レコード芸術誌休刊(実質的に廃刊)についてのちょっと雑な雑感。

レコード芸術誌の存続を求めるchange.orgの署名サイトchng.it/fvPM5wWR

まあ私も一応は賛同したけど、発行するのは音楽之友社だし、change.orgで署名を集めても音楽之友社が経営上不利益になるなら休刊は仕方ないでしょう。時代の流れですよ。 

HMVとかタワーレコードのサイトに行けば、国内版新譜に限定しない興味深い新発売CD(輸入盤の新譜や再リマスターによる廉価版のボックスセットなど)についての記事が無料で読める訳だから、国内版新譜だけを特別視する紙の雑誌をお金を出して買う必要もない訳です。

詰んであるレコ芸の山をザッと眺めたら一番古いのは1987年あたりで、最後は2005年あたりかな?

だから18年前あたりで買うのをやめている。

私が読んでいた時代で知る限り、「レコード芸術」誌のメインはクラシック音楽のレコード、CDの国内版新譜の評論家による月評なのだが、90年代に輸入版を扱うCD店に行く様になると、種類も豊富で値段も安い輸入版の購入がメインになった。だから国内版の月評はあまり興味はなくなり、面白かったのは音楽学者や(クラシック音楽)評論家による様々な特集記事だった。金子建志氏による記事などは本当に面白かった。
だがそれら特集記事もだんだんマンネリ化して過去の焼き直しみたいなものが増えた。
CD月評は宇野功芳氏のような名物評論家の独断と偏見による月評は文章としてネタ的に面白かったが、最早ネタでしかなかった。

自分もごく一時期、恥ずかしながら宇野氏に影響されてしまったことがあるが、宇野氏が絶賛している録音が自分にとってはつまらなかったり、宇野氏がボロクソに貶しているものが自分にとっては良かったりする様になると、あの宇野氏があのCDをどう評するか?というネタ的な面白さでしかなく、そこに吉田秀和のような音楽評論としての本来の読み応えは殆どなかった。


さて、音楽之友社の雑誌は他にも色々あるのだけれど、一応メインなのは社名を冠した「音楽の友」なのだろう。クラシック音楽の総合的な雑誌なのだろうけれど、海外一流オーケストラ、歌劇場の来日公演、日本の有名演奏家のコンサートなどが巨大な写真とともに華やかに紹介されていたり、有名演奏家のインタヴューなどが主な内容だった。
クラシック音楽のコンサートに頻繁に通える裕福層の一般クラシック音楽ファン向けの雑誌という印象だ。個人的には全然面白くない。「音楽の友」で有用だったのはオーディション、コンクールの情報だけだった。

高額な一流演奏家のコンサート、オペラに頻繁に行けるほどの金はない、主にCDやレコードで鑑賞しているというクラシック音楽好きの人達も存在する。

そんな人達の心に突き刺さったのは宇野功芳だったという面はあるのではないか。
宇野氏はただ技術的に優れているだけで心に訴えず、大枚のチケット料金を奪ってゆく欧米一流演奏家の演奏をコキ下ろし、そんなものを聴くより朝比奈の指揮する大阪フィルを聴くべきだと語った。
ヴィーン国立歌劇場の来日公演の最上級席に座っている人間のうち、その真価を理解しているのは何%なのだろうか?彼らは経済的ステイタスとしてそこに座っているだけではないのか?
そんな奴らより、1800円で買ったフルトヴェングラーのCDを聴いて感動している俺たちの方が「クラシック音楽」という芸術の本質を知っているぞ!という精神。これが所謂「クラオタ」の精神であり、その源流が宇野功芳なのではないだろうか?
そういう意味では宇野功芳と「クラオタ」はクラシック音楽を裕福層のアクセサリーではなく、一般人がCDなどを視聴して深く楽しむものとして広く世に解放したのである。そのクラオタ精神を象徴していたのが「レコード芸術」誌であった。(*個人の感想です)

宇野功芳レコード芸術には、クラシック音楽という素晴らしい芸術を裕福層の占有物から人民大衆の宝として取り返したという重要な意義はあった。しかし宇野が産んだクラオタにはオタクとしての悪癖、本質よりも表面的なネタを楽しむという悪癖がある。その悪癖が産んだ徒花が許光俊片山杜秀である。

富裕層のアクセサリーとしてのクラシック音楽(「音楽の友」)でもなく、クラオタのオタク趣味としてのクラシック音楽(「レコード芸術」)でもなく、純粋に芸術音楽の素晴らしさを伝えるコンパクトで内容の凝縮された雑誌があった。
音楽之友社は「音楽芸術」誌こそを復活させるべきであろう。

