凡庸で多数派だろうに、しんどいことばかりじゃないか
子どもが生まれた
家が狭くなった
マンションを買った
ローンを組んだ
保活に苦戦中
しかし一通りのライフイベントを終え、育児自体は少し余裕が出てきた
友人や後輩の活躍に、焦りを覚え始めた
自分が何を目指せばいいのか、何を身につけるべきなのか、考えれば考えるほどわからなくなった
キャリアプランセミナーに参加して、自分のキャリアの棚卸しをした
ますます何を目指したいのかわからなくなった
逃避したくてたくさんの物語に触れた
登場人物の転機が、自分の年齢よりずっと下で、余計焦るようになった
近況と今の心境と言えばこんな感じ。
文字にしてしまえばめちゃくちゃ凡庸で、多くの人が同じ道をたどっているのだろうと思うけれど、我がことになると一つひとつがとても大変で、ドラマティックで、しんどくて、ややこしい。
小学生のころから運動をやっていて、「こんなにきつい練習を乗り越えたんだから、社会に出ても大丈夫」と思っていた。
30すぎてようやく仕事のがんばり方がわかってきて、「これだけ仕事をこなせるようになったんだから、育児もそれに関連する事務処理も人よりうまくこなせる」と思っていた。
ところがどっこい、やらねばならぬタスクで、頭は常にフル回転だし、心は不安と焦りでかきみだれっぱなし。
なんてこった。
「人よりがんばってきた」なんて、「人よりうまくできる」なんて、とんでもない過信だった。
生きのびるだけで精一杯なこのややこしい世の中を、「人」と同じようにひたすらにもがきながら、これからも生きていくのだ…
何者でもない自分を、何者にもなれなかったことを受け入れながら、ただひたすら生きのびていくのだなぁ
そう思ったらあまりにしんどくて、もう、今までやってみたかったのにやらずに来たことを全部やったろ、と逆方向に針が振れたので、とりあえず文章を書くことを再開してみた。
育児日記的なものも書くかもしれないけれど、再開の主目的は、やってみたことをしっかり記録していくことと、文章を書く力を身につけること。
ということで、今回はちゃんと続けたいと思います。
共感、アドバイス、質問など、反応いただけたらうれしいです。
よろしくお願いします。
飲み会の文化
先輩は後輩におごらなければならない
おごってもらう後輩は先輩より先にお店について先輩一人ひとりに頭を下げなければならない
先輩より先に席についてはならない
先輩が座ったら速やかに席につかねばならない
先輩がいいというまで足を崩してはならない
先輩がいいというまで箸を割ってはならない
先輩のビールがあきそうになる前に注いではならない
先輩のビールがあきそうになったらすぐにビールを注がなければならない
ビール瓶は両手で持ち、ラベルを上にしなければならない
先輩がビールを注ごうとしたら両手であいたグラスを持って受けなければならない
もしあいていなければ飲み干さなければならない
先輩がついでくれたビールは一口飲んでからテーブルに置かなければならない
机にビールがなくなったらすぐに注文しにいくために席を立たなければならない
もちろん、瓶ビール以外のものは飲んではならない
お会計が済んだら、おごってもらう側は先にお店を出て、店の前で先輩が全員出るのを待っていなければならない
先輩が出てくるたびに、「ごちそうさまでした!」と大きな声でお礼を言わなければならない
ほんの一例だが、こんな文化の飲み会を、大学時代はいつもしていた。
当時はそれが当たり前だと思っていたし、それをすることでとりあえずどこに出ても無礼を働かないでいられるのかな、とは思っていた。それが「正しいこと」なのだと思っていた。
しかし、会社に入って最初の飲み会で、ずっと足を崩さない私に気づいた人はひとりもいなかった。
箸を割らない私に、「ごはん食べや」と声をかけてくれる先輩はひとりもいなかった。
先輩のグラスにまだ半分ぐらいお酒が残っているのに、ビールを注ごうとする新入社員を注意する人はひとりもいなかった。私だけがひやひやしていた。
先輩より先にお店を出ることを礼儀正しいと思う人はひとりもいなかった。
そもそも、先輩は私にも飲み代を請求した。
多分、就職先が違えば、私の行動は半分ぐらいは理解されたのだと思う。
どこに行ってもその場その場の文化がある。
その文化を知り、その文化になじむことで、お互いが気持ちよく過ごせるポイントがわかるようになってくる。
今私は、先輩より先に席に座るし、ビールを飲まない人がいることを当たり前に受けいれるし、無理にサラダを取り分けないし、お金がない時に後輩におごったりしない。
人にいわれるまで正座を崩さないことを、箸を割らないことを、ばかばかしいとは思わない。けれど、それがどこに行っても通用するわけではない。
そんな当たり前のことを、学生は何も知らない。
だから、そういうことがあるということを、人によって、場所によって、「心地よい」行動は違うということを、何か変な文化を詰め込む場合には、一緒に教えてあげると、彼らがいざ社会にでたときに、みんなが心地よく、寛容に過ごせるんじゃないかなと思った。