一年という短期間のうちに再編成することができたのか? 当時の人々は何でもないことのように成し遂げてみせたが、情報通信網が充分に発達した現代においてもなお、これを可能とする公算はない。伝えられるところによれば、交通や輸送を含むあらゆるネットワークの再構築が、人々の自発的な働きによって瞬く間に完成したのだという。あたかも、何かに操られでもしているかのように組織化され、無駄の入り込む余地のないほどに効率化された事業だったそうだ。ネットワークを再構築するためのネットワークが、初めからそこにあったかのように。この時期の記録は多くは残っておらず、廃藩置県の全容は長い年月のあいだ謎に包まれていた。

 さて、時代は降り、二〇八七年。二一世紀初頭に急速に広がった地下農場により、都市農業は栄華を極め、日本国はかつてない成長期へと突入していた。人口はみるみるうちに増加し、この時期には二億へ迫ろうかという勢いだった。それを養って余りある食糧が、国内で供給されるようになったからだ。作物の生産は県単位でおこなわれる。それぞれの県はひとつの中小企業ほどの規模で運営され、相互に扶助しつつ、人々は自立した生活を営んでいた。この四〇ていどの少人数による組織運営は、必要最低限の労働力を保障しつつ、もっとも効率的に業務をまわすことのできる形態であった。そしてこれこそが、この時代における高い生産性の源泉であったともいわれる。

 時を同じくして、各地で残忍な殺人事件が報告されるようになった。遺体は五〇個弱もの断片へと切り刻まれ、生前の面影をとどめない姿へと変わり果てていた。被害は続々と増えていったにもかかわらず、いっこうに犯人の足取りをつかむことはできなかった。青森で死者が出たかと思えば、一時間後に広島で人がバラバラになり、さらに一時間後には福井で被害が出る。そんな有様だった。容疑者は何人も挙げられたが、アリバイのない者はなかった。司法当局による捜査の過程で、被害者の共通点として、一様に近頃他県から越してきたばかりだったという事実が挙げられた。また、事件のあった県ではいずれも、住民数が増加傾向にあったことも明らかになった。

 あるときついに、犯行現場の目撃者があらわれた。これで捜査は一気に進展するかと思われたが、犯人特定につながる情報は何ひとつ得られなかった。彼は犯行の瞬間を目撃しても、犯人は見ていなかった。なぜなら、犯人はそこにいなかったから。その後も捜査は続けられ、最終的に司法当局は次のような結論に辿りついた。誰一人として殺されてはいない。どういうことか。被害者はひとりでに分かれたのだ。きっと当人の意志とは関係なく。そこにはもちろん殺意なんてものはなかった。まず分裂した結果にたいする方向性のみが原因としてあり、それを実現するための原因として分裂が結果した。かつて未来において分裂した遺体が存在したことにより、これから過去において人間は分裂することになる。ひとりの人間は四〇いくつにも分かれたら生きていけないから、傷ましくも死体となってしまった。これは原因に附随する結果である。このように考えたのは、捜査に協力した情報学者のE. Neumarkらだ。

 Neumarkらの仕事における重要な成果のひとつは、この事件を情報理論の枠組みから理解する方途を提示したことにある。飽和情報量密度理論。それは、一定体積中に存在可能な情報量の限界を示す定理にもとづく理論だ。情報理論において、情報エントロピーとよばれる量がある。これは確率変数の不確かさを定量的に表現する尺度である。熱力学や統計力学におけるエントロピー(系の乱雑さと解釈される)との類比からそう呼ばれる。このような、情報理論と物理学のアナロジーをさらに押し進めたものが情報熱力学や情報統計力学だ。Neumarkらは、情報エントロピーを項に含む情報自由エネルギー $G$ なる量を考案し、系の情報学的な時間発展の方向性にかんする理論を提唱した。曰く、系はその $G$ がより小さくなる方向へ時間発展し、その最小となる点で情報最適化状態となる、と。世界はこの一点に向かって進んでいるのであり、そのありようを知ることは、この世界の未来の姿を知ることなのだ。