音楽における快楽と堕落についての自己まとめ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「天賦人権論」の「天」とは儒教の「天」であってキリスト教の唯一神じゃありませんよという話。

 

 

天賦人権論(テンプジンケンロン)とは - コトバンク

 

これは自分でも忘れないようにしておくためのメモでもあるのですが、要するに、

西洋においてもキリスト教普及以後から中世以前の宗教の権威が強かった頃は「命や権利は神様が与えてくだすったものだから、人間はそれに感謝して神に仕え、神の教えを守る義務がある」みたいに考えられていた訳です。

近世の啓蒙思想の時代になると理性によって宗教的思考が否定され、そこから人には(神に与えられたのではなく)「生まれながらに」「自然に」権利があると考えられるようになり、これが「自然権」と呼ばれるようになりました。つまり、権利は神によって上から与えられたのではなく、元々生まれながらに自然に持っているものだ!という思考な訳ですね。

ところが、この思想が明治初期に日本に入って来た時に不思議なことが起きます。

「自然に持っている」という意味を当時の日本人はそのままの意味では理解できなかったのでしょう。だから「原始儒教的な宇宙万物の主宰としての天の観念」(世界第百科事典 第2版)が媒介し「自然」が「天賦」になってしまったのです。上から与えられたことを否定して生まれた自然権が、日本では「天に与えられた」ものになってしまうのです。

さて現代においてはこれがさらに捻じ曲がった様相を呈します。「天賦人権論」は「自然権」の日本独自の誤訳であったにも関わらず、現代日本では「西洋の人権思想」=「天賦人権論」=「人権とは(キリスト教の)唯一神が人々に権利を与えてくだすったものである」という珍妙な誤解が広まっているのであります。これには勿論「アメリカ独立宣言」の文言の影響もあるでしょう。しかし自然権の思想は唯物論的、無神論的な社会契約説を元に生まれて来たのであり、「アメリカ独立宣言」はこれを当時のアメリカ人に解りやすく伝えるための方便のようなもので、これは本来の「自然権」の発想とは対極だと言えましょう。

桜と富士と天皇と

こんなツイートがありました。

 

以下は自分のツイートのまとめ 

 

 

 

 

地下鉄でクラシックのBGMを流すんだとか…

tetsudo-shimbun.com

 

うーむ、やめて欲しいです。

 

www.tokyometro.jp

http://www.tokyometro.jp/news/images_h/metroNews20180124_1.pdf

 

で、以下これについての(主に)自分のツイートのまとめです。

 

 

 

 

 

 

 

ヘイトが蔓延する時代のベートーヴェンとマーラー

何だか大仰なタイトルですが、別に深い分析とかではなく個人的、主観的な内容です…

 

以前にも書いたような書いていないような気もするのですが、私は中学生の時にドヴォルザーク交響曲第7番に感動してからクラシック音楽を聴くようになり、当初はそのドヴォルザークを中心として、同じように19世紀後半に活躍していたチャイコフスキーとかブラームスといったあたりに触手を伸ばして行った訳ですが、やがてマーラーの音楽に出逢います。

中学生の頃の私はやはりある種の「中(厨)二病」的感性がありましたから(この「中(厨)二病」という言葉は世代や個々人によって意味合いが多少異なるようですが、ここで言っている意味は、ニーチェの「ツァラトストラはかく語りき」を十分に理解できぬまま無理矢理読破して「俺も超人になるぞ〜!」みたいに思ってしまうような痛々しい感性だと思って下さい)マーラーのひたすら長大で意味有りげな交響曲はとても良く効きました。そして何を思ったのか「俺も偉大で長大な交響曲を死ぬまで10曲くらい書きたい」と考えて、それまで全く弾いたことのなかったピアノや和声や対位法を学び始めてしまったのです。

結局の所、作曲の才能は無かったようで音大は声楽科を卒業し、その後自称プロ最底辺声楽家になってしまいました…

まあそんな訳ですから、若い頃の私にとってはマーラーはあらゆる音楽の頂点、神のような存在でした。理由は非常にシンプルで、自分にとって最も感動できる音楽だから、というものです。マーラーに次ぐ存在はワーグナーブルックナーでした。バッハやベートーヴェンにも感動はしましたが、あくまでマーラーを頂点とする後期ロマン派にむけて音楽が進化し続ける途上にある「発展途上音楽」というのが正直な印象でした。

