アヲイ報◆愚痴とか落語とか小説とか。

創作に許しを求める私の瓦斯抜きブログ

試論

 凝り性というのは、凡庸なる人がクリエイティブワークで生きていく際に、唯一の武器たりうると思います。

 グラフィックの世界の突出した人々の仕事を見ると、一般人にはおよそ及びもつかぬ至高の天分が与えられているように思います。たとえば線を1本引いただけで、すでにデザインになって見えます。その線をじっと観察すると、太さや筆圧、角度、エッジの摩滅具合といったものが、見事な調和を顕現しています。その秘訣は、おそらく、どこを見て描いたか、腕の筋肉のどこを使ったか、息を吸って描いたのか、吐いて描いたのか――等々、おびただしい要因が、まるで宇宙の天体が十文字に並んだみたいに奇跡的に重なっているのでしょう。しかも彼らは、その奇跡をまるで呼吸するように当たり前にやってのけるのです。天才ってやつです。アートに限らずスポーツなんかにも、そういう人がいますね。

 達人の技芸について以上のような説明をすると、「それはお前がそういう人たちの努力を想像できないだけだよ」と、いわゆる「思考停止(浅薄ゆえに他人の優越をつい『才能』と呼んでしまう人のあるある)」のように思われるかもしれませんが、実際に天才芸を目の当たりにすると、そうとしか言いようがないものです。

 さて、ローカル広告の商業アートにおいて、マーケットにもし斯様な天才がいたら、同町の凡庸なデザイン担当は、嫌でも彼らと伍していかなければなりません。いかなる戦術があるかというと、やれることはただ1つ。まずいなりにとにかく作り込みを徹底する。めちゃくちゃ手の込んだ、非常に細かい手仕事を膨大な量こなす。いわゆる力ワザ。これしかありません。描きだす線が凡庸極まりなかったとしても、血飛沫の飛び散るような力ワザを繰り出せば、見る人に一瞬息を飲ませることができます。そう、一瞬でいいんです。それはインパクトという側面において、天才肌アーティストの仕事を超えることがあります。美しいとかキレイとかじゃなく、乱暴に記憶に残す、刻み込む、そういう手法です。それがクライアントの目に留まり、次の仕事につながっていくということもあるのです。

 圧倒的な作り込みをしつづける力ワザのビジネススタイルは、一筆描きで心を惹きつける真性アーティストの仕事と比べると、労働効率的にめちゃくちゃコスパは悪いです。しかし、作り込み系の作業というのは、それなりにコツがあって、何度も何度もやっていると、手が早くなってきます。力ワザでこなせる仕事の幅が見えてくれば、その中で見せ方も増えていきます。そうやって凡庸なデザイナーが徐々に普通よりちょっとできるアーティストに変わっていく――これが確かな再現性を持つプロデザイナーの成長プロセスだと思います。

 このやり方、いわゆる作り込みとは、自分の中に一つの理想を措定し、自分の技量をそこに限りなく寄せていく作業であり、性格的に必要な特性は、まさに「凝り性」でしょう。自分が「凝れてる!」と納得できる技芸を追い求める連続において、少しずつ、でも確実に良い仕事に近づけていく――そうしないと気持ち悪くてしょうがない――とまあ、当人としてはいつまで経っても心の落ち着かない、一種の業病のような性情なんです。

試論

 滅多にないのですが、地元の同人の集まりに呼ばれたりして顔を出すと、「作家は生き方だ」と称して(完全否定できるほど間違いではないんでしょうが)自称作家を名乗り、そういう名刺を出してくる人がいます。しかし、これはやはりやめたほうがいいんじゃないかと思います。全然文芸趣味に理解や興味関心のない人は、自己紹介で「私は作家です」と名乗られると、「そりゃすごい」「これまでどんなものを何冊くらい出版されているんですか」「どこの書店で買えますか?」などと尋ねます――そういう返しをしなければ失礼に当たるのではないかと慮って、社交上義務的に質問するのです。ところが同人の方はそんなものはないので答えに窮し、「いや、売ってる本はなくてですね」「出版かどうかは作家の定義ではなくてですね」等々、口ごもります。同人でもまれに熱の高めの人は自費出版していることがありますが、前述のような質問を重ねられると、世に見出された書き手でないことが明るみになり、口ぶりが徐々に力を失っていきます。そうなると、尋ねた方は、何か悪いことを聞いてしまったような気がして、バツが悪くなります。こうして場の空気が悪くなるのです。
 実績のある本職でない限り、作家・小説家を名乗るべきではなさそうです。私の思う職業作家・職業小説家は、「出版社の金で少なくとも二つ以上の作品を印刷・製本・流通してもらったことがある」「所得税の大半を印税・原稿料で納めている」、この二つを満たしている人です。
 しかしですね……例えば、アマゾンの個人出版サービス『キンドル・ダイレクト・パブリッシング』で年間一千万円以上売り上げるような素人はプロではないのかと問われたら、本人が頑なに否定しても、これはもうプロでしょう(少なくとも税務署はそうとるでしょう)。時代が進むと定義が変わってくるかもしれません。

試論

 作家とは、物語作家に限らず、いろんな場で使われる言葉です。レシピ作家、放送作家、舞台作家……等々。様々な冠表記があることから分かるように、作家はそれぞれの分野で何かを実現するために必要となるスクリプトを制作します。ですが、その成果物は手段にすぎません。たとえば、放送作家の作成する放送台本は、収録時にMCがしゃべる内容やタレントの動きが記してあり、番組作りの核心をなしますが、それ自体はあくまでツールです。台本そのものを書き上げるのが目的であるような放送作家はいません。その台本で良い番組を作る――もっといえば「高視聴率を稼ぎだす番組を作る」――という真の目的が、厳然と存在しているのです。
 これと同じで、物語作家も、物語のために物語を書いているのではない――というのが通念です。自分の考えやメッセージを発信する手段として、創作に言葉を託した物語を作成します。洗練された物語作家は往々にして物語作りにその身を留(とど)めません。政治や環境活動に飛び出したり、別の表現分野に移っていきます。最終的には、言論系の文化人に収まっていく傾向があります。このように、何かを実現するためにオリジナルの意見を醸成し言葉にするのが物語作家です。

 一方、小説家とは、創作物語を作成して人々を楽しませる仕事です。エンターテイナーであり、ファンあってのビジネスです。小説にはジャンルごとにそれを嗜好するファンがいます。小説家は自分が専門とするジャンルのファンを喜ばせるために、作品をリリースします。ジャンルの範疇で創作し、シリーズ化し、なるべく長く、なるべく豊かにファンを楽しませようと努めます。その「手を変え品を変え」するテクニックは見事です。変な例ですが足の官能について著す場合、ある作品はふくらはぎ、ある作品はストッキング、ある作品は裸足……等々、一つのファクトを多面的にエンターテイメントとしてカッティングしていきます。極論すると、小説家とはフェティシズムの具現者です。小説家の小説は、それ自体が完成品であり、目的的なのです。
 これは大変な才能ですよね! 書店に行くと、同傾向作がずらっと並んでいる小説家がいます。書いていて飽きないのかと思うくらいですが、それがやれちゃうのが小説家なのです。

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