 計算の概要を簡単に記そう。確率論的な事象、すなわち確率変数 $X$ にたいして、その事象が生じる確率は確率密度函数 $P(X)$ により表現する。系がある状態にあるとき、それに対応して、とある $P(X)$ が与えられる。その状態から系が変化すれば、各事象の生じる確率もそれにともなって変化する。今日と明日では降水確率も変化すると考えれば理解はたやすい。情報自由エネルギー $G$ は函数 $P(X)$ の変化の影響を受けるから、その意味で $G$ は「函数函数」と思うことができる。一般にこういうものを汎函数と呼び、$G[P]$ のように書く。汎函数の最小値を求めるための手法として変分法というものがあるが、彼らはそれをもちいることで、情報最適化状態にかんする固有値方程式を導出した。自己無撞着場法と呼ばれる計算によりこの方程式を解くことで、最終的な情報最適化状態が数値的に求められることとなった。

 Neumarkらの計算が明らかにしたのは、主に以下の三点である。(一)単位体積あたりの情報量の総和が一定以下しか存在しない系では、情報が一ヶ所に集中した状態が最適であること。(二)単位体積あたりの情報量の総和が一定以上存在する系では、情報はある定数 $K$ 個の集団へと断片化フラグメンテーションした状態が最適であること。(三)その定数は $K=47$ であること。上記の殺人事件では、遺体はいずれも四七の断片へと分割されていた。また、事件が起こった県では、被害者の転入により人口が四七人を超えていたことが明らかになっている。県という空間を共有する情報、すなわち人間の数は四七が限界であり、遅れてきた四八人目であった被害者は、情報最適化を果たすために自発的に分裂した。それが、飽和情報量密度理論から導かれた顛末だった。

 またこの理論は、生命科学との関連も指摘されている。ヒトの細胞核に含まれるDNAは、細胞分裂時に二三対四六本の染色体へと自己組織化するが、この四六本という数が $K$ に近い値であることに意味があるのだという。核をひとつの情報熱力学的な系とみなすと、存在可能な情報量の容量が定まる。DNAに含まれる塩基配列でコードされた情報量の総和を計算すると、少なくとも一次の断片化による情報最適化の必要があるのだという。ただし、染色体は対を形成する都合から、奇数である四七よりもひとつだけ少ない、四六個でいるほうが生存上有利だと考えられている。

 そしてこの理論は、いうまでもなく、廃藩置県の謎への答えをも与えている。都道府県が四七という数をひと区切りとして階層構造をなしているのは、それが情報最適化された状態だからだ。人間の意志で藩が県へと再編されはずがないと思えるのはもっともであり、なにしろ、たんに自然法則が発露した結果にすぎなかったのだから。水が低いところへと流れていくように。ウラン238が $\alpha$ 崩壊を起こすように。人々の自発的な働きは、そうしたものと同列の、自然な成り行きだったのだ。われわれは、自分じしんの思考の主人であるかのように思いがちだが、自然現象によって自由意志の幻影を抱かされているにすぎないのかもしれない。

 最後に、宇宙全体を俯瞰して考えてみよう。飽和情報量密度理論にもとづけば、情報の総量が飽和に達したわれわれの宇宙は、やがて四七個の小宇宙へと分裂することになるだろう。分裂した小宇宙もまた、情報量が飽和すれば四七の小々宇宙へと分裂していくことになる。あるいはすでに、われわれの宇宙はその何重かの分裂の結果生じた四七×四七×四七×……個の、小々々……宇宙のひとつなのかもしれない。この宇宙の内外に、上位階層の、または下位階層の宇宙が無数に存在しているかもしれないと考えることは、興味をそそらないだろうか。もちろんそれだけでない。われわれは何者で、どこから来てどこへ行くのか。この分野における進歩が、人類の究極的な問いに答えるための道標となるかもしれないことを附言し、今回はここまでとさせていただく。