しかしやがて、巨大な感動の裏にある種の空しさを感じることに気付きます。

ファウストの天上への救済が描かれる第8番、永遠の春を夢想して終わる「大地の歌」、天国とも天上とも極楽浄土ともいえるような形而上学的な架空の理想世界へ救済されることをひたすら夢想するような9番、10番の終幕。いずれもある種の現実逃避のような側面があることに気付きます。

ブルックナーワーグナーにも結局は似たような側面があり、ブルックナーでいえば甘美な祈りに耽る8番のアダージョ長調で終わりながらも全体に悲劇的な色調の9番のアダージョワーグナーも最後の楽劇となったパルジファルの最終幕では全体にゆっくりとしたテンポで宗教的妄想の要な救済が描かれます。

このように、現実を離れた架空の巨大な世界に浸って救済を願うような姿勢は1848年の革命が失敗した後の時代の空気が影響しているのかもしれません。

 

「ほんとうに優れた芸術なら、その感動に空しさは覚えないはずでは?」などと思ってしまった私は、「空しさの無い真の感動」とやらを求め、しばしばクラシック音楽の世界で最高峰とされるバッハ、モーツァルトベートーヴェンにその「真の感動」を求めてみたのでした。まあ、そこにはこの三人の音楽が最高であると理解できる者が真の通である、みたいな権威主義に無意識に影響を受けていた面もあるのかもしれません。

後期ロマン派趣味の私にとって一番自然に共感できるのはバッハです。バッハにはブラームスやレーガーに似たドイツ的叙情があります。合唱でロ短調ミサなどを歌ったこともありますから、その対位法の巧みさが舌を巻くようなものであることもわかります。

モーツァルトは正直苦手でしたが、真剣に聴けば人間的感情を排したような独特の宝石の様な美しさがあり、そこに思わず涙しそうになったこともまあ無くはないです。モーツァルト信奉者の文章には「モーツァルトこそが飛び抜けた天才、モーツァルトが解らない奴は馬鹿。モーツァルトのわかる奴こそ真の通」みたいな雰囲気がしばしばありますから、私も頑張って理解してみようと努めてみた訳です。しかし、モーツァルトを聴きたくない時にラジオやカフェのBGMで聴こえてくるモーツァルトの音楽には時に神経を逆撫でされるような不快さを感じるのも事実です。

ベートーヴェンでは第9交響曲のフィナーレで「おお友よ、こんな調べではなく」とか、最後の弦楽四重奏曲での「そうでなくてはならぬ!」に示される通り、直前のゆっくりとした安らかな音楽を否定し、人間たる者ウジウジしていてはいかん!明るく快活で常に前向きだあるべき!という、人間のあり方に関する理想主義的なメッセージを感じます。常に前進し力強く闘い続ける、というこの態度は社会運動家や革命家にも、あるいは資本主義の歯車の一つとして働き続ける企業戦士にも理想的な態度ではあります。まあ悪い方へ進めばブラック企業自己啓発セミナーやカルト宗教にもなってしまう訳ですが…

音楽のみならず、芸術において価値が高いとは、どの様に判断されるべきなのでしょうか?単に「自分が最も感動するから」という判断方法も勿論ありでしょう。それとは別に客観的に判断してみようとした時に、技術が優れているとか、格調が高いとか、時代に与えた影響が大きいとか、作者の(実生活ではなくあくまで作品を通して示される)精神的態度が素晴らしいとか(?)などなど、色々な側面が総合的に判断されてゆくのでしょう。そんな中で、クラシック音楽においては伝統的にバッハ、モーツァルトベートーヴェンが最高だという価値観があり、まあそうなのかな?そうなのかもしれないなあ、というようには感じました。

ただ、ベートーヴェンに関していえば、かれは反動的なメッテルニヒ体制の下に暮らしていたとは言え、結局は人間と人間社会、その未来を信じていたのではないかと想像できます。

これに対してマーラーは、1848年の革命の失敗以後の時代に生きていただけでなく、ユダヤ人として当時のヨーロッパで有形無形の差別を受けながら生きてきたのであり、いつまでったても差別を止めない人間社会とその未来についても結局は絶望していたのではないか?とも考えられなくもありません。

いわゆる「マーラー・ブーム」が起こり始めた時代は冷戦後期であり、ボタン一つで人類が世界を滅ぼす可能性がありました。また環境破壊が進み、人類とは万物の霊長でもなく神に姿を似せて作られた選ばれた種族でもなく、世界を滅ぼすただの愚か者であるかもしれないと考えられ始めた時代でした。人類と未来に希望を持てなくなった時代だった訳です。個人的には冷戦終結後の時代の「マーラー・バブル」の頃の演奏には薄っぺらなものも感じなくもありません…

話は変わりますが、私はここ数年ますます日本の未来には希望を持てなくなりました。蔓延する差別とヘイトスピーチ、自慰的な愛国主義と排外主義…極端な差別や自慰的排外主義を主張するものがあくまでごく一部としても、その危険性に気付こうともしない大多数の人々…。今後、戦前の様な軍国主義が復活したとしても全く不思議ではありません。そんな中で、どうやって生き残り、身を守って行くか…そんなことも考えています。

最近改めてクレンペラーの指揮でマーラーの第9交響曲を聴きましたが、中年となった今でも、バッハやモーツァルトベートーヴェンのどの曲よりも大きな感動を受けたのは事実です。「格調の高さ」とやらでは確かにベートーヴェンには及ばないのかもしれませんが、特に最終楽章における、この世のものとは思えない至純な崇高さの出現は、私にとってはバッハやモーツァルトベートーヴェンでは決して味わえないものでした。自分に嘘はつけません。

考えてみれば、真に優れた芸術なら、空しさのない充実感を味わえるはず、という考えが間違いでした。鑑賞した後に幸福感を感じるか、むしろ虚無感や恐ろしさを突きつけられるかは、芸術の価値の上下とは何の関係もなかったのです。快活な幸福感に包まれるから偉い、というのであればカルト宗教も偉大な芸術になってしまいます。

また、最も偉大な音楽芸術は何か?とか、歴史上最も偉大な作曲家は?とかいうことを考えること自体がそもそも既にどこか馬鹿げているのでしょう。自分にとって大切な音楽は何か?自分の今後の人生にとって大切な音楽は何か?そういう視点の方を今後は重視して行くべきなのかもしれません。

 

 

逆走自転車に対する対処法について

何年か前に警察が自転車の違法行為に対する取り締まり強化を打ち出したが、現在も自転車の車道逆走(右側通行)は一向に減らず、警察が取り締まる気配もない。

個人的に感じるのは、車道と歩道が分かれていない道路では逆走自転車が増えることである。ママチャリやクロスバイクは平然と逆走している。言うまでもないが、「車道と歩道が分かれていない道路」は全体が車道であり、当然このような道路でも自転車は左側通行である。以前は路側帯(歩道のない道路の隅に引いてある白線が引いてある場合の白線より側端側)のなかでは自転車の右側通行(つまり右側の路側帯を走ること)が認められたが、2013年12月1日の法改正によって禁止となった。また、白線が引かれていない道路の即端は「路側帯」ではなく単なる「路肩」であり、これは法改正以前からそもそも自転車の右側通行は認められていない。

ある程度自転車を愛好する人に取っては、逆走自転車は実際迷惑な存在である。

自分が道交法に則って車道の左側を走っていて、前から逆走自転車が来る。後ろからはトラックやバスなど大型車が来る。普段でさえ大型車の幅寄せで怖い思いをすることは多いのに、違法な逆走自転車によってさらに危険な思いをする可能性がある。

とある対処法

逆走自転車に遭遇した場合にはとある対処法が提唱されている。是田智、小林成基共著『自転車はここを走る!』(エイ出版社、2012年)の96〜98頁においてNPO法人自転車活用推進研究会の小林成基氏が提唱している方法で、実践する人もいらっしゃるのではないだろうか。この方法は、最新版である「新・自転車"道交法"BOOK」(2017年)にもそのまま載っている。これは、

1.左端の走行位置を保ち、逆走者に左側は譲らない。

2.逆走者も進路を譲らないなら停車し、逆走者を車道の中央よりにやり過ごす。

3.すれ違ってから逆走者に「自転車は左側通行ですよ」など声をかける。

である。小林氏はこの方法を提唱する理由として、

A.順走者(正しく左側を通行している側)が車道の中央寄りに避ける、という方法では、逆走者は自分の間違いに気付かず、危険な逆走者が減らない。

B.正しく法律を守っている順走者が、法律を破っている逆走者の為に、自分からより危険な車道の中央寄りに出る必要はない。

などを挙げている。

 

では私自身が上記1. 2. 3.のうち、1.と2.を実戦してみて感じた問題点について書いてみたい(さすがに3.を実戦してみる勇気はありません…)。

 

この対処法を一部実践してみて感じた限界と問題点

A.まず、逆走者に間違いを気付かせる効果に付いては、殆ど無いのではないか、という印象である。これは仮に上記3.をも実践したとしてもたいして変わらないのではないだろうか?