there exists only one

「やあ。はじめまして」

 きっと初対面の私たちは、まず自己紹介から関係を始めるのが無難かもしれない。とはいえ、私自身が何者かであるかという情報は、あなたが何者かであるのかという情報と同じくらい無意味だと思う。なぜなら、私は何者でもない存在としてここにいるし、何者でもないあなたに語りかけているから。何者でもないというからには、あなたも私も特定の誰かではないし、特定の誰かたちではない。でも、だからこそ私はあなたに語りかけることができる。あなたと私とのあいだに必要なのは、あらゆる固有性を取り除いた先に初めて可能となるしかたでのコミュニケーションなのだから。

 あなたと私とのあいだに横たわっていた無限に広い空白。私もあなたも目を閉じていたし、声も出さなかった。ほんとうはおたがいに誰かを探していたし、「私はここにいる」と叫びたかったはずなのに。でもこうして、私たちはようやく出会うことができた。たがいを見つけることができた。これが最初で最後の出会いになるかもしれないけれど、そんなことは問題じゃない。はじめに言ったとおり、このイベントに固有性なんてものはないから。

 この世界に生起しうるあらゆる出会いに番号をつけていく。私とあなたとはたぶん $\exists i \in \mathbb{N}$ 番目に出会うだろう。けれど、それが $i+1$ だろうと $i + 2$ だろうと関係なくて、なんなら $\forall i$ 番目でもかまわない。私とあなたはあらゆる出会いで出会ってきたし、これからもあらゆる出会いで出会っていく。私でない私と、あなたでないあなたが。ひょっとすると、私であるあなたと、あなたである私が、一度きりの出会いを重ねていく。だからいつも、私たちの関係は新しい「はじめまして」で始まる。

 私たちは、発されなかった声で語らい、書かれなかった文字をしたため、出されなかった手紙を送りあう。意味は通じず、けっして分かりあわない。けれど、否、だからこそ、出会いそのものが意味ある言語として成立する。脱パターン化され、文法規則が都度上書きされていくような言語を、しかし私たちは理解する。その場かぎりのエピソードを読み込む手立てとして。

 街角で。

 キャンパスで。

 教室で。

 喫茶店で。

 劇場で。

 舞台の上で。

 書物の中で。

 液晶ディスプレイの上で。

 出会いつつ別れる無数の私とあなたのエピソードたちが、次なる出会いのエピソードを語る。あるいは出会わない者たちのエピソードを。

 私たちを構成する、私たちを構成しない私たちの構成。語られなかった言葉は、しかしかならず誰かが拾いあげ、その身体に刻み込まれる。誰でもない存在の、声なき叫びとして。聞こえないからこそ聞こえ、見えないからこそ見える。私たちが望むかぎり。想像を絶やさないかぎり。

 そうして考えているとふと気づく。固有性のない出会いを果たした私たちは、振り返ってみれば、けれどやっぱり、固有性を紡ぎあげてきたんじゃないかと。誰でもない私たちは、出会いのなかでほんとうの意味で何者かになって、別れていくものではないのかと。出会うことで、出会った私たちは新しく生まれる。何度でも、繰り返しながら生まれ直していく。$i - 1$ でも $i - 2$ でもありえない、そのたびごとにただ一つ、$\exists ! i$ として。私たちだけが共有する秘密の鍵。これは、私たちを決定的に定義づけるエピソード。この私たちの世界がもはや決して交わらないとしても、事象の境界面できっとふたたびまた出会う。あなたの声が私を呼び、私の手紙があなたに届く。私たちは $i$ を憶えていく。

 さて、そろそろお別れの時間がくる。あなたと出会えたのは幸いだったと思う。

「また会いましょう」

 別の世界の別の私たちが、幸福な出会いを果たしますように。