逆走者のほとんどは、自分が違法な悪い行為をしているという自覚はない。大半は「自転車は左側通行」ということ自体を知らないか、又はそれを知っていたとしても、そんなものは現実の生活においていちいち守る必要はない単なる建前の一種、と考えている(車が来なければ赤信号を渡る歩行者と同じ心理である)。

このような人を相手に上記の方法を行っても、相手は「変な人に嫌がらせをされた」という印象しか持たない可能性はある。

このように「変な人に嫌がらせをされた」という印象しか相手に与えられないとすれば、逆走者がとてもガラの悪い人物だった場合、無用なトラブルに巻き込まれる可能性もあるかもしれない(幸いまだ私はそのようなことにはなったことはないが…)。あるいは、逆走者が登下校中の児童生徒などだった場合、「変な人に嫌がらせをされた」と保護者や教員に報告されれば、児童生徒に嫌がらせをする不審者が出没している、などという誤解に基づく不名誉な噂を広められる可能性もあるかもしれない(実際登下校中に逆走してくる中高生も多く、上記の方法で対処したことは何度もある)。

B.逆走者に危険な車道の中央寄りを走らせる、ということは、裏返せば「法律を破る悪い奴に危険な側に追いやる」という復讐の精神がないとも言えないのではないか?という疑念がある。これについて小林氏は順走者からは迫る車は見えないが、逆走者からは見えているので問題ないとような書き方をしている(言うまでもなく順走者にとって自動車は背後からやってくるが逆走者には前からやってくる。日本で歩行者が右側通行なのはこの面から安全だと考えられる為だろう。ただし、車両と歩行者の通行側が逆なのは先進国では稀らしい)

ただし逆走者の方が相対速度が大きく(自転車20km/h、自動車40km/hとして、順走者の自動車との相対速度は20km/h、逆走者は60km/hである)、この点から来る別の危険性(接触した時の衝撃の大きさ、自動車の側からの回避の難しさ)もあると考えられる。特に道幅が狭い場合、この危険性は高い。

仮に(あくまでも仮にの話だが)、中央寄りにやり過ごした逆走者が後ろからやってきた自動車と接触して大怪我または死亡した場合、法的には「あなたは道交法を守っただけなので責任はありません」と判定され法的責任を問われたかったとしてもても、道義的に全く責任を感じずに済ませることは出来るのだろうか?

また逆走者放任の現在の警察の様子から考えると、上記1. 2. の行動に理解が得られず危険な行為だと判断されれば、法的責任を一切問われないということはありえるだろうか??

 

ではどうするのか?

客観的に考えた場合、逆走者に対する最も「大人な」対応は、自分から車道の中央寄りに避ける、という多くの人が行っている方法であろう。是田氏は「私はよけて注意しますね」としており、逆走者を右側に(つまり自分から車道の中央寄りに)避けながら「自転車は左側通行!」と注意してるイラストが載せられている。ある意味王道であろう。しかし実際に「自転車は左側通行!」などと言うのは私には無理だ。この右に避けるという方法を逆走者に対する注意なしに無言で行えば、小林氏が言うように逆走者に違法性を啓発する効果は一切無い。ただし、逆走の危険性と違法性の啓発は本来は警察の役目であり、順走者の役目ではないともいえる。しかし警察はそんな啓発に力を入れている様子はなく、逆走者を取り締まる気配もない。ただし、上でも書いたように、上記小林氏の方法に逆走者を減らす効果があるのかどうかも疑問である。

結局の所、自分が今でも上記の小林氏の提唱する方法のうちの1.と2.をなるべく実践しているのは、違法な行為を行う人に、その違法性と危険性に気付いてほしいという思いがあるのと同時に、逆走という危険な違法行為をする輩に個人的にも一矢報いて溜飲を下げたい、という心理があるのも事実だ…。

 

今後、この小林氏の提唱する方法をやめるのか、続けるのか、自分の中でまだ答えは出ない。

(6月11日にかけて部分的に追記、加筆、推敲を行いました)

 

上記の小林氏の方法を行うべきでない場合(2020年8月追記)

ある時、小林氏の方法を行って失敗したことがある。左端に寄って停車したら逆走者にぶつかられたのである。ハンドルを握っていた右手の中指の爪が少し剥がれ出血してしまった。「自転車は左側通行ですよ!」と言ったら「すいません。まぶしくて見えなかったんです」と言われた。

振り向いてみると背後から眩しい西日がギラギラ差している。早朝の朝日でも同じことが起きうる。

もう一つは道路が左カーブの場合だろう。逆走者は突然現れる。さらにこれが坂道だったら下る側の速度がかなりのものになる。この場合も小林氏の提唱する方法はやめた方が良いだろう。

道路が直線や右カーブで陽も高いなら、小林氏の方法も悪くはないだろう。